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〇叔父と伯母の同じ日の葬儀

 松前町に住む従兄弟から16日朝、4年前に他界した私の親父の弟の奥さん、つまり私の義理の伯母が亡くなったと連絡がありました。聞けば伯母は昨年の秋自宅の前で転げて腰の骨を折る怪我をして入院していたそうです。一年前にも同じような箇所を骨折して入院し感知していましたが、今度は反対側だったようです。その傷はどうにか治ったものの、85歳の高齢なので足の不自由さから少々認知症が進み心配をしていただけに、訃報の知らせを受け自宅へお見舞いに出かけ、葬儀の段取りや親類への通知等をして帰りました。  ところがその翌日今度はその翌日、同じ双海町内に住む親父の末妹のご主人が朝6時30分に急逝したと連絡がありました。生業の漁師を昨年の秋に廃業し、悠々自適の生活を送っていたかに見えましたが、実は末期のすい臓がんに侵されていたらしく、70歳の短い生涯に私たち親族もただただ驚き、私が訃報を聞いて駆けつけた午前7時30分にはまだ額にかすかに温もりを感じるほどでした。

 伯母と叔父の突然の死、しかも同じ日に通夜をし、同じ日に葬儀をすることになり、親族一同深い悲しみと共に大いに慌てさせました。私は通夜の17日は松山市の昌福寺での講演、葬儀の18日は福岡県直方市での講演を頼まれていて、直前ゆえに断わることも手も足も出ず、結局直方市へは両家の喪主に訳を言って、妻と長男息子を私の名代として出席させることで快く了解をしてもらいました。しかしたとえ断わりきれない講演依頼でも私用なので私の心は大いに揺れ動きました。息子も妻もそのことを了解して昨日は二人とも仕事を休み葬儀の参列やお手伝いに明け暮れましたが、親族は葬儀もかけ持ちで言ったり着たりと忙しかったようです。  私は罪滅ぼしのつもりで伯母の通夜には喪主に代わって親族代表でお礼のご挨拶を頼まれ、ねんごろにさせてもらいましたし、叔父の家には今日出張先の高知から帰る途中に直行し念仏の参加させてもらい、どうにか心のつかえを下ろさせてもらいました。  伯母は大正14年生まれですから戦後の厳しい時代を生きてきたようです。叔父は親父の船で若い頃から修行し、特に親父が小さい船で伊豆半島や伊豆諸島へ県外出漁したときも同行して辛酸をなめ、私が漁師をしていた頃は私の船に乗って漁師のいろはを随分教えてもらっただけに、遺影を見ると涙が出て止まりませんでした。

 親父は自分が一人前の漁師に育てた叔父の死を悼み、8キロも離れている叔父の家へ自転車で出かけ、涙の対面をしました。親父にとっては多分私より頼りにしていたであろう叔父の死が相当堪えたようでした。「変われるものならわしが変わってやりたかった」という言葉がそのことを物語っているのです。  親父の兄弟は12人もいますが、親父も93歳、叔父や叔母も相当歳をとってきました。叔父や伯母には大変失礼な話ですが、年齢的には誰が逝っても可笑しくないのです。妻が言うように朝晩時ならぬ時に電話がかかると「もしや」と今回のようなよからぬことを考えビックリするそうです。年末から年始にかけて残念ながら多くの大切な人を亡くしました。その人たちはもう荼毘にふされもう地球上に存在しないのかと思うと、無性に寂しくなってきます。心のあり様が下向きになって、中々テンションが上がらない中で、全国各地への講演は中々大変ですが、心を入れ替えて元気にしようと思いました。

  「相次いで 大切な人 亡くしたる テンション上がらず それでも仕事」

  「いつまでも 元気でいてね 殊勝にも 妻が優しい 言葉をかける」

  「親父言う 先に逝く人 多くあり 変われるものなら 変わってやりたい」

  「同じ日に 通夜と葬式 ダブルする 親族一同 右往左往し」 

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人間牧場

〇デイリーインスピレーション

 インターネットに接続している私のパソコンのGメールには、好む好まざるに関わらず毎日たくさんのメールが入ってきます。最近は機械的に迷惑メールが選択されますが、それでも受信欄には私が求めないのに勝手に送られてくるものも沢山あるのです。それらのうち不必要なメールは私の判断によってゴミ箱へ移動するのですが、デイリーインスピレーションという項目は、私に多少の影響を及ぼすような興味ある言葉があって捨て難く、暇を見つけて読んでメモを取ってからゴミ箱へ移動するようにしています。今朝はディリーインスピレーションの欄でなるほどと思う二つの記事を読みました。
 一つは柔道についてです。柔道は高校時代にやった経験がありますが、先ず練習するのは受身です。何回も何回も畳の上で目が回るほど転げる練習をします。受身が大事と諭され少し上達すると、今度は投げ飛ばされる練習をします。まるで稽古台のように仲間や先輩が人の前で、誇らしげに叩きつけるように転がすのです。転がす人を勝者とするなら転げる人は負者ですから、いわば負ける練習をするのです。本来他のスポーツは勝つための練習なのに柔道だけは負ける練習を何回も何回もしながら、少しずつ負けることから勝つことへと上達して行くのですが、初めに潔く転び潔く負けることを教えてくれるので、転んでもすぐに起き上がり、負けてもすぐに立ち直ることができる、それが受身の極意なのです。極意が身につけば達人となるはずですがそこが柔道の奥深さで、黒帯を締めるまでにはかなりの練習が要求されるのです。

 昨日のディリーインスピレーションを読んでいて、もう一つ面白い記事に出くわしました。人間には3つのタイプがあるそうです。①待っている人間、②希望を持っている人間、③種を蒔く人間だそうです。①の待っている人間では問題は解決しないことは分かっていますが、②の希望を持っている人間は素晴らしいと思うものの、希望を持っていてもただ何もしないのは、①の待っている人間と何ら変わりはないというのです。確かに③の種を蒔かなければ花の美しさも味わえないし、果実を手にすることもないのです。種を蒔くことは行動ですが、どんな種をどんな畑に蒔き、どんな育て方をするのか、多分そこには様々な苦労が待ち受けているでしょう。人は得てしていい種を求めたがります。そのためないものねだりでいい種を高いお金を出して求めようとしますが、実はここでいう種というのは自分自身の心の中にあることを忘れてはならないのです。自分自身の行動や才能や能力という種は、最初はたとえお粗末な種でもその気になって水をやれば立派な花や実をつけ果実を刈り取ることが出来るのです。

 デイリーインスピレーションの最後の落ちは、「啓発ソフトを安く販売するからこの機会にあなたも買いませんか」に誘導されるのですが、けちな私はそんな誘導には乗らずまだ一度もそんな投資はしていませんが、この記事こそタダで手に入る私の啓発ソフトなのです。お陰様で随分色々なことを学び、色々な自分の実践に応用してきました。これは誰にでもできることなので、私のようにタダでできる学習をみんなに勧めていますが、私は今後も積極的にやりたいと思っています。
 デイリースピレーションの記事は盗作かどうかと尋ねられたら、はてさてどう答えればいいのでしょうか。勝手に自分のパソコンに進入してきた情報なので、利用しても別に差し支えないような気もしますが、少し後ろめたい気もするようです。まあ情報化社会を生きていくためにはこれくらいの悪用技術(笑い)はあってもいいのではないでしょうか。だってデイリーインスピレーションの記事を、そのまま迷惑メールとして消去するには余りにも勿体ないような気がするのです。

  「パソコンに 勝手に入る あれこれも その気になれば 結構役立つ」

  「迷惑と 思わず生かす 術覚え お陰で知識 随分増える」

  「柔道の 極意は転げ 起きること 受身大事と 教わりました」

  「夢持って いるだけ何も 役立たず 夢の実現 動くが大事」 

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〇怪我をしないために

 自分では気力も体力も十分あると思っていますが、やはり気力と体力のバランスが崩れているのでしょうか?。最近何かにつけて怪我をすることが多くなり、自分なりに心配をしています。庭の草削りをしていて庭木の枝に頭をぶっつけたり、気の根っこに躓いてよろけ転んだりして、生傷が絶えないのです。その都度妻はリバテープを張ってくれたり、「危ないから気をつけて」とか、「もう若くないんだから」とかシャクに障るような言葉で注意をされるのです。確かに姓は若松だし名前も進一で若く見えますが、完全な高齢者なのです。私の最近のテーマは「どうしたら老化を防ぐことができるか」ですが、誰にでもやって来る老いはそう簡単に回避することは出来ないようです。
 それでも年齢に関係なくその気になれば鍛えることが出来ると信じて、毎日の積み重ねが大事とばかりに、毎日一万歩歩くことを心がけたり、鍛えているつもりの柔軟体操をしながら日々を暮らしているのです。お陰で多少の怪我をするものの体調的にはこれまでの体重をキープして、今のところ不調なところはないようです。

 怪我をしないためには3Sに気をつけるようにいわれています。セーフティガード、スローライフ、サポートのSという頭文字を取ったものです。セーフティとは安全性です。何よりも優先するテーマで、危険なことには極力近づかないことだし、危険に近づくためにはそれ相応の危険回避のためのやり方をしなければなりません。私がこれまで一番大きな事故に遭ったのは、裏山が台風で崩れその後片付けをしている最中チェンソーで足を切ったことです。救急車で運ばれ大手術をして20日間入院した結果元通りに治りましたが、冬寒くなると少しその古傷が痛むのです。元々チェンソーはその安全な使い方を教わっていませんので、見よう見真似でやっています。チェンソーは先ず何よりも極力使わないことです。どうしても使わなければならない時は、足場をしっかりと確保して、特に立木を伐採する時はチェンソーの刃先が気に食い込まないよう要注意です。自分だけでなく回りにいる人にも注意を払い作業したいものです。近々クヌギの木を伐採して薪を作る計画ですが、薪を割るマサカリにも要注意です。

 スローライフも大切です。私は中四国や九州等の近県市町村へは車で講演に出かけます。車はいわば走る凶器です。極力公共交通機関を使うべきだし、止むを得ず使う場合はスピードを押さえなければなりません。年末に出張先の鳥取県大山山麓の高速道路でスリップ事故を起こしたハプニングは、幸い人身事故には至りませんでしたが、雪道の怖さを嫌というほど味わいました。スローな生き方は、毎日あくせく働くこれまでの私の正確には合いませんが、何事もスローを心がけたいと思っています。「♭明日があるさ明日がある♯」という歌の文句のように極力生きたいものです。
 さて3つ目のSはサポートです。自分以外のサポーターの協力を得たり、補助具を使ったりすることは勿論ですが、事故や怪我に遭わないため自分自身の体力や筋力を常日頃から確保することです。そのためにはもっと運動をしなければなりません。歩く程度では筋力アップにはならないので、少し方法を考えて見たいと思っています。今年の1月3日の誕生日が来ると私は68歳になります。いよいよ大台も間近になり高齢者の仲間入りです。でも歳をとることを否定的には考えて生きようとは思いません。3Sに気をつけて健康な人生を送りたいものです。

  「3Sを 肝に銘じて 怪我しない そんな一年 目指し頑張る」

  「もう一度 安全視差で 確認す そんなゆとりを 持ちたいものだ」

  「遅いこと 早いことより 優先す 歳のせいにし ゆっくり生きる」

  「出来ぬこと 恥と思わず 出来ぬなら 協力求め 生きて行きたい」

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〇柿とスモモの剪定

 家の裏庭というべきか裏山というべきか分かりませんが、わが家の裏は急峻な地形が家のすぐ傍まで迫っています。台風や大雨で記憶しているだけでも2度も甚大な被害に遭っていますが、それでもこの地を離れることが出来ないため、様々な工夫を凝らして暮らしています。その工夫の一つは防護壁で、30年も前役場の補助を受けて頑丈なコンクリートの擁壁を造りました。景観上は少し気に入りませんが、それでも背に腹は変えられず我慢をしています。もう一つの工夫は斜面に根締めのためにつつじや柿、スモモなどの木を植えて土砂崩壊の危険から守っているのです。つつじは毎年五月の連休過ぎに美しい花を咲かせてくれるし、柿もスモモもそれなりに実をつけて食欲を満たし、一石二鳥といったところですが、残念ながら急峻な地形がゆえに剪定が一苦労なのです。

 これらの木々は余り枝葉を茂らせると陰になったり根元を風で揺するので、極力強剪定をして低く作り込んでいるのです。これまでその剪定作業はもっぱら親父の仕事でしたが、足がおぼつかなくなった親父に変わって今年から、私が挑戦してみようと思いました。つつじは既に親父の手によって昨年の晩夏に剪定が終わっているので、柿とスモモの剪定を見よう見真似でやりました。強剪定を基本に去年切らずに延び放題になっていた枝を、落ちないよう注意を払い、木に登ったりしながらノコと鋏で切り取りました。柿の木5本、スモモ2本を順次剪定しましたが、柿の木は枝が折れ易く「柿木から落ちたら直りにくい」という言い伝えがあるし、スモモはトゲがいっぱいあって難儀をしましたが、2時間ほどですっかり綺麗に剪定ができました。

 

 

 

 剪定した枝はまとめて家庭菜園の横に設えている焼却場へ運びました。その量はかなりありましたがこうしておけば、親父が暇を見つけ小切りをして焼却処分してくれるのです。昨日は曇っていましたが風もなく穏やかな日和だったため、作業は少し汗ばむほどでした。気温が上がると裏山に置いている蜜蜂の巣箱の入り口では蜜蜂が飛び交っていました。3個置いている巣箱の2個は12月2日に採蜜して以来空き家になっていて、1箱だけが種蜂用として採蜜をしなかったのです。この4~5年の観察で、蜜蜂は気温10度を目安にしてそれより下がると活動せず、上がると飛び交うようです。
 剪定は危ないから気をつけてと注意をしてくれた妻が、「綺麗になったけれど切り過ぎて、今年はこの分だと実は期待できない」と落胆の言葉をかけられ選定作業は無事終りました。木は根を切り枝を切るとそこから新しい根や芽が出て若返るのです。特に落葉樹はどこから切っても芽を吹くので、春の芽吹きや夏の茂りが今から楽しみです。

  「剪定は 見よう見真似で やったため 柿もスモモも 実などつけない」

  「剪定を すれば木々たち 若返る あやかりたいが 髪と爪では」

  「気力ある だけど体力 落ちている 作業しながら しみじみ思う」

  「家のこと 殆んどせずに 生きてきた これから先は つとめてやろう」

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〇世界遺産白川郷を訪ねる(その4)

 世界遺産の登録されている合掌造りに泊まれるなんて夢にも思っていませんでした。「四国から遠い」「雪の時期なので余裕を持って」「講演予定が午前中なのでその日に出発しても間に合わない」という幾つもの理由があって、白川村のご好意で前泊することにしました。宿は合掌造り荻町集落の奥まったところにある古めかしい名前の旅籠「十右衛門」という合掌造りの古民家でした。町内視察や役場での打ち合わせを早目に終えて、宿に着いたのは午後5時前でした。早速宿の長靴を借りて一人辺りを散策しましたが、1メートルを越す雪を被った合掌造りや雪に埋もれた田んぼ等の風景はどれも素晴らしく、思わず見とれながらデジカメで写真を撮って歩きました。宿に帰ると溜めてもらったお風呂にゆっくり入り、午後6時30分から同泊していた北海道大学医学部の2人の学生と夕食を共にしました。海沿いの町に住む私的には毎日魚料理を食べているため、山里の料理は素朴でとても美味しく食べました。十右衛門の80歳になる女将さんは囲炉裏のそばで三味線を弾いて聞かせてくれましたが、哀愁を帯びたこきりこ節やさくらなどは思わず一緒に口ずさみました。

 夜7時半に岩本さんが田舎のオープンカーで迎えに来てくれました。近くの居酒屋で村長さん主催の懇親会をしてくれるというのです。村長さんは元役場の職員らしく気さくな方で、飲むほどに酔うほどに色々な話をしました。残念ながら私は急須いっぱいの熱いお茶を用意してもらい二人に対抗して飲み、お茶を濁してしまいました。帰りは村長さんの奥さんが運転する車で宿まで送ってもらいましたが、ふと私も10円タクシー時代を思い出し懐かしくなりました。
 夜中にドサッという大きな物音がしました。屋根に積もった雪が落ちたのだろうと思いつつ、寒いことからそれから眠れぬ一夜を過ごしました。10時に役場の人が迎えが来るため、のんびりとコタツで朝読書をやり、若い女将さんと色々な話をさせてもらいました。十右衛門さんでは既に息子さんが後をとるべく働いていましたが、高齢化率の比較的低い村とはいいながら、合掌造りを守ることは容易なことではないようです。30年に一回の屋根の葺き替えも助成制度があるものの労力と費用がかさみかなり苦しいようでした。

 賀詞交歓会は中央公民館で行われました。約百人弱の招待客が招かれていましたが、いずれも村を支える重要な人だけに、「新しい発想で生きる」という私の話にも熱心に耳を傾けてもらいました。記念講演が終わると交歓会です。雪に埋もれた田舎の楽しみはやはりお酒で、日ごろの鍛え方が違うのか、またどぶろくで鍛えているためか、酒の飲む量とスピードは聞きしに勝るものでした。私の話に共鳴した人たちが名刺を片手にやって来て、その都度積もる話や楽しい話をさせてもらいました。深山豆腐を作る会社を経営している大野誠信さんなどは、縁もゆかりもないのに昨日私の所へ豆腐を沢山送ってくれたりして、すっかり恐縮してしまいました。
 私は少し早く会場を後にして、雪降りしきる道を役場職員さんの運転する車で金沢駅まで送ってもらい、サンダーバードに乗って元来たルートを大阪まで帰り、大阪で友人たちと打ち合わせや交流を行い一泊し、明くる日の朝早く新幹線と特急しおかぜを乗り継いで昼ころ自宅へ帰りました。長い4日間の旅でしたが、新春早々長年の念願かなって、雪の白川郷を訪ねることができてとてもラッキーでした。来月には私が代表を勤める21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅で、再び白川郷を訪ねる予定で楽しみです。妻は何年か前雪の白川郷を楽しみにして出かけたのに、何故かその年に限ってまったく雪がなくがっかりしたことを、事ある度に聞くのですが、いつか雪の白川郷へ連れて行ってやりたいと思いました。

  「念願の 雪に埋もれた 白川郷 仕事でラッキー 訪ねて嬉しい」

  「ギュッギュッと 雪を踏みしめ 散策す 合掌造り 屋根を見上げつ」

  「送るから そんな言葉の やり取りで 豆腐が届く 白川郷から」

  「今回も 心に残る 旅だった 雪・人・人情 全て満足」 

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〇世界遺産白川郷合掌造り集落(その3)

 岩本さんの案内で白川村役場を訪ねました。平成の合併話はあったものの、近隣市町村と合併もせず単独で残ることを決断した白川村は人口が1790人程度、平成23年度の予算規模が一般会計で26億80千円、スキー場、温泉開発、公共下水道、簡易水道等の特別会計を有したごくありふれた村ですが、「とりあえず村長室へどうぞ」と案内されて岩本さんから白川村のあらましについて説明を受けました。その説明の中で際立っていたのは観光客の入込み数です。ピーク時の平成20年には1861千人を記録し、東日本大震災の影響を多少受けたというものの、それでも22年度には1590千人と、交流人口の多さに目を見張るのです。宿泊客は年間91千人とこの数字を見た限りでは、観光立村の村であることが良く分かるのです。また最近は台湾等外国からの観光客も10万人を越えていて、まさに世界遺産白川郷という冠の強さを見せ付けているようでした。

 そのうち村長さんが姿を見せ、相次いで村議会議長さんも加わって色々なお話を聞かせてもらいましたが、小さな村にありがちな暗さは微塵もなく、むしろ堂々と歩んでいるような自信を感じさせました。さて世界遺産白川郷合掌造り集落の概要ですが、国の伝統的建造物群保存地区選定が昭和51年9月、ユネスコ世界文化遺産登録が平成7年12月だそうで、この2枚看板の恩恵を受けている荻町地区には合掌建造物が114棟あるようです。1965年頃村内の小集落の集団離村を始めとして合掌家屋の減少が著しく、地域住民の保存意識や機運が高まり、1971年に荻町集落の自然環境を守る会が発足し、合掌家屋を売らない、貸さない、壊さないの三原則の住民憲章を策定し保存運動を推進して今日に至っています。建物や土地の現状を変更する際は、事前に守る会の許可が必要とされていますが、最近は駐車場問題で多少ゴタゴタしていることがマスコミで報道されているようです。
 世界遺産に登録されるには、定められた6つの登録基準のうち1つ以上を満たすことが必要ですが、白川郷荻町の場合は合掌造り家屋の民家建築としての建築的価値が認められ、それがまとまって残り、かつての農村景観を保存しているという集落的価値が登録基準を満たしているのです。

 合掌造りとは、木材を梁の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居で、又首構造の切妻屋根とした茅葺家屋をいいます。屋根の両端が三角形になっているのが特徴で、積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に適合した構造に造られています。日本の一般的な家庭と違うところは、屋内を2~3層に分け屋根裏を積極的に作業場として利用しているところです。幕末から昭和初期にかけて白川村では養蚕業が村の人々を支える基盤産業でした。切妻屋根の建物は南北に面して立てられており、これは白川の風向きを考慮して風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節して夏涼しく冬は保温されるようになっています。妻の開口部で風と光を取り込むことで蚕の飼育に適した環境を作り出す生活や生産の機能が家の形となっているところに、合掌造りの美しさを感じることができるのです。
 合掌造り保存には多大な労力と資金が必要ですが、合掌屋根の葺き替えや修理は国・県の補助制度が確立されていて、屋根吹き替えは地区住民の労力提供による共同作業結で行なわれるところが大きく、こうした住民の助け合いの精神が世界遺産登録の際に大きく評価されたようです。

 

  「役場にて 話聞く度 合掌の 集落保存 苦労偲ばれ」

  「好き嫌い 損得よりも 善か悪 世界遺産は 善の塊」

  「結という 助け合いにて 残された 遺産これから 先もしっかり」

  「平準化 された文化の その中で 異彩を放つ 合掌造り」

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〇雪の白川郷(その2)

 東海北陸自動車道の白川郷インターチェンジを降りて岩本さんの案内で先ず、世界文化遺産萩町合掌造り集落が一望できる城山展望台へ向かいました。沿道には除雪で出来たと思われる1mを越す白い雪の壁が出来ていて、縫うように展望台へ登って行くと、お店の裏側にまるで谷底を見るような形で合掌造りの萩町集落が一望できました。次々とやって来る観光客は口々に感嘆の声を連発していました。まさしくこの風景は観光パンフレットでいつも目にする素晴らしい眺望で、まるで夢を見ているような雪景色なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岩本さんのご配慮で雪道を滑らないようにと、息子さんの長靴を貸していただいたお陰で滑ることもなく展望台でうっとり眺めていました。手持ちのデジカメで写真を撮りましたが、雪の集落はまるでモノクロ写真のように写っていました。岩本さんの友人でアマチュアカメラマンの方が、「記念に一枚撮ってあげましょう」と申し出があり撮ってもらいましたが、残念ながら横に知らない方が写っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちはその後昼食時間だったので、集落に入り口付近にある御食事処ゆきんこというお店に入り、私は山菜そばと五平餅を美味しくいただきました。聞けばこのお店は岩本さんのお姉さんのお店だそうで、色々なお話をさせてもらいました。壁に貼っている一枚のポスターを見て驚きました。白川郷の結婚式を写したものですが、何とこれが岩本さんのかつての結婚式の様子だそうで、いい記念になったようでした。

岩本さんの結婚式をあしらった名刺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「モノクロか 写った写真 白と黒 素人私 まるで芸術」

  「念願の 白川郷に やっと来た 感激しつつ 集落眺め」

  「これ僕と 指差すポスター 嫁入りの 姿凛々しき 紋付袴」

  「日本にも こんな世界が あるなんて タイムスリップ したよな気分」

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〇世界遺産白川郷を目指して(その1)

 昨年の10月13日、西予市で開かれた全国過疎問題シンポジウムに、パネラーの一人として壇上に上がりました。その夜西予市文化会館で開かれた交流会には、全国から沢山の人が集まっていました。勿論パネラーの一人に名を連ねていたので、立食パーティーでは食べる暇がないほど名刺交換の列が出来て、多くの人と交流することが出来たのです。その折岐阜県白川村の担当者が、「村長さんがお会いしたいというのですが」と呼びに来られ、早速別室へ行きました。酒の勢いもあって成原村長さんから「あなたの話は面白かった。是非来年1月11日にわが村で行なう予定の賀詞交歓会で講演をして欲しい」と頼まれました。私の記憶だとその日は愛媛新聞の食談会の予定が入っているので、難しいかも知れないと返事をしましたが、その予定を変更して欲しいと食い下がられました。明くる日変更が効くかどうか先方と相談してみるということでその場を逃れました。  しかし、私にしてみれば世界遺産白川郷へはどういう訳か、まだ一度も行ったことがなく、行きたい気持ちに傾きつつありました。しかし1月11日は先方の都合にしろ一度変更をした経緯があるので難しいと思いつつ明くる日、愛媛新聞の担当者に無理をいって2月15日と変更をしてもらい、白川村の担当者にその旨伝えて準備を進めてきました。

 白川村での賀詞交歓会予定が1月11日の11時から14時までなので、その時間に間に合うようにするにはどうしても前日村に入って前泊しなければなりません。そのためには折角だからその前の日の夜遅くに大阪まで出て泊まり、明くる日の朝大阪発サンダーバードという特急に乗って石川県金沢まで行き、迎えに来てもらう約束が整いました。電話やメールでの連絡で雪が1メートル以上積んでいるという話に胸をときめかせながら9日の夜愛媛県を出発しました。  私は元来朝起きがいいので大阪梅田駅近くのホテルを少し早く出て7時過ぎ、一便早い大阪発のサンダーバードに乗り込み北陸本線を走りました。大阪から岐阜羽島まで新幹線で行く方法も、大阪から飛騨高山経由で行く方法もそんなに時間的には変わらないので、結局は福井等へ講演に行く機会が多くて馴染みのルートであるため、とりあえず金沢経由のルートを選びました。このルート沿いには鯖江という街があって、かつて地域づくりの発表会で国土庁長官賞や実行委員会賞をダブル受賞した思い出や、一筆啓上火の用心をヒントに、日本一短い手紙で日本全国に大きな反響を呼んだ福井県丸岡町の大廻さんとの交流経緯、福井県公民館連合会での度重なる講演もあって、列車の窓からそれらの街が近づいたり遠ざかる度に懐かしく当時のことが思い出しながらの旅でした。

 金沢は前田百万石の城下町で、日本三大庭園兼六園もある北陸路きっての有名な場所です。既に金沢駅周辺では北陸新幹線の高架工事が急ピッチで進められていて、越後湯沢に直結するようです。1時間も前に到着して金沢駅の構内にある土産物屋を一通り歩きましたが、塗りや焼き物、菓子類などどれをとっても名品の誉れ高い物ばかりのようでした。携帯で連絡を取り合った白川村役場の岩本一也さんが迎えに来てくれました。岩本さんは総務課の課長補佐で議会事務局長さんなのです。金沢から高速道路に乗ってしばらく走ると沿線は白い雪景色に変わり、西国育ちの私には見るもの全てが別世界のように感じられました。
 金沢から高速を約一時間ばかり走るとそこはもう岐阜県谷川村です。高速道路やトンネルの合間から村の様子が垣間見えましたが、かなり雪深く山深い場所のようでした。

  「過疎シンポ 白川村長 おらが村 話しに来いと 客引きされて」

  「行きたいと 思いかられて 日程を 変更してまで 行くこと決める」

  「念願の 雪に埋もれた 白川郷 タイムスリップ 心ときめく」

  「何事も 包み隠して 白い雪 合掌造り 浮かび上がらせ」  

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〇今日から留守にします

 今晩(1月9日)から3日間(1月12日まで)、岐阜県白河村へ講演に出かけて留守にします。悪しからずご了承下さい。お急ぎ御用の方は私のホームページの携帯へ、またお急ぎでない方は私のGメールへ伝言を入れて置いて下さい。土産話を楽しみにしておいてください。

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〇久万高原町成人式の記念講演に招かれました

 昨日は久万高原町から成人式の記念講演依頼があって早朝より出かけました。記念講演の依頼を受けてから年末年始にかけて久万高原町の天気予報が妙に気になり始めていました。というのも12月に鳥取県の伯耆大山の麓で思わぬ大雪に逢い、スリップ事故を起こした経緯があって、久万高原町に行く国道33号線三坂峠付近は県内でも久万スキー場があるほど雪が積もる所ですから、雪道の怖さを知っているのです。講演依頼の窓口となっている教育委員会の鶴井さんとこのことについて再三メールで連絡を取り合い、もし雪や凍結がある場合は麓の砥部町まで迎えに来てもらう約束をしていました。
 前日鶴井さんから電話が入り、雪も凍結もない旨の確認がありました。妻はそれでも三坂峠の雪が心配で、仕事の休みを理由に一緒について行くと言うのです。妻がついてきたからといって雪や凍結による事故がなくなる訳ではありませんが、たっての希望なのでしぶしぶ了解し家を8時半過ぎに出ました。
  昨日は雲ひとつない冬の四国愛媛県地方にしては珍しい快晴の上天気で、遠くに雪を被った西日本最高峰の石鎚山が美しく見えました。放射冷却現象で朝の気温はかなり低かったものの、車の中はポカポカ陽気で順調に三坂峠を越えました。三坂峠は740m程の高さにあるため道の両側には多少雪が残り、久万高原のあちこちには1月4日に降った雪が残っていて、冬の寒さを感じさせました。

 私が講演している間妻は久万高原町を散策するため、久万高原町役場前の駐車場で降ろしてもらい、私は歩いて会場となっている久万高原町産業文化会館まで歩いて行きました。お約束の10時きっかりに会館内に入り、ステージ裏の楽屋に設えてもらった講師控え室へ案内されて入りました。暖房の効いた部屋でお茶をいただきながら式典の終るのを待ちました。式典は時間通り10時40分に終了し、町長さんや河野県議会議員さん、教育長さんなど顔見知りのお偉い人が楽屋へあいさつに見えられました。特に河野さんとはお父さんが久万町長をしていたり、河野さん自身も若い頃塩崎潤国務大臣の秘書をしていた時代から長く付き合いしていて、わが私設公民館煙会所には「自彊不息」という大臣の掲額をいただき、今でも大切に飾らせていただいているのです。
 その後促されてステージに上がりました。ステージは演台と生花、それに看板類だけというシンプルさです。懸垂幕には演題「青春のメッセージ」人間牧場主若松進一とお気に入りの文字が書かれていました。やがて開会を告げるブザーが鳴り緞帳が上がりました。客席には約80人の着飾った新成人と来賓が並んで座っていて、少し緊張の面持ちでやわら話を始めました。相変わらずレジメを用意することもなく淡々と話し始めました。青春時代に人生を生きていく上で大切と思われる①仲間、②ふるさと、③主張、④感動する心という4つの道具を手に入れたことで自分の人生がとても充実したこと、二十三歳の時に作った生活設計が役に立ったこと、人間が本来持っている4つの願望を実現させるための方策、潜在能力を顕在化する生き方などなどをマイクを通して語り掛けました。

 最近まで日本全国各地で起こっている成人式の不祥事が頭を過ぎり、私のような人間の話を着飾った新成人は聞かないのではと多少懐疑的な気持ちもありましたが、どうしてどうして久万高原町の80人の新成人は1時間10分の全てを熱心に聴いてくれました。実は3年前々久万高原町の成人式に招かれ同じ場所で記念講演をしているのです。あの時は帰宅すると参加した一人の新成人からお礼と感想のメールは入りました。またもう一人の新成人からは人間牧場を訪ねたいと電話が直接入り、後日この若者は人間牧場へやって来て瀬戸内海を見下ろす眺望に感激して帰りました。
 講演終了後ステージで記念写真に納まり全てを終えて会場を後にしました。県内では正月と昨日と明日にかけて1万4千5百人余りが新成人として成人式を迎えるようです。成人式に記念講演を聞かせるといったオーソドックスな式典をする市町も随分減ってきたようですが、私は人生の門出に当たり、人の話に耳を傾けることもいいのではないかと思っています。聞かないからやらないという迎合型は如何なものかとも思うのです。
 私が好きな言葉に「面白きこともなき世を面白くすみなすものは心なりけり」(高杉晋作)、「足は野につき心は天に向かって開く」(西郷隆盛)、「ロマンとは考えを形にする行動力である」(ジョン万次郎)、「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持って行動すれば何事も実現する」(ポール・J・マイヤー)。私の人生を一言で語るならやはりこれらは全て金言であり、いい影響を受けたと思っています。新成人の皆さんも誰でもいいから誰かの言葉を座右の銘として心に望みを持って生きて欲しいと願っています。

  「新成人 私の話に 頷いて 一時間余も 耳を傾け」

  「新成人 縮む社会で 生きている 未来に希望 持てないままに」

  「近頃は 成人の日さえ 分からない 祝日だから 十五日でいい」

  「青春は 年齢で無し 心がけ 私にだって 今も青春」

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