人間牧場

○北海道旅日記(その7)

 冬真っ只中の北海道の旅は僅か二泊三日でしたが、私にとっては今回も船木さんと井田さんご夫妻のお陰で、思い出多い旅となりました。千都山から見た網走周辺の景色は好天だったこともあって、はるかに知床連山まで見渡せ、また雪に覆われた大地はどこが畑でどこが湖なのか想像がつかないほど真っ白で、あらためて北海道の広さと魅力を満喫しました。
 女満別空港へ少し早く着いてカウンターで荷物を預けようとしましたが、少し大きめのカバンの中に木になるカバンを入れていたので、中に入っている金属製のハーモニカ2本がレントゲン検査に反応し、荷物を人前で開けさせられるハプニングもありましたが、乗り継ぎの中部空港を経由して最終目的地の松山空港まで届けてくれるため、身軽な姿で飛行機に乗れるのです。空港2階のレストランで少し遅い昼食を取りました。先日津別の西洋軒で食べた3代目の塩ラーマンの美味しかった味が忘れられず、ここでも塩ラーメンとハーフサイズのイクラやシャケの乗った丼を、井田さんご夫妻と一緒に美味しくいただきました。

 女満別空港で井田ご夫妻と別れ、少し早くチェックインしました。間もなく律儀にも船木さんがわざわざ飛行場まで見送りに来てくれました。チェックインしているため外に出あられず、携帯電話で話せることも忘れて、内と外の窓越しに大きな声でお互いの心を二言三言交わしましたが、少し心残りとなりました。前回来た時も船木さんや女満別の女性たちが、空港の屋上で盛大な見送りをしてくれた思い出が蘇りました。飛行機は予定通り14時45分に空港を飛び立ち、絶好の天気の中を飛行しました。左窓側の19番席だったため眼下に北海道の広大な真っ白い大地が広がり、やがて大雪山や太平洋が見えました。その後下北半島や津軽湾、青森市街、秋田、鳥海山、白山、新潟市街等をまるで日本地図を見ているように機窓から眺め、雨の中部空港へ降りました。
 乗り継ぎ時間が1時間余りあったので、空港の通路に置いてあるインターネット用のパソコンの前に座り、この日のブログを2本走り書きしました。空港でブログを書くのは2日前往路のこの場所で書いて以来2度目ですが、いい記念となりました。

 三日ぶりに帰郷した愛媛松山は残念ながら雨でした。それでも心配された飛行機の欠航トラブルもなく無事ふるさとへ帰って来ました。空港近くのコナンパーキングで愛車の軽四トラックと再会しました。帰宅後は船木さんや井田さんからいただいたホタテの干し貝柱を、息子たちにお裾分けして三日分の旅の思い出を存分妻に話してやりました。
 今年はどういう訳か県外への出張が多く、今月もこの度の北海道を皮切りに、この週末には島根県益田へ、そして香川県小豆島、広島県福山市と目白押しです。多分この歳なので今回の北海道サロマへの旅が一番遠いものと思われますが、退職して7年が終ろうとしているのにこの忙しさは、やはり尋常ではありません。心をしっかりともって仕事をこなし、行く先々の姿を目と心に焼き付けておきたいと思っています。今回の旅も私にとっては忘れられないものとなりました。船木さん、井田さんご夫妻、そして出会った人々に感謝をしつつ、北海道旅日記を終ります。写真の添付は間もなく・・・・。

   「恐らくは 一番遠い 旅だろう 講演終わり やっと一息」

  「今回も 行く先々で ご縁あり お礼のハガキ 次々届く」

  「お礼にと いつも変わらぬ デコポンを 郵便局から 北海道へ」

  「どうしたの? 今年は県外 行く機会 やたらと多く 困惑しつつ」

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人間牧場

○北海道旅日記(その6)

 温根湯の大江本家というホテルで北海道3日目の朝を迎えました。遠く離れた四国愛媛県ではこの日、菜の花まつりが開かれる予定でしたが、雨で出鼻をくじかれそうだと妻から電話があったものの、北海道はとてもいい天気で、朝の気温が氷点下15度でした。北海道は夜がふけるのが早い分、夜が明けるのがとても早く、折角の温泉地なのでホテルの大浴場で朝湯を存分に楽しみ、また朝食もバイキング方式だったため、北の大地の贈り物である冷たくて濃い牛乳を風呂上りに鱈腹いただきました。
 この日は移動日とあって別に用事もないので、井田さんご夫妻が私の案内役を買って出てくれました。まず温根湯温泉近くの道の駅に向かい、日本一大きいからくり鳩時計を見学することにしましたが、残念ながら真冬で寒いため、春までお休みで少しがっかりしました。海にも川にも余りご縁がない平地の場所ながら道の駅の横には水族館もあるようでしたが、これも改修工事のためお休みでした。

 私たちは温根湯から氷結した佐呂間湖を見るため佐呂間町へ入りました。井田さんたちが日ごろ生産活動をしている港も全て氷結していました。何年か前来た時見た筏の作業小屋は全てなくなり、内港がすっかり様変わりしていました。筏小屋は近代的な共同作業施設となっていましたが、この時期は作業は行なわれていないのです。
 かつて訪ね泊まったことのあるホテル、馬牧場のすぐ傍にある道の駅で流氷ソフトクリームを食べ、道の駅の駅長さんや店員と色々な雑談をしました。井田貴子さんの今回の研究テーマも、駅長さんは好意的に協力してくれているようで、早速貴子さんは打ち合わせをしていました。
 佐呂間湖が一望できる近くの展望台に上がりましたが、一面真っ白い雪原がどこまでも広がる姿は、かつて秋の頃の佐呂間湖を見ているだけにとても印象的でした。

 貴子さんのご主人である井田勝人さんは佐呂間漁協の理事さんです。佐呂間湖は三つの町にまたがった、周囲100キロの全国で3番目に大きな湖です。沖合いには砂州が取り囲むようにあり、二ヵ所で海とつながっている汽水湖なのです。湖はホタテの養殖に適していて大きな恵をもたらせているのです。勝人さんの案内で一般人は通れない砂州に通じる雪道を水門まで通らせてもらいました。なだらかに続く道を進むと、さっきまで陸地部から見えていた佐呂間湖が、沖合いから見えました。水門には大量の土砂が流れ込んで、それを取り除く工事や橋げたを高くする工事が行われていました。水門の向うにはオホーツクの海が開け、流氷が海岸近くまで迫っていましたが、残念ながら流氷の上に上がることはできませんでした。
 アッケシソウで有名なのとり湖や網走湖などの周辺を走って網走市内に入りました。天都山という小高い丘の上に登り、網走刑務所、網走市外、流氷に埋まったオホーツク海やはるか彼方に知床半島を望む眺望を楽しみました。そしてその近くの感動の坂道を登ると、貴子さんが通っている東京農大網走分校のキャンパスがあり、車の中からでしたが見学させてもらいました。

  「今日だった 菜の花祭り 思い出し 天気どうかと 携帯入れる」

  「氷結の 厚さ聞いたら 一メーター 桁が違うと 感心しつつ」

  「ほらあそこ 網走刑務所 へえそうか 行って見たいが 行くべきでなし」

  「湖も 畑も区別 できぬまま 眼下見下ろす 北国の冬」 

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人間牧場

○北海道旅日記(その3)

 女満別空港行きの飛行機の機内は、3月2日金曜日の昼間ということもあって、座席は空席が目立っていました。「間もなく女満別空港に着陸します」という機内アナウンスとともに、きちんと除雪している滑走路へ予定通りの時間に着陸しました。冬の女満別空港は2年ぶりで、松山空港で預けていた少し大きめのカバンを受け取り到着ロビーに向かいました。空港には船木さんが出迎えに来ていてこれまた2年ぶりの嬉しい再会です。船木さんはいきなり私に、「今からだと間に合うので流氷を見に行きましょう」と誘ってくれました。わが妻のように流氷を見るためにツアーで来ても見れない人間もいるのですから、早速その言葉に甘えて網走まで車を走らせました。

 流氷観光船が出る船着場には沢山の観光バスが到着してかなり混雑していましたが、予定通り観光船に乗り少し岸から離れた沖合いまで走りました。「せっかくだから特等席で見よう」というので船木さんが1人400円を出して中に入りました。何年か前に見た流氷ほど大きなものではありませんでしたが、それでもそれぞれの氷がまるでオオオニバスのような格好をしていて、とても幻想的でした。観光船は小売を押しのけるように沖合いまで進み、私も他の観光客に釣られてデッキに出て、船が小氷を割る迫力を目の当たりに見学しましたが、やはり氷点下10度の世界は肌を刺すような寒さで、そのうち室内へ入りました。何匹かのオジロワシが流氷の上で休んでいる姿を見ながら港に帰って来ましたが、今回の旅の土産話となる予定の流氷を見ることができて大満足でした。

 船木さんの車で津別町まで戻り、津別の西洋軒という塩ラーメンが美味いという店へ入りました。ここで夜の講演会を企画した津別町議会の篠原眞稚子副議長さんとお会いしました。大変失礼ながら女性で5期目の議員さんですから、さぞやおっかないと思いきや、気さくでとても素敵な方で安心しました。ラーメンを食べながら演題が「地域を支える人へのメッセージ」、50人くらい集まる、グリーンツーリズムの話や観光でのまちづくりなどについて話して欲しいなどなど、少し話の実態が見えてきました。
 ラーメン屋かのすぐ近くに会場となる木造の立派な建物はありました。町長さんや役場産業課職員、ツーリズム関係者、中には隣町美幌町議会の上杉さんの顔も混じって、北海道とはいいながら何人か顔見知りの人もいて、少し安心少し不安が交錯しました。

 講演は予定通りの人が集まって予定通りに始まり、約一時間の講演のあと30分ばかり質疑応答を行ないました。この町はご多聞に漏れず少子化が進んでいるそうで、そのことが気になるようでしたが、子どもの医療費を無料にするなどやっている子育て対策が具体的な実績になるまでのホームランはまだ打てていないようです。「津別はどんな町?」と印象を聞かれましたが、正直なところ普通のどこにでもあるような町とお見受けしました。だからといって何もないことを卑下する必要はなく、自分の住んでる町のいいとこを見つけ、それをオンリーワンに仕立てて行けば必ずいい町はできるのです。楽しいこと、美しいこと、新しいことをみんなでやれば、ひょっとしたらオンリーワンながら日本一になる可能性があるのかも知れません。

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人間牧場

○北海道への旅(その2)
 中部国際空港のロビーにて(3月4日午後6時前)

 今回の北海道の旅が決まってから、私の周りも少し慌しくなっていました。私は講演に行く場合極力短時間で行ける方法や安く行ける方法を探すのですが、今回はいくら早くても2泊3日なのです。しかも安いルートを探そうにも、目的地の北海道佐呂間町へ行くのには遠方のため空路以外交通手段は考えられないし、早特割引やパックなどで安い方法を探しても、もし大雪・強風・悪天候で飛行機が飛ばなかったら変更が効かず大変なことになるので、多少高くてもしっかりとした方法でチケットを手配しなければ相手に迷惑がかかると思いました。

 松山空港から女満別空港へ行くには東京羽田経由と中部空港経由の方法がありますが、息子にチケットを手配してもらったので、今回は中部空港経由を選びました。乗り継ぎ時間が1時間程度あるので、多少飛行機が遅れても乗継が可能なのです。でも何年か前北海道美幌町へ講演に出かけた折、大雪大荒れ手飛行機が飛ばず、東京で1日間足止めされ、明くる日の代替チケットを取るのに苦労したことを考えれば、羽田の方がいいような気もしましたが、運を天に任せ思い切って中部空港を選びました。

 松山空港の近くのコナンパーキングに車を三日間留めるため、空港までは軽四トラックで出かけました。松山から中部空港までは双発のプロペラ機です。松山空港では歩いて飛行機に乗り込みましたが、曇り、到着した中部空港は雨でした。乗り継いだ女満別までの空の旅は窓際の席だったのですが残念ながら曇り空、それでも太平洋から北海道上空に差し掛かると雲の切れ間から、どこを見ても真っ白い雪に覆われた北海道の大地が顔をのぞかせ、特に何度か訪れたことのある洞爺湖や美幌峠が綺麗に見えました。

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○人間牧場

○今日から北海道です

 今年はどういう風の吹き回しか県外出張の機会が多く、これまでに岐阜県白川村2回、福岡県直方市、高知県四万十町2回、広島県福山市と請われるままに遠出をしています。そして極めつけは今日から北海道佐呂間町と津別町へ出かける予定なのです。行く先々に新たな出会いがあって中々楽しいものです、しかし留守を預かる妻は、息子家族と同居しているとはいいながら少々寂しいと、口では言っていますが「亭主元気で留守がよい」とばかりに、私の留守中は大いに羽を伸ばすことでしょう。

 今回のご縁のきっかけは、何年か前高知県馬路村で開かれた、地域づくりの全国大会に参加していた北海道オホーツク寒気団という聞きなれない地域づくり団体に所属している、船木耕二さんとの出会いから始まっているのですから、世の中は分からないものです。船木さんとは北海道で何度か出会っていますがその道のベテランで、これまた偶然にも観光カリスマでやはり私の古い友人である、山梨県北杜市清里の舩木上次さんと名前が似通っていた間違いから出発しているのです。その話はまた帰ってから追々書くとして、とりあえず今日は中部国際空港経由で北海道へ向けて出発します。旅の安全を願いつつ・・・・。

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人間牧場

○松山工業高校の卒業式

 私には40歳になった娘を頭に4人の子どもがいます。その子どもたちも成長して独立しそれぞれの道をそれぞれに歩んでいますが、3人の息子が3人とも松山工業高校に進んだため、常任理事1年、副会長1年、会長6年と都合8年間も松山工業高校のPTA活動に参加しました。松山工業高校には私の8年の長さなどまだ序の口で、子どもがいないのに会長を長らく務め全国高等学校PTA連合会の会長まで務めた中川幸男元参議院議員がいるのですから驚きです。そんな校風もあって私もPTA会長退任後もPTA役員OBで組織するまさご会の会長をやったり、学校評議員をやるなど、未だに松山工業高校とのご縁が続いているのです。妻からは「いつまでやるの?」とか、「もうそろそろ辞めたら」などと悪態をつかれますが、そのうちそのうちと請われるままに長引いてしまっているのです。

 学校の評議員会は学期ごとに年3回行なわれますが、その他にも入学式、運動会、文化祭、卒業式の案内があるので、その都度顔を出さなければなりません。それでも現職の先生やPTA役員さんと顔を合わせると、何となく元気をいただき軽いカルチャーショックを受けるのです。
 3年前松山工業高校は100周年を迎えた伝統校で、少子化の影響で定員削減や閉校する学校が増え始めた風潮の中でも1年9学級3年27学級1000人規模を維持しているのです。この3年間で一番いい出会いは喜多岡校長先生との出会いでした。先生はひた向きな実行最優先の方で、年末には高知県佐川町から松山の自宅まで100キロの道をたった一人でランとウォークで踏破しているのです。「一歩上」を目指す学校経営姿勢はとても立派で、私など足元にも及ばない努力家です。sの姿勢は生徒にも先生にも波及し、昨日の卒業式では何と3年間皆勤者が全体の40パーセントを超えているというのですから驚きです。

 学校の評価は様々ですが、実業高校なので皆勤者が40パーセントを超えるという数字は何よりも高い評価で、そのためスポーツも資格取得も群を抜いているのです。数値目標を立て、その目標を一丸となって達成しようとするそのプロセスこそ教育だと、今年の3月で35年間の教員生活にピリオドを打つ喜多岡校長先生に大きな拍手を送りたいと思うのです。
 昨日の卒業式には知事代理として県の保健体育課長さん、議長代理として菊池県議会議員さんが見えられていました。私のような無位無官な男でもその横に席を構えていただき恐縮しながら卒業証書授与式を見学しましたが、キビキビした式典には大満足でした。
 お昼にかかったため、魚亀の美味しい弁当までご馳走になりました。OB会の役員さんや列席した歴代校長さんとも久しぶりにお会いして、懐かしく昔のことを思い出しました。

  「子もいない 何故に卒業 式に行く? 妻冷やかしの 言葉をかける」

  「えっ?俺の 席がこんなに 高いとは 少々あせり お尻かゆくて」

  「三ヵ年 皆勤多さに 驚きて 日本一では ないかと思う」

  「校長の やる気学内 伝播して 色々あるが 大きな成果」

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人間牧場

○サツマイモの種芋伏せ

 人間牧場を開設して7年になります。市町合併を機に教育長など全ての公職を辞し、長い間温めていた人間牧場構想を実現するため、山にこもるような気持ちで下灘池久保に通い入植しました。最初の一年は孤軍奮闘で、母親が亡くなってから荒れるに任せていた、ミカン畑の雑木伐採や抜根に3ヶ月近くもかかり、敷地造成を終えて待望の中心施設水平線の家の棟上をしたのは、8月近くになっていました。以来1年目に水平線の家、2年目にロケーション風呂、3年目にツリーハウス、4年目に作業小屋、5年目にかまど小屋を次々と新築し、石垣工事などをはさんだ7年目に、仲間の協力を得てピザ釜を作り終え、それなりの体裁が整いました。

サツマイモのトンネル苗床

 その間人間牧場の小さな農場を開墾して地元の子どもたちを誘い、2年目から子ども体験塾の学習メニューとして、サツマイモを植え始めました。残念ながら1年目はイノシシの被害に遭い全滅しましたが、その後は網で囲うなどした結果、それなりの収穫を得て、それなりの成果を収めました。3年目から命のリレープロジェクトと称して、畑の隅にベニヤ板で囲った苗床を作り、落ち葉を集めて腐葉土を作って、サツマイモのツル苗を作ろうと思い立ちました。その結果サツマイモ作りは順調にことが運んでいましたが、落ち葉を集める一苦労と、種芋を野ネズミにかじられる被害が出始め、今年の冬は迷いに迷った挙句、また今年の落ち葉拾いの時期に親類の葬式が相次ぎ、落ち葉を拾って苗床に入れる時機を逸してしまったのです。

 

 それでも命のリレープロジェクトは続けたいと思い、発泡スチロールで大切に保管していた、昨年収穫していた種芋を取り出して、わが家の家庭菜園に植え付けることにしました。去年は3月1日に種芋を伏せ、3月10日にビニールを被覆しているので、時期としてはいいかもと想像し、一昨日耕運機で畑を耕し、昨日植え付けを行ないました。今年の冬の寒さはかなりなもので、籾殻を発泡スチロールの箱に入れ種芋を保存していましたが、寒さにやられて腐っているものもありました。仕方なく先日徳島県佐那河内村へ講演に出かけた折、徳島の友人吉崎さんから貰っていた、鳴門金時も少し使わせてもらいました。

 サツマイモの種芋を植え、その周りに保温のために籾殻を置き、牛糞堆肥を乗せ終わった午後3時頃、被覆のためのビニールを持って、赤石さんが家庭菜園にやって来ました。赤石さんが来るまでに昨日100円ショップダイソーで買ったフレームを、15本ばかり立てていたので、ビニールの被覆は予想以上に綺麗にでき、あっという間に終りました。上手く芽が出て欲しいと願っていますが、昨日の朝は東京も四国でも積雪があるなど、余寒はまだまだ続きそうで心配です。
 今年も子どもたちと楽しいプログラムを行なう予定ですが、今年は昨年できたピザ釜を使って、何か新しいメニューを考えてみたいと思っています。私や赤石さんがワクワクしないと、子どもたちもワクワク・ドキドキ・ジーンとしないので、しっかりとプログラムサービスを行ないたいと思っています。

  「この冬は 落ち葉拾いが できなくて 苗床菜園 移して作業」

  「農業と 言いつつ成果 出ぬままに お茶を濁して 六年目春」

  「今年こそ 今年こそとは 意気込むも 農業奥が 深くくじける」

  「昨年も 義農作兵衛 真似をして 食わず保存し 今年の種に」

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人間牧場

○国立大洲青少年交流の家運営委員会

 かつて私は若い頃、青年団に入団して8年間活動しました。その結果①仲間、②主張、③ふるさと、④感動、⑤夢という5つの道具を手に入れました。その道具は様々な機会と場所を砥石にして、磨きながら今日も使って活動しているのです。青年団はその意味において私の大恩人かも知れないのです。そんな青年団活動の中でも愛媛県青年団連合会長と愛媛県青少年団体連絡協議会長、四国四県青年団連絡協議会長などの要職をしていたころ、国立大洲青年の家の誘致運動が起こりました。同じ四国ブロックの中で高知県室戸と大洲は激しく競り合いましたが、当時の坂田文部大臣を招聘するなど激しい運動の末、90%以上の内定を覆し、見事大洲の地に青年の家を誘致したのです。以来名称は国立大洲青少年交流の家と名称は変わったものの、こだわりとかかわりの多さから、この年齢になった今も運営等に深く関わらせてもらっているのです。

幾何学模様のイメージ図 そんなこともあって請われるままに運営委員を引き受けていますが、最近は松山出身で東京から四年前にやって来た新山所長とことのほか息が合い、新山所長が年輪塾の会員になっていることもあって、頻繁に顔と口を出しているのです。まあ私にとって国立大洲青少年交流の家は、わが家のようなものですから、昨日も昼食を用意してもらい、所長さんと室長さんと三人で、レストランで昼食をご馳走になりました。 運営委員会は午後1時半から3時半まで、私が運営委員長として議長を務め、約2時間に渡って行なわれましたが、議長は事務局の説明に対して委員から意見を求めたり、審議事項の橋渡しなければなりませんが、行き当たりばったりながらほぼ時間内に委員全員から意見を述べてもらいました。 その殆んどは、私の意見を除けば建設的な意見が多く出され、手前味噌ながらある意味とてもいい会だったように思いました。 昨日は玄関先の芝生中庭に、孟宗竹を割って作った半円形の作品が妙に気になり、所長室ではもっぱらこの話に話題が集まり、その経緯と作り方を設計図をいただいて伝授してもらいました。私はこれまでにも様々な道具類を見つけ、直感で伝授してもらい多くのことを活動に生かしてきました。かつて竹で作った赤とんぼを作ったり、丸木舟を作って瀬戸内海を航海したりして、当時大きな反響を呼んだものです。今回の幾何学模様の半円形作品も、青少年活動に生かせば面白い効果が出るかもしれないと、早速写真に撮り、紙荷造り紐で作ったミニチュアや設計図まで所長さんからいただいて帰りました。 孟宗竹は里山を荒らす天敵といわれるほど厄介がられていますが、竹の活用は竹炭や建築資材などに使われているものの、それ程の妙案は中々見つかっていないのです。この半円形の作品がその妙案とは思いませんが、子どもにも手軽にできるアート作品なので早速試作を重ね、組み立て自由なキットにしたいと思っています。昨日は楽しくも充実したいい一日でした。(昨日は夕方から別の会議があって松山に出ましたが、新山所長さんから携帯にお礼のメールメッセージが入っていました。さすが気配りの所長さんです。)中庭にある孟宗竹を使ったアート

  「幾何学の 竹のアートが 気になって 中庭出でて 写真収める」

  「議長席 座って話 橋渡し 2時間かかり 話しまとめる」

  「交流の 家は私の 家のよう 隅々知りて どこか落ち着く」

  「この家に 中江藤樹の 教えあり 未熟なゆえか 未だ分からず」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中庭にある孟宗竹を使ったアート

 

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人間牧場

○4つの春

 私の住んでいる四国愛媛県は、瀬戸内海に面しているため、温暖少雨な地域といわれています。その気候を利用して昔はあちらこちらに塩田があったようですが、塩を科学的製法で作り出せるようになって、その姿は完全に姿を消してしまいました。温暖少雨はそこに暮らす人たちにとってはとても便利なのですが、厄介なことはやはり夏場の水不足です。雨が降ると川は水が勢いよく海に向かって流れますが、それも何日かで、冬のこの時期は雨が余り降らないため、川は水無川と呼ぶような瀬音もない音無川になっています。そのため何年かに一回は渇水対策本部などが置かれて、難儀を共有しなければならないのです。
 それでもこのところ春が近づいているのか、晴れと雨の周期が短くなって、雨だれや流れる水音にどことなく春の足音を感じ、どことなく身も心も浮き浮きしてくるのです。春を感じるものには光、音、温度、人の動きなどがあります。

 ・光の春
 日脚が随分長くなってきました。7時にならないと夜が明けなかった新春から比べると、すっかり早くなって、6時過ぎには辺りが明るくなるし、年末に5時過ぎだった日没も今では6時近くになり、昼の時間が毎日朝1分、夕方1分ずつ長くなっているようです。私たちのように谷あいに住んでいると、冬は殆んど日が当たりませんが、このところ日増しに日当たりがよくなり、日当たりのよい場所を選んで蒲団を干したり、先日作った切干大根のサナを並べたりして日差しを活用しているのです。樹幹からこぼれる日の光は明るくて、冬の寒さが厳しく待ち遠しいかっただけに光の春を強く感じています。

 ・音の春
 春は「♭どこかで春が生まれてる♯」と歌われているとおり、余り目には見えないものですが、音の風景で春を感じることができます。その最たるものは鳥の鳴き声です。裏山が家の近くまで迫っているわが家の近くでは、ウグイスは大寒の頃から鳴き始め、下手糞だった鳴き声もすっかり上手くなって、「ホーホケキョ、ケキョケキョケキョ」と谷渡りまで披露するようになりました。メジロなどの野鳥も庭先に飛んできて、椿の花の蜜などを吸い、時には大胆にも庭に置いているキャリーの中のミカンまでつつくのです。気がつけば吹きすさぶ北風の音に替わって、上灘川に架かった長い鉄橋を走る列車の音、港を出る漁船の音なども遠く近くに聞こえるようになってきました。

 ・気温の春
 春を感じるのはやはり気温です。名残の寒さなのか昨日の朝は放射冷却現象で珍しい霜が降り、散歩途中の道端の水槽には薄い氷が張っていましたが、さすがに日中は風もなく10度近くまで気温が上昇しました。部屋のあちこちに置いて使っている石油ストーブの灯油を入れる回数の頻度が少なくなり、今朝の室内温度は9度を表示していました。ストーブをつけた書斎の温もりも、湿度を保つためストーブの上に置いたやかんの湯気の立ち昇り方にも、どことなく春を感じるのです。

 ・人の春
 人の往来が多くなってきました。本当は明日から3月なのに今年は暦の悪戯で、4年に一回の閏年のため2月29日があるのです。したがって県立高校の卒業式は明後日です。これからは卒業式、就職や進学の準備にそれぞれ慌しい日々が続くようで、引越しの荷物を積んだトラックが俄然多くなってくるのです。息を潜めるように暮らしていた、近所のおじいちゃんやおばあちゃんも、マイカーたる手押し車を押して歩き、野良仕事もスタートして畑には人の姿が目立つようになってきました。

  「光・音 気温や人に 春見つけ 心浮き浮き 花春を待つ」

  「あと何回 春を向かえる ことできる 指折ってみる 二十回足らず」

  「春が好き 冬の寒さに 首すぼめ 一日千秋 あれやこれやと」

  「冬峠 登りて親父 今年また 春を向かえる ことぞ嬉しき」

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人間牧場

○新聞や雑誌の記事

 何げなく毎日見たり読んだりしている新聞や雑誌には、お悔やみや事故など虫眼鏡で見ないと見えないような記事から、町や自分に関する記事などが載っていてハッとしたりします。また自分が直接新聞や雑誌で見たり読んだりしなくても、仲間や友人からそれらが送られてきたりするのです。最近は便利になったものでそれらの記事はスキャナーでスキャンされ、メールに添付して送ってくれるので、保存するのにもブログに使うのにもとても便利で、この数年でその数や相当な量にのぼっているのです。

金丸弘美さんの旅日記
 一昨日夢工房で出会った友人の高岡さんから、一枚の雑誌切抜きをいただきました。彼は京都大学を卒業して県庁に入庁されたエリートですが、何故か私のような無学なものでも大切にしていただいて気が合い、これまで20年を越えて付き合っている古い友人です。無類の読書家で、彼から教わったり、薦められた本は数知れず、全てがインプットされた訳ではありませんが、私の血となり肉となっていることは確かです。彼はガバナンスという雑誌を愛読していて、その中のコラム記事に双海町やや私に関する記事が載っていると、こうして手渡しや手紙で送ってくれたり、時にはコピーして関係者に配ってくれるのです。
 今回いただいた記事は昨年サイコーダイガクの講師として招いた食環境ジャーナリストの金丸弘美さんが、その折取材したと思われる双海町の記事でした。金丸さんは気さくな方で、講演が終わって帰られると直ぐに、私宛にハガキをいただきました。また金丸さんの自著本をわざあわざ贈呈してもらったりしたのです。
 講師の先生たちはこのように全国を歩き回り、それぞれの地域で見聞きした情報を旅日記で紹介し、結果的にそれらの記事が全国の優良事例集として、居ながらにして本になるという、なんとも羨ましい限りです。

 もう一つ、2~3日前、市役所支所の松本さんからPDFファイルで、一枚の新聞スクラップの記事が送られてきました。昨年2011年の地域トピックス中予編で、下灘駅のプラットホームを舞台に開かれたシンポジウムの記事でした。その日の朝何げなく新聞をめくっていると、見覚えのある下灘駅のプラットホームの写真が載っていました。老眼鏡のお世話になっている妻が目敏く見つけ、さらに虫眼鏡で「これお父さんじゃない?」と言うのです。よくよく見ると観光カリスマ対談で来町した山梨県の舩木上次さんと二人の写真でした。そういえば昨年9月23日(ふたみの日)秋分の日に、14時55分串駅発の列車に乗って、下灘駅へ降り立ち、二人で観光に関する四方山話をしたなあと、半年前なのに何故か懐かしく当時のことが蘇ってきました。

下灘駅フォーラム新聞スクラップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 双海に関する資料、私に関する資料はこうして僅かながら記録の片隅に残っていくのですが、多分これらの記録もページをめくられることもなく思い出の彼方に消えていくのかと思うと、何だか寂しくなるのです。でもPCという優れもののお陰で、資料をひっくり返すこともなく手元目元に呼び出すことができるのですから、凄く便利な時代になったものです。
 一昨日子ども体験塾のスタッフとして来られていた人から、「若松さん、私はあなたのブログを殆んど毎日楽しみに読んでいます。これからも続けて下さい」と、唐突に言われました。名前も知らない主婦からそんなことを言われると、事の重大さにハッと気がつき、滅多なことは書けないと自重のブレーキをかけそうになりましたが、むしろ自重しつつアクセルを踏んで、これからも記録のブログを書こうと思いました。

  「楽しみに 毎日読んでる 言われると 自重ブレーキ 思わず踏みそう」

  「便利だね 記録数々 パソコンが 覚えてくれて 俺より偉い」

  「双海町 若松進一 見る度に 懐かしくなり 送ってくれる」

  「もう二度と 見ることもない 記事写真 消える運命 寂しくもあり」

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