人間牧場

〇束の間の広島県尾道市因島水軍城(その1)

 昨日は久しぶりにしまなみ海道を通って、広島県尾道市因島経由で上島町弓削島へ講演に出かけました。早朝にわが家を経ち今治からしまなみ海道の来島海峡大橋、大島大橋、大三島橋、多々羅大橋、因島橋と、いつものことながらまるで橋の世界的見本市を見るように、絶好の秋日和も手伝って、それぞれの橋や島々の景色を存分に堪能することができました。
 因島といえば村上水軍と造船の島、除虫菊咲く島で、特に造船繁栄の時代には人口も10万人を超えていたようですが、今は人口も1万人台とか聞き、その面影だけは残っているものの、隣の尾道市と合併したためどこか寂しさを感じました。私は何処かへ出かける時は必ず、目的地以外にプラスワンのおまけ見学を考えて行動するようにしていますが、今回は少し家を早く出て水軍城を選びました。

山頂にある水軍城

 上島町社会福祉協議会の福田さんから指示があった、因島南ICで高速道路を降り、土生長崎桟橋と反対の道を走り看板に沿って水軍城へ向かいました。因島は青年会議所の招きや尾道市教育委員会の金本さんの招きで何度か講演に来ているため、よく知った島なのです。またかつて因島青年会議所の皆さんと交流していた頃、ヒマヤラ桜の苗を植樹交流するため、わが町の潮風ふれあい公園へ大勢がやってきたこともありました。はたまた先日広島県旧総領町で開かれた逆手塾で出会った今井和美さんの家にも、泊めていただいたことなどを思い出しながら、急な坂道を登って行きましたが、村上水軍城はあいにく木曜日が休館日で、外からの見学だけとなってしまいました。看板に書かれた水軍の故事来歴や、金蓮寺というお寺の裏の墓地内にある、村上水軍ゆかりの無数の宝経院塔や五輪塔などをただ一人巡りましたが、まさにつわものどもが夢の跡でした。

 

金蓮寺山門に建つ「あ」の仏像

 

「うん」の仏像

金蓮寺というお寺の山門入口には珍しい「あ」と「うん」の石仏像があることを思い出し、墓地のあるお寺の裏から山門をくぐりました。私の記憶どおり仏様の像はありましたが、何ともユーモラスな感じがして、思わず一人ほほ笑んで対峙してしまいました。私たちの地方ではお墓に飾るのはシキビなのですが、この地方では生花を飾る風習があるらしく、お墓の前には綺麗な花が沢山備えられていました。

金蓮寺裏にある村上水軍の墓地

 その後そろそろ時間だと思い看板に沿って峠道を越えて土生長崎桟橋へ向かいました。福田さんから「この周辺は沢山の桟橋があるので間違わないように」と、注意のメールが入っていたので、確かめるように4階建ての市営有料駐車場へ車を止めるべく入りましたが、あいにく満車で困ったと思っていると、運よく一台出てくれ大助かりで。4階の駐車することができました。エレベーターで一階まで降り、待合所らしき所で暇そうにテレビを見ていた、店番のおじいさんに、「弓削島へ行く船はここから出るの?」と尋ねると、「弓削島へ何をしに行くのか」といきなり問われました。「はい講演に出かけます」と答えると、足の先から頭の先まで眺めながら驚いた様子で、「生名に渡って橋を渡る方法があるが、そこから歩く自信があるのか」と言われたりしましたが、「それだったらあの船に乗れ」と急がされました。しかし指差すその小型のフェリーは、既に桟橋を離れバックしていました。しかし私の存在に気付いた船は、わざわざ私一人のために引き返してもらい、30分も一便早い船に乗船することができたのも、田舎ならではのほのぼのとした光景でした。

因島海峡を縫うように長閑に走るフェリーの航跡

 因島と生名島の間は300mほどの海峡で、この海峡の間に目には見えない広島県と愛媛県の県境が存在する不思議な場所で、壺井栄の「二十四の瞳」の冒頭に出てくる、「岬かと思えば島なり、島かと思えば岬なり」を地で行く風景を、フェリーの船内から堪能することができました。特に5年前に生名島には佐島から立派な橋がかかり、弓削島と陸続きになっていました。
 船賃は240円で、乗船すると直ぐに船員さんがキップを船内で販売する仕組みになっているのも珍しい光景です。マッチ箱のような小さなフェリーで、僅か15分で弓削島到着です。自著本を販売したらどうかという福田さんの提案で、本を風呂敷に包んで持参したため、かなり重いことを実感覚悟していましたが、会場となるせとうち交流館は桟橋の目と鼻の先にあるので、重さを実感する間もなく会場へ到着しました。

  「プラスワン 今回の旅 水軍城 運が悪くて 木曜休館」

  「水軍の つわものどもが 夢の跡 史跡訪ねて 一人散策」

  「岬かと 思えば島の 県境を 小さなフェリー のんびり走る」

  「桟橋を 離れたフェリー 引き返す 島人優し 私を乗せて」

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人間牧場

〇誕生日の花束プレゼントに涙

 昨日は私の68回目の誕生日でした。その前日の2日、愛媛新聞カルチャースクールでの講義を終え自宅へ帰って玄関の戸を開けると、玄関先に何やら大きい花束が2つ置かれていました。「もしや」と私のシンパーシー回路が動き始め、緒方二三子さんと西岡真由美さんの名前と顔が同時に思い浮かびました。
 緒方さんと西岡さんとの最初の出会いは定かではありませんが、私が地域振興課長をしていた15年も前、いつものように朝ふたみシーサイド公園の掃除をして、集めたごみや空き缶を砂浜から汗だくで駐車場まで運び上げていると、若い二人の女性が花束を持って現れました。その頃の私は毎日忙しく働いていて、その日が自分の誕生日であることさえ忘れていたし、自分の誕生日に花束をプレゼントしてもらうことなど夢にも思っていなかったのです。

母の命日お供えの花

 突如として二人の女性は私に「誕生日おめでとうございます」と花束を渡してくれましたが、居合わせた漁協女性部のじゃこ天の皆さんや、かなり沢山の見知らぬギャラリーも加わって、総勢100人もの人に取り囲まれ屋外の花束贈呈となったのです。
 二人の顔に見覚えはあったものの、失礼ながら何処の誰かも分かりませんでしたが、花束に書かれたメッセージカードに、「お誕生日おめでとうございます。緒形二三子・西岡真由美」とシンプルに書かれているのを見て、二人の名前が分かったのです。あれから何年経ったのでしょうか。私は退職し自由人となりましたが、それでもいち市井の人なのに、10月3日が来れば二人の女性は必ずこうして花束を届けてくれるのです。

 ところがどういう訳か今年は花束が2つありました。一つは明らかに誕生日を祝う華やかな花束でしたが、一つは少し控え目な花束でした。そのうち留守番をしていた親父がやって来て、「若い娘さんが二人やって来て、花束を置いて帰った。二人を海の資料館海舟館に案内してあげた」と言うのです。94歳の親父に名前まで聞くのは野暮だと思い、「二人とも喜んで帰った」と言う報告にとどめました。
 そのうち私は花束を妻にも見せなけれればと思いそのままにして、急用ができて市役所地域事務所へ出かけて帰ってみると、妻が玄関先に座り花束を解いて、二つの少し大きめの花瓶に活けていました。一つは玄関先に、一つはわが書斎に飾ってくれました。(母の命日にと届いた花は早速仏壇の前に移動して飾りました)

誕生日に贈られた花束

 夕方お礼の電話をしようと思い、パソコンの住所録から名前を検索し、妻が144番に電話して電話番号を調べてくれました。食事が終ったころ二人にお礼の電話をかけましたが、運よく在宅で二人と直接お話をすることができました。お二人はこれまで何度も花束を持って、一年に一回わが家を訪ねていますが、海の資料館海舟館を見学すしたのは始めてらしく、親父の説明を聞きながら見学したことを、大層喜んでいただきました。それにしても毎年届く花束に少々赤面しながら、今年も甘んじて花束を受け取りました。勿論私としてはこの上ない喜びですが、立派な花束はお金もかかるであろうことを思うと複雑な気持ちです。
 電話で聞けば、もう一つの控え目な花束は私の誕生日の明くる日に亡くなった、母への供養だそうで、これまた凄い気配りでした。伊方町瀬戸の名産金時芋とシラスの釜揚げまでいただき、柄にもなく少し涙ぐんでしまいました。親父の言葉を借りれば「若い娘さん」の緒方二三子さん・西岡真由美さんありがとうございました。これからも一生懸命生きて行きます。

 

 

  「玄関に 何やら二つ 花束が メッセージ見て 感動しきり」

  「留守番の 親父言うには 若娘 花束持って 来たので案内」

  「私には 貰う理由が 見当たらぬ 顔も落伍で 足も短い」

  「花束が 届くその度 心して 生きて行こうと 誓い新たに」

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人間牧場

〇68歳の誕生日を迎えるに当って

 1944年(昭和19年)10月3日に生まれた私は、今日が68歳の誕生日です。織田信長の「人生50年・・・・・」というくだりから比べると、現代日本は「人生80年時代」ともいわれ、100歳位以上の人口が5万人を超える世界一長寿な国になりました。私が23歳の時に人生目標目標として掲げた年齢の85歳から計算すると、私の寿命はあと僅か17年ですから、いよいよ向こうが見えてきました。そんなことを考えると、誕生日を迎えたからと手放しで喜ぶことは出来ず、むしろ誕生日が来る度に「×××・・・」と気が滅入って複雑な心境になるのですが、まあそれでも今年一年大きな病気や事故もなく元気で過ごせ、誕生日を迎えることが出来たのですから、これはもう喜ばなければなりません。

 私の誕生のルーツである親父は、94歳と高齢ながら元気で私たち家族と一緒に、ひとつ屋根の下で暮らしていますが、私を産んでくれた母親は14年前既に80歳で亡くなっています。「母親の年齢と父親の年齢を足して2で割ると自分の寿命年齢が分かる」という話が本当だとすると、私の寿命は2歳延びて87歳の予定ですが、85歳にしろ87歳にしろ仕上げの人生とも思えるこれからの余命を、健康的にするためには、万人幸福の栞に書かれているような次のことに注意をして、前向きに余命を生きて行きたいと思います。

  ①今日は最良の一日、今は無二の好機
  ②苦難は幸福の門
  ③運命は自らまねき、境遇は自ら造る
  ④人は鏡、万象はわが師
  ⑤夫婦は一対の反射鏡
  ⑥子は親の心を実演する名優である
  ⑦肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号
  ⑧明朗は健康の父、愛和は幸福の母
  ⑨約束を違えれば、己の幸せを捨て他人の福を奪う
  ⑩働きは最上の喜び
  ⑪物はこれを生かす人に集まる
  ⑫得るは捨つるにあり
  ⑬本を忘れず末を乱さず
  ⑭希望は心の太陽である
  ⑮信ずれば成り、憂えれば崩れる
  ⑯己を尊び人に及ぼす
  ⑰人生は神の演劇、その主役は己自身である

 昨日第一火曜日は、愛媛新聞カルチャースクール「街中の人間牧場移動塾」の、月に一度の開講日でした。私が自費出版している「夕日徒然草・地の書・水の書・火の書・風の書・空の書」をテキストにして講義を行なっていますが、早いもので4月に開講してから半年6ヶ月が経ちました。3ヶ月を目途に始めたものの6ヶ月も続き、後3ヶ月は続きそうなのです。昨日は私の誕生日を明くる日に控えていることもあって、前述の「万人幸福の栞」を題材に話をさせてもらいましたが、「日々を楽しく暮らし人生を幸福に生きたい」と思う心は万人の等しい希望だと思うのです。

  「また一つ 歳をとるかや わが人生 目出度いようで 目出度くもなし」

  「父と母 足して二で割る 計算を すると私の 寿命年齢」

  「幸福の 栞読みつつ かく生きる 決意も新た 誕生日前」

  「幸福に 楽しく生きる 青い鳥 心の中で しっかり羽ばたけ」

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人間牧場

〇花二題「彼岸花と沙羅双樹」

鳥取県南部町に咲いていた彼岸花

 先週の金曜日、松本さんと浜田さんを交えた3人で鳥取で開かれた全国大会に参加しました。暦の上では初秋といいながら、中国地方の山々は、まだ紅葉の気配も感じられませんでした。しかし田圃のあぜ道には真っ赤な目にも鮮やかな彼岸花が至る所に今が盛りと咲いて、群生地では目を奪われてしまいました。
 昨日私の友人で先輩でもある玉井恭介さんのブログ「考える村村長だより」を読みました。その文章の中にも博学にして研究熱心な玉井さんらしく、彼岸花のことを詳しく紹介していましたので、彼岸花の薀蓄は割愛しますが、毒花なのに何故か日本のあちこちにはこの頃になると彼岸花が沢山咲いているのです。
 私たちが訪ねた鳥取県南部町の文化財巡りの途中の道端にも、綺麗な彼岸花が沢山咲いていました。

お寺の境内で見つけた沙羅双樹の看板
沙羅双樹の木

 旅の途中余裕の時間を使って訪れた、山陰きっての名刹である投入堂という国宝のお寺の境内で、沙羅双樹という珍しい木を見つけました。今は花の時期ではないため花を見ることは出来ませんでしたが、何故か看板に目が行き、デジカメで撮影しました。
 平家物語の冒頭で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と書かれている言葉は余りにも有名ですが、どうして「沙羅双樹の花の色」が「盛者必衰の理」をあらわすのかは、私のような凡人には知る由もないのです。ものの本によると「釈尊が沙羅林に横たわった際、季節はずれに花が咲き、散って釈尊の実を供養した」とか、「釈尊が横たわったところの東西南北に、各一対の沙羅の木があり、入滅と同時に東西の二双と南北の二双が合わさって、それぞれ一樹となり、釈尊を覆った」などなど書かれていますが、沙羅双樹の花は「咲いて一日で枯れてしまう」が「理」かも知れないと勝手に思ったりしました。

沙羅双樹の花

 沙羅双樹の木について書いていると、どうしても沙羅双樹の花が見たくてインターネットで調べてみました。さすが平家物語で名高い花だけあって、ネットでは花の写真が沢山紹介されていますが、その花の殆んどは夏椿で、沙羅双樹と夏椿は別のものという説に納得して探しましたが、今朝は見つかりませんでした。
 実は夏椿ならわが家の庭の隅にも、友人から貰った一樹が植えられていて、この花より少しピンクがかかっているようです。
 彼岸花も沙羅双樹も仏様に関係の深い花であることはよく分かりましたが、来年の沙羅双樹の花の咲くころに、何処かのお寺へ本物の沙羅双樹の花を見に行きたいと思っています。

  「沙羅双樹 この目で理 確かめに 出かけてみたい そんなワクワク」

  「夏椿 ならばわが家の 庭にある だけど違うと 多少混乱」

  「彼岸花 彼岸過ぎても 咲きにけり 真っ赤な帯が 田圃の畦に」

  「調べれば 余計に謎が 深くなる 沙羅双樹とは う~ん深いな?」

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人間牧場

〇第30回地域づくり団体全国研修交流会鳥取大会(その3)

 「日本一小さな県から大きく発信」~集い・語り・紡ぐ~をテーマに、9月29日~30日の2日間、鳥取大会が始まりました。全体会会場は鳥取県のほぼ真ん中に位置する倉吉市にある、鳥取県立倉吉未来中心というとてつもなく大きい会場でした。
 全国から集まった参加者は270人で、来年開催予定の福井県からは42人が参加していました。四国からは愛媛県が圧倒的に多い15人で、香川県から2人、高知県と徳島県からは残念ながら参加がありませんでした。まあ地域づくりは人数ではないのでそんなことはどうでもよいことですが、年輪塾からは私と浜田さん、それに地域事務所の松本さんの3人で参加しました。

打吹童子ばやしの素晴らしい演技

 オープニングは倉吉市に古くから伝わる子ども太鼓の郷土芸能「打吹童子ばやし」でしたが、里見八犬伝をイメージして作られた曲を笛と太鼓で表現していて、これまで見た子どもの太鼓の中でも超ビッグな美しさとスケールでした。
 地域づくり団体全国協議会会長の岡崎昌之さんと、平井伸治鳥取県知事、武居丈二総務省地域力創造審議官、石田直裕地域活性化センター理事長のあいさつがあり、郷土芸能「しゃんしゃん傘踊り」でセレモニーを終え、トークセッションは大会実行委員長の福田京子さんをコーデネーターにして、「最初は小粒でも大きく育つ地域力」をテーマに、いんしゅう鹿野まちづくり協議会理事長の佐々木千代子さんと、地域福祉ネット副理事長の吉野立さんの3人の議論がありました。

3人によるトークセッション

 次回開催県福井県のあいさつや、鳥取大会実行委員長福田京子さんのあいさつの後、鳥取県出身の作曲家岡野貞一が作曲したご存知「故郷」(高野辰之作詞)の歌をピアノ・ソロに合わせて、全員が大合唱しました。お粗末ながら私は、岡野貞一が鳥取県出身であることをこの時初めて知りましたが、「故郷」の物悲しい歌や曲は、「日本の歌」の中でも一番人気の高い歌で、東日本大震災にまつわる様々な催しでも必ず歌われるなど、日本人の愛唱歌なのです。しかしこの歌はよくよく歌詞を読んでみると、日本が戦後復興を成し遂げ、高度成長に向かった時代、つまり向都離村の教育をした時代に故郷を離れた人たちが、望郷の念に駆られた思いを歌った歌であるような気もするのです。故郷を離れず故郷に生きる私からすると、少し複雑な気持ちになりますが、①故郷を愛する、②故郷のためになる、③故郷を正しい方向に導くとい、う3つのことを徹底してやっている私にとっても、故郷で生きた過去を懐かしく思う気持ちは変わりないのですから、これからも口ずさんで行きたいと思いました。

 全体会を終えた参加者は、そこここで昼食弁当を食べた後、鳥取県下11の分科会会場へ向かって散って行きました。私たち3人が選んだのは、鳥取県の西に位置する南部町です。倉吉から海岸国道に出てコナンの里北栄町、琴浦町、大山町、米子市と走り、午後2時頃無事南部町へ到着しました。
 その頃から台風の影響でしょうか、ポツリポツリと雨が降り始めましたが、その雨も夕方まで小康状態となり、穏やかな初秋の鳥取路を満喫しました。

  「倉吉の 町の真ん中 馬鹿でかい 未来中心 文化施設で」

  「そこここに 郷土芸能 数あれど 童子ばやしは 超一級だ」

  「故郷と いう歌鳥取 出身の 人の作った 曲と初知る」

  「故郷を 歌うと何故か 故郷の 情景浮かび 心和みて」

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人間牧場

〇あれから4年が経ちました(その1)

 今から4年前の平成20年11月14日と15日の両日、愛媛県において第26回地域づくり団体全公研修交流会が開催されました。色々な大会に関わり携わってきた私の長い人生において、この大会は実行委員長という重責を担っていたこともあって、忘れられない大会でした。手元にしまっている参加者募集の案内パンフレット、当日の大会資料、そして100ページに及ぶ報告書の3冊の印刷物を見る度に、過ぎ去った懐かしい日々が思い出されるのです。その中でも報告書の冒頭に総括のような形で私の書いたあいさつ文が掲載されていて、懐かしさ一入です。

当時私が奉公句所の冒頭に書いたあいさつ文

 茨城から愛媛へ、愛媛から佐賀へ、佐賀から青森へ、青森から熊本へ、熊本から鳥取へと大会のバトンはタッチされる予定でしたが、熊本が東日本大震災の被災を理由に中止したため、バトンを受けるはずの鳥取は大いに翻弄され、大いに混乱したようでしたが、空中分解しそうになりながらも岡崎会長さんや私を招いて昨年プレシンポをやり、何とか踏みとどまって鳥取大会の開催に漕ぎつけたのです。そんな義理もあって、長年の親友福田京子さんが実行委員長ということもあって、愛媛県から17人の参加者が瀬戸内海を渡り、中国山地を超えて参加しました。私は松本さんと浜田さんの3人で出かけました。

 28日の昼前に出発した私たちは、途中で昼食を取ったり、国宝の投入れ堂を見学したりしながら、初秋の鳥取路を楽しみ、前夜祭が予定されている鳥取駅前のホテルへ5時過ぎに到着しました。このホテルは1年前にプレシンポのあった場所なので、勝手知ったる雰囲気で意気揚々と乗り込みました。私も長い間地域づくりに関わってきているので、知人や友人、顔見知りの人たちも多く、行く先々で立ち話の輪が広がりました。
 いきなり知人が、「若松さん、電光掲示板は?」とのリクエストを受け、カバンの中に忍ばせていた電光掲示板を取り出して胸につけたところ、たちまち人気急上昇で、すっかり話題をさらいました。そういえば電光掲示板を使い始めたのは、愛媛大会からだったのです。

 

ずらり並んだ料理

 

前夜祭会場で美女に囲まれた私

 午後6時前夜祭は始まりました。メインステージの脇には鳥取県の海の幸や山の幸が沢山並び、私たちが直ぐ横のテーブルに陣取っていたこともあって、地域活性化センターの理事長さんや、鳥取県の要人も沢山ご挨拶に見えられ、また電光掲示板につられて名刺交換の人が列をなし、一箱用意した名刺は殆んどなくなってしまいました。酒を飲まない私は間隙を縫って大いにおご馳走をいただきました。郷土芸能やあいさつなどであっという間に2時間交流会は終わり、私たち愛媛県の一行は車で15分ほどの所にある羽合温泉羽衣というホテルへ入りました。

  「4年前 書いたあいさつ 読み返す 懐かしき日々 昨日のように」

  「一箱の 名刺なくなる 人気ぶり 電光掲示を 胸点け歩く」

  「何処行くの? ハワイ(羽合)旅行と 笑わせる 鳥取県に ハワイあるとは」

  「知り人が こんなに多い 驚きぬ 人生楽し ワハハのワハハ」

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人間牧場

〇蜂蜜採集やっと終る(その3)

 ミツバチの巣箱から蜂蜜の詰まった巣板を取り出して、大きなポリ容器の樽に回収するのに1日、巣板を細かくちぎってポリ容器で作った採蜜器に入れて、家庭用サウナに入れたり出したりしながら、蜂蜜を採集するのに2日間、合計3日間を費やした蜂蜜採集作業が昨日の夕方やっと終りました。サウナの中で流下した蜂蜜は、近所の酒屋さんからいただいてレッテルを剥がし内外を綺麗に洗い、水気を切った一升瓶に細かい管のようなビニールホースでジョウゴとこしきを通して流し込み、一杯になると取り出すのですが、その度に一升瓶の数が増えて行くのが何ともワクワクするもので、結果的には豊作というのか大漁や大量というのでしょうか、9本を越えました。息子が今回の採蜜のためホームセンターから買って来た遠心分離型の水切り器は、結局息子の仕事が忙しかったようで、実験程度にしか使えませんでしたが、来年はやはり遠心分離機を買いたいものだと、新たな意欲に胸が膨らんでいるのです。

採集した9升の蜂蜜

 昨日と一昨日、蜂蜜採集のあれやこれやを、私のブログで(その1)、(その2)として記事を書いてアップしたのを読んで、早速巣板の採集の指導や協力をしてもらった井上登さんから、スムシ対策についてメールが入り、また高知県馬路村の山岡さんが作った巣箱を、仲介していただいた馬路村の木下さんから携帯メールが入るなど、内野席からも反響をいただきました。井上登さんはこれまでの養蜂飼育でも、一日の採蜜では経験したことのない量だったそうで、勿論私もこの3日間は興奮の連続だったように思うのです。
 目標としていた5年目で5升という夢は、私が日ごろ口癖のように言っている「夢はドリームではなくターゲットである」を実践した形で、目標の数字を大幅に超える成果に満足していますが、それもこれも井上さんの指導協力と、何といってもミツバチたちの地道な働きの賜物であり、井上さんとミツバチさんに厚く御礼をいいたいと思っています。

 この採集した蜂蜜は、これから息子の手によって水分を飛ばしたりろ過をして不純物を取り除き、小さな瓶に詰めてレッテルを貼り、「人間牧場のはちみつ」として加工し、大いに活用したいと思っています。今年は天候の状態や蜜源となる花が多かったのか、原因は定かではありませんが、スムシの被害にも余り会わず、採蜜時に蜂に刺されることもなく(実は向うスネをちょっと刺されましたが、大事には至りませんでした)終了することが出来ました。傍で一部始終を見ていた妻の関心事は、蜂蜜の多さではなく実は蜂に刺されると、抵抗力が弱るという話を聞いているので、そのことが心配の種のようです。
 今年は採集した次期が良かったのか、ミツバチがおとなしくて犠牲にしたミツバチも少なく、巣板を取り出して空になった巣箱に、無事収まっているようなので、冬の寒さがやって来るまでに、このまま順調に冬越しの準備をして種蜂となっ、て来年につなげて欲しいと願っています。

  「五年目に 五升を目指し 始めたが 九升超えた 成果満足」

  「コツコツと 働き蜂が 蓄えた 蜂蜜横取り 心が痛む」

  「尊徳の 教えそのまま 逆らわず 逆らい生きる これも人生」

  「一升瓶 並べてみれば 凄いなあ しみじみ感心 親子三人」

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人間牧場

〇蜂蜜採集作業順調(その2)

 蜂蜜採集の作業を毎年指導しながら手伝ってくれている西予市野村町の井上登さんから、「ミツバチの巣板はほおっておくと、スムシが大量に発生するので冷蔵庫へ入れた方はいい」と、今朝忠告のメールが届いていました。蜂蜜採集作業中もそんな話を聞いたような気がするので、さてどうしたものかと思案しています。この近くで私の顔の利く大型冷蔵庫のある場所はどこだろうと考えましたが、思い当たるのは漁協の冷蔵庫くらいです。昨日の夕方にも時間を割いてわが家の脱衣場に置いてある家庭用サウナで、巣板を小さく切ってステンレス製のザルに入れ、高知県馬路村の木下さんに教わった、ぼかし作り用のプラスチックバケツに入れ、ナイロンパイプで流下させて、一升瓶に垂らすという方法で強制採集を試みていますが、今日の朝からやれば今日中に採集作業が粗方終るかも知れないので、冷蔵庫保存はやらなくてもいいのかも知れませんが、それには今日の夜の集会や明日から鳥取へ遠出する計画なので、急がねばなりません。

ポリ容器に入れられた蜂蜜巣板

 蜂蜜採集作業は手間のかかる作業で、これほど手間がかかるとは思ってもいませんでした。5年前には蜂蜜採集作業は8月中に行なっていたので、炎天下でプラスチックバケツに黒いゴミ袋をスッポリ被せ、太陽の熱で蜂蜜が巣板から自然に垂れるのを待ちました。しかしこの方法だと巣板についている生きたミツバチに加え、付近から飛んでくるミツバチが沢山群がり、時には手先をミツバチに刺されたりする、ハプニングにも見舞われたのです。
 3年前に息子の提案で家庭用サウナを使ってからは、温度をかけるため巣板に溜まっている蜂蜜が面白いように流下して、一升瓶の中にジョウゴとステンレス製の網目を通して蜂蜜が溜まるのです。

家庭用サウナ内で流下する蜂蜜採集風景

 今年は指導や手助けに来られた井上さんも驚くほどの収穫がありました。人間牧場で採集したポリ容器一つで4升5合もの採蜜したので、昨日から始めた家の裏山で採集したポリ容器分も多少見劣りがするものの、低く見積もっても4升近くはあるものと思われるのです。
 蜂蜜を採集したり保存するのには、一升瓶が一番のようで、私はこの日のために近くの木村酒屋さんに出かけて一週間前、一升瓶を7本いただいて帰りました。水に漬けてレッテルを丁寧に剥がし、レッテルの糊をワイヤタワシで綺麗に取りました。そして中に残ったアルコール分を水洗いし、逆さまにして水分を抜き天日に干して水分を完全に抜くのです。

 妻が「7本もどうするの?」と不思議がっていましたが、これも5年間培った経験で、巣箱の入り具合を見れば7升の収穫があるだろうという直感なのでした。この直感はズバリ的中しました。多分もう1本か2本を今朝にでも用意せねば対応できないと嬉しい悲鳴を上げています。採蜜した蜂蜜は一升瓶に入れられて台所の食卓の上にこれ見よがしに並べて、余熱を取っていますが、次第に増えていく一升瓶の数を見ながらほくそ笑んで一人余韻を楽しんでいるのです。
 今朝も夜が明けると早速朝のうちに採蜜作業に取り掛かり、今日で粗方の作業を終りたいと思っています。

  「家庭用 サウナ使って 蜂蜜を 一升瓶に 垂らす荒業」

  「ミツバチが せっせと貯めた 蜂蜜を 私横取り 心傷むが」

  「台所 食卓上に 増えて行く 一升瓶を 眺め満足」

  「今年の 目標五升 有に超え 八升超える 蜂蜜嬉し」

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人間牧場

○今年も蜂蜜採集始まる(その1)

 裏山にミョウガが出て、柿の木の根元に真っ赤な彼岸花が咲く頃になると、ナツメの木に登りナツメをとって食べたことや、脚長バチに追いかけられて刺された少年の頃のことが、つい昨日のことのように毎年懐かしく思い出されるのです。と同時に裏山4箱、人間牧場4箱に入った日本ミツバチのことを思い、そろそろ蜂蜜採集の時期だと思うのです。10日程前ミツバチの師匠である西予市野村町の井上登さんから、「そろそろどうだ。蜂蜜採集の日が決まれば手伝いに行くから」と有り難い一報がメールで入っていたものの、私のスケジュールが立て込んでいたり、健康診断結果のちょっとした騒動で、まったく予想がつかず、すっかり連絡が遅れていました。気になりながら様子を伺っていましたが、思い切って井上さんとメールで連絡を取りあえず決行することにしました。

人間牧場ウッドデッキでの採蜜作業

 私が井上さんの指導や馬路村の木下さんの世話でいただいた、巣箱を使って養蜂といえるかどうか分からない養蜂を始めてから、早いもので今年で5年目を迎えました。その間ミツバチの入居に一喜一憂したり、ミツバチに何度も刺されたりしながら、今日を迎えているのです。最初は巣箱3つから始めた養蜂も、今では8箱とその数を増やし、1年目1升、2年目2升・・・・、5年目5升を目標に掲げてその目標どおりの成果を上げて、4年目の昨年は5升5合の蜂蜜を収穫することが出来たのです。これも偏に「ミツバチ飼育は愛情一番」と教えてくれた、井上師匠のお陰だと感謝しながら今年も最初の目標どおり5年目5升を目論んでいるのです。井上さんは約束どおり10時に人間牧場へ軽四トラックに採密の七つ道具を積んでやって来ました。今年は人間牧場の近所に住んでいる西嶋さんも、向学のつもりでギャラリー参加をしてくれました。

蜂蜜が詰まっている巣箱の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年は空がどんより曇っていたこともあって、蜂の様子が比較的落ち着いていたので、巣箱をウッドデッキまで運び、別の箱を重ねることもせずに、いきなりプラスのドライバーで天板を止めているネジを慎重に外し、井上さんが細いワイヤーで天板と巣を切り離しました。巣箱を逆さま斜めにして、細長い専用のノミで切り取り、8段ある巣を次々と取り出して、太いポリ容器に毛刷毛でミツバチをそっと追い払いながら入れて行きました。最初の2箱は持ち上げると手に重さが伝わるほど重量感があり、期待通り蜂蜜が溜まっていましたが、期待していた重箱型の巣箱もお墓の上の巣箱も、殆んど採集できませんでした。それでもポリ容器に満杯で、4升はあるかもと淡い期待を持ちました。

 潮路という国道沿いのレストランで軽い昼食を食べ、わが家まで戻り裏山の三つの箱を、同じような方法で採集しましたが、ここでもポリ容器に満杯の収穫がありました。ここでも同じような方法で、今年はミツバチの犠牲を最小限度に抑えることができました。今年こそは刺されまいと思っていましたが、終りかけた頃右足の脛に軽い痛みが走り一刺し刺されたものの、妻の作ったジュウヤク焼酎を塗ったお陰で腫れることもなく大事に至りませんでした。
 明くる日から簡単なポリ容器の水切り道具で、蜂蜜を採取しようとする長男息子と、家庭用サウナに持ち込んで強制的に蜂蜜を採集する私の協働作業が始まりましたが、息子も私もスケジュールが中々合わず、少し絞っただけでその殆んどをまだ未処理のままなのです。楽しみがあると思えばいいのでしょうが、息子は早速インターネットで小瓶を注文し、既に瓶詰に心は行っているようです。

  「目標は 五年目五升 掲げたが 相手が蜂ゆえ そちら任せで」

  「今年も 師匠手助け やって来て 段取り作業 ぬかることなく」

  「可哀想 折角集めた 蜂蜜を 人間様が 横取りするとは」

  「お師匠に 親子二人が 加わって 採蜜作業 今年も楽しく」

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人間牧場

○愛媛大学農学部集中講義始まる

 第1講義  8時30分~10時00分(90分)
 第2講義 10時30分~12時00分(90分)
 第3講義 12時50分~14時20分(90分)
 第4講義 14時40分~16時10分(90分)
 これが愛媛大学農学部での集中講義の日程です。しかも午前・午後一日4回の講義が9月24日と25日の2日間続くのですから、これはもう余程体力と能力がないとできないのです。能力はさて置いて体力には自信があるので、今年も昨年に引き続いての講義となりました。受講者は学部生2~3回生21人が対象なのですが、その中の4人は、愛南町にある水産学科の教室と農学部43演習室をテレビで結んでの受講という、今まで経験したことのない授業形態でした。

 朝のラッシュにかからないよう、妻に作ってもらった愛妻弁当と水筒を積み込み午前7時に自宅を出て、松山市樽味の農学部キャンバスに向かいました。何年か前客員教授に就任した折、研究室までいただいて、2年間通った大学なので、そこそこ飲み込めているつもりだし、当時の集中講義は1日4コマを4日間こなす荒業でしたが、さすがに今はそこまでの体力はないのです。
 今回の学生は昨年私の「地域活性化論Ⅰ」を受講していて、今回のテーマは「地域活性化論Ⅱ」の講義です。今月に入って暇を見つけて作成した45枚に上るレジメは、前もって担当の笠松先生の元へ送付していて、昨日は人数分だけ印刷されて会場に持ち込まれていました。

 今回の授業組み立ては、「地域活性化に必要なもの」というサブタイトルをつけ次の8本8コマの柱立てを考えました。
 A、人づくり
 B、ものづくり
 C、ハードづくり
 D、情報・話題づくり
 E、ビジネスづくり
 F、地域づくり
 G、自己実現づくり
 H、夢づくり

教壇の前に置かれた魚眼レンズのカメラ

 

私の講義の様子と愛南教室の様子がテレビで同時中継されました

 昨日は導入部分の講義に少し時間をかけ過ぎて、A~Cまでの話で終ってしまいましたが、学生たちは皆さん夏休みにも関わらず元気で、熱心に受講してくれました。少しの時間を割いて議論もしましたが、愛南教室の学生とのテレビ画面と音声を使った議論も、それなりにかみ合って、まあ第一日目の講義は自己満足度80点といったところでした。講義が終って自宅へ帰ったのは午後5時半ころでしたが、狭いといいながら広い教室で、マイクも使わない自声でのレクチャーはかなり喉に負担がかかって、少し嗄れているようでしたが、今朝は元に復元しているようなので、今日も元気に出かけようと思っています。

  「一日に 六時間もの 講義する 声少し嗄れ だけど元気に」

  「さあ今日も 昨日と同じ 六時間 学生相手 パワーを貰う」

  「大学の 教壇立って 俺如き 人間何を 話せばいいか」

  「ああ今日も 恥の上塗り しに出かけ 持てる力で アプローチする」

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