人間牧場

〇家庭菜園の野菜垣づくり

 今年はこのところの低温気味な天候で、作付けした家庭菜園の野菜類の生育や発芽が少し遅れています。これまでは家庭菜園の世話は、もっぱら親父にまかせっきりだったため、生育や発芽等まったく気付かなかったのですが、親父の高齢による体力減退で仕方なく、私に代替わりせざるを得なくなったため、暇を見つけて家庭菜園に出てみると、今まで気づかなかった様々な出来事に気がつくのです。
 体力が減退したからといって、全ての手を引いた訳でもない親父は、庭の草を引いたり、道端の草を削ったり、時にはあれやこれやと指図をしてくれますが、かつての様な親子での言い争いをする馬力はなく、ただ私の作業を見守るといった感じの役割です。

息子の協力で立派にできたトマトの垣
息子の協力で立派にできたトマトの垣

 昨日は延び始めたキウリとトマト、ナスの垣を作る作業をしました。幸い昨日はゴールデンウィークの休みで、在宅だった長男息子に杭打ちを頼みました。今までは親父に頼まれて私が杭を打つ立場でした。これからは私が息子に頼んで杭を打つ世代交代なのです。
 親父は去年の夏作が終わった秋の頃、私が引き抜いた杭や竹類を倉庫の庇下に作った置き場に、綺麗に揃えて保管してくれていました。それらを引っ張り出し、予め鉄の穴あけ用杭を打ち込んで、木の杭が打ち易いように穴を開け、カキヤで打ち込んで行くのです。畑は作付けのために耕していたこともあって、杭は息子の力を込めた適当な圧力で順調に打ち込まれました。4本6列の合計24本の杭打ちは、体力に自信のある息子にとってそれ程の難儀ではなく、息も上がらず作業を終えました。

 その後私は少し長めの竹棒を腰高辺りの高さに、杭にビニール縄で縛りつけ、苗物に立てた支柱を縛り付けて行きました。もうこの歳になると日焼け等、気にすることもないのでしょうが、帽子好きな私は妻が新調してくれた、少し小型の夏バージョン麦藁帽子を被り、日焼けに備えました。このように日焼け防止のための帽子を被っていても、「お父さん顔が日焼けして、少し黒くなったようね」と妻に言われます。それもそのはず近頃は家庭菜園や人間牧場での農作業が忙しくて、外での作業が多くすっかり日焼けをしているのです。
 昨日の夕方までにキウリ、トマトの予定されていた垣を作る作業はひとまず終りました。ナスはまだ実を付ける時期ではないので暇を見つけてのんびりやればいいようです。

 今日辺り、畝を立てたままになっている所に、枝豆やツルありインゲンやスィートコーンの種を、買って来て蒔こうと思っていますが、畑では早播きしたツルなしインゲンが早くも芽を出したようです。ジャガイモもニンジンもゴボウも今のところ順調、後は植えても一向に芽の出ないサトイモだけが顔を覗かせていません。地植えにしたブルーベリーもこのところの好天で、少し水分が欲しいようなので、下草を削ってから、たっぷり水を与えました。
 1haの広い菜園に草を生やさず、作物を育てる世話は容易なことではありませんが、この20年親父がせっせとやってきてくれたことなので、私もむしろ作物を育てる喜びを感じながら農作業をしたいし、作った作物を食べて大いに健康を維持しようと思っています。

  「菜園の 世話親父から 受け継いで 見よう見真似で コツコツ始め」

  「夏野菜 伸び始めたる 様子見て 昨日は垣を つくる作業す」

  「麦藁の 帽子を被り 畑出る それでも日焼け 黒くなったと」

  「力ある 息子に頼み 杭を打つ まるでマシーン 馬力が違う」

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人間牧場

〇4月の五行歌

 昨日は低気圧や寒波の影響で、北海道では9センチもの積雪があったと、テレビのニュースが報じていました。そのため昨日は愛媛県でも3月下旬から4月上旬の気温だったそうで、寒さを感じる一日でした。昔から「八十八夜の別れ霜」とも「夏も近づく八十八夜」ともいわれていますが、やはり異常気象のようです。
 わが家の家庭菜園の折角植えた苗物も、こうした異常気象に翻弄され、今年は生育が悪く、折角植えたオクラの苗を枯らしたり、ナスも息絶え絶えといったところで、少し可哀想な気もします。また活動期に入った蜜蜂も寒さのせいで活動が鈍く、まだ空き家が二つもあって、斥候に来ていた蜜蜂もどこかへ行ってしまいました。

 昨日松山五行歌会の結果が見山あつこさんから送られてきました。封を切って三つ折を開くといきなり、今日閑人さんの次の歌が目に留まりました。相変わらずの秀作で出席歌一席です。
   会う
  度に
  「生きとったか」
  と
  笑う友

 僅か14文字を上手く使い分け見事な表現です。☆「来年は会えるかな?」お互いそんな年になってきたのですね。長い時間をかけて築き上げられた関係、友人同士の距離感が素直に出ています。毒舌の許せる二人の関係が羨ましくもあります。おじいちゃんが自分の息子に電話するときもこんな感じという、中学生の葵空ちゃんから、味のある歌ですねという熟年、年配者までの点を集めて一席に。この三月、生まれて初めて入院したという作者です。どうぞお身体大切に!
 いやはや講評も立派で感心しました。

 欠席歌一席は塚田三郎さんの次の歌でした。
  人の悪口を言わない
  そのこと一つ
  とっても
  君は
  たいしたものだよ

思い出に残る名残の桜
思い出に残る名残の桜

 ちなみに私の次の駄作も付け足しの5席でした。
  咲いたと思えば
   桜散る
  今年の春も束の間
  ああまたひとつ
  歳を重ねる
 講評には次のような文章が寄せられていました。☆去年からもう一年もたったのか、【またひとつ/歳を重ねる】と、作者が歳を重ねると感じる基準の一つが桜との出会いなのですね。【ああ】に実感がこもっています。今年は少し長めに楽しめた気がしますが、それでも短い桜の花の命、来年までまた一年、桜の花に再会できるよう皆さん元気でいましょうね。
 作者の私より広くて深い見識をお持ちの選者の講評文は何度読んでも素晴らしく、世界が広がり価値観が変わったような感じがして、とてもいい勉強になります。

  「今月は 付けたし五席 入選す 一席読めば 私まだまだ」

  「講評は 私の心 透視して 歌が立派に 思える不思議」

  「あと何度 桜の花が 見えるのか 指折り数え 最後あやふや」

  「五行歌で 違う感性 学びつつ 京も元気で 朝を迎える」

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人間牧場

〇わが家から夕日が見える季節になりました

 「えっ、はや5月!」と驚くほどのスピードで、今年も早3分の1の月日があっという間に過ぎてしまいました。「歳をとると月日の経つのが早いと感じる」と、周りの歳をとった人は誰もがいい、やはり歳をとったのか私もそう思うこの頃です。退職して8年間があっという間に過ぎ去り、いよいよ9年目に突入です。過ぎ越した退職後の8年は、総括するまでもなくそれなりに充実し、自分で納得のいくそれなりの進化を続けているので悔いはありませんが、今一度これからの生き方を微調整して、しっかりとした足取りに変えて行く必要にも迫られています。それというのもこの8年間は、人間牧場の建設やそれらを使った活動に明け暮れました。ある意味したいことをしてきたのですが、今は残念ながらしたいことが余り見つからなくなっているのです。それは年齢から来る諦めにも似た「思っても出来る訳がない」とか、「資金をどうする」といった気持ちが先に立って、躊躇してしまう消極的な生き方に他ならないのです。

わが家から見える夕日
わが家から見える夕日

 この8年間、目標どおり人間牧場を整備し、目標どおり自著本「夕日徒然草」を五冊出版し、150話の落伍もできるようになりました。またブログも1日2本をほぼ完璧に執筆しています。自著本の販売収益も自転車操業ながら確実にストックして、人間牧場の運営や再投資に当てていますが、次の目標が見えてこないのです。目標喪失は生きていく上で致命傷です。特に歳を重ねつつあるこれからは、手の届きうる目標を持たねば、生きる意味さえ失うような感じがするのです。 そんな焦燥感もあって、この最近夕日がわが家から見える時期になったこともあって、私の原点である夕日に救いを求めるべく、夕日を見る機会を持つようにしています。庭先から、裏山から、私設公民館煙会所の窓から、様々な夕日を見ています。この頃の夕日は日脚も長くなって、好天にも恵まれ綺麗な夕日を存分に楽しんでいますが、昨日自分の影が煙会所の外壁に映し出されたのを見て「ドキッ」としました。

私設公民館煙会所の板壁に映った私の影
私設公民館煙会所の板壁に映った私の影

 何年か前、永六輔さんからいただいたハガキに「夕日はどこかの朝日」と書かれたのを見て、「ドキッ」とした時と同じ衝撃です。夕日を夕日としてしか捉えられていなかった私を、目覚めさせてくれたこの一枚のハガキは、私に「地球は丸い」「夕日も朝日も同じ太陽」であることを悟らせてくれたのです。発想はちょっとしたきっかけで潜在能力を顕在化させます。NHKテレビ「明るい農村」の取材にやって来たディレクターの、「ここの夕日は綺麗」といった一言が、私の潜在能力を顕在化させ、私の価値観を根本から突き崩しました。
 煙会所の板壁に映った私の影を見てどうやら、これからの生き方に少し光が見えてきたような感じがしました。かく思うきっかけとなった永六輔さんも、あれ程マルチ人間と言われて大活躍をしながら、寄る年並みには勝てず、アルツハイマーを発症していると聞きます。老いは他人事ではなく自分のことなので、しっかりと生きて行きたいと思った出来事でした。

  「退職後 早九年目 迎えたが どこかモヤモヤ している自分」

  「煙会所 板壁照らす 夕日受け 自分の影に ハッと驚く」

  「そういえば 永六輔さん さえ歳を とって病気に なるのですから」

  「もう一度 ネジ巻き戻し 生きようと 自分の影が 教えてくれる」

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人間牧場

〇甘夏みかんの美味しい季節になりました

 わが家の家庭菜園は、果樹園と菜園に概ね分かれていますが、果樹園の殆どは南国四国愛媛らしく殆どが柑橘類です。その中でも殆どは甘夏みかんで、大袈裟な表現をすれば甘夏みかんは一年中実をならせていて、シーズンを過ぎた今でも、樹上に実をつけたままなのです。木に大きな負担がかかるから早く摘み取った方がいいのでしょうが、毎年のことなので気にも留めず、今年も例年と同じように、沢山の黄色い実をつけて、食べてもらう日を待っているのです。
 わが家の甘夏みかんは消毒も一切しないいわゆる無消毒、無肥料果樹なので、この時期になると親類縁者から皮をマーマレードに加工するので欲しいと引、き合いが来ます。その都度収穫してお裾分けをしています。

キャリーで収穫した甘夏みかん
キャリーで収穫した甘夏みかん

 昨日は天気予報で雨だと聞いていたので、前日の夕方収穫用の20キロキャリーを倉庫から取り出し、5箱ほど収穫して東屋へ置いておきました。これは贈答用にするためです。昨日は予報どおり朝から雨だったので、農協へ10kg段ボールを買いに行き、帰宅後箱詰めをしました。とりあえず香川県や北海道、広島県、京都府の友人にUパック便で送ることにして、宛名書きをしました。毎年のことなので相手先からは「もうそろそろ甘夏みかんの美味しい季節ですね」と催促のメールが入っているため、顔々を思い出しながら書きました。早速雨に濡らさないよう軽四トラックの助手席に乗せ、郵便局の窓口へ運びました。わが家は個人としては大口の宅配便利用者なので、郵便局も心得ていて早速手押し車で仲間で運んでくれるサービスぶりでした。

鈴なりの甘夏みかん(孫尚樹)
鈴なりの甘夏みかん(孫尚樹)

 多分今日か明日には届くのでしょうが、甘夏みかんは少々酸っぱさが売り物だけに、果てして口に会うかどうか心配していますし、皮をマーマレードにする生活の智恵を持ち合わせているかも、気がかりなところですが、まあそれもこれも相手次第なので、しっかり食べて欲しいと願っています。
 昨日はついでに少々雨に濡れながら、漁協女性部じゃこ天のお店で働く人たちにもお裾分けしようと、キャリー一箱を持って行きました。いつものことながら大層喜んでもらい、帰りにつみれのお土産までいただき、藁しべ長者となりました。
 わが家でも妻がテレビを見ながら甘夏みかんの皮を剥ぎ、タッパに入れて冷蔵庫で冷やしてくれているので、このところはおやつ代わりに甘夏みかんを食べています。ビタミンCたっぷりで美味しいですよ。

 

 

 

 

 

 

  「自家製の 甘夏みかん お裾分け 全国仲間 Uパック便にて」

  「無農薬 聞こえはいいが 世話しない ただそれだけで 価値が高まる」

  「このころは 妻の皮剥ぐ 甘夏を おやつ代わりに 食べて健康」

  「剥いた皮 マーマレードに 再利用 これが美味しい パンのお供に」

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人間牧場

 〇10個に増えた蜜蜂巣箱

 蜜蜂の師匠井上登さんのご指導とご協力で、今年も遅ればせながら蜜蝋塗りと、キンリョウヘン設置を終えました。今年は空いた巣箱を入りそうな場所へ少し移動したため、ハテさてどうなるか心

配していますが、数えてみると巣箱は人間牧場に6個、家の裏山に4個と、何と何とこの5年間で合計10個にもなっているのです。先日蜜蜂が冬越した巣箱の底板をヘラで掃除をしていて、ゴム手袋の隙間から入りこんだ蜜蜂に右手の平を刺されてしまいました。早速アロエの葉っぱをちぎって塗りこんだお陰で、大事には至りませんでしたが、今年最初の難儀で、今年の養蜂もかなりの苦労するだろうと予想をしました。

人間牧場巣箱1号
人間牧場巣箱1号
巣箱2号
巣箱2号
巣箱3号
巣箱3号

 この時期は人間牧場も裏山も、一番草を刈る作業が既に始まっていますが、その都度楽しみで巣箱の観察を続けています。私の昨年までの卓上カレンダーの日々のスケジュール末尾に、「人間牧場草刈り」「インゲン種蒔き」などと農作業メモを簡単に書いていますが、この5年間の卓上カレンダーを見てみる

巣箱4号
巣箱4号

と、どうやら巣箱への蜜蜂の入居は、連休あたりに集中しているようなのです。最近は蜜蝋塗りとキンリョウヘン設置を一緒にしえてもらっているので、この時期に集中したのかも知れません。今年は冬の寒さが厳しく、4月に入ってからも肌寒い日が続いて、蜜蜂の活動が今一活発になりませんでした。ところがこの三連休には肌着一枚違うほど気温が上がり、各地から夏日観測の話題が届くようになり、蜜蜂の活動が一気に加速し始めました。

巣箱5号
巣箱5号
巣箱6号
巣箱6号

 連休初日に広島県府中町から、人間牧場へ視察にやって来た人を案内した折、巣箱2号の入口に蜂球(蜂が分蜂して丸くなる現象)を発見、視察の人に悪いと思いましたが、防虫ネットを被りゴム手袋をして蜂玉を巣箱の中に入れる作業をしました。お陰様で何とか巣箱の中へ入ったようです。
  昨日の時点で人間牧場1号巣箱(昨年秋から入居して越冬)、巣箱2号(4月27日入居)、巣箱3号(4月27日入居)、巣箱4号(昨年秋から入居して越冬)、巣箱5合(4月27日入居)、巣箱6号(今のところ空き家)、裏山巣箱7号(昨年秋から入居して越冬)、巣箱8号(今のところ空き家)、巣箱9号(昨年秋から入居して越冬)、巣箱10号(4月27日入居)と、8箱入居、2箱空き家となっていますが、連休の陽気で空き家の解消を期待しているところです。今年も蜂蜜の収穫を大いに期待したいものです。

 

裏山巣箱7号
裏山巣箱7号
巣箱8号
巣箱8号

  「気がつけば 蜜蜂巣箱 10になる 今年も期待 蜂蜜収穫」

  「温かく なりて蜜蜂 活発に 既に八箱 入居確認」

  「どの箱も 違う集団 女王蜂 箱の中では 壮絶営み」

  「朝食に 蜂蜜かけて パンを食べ 蜂の苦労を 偲びながらも」

巣箱9号
巣箱9号
巣箱10号
巣箱10号

 

 

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人間牧場

〇久しぶりの結婚式

 昨日は既に他界している親父の弟の息子、つまり私の父方の従兄弟~結婚式の案内状が届き、夫婦揃って出かけました。私などは結婚式に出かけるといっても式服を着ればいい程度なので、別に緊張もせず準備もないのですが、妻は歳をとっても一応女性ですからそういう訳にも行かず、数日前から祝儀袋を準備したり、着て行く服をどれにしようか、随分迷っていたようです。「お前なんか見ている人は一人もおらん」と冗談を飛ばしていましたが、妻は一週間前こっそり美容院へ出かけて少し髪形を綺麗にしたようで、いつになく妻が綺麗に見えました(笑い)。いよいよ当日となるとゴールデンウィークで泊まりに来ていた娘家族の世話等の煩雑もあって、妻は朝から落ち着かないのかそわそわしていました。
 結婚式は午後3時30分から、披露宴は午後4時30分からなので、会場となっている松山市梅津寺の迎賓館までは1時間30分もあれば十分着くだろうと逆算し、妻に「家を出るのは午後1時40分頃」と伝えていました。私は午前中岡山県から視察者が来るため午前9時にお客さんを案内して人間牧場界隈を見せ、11時には自宅へ帰りました。手持ち無沙汰なので、11時から草刈機を取り出して家の裏山の草を1時間ばかり刈りました。お陰で裏山はすっかり綺麗になりました。

 これを見ていた妻は、私の行動が余りにも日常的過ぎるので「羨ましい」と舌を巻いていました。それというのも前日従兄弟から、結婚披露宴で一言挨拶をして欲しいと電話連絡があったのです。結婚する当事者の息子さんから届いた案内状を封を切り見ましたが、その中に「当日一言ご挨拶を」と書いたメモが入っていたようなのですが、私はそのメモを完全に見落としていたのです。普通の人であれば大騒動といったところでしょうが、私にはよくある話なので快く引き受け、即興での挨拶をしようと、新郎の名前と新婦の姓や名前だけを頭の中に入れて、何を思ったのかギノー味噌さんから一昨日いただいていた麦味噌300gの袋を手提げ袋に入れただけで出かけたのです。同行する妻は私が挨拶をすることも少し気になっていたようでしたが、アドリブで挨拶が出来る私を信じているようでした。

 予定通り家を出て、予定通り梅津寺の会場へ到着しました、受付を済ませ新郎親族の控室でお茶を飲みながら時間を待ちました。やがてチャペルで式が始まりました。式場は海を見下ろす素敵なシチュエーションの高台にあって、式が始まり賛美歌が流れ始めると祭壇の後のカーテンが自動で開き、参列者から感嘆の声が聴こえました。いやはや驚きでした。
 披露宴は新郎の勤めの関係で北海道帯広に新居を構えているため、前撮りができなかったのか、結婚披露宴にしては珍しく30分ばかり遅れてのスタートでした。その間会場では飲み物が振舞われみんな思い思いにビールやワインを飲んでいました。私たち夫婦の座ったテーブルは新郎の親父の友だちが占めていて、かなりハイペースでかなりのアルコールが消費され、盛り上がっていました。
 私もかつては537組もの結婚式の司会をやり、仲人も10組ほどしていますし、親類縁者の結婚式にも数多く参列していますが、今時の結婚式は70人ほどのこじんまりした披露宴で、披露宴の流れも厳かな非日常でなく柔らかい雰囲気の日常的なものでした。

結婚式場
結婚式場
愛を誓う新郎新婦
愛を誓う新郎新婦
披露宴
披露宴

 披露宴開始の時間が夕暮れ時だったため、披露宴がお開きになったのは3時間後の午後7時30分になり、帰宅したのは午後9時近くになっていました。私の主賓としてのあいさつもギノー味噌のお味噌を使い、五つの袋(月給袋・智恵袋・堪忍袋・子袋・胃袋)の話を入れながら、自分としてはアドリブながらまず

中庭プール際での風船飛ばし
中庭プール際での風船飛ばし
お開きの挨拶
お開きの挨拶

まずの出来栄えだったように思うのです。妻も少しだけ「良かった」と誉めてくれました。
 新郎はわが長男息子と同級生で、今年の12月には40歳になるという晩婚だけに、両親の喜びの姿がとても印象的でした。帰宅途中「お父さん、わが家もまだ2人の息子が未婚なので気がかりねえ」と、幾つになっても心配の種の尽きない親心を覗かせていました。

  「久方に 夫婦揃って 披露宴 今風流れ 驚きながら」

  「わが息子 二人未婚と 嘆く妻 いつまで経っても 親の悩みは」

  「同席の 人たち元気 ウコン飲み 酒量相当 羨ましいなあ」

  「アドリブで 挨拶やった ギノー味噌 ここで一役 社長に報告」

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人間牧場

〇ギノー味噌株式会社創業60周年記念式典(その2)

 式典は2部構成でした。午前10時から始まった第1部は田中正志社長のあいさつでした。日ごろはお互い色々な四方山話をしているのですが、社長の話をじっくり聞くのはこれが初めてのような気がするのです。社長は話がお上手なので自分自身の生き方、自分と会社の関係、自分と会長の関係、自分を育ててくれた人との関係、未来戦略等を「人生の6つの節目」と題して30分ばかり思いのたけを話されました。
 社長は子どものころどもりの癖があったそうです。その克服が自分との戦いの始まりだったようで、流暢なレクチャーからは想像もつかないだけに相当努力したようで、そのひた向きさが社長の人生観の基底にあると思いました。

挨拶に立った田中正志社長さん
挨拶に立った田中正志社長さん

 社長を子どものころから後継者といい続けて厳しく育てた創業者会長との確執も、見逃す訳には行きません。愛情と理性は親子にとって時には相反するものとなるものです。幾度もあった反抗期や親に対する多くの反感・反目を、乗り越えたからこそ、今の会長への思慕があるものと、その親子の苦労を垣間見るのです。
 味噌に雑菌が入り酸っぱくなる挫折で会社の危機にも直面したし、味噌の会社がドレッシングまで手掛ける総合食品メーカーに成長するプロセスも、新旧の壮絶なバトルがあったものと推察されますが、持ち前のパワフルな行動力とアイディアでそれらを乗り越え、今日の繁栄を築かれた親子や社員の努力は、まさに60周年還暦に相応しいドラマのようでした。

 私とギノー味噌との関係は突然やって来ました。もう昔のことなので定かではありませんが、風呂の好きな私が元気人村で風呂にに入っていると、会長さんを連れて温泉を楽しむ社長に出会いました。会長さんの顔も社長さんも顔を知っていたし、社長の奥さんが丸山町長さんの娘さんであることも知っていたので、サウナの中で急速に大接近し、色々なことを話しました。まさに裸の付き合いが始まったのです。その後ドレッシングの開発や販売の相談に乗るようになり、何度も作戦会議を繰り返しました。社長はまるでメモ魔で、人の話を聞いたら必ずメモを取るのです。私のようなものの話にも熱心に耳を傾け沢山のメモを取っていたようですが、私の話など役に立ったかどうかは分かりませんが、社長はこの日の挨拶で私のことも話していただき、恐縮してしまいました。

 私はある時社長にお願いし、私の名刺の裏にギノー味噌の広告を出してはどうかと提案しました。勿論名刺の印刷代は会社で持って欲しいと、虫のいいことを話したところ、すんなりOKが出ました。私は親友で年輪塾塾頭の清水さんに相談してデザインを起こしてもらい、今治の村上太さんに印刷を頼み、かくして予にも珍しい「裏が味噌」という、人を食っようなた名刺が出来上がり、以来今日まで毎年約10箱千枚の名刺を全国講演行脚の徒然に、地域づくりの現場で配り続けているのです。最近は社長に100gの伊予の麦味噌パックを作ってもらい、講演先で名刺とともに参加者に配るという荒業まで登場して、私の巷ではギノー味噌を知らない人はないほどのPR効果を産んでいます。これは商売の鉄則である「損をして得を取る」作戦なのです。ギノー味噌はいまや私の手の届くような会社ではなく、コマーシャルも沢山流すほどの大きな会社ですが、ささやかな草の根の名刺と、100g味噌を使った作戦もまた、大きな効果を産んでいるものと確信しています。(この続きその3は、明日の朝のアメーバブログ「shin-1さんの日記」で紹介します。お楽しみに・・・・)

  「60年 会社還暦 凄いなあ 社長の話 時々涙」

  「裏が味噌 名刺に加え 味噌パック 携え全国 草の根行脚」

  「もし町長 生きていたなら 今日の日を 喜ぶだろうと 在りし日の顔」

  「末席を 汚したゆえに 少しだけ 恩を返して 役立つ決意」

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人間牧場

〇玄関先の雨漏り

 一昨日の朝仕事に出かける前に息子が、玄関先の天井が濡れているのを目敏く見つけ、「お父さん雨漏りがしている!」と書斎へ私も呼びに来ました。息子に促されて玄関先の天井を見ると、まるで孫が布団に寝小便したように濡れていました。明らかに雨漏りです。前日の雨は春の雨としては、かなり激しかったので雨漏りしたようですが、原因を調べて直さなければなるまいと、近所に住む佐官業を営む従兄弟の家に出かけました。あいにく仕事に出かけて留守だったので、奥さんにそのことを伝え、見に来てもらうように頼みました。

屋根の上で応急修理をする従兄弟の左官さん
屋根の上で応急修理をする従兄弟の左官さん

 昨日の夕方仕事から帰ったという従兄弟は、軽四トラックに梯子や七つ道具を積んでやって来ました。梯子をかけて玄関先の屋根に上がりあちこと見ていましたが、やがて瓦と瓦の谷になっているところにある銅版が腐食して穴がいていることを見つけたようで、とりあえず応急処置のためガムテープやコーティング材を持って再び屋根に上がりました。「ガムテープで雨漏りの応急処置ができるの?」と問いかければ、これが一番とばかりに自信を持った答えが返ってきました。いやはや驚きでしたが屋根の草を抜いたり、もう一方の谷の銅版にも穴が見つかったので補修したと、20分ほどで作業を終わり降りてきました。

 左官さんの言うのには、この家も新築して早40年が経っているので、銅版が腐食しているのは当然だとのことでした。銅版を替えるには屋根をはぎ、痛んだ瓦を替えなければならないので、仕事の段取りが終るまで、本格的な修理はお預けのようでしたが、いやはやまた出費かと諦めながら、少し落胆してしまいました。
 記憶によるとわが家を新築したのは、今から37年前の昭和51年でした。その頃は私も親父も元気で、わが家には家を新築する活気がみなぎっていました。あれから37年はあっという間だったような気もしますが、37年の時の流れは家の屋根と同じようにいつの間にか、私や親父も劣化し、元気を奪っているようでした。

 一昨年息子たちが同居するため、家は一大リフォーム工事をしました。その折玄関先のリフォームだけは費用の関係で先延ばしにしていたのですが、雨漏りの修理と合わせてこの際玄関の工事もしなければならないことを、わが家の大蔵大臣である妻に告げると、年金暮らしの故なのか、少し憂鬱になったと漏らしていました。家を風雪に耐えて守るということは容易ではありません。税金や高熱水費は勿論のこと、こうして突発的な破損が起こると、ただでさえ少ない預金は更に目減りして、将来への不安が募るのです。「まあ何とかなるでしょう」と、踏ん切りの言葉を返してくれた妻のみが頼りです。息子等「お父さん、雨漏りがしている」と言うだけで、何にもしないのですから安気なものです。

  「雨漏りが してると息子 呼びに来る まるで小便 しているように」

  「四十年 経てばあちこち 老朽化 私と親父 同じ憂き目に」

  「雨漏りを 見つけた息子 威張ってる 金を出すのは 親父ですから」

  「また出費 年金暮らしの 老夫婦 憂鬱なりて 天井見上げ」

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人間牧場

 

書棚の前で話す私
書棚の前で話す私(その後書棚は本で一杯になりました)

〇本に囲まれた知的空間の中で

 人間牧場の壁面に備え付けの大きな書棚があります。人間牧場を造る構想を練っていた頃、自分の書斎の蔵書を人間牧場へ移動することを考えました。それというのも35年間の役場での仕事の合間を見つけて買ったり貰ったりした多くの本に、埋もれるように日々を暮らし、手狭になっていたし、妻から本の整理を再三再四注意されていたこともあって、一度ゼロに戻したいとの思いもあったのです。水平線の家の設計を頼んだ長男息子と、新築工事を頼んだ大工さんに相談し、3間もある長い4段の書棚を作ることにしたのです。かくして集成材の広い板で書棚は目論見通り出来上がりました。さあ本類の大移動です。暇を見つけてみかん収穫用のキャリーに本を無造作に入れ、軽四トラックに積んで何回か家と人間牧場を往復し何とか運び終えました。本をキャリーに入れる度、本を書棚に並べる度に手にとって、手に入れたり読んだ日々が懐かしく、中々仕事ははかどりませんでしたが、やっとの思いでそれなりに片付けることができました。

 可笑しいもので、それまでただだだっ広いだけだった水平線の家は、片方の壁面書棚に本が並んだだけで、すっかり知的空間に生まれ変わったのです。以来重要な本以外は読めばまとめて水平線の家へ運ぶように心がけているため、書斎の私の書棚はすっかり片付き、逆に最近は息子の蔵書が私の書棚を横取りされているようです。私が人間牧場の中心施設として水平線の家を思いついたのは、前面北側に張り出したウッドデッキに背もたれ椅子を運び、その背もたれ椅子に寝転んで風のささやきや小鳥の鳴き声を聞きながら、本を読んだり寝転んで昼寝を貪りたいという思いもあってのことなのです。今は忙し過ぎてその夢は必ずしも実現してはいませんが、時々人間牧場へ出かけて農作業をした後、休憩を兼ねてその夢を味わっているのです。
 書棚に収まっている本の中には、読み始めたのに途中で止めていたものや、読んだ記憶が薄れているものも沢山あって再読をしていますが、歳ゆえの曖昧な記憶ゆえ、再読は死ぬまで続くものと思われます。

 水平線の家の北側は、自慢の観音開きの大きな窓がありますが、窓ガラスにUVカットの加工をしていないため、紫外線が入って直接陽は当たらないものの、天然紫外線の影響で本は日焼けして、変色しているものも多いようです。まあ変色しても文字が消えるほどではないので、私の寿命であるあと20年くらい読めればいいので、気にすることもなく、カーテン類を取り付けずに放置しているのです。
 そんな書棚の中から「決断の時」という一冊の本を見つけました。非売品なので誰かからプレゼントされたものと思われますが、「決断を迫られた時に読む本」というリード文に誘われて速読をしました。有名な人のショートな言葉が座右の銘的に沢山か書かれていました。何の変哲もない退職後の余生を生きている私のような人間でも、毎日多かれ少なかれ決断をして生きています。在職中のような胃が痛くなるほどの大きな決断はありませんが、それでも「はてどっちの道を行こうか?」とか、「何をしようか?」と迷っている時、おおいに参考になる言葉が沢山載っていました。
 本の最後のページに「面白いな。どこに座っているかによって、物事は見え方が違うからな。」、これはボーン・アルティメイタムという映画に出てくるCIA幹部ノア・ヴォーゼンの言葉だそうです。同じ事柄でも、どこから見るかによって異なってきますが、そのことには中々気がつかないものです。建国200年のアメリカで見た、世界地図の真ん中に日本のない世界地図」のことを思い出しました。

  「凡人を 自認の私 牧場の 知的空間 それなり学ぶ」

  「読んだはず だけど忘れて 再読を 新し発見 またまた一つ」

  「書棚には 私のブログ 殆どを プリントアウトし 一角占める」

  「いつの間に 書斎の周り 本だらけ 草々移動 せねばなるまい」

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人間牧場

〇松前北公民館へ出かけました

 昨日の夕方、松前町北公民館へ講演に招かれ出かけました。私への講演依頼は私のホームページを見て縁も所縁もないのにメールで打診されたり、私の話を聞いた人からの口コミだったりしますが、圧倒的に多いのは仲間の紹介や依頼が多いようです。昨夕の北公民館は3年前までわが町の翠小学校の校長先生をしていた和田由美子先生が退職後、北公民館の館長に就任したため、あれやこれやのご縁でもう3回もお招きを受けているのです。元学校の先生だったり役所の職員だった人の中にはこうして和田先生のように、第2の人生を地域に貢献している人もいますが、まるで過去のことを忘れたように、何もしないばかりか現職の頃に頭を下げ続けた腹いせのように、クレーマーになり下がっている人もいるようです。

 和田先生はまるで宝塚のスターを思わせるような風貌の人ですが、やることなすこと全て男性には負けないパワフルさで、北公民館エリアに住む人たち誰に聞いても、高感度を持たれていて、退職後も何かとご縁を保ち、わが町の子ども体験塾のスタッフにも名前を連ね、昨年人間牧場で開かれた収穫祭には、水本先生を誘って参加、大いに活躍をしてくれたのです。
 昨日は北公民館の平成25年度最初の分館役員・愛護部役員研修会に80人近くの人が集まっていました。演題を「地域づくりの新しい風」としていましたが、役員研修ということもあって、公民館で手に入れたい5つの道具についてまず話しました。これはかつて私が青年団で手に入れた①仲間、②ふるさと、③主張、④感動心、⑤夢という5つの道具です。この5つは今も私の大きな心の財産であり、場と機会という砥石で研き続け使っているのです。

講演が終わってホッと一息の研修会場
講演が終わってホッと一息の研修会場

 公民館に人が集まる理由は、①幸せになりたい、②お金持ちになりたい、③健康で長生きがしたい、④望みを叶えたいという概ね4つで、もし公民館でその願望が叶うのであれば人は集まって来るのです。結局公民館は自分探しや、自分らしく生きたいと願う人たちへのプレゼントコーナーなのです。自分の潜在能力を膨らませ、潜在能力を顕在化する学習こそ公民館の命だともお話をしました。
 夜7時30分から1時間の講演途中、話が佳境に入った頃、突然講演を中断するハプニングに見舞われました。公民館の研修会に参加している人たちの駐車した車が、中学校体育館でスポーツをする人たちの道をふさいでいるので、どけて欲しいとの会場放送のためでした。止めるか中断して待つか、そのまま続けるか迷いましたが、時間の制約もあって、20時30分の閉会時間だけは守らねばという思いから、続行させてもらいましたが、少し後味が残りました。

 ふと何年か前、ある山村の高齢者大学に呼ばれた折、講演途中に会場の中ほどから水戸黄門のテーマソングが流れ始めました。あるおばあちゃんの巾着の中に入れていた、携帯電話の着信音でした。会場の目と耳は私から離れ、携帯音に集中しざわつきました。こんなハプニングは今ま、で経験していなかったので驚きましたが、それを元に戻す術を心得ている百戦錬磨の私は、電磁波の話にすり替え、「ポケットに携帯電話を入れていたら、電磁波が精子や卵子に悪さをして、奇形児ができるといわれていますが、今日お集まりの人には何ら関係のない話です」と爆笑を誘い、いつになく盛り上がった講演会での出来事を思い出しました。
 人は人によりて人となります。和田先生との出会いはこれからも続くことでしょうが、次に会うまでにもっともっと進化しておかねばと思いました。それは講演に先立った私の紹介で和田先生は、「若松さんはいつ寝るのでしょう?」「若松さんの発想はどこから生まれるのでしょう?」「若松さんの脳の中を何色なのでしょう?」という3つの問いかけでした。答えは後ほど・・・・・。

  「講演が 佳境に入った 突然に 中断されて 多少戸惑う」

  「ハプニング よくあることと 心する 乗り越える術 これも実力」

  「朝四時に 起きて寝るのは 十二時と 毎日四時間 これで十分」

  「人に会い 人に教えて もらいつつ 六十八年 何とかここまで」

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