人間牧場

〇これからいかに生きるか

 この2日間ほど地域教育実践交流集会に参加して、多くの人と出会う中で、色々と考えさせられたり、気が付いたことがいっぱいありました。私は今でも「若い!!」と思っているし、「まだまだ私の力だって世間に通用する」と思ってみたりもしますが、気がつけば私も早71歳になりました。これまでは人生の折々に、潮目潮時を周りの状況から推し量り、引いたり進んだりしながらそれなりに振る舞って来ましたが、今やっている活動をどこで辞めるか、そろそろ考えなければならない新たな潮目潮時が来たようです。

 宗教学者の山折哲夫さんが、人間は①身銭を切る、②権限を委譲する、③出前をすることの三つが必要だと説いています。この三つはむしろ定年を迎え第一線を退いた人への警鐘でもあるような気がするのです。世の中には金を出さず口を出し、義務をやらずに権利を主張する人が余りにも多過ぎます。第一線を退けば給料収入は断たれますが、少ないといいながら行き届いた社会保障のお蔭で年金も入り、それなりに食べていけるのですから、多少身銭を切って多少でも社会や人様のお役に立つことをするのは当然のことなのです。

 権限を次なる人に委譲することも考えなければなりません。そのためには何を誰に譲るかが問題です。私は多くの人に育てられて今日まで生きてきました。今私があるのはその人のお蔭であることは言うまでもありませんが、ふと「私は一体誰を育ててきたのだろう?」と振り返れば、譲るものもないわが身と、育てた人の少なさに心が痛むのです。自分が育てたような顔をしていますが、私の近くにいる後継者と目される人たちは、自らの能力と他人の力によって育っているので、私の育てた人は皆無に等しいのです。今からでは遅きに失して間に合わず、「ああ~あ」って感じです。

 出前は私の一番得意とするところなので、体力・知力・気力を鍛えつつ、ほぼ毎日幸せのセールスマンとして、木になるカバンを持ちながら出歩いています。最近は愛大名誉教授の讃岐先生からいただいた二宮金次郎の銅像と同行二人の旅を続けて、中国の古書「大学」の本をカバン偲ばせ、大学の真髄を若輩ながら伝道しています。残された健康寿命を「これからいかに生きるか」、わが家の玄関先に飾っている種田山頭火の「何を求める風の中ゆく」という句を反芻している昨今です。

  「まだ若い もうそろそろが 喧嘩する これを潮目と 言うのだろうか?」

  「身銭切る 覚悟で人間 牧場を 造ったけれど まだまだ至らず」

  「後見りゃ バトン受け取る 人もなし 俺は一体 何をしたのか?」

  「疑問符が ???と 果てしなく 続いて首を うなだれ生きる」 

 

 

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人間牧場

〇地域教育実践交流集会こぼれ話(その1)

 交流集会の楽しみは何といっても夕食を兼ねた食談交流会です。国立、しかも青少年施設といえば、朝の集い・夕べの集いはあるし、時間に縛られた型にはまったものと考えがちですが、どうしてどうして最近の国立青少年の家は、頼めば食事も豪華だし、お酒だって飲めるのですから、昔の型苦しい時代を知っている人間にしてみれば、まるで天国のよな感じがするのです。人に隠れて持ち込んだお酒を暗がりで、息を凝らしたようにして仲間と呑みながら交流した昔も、懐かしく思い出されました。

セリ市1

競り市をする私
競り市をする私

 一泊二日の今回の交流集会は、一日目の分散会が終った夜、お楽しみの食談交流会が持たれました。呑むほどに酔うほどに賑やかな交流の輪が幾つもあちこちに出来て、楽しいひと時を過ごしました。興が乗ったところでお国自慢かくし芸や恒例の競り市が始まりました。呼び物は全国から集まった人たちが持ち寄った手土産を、みんながせり落とすセリ市です。松本さん、中尾さん、灘岡さんに赤石さんも加わり、私がセリ人になり、みんなに押し売りするのですが、お酒に酔った参加者は金銭感覚が完全に麻痺していて、セリ人の思う壺な術中にはまってしまうのです。

 その様子はセリ人である私からみると可笑しくて、勿論参加者も結構楽しんでくれました。お酒類、お菓子類、果物類、小物類、お土産類などなど、持参物も様々です。中には学校で廃棄処分になったスチール製の机や椅子まであり、お目当ての品を、「500円!!」「千円!!」と叫びながら寄付のような気持ちでセリ落としてくれました。その金額は積り積もって、何と4万7千円余にもなったというから驚きです。今回は食談交流会に参加した人が200人近くとなり、マイクが会場の隅々まで通らない恨みもあって、少し残念な気もしましたが、まあ余興ですので・・・。

  「酒も出て 娑婆と変らぬ 雰囲気に みんな酔い知れ 時経つ忘れ」

  「これなんぼ!! セリ人私 勇ましく 売った買ったで 活況呈す」

   「誰よりも セリ人私 悦に入る 財布と口を 大きく開けさせ」

  「毎年の ことだがこれが 楽しみと 言う人ありて 年末恒例」 

 

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人間牧場

○大洲青少年交流の家で朝を迎えました

 昨晩は夜遅くまで交流会が行われ、多くの人と交流したので持参した裏が味噌の100枚の名刺が空になりました。久しぶりの快挙?です。まあこれもご愛嬌でしょうか。昨日は県内県外の多くの人たちと一年ぶりに出会い旧交を温めました。サンデー毎日の私ですが、まだ多少賞味期限が残っているようで、今日もない知恵を絞ってインタビューダイアローグのインタビュアーをやる予定です。

 ここ大洲青少年交流の家は思い出の多い場所で、私が愛媛県青年団連合会長の時、この場所へ青年の家を誘致したり、今も運営委員会の末席を汚していたり、丸木舟事件、切り株事件など思い出はつきません。さあ今日も腕まくりして頑張りましょうか。
 今朝は午前4時過ぎに目を覚まし、ブログを2本書いたあと、思い切って戸外へ出て青少年交流の家の下にある結婚式場マリエールまで往復1時間、たった一人でウォーキングを楽しみました。お陰様で一日一万歩の目標を今日も達成することが出来ました。
 (国立大洲青少年交流の家にて)

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人間牧場

〇突風が吹き水瓶割れる被害

 「日本の将来はどうなるのだろう?」と、最近の政情や世情を見て思うのは私ひとりではないと思います。「そんなことは私の責任ではなく、そんな暇があったらもっとやるべきことがあるだろう」と言われそうですが、それでも私たちの住んでいる地方に押し寄せて来る過疎化や高齢化、少子化、産業衰退などの現状を見ると、とても他人事とは思えず、自治体の反応の鈍さも気になりながら、苛立っているというのが正直なところです。

壊れた傘立て用の水瓶
壊れた傘立て用の水瓶

 さらに輪をかけて心配なのは、近頃の天候不順です。3・11の東日本大震災が起こって以来、地震・雷・火事・親父ならぬ地震・津波に加えて火山・風水害の度重なる発生は、地球温暖化やエルニーニョ現象の結果であると、科学的には解明されていても、身近に迫る不安がいつも黒い影となってつきまとって、不安に駆られています。そんな折、この2日間は北西の季節風くらいに思っていたのに、かなり激しい雨風に見舞われました。

 昨日の朝方大風が雨戸を叩き、その内何かが倒れたような「ドシャーン」という大きな物音に、家族全員が飛び起きました。また夜が明けきらず危険だし、強い風雨のため日課のウォーキングにも出かけられず、確認しないままにしていましたが、夜が明けて玄関先に出てみると、傘立てに使っていた大きな水瓶が、強風でひっくり返り無残にも粉々に割れていました。私と親父が大事にしていた水瓶だけに、傘立てに使っていた罰が当たったのだと深く深く反省しました。

 雨風が止むのを待って割れた水瓶の欠片を片付けましたが、昨日は今日から二日間の日程で始まる愛媛地域教育実践交流集会の準備のため、海岸国道を走った折、海は大時化で存分に潮水を被ってしまいました。低気圧が発達し大雪や大風の被害が出た東北や北海道ほどではありませんが、今年の晩秋は暖かい穏やか日が続いていただけに、本格的な冬の到来や時ならぬ気象異変に、身も心も縮みっぱなしです。まだまだ季節は冬の入口です。春は遠いなあと思った水瓶壊れ事件でした。

  「夜が明けて 玄関先に 出てみると 傘立て水瓶 木っ端微塵に」

  「水瓶を 傘立てなどに 使うから 罰が当たった 深く反省」

  「海岸の 国道走り 潮水を シャワーの如く 浴びて潮抜き」

  「歳のせい? 何やかにやが 気になって ウトウトしたり 思いにふける」

 

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人間牧場

〇コンニャクの芋掘り

 昨日は人間牧場へ韓国から視察団がやって来るというので、少し早めに人間牧場へ出かけました。掃除や薪ストーブに火入れしたあと、時間があって手持ち無佐多だったので、落ち葉ストッカー横の畑に植えている、コンニャク芋の芋掘りをしました。夏場かなり茂っていたコンニャク芋の茎は跡形もなく枯れ、既に下草が生えているので、下草や落ち葉を綺麗に掃除して、鍬で掘り始めました。畑は夜来の雨で多少ぬかるんでいましたが、気にも留めず芋の在り処を示すため立てていた竹棒を頼りに、芋に傷をつけぬよう注意をしながら掘り進みました。

コンニャク畑
コンニャク畑
収獲したコンニャク芋
収獲したコンニャク芋
こんな大きい芋がありました
こんな大きい芋がありました

 コンニャクイモは早くも春の足音を聞いているのか、芋の天辺には新芽が吹いて、かすかに地上に顔を出していました。掘り上げたコンニャク芋は丁寧に土を払い、用意した横長のキャリーに順次並べて行きましたが、今年は昨年以上に芋の出来がよく、豊作のようでした。1時間余りの作業でキャリーいっぱいのコンニャク芋を掘り上げましたが、腰を痛めないよう慎重に持ち上げ、無事倉庫の中に収納することができました。倉庫の中で冬越しをさせたコンニャク芋は、今年こそ自分で納得するようなコンニャクを作ってみたいと、リベンジに燃えています。

 私は子どものころからコンニャクが好きではありません。グニャグニャしている姿もさることながら、祖母が木灰の上澄みを凝固材に使ってコンニャクを作っていたのを、少し汚らしいと思って見ていたからかも知れません。コンニャクはダイエット食品だし、体内の掃除屋とも呼ばれているから、食べるよういつも妻から勧められていますが、言い訳程度にしか食べないのです。食べない人間が何でコンニャク芋を栽培するのか、これも摩訶不思議なことですが、人間牧場のプログラムにはなくてはならないのでやっています。

 人間牧場の畑は半日蔭の場所が多く、また痩せた赤土がコンニャク栽培に適しているのでしょうか、6~7年前種物屋で買ったピンポン玉大の種芋20個が次第に増えて、今では狭いながら3枚もの畑にまで広がっています。これ以上増やす理由もないのですが、親友西岡さんにも少し芋のお裾分けをしたいと思っているので、暇を見つけて早々に後2枚の畑のコンニャク芋を掘り上げたいと思っています。掘り上げたコンニャク芋は大きいのを使い、小さい子芋は再び地中に植えて増産したいと思っています。

  「コンニャクの 嫌いな私 何故なのか? コンニャク芋を 今年も栽培」

  「土の中 丸々太った 芋が出る 頭にまるで 鬼角のよう」

  「コンニャクの 芋を親友 お裾分け 代わりにもち米 物々交換」

  「この冬は 自分でコンニャク 作りたい 思っているが 不安も多い」

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人間牧場

〇今月の五行歌

 昨日松山五行歌の見山あつこさんから、11月歌会の結果が送られてきました。封を開けると細かい文字がびっしり書かれた報告書が出てきました。私は71歳になりますが目はいい方で、まだ生まれて一度もメガネのお世話になったことがなく、裸眼で新聞が読めるのですからこんな嬉しいことはなく、「顔は悪いが目はいい」などとふざけたことを言って、いつも周囲を笑わせています。さて今月の私の駄作は次のとおりでした。

  ワクワク
  ドキドキ
  ジーン
  ああ
  いい感じ

 講評欄には次のようなことが書かれていました。
 ☆わあっ、どんないいことがあったんでしょう。「ワクワク ドキドキ ジーン」をひっくるめれば、当然「ああ いい感じ」となるのでしょうね。心の動きが素直に出ていて、「いい感じというところがいい感じ」という感想も。こんな感動をいつまでも持っていたいというのが皆の願望です。 言い得て妙なる講評に納得しました。

 ちなみに出席歌一席は永井純子さんの次の歌でした。
  「もういいかい?」
  「まあだだよ」
  遊びも生き方も
  まだまだ
  途中

 ちなみに欠席歌の一席は葵空さんの次の歌でした。 
  いつのまにか
  自分のもののように
  胸を張って
  母の言葉を
  使いこなしている

  「また駄作 にわかに作って メール便 結果は無残 だけど満足」

  「いいじゃない こんな歌でも 思いつき 頭使えば ボケずにすんで」

  「五行歌と いう名の 文芸 嗜んで 人の作品 出会う幸せ」

  「督促の メール驚き 今回も 思いつくまま 指折りつくる」

 

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人間牧場

○柿たわわ

 今年は柿のなり年です。町内のあちこちを歩くと、鈴なりの柿の木に出会います。昔はこれらの柿も全て収穫して食べられていましたが、今は取る人もなく、カラスの餌食となっているようです。

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人間牧場

〇上灘町文化協会広報を読み解く

 私が所属している双海町史談会は、伊予市と合併して双海町という自治体が消滅した直後、有志によって設立されました。会員20人足らずの小さなグループですが、2ヶ月に1回の例会は、忙しさもあって時々止む無く欠席するものの、毎回楽しみにして出席しています。昨日はその例会日で、双海町が昭和30年に誕生する前の、上灘町時代に発刊されていた上灘町文化協会広報を、事務局の中尾先生がコピーして配布し、みんなで雑談交じりで目を通しました。

上灘音頭歌詞
上灘音頭歌詞

 前々回、前回に引き続き今回が最終回で、上灘町の最後となる昭和28年ころの話題でした。当時私はまだ10歳前後だろうと思いますが、戦後の混乱期を脱し成長を遂げつつあるふるさとの現状が時には可笑しく、時には珍しく、また時には真剣な暮らしぶりとして垣間見え、三丁目の夕日にタイムスリップしたような雰囲気でした。知らなかった逸話や秘話も随分あって、私の知的コンテンツが多いに高まりました。この文化協会広報の編集人は、私の恩師古田竹雄さんだったというのも、何か深いご縁を感じるのです。

上灘音頭楽譜
上灘音頭楽譜

 私が中学3年生の時の、下灘中学校の校長先生が古田竹雄先生でした。先生は私が愛媛県立宇和島水産高校を受験する時、私のためにわざわざ校長でありながら私の受験に付き添い引率して、二人で宇和島の丸重という城山の麓の旅館に泊まり、受験をさせてくれたいわば私にとっては大恩人なのです。幸い漁業科に合格し私のバラエティに富んだ人生はスタートしました。先生は晩年不遇にも自宅が火災に遭って、不慮の死を遂げられましたが、この文化度の高さは比類を見ないのです。

 昭和28年9月1日付け第30号に、上灘音頭の顛末が載っていて興味をそそりました。当時の由並小学校長足立邦芳先生が作詞し、愛媛大学の清家嘉寿恵先生が作曲したこともさることながら、この音頭は10番まであることを始めて知りました。役場の職員をしていた頃、上灘出身の職員が酒を呑むと、必ずといっていいほど歌っていたので、私も口ずさむ程度の体感音楽で歌えるのです。折角なのでこの音頭を保存のためスキャンしました。

  「昨晩は 二月一度の 史談会 四方山話 花を咲かせて」

  「あの当時 こんなに高い 文化誌を 作っていたとは 驚きですね」

  「三九の マッチの箱に 検便を 入れた話は 体験している」

  「酒呑むと 上灘音頭 歌ってた 今は私も 体感音楽」

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人間牧場

〇干し柿作り

 今年は柿のなり年で、渋柿は容易に手に入る雲行きでしたが、最近まで好天高温が続き、渋柿を干してもカビが発生して腐らせるかも知れないと、躊躇していましたが、ここに来て北西の季節風が吹き、気温もぐっと下がったことから、先日西条市の壬生川へ講演で出かけた折買った来た渋柿の皮を、若嫁に頼んでピューレで剝いてもらったので、紐でくくり、家の横の雨天洗濯干し場の物干し竿に吊るして干しました。

洗濯干し場に吊るした干し柿
洗濯干し場に吊るした干し柿

 先日親友の稲葉さんが、家族の人数分を干し柿にして2個ずつ吊るしてくれていたのでその隣りに、5百円で買った20個余りを干しました。朝晩の気温もぐっと冷え込んで、風も少しあるようなので、1週間もすれば外側が固くなったのを見計らって、新しい軍手をはめて、揉んで柔らかく仕上げたいと思っていますが、毎年のことながらその見極めが微妙で、早過ぎると表皮が裂け、遅過ぎると固くなってしまうのです。

 今年も西条市丹原に住む佐伯さんはじめ、多くの方々から富有柿を沢山いただきました。私は柿が大好物なので毎日のように、妻に頼んで皮を剝いてもらい、美味しく食べていますが、富有柿よりも干し柿の方がビタミンが豊富な自然食品なので、せいぜいその味を楽しもうと思っています。それにしても自然とは不思議なもので、あの口をゆがめるような渋柿が、天日に干すと何故甘くなるのでしょう。私の頭では到底理解説明ができないのです。

 まあ余り考えるとノイローゼになるのでこの辺で止めますが、干ししいたけといい切干し大根といい、その製造過程で現物にはかなかった栄養素が、ドンドン増えてくるのですから驚きです。ただしそれら全てが手間暇かけないと出来ないうらみもあって、いいこととできることの違いを実感するのです。私は幸せなことに田舎に住み、先祖からそんな手間暇や味を伝承してもらってます。手づくりしたものをお裾分けして喜んでもらえることの喜びも知っています。干し柿の大好きな孫と間もなく、美味い美味いといいながら干し柿を食べることでしょう。

  「暖冬で 干し柿作り 遅れたが 寒い北風 やっと吹き出し」

  「物干しに 干し柿廉を 吊るしたる 風情田舎の 長閑な暮らし」

  「天日干し すれば渋柿 甘くなる 何でだろうと 疑問の館」

  「手間暇を かければ美味い ものできる 先祖伝承 感謝をしつつ」

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人間牧場

〇原節子の東京物語

 昭和の大スターで美女とうたわれた、原節子さんが亡くなったことをテレビや新聞で知り、忘れかけていた三丁目の夕日的な昭和の思い出が蘇りました。私は昭和19年の生まれですから、戦後映画で活躍した原節子さんは一世代前の人なので、銀幕では見たけれど、恋焦がれるほどの人ではありませんが、それでも一世を風靡した大スターの死を多くのオールドファンが悲しみ、テレビでは原節子さんが出演した映画を、毎日のように紹介しているようです。

原節子原節子2 妻はその中から見たかった、「東京物語」という映画をダビングしたようで、昨晩風呂から上がり孫たちが自分の部屋へ引き上げてから、二人でゆっくり視聴しました。東京物語は小津安二郎監督の代表作ですが、出演の笠智衆や東山千恵子、佐野真一、大坂司郎、香川京子、杉山春子など往年の大スターが勢揃いして、渋い演技をしていました。広島尾道に住む老夫婦が、成長著しい東京に住む、息子や娘の家を東京見物も兼ねて訪ね歩きますが、息子や娘は日々の仕事が忙しく、口では上手いこと取り繕っても、結局疎んじられ、傷心の思いで帰路につき、大坂の息子の所へ立ち寄って帰宅して直ぐに、母親が危篤状態になり急逝するのです。

 母危篤の電報に右往左往したり、臨終や葬儀のドサクサも、50年前の物語設定なれど、どことなく物悲しくどことなく、現代の世相に通じる思いで見ました。孫も可愛いが子どもはもっと可愛いし、自分の子どもより自分の戦死した息子の嫁さんが、一番老夫婦のことを気遣ってくれるシーンは、原節子さんの役柄にピッタリで、共感しながら見ました。聞けば笠智衆さんと東山千恵子さんの年齢設定が70歳前後で、私たち夫婦の今と同じ年齢でした。妻は「えっ?、東山千恵子さんが亡くなるシーンで「68歳」と言ったシーンには、ただただ驚きました。

 日本人の平均寿命は85歳を越えて、今や世界一の長寿国となりました。この物語の時代にもしタイムスリップすれば、私たちはもうこの世とおさらばしなければならない年齢なのです。しかしこの映画の裏に描かれた人間模様を思うと、親子の人間関係も長寿社会の問題も、50年経ったというのに少しも改善されず、むしろ悪化してより深刻になっているように思えるのです。生きたくても生きれなかった昔と違い、現代は医療が発達し、生きたくないのに生きなければならなくなった人も多くいるのです。人間は何のために生きるのか。考えさせられた映画でした。

  「原節子 亡くなり昭和 また一つ 消えて悲しい 思いで浸る」

  「原節子 出演映画 テレビにて 夫婦二人で 会話しながら」

  「おばあさん 68歳 亡くなった 妻の年齢 比較ビックリ」

  「今昔 比較しながら 映画見る バック思い出 社会も映り」

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