人間牧場

〇孫の質問「うちは貧乏?」

 先日同居して一緒の屋根の下に暮らしている小学校3年の孫が、「おじいちゃん、うちの家は貧乏かい?」と私に尋ねました。唐突な孫の質問に一瞬「えっ」と思いましたが、「どうしてうちの家は貧乏だと思うん」と聞き返すと、「だってうちの家はお小遣いもそんなにくれんし、旅行にもあんまり連れて行ってくれんし、お父さんやお母さんもあんまりお金を持っていないようだし、おじいちゃんだって被っている麦藁帽子も破れているし・・・」と少し不満や不安な話してくれました。

 私は金融広報アドバイザーを長年やっているので、ここぞとばかりに孫にお金にまつわる話をしてやりました。まだ小学校3年生ゆえ、私の話の全てを理解できたかどうかは分りませんが、「ふ~ん」と聞き流していたようです。事の発端は近所に住む孫の友だちが、今年の夏休みに家族で海外旅行をするという話を聞いて帰ったからでした。都会ならいざ知らずこんな田舎でも家族で海外旅行をする世の中になったのです。その話を孫は親に話したそうですが、「うちにはそんなお金はない」と親に返され、「うちは貧乏?」と疑問が湧いたようです。

 私たちが子どものころは戦後間もない頃ゆえ、どの家も貧乏でした。ゆえに夏休みは子どもたちにとって楽しみの一つでもありましたが、同時に待ってましたと思う親にとっては、小さいながら労働力だと思われ、目いっぱい働かされました。それでも多少の不満もありましたが、みんなそれが当たり前だと思って一生懸命自分に与えられた役割をこなしていたのです。家族で泊りがけの旅行なんて考えもつかない時代でした。それでもそれでも、子どもはそれが当たり前で貧乏だなんて思わず、家族みんなが夕餉の膳を囲んで幸せに暮らしていました。ある意味いい時代だったようです。

  「うちの家 貧乏なのと 孫が問う それもそのはず チャイムビンボー」

  「友だちの 家じゃ家族で 海外へ 夏の休みも 豪華になって」

  「子どもには 何が貧乏 分らない 教えてやるは 容易じゃないな」

  「いい時代 何もないけど 思えたと 今更ながら 貧乏喜ぶ」

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人間牧場

〇人間牧場のあちこちに雨漏り

 今年の梅雨はかなり強い雨の日もあって、人間牧場でもツリーハウス1ヶ所、作業小屋1ヶ所、ロケーション風呂1ヶ所に雨漏りが見つかりました。このままほおって置くこともできず、先日人間牧場を建築した藤建設と一緒に見て回り、雨漏り箇所の修理をお願いしました。最大の雨漏りはツリーハウスの屋根で、部屋の中に生きた木を抱かかえるように取り込み、屋根から杉の木が生えているよな手合いでしたが、昨年この木が枯れたため、屋根の雨漏りを食い止めないと、高床まで腐り始めたので、息子と相談し思い切って部屋の中の杉の木を伐採し、屋根を塞ぐことにしました。

伐採した杉の木
伐採した杉の木
塞がれた天井
塞がれた天井

 杉の木は目の高さの直径が、私の胴回り程もある大きな木なので、これを屋根を傷めず伐採するとなると、かなりの工夫が必要だと心配していましたが、昨日現場に行ってみると木は既に伐採され屋根も塞がれ、足元の床も厚手のベニヤ板が張られて修理を終えていました。また先日の大雨でコンクリート土間に水の溜まった作業小屋も、屋根の雨漏りではなく土台下からの漏水で、水切りをして外に流すよう溝が掘られていて、何とか修理を終えたようでした。幸い少し早めに梅雨が明けたので、この際息子と相談して人間牧場へ出かけ、細々の片づけや水に濡れた道具類を天日干ししなければならないと思っています。

 今年は少し涼しくなったら水平線の家の外壁にも、防腐剤を塗ろうと息子と相談していますが、建築後十年が過ぎるとあちこちに痛みが生じるもので、資金的に少し投資が要るので、オーナーたる私も頭の痛いことです。外壁への防腐剤塗りは足場を組むほどのこともないので、伸びる梯子を2本借り受け、仲間何人かのマンパワー支援をお願いしたいと思っています。この十年人間牧場は最初の目論み以上に多くの人がやって来て、目論み以上の成果を上げることができました。多分あと十年は私も元気で人間牧場に通えるだろうと思っていますが、こればかりは何とも言えません。もう少し頑張らずに頑張りましょうか。

  「梅雨明けを 待っていました 大工来て 雨漏り修理 あっという間に」

  「タケノコの ように生えてた 杉の木を この際切って 天井塞ぐ」

  「十年も するとあちこち 傷み出す 想定外の 資金必要」

  「この十年 予想を越える 来訪者 利用してくれ 成果も多く」 

 

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人間牧場

〇わが家の玄関ワンダーランド

 一昨日の夕方孫希心が、「ただいま~」と元気な弾んだ声で帰って来ました。玄関に入るなり、「一等が当たった!!」と大きめの虫カゴを抱えて言うのです。聞けば下灘の運動公園で開かれた夏祭りに、小学生として合唱に出演した帰りに、夜店でカブト虫のクジを300円で引いたそうです。一等賞を引き当て、商品は飛びきり大きいカブト虫の入った虫カゴを貰ったそうです。

DSCN4033 現在わが家の玄関先には、息子が子どもと一緒に飼っているカブト虫やクワガタがこれでもかというほどいるのに、まだ夜店で買うのかと呆れましたが、自分が子ども時代のことを思うと、子どもにとってカブト虫やクワガタは比較的手に入りやすい、かけがえのないペットで、しかも友だちより1mmでも1cmでも大きいことは、自慢の種なので、孫希心の喜ぶ姿も理解ができるのです。

 息子は40歳を越えたというのに、友人とやがてはクワガタのワンダーランドをつくることが夢だと、他愛のないことを言いながら、その準備を着々進めているようで、既に大きなクワガタに卵を産ませ、幼虫をふ化させているようですが、カブト虫やクワガタで地域づくりをするという、私から見れば首を傾げたくなるようなことをしています。まあ地域づくりは遊び心なのでこれも一定の理解は出来ますが、「子どもたちに夢を」与えたいと張り切っているようです。

 わが家の玄関先にはこれでもかとと言うほど虫かごが並んでいます。玄関なので倉庫に移動すよう注意をしていますが、聞く耳を持たずわれ関せずといったところです。昨日は鬼北町に赴任している地域おこし協力隊の人が息子の所を訪れ、虫談義に花を咲かせていました。この人は帯広畜産大学を出ているようで、虫に関してはかなり造詣が深いようで、息子は色々と教わっていました。妻は「いい大人がすることではない」と首をかしげていますが、立ち振る舞いが段々私に似てきています。やはり親子でしょうか。

  「大声で 一等賞が 当たったと 虫かご持って 玄関先に」

  「わが息子 いい歳こいて 虫熱中 首を傾げる 妻と私」

  「類は友 呼ぶのでしょうか わが息子 時限の違う 仲間集る」

  「玄関を かぶと虫たち 占拠して ワンダーランド 既に完成?」 

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人間牧場

〇久々の呑み会

 一昨日の夕方、松山市駅裏の居酒屋「ふじ」に、年輪塾の主要メンバーが集って小さな呑み会が開かれました。酒飲みはあれこれ理由をつけて呑み会を開くものですが、今回はかつて国立大洲青少年の家の所長をしていて、現在は国立オリンピック記念青少年総合センターに転勤している新山さんが帰って来るというので、久しぶりに暑気払いも兼ねての呑み会となりました。

新山さんを囲んで
新山さんを囲んで

 新山さんは松山の出身だし、私が国立大洲青少年の家の運営委員長をしていたこともあって、年輪塾にも度々参加され、転勤後も何人かのメンバーとは交遊を深めているようなので、久々の出会いを楽しみにしていました。この日は松山の土曜夜市と重なったため松山市内への入口付近の道は渋滞して、午後6時からだというのに私自身が、20分も後れてしまい、心配した仲間から電話が入る始末で、新山さんには大変失礼をしてしまいました。

 久しぶりに出会った新山さんはすこぶる元気でその後の足取りや新しい東京の空気を思い出話として私たちに存分に与えてくれました。過日静岡県の報徳社へ出かけた清水塾頭から来年の夏、二宮尊徳の足跡を辿る修学旅行をしようと提案があり、了承されました。年輪塾も今週は野村町の井上登さんのふるさとを訪ねる旅を計画していて、何かと忙しい日々が続きます。同席した岡崎さんも案山子庵で「かかし塾」をスタートさせたようで、それぞれにそれぞれが自立の気風を持って生きているようです。私も頑張らないと・・・・。

  「久々に 東京空気 吸っている 人と出会って 力を貰う」

  「呑まぬのに 酔った雰囲気 なりにけり 酒は元気を 与えてくれる」

  「酔い忘れ する人あれば 忘れずに ちゃんと覚えて いる人もある」

  「渋滞の 車列動かず 今どこ?と 携帯電話 急げと催促」  

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人間牧場

〇別メニューの小学校一年生(その2)

 今回のふるさと体験塾は子どもの数が多いため、小学校1年生17人は別メニューで望みました。漁村センター3階でお魚教室を開いた後、灘町海岸とシーサイド公園ビーチに出て、砂浜に打ち上げられた砂の中から、貝殻や波で洗われたガラス片、小石等を拾い集めました。子どもたちは余り照り付けて暑くなかった砂浜を元気に歩き回り、お宝探しに挑戦しました。前もって手提げの小さなビニール袋を渡してやり、灘町海岸80m、シーサイド公園450mの順で、のんびりゆっくり歩きました。

砂浜でのお宝探し
砂浜でのお宝探し
漁船に乗せてもらって大はしゃぎでした
漁船に乗せてもらって大はしゃぎでした

 珍しい貝殻やガラス片を見つける度に歓声を挙げ、私の元へやって来てあれこれ聞くのです。子どもの数も目の届きうる17人とこじんまりしていたので、宮本館長、安田補佐、大谷保健師、それに私の4人が目配せしながら、海水浴客の中を縫うように西海岸突堤まで渚の砂浜を歩きました。中にはビニール袋いっぱいに貝殻を拾い集めた子どももいてまあそれなりに楽しんでいました。やがて沖合いに漁を終えた底引き網船が帰港し始めたので、私たちも港へ急いで帰りで迎えました。

 底引き網体験から帰った子どもやスタッフに聞けば、スナメリというイルカの群れに遭遇したらしく、底引き網体験のことなどすっかり忘れ忘れ、感激の面持ちでその様子を話してくれました。そんな話を聞くにつけ船に乗れなかった1年生の悔しさも見て取れるので、岡田船頭さんにお願して漁船に1年生全員が乗せてもらい、小網地先沖までのほんの短い距離ながらクルージング楽しませてもらうことができ、大声を出して叫ぶなど嬉しさを体いっぱいで表現していました。ひょっとしたら底引き網体験の上級生より充実したプログラムだったような気もしています。

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人間牧場

〇私のお師匠さんは誰?

 私は著書「宮本武蔵」で有名な作家吉川英治が、人みなわが師」と言っているように、凡人ゆえ多くの人を師だと思い今日まで色々なことを教わってきましたが、「お師匠さん」と呼ぶ人もそれぞれの分野に何人かいて、例えば蜜蜂を飼う時には西予市野村町山奥の井上登さんを「お師匠さん」と決めて、手取り足取りの指導を受けています。また公民館活動では全公連常任理事だった今は故人となっている、静岡の朝比奈博さんを「お師匠さん」と決めて、様々な教えを請うてきました。お蔭様にて何とかここまで辿り着いた感じがしています。

亀本幸三さんが送ってくれた永六輔語録
亀本幸三さんが送ってくれた永六輔語録

 つい先日の7月11日、放送作家永六輔さんが亡くなったことをマスコミで知りました。7月7日に亡くなったそうですが、7月11日は昨年亡くなった親父の命日だったため、ことさらに深い親交のあった永六輔さんのことが思い出されて、余り意識はしていませんでしたが、今にして思えば習うことが多く、ひょっとしたら永六輔さんも私にとってはかけがえのない「お師匠さん」だったのではないかと、今頃思っています。というのも3日前親友の亀本幸三さんがネットで永六輔さんの語録を見つけ、ネットで配信してくれたのを見てその意志を強くしました。

 永六輔さんは「上を向いて歩こう」など様々な歌も作詞し、多くの書き文字を残していて、これまでは共感するところがあって、永六輔さんの語録はもうどこへいったか分りませんが私も沢山メモをして大いに活用し、今も自分の生き方に影響を及ぼし続けているのです。昨日年輪塾の清水塾頭が永六輔さんの師匠が民俗学者宮本常一であることを見つけ、メールで知らせてくれました。年輪塾で宮本常一を2年間学習したことを考えれば、宮本常一~永六輔~若松進一というラインも成り立つ訳で、永六輔さんを「お師匠さん」とするため、もう一度このラインをしっかりと学び直さなければならないと、天国に召された永六輔さんに「お師匠さん」になって欲しいと心に誓いました。

  「人は皆 師だと作家 言っている 私も同感 様々学ぶ」

  「『お師匠』と 呼ぶ人数人 吾にあり もう一度学び 直してしっかり」

  「永さんの 語録私も 書き写し 人生時々 引用生きた」  

 追伸、先日NHKから連絡が入り、私と永六輔さんが出演した「永六輔のにっぽん夕焼け紀行」がBSアーカイブスで7月18日16時から全国放送されるようです。

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〇梅雨の晴れ間

 昨日は久しぶりに夏の暑い日差しが照りつけ、全国的には猛暑の一日となりました。この時期は梅雨上がり前の蒸し暑さで、少し早めの涼しいいうちに農作業をしようと心がけていますが、涼しいうちは藪蚊の洗礼を受けるため、蚊取り線香を腰にぶら提げて、まるで本物のお百姓さんのような出で立ちです。DSCN3956

 昨日は網で囲っているスイカ畑に小さな穴からまたしてもハクビシンが侵入して、2~3個被害に遭いました。自分の不注意ゆえ怒る気にもならず囲い網の修理をしましたが、まあ相手も生き物ですから、これからも根比べ、知恵比べといったとこでしょうが、このままだと軍配はカラス・ハクビシン軍団に上がりそうです。

 これまでに一番遅いと思っていた蜜蜂の分蜂した箱も、その後出入りが少なくなり多分自然消滅の感じです。まあそんなこんなの一喜一憂な日々です。それでも綺麗な夕日を見ることができました。この週末は子ども体験塾の底引き網体験があるし、海の日にちなんだ夏祭りや鱧祭りなどが予定されていて、気を揉む日々が続くようです。

  「梅雨明けの 間近か思わす 蒸し上がり 朝から大汗 フーフー言いつつ」

  「またしても スイカ泥棒 被害遭う 自分の不注意 怒る気力も」

  「蜜蜂も どこかへ逃げて しょんぼりと 一喜一憂 これも人生」

  「唯一は 綺麗な夕日 見れたこと 心癒され 心新たに」

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〇ソプラノ歌手二宮典子さんのディナーショー

 昨日は葬儀や講演を終えた後、自宅へ帰らずその足で親友のソプラノ歌手二宮典子さんディナーショーに出席しました。いつものようにすぐ近くの愚陀佛庵跡駐車場に車を止め、歩いて全日空ホテル4階のダイヤモンドホールへ向いました。午後6時30分開演の10分前だったので、受付を済ませ17番席へ向いました。既に満席状態で早い人は回りテーブルの上に運ばれていた料理を食べながらビールを呑んでいました。私も全員若い女性という幸運な席で、アルコールゼロのビールを1本オーダーし手酌でコップに注ぎ、呑み始めました。

二宮典子さんのディナーショー
二宮典子さんのディナーショー

 それから約一時間美味しい料理に舌鼓を打ちながら、時々やって来る顔見知りの人と談笑したり、名刺交換しながら時を過ごしましたが、知らない人が殆どというのもいいもので、両横に座った女性が料理も取ってくれ、この上ない至福の時でした。会場が盛り上がったところで「プラネタリウムで夢占い・2016夏のディナーショー」が始まりました。ステージに立ったドレス姿の二宮典子さんはいつ見ても素敵で、透き通った声が会場に響き渡り、約2時間お喋りを交えて熱唱されました。プログラムに目をやりながら「ゴッドファーザーより愛のテーマ」「夜明けの歌」「秋桜」など15曲ほどを歌いましたが、今回はピアノやシンセサイザーなど6人もの伴奏者がバックで支え、今までにないようなド迫力にすっかり魅了されました。

 二宮さんと私は愛媛県金融広報アドバイザーとして一緒に活動していて、普段は最も気の合う仲間として学校を訪問したりして、金融教育などをしていますが、ディナーショーで歌声を聞く度に、二つの顔の落差に驚きながら付き合っています。音楽に関しては無知文盲な私ゆえ、二宮さんの計り知れない奥の深さを読み取ることはできませんが、日ごろはそんなことを微塵も感じさせないように、時には笑い話を織り交ぜながら交遊を深めています。二宮さんから招待状のチケットが届く度に、自分の浅い知能を悟り、ディナーショーが終る度に、音楽の持つ不思議な魅力を感じながら帰るのです。

 最近は二宮さんの歌声が集録されたCDを時々車の中で聞いています。先日も駐車場に止めた車の中で、少し時間があったので、CDから流れる二宮さんの歌声に合わせて手持ちの木になるカバンから、ハーモニカを取り出し、童謡「みかんの花咲く丘」を下手糞ながら吹いてみました。音楽のない世界は考えられない音楽を生業にしている二宮さんと、音楽に縁のない世界に生きている私とは、水と油、天と地ほどの違いがありますが、二宮さんの豊かな感性に出会う度、何か違った多くのことを学ばせてもらえるのです。昨日は雨の一日ながら、そして叔母の葬儀の日ながら、一日の終わりに心晴れ晴れをプレゼントしてくれたディナーショーでした。

  「ディナーショー 柄ではないが 招待状 届いて参加 いい席ゲット」

  「ド迫力 会場劈く 高音に 思わず背筋 伸ばし聞き入る」

  「常日頃 見てる人とは 大違い 落差大きく 見紛うほどに」

  「ドレス着て スポットライト 浴びながら 唄うソプラノ 心に染みる」

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〇火の光は心を結ぶ

 先日山梨県からはるばる私を訪ねて来てくれた野田さんかた、小さな箱に入った線香花火を手土産にいただきました。箱には「日本の線香花火『結』和火師佐々木巌」と達筆な筆で箱書きされていました。蓋を開けると一束12本の和紙こよりの線香花火があり、説明文もかなり凝っていました。

 

いただいた線香花火
いただいた線香花火

img843img843「火には悪や病気をはらい、心を温かく穏やかにする力があると言われ、古来より火の働きを火明玉神(ほのあかるたまのかみ)とたたえてまいりました。」、「火の光は心を結ぶ、和火師佐々木巌」と書いて何か意味ありげです。和火師という職があることすら初めて見る私ですが、野田さんの話によるとこの方は日本的に有名な方のようでした。

 線香花火は子どもの頃の夏の思い出です。田舎ゆえ花火を売っているお店も殆どなく、買ってもらう機会も年に1~2度くらいでした。また今のような華やいだ花火ではなく線香花火が主体でしたが、柳からパチパチとかすかな音を立てて松に替わり、やがて火球が燃え尽きて落ち、硝煙を残して暗闇に戻る光景も心の中に焼きついています。

 今年の夏は夏休みにやって来るであろう外孫とわが家の内孫たちで、この線香花火を庭先でやってみようと思っています。どんな線香花火なのか今からとても楽しみです。勿論妻や息子夫婦、娘たちにも日本の花火が、江戸時代から花火師たちによって受け継がれてきた誇りある伝統であることも伝えたいと思っています。「玉~屋」「鍵~屋」の掛け声も・・・・。

  「お土産に 貰った線香 花火には 仰々しくも 達筆筆で」

  「夏の夜の 線香花火 何となく 少年の頃 淡い思い出」

  「手づくりの 線香花火 夏休み 孫と一緒に 楽しみ増えた」

  「日本には 私の知らない 手仕事が いっぱいありて 伝統受け継ぐ」

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〇親父の命日に飛び込んできた驚きの訃報

 昨日は親父の命日と叔母の訃報が重なり、少し沈んだ気持ちになっていた矢先、驚きの訃報が飛び込んできました。長年お付き合いのあった放送作家永六輔さんが亡くなったのです。亡くなったのは7月7日だそうですが、私が検査のため入院した日であったり、マスコミ発表の日が親父の命日だったりと、最後まで何か因縁めいたものを感じる人でした。

私のお宝永六輔さんからのハガキの便り
私のお宝永六輔さんからのハガキの便り

 数日前、埼玉県寄居町に住む親友黒瀬仙一さんから、NHKテレビ番組アーカイブスで放送された、永六輔さんと私の共演した「にっぽん夕焼け紀行」のDVDを送ってもらった矢先の出来事だけに、青天の霹靂といった感じです。永六輔さんと私の出会いは今から21年前の平成7年に遡ります。私が主宰するフロンティア塾に永六輔さんを呼びたいと思い、唐突にも永六輔さんに「双海町へ来て欲しい」とハガキを出しました。ハガキのやり取りは毎月一回ながら5年にも及びましたが、ハガキのやり取りがご縁でNHKのテレビ番組出演となり、幸い平成13年5月22日に双海町ふれあいの館で開催した40回目のフロンティア塾フィナーレに講師として来てくれたのです。

 この話は語り尽くせぬほどのエピソードがあるので、今日は書くことはできませんが、私の木になるカバンの中に入れて全国行脚している、永六輔さんからいただいているハガキは、私のお宝といえるものなのです。クレヨンで画いた太陽の絵と貼った永六輔の千社札、それに「夕日はどこかの朝日」のフレーズには思わず度肝を抜かれました。このことがきっかけで双海町の3月22日春分の日の夕日が、地球の裏側ブラジルリオデジャネイロの朝日であることを知って、インターネットにライブカメラを取り付け、朝日と夕日を同時に見るアイデアを思いつき実行したのも、この一枚のハガキからの始まりでした。朝日=旭、夕日=夕+日の造語漢字を作ったり、夕日の沈む大分県姫島の黒曜石との因果関係を解明したり、私の価値観を根本から変えてくれました。

 「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」という大ヒット曲の作詞をしたマルチタレント永六輔さんはその生き方がとても魅力的で随分学ばせていただきましたが、私にとって大恩人でもあるのです。晩年はパーキンソン病を患い闘病生活をしていたため、出したハガキの返信は帰って来ませんでしたが、この上は安らかなご冥福を心から祈りしたいと思います。なお徒然に永六輔さんとの出会いや思い出をブログにて書き残しておきたいと思っています。

  「永さんの 訃報飛び込み 驚きぬ 在りし日思い、少しジーンと」

  「永さんの ハガキカバンに 忍ばせて 全国行脚 今も続ける」

  「奇遇かな 親父の命日 訃報聞く 鉄人永さん 病気にゃ勝てぬ」

  「新聞の 5面7面 切り抜いて スキャン保存し ブログ転載」

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