〇親が亡くなった家はどうなるの?
昨日知人から、町内に住む98歳のおじいちゃんが最近亡くなったことを聞きました。新聞の訃報欄にも載らなかったため、ましてや家族葬だったため私や妻の耳に入らなかったものと思われますが、祖母や母の葬儀の時香典をいただいている義理もあるので、早速今日は香典を用意して出かけました。しかしその家の玄関先戸口上には訃報を知らせる白い紙が張っているものの、チャイムを押してみましたが、人の気配は全くありませんでした。
困ってしまい、失礼とは思いましたが裏隣の顔見知りの人の家に立ち寄って、近況を聞きました。その人の話によると亡くなったおじいちゃんと奥さんであるおばあちゃんは、隣町の特別老人ホームへ最近入っていたようで、亡くなった状況や、葬儀やその後の様子は残念ながら伺い知ることはできませんでしたが、葬儀のため一時帰っていた喪主である息子さんも都会に住んでいて、多分葬儀の終い毎も終ったので、おじいちゃんの遺骨を住みなれた家へ置いたまま帰られたようでした。
用意して出かけた香典を供えることもできず引き返しましたが、最近こんな風な人生の終末で、家が空き家になるケースが多くなったような気がします。このおじいちゃん夫婦には四人の子どもがいますが、上3人の娘は既に嫁いでいて、長男も地元の高校を卒業すると都会の大学へ行き、卒業後は都会の一流企業に就職するという、向都離村の典型的なコースを辿りました。おじいちゃん夫婦にとっては子どものころから勉強も良くできるし、給料も沢山もらえる都会の会社に就職し、何かにつけて自慢話に出てくる息子だったようですが、ふるさとの家が断絶することが果たして良かったのかどうか、考えさせられました。
子どもにはやりたいことをやらせ、自由にさせてやりたいと親なら誰しも思います。ゆえに優秀な子どもは都会に出す、余り勉強のできない子は田舎に残すといった目に見えない色分けが、無意識のうちにこんな結果を生んだような気もするのです。かくいうわが家も後者の道を選び、長男が家に残る道を選択して、何だかんだといいながら親子や孫が一つ屋根の下で、つつましながら幸せな日々を暮らしています。今日は複雑な思いの一日でした。
「亡くなった 訃報一つも 届かずに 知らなかったと 不義理を囲う」
「息子さん 都会就職 してるゆえ 葬儀終れば この家空き家?」
「日本は 向都離村の 教育を し過ぎたようだ 田舎危ない」
「わが家には 幸い息子 同居して 後々家を 守ってくれる」