人間牧場

〇遺影と喪主あいさつ

 親父が死んで葬式の準備をし始めた時、告別式をお願いすることにしたJAルミエール伊予の担当者から、「遺影を作るので適当な写真を提出して下さい」と言われました。親父は几帳面な性格そのままに、自分の書棚にきちんと写真集を何冊か整理をして、いつでも取り出せるようにしていました。家族みんなでアルバムをめくりながらどれにするか決めあぐみました。

 というのも、親父は47歳の時美顔ならぬ鼻ガンを発症し、10時間に及ぶ大手術で、片方の頬骨と上歯グキを摘出して片目はまったく見えなくなり、身体障害者となったのです。ゆえに特殊な入れ歯を入れてこの50年間生活して来ましたが、歳をとるとそれらも合わなくなって、入れ歯を外すとまるで画家ムンクの叫びのような顔になるのです。そのため親父が一番いい顔だった鼻ガン発症の直前、47歳の時の写真を満場一致で決めました。親父の最近の顔姿を知っている人は「あれっ?、この人誰?」と思うかも知れませんが、イケメンだった親父を偲ぶよすがになったと、みんなで喜びました。

 さて当日読経と焼香が終ってやらなければならないのが喪主あいさつです。学歴もなくことさらな地位もなく、歴史にその名を残すこともなく消える元鯛網漁師ですが、私は親父の偉さを手前味噌ながら少しだけ話しました。親父はガンが発症する前、5トン15馬力の小さな漁船に乗って、瀬戸内海の漁師ながら将来を考えて太平洋へ乗り出し、伊豆下田を基地にして、伊豆半島を漁場に遠くは三宅島まで漁をしに出かけています。
 天気図さえ満足のかけない瀬戸内の漁師が紀伊水道、潮岬、熊野灘、伊良湖、遠州灘
犬吠埼を航海した偉さは、相前後して愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸で南太平洋へ遠洋航海に出かけている私にしか、低気圧の墓場といわれる冬の伊豆諸島の想像を絶する大時化は理解できないのです。

ムンクの叫びに似て
ムンクの叫びに似て
親父の遺影
親父の遺影

 もう一つは70歳で漁師をやめ陸に上がってから、自分の思い出の彼方にある戦前・船中・戦後、瀬戸内海で活躍した和船の模型を50隻余りも製作し、その幾つかは家の敷地内倉庫を改造して造った海の資料館「海舟館」に、他の資料とともに展示し、廃れ行く双海町下灘の漁業を語り継いできたのです。その一部は愛媛県生涯学習センターの手で口実資料としてデジタル化されていますが、私などとても真似のできない資料を大事に保管しています。
 几帳面で口うるさかった昔人間ですが、晩年は地域の人とも交流したり、特老へデイサービスに行く等して、穏やかな老後を過ごしました。下灘診療所の先生と、母亡き後15年間も世話をしてくれた妻の二人がいなければ、享年98歳の天寿を全うすることはできなかったことを、参列者のみなさんに伝えました。

  「別人と 思えるほどの 顔写真 使って遺影 みんな驚く」

  「一介の 漁師で名前 残さずに 一井に消える これも本望」

  「瀬戸内の 漁師であるのに 太平洋 荒波越えて 三宅島まで」

  「今回も 思いつくまま アドリブで 少し親父を 持ち上げました」

 

 

 

 

[ この記事をシェアする ]