〇母ちゃんと父ちゃんの思い出
私の母親は14年前の10月4日に亡くなりました。私の誕生日が10月3日ですから、こじ付けをするなら私の誕生日に、私の成長を見届けてからあの世に旅立ったようです。私は一番肥えていたころの体重は、総理府派遣青年の船「にっぽん丸」で、建国二百年のアメリカへ渡り帰国した時68kgありました。その後多少増減を繰り返しながらベスト体重は63kgでした。若いころ(当時の体重は60kg)母が地元の洋服屋さんに頼んで仕立ててもらった式服が身体に会わなくなり、母親に相談したところ、「身体に服を合わせるのではなく、服に身体を合わせなさい」とたしなめられましたが、母が死ぬ前私は胆のうを患い摘出手術をした結果、55kgまで13kgも体重が激減し、母の葬儀時には、新調を考えていた古い式服がダブダブになり、今もその式服を冠婚葬祭では愛用しているのです。
自分を産んでくれた母が無くなって、すでに14年が経っているというのに、未だに母親は私の記憶の中にはっきりと行き続けているのですから不思議です。さて一昨日亡くなり、昨日通夜を済ませ、今日葬儀をする享年98歳の親父は、なくなってまだ2日しか経ってなく、このところの混乱で思い出に浸る余裕等ありませんが、遺体を長年住み馴れた隠居から本宅へ移し、主のいなくなったガランとした3つの部屋を見ながら、また親父が長年手塩にかけて手入れした庭を見ながら、さらに親父の手づくり品や収集品を見ながら、親父の存在が偉大だったことを、あらためて思い返すのです。親父は学歴も役職もない田舎の漁師として生き、歴史に名前を残すこともなく消えようとしていますが、そこここに私が真似のできない多くの物を残していることに驚くのです。
その際たるものは、70歳で漁師を辞め、陸に上がってから始めた和船模型造りです。「自分が見たり関わったりしてきた、瀬戸内海で活躍した和船模型を造りたい」と、設計図もさしたる工具も使わず、ましてや片目が見えない不自由な身体障害者の体を押して造り、家の横に海の資料館「海舟館」という倉庫を改造した二部屋に飾っています。その数ざっと30隻ですから、これはもう驚嘆というほかはないのです。
元気で言葉が喋れればこれらの展示を一般公開して説明させたり、何処かのギャラリーを借りて個展でもしてやりたいと思っていましたが、叶わぬ願いとなってしまいました。幸せなことに親父の口述記録は愛媛県生涯学習センターのデータベースにデジタル化されて残っているようなので、暇を見つけて展示を文字で書き起こしたいと思っています。今日は親父の葬儀が13時30分から行なわれます。いい旅立ちになりますよう・・。
「十四年 前に亡くなる 母思う 式服着る度 あの一言が」
「地位名誉 学歴もない 親父だが ほんのちょっぴり 偉大な仕事」
「親超える こともできない どら息子 僅かな望み 伝えることしか」
「さあ今日は 親父をしっかり 見送ろう 私にできる ことはそれしか」