人間牧場

〇蓄えるしんどさと使う喜び(その2・知識の貯蓄)

 私の知識は読む、聞く、見るによって大きくなってきました。今時大学も出ていない高卒の学歴なので、深くて広い知識等望むべきもありませんが、子どものころから親父に言われて育った、「勉強は学校へ行かずとも、何処でもできる」を肝に銘じ、様々な本を乱読しました。その本の殆んどは人間牧場・水平線の家の書棚と自宅書斎の書棚に置かれていますが、これ以外にも新聞や雑誌の類を含めると、活字による知識は相当なもので、今もその歩みは続いているのです。

 色々な人の話しを聞くことも大いにやりました。多少のダブリはありますが、私の青年団での8年、公民館での13年は多くの人に出会い、聞くことによって様々な知識を習得したのです。また見るという行為による学びも、青年の船で建国二百年のアメリカを見たり、全国各地を旅をして目学もやりました。その全てが基層知識となって、今では書く、喋る、実践するという使う喜びに変わっているのですから嬉しい限りです。特に若い頃に得た知識の貯蓄がなかったら、私の人生はこうも豊かに生きれることはできなかったようです。

 知識は記憶です。体内に蓄えられた貯蓄は、蘇らせて使わなければ何の役にも立ちません。年齢とともに人間の記憶装置は傷むものだと、昨日テレビを見て思いました。若い頃出会って指導を受けた永六輔さんが、テレビに出てお話をしていました。かつて超聡明だった永さんさえも歳とともに老いを迎えるのですから、私などはこの先どうなるのだろうと少し不安になりましたが、幸い私が退職後手に入れたパソコンによって、かろうじて記憶は保たれているのです。私は今そのパソコンという記憶装置に、一生懸命今しかできない、私にしかできないデジタル文字を入力しています。

 毎日日課と定めて書いている2本のブログも10年を越えました。時々検索して過去に書いた文章を読んだりしていますが、人様から見れば他愛のない文章でも、今が過去になる前に今しかできない作業を、毎日繰り返しているのです。それは知識の貯蓄と同時に知識を使って知恵に変えることでもあり、まさに使う喜びかも知れません。私たち人間は文字という武器を持っています。この武器をパソコンという新たな武器で加工して記録保存できるのです。こんな無意味な知識の貯蓄という生き方を、これからもしっかりと続けたいと思っています。

  「低脳を 自認の私 知識得る 読んだり聞いて 見ること努力」

  「超聡明 あの人さえも 歳をとる 今しかできない 知識の貯蓄」

  「意味もない ことと誰もが 思うけど 自分納得 これも人生」

  「さあ今日は 知識の貯蓄 引き出して 使う喜び 味わい出かけ」

 

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