人間牧場

○ジョン万次郎の生家を訪ねる(その7)

 ジョン万次郎は今から185年前の1827年(文政10年)、土佐の足摺岬のそばにある漁村中ノ浜で、漁師を営む父悦助と、母しおの間に次男として生まれました。誕生日の記録は残っていませんが、万次郎本人が1月1日生まれだと語っているので、それを信じるしかないのです。家は両親と兄妹の7人家族でした。しかし悦助の漁業収入は少なく、赤貧洗うが如き暮らしだったようです。家族は畑を借りて耕作したり、近くの村で野良仕事を手伝う等して生計を立てていました。

 万次郎が8歳の時父悦助が亡くなりましたが、幼くして父を亡くすと、病弱な兄に代わって万次郎は一家を支える稼ぎ手となり、薪割りや漁船に乗ることもあったようです。記録によると少年の頃は活発で騒がしく、親も手こずるほど悪戯者でしたが、次第に銭の取れる漁師になることを夢見ていたようです。
 生まれた中ノ浜から14歳の万次郎が30里(114キロ)も離れた宇佐の港から何故初漁に出たのか、疑問の残るところです。一説によると中ノ浜の古老の家で米つきの仕事をしていたのですが、作業がはかどるように石臼に砂利を入れたのを主人に厳しく咎められ、叱られた万次郎は隣村の大浜浦まで逃げ、たまたまそこに着船していた宇佐浦の漁船に頼み込み、乗せてもらったようです。このささいなきっかけがその後の10年以上に及ぶ万次郎の長い旅の始まりとなったのですから、世の中は何が起きるか分からないものです。

太平洋を見下ろす丘の上に立つ記念碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立派に造られた万次郎の生家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 万次郎の生家は地元の顕彰会によって見事に復元されていました。戦争中の昭和19年に漁師の家に生まれ、漁村のうらぶれた姿を知っているだけに私の目から見れば、復元した生家は余りにも立派過ぎ、時代考証も考えていないようでしたが、万次郎の後の活躍や万次郎の足跡をたどってやって来る人のことを思えば、顕彰会の時代錯誤も頷ける部分もあるようです。それにしても茅葺の見事な姿には大いに驚きました。出世をすると粗末なダイガラも、水を汲み上げた井戸も、万次郎先生ゆかりのものとなるのですから可笑しな話です。海を見下ろす小高い所に万次郎の記念碑が、帰郷150周年を記念して市長さんが揮毫した記念碑が、また波返しのコンクリート壁にはジョン万次郎の生涯が漫画チックに、それぞれ設置されていました。周辺の店の看板にも「ジョン万次郎の名前を使い、コバンザメ商法を営んでいるようでした。

 愛南町山出温泉で始まった第1回ジョン万塾は、中ノ浜の万次郎生家見学で一応終え、講義や道案内をしてもらった青野さんにお礼を言って現地解散となりました。これだけ微細にジョン万次郎について詳しく学べば、次からの学習会は大いに深まるものと期待しているところです。
 今回の学習会で惜しむらくは、目と鼻の先といえどもかなりの距離がある、足摺岬に建っているジョン万次郎の銅像を見れなかったことです。次の機会もあるだろうと帰郷のため先を急ぎましたが、少しだけ心残りとなってしまいました。

  「万次郎 生家訪ねて 中ノ浜 立派に復元 立派過ぎたる」

  「石臼も 井戸も全てが 万次郎 お店の看板 殆んど記述」

  「偉人だが 持ち上げ過ぎて 歪曲な 歴史認識 改めるべき」

  「物語 ここが原点 万次郎 今も変わらず 海は静かに」

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