人間牧場

○妻と二人でコロッケ作り

 妻「お父さん今日は何が食べたい」、私「ウーン、コロッケ」と思わず口に出しました。「ウーン、コロッケか、じゃあ倉庫からジャガイモの大きいのとタマネギを持って来て」と頼まれ、言うがままジャガイモとタマネギを台所に運びました。妻は毎週月曜日と金曜日は、12時から16時30分まで休み、その分16時30分から19時まで仕事するという変則的な勤務を近所の歯科医院でやっています。ゆえにこの時間は休息時間なのですが、休むことなく家の細々や凝った料理などに挑戦しているのです。

 「お父さん、少しだけ手伝ってくれない」と昨日の午後3時頃妻に頼まれて、コロッケ作りのお手伝いをさせられました。タマネギとひき肉を炒め、茹でたジャガイモをすり潰したものを混ぜ合わせ、俵状に丸めたら小麦の粉をつけ、溶き卵をくぐらせてパン粉をつけて形を整えるのです。私の仕事は溶き卵をくぐらせてパン粉をつけ形を整えるだけの最終工程ですが、これが意外と難しく不器用な私は難儀をしてしまいました。「お父さん上手じゃない」と誉められたので悦に入って、「揚げるのも手伝おうか」と積極的になりました。

 わが家では揚げ物は油煙が出て室内が汚れるので、外の調理場を使います。フライパンに油を入れて火をつけ、温度が上がったところでコロッケを1回に10個ばかり入れ、狐色になると裏返しをして揚げました。誰にだって出来る単純作業ながら、私にとって生まれて始めての作業なので少し緊張しましたが、70個近くを一気に揚げました。少し遅めの昼食を終えたばかりだったので、味見をすることもなく終えましたが、コロッケは同居息子家族の所にもお裾分けされ、残りは妻がテキパキと冷凍保存用のビニールに小分けして冷凍保存しました。

 夕食は私のリクエストどおり、コロッケと野菜のかき揚げ天ぷらでした。親類から届いた分厚くて大きな太刀魚の刺身も並び、猛暑で食欲減退のこの時期ながら、美味しくいただきました。私は自慢ではありませんが、親類から届く魚の下ごしらえ以外は、殆んどといっていいくらい料理を手伝いません。自分の食べた後の食器を流し台に持っていく程度の駄目亭主ですが、妻は私の揚げ物の腕前を盛んに誉めて引き込もうとしていますが、その手には乗るものかと、いたって平静さを装いました。

 今日で7月も終わり、明日から早くも8月です。時の流れの早さを感じながら、今日という日も昨日と同じように休むことなく時を刻んでいます。明日のために今日を生きようと、少しだけ前向きに生きようとしていますが、老いは確実に進んで体力も気力も、知力さえも右肩下がりになろうとしています。
 昨日食べたコロッケは私の体力をほんのちょっぴり増進させ、朝の散歩と蒲団ストレッチでこれまた体力をほんのちょっぴり維持できました。また読書やブログ書きでほんのちょっぴり知力も維持できたようです。ほんのちょっぴりの積み重ねが総合力や人間力になって行くことを信じています。

  「コロッケを 作る手伝い したからか 飛び切り美味しい 味を楽しむ」

  「そういえば 家事の手伝い せず終い これも人生 亭主関白」

  「少しだけ 気をつけ生きる それだけで 随分違う 体力の保持」

  「さあ今日も 明日のために 少しだけ 気配り生きる 明日楽しみ」

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○住吉さんの夏祭り

 昨日は高校野球の愛媛県大会決勝戦が松山球場坊ちゃんスタジアムで行なわれ、ノーシードで勝ち上がった今治西高校が川之江高校を6:3で破り、念願の甲子園行きのキップを手にしました。最近は今治西など今治勢の活躍が目立ち、強豪で全国優勝経験のある宇和島東は初戦敗退、松山商業もベスト8がやっとで、どちらかというとご当地中予や南予びいきの私としては、東予地区同士の決勝戦に少しだけ不満で、折から始まっているロンドンオリンピックの試合と、高校野球をチャンネルを変えながら、同時にテレビ観戦しました。それでも高校野球は必死で白球を追うそのさわやかな印象から、捨て難い魅力があって、ついつい引き込まれてしまいました。

 

五色浜の夕景
おもちゃを買ってもらってご満悦の孫尚樹

 昨日は伊予市にある住吉神社の夏祭りで、花火があるというので息子家族は夕方揃って出かけて行きました。松山に住む孫たちも、4年生の孫朋樹は昨日から香川県小豆島で行なわれるキャンプに参加するため出かけたようで、おたふく風邪にかかり足止めを食っている孫尚樹がどうしても花火が見たいというので、おたふく風邪の症状もすっかり治まったようなので、夏休みになっていることもあって、夕方松前の北斗で娘と落ち合い、食事後わが家で預かることになりました。
 孫尚樹はこの3~4日病気のため自宅軟禁を余儀なくされていたので、大はしゃぎで荷物を持ってやって来ました。

ナイヤガラの滝

 わが家の孫たちと落ち合うことが出来ず、私たち夫婦と尚樹で午後8時から始まる花火大会に出かけました。JR伊予市駅付近の臨時駐車場に車を止めて夜店の出ている街中を歩き、カキ氷や金魚すくい、スピードくじを楽しみながら、住吉神社の直ぐ近くの空き地に3人で陣取り、花火の上がるのを待ちました。この日は参道から見えない港の広場付近に特設桟敷席が設けられていたようですが、私たち庶民からは見えるはずもなく、多少物足りなさを感じました。

 やがてカウントダウンが始まり、一斉に花火が打ち上げられ、夏の夜空を彩りました。花火が上がる度に大きな歓声が上がり、大いに楽しませてもらいました。聞けば来年から夏祭りの開催日は7月の最終土日に変更するようで、伊予彩祭りと改名するようです。これも時代の流れなのでしょうか。
 花火が終るころ、尚樹は疲れて眠ってしまい、背中で花火の上がるのを意識しながら私の背中に重い尚樹を背負い、駐車場まで汗だくで帰りました。二人の孫希心・奏心もそのうち眠ったまま帰りました。昨晩は「おじいちゃんと寝る」と約束をしていた孫尚樹と一緒の蒲団に寝ました。

  「暑い夏 高校野球と ロンドンを テレビ観戦 チャンネル交互」

  「ワアー綺麗 空き地に座り 空見上げ 孫・妻笑顔 花火で浮かぶ」

  「疲れたか 孫はスヤスヤ 背中にて 少し腰くる 俺も歳だな」

  「じいちゃんと 寝るといってた 孫と寝る これも幸せ ささやかながら」

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○落伍・悪徳商法と納涼の夕べ

 私の母校宇和島水産高校の大先輩である玉井恭介さんから、「7月27日の夕方東京第一ホテル松山で落伍をやってくれないか」とお声がかかりました。この日はあいにく島根県へ講演に行く予定が入りそうになっていましたが、数少ない宇和島水産高校の先輩だし、私が55歳の時自費出版した、「昇る夕日でまちづくり」という自著本のプロデュースを、当時務めていたセーラー広告の玉井さんにしてもらった大恩人なので、むげに断ることもできず、相手の方を断って引き受けたのです。

 落伍と悪徳商法と納涼は一見何の関係もないように見えますが、これが玉井さん流の凄技プロデュースなのです。主催は玉井さんがメンバーとなっているNPO法人えひめ消費者ネットです。この団体は悪徳商法被害を未然に防ぎために活動している小さなボランティア団体ですが、行政や警察と協力して県内のあちこちへ出かけ、出前講座や寸劇などを開いているのです。玉井さんもなんだかんだといいつつも、最近ではこの団体にすっかりはまり役者気取りで、傍目で見れば結構楽しそうに活動していて、その模様を自分のブログで書いているのです。

 

大いに盛り上がった落伍・悪徳商法・納涼の夕べ

 昨日は約30人の方々が集まり、こともあろうか格調の高い松山市西堀端の東京第一ホテルの一室を借り切って私の落伍を聞くという算段でした。冠に「納涼」がある通り、早い話が私の落伍を餌に、冷房の効いた部屋で料理を食べながら酒を飲もうという目論みなのです。
 私の落伍のために玉井さんはわざわざ、赤い毛氈を張った高座の上に座布団を敷き、捲りまで作って持参する念の入れようです。玉井さんの目論見で私の落伍の落ちは、私が吹くハーモニカの伴奏で、久米コーラスクラブというコーラスグループに所属している、玉井さんを含めた4人の参加者が歌を歌うというのです。歌詞カードも用意され、「ふるさと」と「赤とんぼ」の2曲で30分前に音合わせのリハーサルをやりました。

 私の1時間の落伍熱演は別として、全員での合唱は練習もしないのにクラブ員の張りのある歌声に誘導され、大盛況だったようです。会場には三徳電機の三井新太郎社長さんや、これまでに何度か出会った顔見知りの方々が沢山いて、久しぶりに交友を温めることが出来ました。ギノー味噌からいただいた味噌と裏が味噌の名刺を配りましたが、玉井さんの企画は大いに盛り上がり、とてもいい雰囲気で終えることが出来、少し赤恥はかきましたが、まあ何とか先輩の顔に泥を塗ることもなかったようで、目出度し目出度しです。

  「落伍して 先輩頼まれ 口車 乗せられ多少 赤恥かいて」

  「私知る 人は手を挙げ 頼んだら 殆んどの人 知ってるコール」

  「先輩は 何時になっても 越えられぬ 後輩宿命 死ぬまで続く」

  「いい人と 出会い重ねて 歳をとる 合う人会う人 福の神です」 

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○梅の土用干し

 太平洋高気圧が張り出し、天気が安定してきたので、一昨日思い切って塩漬け梅の樽から、漬け込んだ梅を取り出し、庭に広げたサナに梅を広げ、土用干しをすることにしました。今年は樽3つに約60キロの青梅を漬けているので、その量たるや半端ではないのです。
 水洗いして干したサナにステンレス製網目の容器で梅酢の中から梅を掬い取り、汁気を取ってサナの上に行儀よく並べて行き、サナが梅で一杯になると脚立で作った干し場に運び天日で干すのです。

梅の土用干し

 昔から梅干は、「三日三晩の土用干し」と言われていますが、土用干しが十分だと梅干が紫蘇に染まって真っ赤になるらしく、大事な作業だと祖母や母から生活の智恵として教わっているので、今年もその通り土用干しをしているのです。
 梅干のクエン酸は最近の科学的研究で、抗がん作用があることが分かってきました。しかし一方で一日に摂取する塩分を減らすためには、減塩梅干にする努力も必要なのです。わが家では塩分15パーセントに挑戦しています。そのためカビ防止用としてホワイトリカーを降りかける方法をとっているのです。そのお陰で今年もカビに合うこともなく塩漬けの段階までは順調なようです。

 梅の土用干しはあと数日で終りますが、終れば壷や瓶に入れて、漬け汁である梅酢をたっぷり入れ、その上に塩揉みした紫蘇を買ってきて梅の上に置き、地下室へ収納するのです。
 梅を収穫するのも土用干しするのも、いつの間にか自由人でサンデー毎日となった、私の仕事になってしまいました。誰に文句も言えず仕方のないことと諦め、毎年この作業はやっていますが、これほどの梅を自家消費できる訳ではないので、梅干が出来たら親類に配って喜ばれるのですが、梅酒も梅干も十分過ぎるほど確保しています。梅干は魚料理や蕗の佃煮を炊く時にも調理用として重宝しています。また夏になると親類から鱧が沢山届くので、鱧を骨切り料理して湯晒し、梅干を裏ごしした漬け汁につけて食べるとこれがもう絶品で、最近は殆んど毎日楽しんでいるのです。

 わが家は田舎ゆえ、ワカメや天草などの海草は勿論のこと、梅干や梅酒も全て自給です。日本の自給率は40パーセントと言われていますが、これは国外と国内の比率なので、家庭の自給率となると田舎を除けば殆んどが自給率ゼロに近いのです。その点わが家は野菜類、海藻類、保存食類、果物類などしか自給は出来ないものの、次第に自給率を高めているのです。さあもう一分張り自給率を高めるための楽しさを実感しながら、賢い生き方をしたいものです。

  「夏が来て 今年も梅の 土用干し 三日三晩 自然とともに」

  「梅干を こんなに作って どうするの? 言いつつ作る あげる楽しみ」

  「裏ごしの 梅肉使い 鱧食べる 夏の味覚を 存分楽しむ」

  「夏が来た 梅酒冷やして お茶代わり 来客喜び 私喜ぶ」 

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○従兄弟西下芳雄さんのラジオ放送

 年輪塾の小番頭松本宏さんからメールで、ラジオ番組放送のお知らせがありましたが、出演者が私の従兄弟で元双海町商工会長の西下芳雄さんということもあり、聞きたかったのですが残念ながら、その時間会議に出席していて、聞くことができませんでした。
 ところが世の中は便利になったもので、ラジオを使わなくても松本さんのメールに書いていたhttp://blog.mb.co.jp/korekaradio/?p=166にアクセスすれば、何とパソコンでラジオ放送が聞けるるのですから、いやはや便利な時代になったものです。

下灘駅の夕景
下灘駅のサテライト中継
従兄弟の西下芳雄さん

 今回の放送は南海放送サテライト中継と銘打って、下灘駅の刻々と変化する夕景をバックにプレゼンター枡形浩人さんの案内で、コメンテーター山本裕治さんとゲスト出演の西下芳雄さんの話を聞く番組なのです。西下芳雄さんは若くして交通事故で親父をなくし、多くの兄弟の面倒を見ながら家業である製材業を営んでいました。今は社長を息子に譲り会長となっていますが、手掛けた焼杉材「美杉」という外壁材が大ヒットし、今の会社の基礎を築きました。商工会長やライオンズクラブ会長を歴任しましたが、その前向きなアイディアと生き方は従兄弟といえどいつも私の見本でした。

 私が下灘駅のプラットホームを使って初めてコンサートを開いた時も、町名変更問題で町が混乱した時も、まちづくり元年と定めてまちづくりに取り組み始めた時も、また多くの反対があったシーサイド公園整備の時も、私を信じて陰ながら応援してくれました。コンサートの日は会社を早めに休ませて駐車場に開放し、自らも車の整理をしてくれました。最近は下灘駅の美化や活用に取り組み、高齢者を巻き込みながら地道な活動をしているのです。私も時々下灘駅に立ち寄りますが、その度に一人黙々と草を引いたり花々に水をやったりしている姿は、松本さんが書いていた西下芳雄さんの生き方が、「種を蒔く」「求めない」そのものだと思うのです。

 私は現在67歳ですが、西下芳雄さんは83歳です。私の親父が93歳ですから、おおよそ一回りづつ年齢や生きた時代が違うものの、3人が集まればまるで同級会のように、他愛のない話に花が咲くのです。西下芳雄さんは昨年末奥さんを病気で亡くし、只今大きな家で一人暮らしです。隣のような近くに息子さん家族が住んでいるので、何の問題もなく、健康で毎日焼杉工場に出て働いていますが、最近は毎月21日わが家のお地蔵さんの縁日には、赤飯のお接待をしていますが、その赤飯を持って行き、交友を深めているのです。これからも元気で長生きして私の理想とする星であり続けて欲しいと思っています。松本さんありがとう。

  「世の中は 便利なものだ ラジオなく ラジオが聞ける 写真まで沿え」

  「従兄弟だが まだまだ俺は 叶わない 目標とする 理想の星だ」

  「種を蒔く 求めないとは 格好いい 蒔いただろうか? 心もとない」

  「年代は 違っていても 生き方や 目指す方向 同じ人生」

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人間牧場

○単眼複眼

 私は若い頃から、わが町や自分に関する新聞や雑誌に掲載された記事を切り抜いてスクラップブックしまっていますが、最初は日付や掲載新聞名などを記入したり、整理をしてスクラップブックに貼り付けたりしていましたが、そのうち仕事が忙しくてそれどころではなくなり、またその数も多くなって整理が間に合わず、ついつい所定の段ボール箱に無造作に投げ込んできましたが、退職したら、暇になったらこれらの記事も整理をしようと思いつつ、結局は目下のところ暇もなくそのままになっていて、妻から「片付けるか処分したら」とブーイングされているのです。

 今週の月曜日と火曜日、愛媛新聞朝刊の「単眼複眼」というコーナーに、双海町で撮影した面白い写真にショートなコメントが紹介されていたので、切り取ってスクラップしました。最近は自分のパソコンとエプソンプリンターをつないでスキャンすることが出来るようになって、その一部分は散逸したり劣化することもなくデジタル処理して保存することが可能になり、幾分気が楽になりました。でもそれをどのようにソフトに整理できるかはまだ決めてなく、今度はそれらの情報検索が出来るようにしなければならないのです。

7月23日の愛媛新聞単眼複眼

 

 

 「鉄橋にダンプカー」は今年の初夏、天一稲荷神社の裏山が雨で崩れ、その土砂に回想列車が乗り上げ脱線して、予讃線海岸周りが不通になりましたが、その復旧作業のためトロッコにトラックやユンボが上灘駅で積み込まれ、現場に運び込まれたのです。列車の走るレールの上をダンプカーが走るように見えるこの写真は、もう二度と撮影できない貴重なものです。私もこの光景を目の当たりにして、「写真に撮ろう」と思いつつ、カメラを持っていなかったりして、出来なかった貴重な一枚なのです。  「根性の竹に願いを」は双海町高野川で、高野川に住む中尾円さんが撮影し投稿した、これも珍しい写真です。杉の木の幹を突き抜けて竹が生えるなんて、まさにど根性竹です。その竹に七夕様の短冊をつけて東日本大震災の復興を願った、粋な発想に脱帽しました。わが町にも素敵な心の人がいるものです。
 この2枚の写真は私のブログにこうして掲載し、私が生きている限り紙ごみになって捨てられることもなく保存できるのです。

  「新聞の 記事を読みつつ 珍しい 記事スクラップ 無造作保存」

     「そのうちと 思いながらも 整理せず 段ボール箱 中で眠りて」

  「新聞に 乗る記事写真 旬のもの その日過ぎれば 二度と撮れない」

  「世の中にゃ 単眼複眼 人ありて 知らない場面 しっかり再現」

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○ジョン万次郎の生家を訪ねる(その7)

 ジョン万次郎は今から185年前の1827年(文政10年)、土佐の足摺岬のそばにある漁村中ノ浜で、漁師を営む父悦助と、母しおの間に次男として生まれました。誕生日の記録は残っていませんが、万次郎本人が1月1日生まれだと語っているので、それを信じるしかないのです。家は両親と兄妹の7人家族でした。しかし悦助の漁業収入は少なく、赤貧洗うが如き暮らしだったようです。家族は畑を借りて耕作したり、近くの村で野良仕事を手伝う等して生計を立てていました。

 万次郎が8歳の時父悦助が亡くなりましたが、幼くして父を亡くすと、病弱な兄に代わって万次郎は一家を支える稼ぎ手となり、薪割りや漁船に乗ることもあったようです。記録によると少年の頃は活発で騒がしく、親も手こずるほど悪戯者でしたが、次第に銭の取れる漁師になることを夢見ていたようです。
 生まれた中ノ浜から14歳の万次郎が30里(114キロ)も離れた宇佐の港から何故初漁に出たのか、疑問の残るところです。一説によると中ノ浜の古老の家で米つきの仕事をしていたのですが、作業がはかどるように石臼に砂利を入れたのを主人に厳しく咎められ、叱られた万次郎は隣村の大浜浦まで逃げ、たまたまそこに着船していた宇佐浦の漁船に頼み込み、乗せてもらったようです。このささいなきっかけがその後の10年以上に及ぶ万次郎の長い旅の始まりとなったのですから、世の中は何が起きるか分からないものです。

太平洋を見下ろす丘の上に立つ記念碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立派に造られた万次郎の生家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 万次郎の生家は地元の顕彰会によって見事に復元されていました。戦争中の昭和19年に漁師の家に生まれ、漁村のうらぶれた姿を知っているだけに私の目から見れば、復元した生家は余りにも立派過ぎ、時代考証も考えていないようでしたが、万次郎の後の活躍や万次郎の足跡をたどってやって来る人のことを思えば、顕彰会の時代錯誤も頷ける部分もあるようです。それにしても茅葺の見事な姿には大いに驚きました。出世をすると粗末なダイガラも、水を汲み上げた井戸も、万次郎先生ゆかりのものとなるのですから可笑しな話です。海を見下ろす小高い所に万次郎の記念碑が、帰郷150周年を記念して市長さんが揮毫した記念碑が、また波返しのコンクリート壁にはジョン万次郎の生涯が漫画チックに、それぞれ設置されていました。周辺の店の看板にも「ジョン万次郎の名前を使い、コバンザメ商法を営んでいるようでした。

 愛南町山出温泉で始まった第1回ジョン万塾は、中ノ浜の万次郎生家見学で一応終え、講義や道案内をしてもらった青野さんにお礼を言って現地解散となりました。これだけ微細にジョン万次郎について詳しく学べば、次からの学習会は大いに深まるものと期待しているところです。
 今回の学習会で惜しむらくは、目と鼻の先といえどもかなりの距離がある、足摺岬に建っているジョン万次郎の銅像を見れなかったことです。次の機会もあるだろうと帰郷のため先を急ぎましたが、少しだけ心残りとなってしまいました。

  「万次郎 生家訪ねて 中ノ浜 立派に復元 立派過ぎたる」

  「石臼も 井戸も全てが 万次郎 お店の看板 殆んど記述」

  「偉人だが 持ち上げ過ぎて 歪曲な 歴史認識 改めるべき」

  「物語 ここが原点 万次郎 今も変わらず 海は静かに」

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人間牧場

○ジョン万次郎の足跡を辿るエクスカーション(その5)

 ジョン万塾の勉強会と交流会を終えた私たち年輪塾の一行は、明くる22日山出温泉を午前8時に出発し、宿毛経由でジョン万次郎の足跡を辿るべく土佐清水市へ向かいました。愛南から土佐清水へ向かうには大月を通る海岸周りと山周りがありますが、今回は山周りのルートを走りました。集合場所である道の駅めじかへそれぞれが乗り合わせた車に分乗して走るので、早く到着する人もいれば少し遅れて到着する人もいましたが、何とか迷い子になることもなく全員が揃いました。

大迫力の万次郎少年の像

 青野さんの案内で先ず向かったのは、足摺岬の付け根付近にあるジョン万次郎資料館です。資料館の近く土佐清水市あしずり港公園に万次郎少年像がありました。この像の前に立つのは今回が3度目ですが、いつ見ても素晴らしい他に比類なき立派な像です。この像は遭難し流されて5ヶ月間暮らした鳥島で、捕鯨船ジョン・ホーランド号を発見した時の、助けを求める5人の漁師の姿がとてもリアルに表現されています。鳥島や太平洋の荒波をイメージしたバックのスケールの大きいモニュメントも大迫力で、見るものを圧倒するのです。

モニュメント

 

 

 

 

 

 

 

 

穴から見える「空」という文字
穴から見える「人」という文字
穴から見える「時」という文字

 見落としがちな横の看板に、「冒険とは夢を形にする行動力である」という言葉が書かれていました。この言葉は望郷の念に駆られゴールドラッシュに沸き返るアメリカで砂金をすくい、600ドルを稼いで帰国準備のためにボート「アドベンチャー号(冒険号)」を買い、商船サラボイト号に積んで日本に向かったジョン万次郎の心をよく表している言葉で、私の最も好きな言葉のひとつなのです。岬に模した少年像の直ぐ近くの場所に素敵な別のモニュメントが建っていました。3つの穴を覗くと「空」「時」「人」という文字が見えました。穴の開いていない穴からは何も見えず、多分「無」という文字が隠されているのではないかと想像しながらみんなで覗き込みました。

ジョン万次郎資料館

 

 

 

 

 

 

 

 

万次郎のドラマはこのかつお船で始まった

 記念館では企画展が行なわれていましたが、船の模型が沢山集められていたものの、ジョン万次郎たち五人が乗って漁に出て遭難したかつお船や、鳥島で救助された捕鯨船ジョン・ホーランド号、海を渡った咸臨丸、日本に帰るために購入したアドベンチャー号など以外は目新しい発見はありませんでした。ジョン万次郎直筆の英語の表記掛け軸(複製)以外はジョン万次郎自身の書なども見当たりませんでした。皆さんはショップで本を買ったり、カツオバーガーを買ったりしていました。それでも前日の青野さんの話を思い出しながらジョン万次郎の足跡をしっかりと辿ることができたようです。

  「オプショナル ツアーでジョン万 足跡を 辿り辿りて 足摺岬」

  「看板に 書かれた言葉 反芻す 行動なくば 風も起こらぬ」

  「船でしか 外国行けぬ 時代経て 今は空路 何処へも行ける」

  「物言わぬ 万次郎像が 言っている しっかり生きろ 遅くはないと」    

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○ジョン万次郎塾(その3)

 「ジョン万次郎の研究家青野博さんの話で塾はいよいよスタートしました。「ジョン万の生き方に学ぶ」と題した講演のため、青野さんはスライドショーと一枚のレジメを用意してくれる熱の入れようでした。レジメに書かれた次の13項目に沿って話をしていただき、随分分かり易く聞くことができました。

講演する青野博さん

 

講演に聞き入る塾生たち

 ①群像 五人の仲間
  万次郎と船頭筆之丞、その弟重助、五右エ門、そして寅右衛門の五人の乗組員がいたが、万次郎以外の
  四人のその後の消息も興味がある。      

 ②運命の船出 宇佐浦西浜
   万次郎14歳、宇佐浦(現在の土佐市宇佐町)から天保12年(1841)1月5日午前10時、長
  7.6mのかつお船で初漁に出港、運命の第一歩が始まる。  

 ③漂流 鳥島
  7日から13日遭難の航海、酷寒の海での過酷な生活、江戸から南600キロの伊豆諸島最南端鳥島漂
  着、飲み水もない5ヶ月間の暮らし、アホウドリを食料に生き延びた。  

 ④ハワイへ
  水平線に現れた救いの船はアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助される。寄港したハワイで5
  人の運命が分かれる。

 ⑤鎖国時代
  日本は鎖国政策、アメリカは自由の国といえど身分差別の厳しい国。

 ⑥万次郎ひとりフェアヘーブンへ
  ホイットフィールド船長との出会いが新たな運命を生む。フェアヘーブンへ。

 ⑦ハワイに残った四人
  現地で結婚した寅右エ門

 ⑧ゴールドラッシュ
  アメリカ西海岸へ砂金を探しに出かけ600ドルの資金を貯めて上陸用ボートを購入、帰国準備、筆
  之丞、五右衛門賛同、捕鯨船サラボイド号にアドベンチャー号を積み込む。  

 ⑨三人の帰国 沖縄へ上陸
  沖縄摩布仁に上陸、奇しくも太平洋戦争沖縄戦でアメリカ軍が上陸したのもこの地であった。取調べ。
  ペリー率いるアメリカ艦隊4隻浦賀来航。万次郎の活躍が始まる。 

 ⑩宇佐での別れ

 ⑪その後の万次郎
  43歳で病気のため第一線から退き隠居に近い生活。71歳で波乱に富んだ人生を終える。

 ⑫150年を経て
  現在のジョン万次郎を機軸にした地域づくり。

 ⑬日米の交流
  ジョン万次郎を縁にした日米交流、青野さんの活動や活躍。

  「ジョン万の 年表順を なぞらえて 興味津々 話聞き入る」

  「二回目は あれもこれもと メモ記入 聞きたいことが 山ほどありて」

  「運命は 人の出会いと 前向きに 生きる姿で 切り開かれる」

  「こうまでも ドラマチックに 生きれるか 自分と重ね 愚かさ嘆く」

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○第1回ジョン・万次郎塾(その1)

 旅する巨人といわれた民俗学者宮本常一に続いて、600ものまちや村を冷害や風水害から救った復興の祖といわれる二宮尊徳をテーマに、それぞれ2年間学習してきた私塾年輪塾は、今年から2年間、江戸末期から明治初期にかけて数奇な運命を辿った、ジョン・万次郎をテーマに学習することになり、その第1回目の学集会が、少し遠隔の地である愛南町山出憩いの里温泉で昨日と今日、28人が参加して開催されました。
 愛南町を選んだ理由は、ジョン万塾の世話をしてくれたのが高知県四万十市の和田修三さん、愛南町の上田来喜さん、脇田弘樹さんだったことと、ジョン・万次郎の出身地が高知県土佐清水市中浜で、明くる日のエクスカーションに都合が良かったこと、また講師のジョン・万次郎研究家青野博さんが高知県土佐市の人だったことなどなど、諸々の条件が重なったからでした。

 3人は今回のプログラムを組み立てるに当たり、会場選定から当日の運営までかなり頻繁に、しかも綿密に連絡を取り合い打ち合わせをしてくれました。また3人の収集したかなり大量の資料は脇田さんを通じて年輪塾ネットで塾生に配信され、私のようなものでも、津本陽の「椿と花水木」(万次郎の生涯上・下)、井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記等の課題図書をアマゾンで取り寄せ、また脇田さんから送られてきた「日本の100人」(No、067ジョン万次郎)などを、年表を頭に描きながらかなり詳しく読んで事前学習して望みました。
 昨日は久しぶりの好天に恵まれ、前日打ち合わせていた通り、松本小番頭さんが自慢のプリウスに乗って、朝8時10分前にわが家へ迎えに来てくれました。8時に浜田さんと待ち合わせ、3人で双海町を予定通り出発しました。双海~長浜~大洲と肱川沿いを走り、大洲から高速に乗って西予、宇和島を素通りして津島やすらぎの里付近まで、楽しい雑談をしながら進みました。そこから先は地道国道56号を南レクまで走り、農面道路を経て休むこともなく一気に会場となる山出温泉に到着しました。時計を見ると10時40分過ぎでした。幾ら便利になったとはいえ、幾らプリウスだといえ、あまりの早さに一応が驚きを隠せませんでした。

 

お城の形をした山出温泉

 そのうちメンバーが一人二人と到着し、4月14日大洲市田処大杉年輪塾以来の旧交を温めました。準備の都合もあるので、少し早めの11時過ぎから、何故か?バイキング990円(おつり10円)の食事をしました。田舎だからと侮っていましたが、どうしてどうして、美味しいご馳走がこれでもかというほど並び、欲どしい私たちはこれでもかというほどお代わりを重ね、すっかり食べ過ぎてしまいました。
 この日の塾には新顔も何人か顔を見せていて、特に脇田さんの手助けのために愛南町役場の若手が4人も参加してくれ、受付や会場準備といったコマゴマをやってくれ、大助かりでした。
 講師の青野さんは四万十市の職員である和田修三さんの無二の親友だと聞いていました。また青野さんは土佐市の職員を長年していて早期退職し、現在は病院の事務長やたかおか薬局の社長さんをしているそうですが、生まれは愛媛県松山市だったり、お父さんが国鉄に勤めていたころ、下灘駅に勤務した経験があるという、意外にも耳寄りな話を聞き親密感を覚えました。
 青野さんはジョン万次郎の研究家と名乗るだけあって、かなりな博学でその研究のために海外へも何度か足を運び、関わる人と親密な交友も続けているのです。いやあ凄い人だと思いました。年輪塾では今年末に第2回目の学集会を人間牧場で、来春高知県四万十市で第3回学習を行い、来年末には大掛かりな公開セミナーを開く予定です。後3回の学集会にも指導をしてもらうよう依頼し、快諾を得ることが出来ました。

  「楽しみに していたジョン万 学習会 ついに始まり 進化を期待」

  「ジョン万の 研究私財 投げ打って 面白き人 世にはいるもの」

  「遠い町 すっかり近く なり便利 噓じゃないかと 時計確認」

  「私には ジョン万次郎 夢の人 聞けば聞くほど もっと知りたい」

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