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〇私というもう一人の自分

 私は若松進一です。他人の目に映る若松進一は身長168センチ、体重55キロ強、田舎といわれる四国愛媛県伊予市双海町に住んでいます。自分では名前若松が示すとおり若いつもりですが、残念ながら66歳の年齢を重ね、あと2週間ほどで1歳歳を重ねる初老な男性なのです。顔の造りはわたしを産み育ててくれた両親の責任なので、少し不満ですが目も口も耳も鼻も人並みにあるし、頭の髪の毛だって同じような歳の人に比べるとある方で、ハゲでも白髪でもないのです。しかし私の周りの人が格好良くて男前だったため、これまで女性には余りもてず色恋もありませんでしたが、見合いで一目惚れした?妻と26歳で結婚し、40年間中の良い夫婦を保ち、一女三男を儲けまあそれなりに幸せな家庭を築いているのです。頭脳は生まれつきと思っていましたが、後で聞いた話だと勉強をすればそれなりになったようですが、残念ながら勉強をしなかったため、親の病気という少しばかりの言い訳もあって高校しか出ていないのです。それでも世渡りは人並みだったため私の能力以上に働き、借金もなく今はまあまあ幸せな暮らしをしているのです。

 私はいつもこの体内に潜んでいる自分というもう一人の自分と対話をしながら暮らしています。自分というもう一人の自分に気がついたのは18歳の時でした。それまでは人が目にする自分以外、自分の存在等気がついていませんでしたが、愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸で南太平洋珊瑚海に遠洋航海に出て寄航時、伊豆半島の沖で冬としては珍しい980㍊の低気圧の中に入ってしまい、死ぬかも知れないと船長さんに告げられました。その時私は自分の中に潜む自分と対話し続け、もう一人の自分とめぐり合ったのです。以来今日までの約半世紀50年間を、対話しながら共存共栄していき続けてきたのです。そして23歳の時自分の心の中に潜んでいる自分を鍛えない限り、いい人生は送れないと自覚し、自分を鍛えることを決意しました。体を鍛えることは勿論ですが、自分の心を鍛えることは容易なことではありませんでした。人間には等しく与えられた時間がありますが、寝る時間を少しだけ少なくし上手く使えば凡人の私でも人並みなことができると早寝早起きをモットーに、毎朝4時に起床することを決意しました。その決意は今もどうないか破られることもなく続いていて、その効果は「早起きは三文の得」となって蓄積しているようです。

 そして読む、聞く、見るという行動で得た知識を潜在能力にして、苦手だった書くことや喋ること、実践することによって顕在能力に変えてきたのです。お陰様にて自分の体内に巣づくっている自分というもう一人の自分を随分逞しく育て上げました。それは自分だけの力でもなく、関わってもらった多くの人の力によるものであることは、疑う余地のないことだと肝に銘じているのです。
 さて間もなく67歳の誕生日を迎える私にとってこれからどう充実して生きるか、これはこれまで以上に厳しいハードルが待ち受けているように思うのです。最大の難問は体力と気力の衰えです。私と同世代の人たちの中には既に体力と気力の衰えを訴えて、急速に人生のスピードを緩めている人もいます。それを年齢のせいだと主張していますが、私は「それは自分というもう一人の自分の心が弱いからだと思うのです。
 「くじけないで」がベストセラーになった柴田トヨさんは、「百歳」という本の中でこう書いています。

   百歳
私 来年になると
百歳になるの
奉公 戦争 結婚 出産 貧しい生活
いじめられたり 悩んだり
辛いこと 悲しいことも
あったけれど
空は 夢を育み
花は 心に潤いを
風の囁きは 幾たび
私を 励ましてくれたことだろう
あっという間の九十九年
両親も夫も お友だちも
みんな 逝ってしまった
でも 次の世で会えるわね
私 笑顔で会いたい
そして いろいろなこと
話してあげたい
百歳のゴールを
胸を張って駆けぬけよう

 柴田トヨさんの生き様はまさにもう一人の自分が素晴らしいことを実証しているようです。誕生日を機にもう一度もう一人の自分を強くすることを誓いたいと思っています。

  「若いころ 自分の中に いる自分 発見したから 豊か生きれた」

  「百歳を 迎える人に 教えられ 私まだまだ 修行が足りぬ」

  「座禅して 自問自答 する姿 これぞ私の 目指す生き方」

  「まだ若い 思えば私 まだ若い 負けてたまるか 自分にだけは」

 

 

 

 

 

 

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〇敬老会に招かれて(その2)

 昨日の朝は台風接近をまったく感じさせないような快晴でした。天気予報だと午後は雨だといっていたので、心配しながら妻を助手席に乗せて一路愛南町内海柏を目指して出発しました。大洲から西予市宇和まで高速に乗りましたが、大洲盆地では早くも霧が立ち込め雲行きが怪しくなってきました。
 高速道路の延伸は予想以上に進んでいて、宇和島道路を通れば宇和島市と合併した旧津島町やすらぎの里までは2時間近くで行きました。津島町は早場米の産地で県下で一番稲刈りが早く、お盆ころには新米として出荷しているようで、稲刈りの終った田圃はここ最近の雨で水浸しになっていて、彦生えの稲がまるで田植えを終えた早苗のようにも見えました。

 

敬老会の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

敬老会の記念写真撮影中

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間があったので宇和海を見下ろす喫茶店に入り妻と二人でモーニングセットを注文しのんびり過ごしました。やがて時間が来たので元来た道を少し引き返し、柏集会所に着きました。北原区長さん以下役員さんに出迎えていただき中へ入ると75歳以上の高齢者が既に着席し開会を待っていました。参加者の中には赤樫元村長さんや池田元校長さんなど懐かしい顔ぶれもあって、あいさつを交わし雑談に耽りました。
 やがて区長さん、老人会長さんのあいさつと乾杯で賑やかな懇親が始まりました。少しお酒と食事が進んだところでいよいよ私の出番です。末席から聞いているとマイクの調子が今一だし、それでなくても耳が遠い高齢者なので、務めて大きな声でゆっくりとを自分に言い聞かせ、トークショーとでも言うべき出し物を30分間しっかりとやりました。

 極めつけは、私より5歳も若い同行した等身大のパネルをステージに立たせ、白いシーツをまるで除幕式のように引いたり、電光掲示板を見せたり、またハーモニカや赤とんぼを曲芸のように竹の棒の先に止まらせたりしながら高齢者の気を引かせました。さっきまで賑やかだった会場は私のトークに釘付けで、ステージから感じる限りは大成功だったようです。
 無事役目を終えて末席に引き下がり、地元の人の二胡演奏や歌声を聴きながら食事を楽しみました。やがて携帯電話に妻から迎えに来たと連絡が入り、早々にお暇しましたが、とても楽しいひと時でした。敬老会を単なる褒め殺しの催しと捉えず、ワンランクアップしようとした北原区長さんの思惑は多分、参加した高齢者が一番感じたのではないでしょうか。

 私の等身大人型パネルを車のドア付近に置いての移動は、助手席に乗った妻にはとても窮屈そうでした。休憩する度に運転席から助手席に移動しなければならず、面倒くさいようでしたが、宇和島付近でバケツをひっくり返したような大雨にあってノロノロ運転を強いられましたが、あちらこちらへ立ち寄って夕方無事わが家へ帰って来ました。親父も雨の中なので心配しいていたようで、車が我が家に到着したら玄関先まで出迎えてくれました。親父は地元の敬老会は土曜日でしたが、人の前で食事をするのが苦手で、今年も欠席をしたようです。昨日は津島町で買い求めた善助餅と酒饅頭などを親父に土産として渡しました。敬老は大切な日本人の心です。これからも敬老の心を持って親父に接したいと思っています。

今朝の台風15号と16号の進路予想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「敬老会 招かれ出かけ トークショー 百点満点 上手く行ったぜ」

  「等身大 人型パネル 窓際に 寝かせ窮屈 助手席妻乗せ」

  「餅饅頭 親父に土産 買ってくる これから先も 敬老心で」

  「褒め殺し 敬老会より 役に立つ そんな思惑 見事に当たり」

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〇今日は敬老会に招かれて(その1)

 「えっ若松さん、もうそんな歳ですか?」と、上の見出しを見出しを見ただけなら、殆んどの人がそう思うかも知れません。実は私が敬老会に招かれたのは高齢者だからではなく、はるばる愛南町内海柏地区の敬老会に、余興をするゲストとして招かれたのです。
 私は自称「無芸人」と公言するほど無芸なのです。歌は歌えないし、文字は下手糞だし絵は書けないし、楽器なんてからっきしダメで、人に自慢できるものは何もないのです。そんな私にお座敷がかかるのですから、相手は余程私をかいかぶっているか私の能力を知らないのです。

この話が私の元に持ち込まれたのは約一ヶ月前でした。今年度柏地区の区長になった私の友人北原さんから、まず私の9月19日の予定が空いているかどうか、またもし役員会で私を招く提案が認めれれれば来て欲しい。ただし予算がないのでボランティアでと、少し迷いそうな電話がかかったのです。北原さんとは35年前に青年の船で太平洋を渡り建国200年のアメリカへ行って以来、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーとして、無人島キャンプや様々な活動をともにしてきた間柄なので、断わることもできず、安請け合いをしてしまったのです。

 聞けば60人ほどの75歳以上の高齢者に、食事をしてもらいながら私の持ち時間を30分差し上げるので適当にと、まま適当なお話でした。しかし私の家から会場となる柏集会所までは高速道路を使っても片道2時間半はかかるし、30分は帯に短しタスキに長しといった中途半端な時間なのです。ましてや耳が遠く、人の話を聞かない年代の人が食図をしながらお酒を飲みながら見聞きするのですから、誰が考えても上手く行くはずがないのです。
 今日は妻も2連休最後の休日なので一緒に出かけてくれることになり、少し早めの8時に自宅を出ました。今朝5時半に起きて人間牧場まで行き、私の等身大パネルを持参するためトラックに積んで自宅へ持って帰りました。また竹とんぼや電光掲示板、ハーモニカ等を木になるカバンにしのばせ、出発しました。

 (この続きは明日のWORD PRESS https://blog.yuuhi.jp で紹介します。)

  「敬老会 来てくれないか 誘われて いくことしたが 何をすべきか」

  「能力を かいかぶられて 困ったと 後で気がつく 愚かな男」

  「作戦を 立てたパネルを 朝早く 牧場出かけ 持ち帰り積む」

  「台風が 接近するも 上天気 妻をカーナビ 見立て出発」

  

 

 

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〇上がり蚊と名残り蝉

 台風の行方を気にする私たちをまるであざ笑うように、大東島付近でぐるり一回転しながら居座る台風15号の影響で、今日はかなり蒸し暑い一日となりました。最近まで虫の声が賑やかになったり、名月の話題で秋が近づいた感じがしていましたが、この2~3日は梅雨を思わせるようなかなり激しい雨が降り、加えて蒸し暑いため、上がり蚊というのでしょうか、網戸を越えて薮蚊が台所まで進入し、腕や首筋を刺されてしまいました。夕食時妻は早速蚊取り線香を焚いてくれましたが、刺された後がかゆくて、虫刺されの薬を塗ってもしばらくの間かゆみが収まりませんでした。

 いつも思うのですが、あんな小さい蚊なのに頑丈な皮膚を何故刺せるのか、不思議といえば不思議です。手で叩くといとも簡単に潰せる蚊といい、強力な毒針を持っているミツバチといい、また先日刺されたムカデといい、私たち人間はあんな小さい虫にさえも叶わないのですから大したことはないのです。
 ビールを飲んでいた昔は、蚊がビールの匂いを好むのか私の元へ蚊が集まってきていました。ところが酒を止めたつい最近は、蚊の方が寄り付かなくなり、傍にいる妻が標的にされているようです。蚊にさえ歳をとった私は見放されたようで、少々寂しく感じます。一方妻を狙う蚊はオスではないかと邪推したりするのです(笑い)。

 セミの鳴き声もこの雨と夏の終わりの気候ゆえ、もう終わりだと思っていたのですが、今朝裏山の森林の向こうにある雑木林から、それは賑やかにセミの鳴き声が聞こえてきました。まさにセミの名残鳴きのようで、少し物悲しい声に聞こえました。
 セミは「地中7年地上7日」といわれるように、一生の殆んどを土の中で暮らします。地上に出て僅か7日しか生きられない短い命を燃やそうと、あらん限りの力を振り絞って鳴くセミの声を、遠く近くで聞けるということは、まさに奇遇で運命的なことかも知れないのです。もうセミの鳴き声も聞き納めで、来年の6月まで封印されてしまうのですから、しっかりと傍耳を立てて聞いてやりたいものです。

  上がり蚊に さえも私は 見放され 妻に言い寄る オスの蚊かしら」

  「土の中 七年過ごし 地上では 僅か七日の 命燃やさん」

  「来年の 夏まで封印 セミ時雨 鳴き声ゆるり 聞いてやろうか」

  「台風が あざ笑うよう 同じ場所 のらりくらりと 本土うかがう」

 

   

 

 

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〇一字違いの大間違い

 私の所へは配達に来る郵便局員さんも驚くほど、リタイアしているというのに毎日沢山のハガキや封書が届きます。私が「毎日3枚のハガキを書いたら人生が楽しくなる」という、半田さんの言葉を信じて書いているからかも知れません。最近はハガキや封書に変わってPCによるメールも届くので、出張で何日か家を空けるともう郵便物が山のようになって、その処理だけでもかなりの時間を割いてしまうのです。それでも私は飽きもせず相変わらずその郵便物やメールに目を通し、ハガキ3枚も書いているのです。実はその中に私の名前でない「若林進一」とか、「岩松進一」「赤松進一」「若松新一」とかいう郵便物が時々混じってくるのです。郵便番号も住所も合っているので、郵便局員さんも名前の間違いだけだと思いやって届けてくれるし、別のその事をとやかく言うつもりはありません。しかし「若松新一」となると少し悩むのです。

 昨日の地元新聞の18面イベントガイド「えひめあること・いくこと」欄に、「伊予市まちづくりフォーラムin下灘駅」のイベント予告が載りました。「23日午後3時~日没、双海町大久保のJR下灘駅。山梨県北杜市の標高1200㍍の高原でバレエの上演を企画・実施した舩木上次さんと、1986年に同駅で夕焼けプラットホームコンサートを初めて企画した若松新一さん(伊予市)の対談も。地方だからこそできる文化の創造スタイルを議論する。2人はいずれも国土交通省から観光カリスマに選ばれている。無料。駅周辺には駐車場がなく、車で来場の場合は近くの下灘コミュニティセンターの臨時駐車場を利用。事務局・松本さん℡090(83460)2685」と書かれていました。

9月16日付けの新聞告知記事
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ここに書かれた記事の中には、「若松新一」とあります。これは明らかに間違いですが、観光カリスマなので私に間違いはないのです。実は私の住んでいる双海町内に「若松新一」というもう一人の人が実在しているのです。その人は母親どおしが姉妹、つまり私と従兄弟になるのです。彼に時々会うと手紙が間違って届くことがあると言っていましたが、わが家へも「若松新一」さん宛ての年賀状等が時々届くことがあるのです。まあ親類で従兄弟なので目くじらを立てることもないのですが、母親どおしが兄弟なのに何でこんな紛らわしい名前をつけたのでしょう。多分有能な私にあやかろうなんて馬鹿なことを考えたわけではないのでしょうが(笑い)・・・・。昨日この告知を見た近所の人が、郵便局へ手紙を出しに行く途中で、「名前が間違っていた」と教えてくれました。
 はてさてあと4~5日後に迫ったこの企画イベント、台風一過となって欲しいと願っています。
 
  「一字だけ 違っていたら 別の人 若松進一 新一似てる」
  
  「俺はいい 従兄弟言いつつ 相手には 失礼の段 平にお許し」
 
  「気がついた 人も入るけど 気がつかず 情報流れ これも世の中」
 
  「雨上がり 台風一過の 天気にて 思う存分 語ってみたい」
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〇ハーモニカの練習

 今日は朝から曇り空で、午前中に雨になるという天気予報どおり、午前8時にはポツポツと雨が降り出しました。孫希心を保育園へ連れて行き、急いで倉庫から耕運機を取り出して、先日石灰を撒いていた畑を中耕し始めました。そんなに広くない部分なのであっという間に耕しましたが、最後ころは少しだけ雨に濡れてしまいました。濡れたついでに魚を積んだまま洗っていなかった潮けたトラックの荷台を棒ずりで綺麗に洗い、ひとまず作業を終えました。
 ハメハメ大王という歌がありますが、リタイアした私は「♭晴れた日には仕事して、雨が降ったらお休みで、ハメハメハ・・・♯」なのです。濡れた洋服を着替えて書斎に入り、何するでもなくただボーと外を眺めながら机の横を見ると、先日書斎の移動の時に出てきた1本のハーモニカが目に付きました。AmともCとも書かれていないMADE IN CINA製のハーモニカです。「勝利 VICTORY」と書かれたものですが、吹いてみるとかなりいい音が出ました。

ごっくん馬路村のTシャツを着てハーモニカを練習する私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このハーモニカは洋音なので流行歌はそんなに吹けませんが、赤とんぼ、夕やけこやけ、ぎんぎんぎらぎら、ふるさとのような唱歌の他に北国の春や、星影のワルツ、娘よなんて流行歌も吹けるのです。私が見よう見真似の独学で、ハーモニカを吹き始めたのはもう10年も前のことです。以来多分このハーモニカで暇を見つけて5分、10分と練習したのでしょうが少しだけ上達して、下手糞ながら思いつくまま200曲くらい吹けるようになったのですから驚きです。
 聞く人が褒めてくれることをいいことに有頂天になって、妻がテレビショッピングで買ってくれた二本のハーモニカを木になるカバンに忍ばせ、全国至る所で人の迷惑を顧みず吹きまくっているのです。只今私の得意は夕日にちなんだ歌はもとより、「ああ上の駅」や高知県に行くとご当地ソングの走りといわれる、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」などを楽譜もなしに適当にアレンジして吹いています。

 今日は嫁と孫が児童館へ、妻は仕事にと家に居るのは私一人であることをいいことに、何の臆目もなく吹いています。実は3日後の19日には、21世紀えひめニューフロンティアグループの仲間である、愛南町内海に住んでいる北原さんから、彼が自治会長をしている柏地区敬老会に、ハーモニカなどの余興をして欲しいと頼まれているのです。
 日ごろ世話になっている仲間のことゆえ、一も二もなく引き受けましたが、私の持ち時間は僅か30分のために、片道2時間半、往復5時間かかるのですから、何ともはや首を傾げたくなるような気持ちです。それでもお座敷がかかれば、該当者110人のうちおよそ60人が集まるという敬老会に行かなければならないのです。
 さあもう一分張り、雨が降っていることをいいことに、少しばかりハーモニカの練習をしましょうか。雨が降ったらお休みで、ハメハメハ、ハメハメハ・・・・です。

  「今日は雨 雨空見つつ ハーモニカ 練習励む 少し上達」

  「通知表 音楽2しか 取れなんだ それでも200も 曲が吹けれる」

  「呑気です 雨が降ったら お休みで ハメハメハとは いいものですよ」

  「お座敷が かかって来週 ハーモニカ ホラと一緒に 吹いて来ようと」

 

 

 

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早朝畑に出て水やりをする私
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〇半袖から長袖に替わった朝
 
 昨日の夜は、親類の漁師さんから貰った3箱の魚の処分に手間取りました。特に1箱の鱧は腕首小ほどの型も良く最高でしたが、20本もの鱧を裁き骨切りをするのは容易なことではないのです。鱧はお裾分けしようにもできない難点があって、結局のところ私が全て調理しなければならず、多少いぶかしい点もありますが、最近は随分馴れて肯定的に料理をしています。
 今は大相撲秋場所が始まっていて、夕方5時頃になると孫と私のチャンネル争いが始まります。結局の所私が勝つのですが、昨日はその大相撲をテレビで見ることもできず、終ったのは7時過ぎでした。したがって家庭菜園の水やりも出来ずじまいでした。
 
 昨夜はそのことが気になっていて、朝起きてブログを1本書いた時点で、着替えて外に出ようとしました。今朝は穏やかな天気でしたが朝は初秋特有の少し肌寒さを感じたので、6月から2ヵ月半も続いた半袖を長袖にしたのです。考えてみれば私の住む四国・愛媛県・伊予市・双海町・灘町での暮らしは、温暖な瀬戸内海気候といいながら、半袖で過ごせるのは長くても3ヶ月ほどで、後の9ヶ月は長袖での生活なのです。あせって長袖を着なくても、これから9ヶ月も長袖の暮らしが続くのだからと、妻に笑われました。
 リタイアしてから戸外での作業が多くなった私ですが、作業する時はもっぱら長袖のシャツを着ます。それでも今年の夏は顔も手も真っ黒に日焼けして、いつになったら元の色白な美男子に戻るのでしょうか(笑い)。
 
 この一週間ほどは、連日30度を越す猛暑が続いています。そのため折角蒔いた家庭菜園の野菜の種も芽が出ないと、近所の人は嘆いていますが、わが家庭菜園には庭の隅に掘ってある井戸から配水パイプ引かれ、水をやれるようにしているため、この1週間毎日夕方水やりを欠かさずしています。お陰さまで春菊とホウレンソウ、秋ジャガを除けば大根類は殆んどが可愛らしい貝割れのような芽を出しています。所々芽吹いていないのは野鳥の食害だと思われますが、気にするほどでもないので追い蒔きもせず成長を見守っています。
 目にはさやかに見えませんが、秋はもうそこまでやって来ています。
 
  「半袖を 長袖に替え 外に出る これから長い 長袖暮らし」
  「貝割れの ような大根 芽を出して 涼しげジョロの 水を貰いぬ」
  「雨降らぬ 故に芽が出ぬ 嘆く人 わが家ばかりは 心配他所に」
  「自画像を 見ながら顔の 日焼け知る 美白イケメン 間もなく披露目」
 
 
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人間牧場

〇今日の私が一番古くて一番新しい

 今日の自分は、過去66年間生きてきた自分の中で最も古い人間です。しかしこれから何年生きるか分かりませんが、未来においては自分の中で最も新しい人間であることも間違いない事実なのです。最も古い人間の私はこれまで様々な試練を乗り越えて生きてきました。その中には成果もあれば失敗も沢山あって、得に失敗はいくら頑張ってももう取り返しがつかず、それら全てを受け入れるしかないのです。自分の過去をネガティブに捉えるかポジティブに捉えるかは、取り返しがつかないものながら、これからの人生を生きていく上でとても大切なように思えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 私は自分の人生をつとめてポジティブに捉えるようにしています。町を二分した町名変更のゴタゴタや、病気による転職等はネガティブに捉えれば立ち上がれないほど大きな損失でしたが、ポジティブに捉えれば町名変更は地方自治の何であるかが分かったし、病気による転職も今の自分の再起動になったと思えるのです。
 新居浜で開かれた講演会で、「これまでの生き方がこれからの人生を決めるのではなく、これからの生き方がこれまでの人生を決める」という言葉が本当であれば、今日から始まるであろう自分の人生をうかうか生きることはできないのです。ゆえに私にとって今日という日は未来への旅立ちの日であると思いつつ今朝を迎えました。

 

 

 

 

 

 

 

 散歩の途中山道の林の中に差し込む朝日は暗がりの中で過去の自分を見ているようでした。また山道を下ったところから見る日の出前の曇りのない青い空は、私のこれからの人生を物語っているようにも見えました。
 「人間いかに生きるか」、これは誰もが考える永遠のテーマです。私もまた「いかに生きるか」を考えながら、間もなく迎える67歳の誕生日を機に、しっかりとした生き方をしたいと思いました。(下は私の今朝の自画像です)

 

 

 

 

 

 

 

  「今日という 一番古くて 若い日を どのよう生きる 自問自答す」

  「さあ今日も 元気生きよう 自らに 叱咤激励 歩み始める」

  「庭先で 手持ちカメラの シャッターを 押して自画像 まあまあですね」

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〇足し算型人生かそれとも引き算人生か

 わが家には過去の世代を担ってきた親父と、今の世代を担っている私と、それに次の世代を担うであろう長男息子が同居しています。93歳になった親父の暮らしはどちらかというとシンプルライフで、パソコンもなければ車もないのです。それでも別に困ることなく暮らしているのですから、シンプルライフはムダやムラがなく、お金もそんなに必要としない、いい生き方のような気がしています。そこへ行くと高度成長時代に育った私のような人間は、あれも欲しいこれも欲しいと、一生懸命働いて土地や家、子ども4人などなど欲しいものは何でも手に入れてきました。親父の今の暮らしを引き算型というなら、さしずめ私や息子の暮らしは足し算型ではないでしょうか。しかし同じ現代に生きる私と息子では同じ足し算型でも少し様子が違うのです。

 私たち夫婦はとにかくものを捨てずに溜め込みます。あれもこれも勿体ないと捨て切れず、いつの間にか押し入れも倉庫もいっぱいになって、中には10年間もまったく使わないものや、息子や娘が学生生活のため使っていたテレビ、洗濯機まで納屋の倉庫にうず高く積んでいました。今回息子たちと同居をするために家のあちこちを片付け、要らないものを捨てましたが、大工さんにお願いして廃棄物処理場へ送った物はおびただしい量でした。それらの荷物を片付けるとき、息子はこれも要らない、あれも要らないといい、あれも要るこれも要ると主張して囲い込もうとする妻と、意見が合わなくて随分もめたようです。
 私たちの暮らしももうそろそろ、息子や親父に見習ってシンプルライフに変身しなければならないようです。

 先日息子が人間牧場へ孫たち4人を連れて人間牧場へやって来ました。私は接客中でしたが、息子はロケ風呂の脱衣場へ持っていった古いタンスが気に入らないらしく、私にそれを撤去するよう求めましたが、畑仕事の後風呂を浴びて帰るための着替えや作業着を入れていたタンスを、私の承諾なしに焼却処分して、衣類だけを持って帰って来ました。
 唖然として口喧嘩になりましたが、よくよく考えてみれば息子の言うのも一理あると思いました。「老いては子に従え」でしぶしぶ従うのではなく、息子の筋の通った話に納得させられたのです。いつの間にか染み付いた足し算型の人生も、どうやら幕引きのようです。

  「足し算の 人生歩む 夫婦には 親父と息子 勺にさわりて」

  「老いて子に 従う姿勢 大事だが 納得いかぬ ことは反論」

  「気がつけば 古い人間 なっている 変えたらいいのに 変えれず生きる」

  「引き算は 物捨てるだけ じゃあない 心がけして シンプルライフ」

 

 

 

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〇私の健康は誰のもの?

 「健康は誰のため?」と尋ねられたら、殆んどの人が「自分のため」と答えるでしょう。勿論健康は自分のためのものなのですが、家族のためでもあるのです。家の中で誰かが病気になって入院でもすると、家の中がまるで灯が消えたようになることは何度も経験しました。先日も親父が一週間余り便秘気味で病院へ連れて行ってくれと、せがまれただけで一辺に家中が暗くなり、精密検査の結果何処も悪くないことを知らされると、みんなが安堵の表情になったのです。このように私の健康といえど家族にとって私の健康も大切な条件だと自覚して、毎日早朝ウォークや時々悪くなる腰のための腰痛体操をを行って、体調管理に気を配っています。

 私の健康維持にとってもう一つ大切なものに食事があります。その食事を毎日作ってくれるのは妻ですが、10年前に胆のう摘出手術をして体重が13キロも激減してからは、特に注意をして食事を作ってくれるのです。私は肉が余り好きではないので、野菜と魚を中心にした妻の料理は、結婚して以来40年もその味に飼い慣らされているため、口当たりもよく、殆んどの料理を満足して食べています。妻は漁家に嫁いで来たので、最初は下手だった魚料理も今ではお手のもので、魚を使った色々な料理を食べさせてくれます。その魚は親類の漁師さんから不定期ながら沢山いただき、その都度下ごしらえして冷蔵庫や冷凍庫にしまい、また近所や友人にお裾分けして喜ばれていますが、昨日もアマギをトロ箱いっぱいいただき、私が手伝って鱗・頭・内臓を丁寧に取って水洗いし、当分の食料を確保したのです。

 体の健康と同時にもう一つ忘れてならないのは心の健康です。わが家のように親父は大正世代、私たちは昭和世代、息子や孫は平成世代と四世代が同居する家庭では、何かと波風が立つものです。頭では理解していても毎日の暮らしとなると、ついつい要らぬ口も出して衝突することもしばしばあります。また人間は何かにつけて悩みはあるもので、その悩みを見抜きながらお互いが片寄せあって生きてゆかなくてはなりません。
 最近はうつ病等心の悩みを持っている人も多いことを考えると、悩みを溜め込まないようにしなければならないとも思うのです。わが家は世帯が3つに分かれていて、親父、私たち夫婦、息子家族がそれぞれキッチンを持っています。世代によって食べ物が違うことを考えて分離していますが、妻は親父の食事を担当し、妻が作ったものは息子家族にお裾分けし、息子嫁も得意なパン焼きで私たちにお裾分けをくれるのです。まず基本である家族の人間関係に心を配りながら心の健康を目指したいと思っています。

  「健康は 自分ひとりの ものでなし みんなのものと 心がけつつ」

  「七人の 家族が一つ 屋根の下 暮らす工夫は まず健康」

  「一つ家 三つもキッチン 無駄な気も それぞれ世代 食い物違う」

  「健康は 体の健康 もう一つ 心の健康 いずれも大事」

 

 

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