shin-1さんの日記

〇下灘中学校惜別の会②

 昨日は午前中下灘中学校の閉校式に出席し、1時間余り余裕があったので久しぶりに人間牧場へ行きました。来週の火曜日に今治市玉川町で旧友井出サツミさんを介して講演を頼まれている準備のためです。玉川町へはもう何度も講演に行っているので、今回は思考を凝らして落伍風の話をしようと思っています。そのための七つ道具であるめくりや裂き織の羽織、それに拍子木などが必要なのです。

 人間牧場界隈もこのところの寒さでいまいち春が足踏みしているようですが、ミツバチの巣箱には何匹かミツバチが出入りするのが確認できたり、蕗が芽を出して春近しを感じさせてくれました。帰りに西嶋さんに大きなポンカンをキャリーにいっぱい貰いました。

 閉校式第二部は惜別の会と銘打って、下灘コミュニティセンターの大ホールで12時から行われました。受付で会費3千円を支払い正面に向かいって右側の指定された席に着きました。隣は5級年上の梶野和幸さん、正面は一級年下の忽那明美さん、右前は山本学園の校長だった村井淳子さんで顔も気心も知れているため、色々な話をさせてもらいました。後で気がついたのですがこの席はどうやら白鴎という今回の記念誌にそれぞれの卒業期ごとに依頼されて寄稿した人たちの席のようでした。

 まず今回の閉校記念事業の若松良樹実行委員長があいさつし、市長さんやPTAの歴代会長さんたちの代表が思い出を一人一分という約束で始めましたが、皆さん思い出が多過ぎて、10分ほども喋る人がいるほどでした。

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8ジーンとくるような挨拶をした若松良樹さん)

 この日は歴代の下灘中学校長さんも何人か見えていましたが、直前校長の松尾先生も見えていました。待つ先生は現在港南中学校の校長先生をしていますが、この春めでたく定年を迎えるそうです。会場で高知大学大学院に通う堀川奈津さんにも久しぶりにめぐり合いました。彼女はもう直ぐ卒業して就職するそうですが、在学中にインターンで奈半利町に行っていた折、まちづくりで随分とお近づきになった学生なのです。彼女も私と同じように第53期卒業生として寄稿していました。

 先日送られてきた記念誌には、私の寄稿文が「宿直室での学び」と題して146ページに紹介されているようです。

 ともあれ、わが愛する母校は数々の思い出を残して、永遠の眠りに着こうとしています。お疲れ様でした。

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(松尾校長先生と堀川奈津さん)

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(私の寄稿文が載った146ページと寄稿文全文)
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  「閉校と いう日立会う 幸運に 恵まれ私 歴史承認」

  「このことを 記録する人 いないかも 消え行く記憶 記録残して」

  「懐かしき 人が集まり 懐かしく 記憶たどりて 懐かし話」

  「大声で 歌う校歌の 懐かしく 思わずぐっと 胸が詰まって」

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shin-1さんの日記

〇母校の閉校式に出席して①

 昭和22年4月に愛媛県伊予郡下灘村立下灘中学校として、下灘小学校内で産声を上げた中学校が62年の学校史に幕を閉じることになり、昨日閉校式があって一般卒業生として出席させていただきました。居並ぶ来賓関は埋め尽くされていましたが、一般席はまだ席に余裕があったようで、先輩・同輩・後輩と席を同じくして昔を懐かしみながら在りし日の学校を偲びました。

 学校は閉校式を行いましたがこれから先在校生の卒業式や終業式があって、学校を閉じるのは16日後の3月31日ですが、セレモニーには市長さんも見えられ式辞を述べられました。

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(市長さんの式辞)
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(議長さんのあいさつ)
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(校長先生のあいさつ)

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(生徒代表の挨拶あいさつ)

 これまでに3489人の卒業生を世に送り出してきたこの学校は私の母校です。私がこの学校を第13期生として卒業したのは昭和34年のことでした。昭和37年には378人の生徒数を誇ったこの学校も、今では10分の1にも満たない32人に生徒数が減少したようで、今更ながら少子化の怖さをかみしめるのです。市長さんの式辞、議長さんの挨拶、校長先生の挨拶、PTA会長さんの挨拶、生徒代表の挨拶と続いたそれぞれの挨拶には閉校やむなきにいたった経過とこれまでの思い出、それに閉校後への危惧や希望の言葉がちりばめられ、心えぐられるような気持ちで聞きました。多分学校が存続しているならこの学校はただあるだけで、スポットは当たらなかったであろう過去や現在、そいて未来を考えたのですから、正直皮肉な話です。

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(校長先生から市長さんへ校旗の返還)
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(記念碑の除幕)

 閉校式後校庭で除幕式がありました。「ここに学校があった」という足跡を残すために建てられましたが、私は旧双海町最後の教育長時代私の発案で、かつて学校があったことを示す富貴小学校跡地、閏住小学校跡地という二つの小さな記念碑を建てました。昨日立ち会った記念碑と合わせるとこの町から既に3校目の学校が消えることになるのです。二見町には0人に満たない翠小学校があり、その将来が心配されていますが、翠小学校を閉校4校目にはしたくないと妙案もないまま強く思いました。

 学校の跡地は社会体育や社会教育に使うそうですが、数年前に建設した体育館はさておき、はてさて過疎地の人たちが学校の運動場に草の生えないように足繁く使うこととが出来るかどうか、これも疑問の残るところです。

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(記念碑の前で)

 学力を保証し、部活を活発にしなければならない中学校の統合は、地域のコミュニティよりも優先するテーマなのでやむを得ませんが、学校の灯が消えるこの厳しい現実を重く受け止めて、これからもこの地域が発展することを祈りながら、折りしも降り出した雨の中を学校に別れを告げました。私の立志の礎となったこの学校を私はこれからもずっとずっと生きている限り忘れないでしょう。ありがとう下灘中学校。



「わが家では 子ども四人を 製造す だのに少子化 不思議でならぬ」

  「白い布 除幕の下に 校歌歌碑 カガスの底に 永遠眠る」

  「川向こう 早咲き桜 閉校に 合わすが如く ひっそり咲きぬ」

  「山の色 少しも過去と 変わらねど 社会の変化 見えぬ形で」 


追伸

 昨日3月14日の地元紙愛媛新聞9面地方欄にその模様が掲載されていました。

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