shin-1さんの日記

○今日は昨日に続いて今治へ行きました

 昨日は今治国際ホテルで自治会連合会の研修会に招かれました。午後からは内閣府の活性化の会議が予定されていたため、大荒れの天気の中を高松まで行くには車よりJRの方が安全と判断したため、早朝7時前の鈍行列車に乗って松山まで出て、そこから列車を乗り継いで今治まで行きました。約束が10時半だったので道の途中にある今治地方局へ立ち寄りました。県の組織改編によって今治地方局は来年度から西条地方局に統合されるため、今治地方局という名前の庁舎へ行くのはこれが最後だと思うと何かいとおしい気持ちになりました。

 2階の水産課に乗松さんを訪ね、普及センターでは先日自著本を送ってもらった岡田さんを訪ね、県民生活課では山本さん、総務調整課では藤田さんをそれぞれ訪ね、つかの間ではありましたが旧交を温めました。そこここの職場には知人友人、顔見知りも多くうれしい限りです。

 今治国際ホテルは今治のランドマークタワーといわれるように、今治の中心地に一際高く聳えていて、階上に上がると窓越しにしまなみ海道沿いの瀬戸内海の島々や遠くは石鎚山系の山々が望め絶景です。私はこのホテルで開かれた会議に何度か出席をしているため、見慣れたホテルなのですがいつもその素晴らしさに感心させられます。多分松山にもこれほどの存在感を誇示した建物はないのではないかと思うのです。

 会場には多くの市町村が合併して誕生した新生今治市だけあって、2階の大ホールには会場一杯に自治会長さんが集まっていました。中には顔見知りもいたりして声を掛けてもらったり、手を振ってもらったりと開会前の慌しさの中で交友を温めました。

 会議は10時30分から始まりました。私の出番は11時からなのですが、市長さんのあいさつや議長さんのあいさつも聞いて欲しいというので、用意された一番前の席で開会式から参加する事になりました。ところが自治連合会長さんの挨拶に続いて壇上に上がった市長さんのあいさつが予想を超えて長くなり、私の持ち時間は段々削られてしまいました。私はその後の予定された会議が高松であり、12時50分の特急しおかぜに乗らなければならないので、「やばい」と思いつつ、結果的に市長さんに続いて議長さんのあいさつが終わったのは11時20分でした。12時に終わらせなければならないため私に与えられた時間は僅か40分です。その時間で果たしてまちづくりについて何が語れるか不安でしたしたが、この場を主催者の思惑通りに効果を高めるのが私の仕事とばかりに喋り捲りました。結果は聞く方の自治会長さんの評価に委ねねばなりませんが、少し悔いの残る講演会でした。



 事務局の方のご配慮で弁当までご用意いただき、間に合った特急しおかぜの車内で豪華な弁当を開けのんびりと冬景色の車窓を眺めながら昼食を楽しみました。高松へは2時間余りで到着し、突風の吹き荒れるサンポートの会議室へ向いました。会場には関係者が沢山来ていて、隣の席には顔見知りである高知大学の坂本先生も私と同じように選ばれて出席していましたが、徳島上勝町の横石さんはあいにく欠席をしていました。

 この日の会議は内閣府の「四国圏地域活性化推進連絡会議」で、加藤勝信内閣府大臣政務官や祢屋誠四国整備局長も出席する重要な会議でした。私は地域活性化伝道師という肩書きを持つ学識経験者ということで呼ばれましたが、約1時間30分の会議の殆どは事務局や関係省庁の説明に終始し、私と坂本先生の話は僅か10分間だけで、わざわざ3時間もかけて出かけた意味があるのか、疑念の残る会議でした。今後続ける会議なので期待をしておきたいものです。

 帰りは1号車1番Aの指定席番号をいただき、まるで運転手になったような気持ちで前面の窓越しに、坂出付近で綺麗な夕やけを見ました。

  「時間押し 私の時間が 削られる 喜ぶべきか 悲しむべきか」

  「三時間 かけて出かけた 会議です だのに意見は たった三分」

  「挨拶を しただけ帰る 上の人 これで地域が 起きるんですか?」

  「不平あり 不満ありあり 地方では 合併による 疲弊続いて」


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shin-1さんの日記

○パソコンが故障しました

 一昨日パソコンが操作不能となり、ブログを書くこともメールの発受信も全くできなくなってしまいました。正月にも同じようなことが起こりましたが、その時は正月休みに帰省した娘婿の手を借りて修理してもらいましたが、今回は頼みの娘婿も長期出張で対応することができず、いらだちは募るばかりです。

 今日は娘の家に立ち寄り、ブログ愛読者にこのことを伝えたくて、娘のパソコンを使ってブログを書いているのです。したがってブログが復旧できるまでの当分の間はブログが書けません。私が病気になったのではなく、パソコンが病気になったので悪しからずご了承ください。

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shin-1さんの日記

○ジャガイモの植え付け

 昨日は朝起きて隠居に行くと親父が、「お前今日は家にいるのか」と尋ねました。私は「2時頃まで広島県から視察が来て対応するのでいない」と答えると、「明日は雨のようだからジャガイモを植えなきゃあいけんので、午後から手伝ってくれ」というのです。「分った。手伝うから」と約束をして出かけました。やがて視察に来た人も無地帰り、わが家に帰って親父の所へ行ってみると、「もう済んだが中腰でやったため腰が痛い」というのです。私は親父の背中をめくり冷たいサロンパスを電気ストーブで温め2枚貼ってやりました。

 家の横の畑へ出てみると、すっかり綺麗になった畑には、ジャガイモを植えたであろう場所に籾殻と腐葉土と肥料が撒かれていました。私などはいい加減に植えるのですが親父は几帳面な性格なので、わざわざ定規用の糸を張って植えるのでそれはきちんと植えられて完璧でした。

 隣に住むおばさんがちょくちょく親父のところに話しにやって来ます。そのおばさんは野菜の作り方に詳しいので、親父の野菜つくりの先生のような存在です。このおばさんから先日立ち話で間接的に親父の呟きを聞きました。「もう椿さんも終りそろそろジャガイモを植えつけなければならないが、種は何処へ行けば売っているのか、息子にいえば買ってくるが、自分の思い通りに作らんと、収穫したジャガイモをこどもや孫にやるには、自分で鐘を出さないと気兼ねする」といっていたそうです。同じ敷地内に住み毎日顔をあわせる親子でさえもこうした気がねをしているのかと、少しばかり思ったものですから、先日大洲青少年交流の家に出かけた際種芋を5キロも買って帰りました。

 親父はいつもやって来る野菜作りの上手いおばさんに種芋の切り方を教わり、5キロの種芋を一人で植えたのです。私だって多分腰を伸ばしながら植えたでしょうに、親父の作業に敬服しました。しかもその植え床は耕運機でしっかりと中耕して本格的にやっているのです。

 親父も90歳になりました。これらのまるでアリが物を運ぶような仕事ながら毎日毎年繰り返す作業はいよいよ私が受け継ぐ日が近づいてきました。親父に比べればはるかに不器用な私は何とも心もとないし、親父もその事を心配しているようなのです。でも妻は「あなたも結構器用だから」と持ち上げてくれますが、性根を据えて受け継ぎたいと思っています。

 春が近づきました。三寒四温というのでしょうか、このところ春の嵐が冬の名残風のように雨を伴って吹き荒れています。あれ程上天気だったのに今日は朝から雨、天気予報だと低気圧が発達して移動するとのこと、お天気さんも春と冬がせめぎ合いをしているようです。春が恋しいですね。

  「いつの間に ジャガイモ植えた 九十の 親父腰曲げ 今年も元気」

  「このところ 冬と春とが 喧嘩する 雨風雪が 交互に襲う」

  「先植えた タマネギ未だ 小さくて ジャガイモやがて 同じに太る」

  「秋植えた 新ジャガ掘って その後に 春ジャガ植える 何とも奇妙」


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shin-1さんの日記

○丸刈りの思い出

 わが家には3人の男の子がいます。既に3人とも建築士、看護師、警察官とそれぞれの道を親元から離れた県内で働いていますが、この3人の子どもは義務教育の中学校を出るまで全て頭は丸刈りでした。思春期の子どもにとって仲間の存在やお洒落が気になる時期なのに、親の教育方針とかを子どもに押し付け、自宅で電動バリカンを使い逃げ惑う子どもを座らせては妻と二人で丸刈りにしたものでした。バリカンの調子が良い時は結構スムースに刈れるのですが、少し調子が悪いとまるで寅皮、縞模様のようになって「格好悪いから学校へ行くのが嫌だ」とダダをこねられたことも何度かありました。 その頃の学校はまだ丸刈りの子どもが沢山いて、長髪の子どもと半々くらいでしたから、子どもの反発も散髪の時だけだったように思いました。

 子どもたちがたまの休暇で家に揃うと、たまにその丸刈りの話が出てきます。「丸刈りは嫌だった」「長髪にしたかった」「バリカンで虎刈りにされた時は学校を休みたかった」「丸刈りだったのでもてなかった」などなど述懐は様々ですが、今振り返ると懐かしいと、母親や父親に散髪されたことを懐かしがっていたようです。

 そういえばいつの間にか子どもの丸刈りした姿を周りで見なくなりました。「丸刈りに詰襟の学生服は凛々しい日本男児の理想の姿」と未だに思い込んでいる私のような古い人間はもう世の中では賞味期限が切れているのです。でも子どもの頭を親の手で丸刈りにする行為は、月に一度にせよ親子にとっていい向き合いだったように思うのです。今は子どもの何から何まで既製品や人の作ったものでまかなうような時代になって、親が子どもにしてやれる親らしい子育ての分野が相当減っています。靴下だって破れれば継ぎ接ぎ繕いなどせず直ぐに捨てるし、弁当だってコンビニの弁当で代用する親が相当いるのです。時間と効率からいえばそれが便利なことは分っていて格好いいのでしょうが、母親が別の仕事をしながら焼いた焦げた玉子焼きだって子どもにとってはかけがえのないお袋の味なのです。

 昨日妻と二人で夕餉の膳を囲んでいると、妻がしみじみ大家族だった何年か前までの食卓の事を話しました。家を建てたり、子どもが進学をしたりした時代は安月給ゆえそんなに贅沢も出来ず、粗末な食事しか出来なかったのですが、それでも妻は手づくりにこだわって食事を作り続け、子どもも美味しいといって食べてくれました。今は親父の分を含めて3人分、あの頃から比べるとまるでメジロの餌のような少なさです。

 先日久しぶりに帰省した三男の姿を見てハッと気がつきました。三男は警察官という仕事柄、丸坊主に近い丸刈りなのです。もう30歳になる息子ですが丸刈りの姿は中々凛々しいものです。時代の進んだ世の中にあってまだこんな職場があるのかと内心驚きますが、私にとっては子どもの頃から終始一貫したように見える息子の姿に心の中で惜しみない拍手を送るのです。

 バリカンという言葉さえもう死語になりつつある現代ですが、私にも親父に頭を刈ってもらった苦い思い出が一杯あります。今の電動のようなものではなく、手動でやるものですから早過ぎず遅過ぎず動かさなければなりません。早過ぎると食いついて痛い思いを何度も経験しました。また虎刈りなどはしょっちゅうで恥かしい思いも何度かしました。でもその度に親父は「髪型くらいで女に持てない奴は所詮もてる訳がない」などと小理屈を並べ立て、自分の正当性を主張していました。でもこれも過ぎてしまえば親父のいい思い出なのです。残念ながら今の子どもたちにはそんな親父の思い出は残るべきもないのです。

  「丸刈りは 日本子どもの 代名詞 そんな時代に 生きれ幸せ」

  「バリカンと いう道具など 家にない それは何です? 答え飲み込む」

  「マルコメの 味噌のCM 一休さん 全て丸刈り 格好いいよね」

  「親父から 俺に受け継ぐ 丸刈りも 息子途絶える これも世流れ」

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shin-1さんの日記

○広島から視察研修にやって来ました

 昨日まで2日ほど大分県へ行っていて、妻が「今日ぐらいはゆっくり休んだらどうなの」と体を気遣ってくれましたが、今日も予定が入っていてそんな調子には行きません。今日は原稿の締め切りが過ぎているのが一本、それに締め切り間近の原稿が2本、それぞれあるものですから、気になりながらも広島県三和町から視察研修がやって来るのを待ちました。その団体の到着時間は10時30分なのですが、昨晩から三崎町大岩に泊まっていたらしく、10時前に携帯に第一報が入り10時には到着するというのです。急いで身支度を整え待ち合わせ場所のシーサイド公園へ出かけてゆきました。今日は昨日までの北風がまるで嘘のように多少冷たいものの晴れわたり、絶好の日和に恵まれ、視察に来た人の運の良さを感じました。しかしいざ出会ってみて、人数こそ少ないものの中型バスなので、お目当ての人間牧場へはかなりきついと判断し、参加者の体の都合も考慮して、急遽視察先を入れ替えなければならなくなりました。

 今日のお客様は昨年7月20日に広島県自治研修センターで開かれた「地域づくり支援研修会」で私の話しを聞いた方々の現地研修だそうで、人間牧場を第一研修目的地として希望していただけに残念な結果になりました。

 こんな場合のこの時期の4時間コースはまず閏住の菜の花、夕やけコンサートの下灘駅、下浜の水仙畑、人間牧場、木造校舎の翠小学校、わが家の海の資料化海舟館及び煙会所、シーサイド公園くらいを見繕ってご案内するのですが、今日は人間牧場を飛ばすため比較的楽なコース見学となりました。

(菜の花は今が見ごろです。何年か前私たちが作ったお立ち台も設置されていて、いい雰囲気で収まりました。

菜の花の黄色はまるで春待ち色とでもいうべき目の覚めるような色でした。ポケットから種を落とした菜の花を作るまでの経緯を、面白おかしく話しました。

(フーテンの寅さんもやって来た下灘駅も今日は人気もなく、独占して見学しました。ここから見ると人間牧場が少しだけ見えるのです。)

(急な坂道を登って水仙畑へ行きました。私は今年3回目ですが、今年は昨秋の雨不足の影響でこの頃まで花を楽しむことができましたが、さすがにもう終りのようでした。それでも名残の水仙が可愛いらしい花を空に向って咲かせ、風に揺れて芳しい香りを漂わせていました。


(翠小学校は急な見学申し込みにもかかわらず、不在の和田校長先生に替わって山田教頭先生に温かく迎えていただきました。)


 わが家でも海舟館、煙会所を見学し、予約していた夕浜館で青島御膳をいただきながら研修をさせてもらいました。午後2時というお約束の時間があったため、シーサイド公園の見学はできませんでしたが、皆さん熱心な研修態度に思わず頭が下がりました。

 一期一会の出会いですが、この出会いが又出会いを生み、またこの学習が新しい知恵を産み、さらにこの異文化ギャップが地域づくりの大きな輪になる事を期待したいものです。別れを惜しみながらお互い手を振って別れました。

 追伸

  今日視察に来たのはNPO法人善菊会で、平成16年に三和町が三次市に合併した折、町の奨学金残高が5千万円あるのをNPOを設立し、三和町内に限定使途を定め、奨学金給付事業、国内外の研修助成事業、子育て活動支援事業、環境保全事業「太陽の森」、独居老人の弁当給食事業などの活動をしている団体です。

  「今日もまた 視察の人が やって来た 楽しい話 鉄砲のように」

  「なるほどと 感心しきり 聞き惚れる 人の不安が ファンに変わる」

  「幸せと やる気を売れる いい商売 一期一会の 出会いも楽し」

  「握手して 始まる視察 握手して 全て終わりぬ ちりとてちんと」

 

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shin-1さんの日記

○佐伯市視察交流研修

 今回の交流研修会は旧友矢野大和さんに相談して実現しました。ご承知のように矢野さんは先の衆議院議員選挙で大分から今をときめく民主党から立候補して、善戦空しく県内の内紛で辛酸をなめた方です。旧宇目町の職員でありながら得意の落語を駆使し観光大使として活躍し、市町村合併で佐伯市に合併後もその職責で存分の活躍をし、佐伯市を広く宣伝していたのです。

 選挙に出馬するため市役所を退職しいますが、彼の笑いをベースにした仕事は講演という形で今も続いているのです。前年島根県益田市で同じステージに上がり元気な姿を見ましたが、この度の交流事業では私の願いを聞き入れてくれて宮明邦夫さんを窓口にするよう紹介してもらい、受け入れとなったのです。臼杵は岡崎事務局長の伝で斉藤さんに当りをつけてもらい事務局の松本さんが万端手配してくれたのです。

 今回私が注目し楽しみにしていたのは、日本の道百選に選ばれている佐伯武家屋敷や国木田独歩もさることながら、宮明邦夫さんはじめ泥谷さんたちが活動うしている県南落語組合の活動でした。大分県内の各市町村や施設などから要請を受け、笑いを振り撒きに自ら出向いていく彼らは全員がアマチュアです。それぞれ仕事の合間を縫って練習に励み、全員がローテーションを組んで出かけるそうです。出張寄席は15年の長きに渡って通産1300回も続いているというから驚きです。

(疋田さんの手品による余興)
(宮明さんの差し入れによる食談、佐伯の地産池消は凄いです)
(宮明さんの「笑いは心のビタミン剤」というお話は味がありました)
(宮明さんの話を聞く愛媛県のメンバー)

 最近落語ならぬ落伍を始めた私としては、彼らの話はとても興味がありました。前夜の交流会は疋田副会長のマジックショーを見、昨日は宿泊したホテルの一室を借りて宮明さんの講演を聞きましたが、アマチュアといいながらプロまがいの方ですから、話はとてもためになりました。でも本当は宮明さんの自慢の話芸落語を聴きたかったのです。私のようにド素人には百聞は一見にしかずですから、少しだけ期待を外された感じがしました。

(ボランティアガイドの高橋さん)
(三の丸城門)
(白壁塀の武家屋敷通り)
(城主毛利家の菩提寺養賢寺)
(国木田独歩記念館)
(汲心亭)

 前日の町中歩きや町屋訪ねと違って佐伯市の文化は城下町文化でした。高橋さんというボランティアガイドさんが城門の前からずっと付きっ切りで案内してくれました。白壁塀が続く道はさすが日本の道百選に選ばれているだけあってどっしりとした佇まいでしたし、毛利藩菩提寺養賢寺までの道沿いには茶屋汲心亭や国木田独歩記念館などもそんなに古くはないが歴史を感じさせてくれました。

 臼杵と佐伯は間に津久見市があるため、二つの歴史は、県外から来た私たちにとっては完全に分断されているように見えました。全く違った歴史や文化の切り口を持っているだけに、今後は県南地域として連携をして欲しいものです。

 帰路の途中再び臼杵を通るため臼杵石仏公園へ立ち寄りました。臼杵の石仏はもう何度も訪ねていますが、自分が成長したのか、あるいは見る目が変わったのか、昔に比べると規模が小さくなったような雰囲気でした。かつては臼杵の石仏といえば九州を代表する観光地として多くの観光バスが押すな押すなで訪ねていました。旅のスタイルが団体から個人や小グループに変わってきていますが、対応の遅れが目立つような気がしました。石仏が華やかな頃臼杵の町中は誰も見向きもせず通りすがっていましたが、今はひょっとしたら逆転現象で潮目の時代ではないかと思うのです。

(石仏公園)



 石仏は理路整然と並んで、庭に咲く豊後梅の香りとともに私たちを出迎えてくれました。しかし公園の裏山は竹林に竹や木が倒木し荒れるに任せていました。仏像は入場料を払ってくれるお宝です。でも景観たる周りはお金など儲けません。でも仏像の背後の景観はもう少し気をつけて保全しないといけないような気がしました。

 時を経てもなお薄化粧した石仏の何と穏やかなお顔をしていることか、人間も見習うべきですね。

  「石仏の 落ちた頭が 元通り 首につながり 仏の姿」

  「手をつなぎ ミーちゃんハーちゃん お祈りす どんな願いを したのだろうか」

  「馬鹿馬鹿し 言って始める 楽語聞く 馬鹿馬鹿しいなら 止めればいいに」

  「落ちた人 見てよかったと 出ぬわれは いつも思いつ 人生終わる」  

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shin-1さんの日記

○懐かしい友との出会い

 昨晩は不思議な、それでいて懐かしい出会いがありました。わが家で今でも使っているマナ板は本匠村の高橋美和さんから貰ったものです。わが家の海の資料館海舟館にに飾っている能面は同じく本匠村の川野義和さんから貰ったものです。本匠村は佐伯市からさらに奥まった番匠川の上流に位置する村でした。今は平成の大合併で佐伯市になりましたが、何年か前まで私が何度か訪ねた懐かしい村なのです。

 私が本匠村に興味を持つようになったのは、大分県が主催する青年指導者研修会が国立大洲青年の家で開催された折、その研修会に参加していた高橋美和さんとその講師で招かれた私が出会ってから始まりました。底抜けに明るい高橋美和さんはその後勤務していた教育委員会の上司であった川野義和さんに私の存在を告げ、成人式の講演に招かれたり、様々な社会教育の研修会に講師として出かけるようになったのです。さらに川野義和さんや高橋美和さんの紹介で南部郡の社会教育関係者に広まり、あっという間に大分県の市町村を制覇する羽目となったのです。

 私は自称変わり者でその地域へ行ったら必ず何がしかのお金を落す事を肝に銘じています。例えば車で行けばその地域のガソリンスタンドでガソリンを入れるとか、お土産を買うなどしていました。高橋美和さんのお家は理容業を営んでいて、サッカーのオフト監督に似た今は亡きお父さんに、村へ行く度に散髪をしてもらっていました。散髪をしながら村の四方山話をするのが楽しみだったのです。さらに美和さんのお母さんが考案した雪ん子寿司は絶品で、今では大分県の人気商品になっていて、随分ご馳走になったものです。

(酒が飲めなくなった私と酒が強くなった川野義和さん)

 一方川野義和さんは私が若い頃と同じように社会教育に熱心に取り組んでいて、村を訪ねる度にご自宅へ泊めてもらいました。あの頃生まれて間もなかった娘さんは既に高校二年生と聞きました。時の流れの早さを感じます。また2年前に亡くなったお父さんが彫った立派な能面をいただいたことがあって、その面を見る度に懐かしさがこみ上げてくるのです。

 昨日の交流会には川野義和さんが参加してくれました。聞けば商工観光課の係長として迫り来る国体や高速道路の延伸などに対応した新しい時代の観光振興に情熱を燃やしているとの事でした。

 昨晩は久しぶりにお会いし懐かしい思い出話を随分しました。愛媛県の私を含めた12人が2次会に繰り出しましたが、河野さんの紹介で「裕ちゃん」という居酒屋に立ち寄りました。川野さんはその夜小倉の駅で行われる物産展に出席するため夜行列車に乗るらしく、飲むほどに酔うほどに仲間たちと楽しいお喋りに話が弾みました。

 途中川野さんの携帯電話で高橋美和さんとつながり、遠い夜道をわざわざお店まで出かけてくれ、笑顔の再会を果たしました。美和さんは3人の子どもの母親として明るく逞しく生きているようで、特に「ごまだし」うどんなどお母さんと一緒に加工にも加わっているようでした。それにしても始めて食べたごまだしうどんの味は絶品でした。

 いつになるか分りませんが、少し暇になったら旧本匠村を訪ねたいと思っています。本匠村からは私の町の慶徳寺へ住職で来られている山口住職さんの存在もこれまた不思議な縁ですし、当時は日本一大きな水車と言われていた本匠村の20メートルを越すお化け水車の存在も記憶の片隅で蘇えってきました。

 こうして自分の人生の端々に深く関わってきた日本全国の地域や人々の存在を思うと、もう一度フィルムを巻き戻してみたい心境になるのです。急激な時代の変化のうねりの中に埋没している思い出は私の大切な宝物なのに・・・・・。

  「美和ちゃんの 笑顔懐かし 指折りて 足らぬ指ほど 疎遠驚き」

  「えっ佐伯? 村の名変わり 戸惑って 礼状書くも 宛先分らず」

  「それぞれに 時を過ごして 出会う人 懐かし人は 既に亡くなり」

  「お互いに 昔のままの 若さにて 思い出話す それは錯覚」

 

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shin-1さんの日記

○感動の朝日に出会いました

 朝4時に起床する長年の癖は旅先でも健在で、大分県佐伯市内のホテルの一室で目を覚ましました。発達した低気圧の影響で昨日から北西の季節風が強く、冬が逆戻りした感じでしたが、昨晩の交流会で「早朝6時20分に出発して、上浦町の朝日を見に行くこと」を約束していたため、身支度を整えてホテルロビーに降りて行きました。ロビーには既に中島の豊田君がいて、まもなく新藤さんと岡崎さんが降りてきて、4人で出発しました。

 この頃は夜明けが随分早くなって、もう東の空は薄明るくなっていました。昨日からの季節風は一向にやむ気配が無く、突風に加え雪までちらつくあいにくの天気です。この分では朝日など拝めないだろうなあと思いつつ、新藤さんの運転する車で、見慣れた光景のように見える海岸沿いの道を20分も走らせると、何年か前に訪れた懐かしい風景が目に飛び込んできました。そうあれは確か上浦町の成人式に招かれ講演に来てこの辺りを確かに通ったのです。これも定かではない記憶ですが、上浦町は海洋牧場構想が既に推進されていて、沖合いに浮かぶブイから定期的な時間に餌が投与され、鯛等の魚を囲いもせずに餌付けする日本で初めての試みがされていました。懐かしいそのブイも今は公園の隅に記念品的に設置されて、当時を物語っているようでした。

 昨晩は当時上浦町の教育委員会にいた岡崎税さんと菅正晴さんがわざわざ交流会に参加してくれ、10数年ぶりの再会を果たしたのです。彼らも合併して今は佐伯市役所の職員となって立派な活躍をしていましたが、飲むほどに酔うほどにボルテージが上がり、私の夕日に対抗して上浦町の夫婦岩に昇る朝日も日本一だと自慢しあったのです。それならその自慢の朝日を見ようという話になって出かけたという訳です。

 今朝の日の出の時刻は6時26分だそうで、35分頃現地に着いたのですが岡崎さんは既に見学スポット付近に到着して私たち一行を待っていてくれていました。相次いで菅さんも現れ寒さの中で自慢の日の出を待ちました。スポットとなる橋の上には誰が書いたのかまるで落書きのように数字が書かれていて、2月24日頃のポイントが容易に予想できました。

(しめ縄の真ん中に昇り始めた朝日)
(滅多に尾を引かない朝日への黄金の道)
(夫岩にまるでローソクの灯火のように光朝日)

 朝日が昇るであろう方向には黒い雲がまるで雪すだれのように立ち込めていましたが、水平線付近はオレンジ色が刻々と濃くなって、やがて朝日が昇り始めたのです。私たち一行は予期せぬ日の出に歓声を上げながら盛んにデジカメのシャッターを押し続けました。凄いです。岡崎さんも菅さんも今まで生きてきて一番美しい朝日だと自慢するほど、大きくて立派な朝日が夫婦岩に張り巡らされた大しめ縄の真ん中にスッポリ入って、じわじわと登ってゆきました。私は思わず太陽に向かって手を合わせました。岡崎さんも愛媛の仲間もそんな仕草をしているように見えました。あれほどきつかった北風が一瞬止んだようになり朝日の真赤な帯が見えました。

 まるで天体ショーを見ているような錯覚から我に返った時、太陽は上に垂れ込めた雲の中へ姿を消して行きました。

(冬の海にシルエットを映す夫婦岩戸大しめ縄)

 私たちは道沿いに止めてあった車に乗り込み東雲中学校の裏手に出て夫婦岩の近くまでやって来ました。夫婦岩にかかった大しめ縄を見るためです。300人もの人がまる1日かかってつくり上げて海上の夫婦岩に橋渡す大しめ縄の話を二人から聞きながら、思いを馳せていました。

 菅さんは久しぶりに会った私のために奥さんが早起きをして作ってくれたチーズケーキをお土産にくれました。涙が出るくらい嬉しい出来事でした。大事小事に持ち帰ったチーズケーキを今晩妻に渡し、菅さんのこと、岡崎さんのことを話しながら少しだけ食べました。残りは孫たちにおすそ分けする予定です。

 旅先で思いがけず出会った旧友たちとの心温まる出会いは、私の長い人生の大きな大きな宝物だとあらためて実感したのです。

 感動の心で出会った上浦町の朝日はやがて今晩は双海の夕日になったに違いありません。多分これからもそうなることでしょうが、夕日を見る度に上浦町の朝日やそれにつながる岡崎さん、菅さんの事を思い出すことでしょう。岡崎さん、菅さん美しい日本一の朝日を見せてもらってありがとう。早起きは三文の得でした。

  「夕日より 朝日が一番 自慢する 友の顔立て 今日は負けふり」

  「日本一 思わずかけたい 掛け声を じっと堪えて 手合わせ拝む」

  「この朝日 今夕双海の 夕日なる 不思議なことよ 天動説は」

  「夕日見る 度に思いを 上浦に 馳せて見るだろ それ程感激」



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shin-1さんの日記

○今日は海を渡って海外旅行?

 私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議では年に1回修学旅行のような研修を行って、県外の方々と交流を深めています。そもそものきっかけは西瀬戸交流事業や豊予海峡交流事業などの助成事業があって、それに便乗すれば安上がりな交流が出来ると悪乗りしたのです。でも結果的にはこの事業を通して島根県、山口県、福岡県、大分県と領域を広げて深い交流になったのですから嬉しい限りです。

 豊予海峡圏地域づくり交流事業と銘打った今回の目的地は大分県臼杵・佐伯です。大分といえば由布院や黒川温泉が地域づくりの先進事例として注目を集め、大分県の南部に位置する臼杵や佐伯は高速道路の遅れからどちらかというと私たちの視界の外にありましたが、今回の研修を通じてむしろこれからは臼杵や佐伯が面白いと再認識しました。

(大時化の豊予海峡)
(大型豪華客船フェリー)

(船内のエントランスホールはまるでホテルのようです)

 今回の研修には年度末の早朝出発にもかかわらず12名が参加をしました。それぞれの地域から八幡浜に集結し、突風吹き荒れる豊予海峡をフェリーで渡りました。昨年渡った三崎~佐賀関ルートは強風高波のため欠航と聞き、強運を喜びましたが、大型フェリーといいながら豊予海峡は大荒れで外洋性の強い場所では少しの間揺れましたが、全員船酔いもなく無事臼杵の港に到着しました。丁度10日前に宮崎へ行く途中夜間ながら立ち寄った場所なので何処か馴れた感じがしました。

(一番最初に目についた図書館前の広場から見える臼杵城跡)

 午前中は臼杵市立図書館で開かれている第5回まちづくりセミナーに参加しました。臼杵には臼杵歴史景観を守る会、臼杵デザイン会議、臼杵伝統建築研究会、うすき竹宵、臼杵ツーリズム研究会、ふるさと風の映画学校実行委員会などが活動しており、佐賀大学準教授の三島先生の司会で議論が行われている最中でした。

(門構えの立派な市立図書館)

(全国建築士連合会まちづくりセミナー)
 その後ポルト蔵という蔵を利用したレストランで食事をとった後臼杵歴史景観を守る会斉藤会長さんたちの案内で講義を聞きながらまち歩きしました。何年か前に来た時とは随分違ったまちづくりの姿に感嘆しながら、関わって来られた人々の思いと苦労を垣間見ました。

(お昼ご飯に出されたポルト蔵の料理は郷土色豊でした)

 カメラ散歩をしてみました。

(最初に見学した古民家、庭の金木犀の古木や裏庭の石垣にに目を見張りました)
(コンクリートもこのように木で隠せば町並みや景観にマッチする工夫を凝らした一品です)
(高台の民家から見える臼杵の町並み)
(古民家を再生した事例見学、中二階に改造して素敵でした)
(私の理想とする書斎がありました。学校の先生らしく道具類に凝っていました。窓越しの風景も見事でした)
(熱っぽく語る斉藤さんの話に苦労を垣間見ました)
(蔵を利用した紙雛の展示、趣きがあります)

 臼杵の町は城下町だけあって商家も多く、奥行きの深い趣きを堪能させてもらいました。今度はゆっくり独り歩きをしたいものです。

  「そこここに 苦労の跡を 垣間見る 誰か動かば 町は残らず」

  「友人の 紹介あれば こそ見える そこここ訪ね 感嘆しきり」

  「今もなお 消え行く運命 引き戻し 必死に生きる 人たちありて」

  「蔵の中 先人たちが 生きてきた 暮しの重み 空気で感じ」

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