shin-1さんの日記

○最近は宇和島に何かとご縁が

 愛媛県貯蓄広報委員会が「知って得する金融講座」の一環として商店街で研修会を開き、その講師に招かれて片道2時間の道程を宇和島市まで出掛けました。最近は宇和島に何かとご縁があって、先日は生協の招きで「生活設計講演会」に招かれ、また2ヶ月前には福路町商店街の「地域活性化講演会」とまったくジャンルの違う話を、都合3度もする羽目になりました。あなたの得意はと聞かれたら、どれも得意でどれも不得意と中途半端な自分が少々情けないくらいでしたが、いずれも1時間30分の決められた時間をそれなりに話をして役割を果たしました。今日、偶然にもその3回の講演会全てに参加した人がひとりいて、当の私はまるで首実験のようで赤面してしまいましたが、相手は私のレパートリーの広さに脱帽したと、一応美辞麗句を並べてくれましたが、はてさて信じてよいかどうか心配です。

 最初袋町商店街の中にあるホテルのホールで行った地域活性化は「地域づくり」や「地域活性化」、いわゆるまちづくりというもので、私の20年間の実践や成果を考えると最も自信に満ちた話でしょう。夕日をキーワードに小さな双海町という町に年間55万人の観光客が訪れることや第三セクターの経営成功などを話すと5時間や6時間でも話せるほど話題は尽きないのです。お陰さまで集まった人からは好評を得ましたし、それがご縁で既に商店主とのメールや手紙のやり取り、新しい実践に向けてのアドバイスなど話が進んでいます。

 2回目は小高い丸山公園にある厚生年金休暇センター生協の組合員に呼びかけて生活設計についての講演会でした。この講演会のテーマは貯蓄推進委員という肩書きから金融広報アドバイザーに名前は変わっても30年の長きに渡って実践地区や若者のたちに対して生活設計の重要性を説いてきた私にとってはこれまた十八番の話なのです。金銭の貯蓄、人間関係の貯蓄、健康の貯蓄、知識の貯蓄、感動の貯蓄をベースに話す講演は、綿新人せいそのものなので、このときも沢山の人が集まり大盛況でした。特に追っかけと呼ばれるような人も来てくれ嬉しい再開が実現しました。

 さて3回もの今日は恵美須町商店街の一角に空き店舗を利用して開設されている「えびす町こどもランド」という商店街アーケードの真ん中にあるオープンスペースで行われました。最初は人数こそ少なかったものの次第に人が増え、終わる頃には満席の盛況でした。ここでの話は金銭教育をベースにした子育論です。この話は社会教育13年、教育長2年の教育実績に加え無人島キャンプなどを二十年にわたって行ってきたボランティア活動の経験があるものですから、まあこれも自信のあるなしでしょう。特にわが子を4人も育てた子育て実績や、PTA会長を6年間やるなど青少年活動は枚挙に暇がありません。


 結局自分のこれまでの活動が存分に生かされる結果となりました。これまでもこれからも、この3つのテーマは人間牧場に凝縮されて成長を続けてゆくことでしょう。忙しい目をして忙しい活動をやった意味があると宇和島3回の講演会に招かれて思いました。

  「同じ街 まったく違う テーマにて 講演仕組む 俺はしたたか」

  「同じ人 同じ私の 話聞く まったく違う 話に驚き」

  「同じ街 テーマ違うと 顔ぶれも 違う当然 でもひとり」

  「もう一度 あなたの話し 聞きたいと 二時間道程 車走らせ」


 この方がわざわざ三崎半島旧瀬戸町から来ていただいた緒方二三子さんです。私の誕生日をおぼえていて、毎年花束やサツマイモをプレゼントしていただいています。4人の子持ちの元気で素敵なお母さんです。

 

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shin-1さんの日記

○燃え尽きる孫の一日

 嫁いでいる娘に二子の出産の兆しが見えたのは夏の盛りの頃でした。助産婦をしている娘ゆえの知識過多もあって何かと心配の種が多いのか、つわりが激しいのか周りから見た感じの妊娠症状は少しオーバーに表現すれば病気のような感じでした。助産婦としてそんな患者さんを毎日見ているのだから、それなりの対処法もあるだろうにと親の目から見れば不足気味の状態でした。

松山という近所に住むよしみで、また娘夫婦の子育ての手助けをしてやろうとする親心のよしみで、孫の世話というやっかいな仕事を分担しながら日々の暮しを組み立てている今日この頃です。

 昨日は娘の仕事が遅くなるので、松山の幼稚園へ迎えに行かなければなりません。迎えといっても目と鼻の先の幼稚園ではなく片道25キロですから車が混雑する松山のラッシュの時間帯ですから車で小一時間かかります。昨日は午前中大洲青少年交流の家、午後は伊予厚生年金センターでそれぞれ会議が入っていて忙しい日程を終えて幼稚園に到着したのは午後4時過ぎでした。幼稚園は3時までに殆どの子どもが迎えに来た親や祖父母と共に帰るので、働く親のために居残り保育が行われているのです。孫も居残りの一人で、先生がひとりついているのですが、集団保育というよりは思い思いに目の届く範囲で遊ばせるような雰囲気なのです。

 孫は最初居残りを寂しく感じていたようで、幼稚園に連れて行く度に「今日は居残り?」なんて言葉を私に言って確認し自分で自分を納得させているようでした。また迎えに来るパターンが2つあって、母親が迎えに来る日は松山のわが家、おじいちゃんが迎えに来る日は双海町の実家と決めているようなのです。多分その様子を見ればみんなと同じ3時に母親に迎えに来て欲しいような寂しさが見え見えのようです。

 午後4時過ぎ私が幼稚園に到着すると孫は他の数人とジャングルジムのに登って遊んでいました。先生が「おじいちゃんが迎えに来たよ」と声を掛けると、大きな手を振って嬉しそうに降りてきました。まあその姿を見たとき「凄い」と思いました。朝出る時の姿を知っていますから、顔の汚れ、衣服の汚れは尋常ではないほど泥と汗によって「泥んこ」という表現がピッタリの姿なのです。娘からくもんという家の近所の小さな塾に連れて行くよう頼まれていたので、車を道後のマンションに止めて歩いて孫の手を引き出掛けました。その頃には孫の姿が何となく元気がなくうつろな感じもしましたが、約30分のお任せをして5時に迎えに来るよう言われたので、そこら辺の神社仏閣辺りを散策散歩し、万歩計が約5000歩を見計らって再びくもん塾に迎えに行ったのです。そこへ行って驚いたのは孫の姿でした。くもん塾の玄関でスヤスヤと眠っているのです。塾の先生が気遣って起して学びを促すのですが完全にアウトなのです。私は孫を抱きかかえ車に戻り助手座席に座らせてシートベルトをして車を走らせました。孫は少し正気に戻ったのか、孫のために用意していたおやつのクッキーを食べながら眠気から冷めたのです。

 「燃え尽きる」という表現がピッタリかどうかは分りませんが、幼稚園で泥んこになって遊んだ姿やくもん塾ですやすや眠る孫の姿を見てそう思いました。普通この姿を見たとき遊び疲れた姿やくもん塾で人はばかることもなく眠る姿は格好悪い姿です。でも私の目には孫は孫なりに幼稚園の遊びを目一杯生きてると感じました。「燃え尽きる」姿は素晴らしいとも思いました。

 孫は「何でこんなによく寝るのだろう」と思うほどよく寝ます。「寝る子は育つ」という諺が本当ならば、この孫は正真正銘の諺の落し子なのです。最近夜更かしで眠い子が問題になりますが、孫は確実に9時には寝ます。そして朝も7時まで夜は一度も目を覚ますこともなく眠ります。その睡眠は10時間を越えるのです。

 建国記念の日である11月23日に生まれた孫はあと一週間で4歳の誕生日を迎えます。「僕はお兄ちゃんになる」とか、「僕は4歳になる」とか

「僕」という言葉もすっかり板についてきた成長著しい孫の姿は朝の姿、夕方は燃え尽きたマッチ棒のような汚れた姿、まあこの落差が子どもの本当の姿なのでしょう。子どもは子どもらしくあって欲しいと願っています。

 「じいちゃーん」、向こうの居間で私を呼ぶ目覚めの孫の声が聞こえます。いい朝です。今朝は伊予市の病院へ親父を同乗させて病院まで送り、孫を送った後診療の終わった親父を迎えに立ち寄り、その後は宇和島で子育て講演会に向かいます。今日も忙しい一日になりそうです。

  「孫眠る 塾の玄関 驚いた 燃え尽きぐったり これでいいのだ」

  「寝太郎と あだ名付けたい 孫姿 寝る子育つか これでいいのだ」

  「孫四つ あれから俺も 歳四つ 同じ四つでも 俺はマイナス」

  「孫言葉 時々驚く ことがある どこで習うか 意味さえ分らず」



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shin-1さんの日記

○レパートリーが広くなりました

 私の武器は知識はないが多少の知恵と、理論はないが実践から生まれた多少の論理です。多少の知恵と多少の論理を巧みに使って、様々な場所で様々なテーマに沿ってお話をするのです。その場合、他の人のように美しい文字を黒板やホワイトボードに書くでもなく、またパソコンを使ってデータや映像を見せるでもなく、またレジメを用意して配るでもない、まったく無防備の言葉だけが勝負の世界に挑んでいます。これはアドリブで機転が利いたり心の中の引き出しにジャンル毎の事例が多くないと、2時間とか3時間の講演や講義は持たなくなります。大衆の面前で恥をかかないためには、大衆の面前で恥をかき、恥をかかない訓練を何度となくしなければならないのです。私はこの訓練を「話芸訓練」と考えています。漫才師や落語家が話芸を仕上げてゆくのに、2年とも3年ともいう下積みの世界を経験し、なお一つのネタを話として人前で披露するのに何回も練習するという話を聞いて、話芸を磨き真打などというレベルへ到達するまでの厳しさを実感するのです。

 私には漫才師や落語家のような師匠が残念ながらいません。ですから独学です。独学は人の色に染まらない独特のオンリーワンの世界なのですが、独断と独善のためマンネリに陥りやすく、ほおっておいたら自然と楽な道を歩こうとします。つまり日々の訓練を怠り過去の遺産でお茶を濁そうとするのです。

 そんな私の訓練に嬉しくも強い見方が登場しました。ブログとハーモニカです。ブログはデジタル時代の文字書きなので、話芸とは一見何の関係もなさそうなのですが、実は深い関係があって①話芸のネタを仕込む、②話芸のストーリーを考える、③話芸の結果を公表する、④話芸の反応を確認する、⑤話芸のエリアを広げる、⑥話芸のネットワークをつくる、⑦話芸の魅力を伝えるなどの道具として重宝に使えるのです。ブログで自分の知らなかったデジタル世界の話題を沢山拾いました。それらを組み合わせ話芸のストーリーを仕上げてゆきました。自分の話芸の話を公表し人々の画面上で交流しましたし今も盛んに交流しています。私の話芸への反響もデジタルによって入り、その成果を確認しています。ブログやメールでエリアも随分広くなってきました。

話芸のネットワークも今まで以上に全国へと広がり、話芸の魅力は留まるところ知らず核分裂を繰り返しながら広がっているのです。ブログが私の話芸の深さ・広さ・大きさに磨きをかけつつあるのです。

 ハーモニカも今ではなくてはならない持ち物に変身しつつあります。カバンに忍ばせてあちらこちらの会場で披露するのですが、お世辞のアンコール拍手が起こる度に日本的音楽の魅力にとりつかれレパートリーを広げています。音楽音痴だった私には考えられなかった成長で、今では特老や公民館などからおしゃべり話芸とハーモニカをセットでお座敷がかかるほどになりました。ハーモニカも楽譜を読めない私には即興です。歌さえ知ってれば何とか詰まりながらも吹けるようになりました。

 今日も話芸とハーモニカの手前味噌なコラボレーションが始まりますよ。さあいらっしゃい、いらっしゃい。

  「俺の武器 楽し話芸と ハーモニカ たったこれでも 人は喜ぶ」

  「アドリブで 話芸披露の 講演会 また来て笑顔 ばあちゃん拍手」

  「演奏が 終わって拍手 勘違い アンコールだと 思って更に」

  「暇あらば 車の中で ハーモニカ 練習してる 成果上がりて」 


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shin-1さんの日記

○野の花の美しさ

 ガーデニングブームで街中に花が溢れる平和な時代を迎えていますが、ガーデニングを楽しむ人は何故か作った花を自分の庭や塀で囲い込み、自分だけの内向きな花として鑑賞してる人が多いようです。かつて私は世界一の花の街といわれるニュージーランドクライストチャーチを海外派遣団の団長として訪ねたことがありますが、この街ではガーデニングが盛んなのですが、勿論家で花を楽しんでいますが、その花の一部を外向きにして街に暮らす人々にも見えるようにしている姿を見て、風土や人間性のの違いを思い知らされました。日本だと外向きに花を飾っていると、心無い人が植木鉢毎持って行く者もいて、中々うまくいかないのが実情のようです。

 今日は愛媛大学の講義日でそれ以外に夕方までスケジュールが空いているので、久しぶりに大根畑の大根を漬物用に引き抜いて水洗いし6本まとめてビニール紐で縛り、あらかじめ用意した竿に振り分けながら吊るして干しました。今年も大根は豊作で、仕事に出かける前に妻が抜くのは30本と言って出かけたので30本の大根を引き抜きました。葉っぱの緑、青首、土に埋まった白い肌など、まさに自然の芸術品とでもいえる大根が、晩秋の太陽と風に晒されている風情は田舎の長閑さを象徴しているようです。いつもの年だとおやじが全ての作業をやるのですが、足をひねって昨日病院へ連れて行ったばかりなので無理をさせれず、私の出番とあいなりました。

 3日前から一年収めの九州場所も始まり、いよいよ冬支度です。私が子どもの頃の昔は九州場所頃はもっと寒かったように思うのですが、今日の水仕事も全然冷たくもなくむしり爽やかな感じがするほどでした。

 流れる雲も穏やかでわが家の借景と思われる本尊山の周辺はハゼ紅葉やクヌギの木がようやく色づき始め、裏山には盛りを過ぎようとしているツワブキや野菊が名残の美しさを見せようとひっそりと咲いていました。野の花は派手さはないものの清楚でどこか気品に溢れています。一生懸命咲いているこれらの花は見られ愛でられることもなくやがては野に枯れる運命にあるのですから、せめて咲いている間でも愛でてやりたいものです。

 わが家の庭にも秋の気配が漂って、親父の作である裏庭の枯れ木や石に這わせたノキシノブが見事な紅葉を見せています。このノキシノブの紅葉が枯れて風に飛ばされ荒縄のようになったらいよいよ本格的な冬将軍がやって来るのです。

 それにしても見事でしょう。


  「野の花を 愛でる気持ちは 自由人 風流肴に 酒も飲めぬに」

  「大根の 緑と白の 色分けて 竿に吊るして しわ寄るを待つ」

  「ノキシノブ 紅葉に熟れて 彩りを そえつつ庭で 季節深まる」

  「この色を 亡き母見ては 褒めていた 俺の言葉を 誰が思いし」

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shin-1さんの日記

○横文字のメールに占領されそう

 コンピューターウイルスの話は聞いたことがあるけれど、この正体がどんなものであるかも知らぬままパソコンをいじっている私にとって、毎日新着メールを見るのは楽しい反面、新着メールに混じって訳の分らぬ横文字のメールが沢山届くようになって、その消去には正直閉口しています。横文字の意味が分れば呼んだり返事を書いたりも出来るのでしょうが、その能力さえも持たない私にとっては何とも不気味で、今はその全てを×印の画面で消去作業をしているのです。誰かに聞こうと思っても忘れたり、恥かしくて聞けないような雰囲気もあるのです。「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」という言葉が正しいのなら、仲間内に相談して教えを請うのもいいかも知れません。

 ひところ私のパソコンにエッチな写真や動画が沢山進入してきて、私のホームページを立ち上げてくれた大学に勤める娘婿に相談したところ、簡単な操作で一掃されたことを思えば、それも可能かもしれないと思い切って今日にでも彼にメールで相談したいと思っています。

 もう一つ、私宛に届く不可解な文章があります。その文章は「セレブな女性と交際して高収入を上げませんか」というメールです。文章の中には私の名前をしっかりと書き込んでいるので、メールに慣れていない時は普通だと、てっきり返事を出さなければならないと思うような文章なのです。でも読んでいくうちに変な誘いであるような気がして、これも×印の画面消去しているのです。男性が失敗するものには「酒と女と賭け事」という三つがあるのだと昔ある人から教わりました。体の都合で酒を断っている私にはもう酒で失敗することは殆ど100パーセントなくなりました。また賭け事も余り好きでない私には縁遠いものなのですが、それでも最近は遠のいたものの、スズメの涙ほどしかない退職金を当て込んでのことでしょうが、投資をしないかと盛んに先物取引や株取引の電話がかかってきたものです。でも金融広報委員会のアドバイザーを長きに渡って務める私にはその誘いも無縁で、きっぱりとお断りする心の準備が出来ているのです。

 さてもう一つの人生失敗の原因である女の件に関しては、男性の場合女に持てたいという願望があるため、少しの誘いで胸がときめくものなので、意外と失敗が多いようです。セクハラや携帯で女性の下半身を写真に撮ったり、出会い系サイトで知り合った女性と交際し、役職や人生までも棒に振った人の数は相当数に上っているようです。私に送られてくるメールも、多分私の公式ホームページを見てのアクセスになったのだろうと思われますが、何の連絡もせず無視しているにもかかわらず執拗に返事を求めてくるのです。

 男性が異性に興味を持つことは当然のことでしょうが、酒も賭け事も女も全て自分というもう一人の自分と向き合って無言で会話しながら決めて行動するのですから、目に見えないもうひとりの自分をいかに強い人間にするかが決め手のようです。そのためには日ごろの学びと心を強くする誘惑に負けない訓練こそ必要だと思うのです。

  今朝も20数件の横文字メールと女性に関する誘惑メールが2件届きました。いつもの如く全てを×印で消してブログを書き始めました。

  「世の中は よっぽど暇な 人ありて 俺にメールを 送り続ける」

  「いい人が いるとメールが 誘ってる 俺は強いぞ 女妻だけ」

  「×印 マウスで処理し 始めるが 無駄なことだね パソコン音痴」

  「誘い手に うっかり乗ると 火傷する そんな歳など とっくに過ぎた」


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shin-1さんの日記

○山里に通い続けた20回5000キロの旅・大宮地区(20-20)

 秋のつるべ落としの太陽が山の端に隠れる時間が段々早くなり、夕方5時頃になるともう山里には夜のとばりが下りて人恋しくなります。昨日は四万十市西土佐への20回の集落巡り最後の日なので、何となく晴れやかで、それでいて「今日で来れないのか」と思うと何となく寂しく、複雑な心境の一日でした。盛夏を間近に控えた6月からはじめた集落巡りも約6ヶ月の長い期間となってしまいましたが、片道125キロ、往復250キロ、20回で5000キロを走破した計算になるのですから驚きです。第一のふるさとは生まれ育った双海町ですが、第二のふるさとは高校3年間を過ごした宇和島だと心に決めています。もし私にとって第三のふるさとがあるとすればそれは、連続的に20回も足を運んだ高知県四万十市西土佐だと言わざるを得ないほどの土地になってしまいました。

 この日も例によって今や西土佐の関所になった彩花という軽食喫茶に、2時間近くの運転の疲れを取るため立ち寄りました。奥さんと他愛のない話をしながらお茶を飲むのですが、この店に立ち寄ることも暫くはないだろうと少し寂しくなりました。そこへ役所の中脇係長さんから電話が入り、今晩の夕食はこの店でするから注文をして待つように言われました。今晩の会場となる大宮という地区にはこの先の橋を渡って30分余りの所にあるそうなのでとんかつ定食を注文し、居合わせた近所の奥さんが持ってきていた大根を見ていたので、とんかつを大根おろしと酢醤油でいただこうという相談がまとまりました。久しぶりに食べたとんかつの揚げだちは格別で、最後の講演会に向けて馬力が出たような感じがしました。

 大宮地区は9人ながら小学校があり、元気な集落の一つだそうですし、JAの合併で消えかかったお店を、地域の人が共同出資して引き継ぐという世にも珍しい地域だと聞いていたので楽しみにしていました。隣接する滑床渓谷や愛媛県松野町目黒は直ぐ目と鼻の先で、帰りはこの方面を通って帰るとあって、中脇係長の運転する公用車の後をノコノコとついて進みました。夜のことゆえどこをどう走ったかはまったく分りませんし、私のカーナビゲーションもそんな田舎道は白地図同然で、車の走った後が白く地図に表記されてゆくのみでした。

 到着した集会所の前の畑には真っ暗ながら遅咲きの背丈の低いコスモスが少し冷たい風に揺れていました。私は車に積んだデジカメを取り出し幻想的な夜のコスモスに向けてフラッシュをたきました。ピントも合っているかどうか分りませんでしたが、結構な写真に写っていました。集会所の中に入ってみるとこの地域では厄年の人たちが毎年厄落としの祝い事をした後撮った記念写真がもう30枚も鴨居の上に飾ってありました。中には赤いちゃんちゃんこを着、帽子を被っている人もいますが、既に高い日田人もいるようで、みんなで感慨深げに鑑賞をしました。

 集会には結構な数の人が集まり楽しい雰囲気でした。特に私の追っかけをしてくれた西ヶ方の方もいたりして、まあ最終20回目のフィナーレに相応しい会合となりました。私の話もいつもにも増して熱のこもった話を展開しましたが、思いのある方々ばかりなので反応も上々だったように思いました。

 「こんな楽しい話しだったらまた来てくださいや」とお世辞にもせよ、ありがたいお言葉をいただき大宮を後にして、初めて通る目黒経由の道を和田課長さんの先導で帰路に着きました。

 別れ際和田課長さんが「最後なので少し時間を下さい」と耳打ちされていたので、課長さんの先導車の進む方向に進みました。県境のトンネルと相変わらず曲がりくねった道を下りて、田舎にしては珍しい小奇麗な一杯飲み屋に着きました。9時半を回っていることもあって店に他の客はなく、課長さんの顔見知りの店なので、ママさんとマスターと私たち4人で、四方山話に花を咲かせました。「来てくださいや」という言葉をことらの方言では「きちくれや」といいますが、吉と屋を漢字にした田舎言葉の造語が店の屋号なのです。

 

  それから延々11時30分までの2時間、私のつたないハーモニカを吹いたり、かつて若い頃に兄弟のように付き合った昔を懐かしみながら、課長さんはビールや焼酎、私はウーロン茶というかみ合わぬ嗜好品で話し込みました。さっきのとんかつでお腹が一杯の上に湯豆腐まで注文し、腹の具合が悪くなりそうな雲行きでした。

 美人ママと人のよさそうなご主人と課長さんをカメラに収め、夜道を宇和島経由で帰り、家についたのは午前1時半になっていました。中脇係長さんや藤倉さん、それに雇用促進協議会の石川さんなど、今回も多くの人々のご縁をいただき、何はともあれ20回の西土佐集落巡りは無事終了しました。深夜にもかかわらず帰りの遅い夫を心配して待ち続けていた妻の温めた布団にもぐりこみ、二人ともいつしか夢の世界へ旅立っていました。

  「二十回 五千キロの 旅でした 深いご縁の 人また増えて」

  「年齢を 考えもせず 日帰りの 少々きつい 仕事こなして」

  「同じまち 二十を越えた 記憶なし 故に記録だ 俺のギネスに」

  「二十粒 元気の出そうな 種を蒔く 芽が出て花実 つけて欲しいね」

 

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shin-1さんの日記

○えっ、もうお正月?

 人々は何を目安に生きているのだろうと思わせるように、世の中には何でも早く取り組もうとするせっかち野郎がいて、何だか気あせらしくて仕方がありません。まだ2ヶ月向こうだというのに巷にはジングルベルの音楽が鳴り響き、クリスマスの赤い飾り付けがやたらと目に付くようになったし、ケーキ屋さんやコンビニにはクリスマスケーキ予約受付中の幟がはためいて、新聞折込にも日々そんな慌しさを更にせかすようなチラシが入っているのです。勿論クリスマスだけではありません。10月31日の昼頃近所の郵便局に手紙を出しに行くと、11月1日の年賀状発売を前に何と門松がお目見えして、「えっ、もうお正月?」なんて錯覚をしてしまいました。

 普通門松は正月を迎える縁起物として元旦の2~3日前に大安のようなよい日を選んで飾り付けるのが普通ですが、多分今の日本で一番早く門松を取り付けるのは全国の郵便局だろうと思われるのです。年賀状を売りたいという魂胆は分るのですが、これは世の中の流れや社会通念を無視したり、正月本来の習慣を変えるようなやり方で余り感心しないと私個人は思っています。現代の日本はこのように一事が万事早いものがさも価値があるかのようになっていて、うかうかすると一儲けを企む人の格好の標的になりかねないのです。もうここらで「ウサギと亀」の童話ではありませんが、もう少しユックリズムを取り戻して欲しいと思うのです。

 そうは言っても季節を追って暮らしている人々にとってこれは死活問題ですから、ケーキや年賀状を売るのも競争相手がいることなので仕方がないと諦めねばならないのでしょうが、要は消費者たる私たちがそんなコマーシャルに安直に乗って衝動的行動をしないよう心にブレーキをかけることが大切なのではないでしょうか。

 昨日妻が年賀状を買ってきました。私は現役の多い頃には約千枚近くも年賀状が届き、約800枚程度出していたのですが、今では500枚に縮小しています。でも一枚五十円のハガキでも500枚だと2万5千円と結構な値段なのです。勿体ないけどハガキ人間の私としては仕方がないのです。今年は少し減らそうと頑張るのですが、自分のパソコンに入った住所録を整理する間もなく、結果的には今年も多少の増減はあっても500枚くらいに落ち着きそうな雲行きなのです。

 クリスマスケーキも昨年は無駄なことをしました。妻でみると家族はそれぞれ独立して少なくなったけど、せめてケーキぐらいはと注文したのですが、息子たちがそれぞれ良かれと思い思いに注文したのが三つも届いて、毎日ケーキを食べる羽目になってしまいました。いくら最近のケーキが甘さを控えているからといっても、ケーキばかり食べれる若い時とは違いますから、最後は勿体ないと思いつつ生クリームで賞味期限のこともあって、捨ててしまいましたし、アイスケーキなどは溶けると食べれないので冷凍庫の中で正月まで保存されていたようです。

 冷蔵庫や冷凍庫には物が溢れ、わが家のような貧乏さんでさえ飽食の日本を象徴するように片付かない余り物が散らばっています。毎日出る生ゴミの中には賞味期限の切れた封も切らない食べ物まで捨てられて、何と勿体ないことでしょう。私は講演などで日本全国を旅したり、また視察者が全国からやって来るためそれぞれの土地の名物的お菓子を持参してくれたりします。殆どは近所や友人におすそ分けするのですが、それも限界があり不始末を余儀なくされる事だってあるのです。

 お正月を迎えるのを機に少し暮しの仕方を変えようと妻と話しています。ゴミ袋が有料化されて少しの間は減ったゴミも、馴れるとまた元に戻りつつあります。暮しを変えることは容易なことではありませんが、せめて一年の区切りぐらいでもそう考えて日々の暮しを見直したいものです。

  「門松は 正月飾りと 思ってた ところがどうだ 二ヶ月前に」

  「クリスマス 見まがう程に 電飾し おいで買ってと お客呼び込む」

  「ああケーキ 今年も食えと 妻が言う 食いたくないのに 何でこんなに」

  「見直そう 見栄無駄無理な この暮らし 日本は何て 豊かなんだか」 

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shin-1さんの日記

○孫と木下大サーカス見学

 週末わが家へ泊まりにやって来た三歳の孫は、9時には風呂に入って寝るため私が帰る頃にはもう夢の中なのです。帰ると妻が「おじいちゃんが帰るのを待っていた」というものですから、「明日は久しぶりの日曜日で午前中空いているので木下大サーカスでも見せてやるか」と相談がまとまり、昨夜のうちはその予定を組んでいました。ところが今朝になって地元公民館の掃除当番が回ってきていて早朝には出かけられないことになりました。妻がy歩層以上に早く、9時に掃除から帰ってきたので思いついて身支度を済ませとに角行ってみようと話しがまとまりました。しかしいざ出かけようとすると一人っ子で臆病者の孫はサーカスが怖いから行かないというのです。なだめすかして少し涙ぐむ孫を車に乗せ妻と3人で少しスピードを上げて松山堀の内の特設会場へむかいました。会場近くまでは日曜日のことで比較的スムースに行けたのですが、さすがに日曜日とあって近くのパーキングはどこも満員のようでした。思い切って農協会館前の立体駐車場へ行ったところ幸い駐車でき、会場まで小走りで向かいました。海上20分前なので会場前には長い長い列が出来ていました。偶然にも息子夫婦が息子嫁の知人の子どもを連れて並んでいて、切符を買う間に割り込ませてもらいました。

 一度の公演に千人以上の人が収容出来るそうですが、定員札止めを心配するような目測800番くらいな所にいましたが、妻のチケット購入がギリギリ間に合い運良く末席ながら確保することが出来ました。早朝から少し冷え込んでいたので寒さを心配して出かけましたが中は熱気ムンムンで、汗っかきの孫などは汗が出るほどの陽気です。

 小学生の頃だったでしょうか、御宝町でサーカスがあった折、学校の遠足で始めてサーカスを見ました。あの時の感動は今も忘れられない思い出ですが、今のサーカスは約2時間の間ピエロがつなぎながら間断なくショーが続くのです。空中ブランクあり、マジックショーあり、動物ショーあり、モーターバイクショーありとハラハラドキドキの2時間でした。怖いから行かないとダダをこねた孫も夢中になって、終わる度に拍手をして結構楽しんでいたようです。公演が終わって帰る時「おじいいちゃんまた明日来ようね」と現金なものです。


 場内は演技の都合上撮影が禁止されているため、演技が始まる前にフラッシュをたかずに一枚撮りました。それにしてもサーカスとは高度な技術を持った人たちがいるものだと感心させられます。猛獣といわれる動物を意の向くままに操る人、空中ブランコで華麗な空中ショーを演じる人、奇想天外なマジックをする人など様々なその道に秀でた人たちが短い自分の持ち時間を最大限に生かして聴衆の目を釘付けにするのです。またショーとショーの合間を上手くつなぐピエロの芸も地味だが味があるのです。私たち素人には真似の出来ない世界ですが、2時間の演出はお金を払うだけの価値はあると感心しましたが、何かヒントを拾ったような感じがして、いい一日でした。

  「夢誘う サーカス妙技 手を叩く 孫もつられて 大きな拍手」

  「ライオンが 鞭の一振り ひれ伏して 妻さえままに ならぬというに」

  「少年の 記憶に残る 夢舞台 果たして孫は いかに記憶か」

  「鳴り止まぬ 拍手の影に 苦労あり 陰でうごめく 黒子の力」

  




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shin-1さんの日記

○お寺でシンポジウム

 最近は世の中も変わったもので、人が死なないと縁のなかったお寺でコンサートが開かれたり、昨日のようにまちづくりのシンポジウムが開催されたり、何かとお寺にご縁があるようになってきました。歳をとったからではなくまだまだ若いと思っているのにお寺からお誘いがあるのですから、日々の暮しがそんなに不自由なく過ごせるのは、やはりお寺や住職からご利益を十分いただいているに違いないと思えばもっと喜んで参加すべきだと、私は昨日も喜んで参加しました。お寺さんのある今治市玉川町までは普通海岸周りと山周りの2ルートがあるのですが、昨日は紅葉が見ごろだろうと山周りのルートを選びました。双海~奥道後~水が峠~玉川と曲がりくねった山道を走りましたが、あいにくの雨にもかかわらず紅葉は見事で、季節の変わり目なのか道端に立っている温度計は10度そこそこまで下がっていました。それでも窓越しに見える山の風情は晩秋の山里ならではの落ち着いた佇まいを見せていました。

 昨日のシンポジウムはえひめ地域づくり研究会議発足20周年記念のリレーシンポで、宇和島、新居浜についで第3弾の今治会場なのです。会場となった四国霊場仙遊寺には40人を越える人が集まり「絆」というテーマで様々な切り口から円陣になってエンジントークを試みました。私もえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしている関係上開会のあいさつをしましたが、長年地域づくりに携わっていると顔見知りも多く、大西の大河内さんやちろりん農園の西川さん、越智郡島嶼部の井村さんや越智さんなどの人々、それに住職の小山田さんご家族や源流の面々など、名刺も要らない顔見知り組と楽しい近況会話を交わしました。双海町出身で松山市垣生でグループホームを立ち上げて活躍している暁美さんも参加していて顔ぶれはすごく充実していました。

 20年前地域づくりグループ源流の立ち上げのため仙遊寺に来た頃は、私も若かったし住職の小山田さんも若く、お寺もまだ未整備のままでした。その後小山田さんのエネルギッシュな行動はお寺の境内に次々と建物が立ち並び、これがお寺?と見まがう程の近代的な整備がなされました。小山田さんは多分住職ではなく坊主という仮面を被った事業家なのではないでしょうか。そんな彼の生き方は多くの人を引き付け、こうしてシンポジウムも開かれているのです。私の持論である「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」という言葉はまさに彼にもピッタリの言葉なのです。


 合併という時代の流れに翻弄されながらも頑張っている島人たちの参加も見逃せないものでした。

 昨日はうらしい出来事が2つありました。お寺の裏にある2階ホールの窓面に沢山の写真が飾られていました。えひめ地域づくり研究センターの主催する事業に参加した若い2人のメンバーが自分たちの出来ることを始めようと古い今治の写真を集めて写真展を企画したその時の写真なのですが、これが実によく出来ていてみんな食い入るように見つめていました。

 彼らはこれ以上の劣化を防ごうとデジタルでこれらの写真を保存しているようですが、素晴らしい試みだと感心しました。

 また会場には農業後継者として頑張っている若者の発表やミニFMのDJとして頑張る二人の高校生の賛歌や発表もあって、地域づくりの現場に若い人の姿が消えつつある昨今何とも嬉しい集会でした。

 集会が終わって交流会になりましたが、お寺の心のこもった精進料理も中々のもので、住職の奥さんが中心になって賄いをしてくれましたが、全てに満足のいく集会でした。

 私は連日の県外出張のハードスケジュールと明日の予定もあって日帰りとなりましたが、例によってハーモニカのトークショーを少しやって、後ろ髪引かれる思いで仙遊寺をおいとまし、再び暗闇の元来た山道を辿り我が家へ帰りました。

  「精進の 料理美味いと 舌鼓 日ごろご馳走 食ってるからか」

  「住職の 仮面被った 実業家 会うたび次の 夢を語りて」

  「ウーロン茶 乾杯何と 味気ない 昔ビールを たらふく飲んだ」

  「若者に 会って自分の 歳を知る 遠い昔の 夢が懐かし」


 

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shin-1さんの日記

○笑いの裏の深さ・半家地区(20-19)

 人の集まる条件を社会教育流にいうと①楽しみづくり、②しくみづくり、③値打ちづくりだと思うのです。まず何よりも優先されるのは楽しさでしょう。酒が飲めたり馬鹿話に花が咲くような楽しい雰囲気だと行ってみようかという気分になるものです。そのため主催者はレクリェーションなどを交えて集まりやすい雰囲気を作るために努力をします。次はしくみづくりです。役員組織をつくるのもそのためで、役割があるとお義理にせよ人は集まります。ひとり一役を分担させて役割感を持たせれば主役になった気分で頑張れるのです。最後は値打ちづくりです。集会に参加してためになったりそのことが自分の儲けにつながると人はその集会に価値観を見出すのです。

 昨夜の会合はその意味からすると残念ながら三つとも事前の人を集めるアプローチに失敗して殆ど人が集まりませんでした。主催した側はすまなさそうに詫びを入れ集会はほんの小さな車座で行われました。しかし講師の私は、たとえ少人数であっても真面目に来た人が馬鹿を見るようなことだけはしたくないと値打ちづくりに情熱を傾け、多い人数のどの時にも劣らぬ想いで最初から最後まで話をしました。

 あいにくカメラを忘れ、藤倉さんに会場のスナップ写真を頼んでいたのですが、藤倉さんから昨夜のうちにパソコンで送られて来たのでコンパクトな集会の模様を縮小処理してブログに載せることにしました。

 参加した人の数は物足らなくてもいい雰囲気の集会だったことだけは間違いありませんでしたので、集落の名誉のためにも付け加えさせていただきます。

 半家というこの集落の名前を発見したのは20回の西土佐集落巡りが始まったばかりの頃でした。江川崎駅のプラットホームの看板に次の駅は「はげ」と書いているのを見て思わず吹きだしてしまったのです。半家という地名は平家の落人伝説に由来しているそうですが、察するに平家だとよく分るので平の上の一文字を取って下につけ半にしたのではないかと思われるのです。

 集会所に入って掲額をみてこの半家という集落は重みのある集落とお見受けしました。桜島の噴火や宮城県の凶作、戦前戦後の軍国時代のその度に義援金や資金を調達してそれぞれの時代に対応した県知事の感謝状がやたらとあるのです。中には大正時代や昭和19年などと記述したものもあって中々興味をそそりました。これらの古文書は一度調べて記録にでも残すと時代背景やその頃の様子が分り面白いと思いました。

 公民館に掲げられた2枚の写真ももの言わぬ歴史の証人として大切にして欲しいものです。上は沈下橋の代用橋として架かった立派な橋の竣工渡り初めの写真、下の写真は秋祭りでしょうか牛鬼と五鹿が沈下橋を渡るこれまた貴重な写真です。牛鬼や五鹿は宇和島藩、遠くは伊達仙台藩に由来する伝統文化で、土佐でありながら伊予の文化の影響を受けている様子がうかがえます。

 この集会所には田舎の女性が書いたと思われる美人画も掲額されておりましたが、中にはこんな面白い絵と短歌がありました。「女房を尻で見分ける田植えかな」の句です。おみそれしました。私の笑売啖呵などまだ足元にも及ばない秀作です。

 迎えて長くもあったし過ぎて短くもあった20回の西土佐集落巡りの旅も名残惜しいかないよいよ後1回でフィナーレです。思いを込めて13日の最後は締めくくりたいものです。

  「今頃は 尻など見えぬ 田植え機が 田んぼの中を わが者顔で」

  「人の数 気にすることは ありません 来た人どんな 学びをするかだ」

  「お茶沸かし お茶も出したる 行った人 茶番劇だが お茶を濁して」

  「人のため 世のため資金 出す証 無形の教え 今に伝えて」 


 


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