shin-1さんの日記

○やめた人の言い分とやめない人の言い分

 昨日久しぶりに旧役場の同年齢同僚二人と酒宴の席で出会いました。A君は家が農業です。したがって退職すると家業の農業を奥さんと共にやっています。晴耕雨読の日々は実に楽しいと、真っ黒に日焼けした顔をほころばせて話してくれました。しかし彼の作っているみかん類は施設園芸で高品質を追求するような農業ではなく、親から貰った財産を減らすこともできないからと、まあ仕方がないからやっているようなもので、相変わらず金の取れない農業だと農家の長男に生まれたことや農業の厳しい現実をぼやいていました。

 一方B君は天下りといえるかどうか分りませんが、役所の外郭団体に移って団体事務局のような仕事をしています。朝家を出て夕方家へ帰る退職前と変わらない背広にネクタイの生活ですが、責任がない分気楽なものだと話していました。しかし彼の置かれている立場は微妙で、これまで部下だった役所の人からいちいち文句をつけられ、おまけに給料はスズメの涙だとこれまたA君と同じようにやるかたない不満を打ち明けてくれました。

 さて彼らの話の矛先はもっぱら自由人となって伸び伸び生きてる私に集中してしまいました。「お前は大学の先生気取りで若い子と一緒になっていい」とか、「お前は講演など口先だけで弁当も持たずに色々な所へ出かけて講演するからいい」など、まるでさも私が勝ち組、自分たちが負け組みのような話をして羨ましがるのです。挙句の果ては「何でも人間牧場などというセカンドハウスを造ってリッチな生活をしているそうじゃないか。金があったら回してくれ」などと、いいたい放題なのです。

 ところでA君は酒もタバコもパチンコもという嗜好品100パーセントの人間でしたが、数年前に健康診断に引っかかって一念発起してタバコをやめました。パチンコも雨の日に行く程度のようですが、酒だけはやめれないと言い張っていました。「酒をやめるくらいなら死んだ方がましだ」と、体の都合で酒を6年前から断っている私にこれ見よと言わんばかりに、さも美味そうに盃を乾すのです。タバコをやめたことを誇らしく公言し、その代償として酒を飲むことを自分に納得させるA君ですが、過去に胃潰瘍の手術をした経験があるので、「そんなに無理して飲むな」と注意をしましたが、一向に馬の耳に念仏のようでした。

 B君はどちらかというとネグロ的性格で、私たちのように元気を顔に出すタイプではありません。故に物静かで再就職後もその性格は変わらずむしろ昔より愚痴っぽくなっているようでした。B君もA君と同様酒もやるし、タバコもやりますが、賭け事だけはしないようでした。

 私は同じ時代に生まれ同じ時代に生き、同じようにリタイアした3人の中で、A君とB君がいうように果たして幸せ者なのか考えて見ました。確かに今はさした悩みもなく、日々人と出会い、現職時代に培った人と情報のネットワークを駆使して楽しく暮らしていますが、彼ら2人と根本的に違うのは未来への明確な人生目標に向かって歩んでいるからだと思いました。そのことを今夕妻と風呂に入りながら雑談めいて話すと、「それは私の存在が大きいのよ」と返されました。妻の言うように確かに若い頃は様々な苦労や失敗を繰り返してきましたが、その度に妻の内助の功がどれほど支えてくれたか計り知れないのです。「それをいっちゃあお終いよ」とまるでフーテンのと寅さんのようなセリフでお茶を濁しましたが、せめてこれからも同行二人の人生でありたいと、友人二人にあってしみじみ思いました。

  「幸せは 私のお陰と 妻が言う そうだそうだと 心相槌」

  「A君と B君お前 幸せと 羨ましがり つつ酒を飲む」

  「酒止める なら死ぬ方が まだましと 友は変わらず 盃乾して」

  「今日すめば 明日など俺にゃ どうだって ネグラ男の 愚痴が始まる」 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○知っているようで知らない松山市道後という街

 愛媛県の県庁所在地は松山市です。熊本県に熊本市、大分県に大分市と県と県庁所在地の名前がダブっている地名は比較的覚えやすいのですが、島根県の松江市や香川県の高松市のようにまるで違った名前だと、中々覚えられなかった社会科の授業が思い出されます。私たち松山市の周辺に住む者にとっては、行政・教育・文化・商業・医療・交通のどれをとっても松山市抜きの暮しは考えられませんし、その恩恵に浴しながら今日まで暮らしてきました。特に役所に勤めるようになってからは次第に松山市の占める割合が増えるようになって、リタイアした最近でも松山市から通っているのと言われるほど深くて広い結びつきです。ところが少し離れた地点で冷静に考えてみると、私と松山市の関係は同じような点を同じような線で結んで行ったり来たりしているだけであることがよく分るのです。例えば松山市の道後だって今まで数えられないくらい行ったり来たりしているのに、温泉や旅館といった場所で会合したり泊まったり、食事をしたり出会ったりするだけで、裏にある桜の名所常信寺の存在を知ったのは最近だし、近くにある松山神社の立派な造りも孫を迎えに行ったほんの少しの街歩きで発見したものでした。

 先日の日曜日、えひめ地域づくり研究会議が開いたリレーシンポジウムの会場となった宝厳寺も一遍上人さんの寺として知ってはいましたが、恥ずかしながら訪ねたのは今回が初めてなのです。

 この日はあいにくの雨の一日となりましたが、かつての色町といわれるネオン坂を登り、山門をくぐると目の覚めるような黄金色に紅葉したイチョウの大木が雨にしっとり濡れて二本、威風堂々と立って私たちを出迎えてくれました。

 私のカメラで出来るだけアップでと近づけて撮ったため頭は切れてしまいましたが、いい色は何とか表現できたようです。平和通や勝山通りのイチョウなど松山市には名だたるイチョウがありますが、このイチョウも立派で、葉の落ちた境内の姿も見てみたいと勝手に想像をしてしまいました。

 シンポジウムのプロローグはお寺の秋を演出しようと心憎いばかりの企画が盛り込まれ、森原さんの詩の朗読と竹山さんの尺八、それに三好さんの創作舞踊のコラボレーションが見事に表現されて、これだけで言葉は要らないような世界を感じ取ることが出来ました。


 一遍さんの木像が側に安置された本堂はまさに極楽浄土の世界です。残念ながら余りの見事さに見とれてしまい、一遍さんの写真を撮るのを忘れてしまいました。

 この会の企画や全体進行を担当された門田さんや森原さんはやはり文化人だとしみじみ思いました。私が企画したらこんな素敵な顔ぶれを集めれたかと思うと、少し後ずさりしそうな感じでした。中島や堀江の事例発表や犬伏先生をコーディネーターに据えたディスカッションも文化に彩られ、はり松山は凄いと、改めて文化的奥の深さに感心しました。

 私も内子で来春行われる予定の20周年記念シンポの予告のためチョイ役で出ましたが、その頃には雨も上がり、格子戸の向こうに夕焼けがあるのか格子戸を通して夕日が幻想的に差し込んで、何ともいえない深い味わいでした。私は厳を(げん)か(ごん)か隣の席に人に聞かれたので、あえて失礼ながら備え付けられた住職しか叩くことを許されないであろう鐘を、住職さんのお許しを得て叩かせていただきました。はいこのお寺の名前は(ほうげんじ)ではなく、鐘の音のとおり(ほうごんじ)と読むのです。

こんな文化的シンポなのに私の遊び心が夢の世界から現世に逆戻りして(しまった)感じがして(しまった)でした。

 それにしてもこの時間帯は、道後の街に全国から沢山の人が泊まりに来てお湯を楽しみ食事も始まるのであろうが、湯上りに湯篭を下げて下駄の音をカランコロンとさせながら、ネオン坂を登ってこのイチョウの紅葉を見に来させる、いきな計らいをするホテルや旅館はないのだろうかと、行く秋を惜しみながら車でネオン坂を下り、懇親会に出席できない後ろ髪を引かれて、松山インター口のバス乗り場へ車を走らせ、東京行きの夜行高速バスに乗り込みました。

  「今年ほど 紅葉見たのは 初めてだ 紅葉元年 美しい国」

  「文化人 なれぬ私が 恥かしい 修行が足らぬと 一遍お怒り」

  「お寺にて 会議する度 思うのは 昔はみんな こうだっただろに」

  「住職が 変わればお寺の 雨漏りも 直り人々 集まる場所に」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○奥の細道紀行

 関西に住む私たちにとって東北は、いくら新幹線が通って便利になったとはいえ東京から向こうの遠い地域でしかなく、音信も交流も殆どないのが実情です。それでも最近は青森や宮城県仙台、岩手県宮古などからお声がかかって、少しづずつ遠い国が近くなりつつあります。それでも回数は年に何度かでしょうから、今回の岩手県一ノ関への旅も楽しみの一つであったことはいうまでもありません。私が東北に憧れるのは松尾芭蕉の奥の細道とイザベラバードといういイギリス人女性が姉にあてた書簡を基に書かれた「日本奥地紀行」を読んだからです。松尾芭蕉の俳句の幾つかは子どものころから教科書で知っていますが、イザベラバードの本の存在を知ったのは数年前です。地域づくりを志す私にとって、アルカディア(桃源郷)は理想の地域だからです。初老を迎えつつある私にとって東北の四季は魅力だし食文化や祭りも早く見ないと時間がないような焦りもあるのです。

 そんな折、一通のメールが岩手県一ノ関の金森勝利さんから入りました。彼とは何の面識もないのですが、彼に言わせると東京上野にある国立社会教育研修所で私の講演を聞いたというのです。もう何年も前のことなので記憶の片隅にもなかった出来事ですが、彼はこれまで私の存在をしっかりと頭の片隅に置いていたというのです。最近7つの町が合併して新生一関市という人口10万人を超す街が誕生したのを機に、課長さんたちに私を呼びたいと進言し私を招聘する企画が実現したそうです。

 私は一も二もなく了承しました。ただこの10月と11月は日程が滅茶苦茶立て込んでいて、結局は私に合わせる形で28日の予定を組みました。運が好いのか悪いのかその日の前後は日本列島が深い気圧の谷にすっぽり入って、2泊3日は全て雨にたたられました。しかし雨の晩秋東北はまた見方によっては風情があってホテルの一室に閉じこもって、締め切りの近づいた原稿を書くのにはピッタリの一日となりました。

 東京から一ノ関までは上野から東北新幹線で約2時間です。昔は特急でも8時間かかっていたというから信じられないような速さです。私は最近開かれた還暦の同窓会で同級生の友人からハーモニカで「ああ上野駅」という井沢八郎の歌った昔懐かしい歌を弾くよう懇願され何とか吹けた記憶を思い出しながら、上野駅のそこここに「どこかに故郷の便りを乗せて、入る列車の懐かしさ」と口ずさみながら新幹線に乗り込みました。


 かつての蒸気機関車とは似ても似つかぬまるでおもちゃの箱から飛び出したような美しい列車に身をゆだねながら、一路東北を目指しました。車窓の風景に飽きることのない2時間はあっという間に過ぎ去り、少し肌寒いかもしれないと妻が持たせてくれたコートを着込んでプラットホームに降りたのです。

 夕方まで自室で原稿を書きながら窓越しに町並みを眺め夕方まで久しぶりにのんびりした時間を過ごしましたが、6時になって生涯学習課長さんがわざわざ迎えに来ていただき、季節料理の柳橋というこじんまりとしたお店へ案内されました。気配りの出来る女将は急な二階への階段を足元に気を付けるよう一緒に上がってくれましたが、既に若い職員さんが8人も集まっていて、その後は推し量るべき話しに花が咲きました。美味い料理と美味い酒、そして人情は嬉しいもてなしの条件が全て揃い、遠くの町からはるばる駆けつけてくれたであろう、帰りの時間ギリギリまで熱心に話しこんだのです。
?

 若い頃の私がそうであったように、集まった職員さんたちは私のむしろ失敗談に耳を傾け、熱心に話を聞いてくれました。「社会教育は楽しい」と仮説目標を立てれば絶対うまくいくと、日本一の公民館主事を目指して目を輝かせた当時のことを、明日の講演では聞けない裏話として話しました。

 会場となった文化センターはホテルのすぐ裏手でしたので、あくる朝は迎えを断って一人で歩いて行きましたが、センターの前には今を盛りと燃える紅葉が私を温かく迎えてくれました。

 餅のフルコースといわれるような珍しい昼食をご馳走になり、再び元来たコースを後ろ髪引かれる思いで後にしました。

 課長さんはじめまた出会いたい多くの人のご縁をいただきながら・・・・・。

  「一ノ関 目指す細道 ひとり旅 ご縁いただき 再会約して」

  「しとしとと 降る雨濡れる 一ノ関 家並み見ながら 締め切り終われて」

  「 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○広島県世羅の町・その②

⑤世羅の町を流れている川は芦田川ですが、何故かこの川は広島県でもワーストを記録する川だそうです。こんな田舎に流れる川が何故汚いのかはあえて聞かなかったので原因は不明です。最近色々な町へ出かけますが、環境問題への関心は高く、海や皮を美しくしようという動きが活発で、既にその成果が報告されています。川は川上と川下の協力なしには美しくなりません。川下が川上の、川上が川下の悪口を言い合っている間は多分川は下水の延長になってしまうでしょう。

 芦田川の土手には沢山の桜が植えられていました。春の頃に見事に咲いた桜の並木を見に行きたいものです。芦田川の両岸に植えられている桜を愛でる手段として、満開の3日間だけでも歩行者天国にして筵やゴザを敷いて花見の宴を催したいものです。

⑥三郎丸のホタルの里の予定地を見学しました。残念ながら川は二方がコンクリートブロックになっていましたが、川には中洲もあって、ホタル保護活動は可能ではないかと思いました。川に架かった橋の名前は何ともロマンチックな夕霧橋だそうです。私の町でも20年間かかってやっと満足のいくホタルが飛び交い、心を一つにしたホタル祭りが開かれるようになったし、環境庁ふるさと生きものの里百選にも選ばれました。自然を相手の運動や活動は今日や明日結果が出ないジレンマがありますが、未来に生きる子どもたちのためにもホタルを復活させて欲しいものです。兼丸さんの炭焼きも芦田川の浄化も基本的にはホタルを飛ばせる運動とリンクするものだという認識を持って欲しいものです。

⑦町内には梨やブドウやリンゴなどの果物をアピールするフルーツロードがあり、いたるところに特産品販売所がありましたが、シーズンオフということで、どこも散閑としていました。想像するに多分これから春先まで世羅町はこれから長い冬篭りの季節になるのでしょうが、冬に人を来させるアイディアが欲しいと思いました。私の町は海抜ゼロメートルの温暖な特長を生かして水仙と菜の花で、冬の何にもない季節に沢山の人が訪れるようにしました。アイディア次第で人を呼び込むことは出来るのです。一工夫が必要でしょう。

⑧せら夢公園に立ち寄りました。何年か前西大田に講演に行った時、役場産業課の馬場さんに案内されてその予定地を見学に行った記憶が甦りました。馬場さんの夢が叶って夢公園は素敵に出来上がっていましたし、馬場さんも役場を退職してワイナリーの施設長になっていました。久しぶりの出会いはとても嬉しく思いましたが、あの当時あった赤松などの自生樹は既になく、ブルで押されて一面が平面化されていました。木陰がない公園はシーズンにやって来た人にとって安らげないのが少し残念でした。人間はどうしてこうも無駄なことをするのでしょう。折角生えていた木々を切ってしまって、また木を植えるために相当なお金をつぎ込みのですから・・・。「ふるさとのこの松切るな竹切るな」は正岡子規の句です。

それでもワインも美味しく出来ていたし、将来が楽しみです。

⑨残念ながらシーズンオフだったため、自慢の花は見ることが出来ませんでしたが、町内の農園ではチューリップやユリなど様々な花を咲かせて観光客を呼び込んでいる姿が町のパンフレットから読み取れました。この町の人たちは梨やブドウなどや花で金儲けは実に上手くやって経済効果を上げています。それは素晴らしいことですが、まちづくりの視点からいうと、自分を囲い込み過ぎてそれぞれが点でしかないのです。点を線で結び面にしていかなければ大きな成果は望めません、点の線化、面化が実はまちづくりなのです。そのことをしっかり考えないと行政や住民の力が得られないことも忘れてはなりません。

⑩最後に日本一の夢吊橋へ行きました。宮崎県綾町のつり橋や徳島県祖谷の吊橋など、今までにも全国いたるところで吊橋を見てきましたが、この橋はどこにもないような吊りロープのない吊り橋でした。珍しい工法でしょが、揺れない橋だけに恐怖感も感じない橋でした。出来たときは話題になったそうですが今は訪れる人もまばらで、山間にひっそりという感じでした。若者向きの物語を作って利用の仕方を考えれば面白い素材です。一休さんのとんちが必要なのかも知れません。

 自治振興協議会の皆さんは中々熱心で、平日にもかかわらず殆どの人が地区めぐりに参加し、ホテルで開いた夜の交流会も多いに盛り上がりました。やはり山間地の人は飲みニュケーションが必要なようです。交流会ですっかり打ち解けて、海に憧れる人だけに私の町とも交流が始まりそうな予感がしました。


 明くる日の講演会はほぼ満員で、甲山の田坂さんもわざわざ手土産を持って駆けつけてくれました。そういえば旧友田中一裕さんも世羅だったと、帰ってから思い出しました。失礼しました。

 それにしても世羅町はいい町です。いい素材があり過ぎて困るほどでした。

  「この町を あなただったら どうすると 言えといわれて 言いたい放題」

  「ワーストと 言われて悲し 芦田川 桜咲いても 川面さびしや」

  「ほたる飛ぶ 夕霧橋の たもとにて 愛をささやく そんなドラマが」

  「こんなにも 集まる講演 嬉しいね ふるさと思う 人の力だ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○世羅の町・その1

 広島県世羅町といえば何といっても高校駅伝の町です。小さな田舎町ながら高校駅伝界では全国制覇も成し遂げた世羅高校があるのです。今年の8月29日その世羅町大田地区から私の所に視察団が訪れました。大田地区振興協議会という自治会連合会の方々です。私にとっては毎月やって来る視察者ですから、やれこの団体は女性が少ないとか好き勝手な感想を述べて、興が乗れば我が家へも案内するのですが、我が家に案内したほど熱心な団体であったことだけは覚えていました。その協議会からお誘いがあって出掛けました。普通遠い土地なら別ですが、しまなみ海道を通れば広島県の近い場所なので日帰りなのでしょうが、案内は一泊二日だそうです。早朝に出かけその日は午後からバスでふるさと巡りをするというのです。同行し私の目から見た地域振興策を伝授せよとのお達しに、さてさて人使いの荒い団体とお見受けしつつ同行しました。

 前日の雨もあがり少々肌寒いものの絶好のコンデションで望みました。梨やふらわーの観光農園で心境著しいこの町は最近隣の甲山町、それに世羅西町とが合併して世羅町となり役場が甲山町に置かれています。面白いことに旧世羅町と旧甲山町の役場は500メートルしか離れていないのですから、合併の必然性はあったようです。

 さて心に残ったベストテンを順に気がついたままに列記しておきましょう。

①最初に訪れたのは町のシンボル的存在の新山山頂にあるシャンテパルクという施設でした。そこには立派な野外ステージが殆ど使われることもないような状態で建っていました。かなりの投資をして建てたハードでしょうが勿体ない話です。これを生かす手立てを考えなければなりませんが残念ながら道も狭く車の駐車スペースも少なく、利用目的は限界があるようでした。でも山頂からの眺めは素晴らしく、360度の視界が開け、遠くはスキー場の道後山や今治まで見れるということでした。


②雪舟作と伝えられる康徳寺に行きました。山門の石垣に面白い遊び心を見つけました。石垣をダルマに見立てているのです。昔の人はこんな風変わりな石垣を築いていたのですね。(でも上のダルマの顔は村内古いものではないようです)

 庭もさることながら今が盛りの紅葉の姿を借景の庭は、時のたちのも忘れてただうっとりと眺めていたいような雰囲気でした。日本全国には歌人で茶人の雪舟作と伝えられる庭園が多いのですが、本物かどうかは雪舟のみぞ知ることなのです。でもこの庭園はよく手入れされて、周りのアジサイが咲く頃に是非訪ねたいものです。

③このふるさと巡りには地区毎にガイドが用意されていましたが、特に流暢だったのは兼丸さんです。彼の博学は自他共に認める処で、まるで世羅の観光大使にでも任命したらよいようなお方とお見受けしました。何故なら今回のふるさと巡りのポイントに彼の自宅があったからです。いやはや驚きました。家は今でも移築したというわらぶき屋根の家で、周辺にはかつての屋敷跡と思われる立派な石垣群が残り、敷地内には鉄製の竹炭釜が二基並びまるで小さな町工場といった感じです。そしてその横のかつてキノコを栽培していた倉庫には15000冊の古い蔵書発動機群、それに今ではすっかり姿を消した田舎のクラッシックカーが所狭しと置いてあるのです。これは単なるボロ集めでなくれっきとした収集家なのです。全て「3丁目の夕日」という映画に出てきそうな近代化遺産なのです。多分どこかの家が壊されると聞いて貰い受けたのでしょうが、天井には役場が壊された時の各課の表示板まで吊り下げられていて、ノスタリジックな気分になりました。竹炭や竹酢液の話は環境と結びつけると大きな広がりを示すことでしょう。

 この方がご当主の兼丸さんです。とに角饒舌で知識人には私も脱帽でした。地域を語れることは文化財に匹敵すると思うし、文化財に付加価値を付けるのも文字と言葉なのです。

④今は無住となった遍照寺は新興住宅地の少し奥まった所にありました。弘法大師空海の逸話は四国には事欠かない話ですが、ここにも空海の足跡なる石が置かれていましたし、古い五輪の塔が沢山安置されていました。入口の大きなイチョウがすっかり葉っぱを落し、イチョウの下の土地はまるで黄金を敷き詰めたような見事な風景でした。参加した人はあまり関心を示しませんでしたが私は素敵な風景に心が洗われるような踏み込みがたき、それでいて空海の伝説がミステリアスなものに思えてきました。

  「世羅の町 奥行き深く 味わいて ここにも心 安らぐ場所が」

  「兼丸さん あなたのような 変わり者 本当はあなた まともですから」

  「俺の家 既に訪ねし 兼丸さん 手薬煉引いて 俺来る待ちて」

  「寺町を 紅葉演出 昼下がり そこここ見れば 今が見ごろか」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○旅先で拾った話題②

 中国地方を旅するには、幾つもの峠や九十九折の曲がりくねった道を通らねばなりません。それが嫌で双海町~松山~岡山~米子を予讃線鈍行各駅停車~特急しおかぜ~特急やぐも~山陰本線各駅停車と乗り継いで峠越えをするのです。でもこれまた特急の前後のまるでキセルのような乗り継ぎの時間が長く、結局は早立ち遅帰りの時間帯を狙うためマイカーになってしまうのです。それでもこのところの穏やかな季節の変化を肌で味わうような紅葉織りなす山々を見る旅にマイカーも捨てたものではないとしみじみ思うのです。この62年間のわが人生において今年の秋くらい中国山地の紅葉を堪能したことはないのです。

 先日そんな旅先である面白いものを見てしまいました。猿とイノシシと鹿なのです。猿は断崖絶壁の上、鹿は車の前を横切り、イノシシは農家の庭に吊るされて、それぞれ場面や光景は違っていましたが、それでも人間と自然の近さを垣間見る思いでした。人里に住むわが家だってイノシシや狸、それに野ウサギやハクビシン、それにキジの話題がブログの記事を飾る田舎者にとって猿やイノシシや鹿の話題はさして珍しいことではありませんが、それでも目の当たりにすると思わず車を止めて見とれたような光景だったのです。

 鹿はその俊敏さから一瞬でした。自分の目の前を立派な角を持った大きな鹿が横切ったのです。まさに一瞬の出来事で、思わずブレーキを踏んでしまいましたが、このハプニングに私の心臓はパクパクと暫くの間音を立てて驚きを隠せませんでした。「鹿に注意」なんて書かれていても出くわすのは初めてですから、あれがもし人だったらなんて思うと、その日は速度をゆるめ安全運転に気を配ったものです。

 数日前、峠道の急峻な地形で何か動くものを発見しました。運良く側に路側帯があったので車を停めて道上のその様子をじっと眺めていました。通りかかった他の車も私が口を開けて上を見ているので「何事ですか」と相次いで4~5台が停め、私と同じように口を開けて見るのです。その猿の集団はご家族なのでしょうか4~5匹の群れで、下の交通量や私たち人間様の仕草にも意に関せずといった雰囲気で悠然と何かを食べて休んでいました。

 私はふと先日ニュースステーションで見た青森県下北半島の猿の話題を思い出しました。下北半島はニホンザル生息地の北限として猿を特別天然記念物に指定をしています。温泉に入ったりする北国ならではの独特の暮らし方はコマーシャルの出るほどユーモラスな話題でした。しかしその猿も最近絶滅どころか増えすぎて1500頭にも上っているのです。その猿たちは餌稼ぎのためにしばしば民家の近くまでやってきて農作物を食べ放題で、深刻な鳥獣被害の実態がリアルに紹介されていました。網で囲った農地も人間に近い猿知恵で人間の方が負けて様々な方法を試みるのですがお手上げの状態だというのです。保護獣を傷つけると法律で罰せられるので、自警団が結成され少し軽めの空気銃で追いかけるのですがいたちごっこならぬ猿ごっこで何の効果もないと聞きました。猿にとっても厳しい北国の冬を乗り切るための手段でしょうが、人間様にとってもこれこそ死活問題です。さて人様はこの光景を見て他人事だと猿に味方するでしょうが、私のようにイノシシに植えた芋を全て持ち逃げされ悔しい思いをした人間にとって見れば、人間様に同情するのは当然のことなのです。増え過ぎた猿は人間と猿の一定のルールに従って処分するのが大岡裁きではないかと思いますが、それにしても人里に下りてこなければならない猿の事情も察してやりたい心境です。

 信号で何気なく止まった車の、何気なく目をやった農家の軒先に突如として大きなイノシシがぶら下げられているのを見ました。そのイノシシは太っちょな人間の大人くらいの多分100キロを越すような大物なのです。私は信号を超えた安全な場所に車を止めてその庭先にお邪魔しました。猟友会の方でしょうか、今さばかんとする前で研がれた包丁が何本も置かれていました。聞くところによるとこのイノシシは昨日射止めたそうですがかなり抵抗して、追い込んだ猟犬も牙で痛めつけられたとのこと、憎さ百倍といった感じでした。

 中国産地のあちこちには波型トタンで囲った畑や電流を流す電線柵が沢山目に付きます。その殆どはイノシシ防御のための投資なのですが、その数たるやおびただしいもので、今では人間が人間の作った防護柵の中で暮らしているような錯覚する覚えるほどなのです。あえなく射殺されて吊り下げられる運命を辿ったこのイノシシの姿を見ているとまるで絞首刑を前にした西部劇映画のワンシーンを見ているような哀れさでした。最早この地でも人間と自然界動物との共存も難しくなってきているようです。

 道には狸やイタチなど無数の野獣が交通事故死しており、その肉を求めてカラスが群がっている光景を当たり前の光景として自動車は通り過ぎてゆきます。最初は驚いた私も慣れてきたのかそんな光景を見慣れた光景として通り過ぎる人間になっているようです。

  「猪鹿猿 まるで花札 見てるよう 山里巡る 野生王国」

  「人間が 囲いの中で 生きている 猪世界 何とも奇妙」

  「優美です でもやることは シカとやり過ぎ 木の芽木の皮」

  「昔見た 猿の惑星 映画かな 今に日本は 猿群制圧」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○埼玉県へ行ってきました

 世の中には面白い人がいるといえば失礼になるかも知れませんが、私の出版した「昇る夕日でまちづくり」という本を埼玉県公連の事務局長坂本さんから「読んで見ないか」と言われ、借りて読んだだけでその内容に興味を引かれ私にインターネットで講演依頼をした人がいます。熊谷や深谷を中心とする大里地区公民館に所属して活動している寄居町の黒瀬仙一さんです。寄居町といえば前述の坂本さんが若い頃公民館主事をしていた懐かしい土地だし、かつて双海町が町名変更に取り組んだ頃、長瀞町へたった一人で勉強に行った帰りに寄った思い出の土地なのです。

 かつて13年間も公民館に勤め日本一の公民館主事を目指して奮闘した経験を持っている私としては、公民館から声がかかると、何ものもさて置いて駆けつけなければならない程の恩人ですから、誘いに乗ってのこのこと出かけて行きました。普通地区公民館といえば中央公民館があってその傘下の公民館と思いがちですが、大きなエリア公民館連絡協議会なのです。

 彼とは面識もなくただ電話とメールでのやり取りだけだったのですが、その押しの強さや送られてくる緻密な計画に「一度は会ってみたい」と心を動かされるのは当然かもしれません。ましてやかつて愛媛県公民館連合会の主事部会長をした折埼玉との交流で、埼玉県の連中の理論武装に大きな衝撃を受けた経験のある私としては、その後の公民間人のレベルを推し量る意味からも是非相対したいと思うのは当然のことかも知れません。

 言われたとおり東京から新幹線に乗って熊谷まで行き、迎えに来た黒瀬仙一さんと出会いました。会場となった深谷生涯学習センターまでの道のりは時間にして小一時間かかりますが、その間車の中で彼と思う存分話し、青年団出身ということもあって波長のあった話に花が咲きました。

 彼の案内で訪ねた深谷の町もレンガ製造の工場があった関係からか、中仙道の宿場町として栄えた面影が随所に残っていて、タイムリーにもNPOで運営している映画館の話題が数日前に朝日新聞の天声人語で紹介されたこともあって、どことなく人通りを感じる街歩きでした。

 この日のテーマは驚いたことに何と「昇る夕日でまちづくり」な本の中から引用した「日本一の公民館主事を目指して」なんて書いてあるのです。

 それでも過去を思い出しながら、昨年まで教育長と中央公民館長を兼務した学びが生きて、楽しいお喋りをすることが出来ました。会場は満席で、熱気ムンムンといった感じでした。

 私の話に先立って若い公民館主事3人が発表に立ちました。「あああんな初々しい頃が自分にもあったなあ」と感慨深げに聞かせてもらいましたが、彼や彼女たちの初心とも思える発表の経験は、長い人生のほんの小さな出発かも知れませんが、「頑張って欲しい」と発表の前の打ち合わせで大きなエールを送りました。

 同じ地区内といいながら、顔見知りの人が多い集会はかえってやりにくいものです。額に滲んだ汗がそれを物語っているようでした。

 最近は前置きした話で私の講演の模様をビデオで撮影する風景も見られます。ビデオ写りの悪い私としては断りたいのですがそうもいかず、求めに応じますが、話が弾むとビデオの存在など感じる間もなく話が終わってしまいますから、そんなに気にすることはないでしょう。

 講演終了後熊谷の駅まではラッシュにかかったこともあってやっとの思いでヒヤヒヤものでしたが、何とか新幹線にも乗れ大宮で新宿ラインに乗り換えて、無事次の移動が出来ました。

 合併して公民館が危ないと思っています。施設の管理運営が指定管理者制度の導入で危うくなりつつあり、予算も財政難で大幅削減の洗礼を受けています。また人材の配置も次第に削減されつつあります。合併後のまちづくりは思わぬ方向に進んでおり
当分は公民館受難の時代となりそうです。

  「青年団 死語になったと 思いきや 経験活かし 頑張る人あり」

  「恩受けた 恩を返すは 当たり前 俺の力じゃ 役にも立たぬが」

  「一枚の 異動辞令で 涙出た そんな時代も あった懐かし」

  「何時の世も 結局人が やるものだ 公民館は これから先も」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○鳥取米子市は綺麗な街でした②

 鳥取県には東部に鳥取市、中部に倉吉市、西部に米子市と中心となる市街地があり、それぞれ独特の文化圏を築いているため特徴があって結構楽しい旅が楽しめます。しかし瀬戸内海に面した私たちの街から行くには瀬戸内海に架かった3つの橋の何れかを渡り、山深い中国山脈を越えなければならず、米子道や浜田道が抜けたからといって結構遠い場所であることに変わりはありません。いつも島根や鳥取の山陰に行って思うのですが、島根や鳥取の県境までは意外と多いのに、県境のトンネルを越えると意外と近いことを実感するのです。

 これまでは島根も鳥取も米子を経由することが多かったため、松山~岡山~米子を特急しおかぜと特急やぐもを乗り継いで行くJR列車利用の旅が殆どでした。ところが最近はわが町から一旦松山に各駅停車の列車に乗って出なければならない煩わしさや、帰りが深夜になる場合が多く妻の迎えが中々かみ合わないため、結局は自家用車の気ままな一人旅が多くなったようです。そのためでしょうか私の愛車は高知県四万十市西土佐5千キロの旅や熊本への出張もあって、このところメーターがうなぎ上りで走行メーターが増加しているのです。

 前日米子入りした私は、大西さんが予約してくれた駅前のワシントンホテルに逗留しました。駅から外へ出ることで米子の空気や風を感じていた私にとって、今回の旅はホテルの一室から駅舎や駅前広場を見ることになったのです。夜来の雨であいにくの朝でしたが、目が覚めてホテルの窓から下や外の景色を見ると、素敵な視界が開けていました。

 これが駅舎と駅前広場です。米子駅は何度となく降り立ちましたが、こんな素敵な景色は始めて見ました。またその前の道路はかなり広くて整備が行き届き、早朝の車の少ない時間だったためかゆったりとした秋の風情を感じ取ることが出来ました。

 かつては交通や観光の要所として栄えた米子ですが、県境のせいか宍道湖の松江市や境港の水木しげるロードなどの恩恵にあずかるような実態もあって、天下の名湯皆生温泉も大型ホテルが苦しい経営を迫られていると聞きました。

 そんな中になって、駅から程近いところに会場となった文化ホールはありました。昨年生涯学習フェスティバルで同じ壇上に立った経験を甦らせながら、車を置いて会場辺りを少し散策しました。まだ時間も早く人の気配の少ない文化ホールの前には早くも私の名前入りの看板が立っていて、道行く人が何気なく看板に目をやりながら通り過ぎて行きました。

 文化ホールの前の通りは、等間隔に彫刻が配置されとてもアカデミックな通りでしたし、色づく街路樹がその価値をなお一層引き立てていました。

 いつも屋外イベントに利用される正面玄関の広場も、雨に濡れて気高く感じられました。

 会場はかなり立派でしたし、音響も抜群でした。ただ惜しむらくは人の数が今一だったのが残念でした。でも参加した方々はかなりレベルの高い人で、人数の何倍もの迫力を感じました。「人は集まるもの」なのか、「集めるもの」なのか、生涯学習の世界では永遠の論争となっています。でも無理やりやらせで人を集めても余り意味がないと私は思っています。でも主催者としてはできるだけ多くの人の来て欲しいと願う気持ちも理解できるのです。でもでも「雨だから人が集まらない」「別の集会が重なって集まらない」という言い訳だけはしない方がいいと思うこともあるのです。

 まあ講師が悪いと思えば諦めがつくかも知れませんね

  「窓越しに 駅舎や広場 見る景色 普段と違う 見慣れた光景」

  「集めると 集まる違う 言いながら いつも苦労の 種は尽きずに」

  「山陰の どこかゆったり 歩く癖 弁当忘れて 傘も忘れて」

  「看板に 俺の名前が 書いてある うれし恥かし 急ぎ立ち去る」  


[ この記事をシェアする ]

sin-1さんの日記

○旅先で拾った話題①

 私の旅は安上がりをモットーに様々な工夫を凝らしています。工夫といっても別に工夫するのではなく安上がりなルートを探すだけなのです。急ぎの旅でもなかって上手く夜行高速バスで先方の日程に連絡できそうな先日、東京往復夜行高速バスに乗ろうと松山インター口でバスを待っていると、JR便夜行バスに乗るという中年の女性に出会いました。バスに乗るまでの待ち時間のほんの少しの会話だったのですが、その女性は夜行バスと電車を乗り継いで成田まで行くのだそうでした。「海外旅行でも?」と尋ねると、「いえいえ、実は韓国俳優の××さんに会いに行くのです」というのです。何でも「プロモーション映画を見ていると××さんが明日の飛行機で成田に着くというニュースが飛び込んできたので、いても立ってもいられず一目だけでも見に行こうと仲間を誘い2人で行くのです。会えるといいのですが・・・」と不安そうな中にも目を輝かせて言うのです。この女性は見たところ四十歳半ば、中学生の娘と旦那もいるのだというのです。「ご主人や娘さんは××さんに会いに行くといったらどう言いましたか」と訪ねると、「あきれ返っていました」とあっけらかんで笑い、「私馬鹿でしょう」と私に同調を求めてきましたが、「いえいえ、やりたいことをやるのが一番ですからねえ」と相槌を打ったものの、心の中では「おっしゃるとおりあなたは馬鹿です」といってやりたいような気持ちになりました。私の妻は多分そんな馬鹿な行動はしないと思いますが、もし私の妻がこんな話を切り出すともう離婚問題に発展するかもしれないとあきれ返りました。

 明くる日私は講演の仕事を済ませ、同じバスに乗るべく新宿西口19時10分発のバスを待ちました。何と驚いたことにその女性と友人の二人が同じバスに乗り込もうとしているではありませんか。女性は「ご縁が深いですね」とあいさつをするので、「如何でしたか。××さんには会えましたか」と尋ねると、「何せ凄い人で、ほんの一瞬顔をチラって感じで通り過ぎました。でも会えて満足です」と目と顔をうっとりさせながら幸せそうに言うのです。「見てください彼の写真です。素敵でしょう」と、10枚ほどの××さんのブロマイドを見せながら、まるでわが孫の写真のように自慢するのです。その夜のバスの中は何時になく二人のひそひそ話しが耳について中々眠れませんでした。

 あくる朝眠れない夜を過ごしたお二人も私と同じように松山インター口で下車しましたが、何とその奥さんを迎えに来たご主人とばったり、とても優しそうな人でした。「どうだった」と聞くあたり、このご主人も相当いかれているなとも感じつつこの家庭の有り様や中学二年の子どもとの関係をいろいろ考えて見ました。

 中学2年生の娘が××さんを追っかけて成田まで行くというのは、若いのですから一応納得できる話です。でも子持ちの主婦がいくら韓流ブームだからといったって、××さんを追っかけて成田まで行くというのは、余りにも幼稚で自制心がないとしかいいようがありません。ここら辺にも今の家庭教育の貧困さが隠されているように思うのです。何か問題があったらやれ学校の責任だと騒ぐのに、自分の行動はまるで成長しない動物のようです。こんな母親に育てられた子どもは一体どんな母親になるのでしょう。韓国人俳優が来日する度に群がる中年女性の姿をテレビで見る度に「あれは都会の出来事だ」と思っていたのに、現実に愛媛の松山での出来事だっただけに少々ショックでした。××さんの追っかけに投資したお金は多分安く見積もっても片手5万円くらいは要ったでしょうが、家庭主婦ののやりくりにとってこの金額は決して安い金額ではありますまいにと、この女性の財布が気になった出来事でした。

  「娘なら 分るがおばちゃん 成田まで 追っかけ出来る 日本は平和」

  「夜行バス 乗り継ぎ×× 追いかける もっとやること おありでしょうに」

  「この人の 旦那の顔が 見てみたい 思う目先に しょぼくれ旦那」

  「俺の妻 ××見たいと 成田行く そんなら離婚だ 俺の家庭は」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○鳥取の愉快な仲間たち①

 「お父さん、つい最近鳥取に行く機会が多いがいい人でも出来たのじゃないですか」と笑って妻がいうとおり、最近鳥取へ行く機会が多いようです。事始は9月19日鳥取県伯耆町まちづくり講演会に招かれ、鳥取ではありませんが鳥取を通って島根県隠岐西ノ島牧畑シンポジウムへ行ったのは10月6日のことでした。それから10月12日に鳥取県北栄町のコナンのまちづくり委員会、11月6日に鳥取県江府町のまちづくり講演会、今回の11月18日米子講演会と3ヶ月で5回もお邪魔しているのですから、いい人が出来たといわれても仕方がないくらいです。しかもその殆どが旧友伯耆町、旧溝口町の人権室長の大下さんが微妙に絡んでいるのです。更に来月12月10日には鳥取県日野町の生涯学習大会に招かれており、どう表現してよいか分らないくらいすっかり鳥取通になりました。

 鳥取へは高速道路を使うと簡単に行けるのですが、鳥取の四季を味わおうと出来るだけ往復沿線の知人と出会う用事を作って途中で少し高速道路を降り、一般道を使い沿線の風物を写真に収めて小さな一人だけの旅を楽しました。今回も少し手前で高速道路を降り、峠道の紅葉を存分に楽しむことが出来ましたが、あいにくの雨模様で写真には写しませんでした。それでも県境の峠を越えた瞬間伯耆大山の山頂に雪を抱いている素敵な水墨画的光景にはこれまた魅せられてしまいました。

 (ここまでブログを書いて時間切れで登録し、埼玉県深谷市への旅に出ました。昨日帰ってきてメールを開くと鳥取県日野町の飛田さんからメールが入っていました。この峠は明智峠というのだそうです。飛田さんは12月10日の研修会の担当者で、彼からは4枚もの名刺をいただいていましたが、その一枚はこの写真のロケーションだったのです。どうりで美しいはずでした。)

 出発間際になって米子市教育委員会の大西さん、大山町養育委員会の入江さん、日吉津村総務課の前田さんから相次いでメールが入り一瞬「えっ」と思いましたが、夕方6時から私が鳥取入りしたことを理由にわざわざ開いてくれた懇親会でその訳が分りました。今回の担当者の大西さんは一番上の少し太めの方ですが、大山町の汐田美穂さんも紅一点で駆けつけ2次会まで付き合ってくれました。


 その夜の交流会は県公連の会長さんも参加する大掛かりなものとなりました。

 飲み屋の料理は所変われば品変わるで、ナマズの活け造りまで登場するというもので、鳥取の人情と料理にはさすがの私も脱帽でした。

 鳥取の居酒屋は満席で、あちらこちらに顔見知りの人がいて、特に日吉津村の前田さんはメールどおり別の会合と飲み会の後合流してくれましたが、最後は誰が主役なのかわからないほどの盛り上がりでした。

 私はかつて教育委員会で社会教育主事と公民館主事を13年間勤め、最後の2年間は教育長と中央公民館長を兼務したので、通算15年間教育に携わりました。35年間の役場生活の20年間がまちづくりですから全てが住民運動だった訳です。その間日本全国各地の皆さんとこうして出会い、深いご縁をいただいて様々な学びをしてきました。鳥取県で出会った一人一人の顔を思い浮かべながら、また次なる出会いを楽しみにしています。

  「若松が 来るからみんな 集まれと 居酒屋まるで 蜂の巣のよう」

  「グロテスク ナマズの顔が 俺見てる 地震博士も 自信なさそに」

  「三瓶に 似てる米子の 担当者 みんなに言うと みんな納得」

  「高速を ちょいと降り行く 峠にて 大山雪の 帽子頭に」



[ この記事をシェアする ]