shin-1さんの日記

○音の世界は表現しにくい

 梅雨の明けぬまま夏になった感じのする今年の夏ですが、いつの間にか蝉が鳴き始めて「ああ夏になったなあー」と思うようになりました。今朝4時に起きて外を見渡すと雨模様のせいかまだ暗いのですが、ひぐらし蝉が「カナカナカナ」と一際甲高い声で賑やかに鳴いているのです。その声は5時13分に全て止みましたが、64年間生きていても、また少年時代は悪ガキだったのに蝉の鳴き声によって蝉を見分けたり、蝉ごとの鳴き声を文字にすることはとても不可能であることをしみじみ思いました。

 というのも昨日、今日のウォーキングイベントに参加する孫を松山まで迎えに行っての帰り、小学校一年の孫が車の中で「おじいちゃん、僕蝉に触れるようになった」と得意げに自慢するのです。と同時に蝉の鳴き方は蝉によって全部違うそうだから教えて」といわれて答えられなかったのです。


 有名な松尾芭蕉の句に「山寺や岩にしみつく蝉の声」というのがありますが、俳聖といわれた松尾芭蕉ですら蝉の声と書き記しただけで、声はどのようだったか書いていないのですから、その表現は難しいようです。私の知っている蝉はハルゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシゼミ、クマゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシゼミ、くらいしか覚えていませんが、その鳴き声を文字にして表現せよと言われても、ニイニイ、ミンミン、ツクツクボウシと鳴く声そのものの名前がついている蝉は別として、まったく表現ができないのです。

 動物たちはそれぞれの鳴き声を持っていますが、それを人間が耳で聞いて感じた音を文字や言葉に表現するとある人はチイチイをニイニイと言ったり書いたりするのです。

 しかし今はインターネットという優れモノがあって、蝉の種類の一覧表やその蝉にクリックすると蝉ごとの鳴き声が聞こえるのですから凄いものです。孫をパソコンの前に座らせ蝉の鳴き声で検索しながら一緒に聞いたのです。小学一年生で短絡的な孫は早速「僕の夏休みの自由研究は蝉の鳴き声にする」などとhぽざいていますが、私にとってもこのパソコン上での蝉の鳴き声は貴重で大変参考になりました。


 左様に音とは面白いものなのですが、耳を澄ますと色々な音が聞こえてきます。ただ今の時間は朝5時です早起きした鳥の鳴き声がもう賑やかに聞こえています。カラスやスズメ、ウグイスの声に交じって、低気圧や前線の影響でしょうか、昨晩から吹いている南風が音を立てて吹いています。風の音も耳を澄まさなければ感じることはできないのです。顔を洗うために出した水の音も聞こえてきました。早立ちする私や孫のために妻が台所で味噌汁を作っているのでしょうか。まな板の上で包丁の音が軽やかに聞こえています。遠く近くで車の音や漁船のエンジンの音が聞こえてきます。「あっ、牛乳が届いたな」と思う音、急に自分のお腹の中で「ギュッ」という音がしました。腹が減ったのでしょうか。失礼ながら思わず腹に力を入れたため小さいおならが出てしまいました。

 音の世界を書き記すのはどうやら私には難しいようです。


  「あの蝉は 耳を澄まして 孫が聞く 答えることも できずしょんぼり」

  「パソコンの 中から蝉の 鳴き声が 孫と二人で 聞き入りながら」

  「芭蕉さえ 蝉の鳴き声 書いてない 私などには とても書けない」

  「ひぐらしの 声を聞きつつ 夜が明ける あの蝉昼は どうしているか」

 

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shin-1さんの日記

○初夏の味ソラマメが届きました

 季節は春から初夏へと知らぬ間に移り、後20日もすれば衣替えの季節になりました。今朝親父を病院に連れて行くため出かけた伊予市の田んぼでは、青かった麦畑の色が早くも黄色へと一変しているのに驚かされました。初夏といえばエンドウやソラマメなど豆類の美味しい季節となりましたが、母が亡くなってからは種をまくこともなく、もっぱらいただきものでその味を楽しんでいるのです。

 一昨日伊予市に住む水口まり子さんから宅配便が届きました。送り主の名前を見て中身が分かるくらいまり子さんとは懇意にしていただいていて、恐縮ながら「今年ももうそろそろ」と淡い期待をしていただけに嬉しい荷物の到着でした。中を開けてみると濃い緑色の皮をかぶったソラマメが段ボールいっぱいに入っていました。早速取り出して妻と二人でまり子さんの話をしながら皮を剥き中から出てきた綺麗な色のソラマメをボールに入れて行くのです。中には殻を破る際勢いあまって鉄砲のような音がしたりポーンとはじいて部屋の中を飛んだりしましたが、半分はその夜の食卓に上り、美味しい旬の味をいただきましたが、半分はさっと湯がいて冷凍保存することにしました。

若松進一ブログ

 水口さんは伊予市で稲苗を中心にした育苗施設を大々的に経営していて、田植えの始まったこの時期は猫の手も借りたいような忙しい日々を送っているのでしょうが、その忙しい合間を縫って私にまで気配りをしていただき感謝しているところです。今日は伊予市の病院へ親父を連れて行ったついでに足を延ばしてまり子さん宅まで出かけて行きました。丹波の黒豆をいただいたタッパーを返しに伺ったのですが、まり子さんはあいにく畑に出ていてお会いすることができませんでした。すっかり顔見知りとなった若奥さんにお礼を言って帰り際、「入れ違いで豆を送りました」と言われました。帰ってみると豆が段ボールにいっぱい送られていました。

 妻が仕事に出かけているので昼休みを利用してテレビを見ながらソラマメの皮を剥きました。沢山あるので近所におすそ分けして後は冷凍保存の準備をしているようでした。昨年もそうしましたが、ソラマメは冷凍保存しても美味しく頂けます。昨年は大学生が10月にフィールドワークの授業でわが家を訪ねた際学生たちに食べさせ大層喜ばれました。

若松進一ブログ

 季節の旬の送り物が届くと何となく満ち足りた気分になります。最近は時ならぬ冬の時期にスイカを食べ、夏にハウスみかんが出回ったりして、いつが旬なのか全く季節感がないのです。また冷凍技術も進んで枝豆などは年中緑の枝豆が料理に出てくるのです。確かに食生活の上では豊かで便利にはなったけれど、四季を感じることが少なくなったような気がしています。今日もソラマメの殻を破ると中から何とも言えないソラマメの匂いがして、これぞ初夏の匂いと思ったものです。

若松進一ブログ

 豆を食べると頭が良くなると今は亡き母親から教わりました。理由は頭という漢字には豆編が付いているからだと説明され納得したものです。そういえば豊という字もどこか豆に由来しているのかもと思いながら、豆のついた感じを思い出しました。えっ、何で鼓も豆編なんだろうと、要らぬ詮索をしながら全ての殻を取り除きました。

  「宅配で 友より届く ソラマメの 殻を破りて 部屋の中飛ぶ」

  「ソラマメの ほのか香りに 母思う 懐かしきかな いずこにおわす」

  「豆食べて 頭良くなる 子に育て そんな言葉を 思い出しつつ」

  「ソラマメを 剥きつつ初夏の 季節知り 軒のツバメの 賑やかなりし」  

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shin-1さんの日記

○若干29歳でも人を動かした教育者

 今の日本は高齢化社会を反映して63歳の私でもまだ若いと自負できるほど高齢者が沢山います。100歳なんて遠い遠い夢物語と思っていたのに、ある統計によると愛媛県内にだけでも650人もの100歳以上の人がいるというから驚きです。長寿社会を揶揄するつもりはさらさらありませんが、高齢化社会になると若者の影が次第に薄くなっていることに気付くのです。社会も人口ピラミッドは逆三角形だし、職場だって管理職の数の方が多いのではと錯覚するほどです。ましてや60歳という定年で退職しても天下って居座り続ける公務員社会などはその典型で、若者はいつまで経ってもその使い走りに甘んじなければならないのです。高齢化の進んだ限界集落などでは、50歳になってもその集落で一番若い?なんて事例はいっぱいあるのです。

 高齢者の社会進出は結構なことなのですが、若者の出番を削いでいる事を思うと、どこかで身を引く事を考えなければいつまでたっても若者の出番は来ないのです。私の親類に父親が若くして亡くなった従兄弟がいます。その時は可哀想に見えて何かと面倒をみてやりましたが、ふと気がつくとその従兄弟はいつの間にかすっかり逞しくなって、90歳になっても親父が生きている私のような人間より、凄い社会人になっているのですから不思議な話です。誤解しないで欲しいのですが、何も親父に「もうそろそろ」と言っているのではありません。上がいなくなると人は成長するという道理なのです。

 私が最も敬愛する歴史上の人物に、松下村塾で80名余りの人を教育し、二人の総理大臣を輩出した吉田松陰がいます。松蔭は長州萩に生まれた武士ですが、私塾松下村塾を開きました。その開塾期間が僅か13ヶ月間であったことや、安政の大獄で処刑されたのが29歳の若さだったことは余り知られていないようです。いくら風雲急を告げる幕末といっても、これほど短い期間に、そしてこれほど若くして名を残した人は後にも先にもいないのではないかと思うのです。折に触れ松蔭に関する書物を読み、松蔭の掛け軸を掛け、その生き方を学ぼうとするのですが、凡人の私にはその偉さを学び体得することは難しいのです。

 ある本に松蔭の教育法六原則が分りやすく解説していました。

 ①自信を持たせる。

 ②使命達成法を教える。

 ③至誠で生きる大切さを教える。

 ④勇気を持たせる。

 ⑤プラス発想。

 ⑥約束を守る。

 松蔭がまず塾生に強く語ったのは「志を立てて万物の源となせ」という志を立てさせることでした。

 時代背景や対象となる人間の純粋さを差し引いても、若干29歳の若者にこんな説得力があるのかどうか、今でも不思議な思いがしてならないのです。わが家の座敷に掛け軸として掛けてある吉田松陰の絵姿を見ると、「これが29歳の姿?」とはとても思えず、凝縮して成熟した人間の姿に深い感動を覚えるのです。

 人の偉さは年齢ではありません。松蔭が語った志を立ててそれを源にして動けば心若く生きれるのです。63歳の私にはもう松蔭のような若さは臨むべきもありませんが、松蔭の倍も生きている年齢を考えれば、もっと思慮深い人間になれるはずだと考えられるのです。

 承引の時代からすればはるかに恵まれて豊かな、そして学ぼうと思えば学べる現代に生きる私たちは初心に立ち返りもっと強く生きねばならないのです。

  「松蔭は 僅か二十九 その歳で 人を導き 今も輝き」

  「もめ事の 多き社会を 垣間見る 国会中継 国民不在」

  「昔人の 生き方忍び ブログ書く こんな時代を 誰が予測か」

  「志 立てて生きよと 教えられ 立てたつもりが 見事倒れて」 

 


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shin-1さんの日記

○三人一車天草の旅・ルポ③

 食う・寝る・遊ぶは旅の三条件だといわれていますが、私たち大人から見れば何気ない旅先での出来事でも、子どもたちにとっては視点が違うのか大きな発見や驚きがあるようです。例えば旅馴れている私などはホテルに泊まることなど当たり前なのですが、孫にとってはホテルに泊まることそのものが非日常なので嬉しくて大はしゃぎでしたし、特に生きた動物と触れ合うことなど、動物園に行かない限り余りないので、講演会場となったホテルアレグリア天草の側にある天草イルカワールドなどは嬉しくて仕方がない様子でした。

 ミニ水族館の入口にあるペンギン親子の像にすり寄って写真をせがむ姿はまるで自分がペンギンの子どもになったような錯覚さえしているようでした。

 入場料のほかに300円出せばスナメリに餌をやったり握手をしたりする体験が出来るのですが、臆病な孫でさえ好奇心丸出しで挑戦していました。インストラクターの巧みな話術ですっかり打ち解け、言われるままにスナメリとのスキンシップが出来て感動の面持ちでした。

 また、インストラクターの意のままに曲芸をするイルカショーも圧巻で、シーズンオフとあって私たち以外に観客も1組だけで、サービス独り占めって感じで楽しい一日となりました。

 これは余談で天草とは関係ありませんが、帰りに孫へのサービスとして大分市高崎山の猿を見学に行きました。心配された雨もどうにか持って、穏やかな日和の中を猿見学をしました。

 別大マラソンでお馴染みの交通量の多い国道をまたぐように高崎山までは長い陸橋が架かっており、すっかりリラックスした孫は橋の上でウルトラマンに変身したり、欄干に取り付けられた猿のモニュメントを真似て悪ふざけしたりしていましたが、さすがに高崎山へ一歩足を踏み入れると猿の大群にたじろいた様子で固まって声も出ないようでした。

 運良く午後の餌やりの時間と出くわし、リヤカーに積んでばら撒くサツマイモを奪いあって取り合う弱肉強食の凄まじい姿に圧倒されてしまいました。



 今度の旅行で私たち夫婦と孫の三人で撮った唯一の写真です。孫の嬉しそうな顔より私たち夫婦の方がもっと嬉しそうです。

  「爺婆に 孫が同行 三人旅 目尻下げたる 幸せ者よ」

  「手なずけて お客サービス するイルカ 拍手と餌が 何より大好き」

  「お客なく イルカも芸当 せいがない 数人分まで 大きな拍手」

  「猿の糞 踏んで運付く 運の尽き 妻の足跡 去る者追わず」   


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shin-1さんの日記

○私は何処へ行けばいいのか

 今日は西条市の中央公民館が主催する館長会に招かれ、地区公民館の館長さんにお話をしに出かけました。そんなに急ぐこともないからとゆっくりリズムで高速道路を利用することもなく国道11号線を走りましたが、途中携帯電話で国際会議の打ち合わせと称する電話が入り車を空き地に止めて打ち合わせを済ませたものですから、ついでに今日の会場をカーナビに電話番号で入力しました。ところがその番号が示す目的地は何と旧東予市を指しているではありませんか。東予市や丹原町、小松町が合併して新西条市が誕生したことは知っているのですが、西条市の中央公民館はこんな場所ではないと思いつつ、もう一度入力しなおしましたが、また同じ場所を指すのです。30分ほど余裕があるので、カーナビの示す道路をその通り走ってとりあえずの目標に到達して、施設の入口を見ると看板には紛れもなく「西条市中央公民館」の看板が上がっていました。中に入り担当者に聞くと、合併による施設配置で中央公民館は旧東予に移ったことを聞き納得しました。もし携帯がかからず車を空き地に駐車しなかったら、カーナビに入力しなかったら、多分私は合併前の旧西条市中央公民館へ行ってたかも知れないと思うと、情報化時代の恩恵にしみじみ感謝するのです。

 西条はずっと向こうの・・・なんて思いながら車を走らせると、桜三里を少し下れば早くも「西条市」の看板が早くも目に入るし、合併後の市町村名はまるでチンプンカンプン、看板も作るのにお金がいるのでしょうか市内へ入ると端々の看板には「旧丹原町」なんて旧の文字がいいわけ程度についている看板を良く見かけるのです。

 事なきを得目的地にたどり着いてホッとしてお茶をいただきましたが、今までは東予市で飲むお茶だったのでしょうが、今日は水の都西条市の水で沸かしたお茶ですから、出す方も「水の都の水です。良かったらもういっ杯」と勧められ、ついつい2杯目をお代わりしてしまいました。暑かったせいか冷たい西条のお茶は一服の清涼として喉を潤しました。

 さて公民館の門外な私が館長さんに何を話せばいいのか少し戸惑いましたが、公民館主事として13年、中央公民館長として2年、私設公民館塗師として30年の経験を織り交ぜながら1時間半お話をさせてもらいました。公民館活性化の結論は公民館職員のやる気と指導助言の質にかかっているといっても過言ではないのです。特長のない公民館・命と暮らしに結びつかない公民館・事業バランスが崩れている公民館・子どもや若者が集まらない公民館・青年団や婦人会などの団体が崩壊している公民館・行政に当てにされない公民館・金のない公民館・中長期計画がない公民館・公民館運営審議会が機能していない公民館・公民館職員のやる気が感じられない公民館・マンネリ化した公民館のどの悪口を随分言いました。

 私は只今自由人です。何の責任もないわけですから怒られるのを承知で声高に公民館の悪口話をしました。そして21世紀の公民館の理想像は自立する地域、自立する住民を育てること、そのためにはふるさとを愛する気持ちを育てよう。そのためには読む・聞く・見るといった従来の学習ではなく、書くこと・喋ること・実践することの出来る人たちを沢山育てようと熱いエールを送りました。

 公民館はそのまちの顔であり情報と人の拠点でなければなりません。合併を機にもう一度何をなし何をすべきか考えることが大切ではないでしょうか。

  「カーナビが 私行くとこ 地図をなぞる お陰様にて 間違うことなく」

  「間違いと 勘の違いが ありました 俺の賞味は もう期限切れ」

  「災害時 非難するのは 公民館 社会に貢献 してる胸晴れ」

  「看板を 見てもピントは ずれている こんな所に 何故に看板」

   

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shin-1さんの日記

○わが村は美しく・玖木(20-1)

 「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。

 夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。

 訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。

 この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。

 ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。

 玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。

 奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。

 家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。

  「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」

  「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」

  「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」

  「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」 

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