shin-1さんの日記

 ○ああA市の将来は

 世の中には色々な悩みがあるもので、一昨日訪ねたA市で異様な光景を見ました。私が講演なので訪ねる殆どのまちは田舎で、過疎だ高齢化だ、産業不振だと尻つぼみを嘆く場合が多いのですが、人口が過密な大都市大阪に直ぐ近い街で、しかも阪神電車の駅とリンクする好位置にありながら人の来ないシャッターの閉まった商業施設があるのです。この施設には昨年までご存知ダイエーが入っていました。再生機構による再建を目指すため効率の悪い店舗として閉店に追い込まれたのです。商業施設から大型店が撤退した後に残された地元のテナントさんは莫大な投資をして出展しているものですから去るに去られず、少なくなったお客を相手に細々と営業しているのですが、元気を出せといっても元気が出るわけがなく、このままでは時間の問題とお見受けしました。 この施設にもう一度元気を取り戻そうと心ある人たちが一生懸命取り組んでいるのですがこれも焼け石に水って所でした。

 私たちの町の成功例に学ぼうと今回の講演会が開かれましたが、私の町のような無から有を生み出した何もない町からの出発もそれなりの苦労がありましたが、立派な施設があって市民から見放された施設に人を呼び戻す手法はこれまた大変な苦労だとスタッフの方々に話し、私の話を聞きに来てくれた約100人の方々に全国の事例を示しながら熱っぽく語ったつもりですがこれも焼石に水って感じでした。 問題の裏には行政の認識の甘さがあるようです。丁度運良く若い市会議員さんが2名来られていましたが、このさんさんたる光景に行政はまったく無関心なように映りました。勿論それなりに知らない部分で頭を痛めているのでしょうが、ダイエー撤退という事実と残った店舗の生き残りは撤退決定の時点で分っているはずです。だのに未だにその方策すら見出せないのは、議会も行政も少し怠慢なような気がします。もっと大きい問題はこの施設の再生を夢見てわざわざ尼崎外からスタッフとしてイベントに参加している人もいるのに、市民は参画も協働もしないという無関心ぶりです。行政は二言目には金がない、暇がない、これは民間でといいますが、民間の力ではもう再生できないアリ地獄の入り口まできているという危機感を持たないと、A市の行政力や市民力を疑われても仕方がないと思うのです。女性やスタッフの元気が何よりも救いでした。

 二人の議員さんは新人らしく熱心に耳を傾けメモを取っていましたし、反省会の席でも盛んに若者たちの輪の中に入って模索を続けていました。多分年功と数の理論の中でこの若い議員さんの意見は通らないだろうと推察しながら、私は夜行バスに乗ってスタッフからいただいたほのぼの活気と暗い矛盾を併せ持ちながら帰って来ました。

 希望の持ちにくい人たちへのアドバイスは正直気が重く、心が晴れぬままの帰郷と相成りましたが、私の話をある会場で聞き、私の街にも来て下さいと呼んでくれた

  「行った街矛盾ばかりが目に付いて暗い夜道を電車に揺られて」

  「無を有に変える自信はあるけれど有を無にするこれも難し」

  「金がないこれさえ言えばいいのかと言ってやりたい行政さんよ」

  「中学生授業終わると来るというシャッター通りは子どもにゃ天国」

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  ○新しい話の聞かせ方の勧め

  昨晩私は面白い講演の形式を発見しました。発見といえば仰々しいのですが、聴衆を前に司会者が講演をする私にコメントを投げかけ私がショートな話を小刻みに答えて行くという方法です。話が多少途切れる恨みもありますが中々どうして、とてもいい雰囲気で、時間こそ1時間弱と短かったものの聞く側にとってはとても新鮮で、参加した人の反応は上々だったようです。

 私のように鈍感な人間でも長年人を集めたり集会に参加していると、会場の雰囲気で「ああ今日の会合は反応がよくよかったなあ」なんて感じたり、「きょうはちょっと」と反省したりできるようになっています。今日の質問形式講演会は大成功の部類でしょう。

 私は昔からレジメを用意することや、事前に打ち合わせすること、さらにはリハーサルすることが大の苦手です。ですからテレビ番組出演のように時間を決めて同じことを二度繰り返すようなものは苦手中の苦手なのです。昨日は安藤さんという素敵なプロデュースする人がいて、シナリオはしっかりしていました。しかし事前の打ち合わせも雑談的雰囲気で、これまた才覚のある亀岡さんというベテラン女性が進行役として私に質問してくるのですが、始めてのチームとは思えないような絶妙なコンビぶりで、参加者から賞賛の声が上がっていました。そして白方さんという男性が会場の雰囲気を側でじっと観察し、参加者にアンケートをとる念の入れようです。ここまで完璧なチームワークはやはりキャップという会社の洗練された社員教育の賜物ではないかと、兜を脱ぎました。

 ひょんなことからこの会社の宮内社長さんと知り合い、ひょんなことで今日のお座敷と相成りましたが、女性中心の会社の目配り気配りの細やかさを改めて感じたのです。その後の食談にも参加させてもらい「上客は来ず、中客は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」を実践するため、所用を理由にさっと引き上げてきました。 私は人が好きですから人に恵まれます。安藤さん、亀岡さん、白方さんというかけがえのない人に会ってまた新しくも深いご縁をいただきました。まさに「人は人によりて人となる」一日でした。

 でもこの手法は誰でも何処でもという風には行かないことを付け加えておきます。なぜなら演壇に立つ講演者が質問に的確に答えるだけの幾つもの引き出しを持ち、引き出しからいいネタを提供するだけの技量がなければなりません。私がその引き出しと技量があるとは思いませんが、たまたま安藤さんと亀岡さんがいい引き出しを気付かせてくれました。また誘導する亀岡さんの声のよさとマイクの使い方、そして何よりも的確な質問があったからこそのなせる技だったようです。

  「ディナーショーやっているよな講演で楽し語らいあっという間に」

  「女性しかできない仕事に感服し強くなったと靴下思う」

  「今がある前の努力が生きてますこれも格差というのでしょうか」

  「顔悪いせめて振る舞い格好よく生きてみたいと惜しまれるよに」 

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 ○原稿用紙は何故400字詰なのか

? 最近は私のも執筆依頼がたくさん来て、書くことが苦にならない私でも少しうんざり気味です。私は常々思っているのですが、文章が書けて、人の前で話ができて、実践できる人を尊敬していますし、そうなりたいと努力をしてきました。人から見れば随分成長したように見えるそうですが、自分としてはまだまだ文章の表現能力が備わっていないし、話芸だって発展途上の人間です。ましてや実践はこれからの努力次第だと思っています。

 ところで最近は原稿用紙20枚なんて原稿依頼も舞い込むようになって、中々執筆活動も大変です。中には50枚なんてものもあるほどです。今はパソコンで原稿を書くのでÅ4版だと1600字で原稿用紙4枚分くらいの容量にになるようです。 私たちが小さいごろから原稿用紙といえば400字のものを使っていますが、パソコンが出回っている現代でも400字詰にこだわるのは何故でしょうか。

 400字の原稿用紙が使われるようになったのは江戸時代に遡らなければなりません。京都の黄ばく宗万福寺の住職だった鉄眼禅師というお坊さんがお経の本を印刷して刊行するということを決意し、6万枚という大量の木版木を作りました。そのときの木版の字詰が20×20の400字詰だったそうで、これに習って原稿用紙の字詰が決められたといわれています。 私たちは嘘のようで本当の話にただただ驚き、そんなことも知らない凡人は、そのことにさえ何の疑問も持たずせっせと書いているのです。

 原稿書きの依頼には必ず締切日が指定されます。原稿依頼の文章を見て「まだ時間があるな」と思っていたら、案外忘れてしまっていて、催促があってから書き始めることも度々です。昔はファックスもメールもありませんでしたから、書いてもないのに「今半分くらい書いてます」と平気で嘘がつけました。ところが書いた分だけでも先に送ってくださいとか言われるので、今は嘘も滅多にはつけず困ってしまいます。

 それでもいい原稿が締め切りまでに書けて、メールで送るときの充実感はいいものです。

  「締め切りを忘れて原稿書き始め、枚数聞いて五十枚とは」

  「変換の文字校正をせぬままに送った後で気づく大馬鹿」

  「原稿の用紙何故に400字やっぱり坊さん偉い人です」

  「俺の書く文章素敵な本になり不味い内容見場よく感じる」

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 ○カメラに異変

  世の中の殆どが技術革新する中、カメラ業界もアナログからデジタルへ大きな変化を遂げています。フィルムを入れて写真を撮り、写真屋さんに現像に出して出来上がらないと写り具合が分らないというアナログの世界は次第に姿を消そうとしています。カメラ業界の大手は既にデジカメの競争で勝ち組、負け組みがカラー写真のように色分けされているのです。ある大手業者はフィルムやアナログカメラの生産を早々と止める宣言を発表している所もあるのです。 ところが世の中は不思議なもので、最近デジカメに押されて殆ど売れなかったアナログカメラがここに来て、製造中止になるんだったら今のうちに買っておこうと思う人たちが多数出て、ひどい機種は3倍の値段でも買えないという珍現象が生まれているのです。

 私たちの年代はカメラを写真機といっても通用する年代ですから、手元には使い古しのカメラが2~3台あるのですが、もう使わなくなって何年も経っていて、埃とカビにまみれているようですが、この際手入れをしてフィルムを入れて撮って見たいと思っています。

 カメラ大手にミノルタという会社がありますが、ミノルタという会社の社名は「稔る田」だということを知って驚きました。1985年にオートフォーカス一眼レフという、本格的カメラでありながら素人でも簡単に使えるカメラを開発販売して人気を呼んだのがミノルタでした。ドイツ製品が全盛時代にドイツ人技師二人と日本人が組んで会社は設立されましたが創業者の田嶋さんの母親が言った「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」の精神を忘れないようにとの思いもあったようです。

 ミノルタはアメリカの宇宙船にミノルタハイマチックが採用されて一躍有名になりましたが、カメラ業界も生き残りをかけて水面下では大変なようです。他人事ではないですね。

  「カメラ屋のウインド何度も通り過ぎ欲しいと思い懐まさぐる」 

  「写真機と言われて分る年代の私の時代セピア色あせ」

  「一眼と二眼の違い分らぬまま時代は過ぎて今はデジカメ」

  「アナログは目で撮りデジカメ心撮る不思議な光景でもはいポーズ」

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 ○私は現代人ではないのか  私は昭和19年生まれですからもう随分古い人間になりました。だって学校教育では高校受験が9科目の時代だし、学校のトイレも全て溜め置き式でお釣りのくるような暗いものでした。また今では当たり前となった蛍光灯やテレビも小学校では殆どありませんでしたし、カレーやハンバーグなど余り喰った記憶がありません。ましてやインスタントラーメンに初めてであったのは水産高校の練習船で遠洋航海に行った時でした。今では信じられないようで本当の話を子どもにすると「うそー」などと、子ども独特の返事が返ってくるのです。 勿論パソコンも携帯電話も電卓もなかった時代は、それはそれは長閑なものでした。それでも、いやその方がなんぼか幸せでしたし、人の絆も強かったように思えるのです。 「おいおい若松さん。そんな昔のことを思い出して、あんたも歳だねえ」なんて言われそうなのですが、それでも民俗学を志す私としてはどうしても少年の頃の暮らしを何かの形で残しておきたいといつも思っているのです。私は「現代に生きてる現代人ではない人間」というのが結論です。古代人なんてそんなに古い人間ではありませんが、よくよく考えてみると日本が急激な成長を遂げたのは昭和30年くらいからで、たかだか半世紀くらいしか経っていないのです。正直言って今のようなスピードの速い世の中に生きていくのは辛くて苦しい感じがします。私の友人や知人にストレスからくるうつ病が多いのもそのためではないかと考えています。 昔交通標語に「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という名文句がありましたが、まさに日本は急ぎ過ぎだし、もう少しスローな生き方はできないものでしょうか。本来日本人が日本固有の文化や文明として世界に誇ったものは、古いという一言でなくなろうとしています。自治会長ですので毎月不燃物回収の世話をしていますが、不燃物の中にはまだ十分使えるものが山のように出てきます。このままだと日本は駄目になるかもしれないと思うのは私だけではないと思うのです。 高校受験の季節がやってきました。私たちの時代のように9科目で勝負したらどんなにか助かる子どもがいるのになあとも考えます。人生にとって数学や算数は必要でしょうが、音楽や職業家庭などは生きる力とでも言う大切な同語だと思うのです。 「文部省と農林省の言うことの反対をすればいい世の中になる」とは名言かも知れませんね。  「俺たちは九つ科目で救われた今の子どもにゃ音楽なんぞ必要ないのか」  「あの音色無くして分るハーモニカ今は私の大切持ち物」  「髪の色わざわざ染めて栗色にここは日本だ黒髪素敵」  「早過ぎてとかくこの世は住みにくいストレス爆弾爆発寸前」

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 ○わが愛する美川町・その②

    私は今回の双海町の視察に当って美川町の人たちに、「合併後のまちづくり」というタイトルをつけてお話をしました。フェリーで三津浜に着くとバスに乗って双海町へやって来ました。その後役場の一室を借りて合併後の双海町の現状をつぶさに話しました。合併によって行政サービスはどうなったか、住民の負担はどう変化したか、旧双海町と市役所がどんな関係にあるのか、夕日によるまちづくりの継続はどうなっているか、役場周辺の変化はなどなど、新しい伊予市なった11ヶ月を微細に検証しました。みんな驚いていました。合併のすりあわせで聞いた夢のような話と双海町のの目の当たりにした現実の落差に驚き、まちづくり推進協議会の規約案や役員の人選案など、間近に迫った3月20日の合併前の本当に緊迫した中で、美川町の自立に向けたマンパワー体制が、何と海を隔てた双海町で目論まれたのです。それは明治維新前夜の寺田屋騒動にも似ていました。まさに双海屋騒動でしょうか。

 自治会やまちづくり推進協議会立ち上げに深く関わった総務課長さんと企画課長さん、それに若い担当者は松山の宿舎で夕食を取りながら安堵の胸をなでおろしながら夜遅くまで話し込みました。特に企画課長は今年度末を持って定年退職というこれまたドラマチックな幕引きが目の前の仕事とあって、感慨深げでした。 私は仕事柄、色々なまちののまちづくりについて相談を受けたりお手伝いや助言をしてきましたが、ここまで深く関わった町はそんなにありません。ですから岩国という新しい街に合併し自治体が消滅する美川町への想いは大袈裟な話ですが人一倍持っています。まさにタイトルの如く「わが愛する美川町」といった気持ちです。 国の財政破綻や地方分権から始まった合併のドラマはいよいよ第一幕が終わろうとしています。やがて開こうとする第二幕のストーリーはやシナリオは残念ながら配役さえ決まっていません。多分幾ら住民が頑張っても合併した大きな街に飲み込まれてしまい、双海町のような末路を辿るのかも知れません。でもこの3年間、自治会とまちづくり推進協議会の立ち上げのために努力した美川町は、努力しなかった他の町に比べてはるかに大きな果実をものにしました。

 地域審議会を立ち上げた地域では、年に2回程度の会議で団体長が物申し、行政側の「意見を聞いたがお金がない」という形式的に協働と参画の行政になっているの姿が多いと風の便りが聞こえてきます。

 私も及ばずながら新しいまちづくりに向かって動き出した美川町をこれからも愛してゆきたいと心に強く念じました。

  「自治会ができた直後に大洪水人命財産守れてほっと」

  「合併で役場の周りは灯が消えて人も通らぬ事故は減った」

  「見ると聞く大きな違い合併後こりゃ大変と頭抱える」

  「こんなこと他所の役場で目論んだ数年後には思い出話に」

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shin-1さんの日記

 ○わが愛する美川町・その①

  自然や歴史がよく似ていて名前をつけたのか、全国には同じような名前の町がたくさんあり、合併前は同じ名前の町がそれぞれ寄り合ってサミットや協議会を開いて盛んに交流をしていたものでした。しかしその成果も出せぬまま、合併をきっかけにその殆どが解散をしてしまいました。町長や議会、それに町民代表が集まって調印をしたり相互訪問をしていたのが、自治体がなくなると出来なくなるからというのが解散の大きな理由だそうですが、私はその姿を見るにつけ、「ああ行政はお金があるからやったのか」と首をかしげずにはいられません。お金があろうがなかろうが、合併しようがすまいが真の交流を目指していたのであれば、合併後こそこの交流は住民の力で続けなければならないのではないでしょうか。

 愛媛県内でも吉田町、城辺町、美川村、中山町、松前町がそれぞれ県外の同じな前の町と交流していましたが、合併しなかった松前町を除けば、それらの町は合併を前にみんなが予算を使って集まり、解散式までやって大酒を飲んで分かれたといいますから理解に苦しみます。

 元々姉妹町村は終い町村といわれるように調印だの首長や議員の交流に名を借りたタダの研修旅行ではないかと批判を浴びておりました。殆どが消滅した今はそのそしりはぬぐえない事実となりました。

 私は3年前、山口県美川町から合併後のまちづくりについて相談を受けました。「合併後に機能する自治会とまちづくり推進協議会を立ち上げてほしい」とのことでした。現職の教育長でもあったので最初は公式には出来ませんでしたが、2年後に合併する自分の町とダブらせながら職員と知恵を出しながら考えました。私が出向いた講演会は6回にも及び、私の助言と職員の力でまず自治会がモデル的に出来みんなで高齢化に対応したまちづくりを進めるためにフィールドワークや調査を実際に行い住民の発表会もやりました。偶然にも昨年台風で大水害が発生し、自治会が大きな力を発揮できたことで、町民や役員にも自治会の必要性が認められました。 そして昨日、最後の仕事であるまちづくり推進委員会を立ち上げるに当って、みんなで双海町へ研修にやってきたのです。

  「姉妹町合併すれば終いですそんな浅はかするんじゃなかった」

  「本当は今こそ欲しい友なのに金知恵ないから全てオジャンに」

  「風船に夢を吹き込み飛ばしたる美川のまちに菜花生えるか」

  「少しだけ涙流して別れたる美川の人よ頑張れ励まし」

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hsin-1さんの日記

 ○後継者論

 昨日開かれた「地域の自立を考えるシンポジウム」では、「地域づくりは人づくり」という言葉が度々出てきました。言い尽くされ、使い古された言葉なのですが、この言葉はやはり流行ではなく不易なものといえましょう。人づくりについては時間の関係で、その重要性はわかっていても踏み込んだ議論はされませんでしたが、4次会の席では、酒の勢いを借りた連中が、酒の飲めない私に人づくり議論を盛んに吹っかけてきました。素面の私に酒飲みのみんなが勝てるはずがありません。結局は繰り返しの議論になりましたが、大まかふたつの意見に集約されました。

 ひとつは「いい指導者はいい後継者をつくる」という話です。誰もこの意見には異を唱える人はいませんが、この論法で行くといい指導者は自分の意に適った自分の跡継ぎを世襲のような形でつくるのです。組織も継続し一見いい方法に見えますが、指導者二世は自分の色を出せないまま、一世の小型のような指導者が生まれる危険性を持っています。 もう一つは「いい指導者は去るか死ぬ」という話です。これは私の持論でもあります。わたしも前述のような方法が最も手っ取り早いし、自分がそんな年代になっているのでそんな方法が一番楽だと思います。しかしわつぃのような人間は最早賞味期限の切れたゴミなのです。例えば夕日をテーマに私はまちづくりを推進してきましたが、私が求める本当の指導者は夕日の伝承よりも夕日を否定する人が欲しいのです。つまり私が朝日より夕日を選んだように既成概念を打ち破る指導者を求めているのです。時代は急速なスピードで進んでいます。ゆっくリズムの時代を生きた私たちのようなパソコンで情報の発信できないような指導者と次代が求める指導者とは明らかにその量と質が違うのですから・・・・。

 ごっくん馬路村で知られる東谷さんと私のこうしたバトルに参加者も戦々恐々の面持ちで見守っていました。東谷さんは組織人ですから自分の後継者を心配しています。しかしいくら心配して3代続いた家がないとか、お店と屏風は大きくなったら倒れるの例えを述べながら、延々と話が続きましたが、拙論は人それぞれなので持ち越しました。ポールラッシュの言葉を思い出しました。「私はただ消え去るのみ。もう道は開けた。心配ない」

  「俺の後誰が継ぐのか分らない居なくなったら人は生まれる」

  「くたびれて賞味期限の切れた俺棚から卸してゴミの中ポイ」

  「酒飲みと飲まぬ私が一騎打ち口角飛ばしてどちらも利あり」

  「ちゅうちゅうとネズミの如く言う方言高知男はさすがにでっかい」

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shin-1さんの日記

 ○荒川選手の金メダル トリノオリンピックも終盤になって、メダルゼロの日本に朗報が飛び込んできました。フィギアスケート女子の荒川選手が何と金メダルの快挙を成し遂げたのです。フィギアスケートには安藤、村主、荒川の3選手がエントリーしていましたが、荒川が1位、村主も4位となりました。荒川選手は伊藤みどり選手が銀メダルを取って以来、しかもアジアでは初の金メダルだそうで、日本中が彼女の華麗な演技に酔いしれました。特に足を柔軟に上げたりまるでサーカスのような背中を逆に反らせて滑る妙技は、彼女しか出来ない素晴らしいものでした。 表彰台に立つ彼女の姿は晴れやかで、金メダルを胸にかけ国歌「君が代」を口ずさむ荒川選手を見て、思わず涙が出てきたのは私一人ではないと思います。 彼女の演技には安藤選手や村主選手にはない大人のオーラを感じました。村主選手は日本人、安藤選手は現代っ子のような雰囲気を感じさせますが、荒川選手は国際人や大人って雰囲気で、二人に比べ大柄なためかスケールが一際大きく感じました。 ところでオリンピックの金メダルが銀製であることを知っている人は少ないのではないでしょうか。これは金の値段が銀の約100倍という台所事情で経費節約のために銀に金メッキを施してもかまわないということがオリンピック憲章で定められているのだそうです。しかもそのメッキには金が6グラム以上使われることになっているというから驚きです。しかし金や銀の値打ちよりも金を取ったプロセスやその成果を思うと、メダルの質なんて関係ない話でしょう。 ふと思ったのですが、メダルが3個もあるのに、そして表彰台に3人も上がるのに、さらに国旗は3本揚がるのに、国家を演奏してもらえるのは金メダルの国家だけなのですから、すごい価値があると思います。 村主選手の悔しそうな顔も、さばさばした安藤選手の顔も本王に素敵でした。お疲れ様といってあげたいです。そして荒川選手に感動を有難うと言ってあげたい気持ちです。 各国のメディアはそろって荒川選手の快挙をたたえ、彼女の演技の素晴らしさが、最後に滑った選手へのプレッシャーになったのではないかと報じていました。  「氷上であれだけ滑る演技にはただ驚ろきて言葉さえ出ず」  「君が代と日の丸ダブリ感激す俺もやっぱり日本人です」  「勝ち組と負け組みそれぞれ涙するそんな姿に私も涙」  「四年間長い道のりたどり着く今日は終わりの新たな始まり」

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○今日は疲れた

? いつもは疲れたなんて感じない私ですが、さすがに今日は疲れました。というのも朝10時から始まった「地域の自立を考える」というシンポジウムは延々11時近くまで続いたのです。午後1時までが第一部、2時から4時までが第2部、4時から7時までが第3部、そそて場所を移して7時30分から11時までが第4部でした。 まちづくりの話は上勝町の横石さん、馬路村の東谷さん、内子町の森本さん、それに私とで議論を展開しました。何せどの方も名うての論客だけに鋭い突っ込みの応酬で、いい話が聞けました。このサロンの企画は地域政策研究センターによって仕組まれたものですが、朝日新聞社が5回シリーズで連載したため関心も高く、300人もの参加者で会場は立ち見ほどの混雑でした。

 私にとってこの程度の会議は日常的な集会なので驚きはしませんが、会の進め方が全て予告もシナリオもないアドリブの世界でのぶっつけ本番だったため、たのしい会議となりました。

 地域の自立には経済の自立や人の自立など様々な切り口がありますが、上勝町も馬路村も、内子町も、勿論双海町も自然やそこで取れたものを売っているという共通性と、その売り方が違うという異質性、そして人間の思いも違う多様性が随分話題となりました。私の町は残念ながら合併によって自治体は消えましたが、それでも双海町という夕日のブランドは消えることなく輝いているのですから不思議です。

 伊予市の門田さんとも話しているのですが、合併して1年。、もうそろそろ伊予市の夕日として売り出す仕組みも考えてみたいと思っています。 昨日沖縄から帰って直ぐに会合に出て、寸暇を惜しむようにまちづくりにのめり込んでいます。でも疲れたといいながら本当に快い疲れです。多分それは楽しいからやる、好きだからやるという基本があるからかも知れません。公職のあった頃は「こんな会何でするの」といわれるような会議もこなさなければならず苦痛を感じたことも何度かありました。でも今は殆どがやりたいことをやるといった姿勢ですから楽しいのかも知れませんね。 今日の会議には、馬路村の山猿こと木下君も駆けつけていました。明日はわが町へ足を伸ばすそうです。明日は区長として近所の人の葬儀にも出席せねばならず、また山口県美川町から視察団がやって来て土日付きっ切りのお世話が待っています。

 「お父さんは楽しそうじゃねえ。それにしても、現職だもないのによくこれだけスケジュールが詰まるねえ」と感心しきりでした。 昨日は忙しくてブログを書く暇がありませんでしたが、明日も書けるかどうか・・・・・。今日は疲れたのでもう寝ます。

  「朝10時始まる会議終わるのは何と時計が一回りした」

  「上勝も馬路も内子も皆同じ自然を上手に金にしている」

  「年寄りと女輝く町ありて年齢よりも心の若さ」

  「モナリザも基はといえば布に色塗っただけだが人は綺麗と」

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