shin-1さんの日記

○これが150年の年輪を刻んだ高知県魚梁瀬杉の切り株

 双海町出身で高知大学に通っている堀川奈津さんがインターンシップでまちづくりのお手伝いに行っていた高知県安芸郡奈半利町へ講演に行った折、ふとしたことからまちづくりの中心メンバーである坂本利男さんと出会いました。彼は百姓はするは養鶏はするは、また高知新聞の直売所はするはと手広く事業を行っており、その生き方に感服していますが、彼から貰った魚梁瀬杉の切り株が我が家へ届いてから、親父と切り株の格闘が冬の寒さの中で行われ、その成果物が水平線の家へ運ばれたことはブログでも紹介しましたが、どんなになったかはお知らせしておりませんでした写真でお見せします。

 切り株の年輪は数えてみましたがとにかく目が込んでいて数えづらいのですが有に150くらいはありました。したがってこの杉は150年生と呼んではばかりません。こんな大きな杉の木が果たして何処に生えていたのか坂本利男さんに一度お聞きし、その現地を訪ねたいと思っています。想像もつきませんが多分150年生の杉の木は天をも覆う大きな木であることは間違いありませんし、この切り株の年輪に比べたら私の年齢なんて僅か3分の1程度でまだまだ青年の木なのです。

 それにしてもこの切り株を貰った私より、この切り株に再び命を吹き込んでテーブル台にする作業は相当な労力だったのだろうと思うと、88歳の親父の技は素人ながら大変な仕事だったようです。当てにならない息子より当てになる友人にお願いしていびつな切り口を木の個性を出来るだけ活かして使い、テーブル台に仕上げました。下の脚はまさに職人芸でいびつなままで横木を巧みに配置しテーブル台の上は水平を保つように出来ているのです。これぞ水平線の家の最も素晴らしい調度品です。杉の年齢150年に親父の年輪88年を合わせて240年の労作なのです。

 馬路村の上流に位置する魚梁瀬地区は魚梁瀬杉に詳しい馬路村役場の木下さんの話によると、魚梁瀬杉も戦後の伐採で古木はかなり減っているそうです。九州の世界遺産に登録されている縄文杉で有名な屋久島でも屋久杉は減っており、その価値が高くなればなるほど人間は手に入れたいエゴのような気持ちが生まれてくるのです。

 この切り株は魚梁瀬杉の物語と親父の物語の合作です。山が海の恋人なら杉が育った魚梁瀬の地は川と海で結ばれ、果てしない山野を越えて瀬戸内海を見下ろす山の一角人間牧場にたどり着きました。150年生の杉の木はこれから終焉の地水平線の家で一体どんな夢を見るのでしょうか。

  「この杉は 江戸の終わりに 芽を出して 竜馬の脱藩 見つめて育つ」

  「切り株と 厳冬格闘 した末に 見事なテーブル 山に登りぬ」

  「一二三 数えて驚く 木の太さ 一つ一年 何と百五十も」

  「坂本さん 龍馬の末裔 かも知れぬ 俺に託すは どんな生き方」 

  

 

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shin-1さんの日記

○これが人間牧場の水平線の家です

 間口4間半、奥行き2間半、まるで2階建てのようなこの木造の建物が、ブログ本邦初公開の人間牧場の中心施設である水平線の家です。これまでデジカメの写真を圧縮することが私の技術では残念ながら出来なかったため公開が遅れていましたが、いよいよその姿をブログ上でお見せする事になりました。建築構想が浮かび上がってから丁度一年目のことですので感慨も一入です。これまでにも昨年9月から始めたブログの愛読者からは「人間牧場の記事は読むけどその実態が分らない」「写真で紹介して欲しい」などのリクエストが再三再四寄せられていました。それでも見たいという人が後を立たず工事中や工事現場に沢山の人がやって来ました。この水平線の家を見て感激した人、それ程でもないと落胆した人様々ですが、それでもオーナーの私としましては、目いっぱい頑張ったつもりだし設計した息子も私の頑固でこだわった主張をよくぞ表現してくれたと感謝しています。

 水平線の家は片屋根式です。海に面した北側がまるで2階のように高くなっています。人間牧場が海抜100メートルに位置して急峻なため部屋の大きさと同じ広さのウッドデッキは、スライドして開く3間半の窓を開けると室内の広さが倍になるよう設計されています。このウッドデッキからの眺望は絶景ですし、室内から眺めるとウッドデッキが地球のごたごたを全部消し去って海・水平線・空・島・雲しか見えません。このことも水平線の家という命名の源なのです。

 外壁のペンキは防腐剤ですが、木調色でとても周囲の風景にマッチしています。勿論このペンキ塗りは私たち家族の共同作業で塗りました。少しムラがあるのもお愛嬌です。

 来る人たちが異口同音に言うのは「私もこんなセカンドハウスを手に入れたい」という願望です。そしてその口裏として「どのくらいお金をかけたの」です。確かに県庁所在地の松山市から1時間程度、海が見えて夕日が見える場所にセカンドハウスを造りたいというのは中年男の最後の願望かもしれません。もし手の届きうる金額だったらと思うのも無理からぬことです。その度に私はポール・J・マイヤーの言葉「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持って行動すれば何事もついには実現する」という言葉を引用して説明するのです。お金より優先するのは「何をしたいか」なのです。

 田舎にこんな夢のような私設を造ることは容易なことではありません。土地を探し、水を確保し、地域との人間関係を築き、仲間を集め、豊かな人生を共有する。ワクワクするけれど難問が幾つも前へ立ちはだかります。それを一つ一つクリアーしてこその成果物なのです。でもここからがまた大変です。この施設を維持し何のなめに使うかという知恵がなければ、芸能人が金に明かして別荘を持つのと一緒です。焼肉を食ったりするだけではいけないのです。

  「五右衛門の 写真配信 ブログにて 早速メール 早く行きたい」

  「なんぼ要る 必ず聞かれる 金のこと そんなことより 何をしたいの」

  「いいとこだ 異口同音に 美辞麗句 訪ねた人は みんな感嘆」

  「海と空 これがコスモス 牧場と 夢の世界を 言うが人には」




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shin-1さんの日記

○私の人生はどんな色?でどんな時代?

 自分の人生を色や時代で表現すると今の自分はどんな色でどんな時代だろうと考えてみました。今の自分の人生をばら色なんて輝く表現はできませんから、さしずめ黄色と表現しましょう。そんなに遠くない昔、「幸せの黄色いハンカチ」という高倉健と倍賞千恵子の北海道の炭鉱が舞台になった映画を見ましたが、赤や青の連続した人生の果てに迎えた今の心境は、少しだけハッピーエンド的な黄色がピッタリのようです。降り返れば私にも社会教育に燃え、町名変更に燃え、夕日に燃え、まちづくりに燃えた赤の時代がありました。その赤く燃えた分だけ裏返しとして真っ青な失敗や反対に一喜一憂した時代もあったのです。言い換えれば赤と青が交互に襲ってきたから赤は赤でより鮮明に、青は青でより深い青となって心に焼きついているのだと思うのです。同じ赤と青の時代にも若草色の期間も混在しました。初めて子どもが生まれた時の喜び、長男が生まれた時の喜び、青年お船でアメリカやメキシコを旅した時の喜びは、まさに草燃える春の色だったように思うのです。

 ここでは何故か赤い色の文字で表現しようとしていますが、わが人生の黒色の代表格は何といっても母親の死です。祖母も祖々父母も見送り叔父や叔母も見送りましたが母の死は格別な黒色でした。台風襲来で裏山が崩れその片付け作業中チエンソーで足を切った時も一瞬ではありましたが黒色です。でも何故か黒色であるはずの昨年3月31日はブラックデーではなく黄色でした。たった2年間でしたが激務に明け暮れた教育長としての役割から解き放たれ、しかも35年間の公務員生活に終止符を打てた安堵感が黄色に感じさせたのかも知れません。

 ああ、ばら色で思い出しましたが、たった15分間の見合いで妻と知り合い結婚を決めたあの頃は短いながらばら色でしたし、アメリカから帰って一念発起して自宅を新築した時もばら色だったようです。でもその後には赤貧洗うが如しとまではいきませんでしたが、ローンや子育てで妻にはかなり窮屈な思いをさせたようです。

 孫の声を聞くと赤くなり、妻の声を聞くと灰色になる、まあ一日のうちでもこうして色々な色が交互に現れるのは人生が充実しているからなのかもし知れません。打ち沈んだ老後を一人寂しく過ごす黒色な人生はご免こうむりたいものですが、人生は一寸先はどうなるか分りません。でもたとえそれが沈んだ色の人生であっても明るい色の人生にするよう努力すればいいのです。今の時代のスピードは私たちにとってはあまりにも速過ぎ変化が多過ぎます。そう感じるのはスピードの速さと変化の大きさについて行けない人間になっているという自覚も必要でしょう。その自覚をしてマイペースで明るい色の人生を生きて行きたいものです。

  「今の俺 色に例えりゃ 黄色です 信号注意 いやいやし・あ・わ・せ」

  「孫の声 若草色と 思いきや いきなり妻の 声で灰色」

  「俺だって ばら色人生 ありました もう来ないかも あんな楽しさ」

  「ふと見れば 周り素敵な 春の色 赤青黄色 いい色染まろ」

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shin-1さんの日記

○お酒をお土産に貰うのですが

 私は全国を旅している関係上行く先々でお土産にお酒類をいただきます。日本酒、焼酎、ワインなど全国には地酒と称するものが数えきれないほどあるようで、その土地の水と原料を使っているだけにお菓子と並んでお酒はやはりお土産として最適なのでしょう。最近は地酒を差し上げても重くて大変だろうとわざわざ宅配便で送ってくれる所もあって恐縮します。

 私に頂いたお酒はもっぱら私の家にやって来るお客に振舞い酒として使われますが、酒好きの友人は私が酒を飲まないことやわが家にそうしたお酒が転がっていることを知っているようで、時々やってきては寝酒用に持って帰るのです。お土産に頂いたものの中には中々手に入らない名品もあるようで、酒飲みはそこいらをちゃんと知っているのです。

 私たちまちづくり人の話題が満載な雑誌に「舞たうn」というのがあります。えひめ地域政策研究センターが発行している機関紙なのですが、今月号は「酒文化と地域とのかかわり」が特集で組まれています。普通お酒は飲むもので記事にはなりにくいのでしょう、今まで88号も発行を重ねているのに酒などというテーマはありませんでしたし、地域づくりの現場でも三人寄れば酒の話しなのに何故か取り上げられることはありませんでした。そういう意味から言うと大胆で、表紙の挿絵を見た瞬間懐かしく読んでみたい気持ちになりました。

 編集子の兵頭さんが特集への想いを表紙裏に述べているように、「酒は人生の慶事になくてはならないもので、もともと御神酒として神に祀られ、やがて祭事の折に人々に飲まれるようになった。産業の一形態となった現在でも、地域やその文化とかかわりが深い。かつては一村一蔵といわれ、まちなみあるところに酒蔵があったものだったが、今や造りを続ける蔵は減っている。日本酒の低迷と、地域文化やコミュニティの衰退は無関係だろうか」は同感である。

 私の町にも酒蔵は何軒かありましたが、時の流れの中で姿を消し、もうその存在したことすら忘れ去られているのです。P10~P11に愛媛県内の酒蔵一覧表と県内マップが載せられていますが、もしもう数ヶ月早ければわが町の「嶋錦」酒造の酒蔵も載っていただろうにと思うと残念でなりません。双海町の中心地に白壁の酒蔵があります。嶋錦の酒蔵は町並みのシンボル的存在なのですが、今年からついに酒蔵の営業を止めたそうです。嶋錦は町きっての名家で町の歴史を誘導してきた功績は計り知れません。私のように酒蔵を惜しむ寂しさより、歴史を守り受け継いできたご当主の心痛はいかばかりかと、察するに余りあります。

 昨日私の元へビール券が送られてきました。私がビール好きだったことを知っての贈り物なのですが、キリンのラガービールの券を見ながら、ビールをたらふく飲んだ昔が懐かしくなりました。煙会所の4畳半で朝までビールを飲み、空瓶で4畳半の周りを一周した豪快な飲みっぷりは今でも語り草だし、キリンビールのラベルの中のキリンというカタカナを探したりしたことが懐かしく思い出されました。

 酒は飲まずとも酒の思い出は語れるし、酒の席で酒は飲まずとも飲んだような雰囲気で付き合いながら酒の話をしております。

  「この冬は 寒くいい酒 出来た聞く この蔵既に 酒を造らず」

  「蔵のある 白壁風景 街の顔 在りし姿と 写真に収め」

  「酒蔵の 前を通ると 匂ってた 絞る酒の香 子ども心に」

  「お土産に 貰った地酒 人が飲む お礼は私 割に合わぬわ」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○PTAの研修会で貰った蘭の鉢植え

 私は時々講演に行った先で花束を貰うことがあると前にも書きましたが、我が家の玄関先に蘭の花が一鉢置いてあります。去年貰ったものですからもうかれこれ4ヶ月も比較的冷たい玄関先で目を楽しませ、心を和ませてくれたのですから花持ちの良い花で、長持ちは他の花々の比ではありません。本当は早く花を切取るのが蘭のためなのでしょうが、惜しくてそのままにしておりました。でも大分くたびれたので残念ながら片付けることにしました。

 蘭は今でこそバイオテクノロジーの培養普及によってあちらこちらに出回っていますが、その豪華さや高級感は貰った人の心に深く焼きつきます。私のような年齢になってリタイアした人間にはもう何ら関係のない話ですが、女性に花を贈る場合、貰った女性が感動する花は断トツでバラの花が一位だそうです。勿論蘭の花もランクインしていました

 ところが昨日雑誌を読んでいて意外な蘭の語源に出会いました。蘭は英語でオーキットといいます。この言葉の語源はギリシャ語のオルキスで意味は何と「睾丸」なのです。厚顔でも紅顔でも抗癌でもない男性の持ち物なのです。意味は簡単で蘭は二つの球根を持っておりその内の一つから花芽花茎が伸びて花をつけるのですがその球根の形が睾丸の形にそっくりなのだそうです。言われて観察して見ると名前の形そのままなのです。このことを知っていたらお堅いはずのPTAから蘭の花は贈られなかっただろうと一人苦笑いをしてしまいました。付け加えておきますが、古代ギリシャでは蘭の球根から作ったサループという飲み物が勢力増強剤や媚薬として売られていたというのです。でもこの花を贈ってくれたPTAの人に悪いので、蘭の名誉を回復するため次のような蘭の花言葉を考えてみました。

 「蘭の花言葉は紅顔です。紅顔は小さな心の恥じらい、相手を思う気持ちを相手に伝えたくても伝えられない心のときめきとでもいえましょう。また蘭は二つの球根を持っています。私とあなたはいいカップルに発展するようにとの願い、つまり球根は求婚へのメッセージなのです。あなたも相手を思う求愛の心が強いのなら蘭を贈っては如何でしょう」なーんて意味不明の花言葉を信じるか信じないかはあなた次第です。

  「深い意味 考えることもない 花言葉 語源を辿れば 贈る気ならず」

  「花貰い 怒る人など いないはず 花に囲まれ 幸せ戸口」

  「花香り 鼻で感じて 楽しむも これまた一興 花ある季節」

  「気がつけば 湯上り妻の 芳しい オーデコロンの 香り感じて」 

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shin-1さんの日記

○これが噂の五右衛門風呂です

 ブログに写真を挿入するのが夢でした。昨夜から息子夫婦が泊まりにきたものですから、これ幸いとブログにデジカメで撮った写真を入れることを教えてもらおうと思ったのですが、私と息子の生活のリズムが違っていて結局昨晩は教えてもらうことが出来ませんでした。今日も結婚式があり、私がわが家へ帰ったのは夕方5時ごろでした。息子は水平線の家の囲炉裏のフードを児童的に上げ下げするチョッパーの据付に苦心したのか、帰ってみたら疲れてコタツの中で昼寝です。今晩は7時30分から神社の総代会があるので、何としても教えてもらおうと起して教授を願いましたが、残念かなわが能力はそれについてゆくことが出来ず、ついに途中で残念ながら休止となりました。

 息子の残したメモを基に遊び半分でいじっていると、何とこの五右衛門風呂の写真が入ったのです。やったーと思いましたが、残念ながらこの写真は完成間近な頃の暖簾をつけてデモンストレーション中の写真であることが判明、でも雰囲気はつかめるはずです。

 どうです、この写真の向こう側の木窓を押し上げると海と空と水平線だけ180度の視界を独り占めしながら五右衛門風呂に入れるのです。

 写真を入れるとブログも説明がし易くリアルですね。どうです。藍染めの「ゆ」なんて暖簾は隠れ家の湯って感じだし風流でしょうが。私はまだこの風呂には入湯していませんが、一番風呂に入った息子の話だと最高だそうです。ブログを毎日見ている人からは早く写真をとせがまれていました。私のデジカメで撮った写真は容量が大き過ぎて、その容量を小さくしなければブログに入らないことが原因なのですから、容量を小さくする技術さえマスターすれば何とかご期待に答えられそうです。乞うご期待って所です。

  「やっとこさ デジカメ写真を ブログにて 紹介できた 何かの拍子に」

  「本当は 今の写真を 載せたいが 誤り気付くも 時すで遅し」

  「見て俺が 最初に送った 写真です 屋根は竹葺き 暖簾は藍染め」

  「消えるかも びくびくしながら 写真処理 ワンランクアップ もう直ぐマスター」

 

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shin-1さんの日記

○この身に付けているものなんぼ?

 私の友人に木村君という人がいます。50歳も半ばの人に君付けは失礼かもしれませんが、私はあえて木村君と呼んでいます。彼と知り合ったのはフロンティア塾でのことでした。私たち21世紀えひめニューフロンティアグループが10年で40回を目指した塾に、彼は殆ど毎回足繁く通ってきました。他の人のように人との人間関係や学びを重視せず、もっぱら卓話や討議後の夜なべ談義に重きを置いた奇妙な行動は、際立っていただけに誰からも愛され、いつの間にかすっかり塾の人気者になっていました。彼を決定的に有名にしたのは仕事が車の修理工場を経営していることもあって赤いつなぎの作業服を着ており、その姿で何処へでも行くことから、「赤トンボの木村さん」なんて愛称もつけられていました。何せ赤いつなぎの作業服で結婚式や葬式まで参列参加するのですからその徹底振りは半端ではありませんでした。塾が終了してもう5年になりましが、彼はフロンティア塾で知り合った仲間とせっせと交流を続け、高知県の四万十マラソンや内海の歩き遍路にも参加するなど義理堅い行動をしており、立派と言う他はありません。

 今日稲葉さんの結婚式で久しぶりに同席しました。懐かしい話に花を咲かせ一緒に酒宴に付き合いましたが、歌は歌う、酒は飲む、馬鹿騒ぎはするで、多いに結婚披露宴を盛り上げてくれました。最後は少し酩酊状態でしたが一緒の帰り道だったので同乗して家の近くまで送りました。途中酩酊と小便が重なり、信号待ちしている土手沿いの道で降り、平気で小便をするあたりさすが大物なのです。

 ところで今日の結婚式に木村さんはスーツ姿で現れました。「おい赤いつなぎはどうした」とみんなに冷やかされていましたが、受付近くで一服しながら私に「スーツは窮屈で困る」と前置きし、「進ちゃんこのネクタイなんぼか分る」と唐突に言うのです。「さあ」ととぼけましたが木村君は「これダイソーで百円じゃった」というのです。「うそー」と言うと、追い討ちをかけるように「このワイシャツは300円、カフスボタンも100円じゃあ」と豪傑笑いでした。カフスボタンは買って付けようとするとワイシャツに穴が開いてないことに気付き、釘で開けようとしたのですが、釘が錆びていて、結局は諦めた」と笑い飛ばしました。一年に何回も着ないものにお金をかけるのは馬鹿げていると、合理主義者ぶりをアピールする彼の生き方も何処かで見習いたいものです。要は自分サイズで生きることなのです。

 木村君からフロンティア塾の再会を懇願されました。フ「ロンティア塾に入るまでの自分は盃のような人間だった。フロンティア塾で多くの人を知り自分が丼までは行かなくても茶碗くらいになれた気がする」と述懐する彼の言葉は決してお世辞ではなく本心からの言葉だと思います。人間牧場が出来たら必ず塾を開くからと約束をして、酒の匂いぷんぷんの木村君を松前郵便局の近くで降ろしわが家へと向かいました。

  「俺の身に 付けてるネクタイ 一万円 木村百円 見た目は変わらず」

  「気にするな 背広良くても 値打ち別 人は見かけで 判断できぬぞ」

  「お祝辞に ハーモニカ吹く 奇抜さが 受けて大きな 拍手ぱちぱち」

  「隣席 座った人が 知っている 俺の名前と 俺の素性を」

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shin-1さんの日記

○結婚式披露宴の祝辞

 私には結婚式に出る場合、おおよそ三つのタイプに分けられます。一つは親族の結婚式です。親類縁者の多い私は自分の息子や兄弟にいたる結婚式に親族として出席しました。その場合は親族代表などのあいさつがあるのですが、まあ短く話し酒をついで会場を盛り上げる役に徹します。2つ目は知人友人につながる結婚式です。その場合は上司や友人としてあいさつを頼まれますが、酒を飲んでいない早い時間なので自分の思いを言葉に託ししんみりと厳格にお話します。三つ目は司会として結婚式に臨みました。披露宴の司会は田舎の公民館結婚式の普及を目指した公民館に勤めていたこともあって、何と537組もの司会をやりました。

 今日はその分類からすると2番目の友人の息子さんの結婚式に招かれ全日空のホテルへ昼前に行く予定です。先日新郎のお父さんから祝辞を頼まれました。断る理由もないのであっさり引き受けたら先日、お父さんと若い二人があいさつに見えられました。内気で口下手で無口な私としましては、普通はそんなに深く考えず、書きもせず出たとこ勝負で祝辞を喋るのですがさてどんな話しの組み立てにしようか考えてみました。新郎の父親のリクエストは、私の息子の結婚式に父親のあいさつ代わりにハーモニカを吹いたのが気に入って、是非ともハーモニカをというのです。でもいくらリクエストと言われても余興ならいざ知らず主賓のあいさつにハーモニカとは?と思いましたが、仕方がないのでやりたいと思ってます。

 全日空の披露宴会場をイメージしてみました。

 「春や昔十五万石の城下かな」松山出身の正岡子規も詠んでいる松山城は、満開の桜に埋まる大安吉日の本日ここに、ご両家の結婚披露宴が目出度くも厳かに催されるに当り、お許しをいただき一言お祝いのお祝辞を申し上げます。私は新郎のお父様と実懇にさせていただいております若松と申します。新郎新婦ならびにご両家の皆様本日はお日柄もよく誠におめでとうございます。

 聞き及べばお二人の出会いは松山南高校デザイン科での学びに遡るそうですが、日本列島には一億人を超えて住んでいるその中からお互いがお互いを知り合ったことはまさに軌跡としか言いようがありません。そんな一億の星と生まれたお二人が深い縁で結ばれたことは、先日のオリンピックで金メダルを取った荒川静香さん以来の快挙であります。荒川さんはイナバウウアーで観客を魅了しましたが、実はイナバウアーのご本家は荒川さんではなく、新郎の稲葉家が長年営んでいる自動車塗装の技術の一つであり、新郎の技術を今日からイナバウアーと呼ばせていただきます。

 新郎は今日新車として新婦を購入しました。普通これほどの新車だと軽く一千万円はくだらないだろうと思うのに新郎は結納金という砥部町の相場で買えたのですからこれは相当得をした買い物と言わざるを得ません。ディーラーから買ったぴかぴかの新婦という新車は車と同じで長い年月には色あせ時には人生の凹みも出来るでしょうが、新郎の技術で磨きや塗装を怠らずしっかりと手入れをして何時までも人生の長い道程を二人で助け合い走って欲しいと思います。

 人生のはなむけに私は使い古しのハーモニカを用意しました。私は小学校中学校を通じて音楽の通知表は2でした。でも練習すると何とか吹けるようになりました。これは先生が私の潜在能力を見抜けなかったからです。今ではどうにか吹けるようになって160曲も吹け、先日は下灘駅で関口宏さんの息子さんと列島12千キロ鉄道の旅で全国放送されるほどに下手糞ながら楽しんでおります。今日はご両家のお母さんに「母さんのうた」と、嫁ぐ娘を気遣う芦屋雁ノ助の「娘よ」を吹きます「。母さんの歌」に込められた子どもが思う子育てへの感謝の気持ちも、嫁ぐ娘に対する親の気持ちも汲み取りながらしっかりといいご家庭を築いて下さい。

 「♪母さんの歌♪」「♪娘よ♪」

 新郎新婦の幸せとご両家の益々のご発展を頃からお祈りいたします。本日は誠におめでとうございます。

いかがかな、こんな祝辞は・・・・・・・・・。

  「いいことを 言おうとすると 恥をかく ありのままなる 普段の話を」

  「結婚は 楽しいことが 半分で 後の半分 苦しいことも」

  「祝福の 拍手忘れず 頑張ろう そうすりゃ楽し 二人の未来」

  「祝辞いう 私はそんな 歳になり 分ったような 分らぬ話を」

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shin-1さんの日記

○ジャガイモの芽が出かけました

 私の予定表の記録によると2月18日でした。約8キロものジャガイモを小切りして開墾した人間牧場の畑に植えたのは・・・・。あれからもう2ヶ月近くが経とうというのに、少し離れた五右衛門風呂の高台から見るのにジャガイモの芽は一向に芽吹こうとしません。親父が私より後にわが家の畑に植えたジャガイモは順調に芽を出し早くも5センチくらい芽が伸びています。標高差100メートルの気温差はこうも遅いのか、それとも畑のあちこちに発見された足跡のような痕跡がいのししならば、種芋は被害にあっているかもしれないと要らぬ詮索をしながら畑へ降りてみました。綺麗に除草したはずの畑には草の芽が沢山出て、ジャガイモの芽などはどこにも見つかりません。でも目を凝らしてじっと大地を見てみると、かすかにジャガイモの芽吹きがあちこちに発見されました。多分全ての種芋が芽吹くとは思いませんが、この中の幾つかが育てば種芋代くらいの収穫はあるものと期待をしました。それにしても草の勢いは凄いです。3日前に行った時はそんなに目立たなかったのに一雨で青々と茂って春の力強さを感じさせてくれました。周りの山々からは早くもお百姓さんの草刈機の音が響いています。見渡すと除草剤の影響でしょうかみかん畑の草が黄色くなった所もあるようです。農家では環境に悪いと分っていても足りない労働力に対応する省力化の一貫として除草剤を使っているようです。わが人間牧場では環境は大きなテーマですから除草剤は使わない方針で進んでいますが、10年も草の実を落とし続けているつけは必ず返って来るものと覚悟しています。

 今日は絶好の天気なのですが北西の風が強くて少し肌寒い感じがしましたが、先日次男と下塗りした五右衛門風呂の外壁の上塗り防腐剤を塗りました。先日は大工さん専用の梯子を借りていたのですが工事が終わったためその梯子も既になくスチール製の脚立を代用です。二階建ての家くらいの高さの場所に水平線の家の外壁に塗った残りの色付き防腐剤を塗るのですが、これが難工事で高い脚立の上は足場が悪く、次男と私が交代で脚立を支え持ちながら慎重に作業を進めました。9時半から始めた作業は休むことなく12時30分ころまでかかりましたが、何とか綺麗に塗れて一件落着デジカメに完成写真を収めました。五右衛門風呂には天窓のガラスや入り口の板戸も入って、後は土止めのためブロックで囲って小さな倉庫の屋根さえ付ければ全ての作業が終わります。今回の第二期工事も予想以上の成果はありましたが予想以上の経費がかかって予算は益々ピンチになっています。運営や第三期工事のツr-ハウスのことを思うと何か予算確保の道を考えなければならないようです。

 先日奈半利町で知り合った高知大の堀川奈津さんが春休みの帰省中に人間牧場へやって来ました。雨の中を単車でやって来ましたが、水平線の家や水平線の家の中に置いてある坂本年男さんから貰って作った魚梁瀬杉のテーブルを感慨深げに見ていました。奈津さんも今年は3年生だそうです。今晩奈津さんのお父さんから電話があって色々と増すメサの将来について話をしましたが、春祭りの準備とかで少々酒

に酔ってのお話でした。いずれの親も子どもの将来は気になるものですね。

  「ジャガイモが やっと芽を出し 春が来た 人間牧場 四季の巡りが」

  「三人の 息子協力 やっとにて 牧場らしく あれこれ整い」

  「上塗りを かけて綺麗な 風呂が出来 間もなく風情 楽しみながらも」

  「あれこれと やればやるほど 金が要る 懐さみし 春風身にしむ」

 

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shin-1さんの日記

○産直市が増えました

 商店街の衰退と何か因果関係があるのか分りませんが、最近田舎の各地にやたらと産直市が生まれています。いかにも手作り、いかにも田舎という雰囲気をもろに出して、新鮮市、ぴちぴち市などの手作りのぼりがその雰囲気を盛り上げています。自分で作ったものに値段をつけて売るため商品には中間マージンがかからなにのですから市価より安く、しかも新鮮というのが売りでしょうが、最近はバーコードなどをつけて商品管理するなどかなり苦労や投資の後が見えるのですが、開店後一年が過ぎて行って見ると、かなり様変わりしている事に気付きます。運営が上手く行かず客足が遠のき止めてしまって安普請のプレハブ小屋だけが残っている所、客が付いて繁盛はしているものの明らかに産直とは違う外から仕入れたものが品よく並んでいる所、相変わらずみかん類が主流を占めている所など様々です。

 産直市を始めるに当って行政が補助金や助成金を出して建物を立て、農協や漁協が運営をバックアップしている所は上手く行かない場合はいつでも止めれますが、みんなが共同出資で始めた産直市は出資金を融資に頼っている場合も多く、止めるに止めれぬ事情があるものですから、色々な知恵を出して加工品を作ったりそれは大変な努力です。そうした本物の産直市は補助金や団体に頼らず「本物と真心」を売っているからお客さんも満足するのです。

 産直市の主役は田舎のおばちゃんが殆どです。これまで農家は親父が主役でおばちゃんは親父の言うとおりにすれば飯が食えたのです。ところが作れば農協が売ってくれ、作り方まで丁寧に農協が教えてくれていましたが、農協が広域合併して営農より共済や物売りに熱中し、米もみかんも脳居に任せていたら飯が喰えない時代がやってきたのです。当然生活を守る運動がおばちゃんを主役として農村に生まれました。これが産直市なのです。中にはパソコンを使って産直市を大々的にやってマスコミに取り上げられているものもありますが、おばちゃんが田舎の言葉で自分の作ったものを自信を持って手渡しする信用商売こそ小さくても本物だと思うのです。そんな産直市に行くとなんとなく気が休まるし、また来ようという気持ちになります。私はあまのじゃくでしょうか、そんなおばちゃんの店を応援したくて、大きなお店には殆ど寄りません。先日も南予のそんな店に顔を出したら「あっ、こないだテレビに出とった夕日の・・・・」なんて会話が飛び出して、買わんでもええものまで買ってしまいました。私しゃああまのじゃくです。はい。

  「これ上手い 言うから買って 食ってみた 本当に美味い 今度また買おう」

  「小の店 訪ねる俺は あまのじゃく 世間話が ほのぼのしてて」

  「産直と 言ってる割には 地のものが 揃っていない 看板偽り」

  「親父など 当てにしてたら 飯喰えぬ おばちゃんも一つ 踏ん張り生きて」

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