shin-1さんの日記

○37回目の結婚記念日

 私たち夫婦は昭和46年5月5日のこどもの日に結婚しました。つまり明日は37回目の結婚記念日なのです。今まではむしろこどもの日に重点が置かれ忙しくて、ただ何となく5月5日が過ぎていました。でも結婚記念日何て考えると新鮮な感じがするのです。世の中ではありふれたごく普通な夫婦ですが、それなりに波乱万丈な36年間だったようにも思います。

 結婚したとき私は愛媛県青年団連合会の会長をして、それは忙しい日々を過ごしていました。故にわが家へは毎日のように青年たちが押しかけ、新婚なんて雰囲気はありませんでしたし、教育委員会で社会教育をしていたものですから、土日も夜も仕事で家を空けるのはざらで妻には随分苦労をかけたと思います。その後子どもが4人生まれましたが、子育ても主にではなく全てが妻の役割でした。社会教育主事の資格を取るため香川大学へ一ヶ月、総理府派遣青年の船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイへ二ヵ月半それぞれ家を空けました。社会教育13年の後半は町名変更を担当し、町を二分する激しい騒動の渦中に巻き込まれ町長リコールなど様々なことを経験し、私もそうでしたが妻に最も苦労をかけました。まちづくりを担当してからは夕日や花や蛍やメダカなど様々な仕掛けで町を有名にする努力をしましたが、ここでもシーサイド公園の建設や運営など日本で一番小さなたった一人の課長として激務に追われました。子どもの進学や就職、結婚など家庭の節目を何とか乗り切りましたが、妻の看病の果てに祖母や母を亡くし今は父の面倒を妻が見ています。役場を退職して教育長に就任2年間でしたが合併する昨年まで、最後の仕事をどうにか過ごし無事念願の自由人となりました。昨年は長年の妻の苦労に報いるためカナダ旅行を行い少しばかりの恩返しをしたのです。足を切って入院したりもしましたが、まあ二人とも元気で、長女・長男の結婚、孫の誕生など色々ありましたが、37回目の記念日を何とか迎えることが出来ました。

  去年は忘れていた結婚記念日を今日ふと人間牧場の掃除をしていて思い出しました。妻に「明日はわしらの結婚記念日だが覚えているか」と尋ねようと思ったのですが、「結婚記念日にはご苦労様のプレゼント」を要求されそうなのでぐっと堪えて飲み込みました。当日の朝、つまり明日の朝言おうかと思います。

 それにしても36年間はあっという間に過ぎてしまいました。当面の目標は金婚式の50年ですが、勿論家族ともどもですが二人が元気で13年後のその日を迎えたいものです。夫婦円満の秘訣はわがままな私が妻に歩み寄る以外はありません。分っていても中々口に出しても言えないし、行動で示すのはもっと大変ですが、少しずつ自分のわがままを手直ししたいと思っています。

 昨日お寺さん参りをしながら、お参りする人様の夫婦を何組も見ました。私たちと同じような人生を歩んでこられたのでしょうが、二人並んで手を合わせて拝む邪念の払われた穏やかな姿を見て、私たち夫婦は逆にどんな姿に見えるのだろうと思ったものです。夫婦は人生の基本です。お互いこれからも助け合って生きてゆきたいと結婚記念日を前に自分の心に誓いました。

  「こどもの日 実は夫婦の 記念日で 三十七回 やっとここまで」

  「雨風や 寒さ暑さも あったはず 下を支えた あなたは偉い」

  「一と一 足せば二になる はずだのに わが家六なる 子ども恵まれ」

  「記念日を 覚えているだけ まだましだ 今日は手足を 揉んでやろうか」




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shin-1さんの日記

○のんびりゆっくり徳島の旅

 昨夕仕事から帰った妻と食事をしていて、「明日は何も予定もない休日だし、のんびりとお寺参りでもするか」と誘ったところ相談がまとまり、早立ちで徳島まで行く事になりました。私は早朝4時に起床して机上のパソコンでブログを一本書いて軽い朝食や身支度を済ませ、5時過ぎに出発しました。伊予インターから松山道を経て川之江ジャンクション、徳島道と100キロ近いスピードでひた走り、板野の4番札所大日寺には納経所の開く8時30分に到着です。私たち夫婦の八十八ヵ所参りは仕事の関係もあってまるでランダム、一番からなんて出来ませんでしたから適当に回っています。ですから空白部分や歯抜けといった感じでお参りしていないお寺があるのです。今日のお参りは4番から13番までが残っていたので順番どおりカーナビ頼りのお参りとなりました。

 どの寺も私たちのようないい加減なお参りではなく、白装束に身を固め鈴の音も読経の声も軽やかな参拝客に見えました。妻はその人たちに触発されてかお参りの資料に印刷されている般若心経を持参して、もれ聞こえてくる参拝者の読経に合わせて口ずさんでいました。私は無信心なものでお賽銭を入れて鐘を突き手お合わせるとそそくさと引き上げて納経所へ行き、納経帳と掛け軸を出してその達筆ぶりに感心しながら書いてもらうのです。

 最近は歩き遍路の人にも随分出会うし、車でお参りする人は殆どスピードが同じですから、早かったり遅かったりしながらあの顔この顔に出会って、言葉を交わすのも遍路のいいとこかも知れません。昨日は連休ということもあって可愛いい白装束の子どもさんにも沢山出会いました。一用前な姿とおじいちゃんやおばあちゃんの嬉しそうな姿には思わず目を細めて見ました。

 季節はもう初夏、周りの景色は燃えるような新緑で、思わず深呼吸をしてみたくなるような爽やかさです。山には小鳥が鳴き、オレンジ色の山つつじも美しく咲いて自己主張しているようでしたが、今回のお参りは行く寺毎に咲き誇る花にめぐり会ったことでした。その度に妻をモデルに撮影会のように一枚ずつデジカメの写真が増えてゆきました。帯状疱疹の妻は幾分かやつれた感じもしましたが、それでもカメラいっぱいの豊満ぶりで女らしく収まっていました。あるお寺では私がカメラを向けていると、「押しましょうか」と気軽の声を掛けてくれる参拝者に甘えて撮ってもらいました。何せ新婚旅行でも二人で撮った写真が一枚もないという私ですから、何とも面映い感じがしましたが旅の記念になりました。藤井寺の藤も見事でしたし、最後に参った雲辺寺では千メートルの標高なので山桜、長い九十九折の山道を走った山奥の石楠花が満開で、思わぬ花見となりましたが、5月の連休に桜の花見が出来るとは思っても見ませんでした。

 先日のお寺さん参りの時は、突風が吹いて香川県からロープウェイでのお参りは時間切れで出来ませんでしたが、裏山から車で挑戦し今度もまた時間切れ間際となったもののやっと念願かなってお参りをすることが出来ました。

 再び池田町まで下山して旧国道を峠越えして川之江まで出て、高速道路をひた走り、7時には松山で一風呂浴びて遅い夕食を楽しみ無事9時過ぎにわが家へたどり着きました。今日一日でしめて10ケ寺をお参りしました。車のメーターは一日で500キロを越えましたが、充実した一日だったと妻も大喜びです。それにしても便利な世の中になったものです。徳島へ行くだけでも大変だのにお寺さんを10カ寺ですから感心します。この分だと高野山参りもそんなに遠くはないようです。

  「どの寺も 季節の花の 盛りにて 思わずシャッター モデルがいいから」

  「撮りましょう 思わず声を 掛けられて うれし恥ずかし 寄り添う夫婦」

  「朝もそば 昼もそばにて 夕食は せめて寿司でも 回転我慢」

  「本を持ち 般若心経 唱えるが まるで音痴で 思わず笑う」

 

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shin-1さんの日記

○88歳の親父を語る①

 私には二人の親父と二人の母がいるはずなのですが、そでに妻の父母と私の母は既に亡くなっているので、私のルーツは父の誕生日である大正7年9月1日から前へ遡ることはできないのです。父は父の父母である私の祖父母から生まれる前のことを色々効いて育っていますが、それは聞いた話なのです。ですから父が生まれてから今日まで生きて見聞きした話から4~5歳年齢を引いた80年余りの出来事しか正確には伝わらないのです。私はその父親から一体何を聞き、何を覚え、何を誰に伝えればよいのでしょうか。私の父はこの時代の人の殆どがそうであるように文字を持たない世代なのです。生まれて間もなく行くであろう学校にも貧乏が故ろくに行けず、少年の頃から大家族の長男としての重圧の中に生きて家族を支え続けた人生は「おしん」のドラマと同じような苦しい人生であっただろうと思います。その文字を持たない親父にとって気がかりなことはは、後何年生きて、後どのくらい自分の持っているものを伝えられるかではないかと思うのです。船に乗って漁師を70年間もした親父は瀬戸内海を漁場としながらあえて外海に挑んだり、晩年は海の資料館「海舟館」を造るなど得意な生き方をしたため、文字こそ少ないもののそこここに目で見える形で生きた証が残っています。でもこれとて私という口伝者(筆伝者)がいないと次代へは伝わらないのです。幸い私は7年間の短い期間にせよ父と同じ漁師を若い頃経験していますので、父の経験の口伝者と同時に筆伝者として最適な一人であることは間違いありません。ですから本当は父の思い口を開かせ、生きているうちに生まれ育った下灘という漁村の民俗学を少しでも文字にしておきたいのです。

 父の生きた時代や下灘漁村の暮らしは速いスピードで記憶の彼方へ消え去ろうとしています。多分私が手を加えなかったら気付かずに消えていく運命にあるのです。漁村のあれこれは私と同じような思いを持った人たちがその都度私を介して取材にやって来て口述文字にしていますが、残念ながら文章表現は先生らしく上手いものの暮らしや生産活動の共有がないため入り口までで止まっていますし、それらを読んでもこれまた読む人に暮らしや生産活動の共有がないので殆ど伝わらず、老漁師の戯言として消えて行くのです。

 

  昨日私は、わが家の庭の余りにも美しいつつじの花をデジカメで撮ってブログで紹介しようと思いつきました。若いごろガンで顔面を手術した後遺が残っているため、余り写真の好きでない父が菜園で野良仕事をしていたので、「じいちゃん、写真を撮ってあげる」とカメラを向けると「こんな汚い格好で」と嫌がりましたがカメラに収まりました。これがわが人生のルーツである父・若松進・88歳なのです。

 子どもが生まれると今の親はカメラやビデオで成長の記録をします。日々老化する親父の記録も意味があるのかも知れません。そうだ「老化する人間の記録」を、父には悪いのですがやってみよう。

  「偶然に 花と一緒に 撮りました 八十八年 生きてた証」

  「この花も この父さえも 惜しまれて いつかは散りし 定めありなん」

  「ポーズとる つもりが軍手 脱ぎ忘れ それでも片手 花に沿えつつ」

  「五年前 あそこの屋根は 無かったな 親父しみじみ 流れをポツリ」

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shin-1さんの日記

○一周忌法要とうどん

 父の弟嫁、つまり私にとっては叔母になる人が亡くなって早くも一年が経ちました。今日はその一周忌の法要があるというので妻と二人で朝早くから出かけました。この頃は身内の人ともお目出度やお悔やみ以外には中々会うこともないので懐かしい思い出話に花を咲かせました。叔父や叔母も随分歳をとって、ああ高齢化社会だなあと思いつつ、和尚さんの長い読経に正座もままならない姿を見ながら、やがてわが身かなと思ったりもしました。お墓参りも無事済ませ昼食時間となりましたが、田舎のことゆえ、また私の親族は多いので近所の公民館を借りての小宴となりました。料理以外にこちらの地域では法事にうどんがつき物なので、うどん好きの私としては楽しみで、釜揚げのようなうどんを漬け汁に薬味を入れて食べるのです。その美味いことときたら格別で、私は2杯もお代わりをしてしまいました。うどんはうどんの麺と漬け汁が決め手です。うどんは腰の強い麺が好まれますが、最近は冷凍うどんが普及して生麺と変わらないものが多く出回っているようです。

 問題は漬け汁のダシですが、こちらでは大豆と昆布としいたけ、それに煮干しを使います。漬け汁には少し固めの大豆が丸ごと入っていて、慣れない人は「えっ、うどんの漬け汁に大豆が入っている?」なんて驚きます。私たちにとっては普通のことでも、慣れない人には驚きなのです。最近の若者は味噌汁でもダシを取らずにダシのもとで代用しますが、私たちのような古い人間にはダシのもとなどはダシではないと思うのです。上等なダシと上等な醤油で造った上等な漬け汁で食べるうどんはやはり法要の一番のご馳走なのです。亡くなった叔母さんには大変失礼な話ですが、法要もうどんが食べられる楽しみがあるから長いお坊さんの読経もじっと我慢が出来るのです。

 それにしても田舎の人は朝早くから、みんなでコウロクと称する助け合いをしてうどんやお寿司を造ります。親戚内には何人か寿司を作るのが上手い人、うどんのダシを作るのが上手い人などがいて、「あんたがいないとお寿司は出来ぬ」と褒め殺しにあい、結局はコウロクのメンバーとなって最後までコウロクしてしまうのです。

 ところでこの死んだ叔母さんの葬式には私が親族代表のあいさつをしました。その叔母さんの夫である叔父の死んだのが昭和45年、今から36年前46歳で亡くなりました。何とその時も私は親族代表のあいさつをしました。夫婦二人の葬式に二人とも私が最後のあいさつをするなんてと葬式の日に思ったものでした。

  「天国で 叔父に再会 したならば 私も進ちゃん あいさつ伝え」

  「うどんとは 運・鈍・根の 略語なり 三つ揃えば 立派な人に」

  「読経など どっちでも良い 俺うどん 早く食べたい 早く終わって」

  「海と山 産物混ぜて ダシを取る 美味しいはずだ うどん肴に」

 

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shin-1さんの日記

○花見はわが家で

 ゴールデンウィークの話題は季節柄、何といっても花です。砺波のチューリップや東北・北海道の桜など、連日「おいでおいで」と言わんばかりにテレビのニュースで流れています。県内でも「安・近・短」な場所として大洲のつつじや長浜のえびねなど、近場でも楽しめるところがいっぱいあります。花より団子のひとは別ですが、わが家のつつじも100メートル以上にわたって咲き誇り、今が満開で中々見応えがありますので写真を二枚用意しました。

 これは親父の隠居側からたった今撮影しました。意地の悪い事に私が写真を撮ろうとすると雨が降り出しました。花にとって雨は致命傷です。傘でも差しかけてやりたいのですが100メートルも続くとそんなことも出来ないので花はだ残念です。このつつじは平戸つつじで樹齢は25年生です。私がまちづくりを始めた頃、花いっぱいのまちづくりをしようと、自らの畑の岸に植えたものが大きくなったのです。でもこの花の管理も大変で、除草や施肥、消毒、それに冬場の剪定と親父の手を煩わせているからこそなのです。

 もう一枚写真を用意しました。これは反対側から撮影しました。花は左と右、前と後ろでは全然趣が違います。また紫や白に混じって斑のはいったものもあったり、一本に木で3種類の花が咲く珍種もあります。わが家の花は派手さはありませんがわが家の畑から楽しむことが出来るほか、田んぼを挟んだ下の道からも楽しむことが出来、少しずつ近所の人が知るようになって、昨日も「余りにも綺麗なのでと散歩を楽しむ人が飛び込みで見学にやって来ました。花を作った親父にしてみれば見てもらう、褒めてもらうことは無上の喜びで、お茶を出したり海の資料館の見学と、まあ張り切っています。昨日までぎっくり腰で歩きも出来なかった人間とは思えない回復です。

 この花が植えられるまでは杉の防風垣がありました。毎年春先になるとチップソーの刃を付けて剪定をしていましたが、杉の花粉が沢山飛び散るので思い切って伐採しつつじに植え変えました。伐採当時は殺風景で多少後悔していましたが、今にして思えばよかったと思います。

 100メートルのつつじの帯は圧巻です。わが家のように誰もがとはゆきませんが、少しみんなで気をつければ町の景観も美しくなるかも知れませんね。

  「俺の家 只今つつじ 満開で そぞろ歩きの 客が立ち寄る」

  「丹精を 込めて咲きたる つつじ花 母に見せたい 一輪挿しに」

  「窓開けりゃ 隠居一番 桟敷席 母の写真が 毎日見てる」

  「このつつじ オンリーワンの 咲きっぷり 今年も見事 写真に収め」 

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shin-1さんの日記

○苦渋の選択

 「苦渋の選択」という言葉を聞く度に一字違う「苦汁菜」を思い出します。正式な学名は知りませんが、私たちの地方では荒れ地に小指ほど、背丈ほどの小さな木が生えます。その木のことを苦汁菜の木と呼んでいますが、この葉っぱは読んで字の如く香りまで苦い苦い木なのです。そかしこれが料理の仕方によっては山菜として珍味なのですから分らないものです。近所の人に譲ってもらう梅の木の畑にはこの苦汁菜の木がやたらと生えています。草刈木で刈っていくのですが、面白いように倒れて行きます。私は草刈機を使いながら、この苦汁菜の木の新芽を摘もうと思ったのです。急いで水平線の家に戻ってナイロン袋を持って来て柔らかい新芽を袋いっぱい取りました。

 夕方自宅へ持って帰ると、仕事が遅くまであった妻は、叔母の一周忌の念仏に出かけなければならないので、それどころではないという雰囲気でした。仕方がないので昔祖母の手伝いをした記憶を思い出して苦汁菜の佃煮を作る事にしました。

 苦汁菜佃煮の作り方レシピ

 ①苦汁菜の木の新芽を摘む

 ②摘んだ芽を水洗いしながらゴミや硬そうな茎を取り除く

 ③ボールのようなものに新芽を入れて塩でまぶし丹念に揉み解す、揉み方が不足すると苦味が残る

 ④しんなりして苦い悪が出たらよく水洗いをしてきつく絞る

 ⑤絞った苦汁菜を鍋に入れ水はヒタヒタ程度で煮る

 ⑥青が茶色になったら冷水でさらし水気を取る

 ⑦鍋に入れてほぐし水を少なめにして砂糖や醤油を加えて煮る

 ⑧好みに合わせて大粒の梅干をほぐして入れる

 ⑨最初強火、最後は弱火で煮詰めてゆき、最後は水を飛ばして出来上がり

 ⑩仕上げにレモン汁をふりかけ飛ばすと一層味が引き立つ

まあこんなもので、あの苦かった苦汁菜が何と佃煮風になって、お茶漬けの友や酒の肴になって最高です。妻からは「やれば出来るじゃない」と皮肉たっぷりに言われましたが、本当に美味しくできたのですから不思議です。先日妻の友人から苦汁菜の佃煮を少々頂きましたが、あの味よりは勝ったかなって感じです。この苦汁菜の佃煮の欠点はガス代がいることと、手間暇がいることですが、せめて人間牧場の敷地内に生えているものが沢山あるのですから、これからもせっせと挑戦したいと思っています。今日は苦汁菜と一緒にフキも取って帰りましたので、これも佃煮にしなければなりません。

 それにしてもふと気がついたのですが、私のような亭主関白の男が、随分変わったものです。これぞ人間牧場の目指している「自立」なのかもしれませんね。

  「苦汁菜の 佃煮作る われを見て やれば出来るね 妻の一言」

  「飲まずとも 食べる苦汁を 選択し せっせせっせと 佃煮つくりぬ」

  「約2時間 摘みし責任 果したよ いいことなのに 次はよそうと」

  「今日は肩 腰と腕痛 使い過ぎ なれぬ仕事え 体に偏重」



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shin-1さんの日記

○第三期工事・ツリーハウスいよいよ着工

 根上の松というのは聞いたことがありますが、根下りの杉というのは余り聞いたことがなく見たこともありません。ところがその珍しい杉の木が人間牧場の隅にあるのです。多分母がみかんの木と一緒に防風垣で植えた杉でしょうが元は一本の杉の木なのに胸辺りで8本に枝分かれして、その枝がそれぞれまっすぐ伸びているのですが、どういう訳か根元近くからご覧のように枝が出てそれがまた二股に分かれ湾曲して伸びています。この杉を今日から10本杉と呼ぶ事にしました。

 今日は21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーでもあり大工さんの日浅さんがやって来て、ツリーハウスの土台造りをしました。日浅さんの身内の大工さんが2人応援に駆けつけ、文明の利器の機械でで芯出しや水平を見ながらの作業です。何せツリーハウスは木の上、しかも下は急斜面なので、基礎を造るのも一苦労、まず基礎の下に1メートル以上もあるステンレスの鉄管を打ち込み、その上に捨てコンしてブロックを積むという、日浅式とでも呼ぶに相応しい工法で6箇所の基礎部分を造っていました。普通だとこんな念入りな面倒臭い仕事はしませんが、大工の棟梁としての信用もあるんでしょうし、側に地元の大工が立派な水平線の家棟や五右衛門風呂棟を建てているものですから、否が応でも張り切るのです。ツリーハウスは僅か畳3畳の小さな家です。4人がやっと入れる程で、おまけに家の中には生きた樹木がニョッキリ立っているのですから面白いです。

? これが私のイメージを日浅棟梁がスケッチしたツリーハウスです。今日の作業はツリーハウスを支える土台造りだったのです。今日の作業は私の出番はまったくなく、家の高さをどうするか、敷地の境界は何処までか、ウサギ道はどうつけるかなど、基本的な部分のみでした。

 ツリーハウスの資金役0万円はは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが資金源です。既に総会で決定しているので日浅棟梁も安心して仕事に打ち込め、今月末の完成を目指しています。

 それでも私は昨日の朝、人間牧場下にある梅畑の所有者とこの梅畑を譲ってもらうよう交渉し、交渉が成立したので、梅畑の草刈や梅の木にへばりついたカズラの除去作業をしました。梅の木は全部で10本あり。、早くも小梅が沢山実をつけています。私の言い値は少々高い交渉でしたが、交渉は気合が肝心とフンドシをしめてかかったので、すんなり話がまとまって、ホッとしています。梅の木10本、大きな栗の木1本、シキビの木が2本に土地付きですから、安いものです。数日前の工事代金の追加のこともあるので妻にはまだ内緒です。そのうち話しますので内密にしておいてください。お願いします。

  「木の上の 家でワクワク ドキドキと 子供に帰って 遊びまくろう」

  「この杉を 植えた母親 既になく 年輪重ね ツリ-ハウスに」

  「丸木舟 竪穴住居 その次は ツリーハウスと 次から次へ」

  「またひとつ 夢が実現 しそうです 気早い人は 次は何聞く」  


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○お百姓さんの嘆き

 日陰に入ると冷たく感じるのですが、戸外へ出るとさすがに日差しが強く今日は大層汗をかきました。というのも明日からツリーハウスの仕事が始まるので周辺の草を買って欲しいと大工で仲間の日浅棟梁から電話が架かってきました。今日は午前中親戚の初孫初節句に招かれていたので、午後から思い切って人間牧場へ行って草刈を行いました。初節句に出席するためにカジュアルとはいいながらまあまあな服装をしていたものですから、水平線の家に置いてある仕事着を探したのですが残念ながら見つからず、少し厚めの服を着たものですからガンガン汗が出て大変難儀をしました。それでも最近はポンコツで廃品間近な草刈機がここにきてえらい調子がいいので仕事がはかどりました。小さいタンクながら混合油を入れるとかなりの時間持ちますが、こちらの体が持たなくなってきます。それでも胸元まで伸びた草をしっかりと刈りました。特にコンクリート舗装している道路沿いは丹念に刈り付け、見違えるようにきれいになりました。

 今年は数日前野いちごの白い花が満開でしたが、もう大豆ほどの青い実をつけているので、収穫を味わうために残して草を刈りました。また去年までやたらと生えていたいちぢく風の雑木はすっかり姿を消していて、草の力に押さえ込まれた感じがしました。つわぶきや山フキもできるだけ残して刈ったので、何だか虎刈りのような格好になってしまいました。明日は草刈機の三枚刃がかなりちびてきたので、思い切って新しいのを買いたいと思っています。ついでに混合油も購入しなければなりません。

 先日草を引いたり削ったりしたじゃがいも畑のジャガイモの芽も順調に伸びて雨の前にふった肥料が少しずつ効いてきたような感じがして頼もしい限りです。

 草を刈っていると直ぐ下のお百姓さんが家を見せてくれと上がってきました。丁度きりだったので休憩がてら水平線の家の木陰に二人が座って世間話に花が咲きました。彼は私より2級下ですが、数年前に脳腫瘍を患い、一時はかなり苦労をしていましたが、今はすっかり回復し好きなお酒も飲めるようになったとか、それでも病気が病気だけにかなり心配しているようでした。彼の話では農業もかなり厳しいそうで、油の高騰で双美町でも0パーセントくらいの栽培面積が減ったそうです。この集落も高齢化したこと、少子化で子どもがいなくなったこと、農業者年金を止めて一時金を貰う人が多くなったこと、この集落の将来も農業もこのままでは潰れること、死んだ親父さんの代は戦争という悲劇はあったが晩年は後継者もいて一番幸せだったかもしれないなど、積もる話をしました。

 お百姓さんが帰ったので再び草刈を始め、夕方5時半になったのでエンジンを止め今日の作業を終えました。お百姓さんの不透明なそして不安な話が頭から離れないまま下山しましたが、私たちの年代は高校を卒業するとみんな家業の農業を継いで一生懸命働きづめに働いてきました。ふと立ち止まったとき「俺は何のために生まれてきたのだろう」と思う話は見につまされましたし。、今度その話を肴に酒でも飲みながら話そうというと、「必ず呼んでくれ」といって別れた彼は、晩酌のビールを飲みながら今日は何を考えて床に就いたのでしょう。俺も12時が来るのでそろそろ寝るとするか。

  「太陽を 相手に仕事 楽しかろ 聞くとあんたが 羨ましいと」

  「三日前 刈った草丈 十センチ 俺は近頃 少し縮んだ」

  「イノシシが 来るかも知れない 芋畑 そろそろ悔しい 準備をせねば」

  「立小便 海に向かって 気持ちよく 下でおばさん 上を見たよな」


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shin-1さんの日記

○走る広告塔

 都会に行けばビルというビルの屋上には必ずといってよい程大きな広告塔があり、電車の窓から何気なくその広告塔を見るの面白いものです。広告塔は時代の最先端と言われるようにロゴや会社名を端的に分りやすく表現しています。多分一瞬のインパクトとその残像が勝負だからでしょう。ひと頃会社のロゴマークが流行った時代がありましたがそれも終息し、今も様々な商品名が生まれては消えています。

 最近「走る広告塔」なる広告手法が注目を集めています。地方都市の松山市でさえバスの側面や後方に絵柄が飛び出るような写真がプリントされて、「何故こんなに見えるのだろう」と一瞬通り過ぎるバスの行方をを目で追ったりすることがあります。一昨日も飛行好きの孫を幼稚園へ連れて行く途中、バスの側面に飛行機の写真をプリントしたバスが横を平行して走っており「おじいちゃん飛行機、飛行機と興奮気味に騒ぐのです。それからが大変です。やれ窓を開けろとか、もう少しゆっくり走ってとか注文が相次ぎました。そして「おじいちゃん飛行機が何でバスと一緒に走っているの」と質問します。「何で」といわれるから「あれは飛行機に乗ってくださいとバスに飛行機の写真を貼って宣伝しているのよ」というと納得してくれましたが、バスも本当にカラフルになりました。あの宣伝効果は広告費に比べてどのくらいと試算しているのでしょうか。

 あのお堅いJRでさえ、車体の側面にアンパンマンの絵柄を書いた特急が四国を駆け抜けています。あのアンパンマンは漫画家やなせたかしさんの原作で、高知県香北町にはアンパンマンミュージアムまであります。子どもを人質にとれば親は必ずついてくる商法は大きな成果を挙げているようですが、そのことに気をよくしてパンや巻き寿司にもアンパンマンが登場しています。世の中には漫画の世界で正義の味方が多いのですが、一際特異な存在がアンパンマンです。子どもが好きそうなパンやケーキをモチーフにしたキャラクターが次々に登場し、見たいより食べたい雰囲気です。孫が朝パンを食べていると「おじいちゃん、アンパンマンの体の中は何か知ってる」と唐突に言うのです。私は「つぶあん」といったら「何で」と聞き返されました。丁度食べていたパンがつぶあんだったからです。孫曰く「おじいちゃん、アンパンマンの体の中にはジャムが入っているの。だってジャムは赤いでしょう」です。孫はジャムの赤色と体の血の赤色をダブらせたのでしょう。私の一本負け、座布団を2枚取られました。

 原作者のやなせたかしさんは「つぶあんではありますが、偶然にできたものなので、成分や詳しい内容は作ったジャムおじさんでないと知りません」そうです。過去にはカレーあん、クリームあん、栗きんとんあんに変身したこともあるそうです。最近ではパンの生地も小麦粉ばかりでなくアンパンマンの変身ぶりは、テレビで見ている孫の方が随分詳しいようです。

 私も実は「走る広告塔」ならぬ「動く広告塔」の異名を頂いています。日本全国を動き回り自分の町や夕日を売りまくってきました。私の持論は「どんな立派な看板を街の入り口に造っても来ない人には見えないし分らない」です。それなら看板をしょって動いちゃえが私のモットーでした。今私の周りには残念ながらそんな活気ある公務員は残念ながら見るべきもありません。

  「広告が 走る動くの 現代は 人間だって 立派な広告」

  「飛行機は 空を飛ぶもの 孫何故と これもヒントだ 人が犬噛む」

  「アンパンマン 書いた列車が 走るけど 無造作つなぐ 味も素っ気も」

  「広告の 費用効果は いかばかり 結局儲けは 誰の懐」


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shin-1さんの日記

○激安・特価・そして半額

 今朝の新聞折込にお酒の広告が2枚入っていました。一枚はかつて隣の町だった隣の市、もう一枚は隣の市だった同じ市のものです。「えっ、隣の町だった隣の市だって?」。はいそうです。長浜町は隣の町でしたが今は隣の大洲市なのです。また「隣の市だった同じ市」とは伊予市のことなのです。わが町を基点に考えれば一年前まで大洲市はかなり遠い、行くのに40分もかかる街でした。勿論大洲市の中心市街地へ行くのには今も昔も変わらないのですが、大洲市という入り口の看板はわが町の隣、すなわち大洲と合併した旧長浜町に建って隣町になったのです。一方わが双海町は今やこれまた合併によって伊予市の市内になったのです。そのためチラシ広告の世界でも異変が起こり私の住んでいる田舎町でも商圏が拡大したような錯覚に陥ったのか、伊予市と大洲市のチラシが連日のように入るようになってきました。

 今朝のお酒の広告を見て目に付いたのは「激安・特価・半額」という文字でした。特に一枚はチラシの周りを「激安・特価・半額」という文字ばかりで囲って、酒の好きな人への関心を引かせています。例えばビールですが、ビールには定価なるものがあるはずなのですが、価格破壊が起こってまるで二重価格があるかのようです。かつてナショナル電化製品の二重価格が問題になったように、これは問題にすべき事柄のような気もしますが、何故にこのようなことが起こるのでしょう。「ネタ明かしは簡単で当店では『現金仕入れ』だから他の店より安くなるのです」と店長は胸を張るのですが、今のようにアルミ缶を見ただけでは普通のビールも発泡酒も見分けがつき難い私たち世代にはそのからくりはさっぱり分らないのです。

 私は車に乗れますので安い店を探そうと思えば消費者の権利ですから幾らでも探せます。しかし車にも乗れないお年寄りにとってお酒は地元の酒屋以外の選択の余地は殆どないのです。チラシを見ながら、「地元の酒屋は何でこんなに高いのか」と疑わざるを得ないのです。困っているのは地元の酒屋さんです。近隣に安売りのリカーショップなどが出来て、今では注文配達までしてくれるというのですから、客足は自然に遠のきます。もっときついのは「お前とこの店は田舎なのに何でそんなに高いんぞ」と言われることです。「何で」と言った人は「田舎は安い。都会は高い」という根強い認識のずれがあるのです。お酒を飲まない私にすれば、そんな言い争いは「他岸の火事」に等しいのですが、それでも田舎の店の苦しさを思うと何とかならないものかと心配をするのです。

 原価が幾らなのか分らないし明かそうともせずに「激安・特価・半額」といわれても「安い」と判断するほど世の中は甘くはありません。でも「激安・特価・半額」の言葉の魔術にひっかかる消費者が多いことも事実でしょう。「誇大広告」ともとれるこの商戦、果たして成功するのでしょうか。チラシの新聞折込には一枚○○円の折込代が要るのです。まさか折込代まで「激安・特価・半額」ではないでしょうね。

  「激安や 特価半額 ちらリズム そんなに高けりゃ 飲む量減せば」

  「このビール 何でそんなに 安いのか 広告商品 本当にビール?」

  「飲む人に 聞いたが味は 分らない だったら安い 発泡お勧め」

  「酒飲みの 人の名前に 安がつく そういう人も 昔あったか」


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