shin-1さんの日記

○忘れ去られたテレフォンカード

 世の中の流行り廃りを象徴するものにテレフォンカードがあります。あれ程流行った便利なカードでしたが残念ながら携帯電話の普及であっという間に利用価値がなくなり、今は殆ど使われることもなく財布の隅や引き出しに寂しく残っているのです。テレホンカードの専用会社まで作って普及を図ってきたNTTとしては、次世代電話として普及した携帯電話に取って代わられプラスマイナスでは事なきを得たようですが、カード時代にこんな逆転現象が起こるなんて誰が予測したでしょう。

 携帯電話を持った時、その電話料の高さに根を上げて携帯電話は受信専門で、発信は残ったテレフォンカードを使おうと心に決めていたのですが、日が経てば料金よりも便利さが優先し今ではこの一年間だけでも殆どテレフォンカードを使わなくなりました。そういえば身の回りにあれほどあったテレカ専門の公衆電話はいつの間にか姿を消しつつあるようです。シーサイド公園のオープンは平成7年でしたが、公園の入口にNTTにお願いして公衆電話を設置してもらいましたが、最近その公衆電話も取り外されて跡形もなく撤去されました。僅か10年余りの間にこれ程変化したことも珍しいのではないかと思うのです。

 私はこれまでシーサイド公園やイベントに絡んでテレホンカードを10枚程度製作してきました。代理店契約をすれば比較的安く手に入るとあってNTTから千枚単位で買い求めたホワイトカードを印刷屋へ持ち込んで印刷し、一枚五百円のテレかを八百円で販売するテレカ商売は結構売れ行き好調で、オープンした特産品センターでは結構大きな収入源となっていたのです。

 私が手掛けたテレカの殆どは夕日をあしらっていました。夕日夕焼けフォトコンテストの最優秀賞に輝いた作品の版権を、賞金と引き換えに取得し、テレカや名刺、それに絵葉書やポスターとしてやりたい放題夕日のPRに利用したのです。絵葉書やテレカは商品化しても新聞で紹介するものですからよく売れました。テレカ発行がニュースや記事になるなんて今では考えられない不思議な時代でした。

 このカードは最もよく売れた二枚セットのカードブックです。このカードブックに様々な夕日テレカをセットにして発売しましたが、こちらが驚くほどよく売れました。

 私の息子(三男)はテレカを集めるのが趣味で沢山のテレカを収集していました。ですから各地へ旅行した時はテレカを土産に買って帰ったものです。テレカの収集ブックには100枚を越す様々なテレカが残っていますが、処分する気にもならずそのまま箪笥にしまわれています。いずれ時を越えればお宝か歴史の生き証人として日の目を見るかも知れませんが、まあ青春の思い出として大切に保存しておきたいと思っています。 

 私の手元には使わなくなったテレフォンカードが10数枚残っていて使いたいと思うのですが、多分そんなに使うこともなくこのままで終わることでしょう。でも既にお金を払っているのですから勿体無い話ですね。

  「役目終え 机の隅に ひっそりと テレホンカード ただ懐かしく」

  「このテレカ 現金なれば 五百円 換金できず 今はただごみ」

  「穴開いて 通話記録の 傷の跡 誰にかけたか 思い出せもせず」

  「テレかさえ 夕日売り込む 武器にして したたか儲け 昔懐かし」  

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shin-1さんの日記

○池ができたよ

 この暑さの中でせっせと貰った鯉の稚魚のために掘っていた親父手づくりの小さな池が庭の隅に出来上がりました。畳半畳ほどの猫の額ほどしかない池ですが、さすが器用な親父だけあって見事なものです。池が漏るといけないので最後の仕上げはやはり親類の左官さんにお願いして上塗り仕上げをしましたし、水道工事も自分が排水工事はしたのですが給水工事は水道屋さんに傍の防火用水タンクに穴を開けてもらいカランをつけて、あっという間に全てが揃いました。あとは灰汁抜きをして水を溜めると早速鯉の稚魚のお引越しとなるのです。

 そもそもこの池を造る計画は鯉を飼育している馴染みの業者さんから稚魚を貰った一週間前から始まりました。鯉の稚魚を貰う。⇒鯉の稚魚を水槽で飼い始める。⇒餌と鯉の糞で水槽が汚れる。⇒鯉の稚魚を池に入れる。⇒池の鯉が稚魚の餌つつきで餌を食わなくなる。⇒稚魚を水槽に生簀を造って分離する。⇒その生簀の稚魚の行き先のため池を掘る。⇒土木作業をする。⇒仕上げは左官さんに依頼する。⇒給水は水道屋さんに依頼して防火水槽に穴を開ける。⇒完成。てな調子です。

 ご覧下さい。素人とは思えない出来栄えでしょう。もう昔池で使っていた浄化用ポンプまで用意する念の入れようです。多分2~3日後には灰汁も抜けて鯉の稚魚が涼しげに泳ぐことでしょう。

 親父には私にはない違ったおおよそ3つのネットワークがあって、その人たちが足繁くやって来ます。第一のネットワークは鯉仲間です。親父は自分の掘った池で8匹の自慢の鯉を飼っています。大きいのは10キロもあるような凄い鯉で、遠来のお客さんも「立派な鯉じゃねえ」と褒めてくれます。朝底水を抜いて餌をやるのが日課です。こんな小さな池なのに専門業者が持っているような浄化槽設備をつけて万全な飼い方をしているので鯉の見分け方、飼い方何でも一通りは薀蓄を語れるのです。

 第二のネットワークは骨董仲間です。家の横に海の資料館「海舟館」を設置している変わり者で、骨董品を収集したり磨いたりするのが得意で、余り値打ち物はありませんが値打ちがありそうに見せるところが親父の凄さでしょう。普通骨董品が好きなだけならばボロいものを所狭しと並べるのが普通ですが、親父は美的感覚があってそれなりに展示に耐えているのです。勿論自分の造った和船の模型などは玄人はだしで、30数隻の模型がこれまた美しく飾られています。

 第3のネットワークは野菜づくりでしょうか。近所のおばちゃんがやって来ては野菜づくりの話をお茶を飲みながら話しています。親父は若い頃ガンで顔の手術をしていますので人前に出ることは極力控えてきました。特に最近は手術の後遺症で多少よだれが出るため飲み食いの場所は、人に迷惑がかかるからと出ないのです。でもこれら3つのネットワークを持っているお陰で元気に過ごしています。

 親父が何かを始めると私たち家族はハラハラします。88歳になっのだからもう少し穏やかにと思うのですが、頑固でわがままな性格は死なないと直りそうにありません。私も妻も近頃は諦めて怪我をしないように見守るだけなのです。今回の池を掘る計画も孫がやって来て池にでも落ちたら大変と反対しましたが、一向に聞く耳を持ちません。まあいいかと私は思っているのですが妻は「あなたが強く言わないと」と圧力をかけてきます。でも長年一緒に暮らして知っている親父の性格ですから、私が妻と親父のクッションになっています。長男で61歳にもなった私が親父に一目置くこともまあ許せる範囲でしょう。

 私は常々メダカを飼いたいと思っています。親父が掘った池でやがてメダカを飼おうとトンビがアブラゲさらう計画です。「シー、これは内緒の話で言っては駄目ですよ」

  「池できた 灰汁が抜ければ お引越し 親父はまたまた やりたいことを」

  「真似できぬ 八十八歳 挑戦を いやあお見事 今度も一流」

  「親父さん 我流極めて 生きている 俺も見ておれ 今に一流」

  「妻曰く あんたも父も 同じよう だって親子だ 変わるはずなく」

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shin-1さんの日記

○縁日のお接待

 四国は遍路の国といわれるように四国八十八ヵ所があって、1500キロともいわれる遍路道をただひたすら歩く祈りや修行の場所でもあります。各地には遠出できない人々のためにお四国さんというミニの八十八ヶ所が今でも残っていて、地元の人が大切に守っていますが、その基本は「お接待」といわれるサービスです。富める人が貧しい人に与えるのではない、ささやかな心のサービスが祈りの旅にとってどれ程心温まるものかは、お接待を受けたものでないと分らない有難さなのです。

 私の家の入口にもお地蔵さんがあって、私の家では30数年にわたってこのお地蔵さんを大切に守ってきました。昔は道端にあったようですが、道路拡張工事の折道の上に祠を造り、そのお地蔵さんを祠の中に収めて毎月21日には手づくりの幟を立てて赤飯を炊き、パックに入れて10軒余りの親しい近所に配るのですが、最初は母がやっていましたが、母亡き後の今は妻がその役を引き継いでせっせと赤飯を炊いて配るのです。私はできた赤飯を配る程度しかできませんが、妻は民生委員をしているので自分手持ちの独居老人にも配ったところ、老人たちはたいそう喜んで、今に続いているのです。妻が忙しいときは独居老人への配達も私がやるのですが、そのことが独居老人への声かけともなって皆さんから感謝されているようです。

 お地蔵さんに通じる急な坂道は入口に大きな石が組まれその上を覆い隠すように枝垂れもみじが棚いっぱいに広がっていますし、手摺は親父が親類の鉄工所で加工してもらったステンレス製です。最近は姉や友人知人など近所の方のお参りも多く、線香やシキビの花も絶えたことがないほどの信心ぶりなのです。

 このお地蔵さんにハクビシンが住み着いたり、賽銭箱が盗まれたり、これまでにもお地蔵さんにまつわる様々話題がありましたが今はひっそりとして、毎月21日の縁日のみに幟が立つ程度になっています。

 最近の日本人は信心や宗教心が欠けているとよく言われます。オーム心理教などの新興宗教が世間を騒がすものですから、宗教に対する信頼が薄れそうなるのかも知れません。でも日本人の心の支えはやはり宗教心だと思うのです。先祖や人を敬う優しい心を持ったなら、親を殺したり兄弟や近隣が憎しみゆがみあうこともないのです。人は神仏に自分が幸せになるための願い事盛んにします。「どうか幸せになりますように、どうか受験に合格しますように、宝くじがあたりますように」と・・・・・。でも日々の暮しの中で今幸せに生きてることに感謝して神仏に祈るような人は中々少ないようです。幸せが日々の祈りや精進の積み重ねだと思うと、殆どの人の神仏への願いはまさに聞き届けられないことなのです。

 お接待はその代価を求めないところに大きな特徴や意味があります。お接待が何かの代価を求めたら台無しです。よく「私は毎日こんなことをしているのに神も仏もないものよ」という言葉を耳にします。そんな気持ちでボランティアをするのだったらしない方がましなのです。多分私の妻も親父もそんな代価を求めたり「これほど毎月しているのに」なんてことは思って尾接待はしていません。しかし結果的に幸せなのですからこれに越したことはないのです。

 「近頃は縁日の来るのが早くなった」と妻も親父も歳をとったからでしょうかよくいうようになりました。一年で21のつく日は僅か12回しかありません。今も昔もそのことは変わらず、一日24時間もまったく変わらないのです。でも短くも長くも感じるところに人間の喜びや悲しみが隠されているのです。来月の21日は早くも秋の入り口です。また心を込めてお接待したいものです。

  「入り口で じっと見守る お地蔵さん 今月縁日 知らせる幟」

  「接待に 炊いた赤飯 独居人 嬉と喜び 思わず手合わせ」

  「今月も 妻はせっせと お接待 額の汗を タオルでぬぐい」

  「願いなど せずとも地蔵 知っている 日々の精進 だから幸せ」




 

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shin-1さんの日記

○束の間の休日

 次男の演劇鑑賞のため八幡浜から訪れていた妻の友人魚本さんが一昨夜わが家に泊っていたため、魚本さんを八幡浜まで妻と二人で送ることになりました。噂に聞いた人間牧場を見たいという彼女の希望に沿ってまず山の上に上がりました。あいにく海はガスがかかっていて遠望はきかないものの夏の日差しがまぶしく照りつけても吹く風は涼しく、優雅にトンボが飛び交っていました。案内する施設に感動した様子で、長いお喋りとなりました。妻は私と年齢が一歳しか違わないので彼女も既に退職し悠々自適の生活を生まれ故郷の八幡浜で過ごしています。夫に死に別れ子どももいない彼女にとって、早くも始まった老いの暮らしは余りにも不安が多いと述懐していましたが、彼女の目に私たち夫婦の幸せな暮しは「羨ましい」の言葉に凝縮されているようでした。私は今の充実した人生を勝ち取るためにどのような努力をしてきたか、押し付けではない話をしました。彼女も納得した様子で聞き入り、これからも宜しくで山を下りました。

 山道を本村まで走り国道378号に出ると海沿いの道の右側には、盆が過ぎ夏もそろそろ終わりと思われる凪の海が沖合い遠く広がっていました。その国道378号でも一番長いごぜヶ峠のトンネルを越えると、左に4キロ「平家谷の流しそうめん」という看板が出ていましたので、昼時でもあり3人でそうめんでも食おうという話がまとまり、曲がりくねった道を登って道端に車を止めて川沿いを下りて行きました。地元の老人会が運営しているそうですが、夏休みの日曜日、しかも昼時とあって中々の人出で、食券を求めるのも食べるのも長蛇の列でした。幸い結構なお席が確保できて500円分の元は取れたかどうかは分りませんが満腹になりました。この季節そうめん流しも風流でいいものです。

 丁度魚本さんのご主人のお墓と妻の実家のお墓が隣近所ということもあって、人間牧場で確保したシキビと大宝寺で汲んだお水を持って、お寺の境内の裏手にある墓地へ墓参りをしました。暑さ真っ盛りの1時なので、汗が噴出し暑くてたまりませんがふと見下ろした八幡浜湾の遠望は遠くに九州の山並みが見え、これまた素晴らしいものでした。

 八幡浜は隣町の保内と一市一町の合併でかろうじて市としての人口規模を保っていますが、狭い土地柄が災いするのか、人口減少に歯止めが利かず、市でありながら過疎地域に指定されていましたが、今回の合併でどうなったのでしょう。でも港町らしい風情があって、私は妻の実家のあるまちのなので大好きなまちの一つです。

  「束の間の 休日楽しむ 身近旅 話して食って お墓参りも」

  「八幡浜 かつての賑わい 今何処に シャッター通り 秋風吹いて」

  「年代の 同じ人々 喋ること 年金話か 孫のことしか」

  「五百円 出してそうめん 食った後 元は取れぬと 風流語らず」 

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shin-1さんの日記

○私の帽子

 孫が買ってもらった麦藁帽子を嬉しそうに被っているのを見ると、ついつい私も孫に合わせて帽子を被って出かけたくなります。その場合やはり孫に合わせて麦藁帽子にしたいのですが、残念ながら私の麦藁帽子は畑の作業用で人間牧場の水平線の家に置いて帰っています。仕方なく野球帽を被ると孫は「おじいちゃんはどうしてそんな帽子を被るの」と、相変わらず「どうして」を枕詞に話しかけてくるのです。「どうして」と急に言われても返答に困ってしまうのですが、「おじいちゃんはこの帽子が好きだから」と答えにもならない答えをしてしまうのです。

 私は妻が「おとうさんは帽子が好きねえ」というほどに帽子が好きで、頭に帽子を被っていないと何か忘れ物をしたような錯覚をするくらい帽子を被ります。しかし好きな割には帽子をよく忘れて、いつも出かける前に「おい俺の帽子は」と妻に帽子の在り処を聞くのですが、妻もそんな長年の私の質問を心得たもので、「あそこの帽子掛けにあるでしょう」と素気ない返事が帰ってきます。仕方がないので帽子掛けのある廊下へ出てみると、ちゃんと妻が片付けて吊ってくれているのです。帽子吊りにはよく使う5つもの帽子が吊られていますが、その中からお気に入りの帽子を選んで外出するようにしています。私はこれまで色々な帽子を愛用してきましたが、残念ながらお酒が好きな頃は酒の席に置き忘れ、旅先では忘れとその殆どは忘れてその生涯を終えているのです。そんな私を見て妻は帽子に名前と住所まで書いてくれましたが、それでも帽子は帰って来ることもなく闇から闇へゴミとなって処分されたのです。

 そんな中でよれよれになりながらも相変わらず20年間以上も被っている帽子があります。それはシーサイド公園を清掃中に拾った帽子です。シーサイド公園には忘れ物が多く、ラジカセや携帯電話、免許証まで様々です。その都度持ち主を探したりするのですが、帽子やタオルなどはきりがないのでその都度処分するのですが、その中にたまたま帽子を忘れてしまって代用に被った帽子がこれなのです。別にメーカー品でもなく特長があるわけでもないのに洗濯して被り始めると愛着が出て今日までの長い間世話になったのです。残念ながらその写真は見せられませんが、妻はもうこのボロい帽子は捨てたらと言うのですが、私にとってはシーサイド公園の思い出がいっぱい詰まった帽子だけに捨てきれずもう少しご厄介になろうと思っています。

 昨年カナダへ行った折、妻が買ってくれた帽子、双海町時代に町のシンボルマークを募集し、そのデザインを使って青年団が製作したマーク入りの白い帽子、慶事のお返しにカタログで注文し届いたナイキのマーク入りの帽子など、よく使う帽子は先程の落し物拝借帽子に加えこの4つですが、この春結婚記念日の贈り物として息子嫁が可愛らしい山高帽子を贈ってくれました。少しお洒落なのと勿体無い気持ちでまだ贈られた箱に入って箪笥にしまってありますが、よそ行きに使いたいと思っています。

 只今の外出用はこの山高帽子です。昨日もこの帽子を被りましたし、結構重宝に使っています。帽子を被ると少し外出気分が味わえるし、少しお洒落な感じがして嬉しいものです。要はこれらのお気に入り帽子をどこかに置き忘れないことを肝に銘じなければなりません。私にとって帽子は今や時計、免許証、携帯電話、財布とともになくてはならない5つの外出携帯品なのです。

  「帽子何処 いつも妻聞く そこら辺 答える声の 向こうに吊り下げ」

  「孫が聞く どうして帽子 被るのと そんな理由 あるはずもなく」

  「忘れ物 拝借帽子 二十年 よくぞ被った もう時効かも」

  「日除け帽 お洒落帽子と 作業帽 俺の帽子 何と数ある」


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shin-1さんの日記

○家の周りの草刈り

 わが家の敷地は家庭菜園を含めると660坪もありべらぼうに広く、地元の人からは狭い土地柄もあって「いいですねえ。お宅は土地が広くて羨ましい」といわれています。確かに狭いより広いに越したことはないのですが、若い頃とは違って広いということが少々重荷になりつつあります。贅沢な悩みなのでしょうが、有に200メートルはある細長い地形には畦畔と称する斜面があって、隣の敷地と境界をなしているのですが、この草刈りがまた大変な重労働なのです。毎日草を刈ってるお百姓さんならこの程度の草は朝飯前なのでしょうが、夏の暑さもあってまさに汗だくだくなのです。昨日と今日の二日間、といっても昨日午前中3時間、今日午後1時間半をかけて、今年3回目の草刈りをやりました。お陰さまで家の周りがまるで散発をしたようにすっきりとして、「うん綺麗になった」と自画自賛するほど綺麗になりました。

 昔なら炎天下の草刈りで一汗かいてシャワーを浴び、「ビールをぐい」と行きたいところですが、酒を飲まなくなった私はシャワーを浴びて「麦茶をぐい」程度なのです。ビールを飲んでた昔を懐かしく思い出すのですが、酒を止めて6年も経つと体内からアルコール分が完全に消えているため、もう一度飲んでみたいという気持ちには不思議とならないのです。

 家の周りの草刈りは4月に1回、6月に1回、8月に1回、10月に1回の年4回やりますが、自分の都合と父親の助言が優先されます。草が伸びてくると几帳面な性格の父親はそれとなく私に「家の周りの草が伸びた。もうそろそろ刈らんといかん」などといいながら家の裏のドハ草を鎌で少し刈るデモンストレーションをやって私を促すのです。若い頃はそんな親父の言葉や行動が何とも嫌で、言われれば言われるほどまるでアマノジャクを決め込んだものでした。しかしそんなアマノジャク的な元気も今は失せて、自分の家を守る当然の仕事として草刈りをするようになりました。今回は草丈が比較的短いなと思いつつ草刈機のエンジンをふかし作業を進めました。前回何時草を刈ったのか記憶にありませんが、今日は台風の去った後の吹き返しのような生ぬるい南風の吹く中でいい汗をかきました。

 何年か前双海町の海外派遣研修事業の団長としてオーストラリア・ニュージーランドへ研修生を引率して行きました。ニュージーランドではホームスティをしましたが、何処までも広がる牧草の中にこんもりとした緑の森があって、その中にポツンと一軒まるで絵に書いたような家がありその家に泊めてもらいました。中庭には芝が植えられご主人が芝刈り機で芝を刈るのが日課だと言っていました。わが家もそれを見習って少し裏庭に芝を植えてみましたが、芝どころか芝の中に雑草がはびこって結局は失敗に終わってしまい、芝をはがして今は小砂利を敷き詰めています。理想と現実は違うと実感したものでしたが、ニュージーランドのご主人のようではないにしても、生える草を恨んだり何で私がこの草を刈らなければならないのか腹立たしく思ったりすることなく、草刈りを日課にするような優雅な心を持ちたいものです。

 親父が船を下りた70歳から88歳になる今日まで、家を守る作業の殆どは親父の仕事として位置づけられ、親父も元気の源としてその作業に誇りと生きがいを持ち続けてきました。その親父も「来年はもう」などと弱音を吐くようになり、その作業の量が少しずつ私に移りつつあると実感するようになりました。庭木の剪定も中庭の草引きも大変と思えば大変です。優雅な気持ちでとまではいかなくても思いを持って親父に近づきたいと思っています。

  「草を刈る ただそれだけの 仕事だが 俺もそろそろ 腹を決めねば」

  「田舎ゆえ 空気は美味いし 水だって 自慢の裏に 草刈る義務も」

  「散髪を したよに綺麗 わが屋敷 草刈り後の 美しきかな」

  「年金を 貰える意味は 後がない それに収入 なくなる日々だ」

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shin-1さんの日記

○凄いね1034という数字

 毎日少しづつ積み重ねた数字が1034です。「えっ、何の話」とお思いでしょうが、これは今月に入っての私のブログ「shin-1さんの日記」にアクセスし読まれた方の8月18日現在の人数カウントなのです。それに昨日の55人を加えると1089人、一日平均57人という私にとっては驚異的な数字なのです。先月から私の所属するアメーバーブログのトップページがリニュアールされ、自分のアクセス数が毎日累積されるようになってきました。不思議なもので毎日開けるトップページにはこのカウント数が毎日出るものですから、それまで余り意識しなかったのに最近はこの「読者」たる数字が妙に気になり始めたのです。

 「メールを読みました」とコメント欄やEメールで感想を入れてくれる人は、匿名にせよ氏名公表にせよ相手の顔がおぼろげながら想像できるのですが、毎日、時には80人もの不特定多数の人が私のブログを読んでくれているのです。時々出会う友人から「毎日ブログ楽しく読ませてもらっています」とか、「ブログの写真を見ました。お孫さんも大きくなりましたね」なんて会話を直接話す人もいて、ブログを餌に様々なお喋りが飛び交っています。

 昨日出会った「えひめ地域づくり研究会議」のメンバーからは、私のブログの活字量と一日2本程度の話題量について「凄い」と褒めてくれました。私もブログを書く手前、仲間や友人、知人のブログをよくアクセスして読みます。確かにその方たちは忙しい人なのでしょうから活字量も少なく、話題量も私のように毎日2本程度ではなく、一週間に一本程度の人も案外多いようです。私が多いのか少ないのかは自分でも正直いって分らないのです。昨年の9月に娘婿に勧められてブログを始めた頃は、一日一本でもそれは大変な苦痛でした。どんな話題を書けばいいのかさえも分らず、また書き込んだ文字の変換ミスを直す方法さえ分らず右往左往したことを思うと、文章の出来栄えは別として僅か一年で凄い進化を遂げたことになるのです。

 文章をブログに打ち込みながら思うのは、「文章を考えるのも朝昼晩、飯を食ったりトイレへ行ったり、眠ったりする暮しのリズムのようなもので、リズムに組み込まれると案外何てことはないようになるものなのです。朝起きて一本、夜寝る前に一本、てな具合で書いた結果が今の自分なのです。ですから一週間に一本程度の人から「凄い」と言われても別にどうってことはないのです。

 文章は毎日書く癖をつければ案外早く、組み立て作業が頭の中でできるようになります。最初1時間かかった一本のキジも30分に短縮され、誤字や脱字も少なくなって読みやすくなるようです。小説家は毎日筆まめに書くことを仕事にしているから上手く書けるのだと思うのです。今は文字を忘れてもキーボードを叩けば簡単に幾つもの文字が出てきて、その中から探せばいいのですから辞書を引くこともなく随分楽な作業です。ただ検索能力は発達しますが、人が言うようにペンで直接書く時代から比べると文字を書いて覚えたような記憶力が減退することだけは確かなようです。

 「よくもまああんなに毎日書くことがあるねえ」と感心されることも時々あります。自分でも驚くのですが、パソコンの前に座ってブログのトップページを開けると、書きたいことが浮かぶようになったのですからこれも凄い進歩です。「記事ネタは足元」と思うようになりました。身近な話題は足元にいっぱい転がっていて、案外その話題や文章の方が読んでも楽しいことが分りました。立派な文章を書きたいと肩肘張り過ぎて書くのに苦労した初期の頃は、書くために色々な本を仕入れて、まるでパクリのようなことをしていましたが、今思うと作者が書いた本のようなことを書いても何の面白さもないことが分ってきたのです。

 カウント数は自分のブログの出来栄えとは余り関係はありません。でもカウント数によって目には見えない読者の存在を意識することは一方的といわれるインターネットの世界で、相互交流ができる別な楽しみ方なのです。私はブログとメールで新しい交流の世界を楽しんでいます。

  「ブログ書く これが日課に 加わって 退職したけど 結構楽しく」

  「不味くても 俺のブログを 読む人が こんなにいるの 嬉しくなって」

  「俺のこと 何でこんなに 知ってるの 知ってるはずだ 知らせているから」

  「文章も 新鮮一番 古くなりゃ 不味いはずだよ 食い物同じ」 

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shin-1さんの日記

○演劇鑑賞

 わが家の次男「一生」は今年8月16日でで31歳になりましたがまだ学生です。高校を卒業して直ぐに就職しましたが4年前に一念発起して看護士の道を志し、看護学校に入学しました。この学校は3年で準看護士資格を取得し、更に専攻科で勉強そして正看護士を目指すのです。私たち素人目から見ると5年間は気の遠くなるような時間と思われましたが、早いもので来春には卒業して就職するため、今は5年目の実習をしながら就職活動をしています。

 その次男は仕事や学習の合間を縫いながら演劇活動をやっています。そもそも次男が演劇と関わったのは長男が出した劇団のオーディション応募の一枚のハガキがきっかけでした。少し内気で控え目な弟に自信をつけさせようとの思いからハガキを出したのです。その話を聞いた弟は激怒し「僕はオーデションには絶対に行かない」と粘っていましたが、明くる日ちゃんとオーデションを受けに出かけたのです。ところがオーデションの何であるかも知らぬままの受験でしたが、何とオーディションに合格してしまったのです。それからは小中高と一貫して入っていたサッカーの部活も止め演劇へとのめり込んでいきました。息子の所属する劇団は松山を活動拠点にしている「イリュージョン」という劇団で、井上佳子さんが作や演出を手がけています。

 あれほど内気で人の前へ出るのが恥ずかしかった次男は演劇によって大きく成長し、親目からも進化の後がうかがい知れるのです。今では演劇の振り付けを任されるまでになって、自信溢れる演劇活動をしています。

 今日は年2回の劇団の公演日です。妻は息子のために友人を演劇鑑賞に招待しました。今日と明日の二日間の公演ですが、私は妻の友人のアッシー君として同じ車を運転して同行しました。妻の出身地八幡浜からは魚本さんがわが家に泊りがけでやって来ましたが、顔も見覚えのある方なのですっかり打ち解けて松山の橋本さんと4人で開演までの束の間を食事をしたり堀の内界隈を散歩したりと、久しぶりにゆっくり時間を過ごしました。入場は6時半、開演は7時なのですが、開演前には長蛇の列ができて私たちも並んで入場し、自由席なので比較的前のいい席が取れてホッとしました。今日は少し早めに行ったため、無料駐車場へも車を止めることができラッキーでした。

 毎年のことながら加戸知事さんご夫妻も鑑賞に来られ、いつの間にか会場は殆ど満員の状態でした。やがて幕が開き途中10分の休憩を含めた2幕で2時間半の長い演劇でした。これも親の欲目でしょうか息子の踊りは劇団中他の誰よりも上手く、随所に息子のキラリ光る出番があったように思うのです。代表の井上佳子さんとも立ち話をしましたが、息子の成長に目を細めているとのお話でした。

 舞台は実力者の塩見さんが手がけているだけあって、凝った、それでいて美しい雰囲気を出して違和感はまったくなく、いやそれ以上に演劇を目立たさせる仕掛けが随所に感じられました。カメラの撮影は演劇ではご法度なので控えておりましたが、最後のの幕が降りる瞬間とカーテンコールの拍手で再び開いた場面を写真に収めたのです。

 これが松山市民会館中ホールの舞台です。鳴り止まぬ拍手の中で幕が下りましたが、衣装も舞台も素晴らしいものでした。

 さて今日の演劇の演題は「RENEWtheアース「シムルグ鳥の予言」という子難しい名前のミュージカルです。これは告知ポスターですが誰が書いたのか実に上手く表現されていました。

 内容は戦争や環境悪化などこれほど文明の進んだ地球上で、今なお起こっている様々な問題を取り上げ、未来への警鐘をメッセージしているのです。最後のシーンはかけがえのないこの地球を汚した人間が、再び人間の力で復活させなければならない 

作という者の意図がビンビン伝わって、久しぶりにいい演劇を見た満ち足りた心で大きな拍手を送りました。

  「十四年 続けた演劇 凄いです 知らない世界で 子どもは育つ」

  「夜遅く 帰えりきたのは このためか 日々の練習 さぞやお疲れ」

  「若松と いう家彼の ような人 おらぬかしげる 新人類?」

  「公演が 終わり息子の 目に涙 感動したか 俺も感動」 

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shin-1さんの日記

○雨の中での集会

 昨日は台風の影響で県下全域に大雨警報が発令され、わが双海町でも時折激しく雨が降りました。そんな中私が代表を務める「えひめ地域づくり研究会議」の、2ヶ月に1回の定例運営委員会が人間牧場で開催されました。普通運営委員会は松山の地域政策研究センターで開くのですが、時折地方に出て会議をやるのです。運営委員の面々の中にはまだ人間牧場へ来てない人もいて、折角やるのなら人間牧場でと門田さんの発案で計画されましたが、その発案者たる門田さんが所用で欠席ですから面白いものです。

 今回の台風10号は速度が遅く、「ゆっくり北上」なんて表現がまる三日も続いていて、上陸したり通過した九州地方の皆さんは大変だったに違いありません。愛媛は四国山脈の陰に隠れて大した雨でもなくホッとしている、いわば恵みの雨だと誰もが感じるほどの貴重な雨だったようです。それでも朝から運営委員会に出席予定の皆さんからは「雨だがやるの」とか、「尼が降ると危険ではないのか」などなど、様々な問い合わせが寄せられましたが、スケジュールの詰まった方ばかりなので思い切って決行する事にしました。中には雨で来れない人もいたと思うのですが、屋根を叩く雨音やウッドデッキを濡らす雨模様を見ながらの会議をするのも風情があって、時折霧が晴れて瀬戸内海や山並みが見える眺望に、一同感激の面持ちでした。

 「えひめ地域づくり研究会議」は結成以来20年目を迎えます。今日はその20周年を記念して既にスタートしている県内リレーシンポと20周年記念誌の発刊が議題でしたが、それぞれの担当分野で原案が作成されているので案外スムースに2時間の議論を終えました。

 5時半からはそれぞれが持ち寄った酒や肴を肴に小宴会です。私の高座用の魚梁瀬杉座卓の周りに思い思い陣取ってワイワイガヤガヤ楽しい宴会となりました。折角の集会ですからオードブルでもと思ったのですが、ゴミを出さないで持ち帰り、調理をしない、できるだけ質素にという人間牧場の掟に沿って四方山話に花を咲かせました。わが「えひめ地域づくり研究会議」は県内でもトップクラスの活動家の集まりなのでお喋りも味があって内容が深く、いい学びができるのが特徴です。この日は優秀な事務局職員が製作した私と亀岡徹さんのプロモーションビデオが上映され、笑いと感動と反省でいつになく盛り上がりました。

 

 お手玉遊びを全国的なイベントに育て、今や海外とも交流している仕掛け人である新居浜の武田さんは、時折晴れるウッドデッキに出て私の説明の向こうに見える眺望を存分に堪能していました。来週末にはお手玉全国大会と私たちのリレーシンポが新居浜で開催される予定で、その準備や運営に忙しい日々が続いているようですがご自愛の上頑張って欲しいものです。

 昨日の人間牧場から見える風景も雨や霧で一寸先が見えないような時があるかと思えば、時折陽が差して雨上がり特有の瑞々しい光景が一望でき、平穏な晴れた日よりも表情が豊かで、海は空を写す鏡のように鉛色ながら刻一刻変化して美しいと誰もが褒めてくれました。

 私は「えひめ地域づくり研究会議」の役員を結成当時から二十年にわたって務めています。もうそろそろと何度か思いながらあっという間に二十年が過ぎました。二十年前の幼稚だった地域づくりの理論や実践は私にとっても研究会議にとっても大きく成長してきましたが、地域づくりに対する情熱と実践は今でも、いやむしろ今の方が高いと自負するのです。若さとは年齢ではなくその想いの量と質がどれだけ高いかで決まるのです。その意味では研究会議の運営委員は皆若いです。魅力があります。まだまだ進化するようです。

  「雨の中 想い集めて 知恵を出す 頭も外も 澄み晴れわたる」

  「美味かろう 手持ちの品を 自慢して 飲み食い三昧 これぞ至福だ」

  「酒ありて 元気和やか 友の顔 俺も昔は こんなだったな」

  「二十年 そんなに経ったか 早いもの 時の流れの 速さ驚く」


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shin-1さんの日記

○文化とは何か・西土佐(20-11)

 トインビーは「文化とは航海である」と言いました。今東光は「文化とは決まり事が守れて街が綺麗こと」と言いました。ある県庁の課長さんは「文化とは何か」という質問に「文化を一口で言うのは難しい」「じゃあ二口で言ってください」「・・・・・・・・・」。亡くなった柳川市の広松伝さんは「俺の街は夏になると掘割に蚊がわいてブーンと飛ぶから文化だ」と笑って答えました。当然あちらこちらで話す機会の多い私に対しても「文化とは何か」という同じような質問が度々寄せれれます。これらの発言や質問でも分るように分っているようで分らないのが「文化」だと思います。さて「文化とは何か」と問われたら皆さんはどう答えるでしょう。広辞苑を引いてみました。「文化とは文徳で民を教化すること」だそうです。分りますか?、益々分らなくなってきました。「世の中が開けて生活が便利になること」「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住はじめ技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む」文明と同義語。「西洋では人間の精神的生活に関わるものを文化と呼び文明と区別する」と書かれています。文化とは左様に分りにくいものなのです。

 私は「文化とは人間がよりよく生きるために考えを形にする営み」だと説明しています。お茶を飲むことは茶道、花を活けることは華道、文字を書くことを書道、武術を習うことを武道などなど、人間はよりよく生きるためによりよい道を求めてきたのです。

 ところがつい最近、文化行政なるものが流行り、東京発の文化や芸術に触れることが文化だと思ったり、文化会館の立派なのを造ることが文化だとはき違って思っている人が多くなってどのまちも高いお金を出して文化会館の立派なのを建て、利用されぬまま高いメンテナンス料金に悲鳴を上げている市町村が多いことに驚くのです。特に平成の大合併を予測してまるで駆け込み寺のように訳も分らないほど文化会館が建ってしまいました。

 そもそも日本の文化はアグリカルチャーという言葉で表現できるように農耕文化が基底にあるのです。日本文化の基本である農業が機械化や大規模化によって自然の成り行きが無視され、あたかも人間が自然を征服したかのような振る舞いをするようになってきました。文化の基底である農業が危ないのですから文化も危ないのです。

 昨日四万十市西土佐の高台にあるふれあいホールという立派な文化会館をぶらり訪ねました。運良く顔見知りの中平所長さんがいて案内してもらいました。外観もさることながら中の立派なのには目を見張りました。失礼な言い方ですがこんな小さな村にこんな立派な施設があるなんてまさに驚きです。

 固定椅子と移動用椅子を並べると600人は有に座れる、5億円規模のホールです。今は教育委員会が管理するため事務所移転しいますが、説明によると稼働率20パーセントだそうです。それでも地元の太鼓集団が練習場に使っているのでそれなりの成果は上げているようですが、それとて地元が故に利用料金を取ることもできず、四苦八苦しているようでした。

 見学をしていた矢先外は激しい雨が降り出しました。ところがどうでしょう屋根天井を叩く雨音が激しくなって容赦なく室内に聞こえてくるではありませんか。「はいこれがこのホールの欠点です。でもこれも自然的でいいでしょう」と苦笑していましたが、室内で楽器の演奏中に雨音が聞こえたらコンサートも興ざめするかもと一人気を揉みました。

 見てくださいこの天井。まるで東京の一流ホールのような雰囲気です。思わず天井を見上げてパチリ写真に収めました。

 私のまちでもひと頃文化ホールを造って欲しいと隣の町のホールを羨んで多くの希望がありました。でも年間利用計画と投資額の差、ならびにメンテナンス費用が膨大で、結局は造らなかった経緯があります。もし仮に私のまちが文化ホールを造っていたら間違いなく今はお荷物になっていたに違いありません。その時私は町民への文化ホールを建てない理由を「隣町の文化会館を1ヶ月に1回借りて利用者をバスで送迎してもまだその方が安上がり」と説明したのです。勿論建てれば文化団体が育つなど副次的な効果はあるかも知れませんが、それでも全国に起こった文化ホール乱立の無意味さを分ってもらったと理解したものです。でも結果的には合併しそんな予算は組まれるはずもなく、説明責任を果せないでいる自分を悔やんでいます。

 要は文化ホールがあるから文化度が高いのではなく、文化ホールを必要とする時文化度は高くなるという事実を行政も住民も気付かねば、この文化ホールは無用の長物になってしまうのです。そのヒントは旧丹原町、今の西条市丹原町の文化ホールの運営にあるような気がします。一度ご覧あれ。

  「文化とは 何か分らぬ 行政が ホール造って お茶を濁して」

  「このホール 立派なけれど 雨の音 自然とコラボ 時代先取り」

  「天井は まるで東京 丸の内 ただし耳だけ 塞いでみれば」

  「教育を 全て任され その上に ホール任され 課長大変」 


 

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