shin-1さんの日記

○久しぶりの東京

 約1ヶ月ぶりの東京です。田舎に住んでいると周りが全てにスローなものですから、たまに東京へ行くとその落差に戸惑うこともしばしばです。電車はすし詰めギュウギュウで、まばらにしか人の乗らないわが町を走るローカル各駅停車の列車が懐かしく感じられます。人は小走りに歩き、私のような短足純日本型の両足がいくら足しげく歩いても追いつくことは出来ない速さなのです。群集が街のあちこちに溢れ、第一村人発見なんてもんではなく毎日がお祭りのような賑やかさです。でも何故か電車に乗っても肩と肩がつき合わせても誰も声を掛ける人もいないのです。これが都会なんだと思ってみても、やはり石川啄木ではないが「なまり懐かし停車場の」てな感じでやはり東京に行くと田舎が恋しくなるのです。

 最近私は何故か新宿に縁があってよく歩きます。昨日も目的地が新宿から地下鉄京王線に乗って2つ目の駅であることから、旧友と新宿副都心にある京王ホテルのロビーで待ち合わせすることにしました。このホテルの宿泊者は外国人が多くまるで外国にでも来たような錯覚さえするほどでした。再会を懐かしみ土産を交わして旧友は仕事の都合で去って行きましたが、私はまだ間があるので東京都庁あたりを散策しました。少し残暑を感じるものの戸外のケヤキ並木は吹く風を爽やかで、青い空にどこまでも伸びるビル群を仰ぎ見ながら都会の雑踏の中に身を任せました。

 さすが世界に冠たる東京です。このビルなどアメリカマンハッタンのビルも顔負けで威風堂々と立っています。新宿は街も綺麗で政治や経済の中心地だけある重厚なビルディングが、見上げるとわが身に被さって来るような錯覚を覚えるほどでした。都庁の前では拡声器をいっぱい高くしてまるでがなりたてるように革新政党が小泉政権や石原都政を痛烈に批判し、聞くでもない道行く人に切々と訴えていました。

 面白い光景を目にしたので思わずカメラを向けました。東京都庁の近くにあるモニュメントなのですが、まるで矢印のようで、「これが限界」と思うのか、「もっと高く」と思うのかは人それぞれでしょうが、われながら面白い写真を撮ったものだと大威張りしたいような一枚に偶然写っていました。

 都会は何かと便利で、電車も3分から5分おきに通っているので公共交通機関を使えば何てことはなく目的地まで行けるのですが、地下鉄に下りたり上がったりするので、相当な距離を歩かなければなりません。私は元気だし歩くことはそんなに苦痛ではないのですが、昨日だけでも携帯兼用の万歩計は有に一万歩を越していましたから、都会の人の健脚ぶりがうかがい知れます。田舎の人は玄関から目的地まで車で移動するためかえって田舎の人の方が足腰は弱いのです。

 新宿の高速バスセンター前のヨドバシカメラに立ち寄ってパソコンやデジカメを見て回りました。まだ買うつもりはないのですが、パソコン業界の技術革新は目覚しく、私のパソコンなどここへ来るともう電子ゴミみたいな感じさえするのです。店員さんが近くに寄ってきて、「お客様パソコンをお探しですか」と丁寧に売り場まで案内してくれて説明をしてくれました。私が今欲しいのは携帯用の小型のパソコンです。私は旅に出ることが多いので、旅に出たときはブログも書けないのです。その場合少しイライラが募るため何とかしたいと思うのですが、30万円程度の出費は妻に言うことも出来ず、まだ旅先の船や待合室でパソコンを打ってる人を余り好きではない自分の姿もあるのです。宝くじは買わないから当らないし、昔懸賞論文に入賞してワープロを買ったようなことでもしない限り高嶺の花のようです。まあ欲しいものがあるということはいいことだと、東京へ行く度にパソコン売り場を除いてみたいと思っています。

  「東京が 遠くなったり 近くなり あちらこちらと 歩いて発見」

  「秋篠の 宮妃出産 東京を 去った明くる日 マスコミで知る」

  「欲しいもの いっぱいあって どれにしよ 迷った挙句 何んにも買わず」

  「ふるさとに 帰れば何か もの足らず 長閑に暮れる 秋の夕暮れ」  

 

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shin-1さんの日記

○夕張市の激震

 市町村合併が進んだのは時の流れでしょうが、合併と同時にどの自治体も再編による合併効果が出てもよさそうなものなのに何故か「金がない」という言葉を盛んに発しています。それもそのはず適正規模とはほど遠く、職員の数は元の職員を全員解雇することもなく雇用し1+1=2になってしまったのです。勿論過渡期ですから旧市町村が抱えていた事業も地域への配慮から切り捨てることもなく1+1=2となっており、これでは誰が考えても経費削減どころかばら撒き行政のそしりをぬぐえないのは当たり前の理論なのです。

 北海道のほぼ中央、札幌市から約60キロ離れたところに旧炭産地夕張市があります。良質な石炭に恵まれエネルギー供給基地として戦時中は増産、戦後は日本の高度成長時代を支えてきました。石油の普及と安価な輸入炭に押され90年に炭鉱が閉ざされました。人口はピーク時60年の11万7千人が11パーセントの1万3千人にまで落ち込んでいます。しかし一方で夕張メロンやゆうばり国際ファンタスティック映画祭などで街存在感を示し、まちづくりの成功事例として各方面で紹介されてきました。

 この街を一躍有名にしたのは90年に竹下内閣のふるさと創生一億円を活用して始まった映画祭でした。その年24を数えた夕張のヤマ(炭鉱)の最後の一つが閉山し、街は炭鉱から観光へと方向転換したのです。毎年2月の寒い頃の5日間、一面銀世界ローケーションが集まった人々の心を引き付け「映画のまち夕張」を定着させました。

 その夕張市が財政破綻したのです。普通自治体は県や国の手厚い庇護や指導を受け、毎年中期長期の財政計画を立てながらその見直し作業による自生完全科の道を歩んでいるはずなのですが、今年の6月20日自治体の倒産に当たる財政再建団体への移行を発表したのです。負債総額は聞いて驚く632億円だそうですが、単純計算すると大人も子どもも含めて1万3千人の夕張市民一人当たり4百861千円の負債というから驚きです。なんでこんなになるまで気がつかなかったのか、市長や議会、職員の職務怠慢としか言いようがなく、寝耳に水の市民の驚きと怒りは相当なものだろうと推察するのです。

 映画祭の運営は約1億円の経費がかかりますが、そのうちの7千万円が市の補助金で賄われていたことを考えれば、映画祭の末路は非をみるより明らかです。7月31日開かれた市長が運営委員長を務める運営委員会は僅か20分で中止を決定し終わったのです。「金がなくなったら止める」こんな単純な発想でイベントが消えてゆく姿を、ただ夕張の他岸の火事として見ることは出来ないのです。こんな事例は合併後の街にはニュースになるかならないかでどこにでもあることなのですが、いよいよ「金がなければ知恵を出せ、知恵がなければ汗を出せ、汗も出なけりゃ辞表出せ」になりそうです。

 市内の丘には高倉健さんが主演した「幸福の黄色いハンカチ」のセットがそのまま残って、今も黄色いハンカチがはためいているというテレビの報道が何かむなしく聞こえてきました。

 夕張市の財政破綻のニュースは日本全国に激震となって走りました。この事例が基で、財政再建団体になったら大変と益々財政の締め付けは強くなって、映画祭のような個性あるものが姿を消そうとしているのです。一方で は地域の個性をといいながら一方では地域の個性が消えてゆく、寂しい限りです。

 今年も北海道の知人から夕張メロンが届きました。半分に切ると夕張メロン独特のオレンジ色の果肉と香りがプーンと漂い、何ともいえない幸せ間に浸りながら北の台地にある夕張を思い出しました。債権団体になったからといって夕張メロンの味が変わるわけではありませんが、一日も早い財政の健全化を祈っています。

  「自治体の 財政破綻 結局は 市民にしわ寄せ 誰の責任」

  「送られし メロン食べつつ 夕張の ヤマが消えた日 思い出しては」 

  「夕張に 黄色いハンカチ はためいて そんな日の来る ことを願いつ」

  「さて俺に 宝くじなど 当たったら 映画祭費に 寄付をするのに」

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shin-1さんの日記

○スローフードという言葉とジャコ天

 昨日の愛媛新聞の一面「道標」という企画記事に「スローフード」という言葉の意味を食のジャーナリスト大本幸子さんが詳しく書いていました。

 「あなたが食いしん坊でなくっても、「スローフード」という言葉を、一度や二度は耳にしたことがおありでしょう。さてクイズです。スローフードって何?。①ゆっくり食べること。②月日や時間をかけてつくる料理や食品のこと。③郷土料理のこと。④ゆったりとした気分になれる料理のこと。答え。どれも不正解。実際のところ、日本では右のいずれかをスローフードと称する場合もありますが、スローフードってそもそもはファーストフードの脅威を覚えたイタリア人たちが考え出した伝統食回帰運動のことなんですよ。時は1986年、マクドナルドがローマのスペイン広場へ出店したしたことから、あの時代、ハンバーガーとコーラ文化が世界中の若者を魅了していたことはご存知の通り。90年にはモスクワ出店で話題を呼びましたよね。  ー中略ー  しかし、これではいかんだろう、うちの土地の生産物はどうなる、と危惧した北イタリア、ブラの町の人たちが、ファーストフード侵攻に伝統食を消されてよいのかと声を上げたところ、国内外から賛同者が続出し、世界的なスローフード運動となったわけです。

 この運動が世界に共感を得たのは、単にファーストフードは悪いと言い立てるのではなく、前向きに理念を定めたことでしょう。すなわち①現状のまま放置しておくと消滅する恐れのある伝統的な食材、料理、質のよい食品、酒を守る。②現状のまま放置しておくと消滅する怖れのある質の良い食材(農産物、酪農製品など)を、複数人で育て提供する生産者を守る。③消費者に伝統の味の教育を進める。概要としては以上。関係者でなくても、それは」大切だと思いますよね。この運動は、島村菜津さんの著書『スローフードな人生』(新潮社)などによって日本にも知られるようになりました。

 でもわれわれ日本人は横文字に弱くて、おまけにスローって言葉がとても情緒的なものだから、本来の意味を知る前に、心の琴線が震えてしまったのですね。スローって何だか素敵。間をおかず、スローライフという言葉が出現し、後は続々、スローな郷土料理、スローな酒、スローなインテリアなどなど、スローがつけば何でも売れる様相。『スローフードな旅』とは、脱都会美食会一泊旅のことでした。でもいいんです。そんなの宣伝文句なんですから。そういう表現があっても。でも、本来の意味をちゃんととらえないで、情緒だけを独り歩きさせてしまって、本家本元に仰天されるようなことになると、ちょっと困っちゃいますよ。  

   -後略ー

 同感した記事でしたが、私の町ではこのスローフードとファーストフードを組み合わせて成功した食べ物があります。それはじゃこ天です。じゃこ天は愛媛の伝統料理です。昔はまな板の上で小魚を叩き、それをカガスに入れてつなぎとすり合わせてつみれを作り油で揚げたシンプルなものです。これは多分スローフードと呼ぶに相応しい食べ物です。このじゃこ天に串を刺して歩きながら食べるというファーストフード感覚を取り入れたところ、ふたみシーサイド公園の名物食べ物になって、今や行列の出来る店となって年間5500万円を売り上げるようになったのです。スローフードに名を借りた商売やファーストフードを悪いと決め付けるのではなく、どういう折り合いをつけて現代風にアレンジするかは知恵の出しどころだと思うのです。だっていくらスローフードがよいからといっても、消費者に敬遠されるような食べ方や売り方では商売が立ち行かないのではもともこもないのですから・・・・・。

 若者の暮しと私たち古い時代の人間の暮しには大きな開きがあります。私たちはものを歩きながら食べたらお行儀が悪いと厳しく躾されました。しかし今の若者は歩きながら食べるのがファッションだし食文化なのです。歩きながら食べることは今でもいいとは思いませんが、そのことだけを大上段に振りかざしたところで、「あんたは古い」と言われるのが落ちなのです。

 世の中には流行があります。でも大本さんのいうように、スロ-フードを履き違えないようにだけはしないといけませんね。

  「串刺しの じゃこ天片手 ビールぐい 格好いいねと 言わんばじかりに」

  「スローフード ほんとの意味を 知ってるの 言いたくなるよな フレーズ乱れ」

  「イタリアに 意味の語源は あるという 知ってか知らず 誰でも口に」

  「新聞を 読んで知らない 知恵学ぶ 俺また一つ 利口なったり」

 

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shin-1さんの日記

○孫の一日

 母親の仕事の都合で最近は頻繁にわが家へやって来る孫朋樹の成長は著しく、一週間会わないとヘーと驚くほど成長しています。特に言葉遣いは幼稚園で覚えるのでしょうが、変な言葉を連発します。「言うーちゃろ言うちゃあろ、先ーん生に言うちゃあろ」なんて言葉を奇妙な節をつけて連発するのです。また妻のことを普通は「ばあちゃん」と言うのに、時たま「ババー」なんて呼び方をするものですから、妻の叱責をかっていることもあるのです。

 今日は娘が夜勤の日なので久しぶりに昼寝をさせました。2時間くらい寝たでしょうか。そのうち目を覚ましたので「朋樹君よく寝たね」と優しい声を掛ければ「まだ眠てない」と言うし、「何故、どうして」などは日常茶飯時なのです。一緒に風呂へ入ろうものなら「おばあちゃんには何でおちんちんがないの」なんて、とても3歳の子どもとは思えない究極の質問にタジタジの時だってあるのです。ああこれが幼児の反抗期なのかと思って納得したりもするのですが、「何故、どうして」には「そんなもの理由があるか」と答えに困り、心頭に達するものまであります。

 このところ孫は私の単車がお気に入りで、時速10キロの速さで安全に気をつけながら上灘川沿いの道をヤマハメイトに乗せて走ります。一番遠出のお気に入りは1キロ圏内にあるシーサイド公園の鯉意池と潮風ふれあい公園の消防自動車なのですが、今はエンジンキーを差し込んだり、曲がる方の方向指示器をセットしたりリセットしたりと中々知恵がついてきました。

 世代を超えた新しい仲間もどんどん増えて、この夏休みに私の金魚の糞をしているので多くの人に声を掛けてもらえるようになりました。鯉の餌を用意して朝待っていてくれるシーサイドふたみの池田所長さんは、「所長さん」と呼んで大のお気に入りです。漁協女性部じゃこ天のお店の方もみんな「朋樹君、朋樹君」と可愛がってくれて、時にはじゃこ天やタコ焼きなどを忙しい手を休めて対応してくれるものですから悦に入っているようです。

 この日もじゃこ天のおばちゃんたちにタマネギ入りのじゃこ天をご馳走になりお土産までいただきました。「僕は熱いものは嫌い」といいながらじゃこ天を美味しそうに食べ、帰ると「ばあちゃんシーサイド公園でタマネギを食べた」と話すのです。

 一昨日は次男と娘が朋樹君を連れて夕焼けコンサートに参加していました。昨年は妻と二人の参加でしたが、音楽は興味があるのかないのかまだ分りませんが、寝起きの眠気眼で人ごみの多さに驚いた様子でじっと聞き入っていました。夕日夕焼けに照らされた下灘駅のプラットホームで「はいポーズ」、美しい夕日をバックに「はいポーズ」と写真に納まりました。

 夕焼けコンサートは私と別々に訪れていたのでコンサートが終わるや否やで孫たちは私に抽選券を預けて帰りましたが、この抽選券の番号で「夕日日コーヒー」が当たってしまいました。

 昨晩は母親の夜勤で私たち夫婦が孫の守りです。風呂は「男どおし」といって私と入ります。寝る時は本を読んでくれる妻と寝ます。昨晩は昼寝の後遺症でしょうか普段は9時に眠りにつくのに10時近くまで布団の中で起きていました。昼は勿論、夜もパンパースが取れてすっかり「お兄ちゃん」の風格です。残念ながら一人っ子なので正式にはお兄ちゃんにはなっていませんが、口癖のように「僕はお兄ちゃん」といいながら自立して自分で靴も履けるしパジャマのボタンも自分で掛けれるようになりました。親馬鹿ならぬじいちゃん馬鹿に徹して孫の成長に目を細める私なのでした。

 私のパソコンに朋樹君のアルバムが入っていてその数はもう300枚にもなりました。孫はそのことを知っていて、来る度にダウンロードして見せてくれとせがみます。昨日は「朋樹君の夏」と書いて写真3枚を入れたA4版一枚をプリントアウトして渡したら大喜びで「お父さんに見せる」とはしゃいでいました。今朝は私がプラッツに乗せて幼稚園まで送ります。リクエストに応えカーナビに松山空港のランドマークを表示して向かいます。

  「孫一人 度々来ると うるさいが 来ないと心配 電話声聞く」

  「この夏は 二人で行動 多くなり 行く先々で 声を掛けられ」

  「孫相手 少し年齢 若くなり 幼児語使い 屈みもの言う」

  「成長の 孫に比べて この私 退潮気味で その差縮まる」

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shin-1さんの日記

○21回目の夕焼けプラットホームコンサート

 あれは確か21年前の6月30日の出来事でした。前日までどしゃ降りだった雨が止んで、その日は絶好の夕日が西瀬戸の水平線にジューンと音を立てるように沈んだのです。夕日の美しさを訴えても誰も耳を貸さず、夕焼けコンサートをやろうと相談しても「夕日は沈む、そんなもんでまちづくりはできない」と100人のうち99人が反対しました。「そんなにやりたいのならやってみたら」と少しだけ後押しをしてくれたのは妻だけでした。その言葉に押されて無謀ともいえる挑戦が始まり夕焼けコンサートはスタートしました。町名変更騒動の責任をとる形で左遷され(本人は左遷とは思わなかったが)失うものは何にもない時でしたから、かえって意志が強く正面突破やゲリラ戦を繰り返しながら当日を迎えましたが、大方の予想を覆して駅のプラットホームを舞台にするという奇抜なアイディアが受けたのか1000人もの人が集まり、駅は開業以来人で埋まったのです。野外イベントは天気次第ですが梅雨の真っ最中にも関わらず好天に恵まれた運の強さも味方しました。

 あれから21年が経った昨日9月2日(土)、21回目のコンサートが、21年前と同じシチュエーションで繰り広げられました。私はこのコンサート見学のためわざわざ福井県から来られた方々に夕日のミュージアムでまちづくりの話をしてから6時頃コンサート会場へ到着しました。あれ程残暑の厳しかった太陽も6時には随分水平線近くまで降りてきて、絶好の天気に夕日夕焼けを誰もが期待しながらコンサートを聴きました。

 客の入りは例年通りといったところでしょうか。今年も常連さんがかなりやって来て懐かしいあいさつを交わしました。コバの小林真三さんが司会を務め、メインゲストの高橋研さんや加藤いづみさんもすっかりお馴染みでいい盛り上がりを見せていました。しかし何といっても天気がよいことが一番で、この日は今までにないような美しい夕日が見えました。JR四国も夕焼けとロッコ列車を運行してくれ、列車が構内に入るときは思わず大きな拍手が起こったほどでした。

 21回も続いたのは、地元の青年たちが運営委員会を作りしっかりと支えていること。観光協会が町の助成を得て財政的に支援するしくみが出来ていること。行政が事務局となってリードしていること。小林真三さんが音楽プロデュースしていること。夕日を主役にした基本コンセプトがしっかりしていること。JRが全面的にバックアップしていることなどが挙げられますが、20回目の区切りまで深く関わった私としては、今年から予選を兼ねた夕焼け音楽祭が予算の工面がつかず中止になったことが惜しまれます。でも細々ながらでもこうして21回目が開けたことの方が嬉しいのです。

 市長さんや議員さんも数多く見えられていましたが、せめて夕日の町を標榜するのであれば、財政難とは言いながら一枚の名刺代わりとして来年以降も続けて欲しいと願っています。今年のコンサートも色々な出会いがありました。しかし毎年来てくれている人が、「随分顔見知りもいなくなって寂しい限りです」とポツリ漏らすように、お客さんの顔ぶれも随分変わりました。嬉しいいことに水産高校の同級生が顔を覗かせてくれました。定年後も同じ職場で働いているとか。コンサートで歌と夕日を見聞きしながらしみじみ人生について考えたそうです。

  「ああ20年前の私は若かった」コンサートの会場で一人しみじみ夕日に向かって独り言を言いつつ、茜色に染まった人間牧場を下灘駅のプラットホームから感慨深げに眺めていました。

  「二十年 よくも続いた しみじみと 見上げた空に 同じ月が」

  「はじめ年 生まれた子供 早二十歳 俺が老けるの 当たり前だろ」

  「観客の 入りをサポート 赤トンボ 数の上では 人+トンボ」

  「一級の 夕日しずんで コンサート 天気気にせず 唄に没頭」


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shin-1さんの日記

○生協の常勤役員さんが人間牧場訪問

 えひめ生協の大川理事長さんに会ったのはもう20年も前のことです。地域づくりの出発となった雪の集会が道後文京会館で行われた時、当時生協の理事長さんだった立川百恵さんとご一緒でした。以来何度か思わぬ所でばったり出会ったりでしたが、今年の研修会に講師として招かれてから再び急接近し、非常勤理事まで引き受ける羽目になってしまいました。以来担当の尾崎さんを介して理事会や研修会で出会い、今回も尾崎さんから常勤役員で人間牧場への打診があり、快く引き受けました。ところが運の悪いことにこの日は朝からぐずついた天気で、午後2時の待ち合わせ場所である下灘コミセン前広場に到着した頃はかなりの雨足で、よほど運の悪いグループだと思いつつ理事長さんと松本専務さんを私の車に乗せ、出発しました。多分後続の2台に乗った方たちからは「どこへ連れて行かれるのだろう」と心配話に花が咲いたことでしょう。曲がりくねった道、細い道の連続を過ぎて到着したら、外はまた濡れるほどの雨で、ウッドデッキにも出れず、魚梁瀬杉のテーブルの回りに陣取って、私の話を熱心に聞いてくれました。

 私の話は、ひごろ話さないまちづくりの裏話や失敗談に終始し、約1時間30分も喋り続けました。人間牧場の構想から建築に至るまでのエピソードとこれからの計画について。自分の発想の原点は一体どこにあるのか。これまでの長いまちづくりの実践で失敗した出来事から何を学んだか。町の広報240号の発行プロセスで書くことを覚えたこと。結婚式の司会537組の実践で学んだプロデュース能力。第14回NHK青年の主張による自信が喋れる男に成長させたこと。毎朝早朝5時からのシーサイド公園砂浜を12年間掃除したことが認められて観光カリスマに選ばれたこと。100人全てが賛成することはやっても意味がないこと。トラブルは逃げると追いかけてくることやトラブル解決能力。人生の生活設計。失敗から学ぶ成功術などなど、思いつくままに話しました。8人の参加者は席を立つこともなく身を乗り出すような迫力でじっと聞き入っていました。役に立ったかどうかは疑問ですが、早速松本専務さんからお礼と感想のメールが届いていました。早くて嬉しい反応です。

 生協の組合員さんの多くは生き方に芯がある人が多いようです。ですからしっかりと自分の主張が出来ます。これを反対意見ととらえ煩わしいととるか、その意見に耳を傾け真摯に対応するかは執行部の姿勢一つで決まります。そして正しい対応が出来たとき組合は信頼され充実と成長をしてゆくのです。

 この日の天気のように今の日本は景気が上向いたといいながら何か不安の火種がくすぶってるような気がします。しかしこの天気もいつかは晴れて穏やかな日々が戻ってきます。ですから「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と考えて今日一日を一生懸命やることなのです。

 この日人間牧場水平線の家へやって来た理事長以下の常勤役員は若くて優秀なスタッフとお見受けしました。組合員のためにいい仕事をして下さい。くれぐれも目線は組合員の健康と幸せなのです。

  「雨が降る 自慢の夕日 見えずとも 心に太陽 唇に唄を」

  「細い道 何度か通れば 広くなる 行きと帰りは 同じ道幅」

  「理事長も 粋な計らい するものよ 寸暇惜しんで 心耕す」

  「霧晴れて 一瞬港 見え隠れ チャンス逃せば 次は見えぬぞ」 

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shin^1さんの日記

○隠れた歴史を学ぶ

 私たちの身の回りにはスポットも当たらず苔むして忘れ去られようとしている隠れた歴史がいっぱいあります。例えば道端に建っている記念碑などはその典型で、日ごろ何気なく傍を通ってその存在は知っているものの、「誰が何のために建てたのか」までは知らないし、それを知ろうと思っても「誰に聞けばよいのか」や「どんな文献に紹介されているのか」さえも知らないのです。そんな単純な疑問質問に答えてくれるのが郷土史や地元の歴史家なのです。双海町という町が昭和30年に誕生しておおよそ50年が経ちましたが、双海町と名の付く郷土史は明治100年を記念して編纂された昭和45年に発刊された「双海町誌」と合併前の平成17年に発刊された「改定双海町誌」があります。双海町が誕生する前に手書きの「下灘村誌」「上灘町誌」が3冊発刊されていますので都合5冊しか双海町に関する専門歴史書はないのです。しか手書きの3冊は役場に保管されていて研究のためでないと借り受けることも出来ない訳ですから2冊の「双海町誌」に頼るしかないのです。私は幸いなことにこの2冊の編纂に関わりました。昭和45年当時は歳も若く補助的な存在でしたが、昨年発刊されたものは教育長という職責から編纂委員長として深く関わりました。私は基本的に歴史は大好きです。しかし他の編纂委員を務められた方々のような深い洞察や知識もないのですから、ただ好きというだけの素人なのです。

 先日史談会の現地学習会に参加しました。玉井琢磨という人を顕彰するため建立している記念碑を解読するためです。臨済宗東福寺派の禅寺慶徳寺に集まって玉井琢磨の位牌にお経を唱えた後、早速お寺の和尚さんの話や中島史談会長、磯田副会長、西岡さんの話を中心に興味ある話を随分聞きました。このお寺には中世以来の城主の位牌があったり、歴代の庄屋の位牌が祀られており、その一つ一つも解読して説明を受けました。

 早速雨のあがった現地に赴き、五輪の塔や庄屋のお墓、玉井琢磨の顕彰碑を見せてもらいました。歴代庄屋の中には碁が好きな人がいて、お墓の蓮華が碁盤になっている珍しいお墓もあって、現地研修でしか味わえない学びがありました。

 この日の現地研修の主目的は玉井琢磨の顕彰碑の文字の解読ですが、さすがに長年の風雪に耐えた石物は風雨に晒され苔むして判読が難しく、事前に磯田先生が判読して分らない部分を懐中電灯を当てたり地元の古老を知ってる西岡さんや中島会長さん、山口住職さんの助言を聞きながら皆で文字をなぞりながら調べて行きました。その結果玉井琢磨の顕彰碑を建てるのに関わったであろう殆どの人名が判読でしました。過去にタイムスリップしながら、一人の人間の生き方を焦点化して学び、それを記録に残したり間違いを正す作業は容易なことではありません。ましてや古文書を解読するには文字から始めなければなりません。パソコン文字にすっかりならされている私たちには、手こずる相手なのです。

 夕闇迫る頃、一通りの作業を追え解散となりましたが、二月に一度の学習会はやっと始まったばかりですが、これからの学習が楽しみで、出来るだけ日程を割いて参加したいと思っています。メンバーは少し年齢が高いものの益々元気な方ばかり、この会では中尾先生に続いて私は若い方のようです。若いということは歴史の重みが軽いということです。学び過ぎることはありません。しっかり人間の生き様を学びたいものです。

  「編纂が 縁で始める 歴史学 薀蓄揃いて 俺は新参」

  「苔むした 石に刻みし 名をなぞり 生き様さぐる これも楽しき」

  「分らぬが 分った時の 嬉しさは まるで子どもの 時のようです」

  「過去の人 偉い徳積み 石刻み 名前残せし 次の世代が」

 



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shin-1さんの日記

○ウナギの蒲焼

 写真はその時その場所があるとシャッターチャンスの必要性を思ったのはこの2枚の写真です。逗留した旅館の二階から見える雨上がりの風景が余りにも綺麗だったのでカメラに収めたのですが、明くる日の旅立ちが早く暗闇だったため、よくぞ撮っていたとしみじみ思いました。旅館の手入れの行き届いた庭は一幅の絵になる風景でしたし、赤い橋のかかるダム湖もまた捨てがたい風景です。いつか近いうちに妻にもこの風景を見せてやりたいものです。 

 高知県馬路村魚梁瀬の旅館を早朝4時30分に起床、身支度を整えそっと旅館を抜け出し、見覚えのある曲がりくねった道を引き返して約束の場所へ着いたのは5時15分でした。間もなく朝の早いことを自慢する木下君が手に抱えきれないほどの荷物を持って現れました。雑種愛犬チロも一緒のお見送りです。昨日見せてもらったウナギもしっかり氷水に入れてガムテープで水か漏れないにしているのです。木下君はわざわざホカホカのお結びを二個包んで持ってきてくれました。

 私は木下君と同じで朝が早く、毎日朝4時には起床をします。ですから朝の早いのは苦にならないのですが、今朝は8時過ぎにどうしても地元で片付けなければならない所要があって朝早い旅立ちとなったのです。木材運搬に向かう大型トラックが時折急なカーブから突然出てくる安田川沿いの道を注意しながら下って海岸国道を右折し、南国までの道程はそんなにかかりませんでした。南国から高速に乗って約束の8時30分に無事わが家に到着です。少し飛ばし過ぎたと自戒しながら迎えに出た妻にお土産を手渡しながら、楽しかった昨夜の事や、世話になった木下家のことを話して素早く身支度を整え次の行動です。

 夕方生協の理事長さんたちを見送って家へ帰ると妻は留守、「そうだ俺がウナギをさばいてやる」と思ったまでは良かったのですが、それからは悪戦苦闘の連続でした。私も魚料理は妻が褒めてくれるほどに上手です。あまり上手だといつも妻に使われますのでやらないことにしているのですが、包丁を研ぎ軍手をはめて調理に取り掛かりました。氷水の中では死んだように静かにしていたウナギが調理し始めるとこれは大変といわんばかりに荒れ狂いもがくのです。千枚通しを打ち込むのすら嫌がるウナギをしっかりと手で押さえて自分としてはまあまあな5本のウナギをさばきました。特に一番大きなウナギは立派なもので腕首ほどもある肉厚の厚いもので、用意したボールに一杯になりました。

 ウチワを使ってバタバタと七輪で火をおこし、網をかけて焼きました。ウナギを焼くコツはアナゴと一緒で皮目から焼かないと反りくり返りますので、アナゴ焼きの要領で焼いて行きました。最初は全てのアナゴを白焼きにしないとタレで焦げてしまうのでその要領で串を打つこともなく白焼き完了、戻ってきた妻が秘伝のタレを作ってさあ仕上げです。七輪の火を少し弱めてタレをつけて付け焼きにするのです。香ばしい匂いが当たり一面に立ち込めそれはもうお腹がグーグーです。私は料理人の特権とばかりに一口食べちゃいました。さばきだて、焼きだての天然ウナギは何ともいえない美味しさで思わず口がとろけるほどでした。妻はこのウナギのためにアサリの味噌汁を造り、肝吸いは次の機会にと冷蔵庫にしまうしたたかさでしたが、炊きだちのご飯に乗せるうな丼はお代わりまで「やっぱり天然のウナギは上手い」と褒めあい、このウナギを捕獲した木下君のことなどすっかり忘れて賞味しました。「これを機会に木下君とは末長いお付き合いをしたいもんだ」といったら妻に叱られました。

 私の町は海沿いにあって漁師町です。ですから魚はそれ程珍しくありませんし、川魚は独特の臭みがあって家族もそんなに喜びませんがウナギは別で美味しいですね。天然ウナギが年々減少している昨今、もう腹が黄色い天然ウナギも幻の魚になってしまうのではないかと心配されています。ウナギは淡水魚ながら海で生まれることは皆さんもご存知だし、その産卵場や生態も最近の研究で分ってきましたが、実は海にもウナギはいるのです。私が子どもの頃は港に餌をつけた釣り針を仕掛けておくと、アナゴに混じって時折ウナギが釣れました。海の人間ですからウナギは全部逃がしたり石に叩きつけて遊んだことを思い出しました。今思うと反対でウナギこそ大事にすべきだったと反省をしています。

 時ならぬわが家のおご馳走に、久しぶりに夕餉の前が楽しくなった昨晩の夕食でした。木下さんありがとう。

  「天然の ウナギさばいて 炭火焼き 何とも贅沢 つまみ喰いする」

  「匂い立つ 我が家はウナギ 隣から 羨ましいと 言ってるだろな」

  「包丁を 研いでウナギに メス入れる まるで実験 腹から針が」

  「気がつくと ウナギは捨てる ところなし 肝も骨まで 料理に使う」


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shin-1さんの日記

○一億円の魚梁瀬杉御殿で

 今回の講演会会場はダムで水没して集団移転した魚梁瀬地区の真ん中にあって、森林鉄道の鉄路も記念に残されている場所に建つ象徴的な建物でした。ご存知竹下首相のふるさと創生資金一億円を活用して馬路村では魚梁瀬杉をふんだんに使った建物を建てたそうです。村の迎賓館とも思われるこの施設はさすが自慢の魚梁瀬杉材らしく、筋の通った贅沢な造りで思わずうなってしまいましたが、立派過ぎて地元では持て余し気味のようにも思われました。家は大事にし過ぎて使わないとかえって傷みます。しっかりと活用して人が新しい空気を家の中に吹き込まないと中の空気が淀んでしまうものです。

 講演会は田舎の時間にしては少し早いのではないかと思われる夕方6時から始まりました。しかしそんな心配を他所に学校の校長先生や診療所の医師先生も来るなど賑やかで、東谷組合長、顔見知りの組合職員、デザイナー、馬路村温泉支配人、木下さんの沖縄から嫁いで来ている奥さんなどの下から上がってきてそれは賑やかな顔ぶれとなりました。「まるで吉本の話を聞くようで久しぶりに楽しい話でした」と、講演が終了した折お世辞を言って闇に消えた人もいましたが、殆どの人が残って横の食堂で交流会が行われました。会費2千円だというのに洒落た料理が並び、高知弁丸出しの酒盛りは多いに盛り上がり、東谷組合長らの乱入もあっていつの間にか「この村をどうする」という地域づくりの方向に向かっていました。印象的に残ったのはNHKのテレビで大雨の旅に「高知県魚梁瀬では○○mmの雨が・・・・・」と宣伝してくれている雨をテーマにむらおこしをしてはどうかという、土木建設会社の社長さんの話でした。水を売る水商売も面白いと、早速自慢の美味しい水を私のテーブルに運んでくれるなど余念のない努力です。毎日降った雨を細長いアクア水槽に一年間溜めて百年分展示するのも一つの方法だし、雨は唄、雨は水、雨は天気、雨は笠、雨は映画、雨は恋などなど面白いとアイディアが次々披露されました。

 人間牧場水平線の家に魚梁瀬杉のテーブルがあるので「私の家には150年の年輪を刻んだ魚梁瀬杉のテーブルを置いていて、来た人に魚梁瀬杉の話をいつもしています」と得意げに言ったところ、その社長さんが「150年生の杉は魚梁瀬杉とはいい難い。少なくとも200年はこえていなくては」と口喧嘩を吹っかけてきました。この話も大いに盛り上がり結局は「自分の車庫倉庫に眠っている切り株をあんたにあげるから」とついつい口を滑らせてしまいました。社長さんは今頃酒に酔った失言に気が付いて悔やんでいることでしょうが、私は素面でしたし硬い握手をして確認したことですのでよろしくお願いします。これも酔った勢いでしょうか、東谷組合長が「その魚梁瀬杉はわしが車で運んでやる」と啖呵を切って、「さすが組合長、太っ腹」と皆の拍手喝さいとなりました。やったぞ、本物の魚梁瀬杉のテーブルが手に入りそうです。社長さんの奥さんはとても美人で社長の目を盗んで私とツーショットの写真まで撮りました。

 この人が噂の社長さんです。何でも徳島出身だとか。奥さんの顔に惚れて高知県入りしたのでしょうか。

 この人が美人の奥さんです。何でもこんな華奢なのにユズ畑5反を耕して昨年は13トンもユズを収穫した東谷組合長自慢のユズ農家だそうです。嬉し恥ずかし若松君。体が凍っているようではありませんか。しかし上の2枚の写真ともさすが夫婦です。偶然にも二人とも同じようなVサインをしているではありませんか。

 はいこの人が私の親愛なる友人で、私と同格の観光カリスマ百選です。めxxxxっっぽう酒が好きで、酒が強い高知賢人のモデルのような方です。でもこの方が年間20億を越えてごっくん馬路村を全国に売っているのですから驚いた傑物です。

 結局はお酒を行って気も飲まなかった私の一人勝ちとなった交流会でした。行司を務めた木下君も酒に酔っていましたのでどうなるか分りませんが、魚梁瀬杉の切り株の届く日を一日千秋の思いで待っています。あっそれから「足にするのも付けてやる」と社長さんはいってました。木下君お忘れなく。

  「魚梁瀬杉 濡らしてシトシト 戸糠雨 迎賓館に 想い集いて」

  「口車 乗った相手が 悪かった 杉の切り株 約束どおり」

  「人恋し 魚梁瀬の夜は 賑やかに 話し弾んで 夢の数々」

  「忙しき 身を押し会場 来てくれる 律儀な人の 心に感謝」  

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shin-1さんの日記

○高知県馬路村魚梁瀬地区での講演会

 馬路村の山猿というペンネームで私のEメールに度々進入するウイルス男は、馬路村の役場に勤める木下さんです。私に海猿と勝手に命名してメールを送ってくるものですから私も「海猿から山猿へ」などとお調子をくり返しています。彼と会ったのは昨年末馬路村で開かれた「地域の自立とは何か」の打ち合わせ会でした。それから急接近してシンポジウムや人間牧場見学など、まるでかつての私の若い頃のように精力的に動き回る彼の姿を、何故かまぶしく感じていました。その彼から再三にわたってラブコールを送ってくれたのが馬路村魚梁瀬地区での講演会でした。このところ忙しくてそれどころではなかったのですが天然のうなぎを食わせる」という餌に釣られて魚梁瀬地区へ行く事になったのです。盆踊り大会、韓国旅行、四万十市西土佐、金融広報委員会など超多忙な日程の間隙を縫って一度は訪ねてみたかった魚梁瀬地区へ足を踏み入れました。高知県奈半利町の坂本年男さんに貰った魚梁瀬杉の切り株が、わが人間牧場の水平線の家にあることも心が動いた大きな要因だし、今や旧知の間柄となった馬路村の東谷組合長にも久しぶりに会いたかったのです。本当はゆっくりのんびりの旅をと思っていたのですが、日程が詰まり過ぎて行きも帰りも高速道路、しかも今朝などは朝4時半に起きて宿を発つという強行スケジュールになってしまいました。それでも曲がりくねった狭い安田川沿いの道を、木下さんの「お昼にはわが家でうなぎでもという言葉に甘えて山里の木下家へ到着したのは12時を幾分回っていました。木下家に通じる坂道を歩いて登ると、昔は美人だったんだろうなあ(失礼、今も美人です)と思える品を感じる木下君のお母さんが人なつっこい笑顔で出迎えてくれました。「あっ、あの人はパンフレットに出ていた木下君のお母さんだ」と第一村人を発見して直感しました。木下君はうなぎ取りの名人で、私のために延縄で天然うなぎを沢山ゲットしていて、早速真昼間だというのに何とも贅沢な庭先でうなぎの蒲焼パーティと相成りました。ハスイモの酢漬けや鮎の塩焼き、合わせ味噌など田舎料理の数々に舌鼓を打ちました。

 魚梁瀬までの道程はかなりあり、曲がりくねった道の峠で眼下に魚梁瀬ダムを見学しました。昔何かの本でこのダムの石積み護岸を利用して加藤登紀子のコンサートを開いた話題を読んだことがありますが、こんな奥地でよくもまあと往時を振り返りながら感慨深げに下を覗き込みました。このダム湖の下に水没した集落は代替地に集団移転している話も驚きでした。ダム湖を見下ろし展望台には昔のそんな物語が写真い焼き付けられていました。

夜の講演会までには十分時間があるので、千本山の杉の木を見に道案内をしてくれる地元の人と木下君と3人で30分もかかる山道を車で登って行きました。道は元森林鉄道が走っていただけあってなだらかな道でした。折からの小雨に少し濡れながらも車を降りてつり橋を渡ると森の中には樹齢300年を越える大きな杉の木が何本も見えてきました。これぞまさしく会いたかった魚梁瀬杉の原生林なのです。九州の屋久島に生えている屋久杉にはかないませんが、どうして人間二抱えもあるような大きな杉の木に圧倒され、そっと手と耳を当てて木の息遣いを調べてみました。私たち人間の寿命は幾ら長生きしても高々100年、だのにこの杉の木は300年というから江戸時代に生を受け、この地にじっと立って、魚梁瀬の地に降った雨水を餌としながら生きてきたのですから、偉いとしか言いようがないのです。

 森の中で高知大学農学部の学生たちに出会いました。何でも千本山の生態系の調査を定点観測しているらしく、地下足袋や作業着は雨に濡れていました。一見無駄と思えるこのような学術調査が千本山の杉を守ることになるのですから頑張って下さい。驚いた事にこの学生さんと同じ旅館に、しかも隣の部屋に、しかも一緒の風呂に入ったのですから奇遇とかいいようがありませんでした。

 同行した地区の方の話は、営林署や地元製材に長年関わっただけあって歴史の生き証人のような詳しい話で興味をそそりました。ここの森林鉄道は蒸気機関車まで走った本格的なものだったようで、戦後の高度成長時代には多くの人が住み、山には活気がみなぎっていたそうです。その話はかつて日本の各地にあった炭鉱のように一時代を築いたのでしょうが、今は跡形もなく消え去り、伐採された魚梁瀬杉の切り株のみが無残にも苔むして朽ちつつありました。この方たちの生き証言をしっかりと記録に残すことも誰かが気が付いて今やらねば忘れられてしまうのかも知れないとふと思いました。

  「この山に 蒸気機関車 走ったと 語る古老の 声ぞむなしき」

  「切り株に 会いに来ました 魚梁瀬杉 こんな深さの 山にいたとは」

  「八郎が 歌った唄を 思い出す 山の釣り橋ゃ どなたが通る」

  「この奥で 降った雨滴 延々と 海に注ぐや 不思議なるかな」  


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