shin-1さんの日記

○人生で酒と女と歌を愛さぬ男は馬鹿である

 「人生で酒と女と歌を愛さぬ男は馬鹿である」。これは有名なマルティン・ルターの言葉ですが、酒駄目・女駄目・歌駄目な私はこの言葉通りだと馬鹿で間抜けな人間です。ましてやタバコもコーヒーも駄目でどうしようもない、「何のために生きてるの?」と問われそうな、「タバコも飲まず酒もやらず、女もやらず百まで生きた馬鹿がいる」といわれそうな人間なのです。しかし世の中はようしたもので、私のような駄目な人間でもそれ相応のこだわりを持って生きていると結構自分で満足し、結構楽しく生きられるのです。私は歌などカラオケで余り歌いませんが、数年前からハーモニカを吹くようになって少し音の世界が広がってきました。先日も大河内さん率いる大西町の女性群が人間牧場へ来られた折、鎌田さんの発案で私の吹くハーモニカに合わせ、みんなで「みかんの花咲く丘」や「ふるさと」を大合唱しました。童心に帰った歌声は心の魂を呼び起こさせてくれましたし、青年団時代にみんなで労働歌や青春歌を歌った懐かしさを思い出しました。

 私たちは若いごろ歌集を作って事ある毎によく腕を組み肩を組んで歌いました。「若者のうた」「希望の歌」「四季の歌」などなどは何故か歌うと元気が出て「またやろうと」いう意識が芽生えたものです。「青い空雲もなく そびえる富士は 若人の希望のしるし」は「希望の歌」、「若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が 逞しい体に」は「若者のうた」、「春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような 僕の恋人」は「四季の歌」の一節です。自分の心と頭に歌を歌う度に歌の醸すさわやかなイメージが広がり、青年団活動をより清新なものに仕上げて行きました。その意味では青年団で歌った歌は自分の心づくりに大いに役立ったように思うのです。歌もその一つかもしれませんがレクリェーションも沢山覚えたり実際にやりました。会の雰囲気を和ませるために100を超える程持ちネタを持ったものです。後に青年団活動が高じて社会教育の世界に入りましたが、公民館活動や青少年教育のの分野でも随分レク指導の技術は私を助けてくれました。

 青年団はションション青年団といわれるように、レクリェーションとディスカッションが二枚看板でした。ディスカッションは深夜にまで及び、時には酒と女の力を借りながら、夜明けまで続く時もありました。議論、激論の末取っ組み合いの喧嘩もよくしました。結論の出ない他愛もない議論を何日もくり返したものですが、今振り返るとあれこそ若さの発露だったのではないかと思うのです。今の若者には残念ながら議論の場と議論の相手がなくて、議論の末の喧嘩などなきに等しいのです。議論は人を育てます。ああでもないこうでもないと議論しながら一つのものを作り上げてゆく今流行の「ワークショップ」や「フィールドワーク」を地でいっていました。

 ふるさとをよくする運動にも積極的に関わりました。村祭りも盆踊りも殆ど青年が取り仕切っていました。特に盆踊りはお盆を中心に毎晩毎夜、どこかの部落へ応援に駆けつけ賑やかな踊りの輪ができたし、そんな盆踊りの場所での出会いが若者同士の恋心を育みました。今は盆踊りも踊る人も少なく、もう数年でわが町からも盆踊りの灯が消えるのではないかと心配されているようです。嘆かわしい時代になったものですが、これも一つの時代の流れとして諦めなければならない出来事なのでしょうか。

 「時代は来ない。いい時代にする」。「動け動かせ21世紀」。これは数年前、私の著書「昇る夕日でまちづくり」の編集を手助けしてくれた玉井恭介さんが、私にくれたハガキに書いてくれた言葉です。司馬遼太郎「龍馬がゆく」の編集者窪内隆起さんが「昇る夕日でまちづくり」を読んだ感想を「若松さんのような人を抱えている双海町は幸せだなあとつくづく思います。何ごとも押し進める人ありてこそ実現するんですね。理論も行動も一致しているところが凄い。233頁の「・・・・見せられた・・・・」の誤植は残念。しかしいい本ができました」と玉井さんに手紙をくれたそうです。そのことを知らせるハガキの表書きに書かれたこの言葉は、後の私の生き方に大きな影響を与えた一言でした。今も私は「いい時代にする」ために、人間牧場で頑張っているのです。

  「歌さえも 歌えぬ吾に 味方あり 楽器一つで 歌カモフラージュ」

  「一枚の ハガキが吾に 生き方を 教えてくれる 今も大事に」

  「定員は 何のためある 平然と 定員オーバー 帰省ラッシュで」

  「ルターさえ 俺は馬鹿だと 言っている 馬鹿でもいいや らしく生きよう」

  

 

 

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○相次ぐ人間牧場のお客様

 私には私の生き方に影響を与えたであろう旧友といわれる人が日本全国に沢山います。その殆どは普通音信不通なのですが、時々昔の仲のよりを戻すような出会いが突如としてやって来るのです。数日前中国電力の鍋島さんから電話があって「グリーンツーリズムの仕事の関係で人間牧場を見てみたい」と中国総研の方2人を伴って訪ねて来ました。中国地方には和田さんや宮崎さん、田中さんなど広島県北部を中心に名だたるまちづくり人がいますが、鍋島さんは一味違った冷静なお方です。彼との出会いがいつ始まったのかは覚えてないのですが、彼は私のことを愛情を込めて「進ちゃん」と呼んでくれます。多分生産性本部のQCサークル活動などで影響を受けたのでしょうが、本質の分る議論を交わせる人であるので楽しみに待ちました。

 左端の方が鍋島さんです。やって来た一昨日は夏の日差しが強烈に降り注ぐ暑い日でしたが、視界もまずまずで人間牧場の道具立てともいえる施設に驚いた様子でした。私の高知行き仕事の間隙を縫っての出会いだったので、シーサイド公園とのセット視察には2時間があっという間に終わってしまいました。

 ここはある意味でグリーンツーリズムやスローライフという人間本来の生き方の本質を突いている施設だと自分では思っていますし、グリーンツーリズムやスローライフを掲げて一儲けしてやろうと企む人たちに何かを考えもらえる場所だと思っています。鍋島さん始め三人の方々がどんな受け止め方をしたか、反応が楽しみです。

 

 昨日えひめ地域政策総合センターの清水研究員がやって来ました。私の国際会議の資料作成のお願いを快く引き受けていただき、その打ち合わせを兼ねて議論するためです。彼は農家の長男として農協に勤める傍らふるさとの農地を守っています。農業離れの農協マンが多い中で、彼は数少ないふるさとを守る(ふるさとの文化を守る・ふるさとの人を守る・ふるさとの田畑を守る・ふるさとの活気を促す)人なのです。

 昨日は彼の生き方のバックボーンをパソコンを使って存分に説明してもらいました。生活設計を基調にした生き方は私の考えと殆ど同じだし、これほど理路整然と自分の人生を見つめ語れる人は少ないのではないかと思うのです。脂の乗り切った経済人なので彼の人生は、父親の病気や娘の病気という難易度の高いハードルを、逆にきっかけとして活かして強くなっており凄いと思いました。

 「経済人は経済で破綻する」(私の造語)このような人を私は何人も見てきました。日銀総裁や村上ファンド、ほりえもんなどなどはほんの一例ですが、私たちの周りには株や土地、先物に投資して一儲けを企んだため、元も子もなくなった人を何人も見てきました。チャップリンのライムライトのように「ささやかな蓄え」で満足するような人間であり続けることも人間らしい生き方かも知れません。

?二人に出会ってまた私の心の中に新しい火種がくすぶり始めました。生き方をを理論化することです。論理と理論という言葉があります。理論とは「個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識」で、「実践を無視した純粋な知識」でもあります。一方論理は思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。実際に行われている推理の仕方。論証のすじみち。と広辞苑に書いていますが、私流に考えれば実践から生まれた知恵が論理であり、学問から得た知識が理論だと解釈しています。私たち実践家は論理の世界に生きています。それを理論にして説明できることが大切です。現代は理論家が多く、知識は語りますがそれを実践する人は少ないように思います。論理家を標榜する私たちは論理を理論化することが大切だと日ごろから思っています。清水さんは論理家と評論家の中間世界の人かも知れませんね。

 昨日から孫が夏休みになり、昨日は私が一日子守を引き受けました。たまに来る孫は可愛いのですが、一日中孫の守りをすることは重労働です。昨日は清水さんとの打ち合わせに孫同伴となってしまいました。ご迷惑をおかけしました。

  「評論家 御託並べて 議論する 最後は論理 少し分があり」

  「牧場に 訪ねし人に 教え請う 知恵の高まり 早くも実感」

  「メモしつつ 議論重ねる 爺姿 孫の目からは どんなに見える」

  「孫の守り 二人で昼寝 気持ちいい 幸せ感に セミの鳴き声」 

 


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shin-1さんの日記

○やっと見つかった幡多八景金毘羅さんと民宿・薮ヶ市・須崎(20-10)

 西ヶ方の駅を訪ねた時、駅の近くに幡多八景金毘羅さんという看板を見つけ、何度かトライしても見つけることができなかった場所がやっと見つかりました。彩花で民宿の女将井上茂子さんに会い、看板の向かい側だと説明を受けていたので看板から見ると直ぐに分りました。やはり虫の目より鳥の目が必要だったようです。西ヶ方の沈下橋を渡って離合もかなわない車が一台やっと通れる細い道を、踏み切り近くまで行ってUターンして帰り、少し松野側まで走った所にまるでモグラの穴のような小さなJR予土線のトンネルがありました。こんな小さなトンネルでは見つからないはずだと納得しました。付近に車を止め金毘羅さんの細くて長い道を一人フウフウ汗をかきながら社殿のある広場まで登って行きました。周りには桜の木が沢山あって、桜の季節にはさぞ綺麗だろうと頭に描きながら、立ちはだかるクモの糸と藪蚊を気にしつつ一気に奥の院とでも言うべき断崖絶壁を登りました。神社の森はうっそうと茂っているため周りの景色は見えませんでしたが、鳥居には皇紀二千六百年記念などといかにも伝統のある神社であることを証明するような文字が見えました。

 真下には広見川の清流と予土線の線路が見えました。

 再び元の道を引き返し井上茂子さんが営んでいる民宿を訪ねました。運良く姉妹仲良く泊り客の夕食準備中で在宅だったので、上がり込んでお家を見学させてもらいました。大黒柱、天井の梁、囲炉裏端、家の構えなど、どれを見ても一級で民宿に使うには惜しい気持ちのお家なのです。何でもこの家は2年前に新築しご夫婦とも公務員だったそうで、民宿などしなくても?と首を傾げたくなるような雰囲気でした。

 玄関にさりげなく活けてる花にも品のよさを感じました。


 奥さんとお姉さんのお仕事の手を休めてもらい、記念写真を一枚撮らせていただきました。聞くところによると雇用促進協議会の石川さんに手伝ってもらってホームページを開設し、インターネットで泊り客を誘っているだけなのですが、これだけで夏場は満杯というのですから驚きです。泊まった方もこの家構えには多分満足して帰られることでしょう。それにしてもあいにく留守だったこの家の主の顔が見たいものです。何でも酒が好きだし人も好きで、この道楽を始めたというのですから一度は会ってみたいと思いました。できることなら妻と二人で泊まってみたい民宿でした。

 この民宿の入口に少し変わった看板があり、この10回の西土佐参りの期間中ずっとこの看板をやり過ごしながら考えていました。

 「生まれたところで生きていく」という看板です。かつて大分県大山町へ行った時、「瞳は未来へ」という看板を見た記憶が甦ってきました。何か分らないけど心に響く看板です。先日還暦の同級会を行った時ある同級生が、「お前が羨ましい。俺なんか集団就職列車に乗って都会に送られ、気がつけば定年、終の棲家はふるさとではない。生まれたところに育ち、生きてここで死ねることは幸せだ」としみじみ話しました。ねだられて吹いたハーモニカの「ああ上野駅」(井沢八郎)に涙した光景を思い出しました。当たり前ながら「生まれたところで生きてゆく」というふるさとへの思いが伝わる味のある、そして旧西土佐村を表現するに相応しい看板だとしみじみ思いました。

 昨日の集会は日本一のモミの木があった津賀から更に奥まった薮ヶ市・須崎です。集会所の周りには早くも秋の気配が漂い始め、圃場整備された田んぼの稲は黄色く色づき、ハウスではイチゴの作付け準備が始まっていました。西土佐の村々を回って思うのですが、しし唐やオクラの畑はみな整然として勤勉な土地柄や人柄を表しています。集会所には時間通りそれなりに人も集まり、私の話に熱心に耳を傾けてくれました。特に私の話の途中で拍手が起こったのは初めてでびっくりしました。健康の貯蓄・感動の貯蓄・金銭の貯蓄・人間関係の貯蓄・知識の貯蓄という5つ葉のクローバーの話を人生の生活設計とともに訴えました。

  「看板の 言葉気になる 西土佐路 まちを愛する 気構え語る」

  「おとろしや こんな立派な 民宿で 一泊とまり ゆっくりしたい」

  「妻繁子 民宿女将 茂子です 文字は違うが どこか気風が」

  「早十回 後も十回 折り返し 集落巡り いよいよ佳境」

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shin-1さんの日記

○夏の水やり

 台風が相次いで日本列島を襲うようになりました。台風7号は日本列島をかすめるように北上し静岡県・神奈川県・東京都では思わぬ雨で土砂崩れがかなりあったようで、時ならぬ被害に都会の人はびっくりし、「災害がこんな都会で起きるなんて」と、さも「災害は田舎に起きるもの」なんて身勝手なコメントがテレビで映し出されました。「冗談じゃあないよ」と言いたいのですが、被災した人に悪いのでそんなことは言えませんので、お見舞い申し上げます。一方台風9号は八重山地方を暴風域に巻き込みながら北上するにしたがって予想以上に発達して石垣などでは大時化になっているようです。

 九州に比べると少ないのですが四国も台風の通り道に当たり、これまでにも室戸台風など沢山の台風がやって来て、その度に大きな爪痕を残していますが、今回に限っていえば気圧配置の影響で四国は何の影響も受けずに済みましたが、人間はほとほと勝手なもので「そろそろお湿りが欲しいと思って台風を待っていたのに、台風がそれてこりゃあ水不足が心配だ」と、来なかった台風への恨み節が聞こえています。それもそのはず、長雨だった梅雨が明けてから雨の一粒も降らないのですから、畑の作物は水が欲しいと根を上げています。

 わが家の菜園を管理する親父の日課も潅水のためにかなりの時間と手間をついやするようになってきました。わが家では親父がこんなこともあろうかと、庭の隅に井戸を掘り水不足に備えています。元々は池で鯉を飼うために掘ったのですが、裏山からの湧水で池の水が賄われるため、井戸の水は殆どが畑作用や洗い物に使われるのです。ホースを伸ばし蛇口をひねれば100メートルもの細長い畑と庭には全て水が撒かれるような配管を親父はちゃんと設えているのです。

 陽が西に傾いた夕方から親父の水やりは始まります。ナスやピーマンなど夏野菜は瑞々しさが命ですから、たっぷりやった水を夜の間に吸った野菜は朝取りとして食卓をにぎわすのです。しかしこの水やりも限界があり、日照りが続くと土地の浅い所は根が痛むのか余り寿命が長くないようです。

 植物は一度水をやり始めると、自分で土地の水を吸うことを止め、人から貰う水で生きる習慣がつくのです。ですから親父には「水をできるだけやらないように育てよう」と提案するのですが、余り言うとせっかくの丹精を傷つけてしまうことになり、生きがいをも枯らせてしまう恐れがあるので余りこだわらず、「じいちゃんがいるから野菜が食べられる」と持ち上げに懸命なのです。今はまだ野菜も何とか持っていますが、多分お盆頃には根を上げるのではないかと一雨欲しい天を仰いでいます。

 水が欲しいのは植物だけではありません。私たち人間もそろそろ水の大切さを気にしなければならないようです。先日西土佐に出かけて四万十川の支流目黒川の水を直接手ですくって飲みましたが、その美味しかったことは今も忘れることはできません。水道水に馴れていると水の本当の味や水の大切さをついつい忘れがちですが、空気と同じく人間が生きていく上で最も大切な水のことをもっと真剣に考えないといけないような気がするのです。最近は水道の蛇口にフィルターをつけて水を浄化する機械も開発され、親父はその水を飲んでいます。親父が長生きしているのはこの水のお陰かもと思うと、私も時々この水を隠居で飲んでいます。別に味が違うわけではありませんが確かに体にいい水に違いありません。水は人間の生命の源であることを今朝は親父の隠居でこの水を飲んでしみじみ思いました。

  「鯉メダカ 野菜と自分に 水をやる 親父はやはり ほんまもんだな」

  「陽が沈み 夕日見るのが 俺の役 親父は水遣り しんどかろうに」

  「水やると いつも貰うと 勘違い 補助金貰う 癖と似てるね」

  「台風が 来ぬから水が 不足する ぼやくな去年 もう忘れたか」


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shin-1さんの日記

○テレビ中継

 今日はテレビの仕事が二つ入って、少しバタバタしました。一方は南海放送の「水辺」をテーマにしたテレビ中継、もう一つはあいテレビの「キャッチあい」という番組のビデオ撮りです。いずれも顔見知りのディレクターから「人間牧場」がらみで出演を依頼されましたが、「人間牧場」がテレビに登場するのはNHKのお昼前番組で人間牧場からの眺めの写真がカットで出たのを含めると都合3回という事になります。最もあいテレビの番組は今月16日の放送だと言っていましたのでまだ正式登場ではありません。

 今日の南海放送さんの「おかえりテレビ」はシーサイド公園に中継車を置き、ハイビジョンカメラの映像に人間牧場と翠小学校界隈グリーンツーリズムの話題を二本からませ、スタジオとつなぐものです。スタジオにいる江刺アナや永野アナは旧知なので面白いと思ったのですが、夏休みのことゆえ話題やニュースも多く、残念ながら短いやり取りで終わってしまいました。それでも人間牧場のVTRはいい雰囲気で撮影されており、シーサイドの砂浜での小原アナとのやりとりも「まああんなもの」なのでしょう。それにしても短い時間ながらハイビジョンカメラに映し出されたシーサイドの海辺は、シリーズ「水辺」のテーマに相応しく、とても美しく夕景をお茶の間に届けてくれました。

 どうです。この小原アナとのツーショット、中々様になっていると思いませんか。私はリハーサルが大の苦手だという事をディレクターの三瀬さんに伝えていました。だってアナウンサーのようにまるでVTRを見ているような同じ事を二度も言えるほど記憶力がよくないからです。三瀬さんもその事を承知で質問事項を引き出すようなVTRを用意してくれていました。テレビは即反響があります。友人知人からわが家へは「今テレビを見た」「退職後元気そうで何より」「人間牧場は凄いね」などなど、各方面から電話が沢山かかり、食事の準備をしていた妻は、右往左往したそうです。

 南海放送の中継が終わって直ぐに下灘の駅に車を走らせました。下灘駅に着いたのは6時40分、水平線辺りに雲の多い夕暮れで美しい夕日は諦めていたのですが、何と何と次第に尻上がりによくなって、こんな美しい夕日を見ることができました。

 この夕日を見てふと20数年前にこの場所で見た夕日を思い出しました。NHKの「明るい農村」というテレビ番組を撮りにきたカメラマンが上灘駅と下灘駅を間違って降り、この夕日よりももっと凄いそれは美しい夕日を見て「この夕日は綺麗」と感嘆の声を上げたことが、夕日によるまちづくりをはじめたきっかけだったし、この場所を使った夕焼けプラットホームコンサートが第一歩だったのです。「キャッチあい」の村上ディレクターは自分でカメラを回しながらその辺をしつこく、さりげなく夕景をバックにカメラに収めていたようです。どんな番組に仕上がるか全てVTRなので今から楽しみです。それにしてもテレビの撮影や何人かの観光客(名古屋から夕日を撮影に来た人、若いカップルでツーショットを撮りに来た人、自主映画の撮影に来た人)で、日ごろ散閑とした無人駅は結構な賑わいでした。近所に住む顔見知りの早苗さんも駅の草刈などを自主的にやっていて、「下灘駅も有名になったもんじゃねえ」と話しこみました。

 取材や話や「済みませんがシャッターを押してください」という求めに応じていたため、すっかり自分のカメラの存在に気付かず、気付いた時にはまさに夕日が沈まんとする時でした。慌てて2~3枚シャッターを押しましたが、時既に遅しといった感じです。でも下灘駅からの美しい夕景をこうしてブログで配信できてほっとしています。

 下灘駅界隈は相変わらずの寂しさです。駅前の福井商店は店じまいし、無人駅の構内を鈍い街路蛍光灯が照らして一層ローカルな駅の風情を醸していました。夕景に浮かぶプラットホームや「しもなだ」と書かれた駅の看板は、フーテンの寅さんの映画そのままに夢の世界のようでした。

  「ラジオ向き 顔をしてるに 何故テレビ 出るのと言われ 寅さん同じ」

  「下灘の 駅から見える 夕景が 全てドラマの きっかけとなる」

  「日々同じ 場所に沈みし 夕日だが 一ヵ月後は 相当西に」

  「ねえおじさん シャッター押してと せがまれて えっおじいさんと 耳を疑う

 追伸 

 南海放送の三瀬さんが扇子と日本タオルをプレゼントしてくれました。大学時代に落研に所属していたらしく、人間牧場の高座用にと持ってきてくれたのです。扇子も落語家が使う白扇、日本タオルも松葉をあしらった染め物で本格的です。まちづくり高座も清水さんの鳴り物テープが届くといよいよスタートです。

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shin-1さんの日記

○本を読む木の家

 山を接した隣の町はもう内子町です。その内子町大瀬出身のノーベル文学賞作家はご存知大江健三郎さんですが、大江さんの作品に「自分の木の下で」という一冊の本があります。本屋で見つけたこの本は奥さんの大江ゆかりさんが挿絵を書いていますが、これが中々美しい絵で、特にP135から始まる小見出し「本を読む木の家」という部分を興味深く何度となく読み返しました。

 -そこで工夫が必要になるのです。私はそういう特別な本を読むための場所をつくりました。-

 -それらの果樹からわずかに抜きん出ているカエデの木があって、私は幹が幾股にも分かれているところに板をしき、縄で固

   定して、その上で本を読むことのできる「家」を造ったのです。-

 -さて私は、その木の上の本を読む家で、例の、なかなか読み続けられない本を読むことにしたのです。そうでなくても、一日に

   一度は、木の上の家の具合を調べなければなりません。その際には、この本を持って木に登る。そこでは他の本は読まな

   い。そうすると、いつの間にか、次のやはり難しい本に移ることができている。というふうになったのです。今私にとって、本を 

   読む木の家の代わりをしているのは、電車です。大人になると、これは大切な本だということが、経験によって性格にわかる

   ようになります。-

 -カエデの木に造った小屋で本を読んでいる私に、母親は畑を耕したり、種を蒔いたり、野菜を獲り入れたりしていながら、なに

  もいいませんでした。お隣に下宿していた女の先生が、あの上で居眠りして落ちると危ないから、とあなたのお母さんにいった 

  ら、あの子は自分であのようにしているのですから、と相手にされなかった、と憤慨していたほどです。しかし、カエデの木の周

  りは小さな石も拾って、柔らかく土をならしてあったように思います。-

 -そこで私はきゅうくつな小屋の床で体を折り曲げながら本を読み、しかしどうしても難しい本なので、すぐに目をあげて、川の

  向こう岸の林を眺めることになったのです。そしてほかのことを考えたのですが、それまで本を読んでいた頭の働きの続きで

  -走っていると、すぐにとまれないようにー日ごろ、自分の考えているやり方より、もっとしっかりしたかたちで、考えることがで

  きると思ったりもした。考えるというのは、つまり言葉で考えることなんだ、ということに自分で気がついたのは、その木の上の、

  本を読む小屋でであったことを思い出します。枝の木々の一本、一本がまっすぐ立っているのを眺めるのが好きで、-それが

  あったから、どうして木はまっすぐ上に向かって伸びているのか?と父親に質問したのだったように思います。-人間も(自分

  も)ああいうふうであったらいい、と思いました。その人間の生き方への思いのなかには「しなやかさ」が、そして大学に入って 

  から知ることになるupstanding、まっすぐひとり立つ、という英語の感じが、ふくまれていたように感じます。-

 凡人の私には大江健三郎さんの奥深い意味の全てを理解することはできませんが、それでも木の上の家で過ごした大江さんの少年時代が、大江さんのその後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いありません。大江さんがそうであったように私も大江さんの「自分の木下で」という本に出会って、人間牧場にツリーハウスを造ることを思いつきました。かつて少年時代私も山の上の海の見える小高い場所に同じような木の上の家を造った経験があります。それは大江さんのような本を読んだり、空想の世界ではなく、むしろ幼稚な遊びの空間だったように思いますが、それでも遅ればせながら木の上の家ともいえるツリ-ハウスは、少なからず何かの思考をする場所になるかも知れないのです。

  「凡人の 私が真似て 何になる でも木の上は 思考働く」

  「読むほどに レベル高まる 馬鹿の知恵 遅まきながら 六十手習い」

  「木は何故に 上に向き立つ 質問を 親父の俺は 問われりゃうーん」

  「世の中は 偉い人たち いるものよ 頭は同じ 大きさなのに」


           

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shin-1さんの日記

○孫の寝姿

 「おじいちゃん、僕はお家に帰りたい」。ニコニコ顔で迎えに応じた孫の朋樹君が急に涙顔になりました。夕方5時の出来事です。昨日は娘の夜勤の都合で私が会合の後車を走らせて松山の幼稚園までお出迎えに行きました。幼稚園は夏休みに入っていますが、娘のように働くお母さんたちのために夏休み中でも一部屋開設してもらっているのですが、さすがに午後五時頃になるとお迎えのためひとり減り二人減りで、部屋の外から見ると人数的に寂しさが漂って、お迎えを待つ子どもたちは首を長くして来園で入り口のドアが開く度に自然と目が向くのです。昨日も私が入口に到着すると私を見つけ、孫はさも嬉しそうに私に大きく手を振るのです。荷物を持って出てきた孫を車に乗せてシートベルトを締め、「今日はおじいちゃんのお家へ行くよ」と言っても、「お家お家」と中々言うことを聞かないのです。

 孫は飛行場が大好きです。カーナビに飛行場を映し出すと少し機嫌が直ったのですが、今度は飛行場へ飛行機を見に行きたいと駄々をこねるのです。土曜日になると午前中父親が飛行場へ毎週連れて行く習慣を聞いていたので、仕方なく5時過ぎのラッシュの中を飛行場へ車を走らせました。

 飛行場の一望できる飛行場公園は滑走路のすぐ西横にあって、飛行機の離発着が目の当たりに見えることから、格好の子ども見学スポットとなっています。折りしも飛行機が離着陸する時間帯だったので離陸3機、着陸1機、合計4機もの航空ショーを見ることができました。孫は飛行機マニアで、沢山の飛行機のおもちゃを持っているため飛行機に詳しく、「あの飛行機は727だとか、アシアナ航空だ」とか、私に微に入り細に入り説明してくれるのです。それにしてもこの爆音は素晴らしく腹の底まで染み込むようなド迫力なのです。孫が興奮するのも無理はないと納得しました。

 日暮れの道を夕日に向かって一路双海を目指す頃には上機嫌になって双海の海が見える高野川付近に帰ると「海は広いな大きいな」なんて歌を歌ってくれました。家に帰った頃は丁度夕凪の頃で、今年一番の暑さを記録したことをテレビで報じていた通り少し蒸し暑さを感じましたが、孫は「おじいちゃん単車で散歩しよう」と言うので、単車の前に孫を乗せて潮風ふれあい公園とシーサイド公園辺りまでゆるり束の間のツーリングを二人で楽しみました。

 今晩は私たち夫婦が孫のにわか子育てです。食事を取らせ、風呂に入れ、本を読んで寝かせるのですが、少々こだわりの孫は布団の寝る位置も枕も、スヌーピーのタオルケットも全てオーダーメイドなのです。「ここはお母さんの寝る場所」と帰りもしない母親の寝場所を横に確保して、私が寝ようものなら「おじいちゃんはあっち」と突き放されるのです。子どもにとって母親の存在はこうも重要でこうも愛情を求めるものなのか改めて感じ入りました。子育ての重要な時期に今の母親は働くため子預けをしなければなりません。勢い余って「せめている時くらいは」と甘やかせたり溺愛する子育てパターンにならぬよう常々言ってはいるのですが、さてどのように育つのか心配です。

 孫の寝姿は可愛いので、爆睡した頃を見計らって横に行って一緒に寝ます。子ども特有のにおいを感じながら添い寝をすると孫は無意識なのに私の首に手を回し、足を乗せて安心を確保してきます。やがて私も妻も眠ってしまうのですが、孫は二つ敷いた布団の上を縦横無尽にまるで宇宙遊泳のように動き回り、妻はその都度タオルケットを着せながら長い夜を過ごすのです。それにしても孫の動く範囲は相当なものです。私たち大人は寝た場所で朝を迎えるのに何とも不思議な光景です。多分動く広さだけ成長するのでしょう。成長の止まった私と比較してうなずけるのです。今朝はまた孫を松山まで送り届けます。「朋樹君お早う」「おじいちゃんお早う」。赤ちゃんパンツも取れてオネショをすることもなく元気な目覚めです。今日も暑いぞー。

  「寝姿を 見つつ寝息の 孫に寄る 思わず手足 われをつかみぬ」

  「飛行機が 飯より好きな 孫誘う 空港近くの 公園急ぐ」

  「カラスさん 飛行機来るから 危ないよ 優しい声で あっちあっちと」

  「泣きべそも 飛行機見れば いっぺんに 直って元気 現金なもの」

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shin-1さんの日記

○遠来のお客様

 昨日の昼頃、ひょっこり外国人がわが家へやって来ました。外国人といっても日系2世の方なので外見は日本人と変わりはないのですが、たどたどしい日本語を聞くとやはり外国人だと思うのです。彼女は10年前に双海町へ英語の講師として赴任したキャロリン岡部さんなのです。しかし何という律儀な方でしょう。双海町での在職は一年延長して3年間でしたが彼女の日本文化に学ぼうとする感性にはただただ驚くばかりで、随分学ばせてもらいました。彼女はわが家の親父と懇意で度々親父の所へやって来ては食事を食べたものです。質素な親父の日本食を嫌がりませず食べ、時には親父と二人でビールを飲んで楽しんでいたようです。私も役場に勤めていたので、彼女と飲みに行ったりもしました。彼女はこの町を離れて今は外資系モルガン・スタンレー証券株式会社という、恵比寿ガーデンプレスタワーにある会社に勤務しているそうですが、間もなくアメリカの会社へ転勤するので夏休みを利用してやって来たのです。

 今でも覚えていますが、彼女が双海町へやって来たのは丁度この頃だったと思います。夏祭りの準備でみんなで福撒き用の餅つきをしていた場所で彼女と出会いました。それからの彼女の活躍は目覚しく、ETとして中学校の生徒からはキャロリン先生と慕われ、地域の人にも気楽に話す性格からおじいちゃんやおばあちゃんにも人気がありました。

 彼女が凄いと思ったのは、日本の祭りを見たいと、東北の3大祭りを全て見に行ったことです。また四国八十八ヵ所も自転車ですべてお参りしましたし、地元の方の結婚式には振袖姿で参列したことでした。私たち日本人は東北の祭りも見たいし、四国八十八ヵ所を自転車にしろ回ってみたいと思うひとは多いのですが、忙しさにかまけてそんな行動はとらないのです。私は彼女の勇気ある行動に感心しながら、日本人として日本文化の知的浅さに落胆し、その後彼女に触発されて色々な研鑽をまだまだ浅いものの積みつつあるのです。昨日の出来事もそうです。88歳の年老いた親父を忘れることなくわが家へ訪ねてくれました。

 親父の昨日の喜びようは相当なもので余程嬉しかったのでしょう、その事を今朝も私に話してくれました。「こんな年老いた老人の顔を見にやって来てくれた。誰が来てくれるか。感心なものよ」というのです。

 私は「体が不自由だし肌着なので」と渋る父親の意見も聞かず、記念にとツーショットで記念写真を撮ってやりました。歳をとり狭い社会にしか生きていない親父にとって、外国人の友だちはキャロリン・岡部さんただ一人ですからこれはよい記念になったことでしょう。

 夏が来れば思い出すキャロリン・岡部さんは元収入役のお家に逗留し、今日双海町を経つと聞きました。親父は「何かお土産を」と思ったそうですが、私も昨日は四万十市へ出かけねばならず間に合いませんでした。キャロリン・岡部さんから名刺をいただき、私も名刺を渡したのでインターネットでのやり取りも可能なので、これからもデジタル交流をしたいと思っています。

 何はともあれ、親父にとっては久々に嬉しいニュースでした。

  「律儀にも 昔忘れず 訪ね来し キャロリン先生 親父感激」

  「もう二度と 会えぬと思う 人に会う 悦び余り 思わず涙」

  「あどけない たどたどしかった 日本語も 今はベラベラ あんた外人?」

  「英語など 喋れぬ父は サンキューで 心通じて フレンドつくる」

  


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shin-1さんの日記

○西土佐に暑い夏がやって来ました・奈路地区(20-9)

 夏になっても一向に観光客の姿が見えないなあとつい最近の西土佐界隈を見て思っていたのですが、こにきてさすが最後の清流四万十川の魅力でしょうか、まちの中を闊歩している様々な日本民族に出会いました。家族で歩いてさて何処へ行こうか思案している人、福岡ナンバーのキャンピングカーを停めて今晩の寝ぐらを確保しようとしている人、既にキャンプ地にテントや日除けを張って川遊びに出かけている人などなど、長閑な夏休みの昼下がりは住民以外の人に出会うことが多いのです。「どちらから」「はい福岡からです」「何日くらい?」「もう一週間もいます。そろそろ帰らないと会社をクビになりそうです(笑)」「ここはいいとこでしょう」「もう最高です。これで仕事がなかったら・・・・(笑)」なんて会話が何処までも何処までも広がる青い空に響いていました。四万十の夏はお盆をピークにいよいよ本番なのです。

 横をカヌーを積んだ観光協会の車が忙しげにカヌー館目指して通り過ぎて行きました。心配された夏の台風も四国には影響がなさそうでホッと安心した人も多いのではないかと思われます。一年の稼ぎを夏の間にしなければならないアウトドア関係の仕事に携わる人にとって夏の台風、特に客の集中する週末などは客対応から考えるとキャンセルなど相当の痛手でしょうから、ホッとする気持ちはよく分るのです。

 しかしアウトドア派の人口が増えたからといって手放しで喜べない事情もあるようです。前述の県外の人のように安上がりの旅を目論む人はキャンピングカーに食料品全てを積み込み、水とトイレをタダで使い、糞・小便・ゴミ・騒音という田舎には要らない物ばかりを置いて平気で帰って行くのです。これら都会の人のある意味での忘れ物を自治体や観光協会、それに地元が最終処分しなければならないのですから、文句の一つも言ってやりたいのです。「人が沢山来た」と手放しで喜んだ時代は終わりました。外から来た人を対象にイベントをして予算をつぎ込む時代でもありません。要はこれら田舎に憧れる人たちの懐からお金を出させるしくみを作ることなのです。民宿もいいでしょうし、特産品を売る道の駅もいいでしょう。しかし問題は夏と冬の落差を考えて投資しないと思わぬしっぺ返しを食らうことになるのです。私の友人が道の駅の計画を担当していますが、将来の予測がつきにくい時代だけに、そこら辺を考えると知恵の出しどころでしょう。コンサルの話を真に受ける人がコン人がサルでコンサルってことにならないとも限らないのです。

 昨日は役場に隣接する奈路という地区へお邪魔しました。役場のある地区は私の所属する自治会もそうですが、日本全国何処へ行っても参加人数は今一というのが通り相場なので、余り期待をせずに出掛けました。失礼な言い方ながら案の定でした。でも参加した人の意識は商業地域だけにさすがに高く、質問まで出る熱心さでした。参加者の中にはかつて私の町へ視察研修に来られて私の話を聞いた人や婦人会の管内研修で知り合った顔見知りの人も何人かいてすっかり打ち解けた話となりました。

 奈路の集会所は元お寺さんだった場所に建築したらしく、集会所の正面には祭壇のようなものがあって、脇には盆月らしく新盆を迎える準備が出来ていて信仰の深さを垣間見ることが出来ました。

 高知県には橋本県知事の発案で市町村へ職員を広域的に派遣する地域づくり支援員制度があって、高知県を出歩くとそこここでそんな人によく出会います。今度落選した長野県の田中知事と同じく落下傘知事としてアイデアを出しているようですが、昨晩もその任に当る方と出会いました。末端市町村行政へ中二階県行政が加わることは批判もありますが、私は大きな拍手を送りたいと思います。成果を求める議会側と知事部局の確執はいつの時代にもあることですから、じっくりあせらずやることです。昨晩のような地べたを這うような夜の集会にも積極的に参加する彼らこそ、高知県をワンランクアップに導く戦士なのです。

  「夏盛り 早くも日陰 長くなり 秋の気配に 季節感じる」

  「糞とゴミ 落として帰る 不届きに 金を落とせと 言ってやりたい」

  「俺の顔 話も全て 覚えてる 田舎おばちゃん 聞きに来てくれ」

  「聞く人も ないのに喋る 有線が 終わってやっと 話し始める」



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shin-1さんの日記

○カボチャ提灯の思い出

 妻が何処かで植え余った苗を貰ってきたのでしょうが、わが家の菜園と人間牧場に4本のカボチャの苗が植えられています。今年は例年より遅い梅雨明けで長雨のため野菜が思うように育たず高値だと聞いていましたが、ご多分に漏れず肥料もやらず消毒をしない自然型農業のわが家ではカボチャの生育が悪く、葉っぱはうどん粉病にやられてカボチャが余り実らず、これまでに5個ほどの収穫に終わっています。それでもその後の天候回復で作柄も回復し、今頃になって黄色い花が次々と咲いて、花の付け根に小さなカボチャがたくさん実を付け始めました。今のカボチャは通称栗カボチャという美味しいカボチャですが、私たちが子どもの頃はひだの深い在来種日本カボチャが主流でした。栗カボチャほどは美味くありませんでしたが、それでも食糧難の時代だったから美味しいと感じてよく食べたものです。

 私たちは夏になるとこのカボチャを使って中をくり抜き目や鼻や口を包丁で作り、底から釘を打ちつけ中に御神灯の小さなローソクを立ててカボチャ提灯を作って遊んだものでした。カボチャに彫り込んだ三角や四角の目や口が何とも奇妙に暗闇の中で見えるのです。時にはそれを夜の肝試しに使って友達を驚かせては楽しんだことを思い出すのです。時にはスイカも使い同じようなことをしましたが、スイカは貴重だったので一番なりのどでかいスイカを使ってスイカ提灯を作ってお袋に大目玉をくらい、お仕置きにお尻に大きなお灸をすえられたことを覚えています。

 数年前私が道の駅の駅長をしていた頃、ジャンボカボチャが高齢者の間で流行ったことがありました。外国産の飼料用カボチャは桁外れの大きさに成長するため人間一人分の60キロをゆうに越え中には100キロを越えるものまで作られて、畑から車まで運ぶのにフォークリフトまで出動したハプニングもありました。旧重信町では農業後継者が「ドテカボチャカーニバル」なんてパロディ豊かなイベントを企画し話題をさらいました。旧重信町のランドマークは当分このドテカボチャをイラスト化して使っていましたから、相当のインパクトのあったイベントだったようです。

 わが町でも高齢者の皆さんが大きなカボチャを作りその大きさを競ったものですが、その活用はシーサイド公園に展示して見てもらうだけに終わったため、その後尻つぼみで腐ったカボチャの後始末に困りついには終わってしまいましたカボチャに彫刻をして夏の夜のカボチャ提灯を提案したのですが、受け入れてもらえず夢のイベントに終わったのは返す返すも残念でなりません。

 私たちはイベントをする場合、それがどれ程の経済効果を生むかという取らぬ狸の皮算用をしがちです。勿論それも大事ですがどんな楽しい遊び心があるかによって人へのインパクトは変わってきます。カボチャを展示するからカボチャを彫刻して提灯を夜の闇で楽しめば、カボチャは様々な反響を呼ぶことでしょう。ドテカモチャは牛の飼料にしかならず食えないカボチャですが、別のカボチャを使ってスープやお菓子を作ればこれまた名物が出来るのです。カボチャ⇒遊び心⇒カボチャの展示⇒カボチャの彫刻⇒カボチャの夜祭⇒カボチャの料理⇒かぼちゃのお菓子⇒地域が活性化するなんてシナリオは誰でも考えれる知識ですが、これを知恵に変えていく実践が地域づくりなのです。地域づくりは考えたり実践したりすると中々面白く、成果が出るとこれまた病みつきになるものなのです。

  「カボチャでも やりようやれば まちづくり たのしいことが いっぱいできる」

  「カボチャ食う その度思う 母の顔 提灯造って 叱られたっけ」

  「長雨に たたられカボチャ 不作なり しょうがないから 買って代用」

  「カボチャには 栄養沢山 あるという 半信半疑 今日もカロチン」 

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