shin-1さんの日記

○グリーンツーリズムのようなおもしろ教室

 双海の町にも暑い夏がやって来ました。学校が夏休みになって最初の日曜日だった昨日は、曇り空にもかかわらず涼を求めた沢山の人がシーサイド公園で海水浴を楽しんでいました。私は海の町に住み、シーサイド公園の海水浴場を造った張本人ながら、この10年間で一回も海水浴をしたことがないのですから不思議な話です。それでもシーサイド公園へ行くとそこここに夏を感じるのです。

(シーサイドの納涼席をお借りして開講の説明が行われました)

 今日はシーサイド公園を会場としたおもしろ教室に出かけました。今日のメニューはじゃこ天づくり、たこ焼きづくり、クッキーづくり、太刀魚のみりん干しづくりで、子どもたちが4班に分かれてローテーションで全てを体験するようにしました。

(講師は漁協女性部のおばさんたちです)

 みりん干しコーナーは加工場で行われましたが、その名の通り刀に似た薄っぺらい肉厚の太刀魚を秋刀魚に下ろす作業に子どもたちは悪戦苦闘しましたが、おばさん先生の巧みな包丁さばきに感心しながら果敢に挑戦していました。心配された包丁での怪我もなくホッとしました。

(おばさん先生の見事な包丁さばきに感心しながら見とれ、いざ自分がやってみると中々上手くいかないギャップも学習の一つです。

(クッキーづくりは子どもにとってパテシエやスイーツなどの横文字に慣れている子どもたちにとって最も関心のある作業で、色々な型で練った小麦粉をくり抜いていました)

(本物のたこ焼きも初めての体験で、出来たてのたこ焼きを美味しそうに試食していました)

 私がこのシーサイド公園の加工場を建設した時の構想では、この場所をシーツーリズムかグリーンツーリズムのような利用の仕方を考えていましたが、今日のメニューはまさに理想の形となりました。こうしたメニューを沢山用意して都市と漁村の交流を目論んで行けば多くの体験活動が出来て、地域も活性化するのです。

(木陰で昼食を楽しむ外国人と伊方町の面々、抹茶のサービスまでして日本の文化に触れていただきました)

 作業の途中、顔見知りの伊方町の方が国際交流で訪れている外国人を連れてシーサイド公園へ立ち寄りました。漁協女性部の方々のご配慮でたこ焼きの体験をしたり、鯛めしとよもくれ団子汁でもてなされ、時ならぬ体験や接待に何事が起こったのか分らず眼をパチクリして驚いていました。「お接待」という言葉の意味についても英語と日本語の微妙な違いから説明に悪戦苦闘しましたが、普段着のいい国際交流が出来たように思います。

 昼食は漁協女性部の皆さんの心のこもった鯛めしとよもくれ団子汁を賑やかに食べました。また女性部の親分である富岡喜久子さんのお話や、次回の漁船で底引き網を体験する準備や、8月のキャンプのプログラム立案に向けての打ち合わせを行い散会しましたが、子どもたちは楽しそうに学んでいました。

 実行委員会もメンバーが少しずつ積極的にかかわるようになって、今までにない方向へ進んでいます。更なる自主的な成果を期待したいものです。

  「ふるさとを 丸ごと体験 楽しいな 心と体 満腹満足」

  「太刀魚を まるでノコギリ 三枚に 思わず笑顔 出来たじゃないか」

  「外人が 突然乱入 臆せずに 自然対応 さすがおばさん」

  「じゃこ天を ハートの形 したつもり 出来た形は まるで草履だ」

 

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shin-1さんの日記

○人の一生

 最近は「揺り篭から墓場まで」という言葉がぴったりの、幼児の子育てから高齢者の生きがい論まで様々な講演の場と機会が与えられ、戸惑いながらも真剣に、それでいて楽しくお話をさせてもらっています。子育ては来た道の経験だといいつつ妻の専門だったし、老後の生きがいとなると行く道ゆえ、同じ敷地内に住む父親の姿を見ながらや世情一般の話題を拾い集めて話さなければなりません。大雑把にいえば子育て論は親の生き方であり、生きがい論は人間としていかに生きるかだと理解して話すようにしています。

 先日PTAの集会に招かれお話をしましたが、最近は青少年にとって好ましくない様々な社会現象の中で子どもを育てなければならず難しい時代になったと、親が異口同音に話します。確かに私たちが子育てした頃の社会はそんなに昔ではないのにコンビにも殆どなく、携帯電話やカードの心配も殆どありませんでした。故にPTAの子育て学級も子どもとお金にまつわる非行問題よりも、校内暴力など人間関係の葛藤のような話が随分話されたように記憶しています。

 親は子どもが体内に宿ると五体満足な子どもとして生まれてくるよう祈りながら出産準備をして誕生の日を心待ちにします。やがて「お腹を痛めた」という言葉がピッタリの出産作業を経て赤ちゃんの誕生となるのです。幼子の透き通った目でたじろきもせず一心に見つめられると、自分の心を見透かされているようでたじろくほどです。そんな純真無垢な子どもが家族や友人、社会の中でもまれながら成長して成人となるのですが、「あれ程純真で素直な子どもが何故成長するにしたがって悪い人間になるのか」が不思議だとどの親も口をそろえていうのです。確かに昔の子どもに比べて今の子どもは難しいとしみじみ思いますが、これは何も自分の子どもだけが特別ではなく、個々の差こそあれ誰しも通過しなければならない人生のトンネルであり橋なのです。このトンネルの抜け方や橋の渡り方が狂うとトンネルは人生の闇夜となったり橋は転覆の危険さえ生まれるのです。親だってあれほどお腹を痛めた可愛いはずの子どもなのに児童虐待だってするのですから、悲しいものなのです。

 年齢を重ね様々な経験を積んでいく中で利害や損得にさどくなり駆け引きや時には人をだます術を覚えたりします。世知に長け要領がよくなり世間を渡る知恵を身に付けもします。歳を重ねるにつれて身にまとった虚栄の衣の重さに耐えきれぬことだってあることでしょう。

 高齢者の方々にお話しするのはそんな時代を経てきたのだから、もうそろそろ少年の頃の瑞々しい瞳の頃に帰りこれからの人生をニコニコ・ピンピン・コロリンシャンとなるような人生の仕上げをして欲しいと訴えます。

 偶然にも今年わが家には長女と長男に子どもが誕生します。父親も90歳の卒寿を迎え、キセルの入り口と出口の人生を同時に味わっています。生まれてくる子どもにも老いてゆく親父にもそれぞれ愛情を持って一緒に生きてゆきたいと思っています。

  「孫親父 何処か似ている 仕草する ゼロに始まり ゼロに戻るか」

  「子育ても 加齢もまた 悩むもの トンネル鉄橋 幾つもあって」

  「今年また 親父作りし 長ナスが 沢山生って 近所すそ分け」

  「孫の目が 俺の瞳を じっと見る 百年木の 育ち始まり」


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shin-1さんの日記

○久しぶりのおご馳走

 昨晩松山に住む息子から家内に電話があって、「明日のお父さんとお母さんのの予定は?」と聞いてきました。私は妻に「明日の昼は空いている」といったところ、「久しぶりに昼飯でも食おうか」と誘われました。私は「雨でも降らなきゃあいいが」とついつい無駄口をたたいてしまいました。息子が「美味しいウナギ屋を見つけたので、ボーナスも出たことだしご馳走する」というのです。

 息子は今朝わが家へ帰り私を誘って人間牧場へ行きました。私は昨日人間牧場の草刈りをしたばかりなのですが、息子は先日水平線の家で開いた都市デザイン会議以来なので気にかかっているようで、先日買った新車の軽四トラックに乗って出かけました。今日の人間牧場は「雨でも降らなきゃあよいが」といった私の言葉そのままに、時折小雨のぱらつくあいにくの曇り空でした。

 二人で水平線の家の海側の戸を全部開け掃除機で掃除を始めました。水平線の家に行く度にこまごまと掃除をしているし、ゴミを出したら持ち帰りの習慣を作っているので大した汚れもなく20分ほどで掃除を終り、屋根にかかった戸井の掃除をする事にしました。先日の大雨で戸井が溢れていたので脚立を立て、息子が上に上がって戸井を綺麗に掃除をしました。戸井の集水マスには風で飛んできた木の葉がいっぱい詰まっていて、かなりの量でしたが、最後はバケツで水を流して確認しすっきりしました。親父から頼まれたお墓用のシキビを一束切り、神棚用のヒサカキも採取して人間牧場を後にしました。

 昼も近づいたので次男も誘い松山のウナギ専門店へ行きました。物のない時代に育った悲しさでしょうか、あるいは生まれながらの貧乏人根性でしょうか、こんな場所に来てメニューを見ると専門店らしく「高いなあ」が第一印象でした。若い者はいとも簡単に「うな重特上」と頼むのですが、値段を見ると何と一人前2500円もするのです。その上この店自慢の肝の付け焼きとウナギの入った玉子焼きを注文しました。少し時間はかかりましたが、出てきたうな重は蓋を開けてみてびっくり、先日馬路村の木下さんんからいただいた天然のウナギには適わないものの、今まで食べたことの無いような大きくてふっくらしたウナギの蒲焼が乗っていました。その味は息子がご馳走するだけあった中々のもので、久しぶりに「ご馳走を食べた」と満足のいく味でした。

 息子夫婦も後一ヵ月後には親になるため、息子嫁のお腹は随分目立つようになって、まるで横綱といった感じで、出産を控えて何かと準備を進めていて、息子などは名前の本などを買い求めて思案に余念が無いようです。親馬鹿ですねえ。

 息子の所に車を置いての外出だったので、帰りに息子のマンションに立ち寄りお茶をご馳走になりました。長男に生まれながら結婚しても親と別居し、多少家賃が高くついてもこんな夢のような暮しが出来るのですから今時の若い者はいいなあと、親である私たち親の理解に一応感謝の態度を見せる二人ですが、子どもが出来てさてこれからここで住み続けるか、わが家へ帰るか、息子たち夫婦も選択の帰路に立たされているようです。妻の意見ではもう少し二人+赤ちゃんの暮しをして、子どもが大きくなったら選択すればいいといいますが、はてさてどんな最大公約数が出ることやら・・・・・・。

 今日のウナギは親孝行のつもりだったのでしょうが、素直におご馳走様でしたと感謝します。「子どもを育ててよかったね」とはポツリ妻の言葉でした。

  「値打ちある うな重馳走 こりゃ美味い 子ども育てて よかった一言」

  「感動も しない日ごろの 飯だけど 今日のうな重 久々美味い」

  「何となく 元気が出たぞ ウナギ効き この夏乗り切る サプリの代わり」

  「このウナギ 高くつくねと 妻の弁 素直に喜べ 諭す言葉を」 



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shin-1さんの日記

○北方領土は?

 オーストリア・ウィーンの日本人学校に赴任している友人のN先生から2回目のメールが届きました。その内容を紹介します。

 「今回メールしたのは先日お送りした地図の中のショッキングな事実です。ウィーンの日本人学校で同僚の社会科教諭の先生が発見したのですが、日本の北海道の東、いわゆる『北方領土』のことです。見ていただければ分ると思いますが、北方領土でははっきりと『ロシア』の領土になっています。日本でよく見る択捉島の先に国境ラインがあるのではなく、知床岬の先、歯舞諸島、国後島の間に国境ラインがあります。色がはっきり日本と違うということでもお分かりいただけると思います。

(N先生から送られて来たヨーロッパ製作の世界地図の日本周辺をアップ撮影して見ました。N先生のご指摘どおりこの地図だと北方四島も南樺太も残念ながら全てロシア領のピンク色で塗られています)

 ヨーロッパでは、北方領土はロシア領であるという認識が当然のようにされているということです。と考えれば日本政府がいくらロシアとの議題にあげようとしても、応じない現状が何となく理解できます。さらにロシアと日本の領土問題は、世界の他の国の関心が薄いということも分ります。国際世論が日本に味方しない理由も分るような

気がします。

 追記すると、南樺太の半分についても、日本の地図は白く表示されていますが、ヨーロッパの地図ではロシア領になっています。

 世界から見える日本の現状の一旦ですが、領土問題は実効支配が長引けば既成事実となるという国際社会の常識を見た気がします。今さら日本政府や国民の今までの対応や現在の情報発信に一国民として残念な思いがします。」

 手紙の本文はここで結ばれていますが、N先生は私に先日送ってきた世界地図に触れ、「人間牧場の教材として、一人でも多くの日本人にこのことを知らせていただきたいとメールしました。私もこちらで機会を見て話題にしたいと考えています」と追伸しています。

 私は早速N先生から送られて来た世界地図を広げて見ました。確かにこの地図では日本が主張している北方領土がロシアの一部としてピンクに色塗りされている樺太もピンク一色なのです。

 私がアメリカで32年前見た世界地図の真ん中に日本がない世界地図や、双海町の青年が海外派遣先のオーストラリアで南北逆さまの世界地図を見た時の驚きが、N先生からの手紙で伝わってきました。

 島国日本の中で鎖国されたように暮らしていると中々分らない出来事が、外の目で見るとよく分ります。私は早速この話をN先生の追伸通り人間牧場の教材として一人でも多くの人に伝えたいし、「北方領土が日本固有の領土である」と声を強くして訴えて行きたいと思っています。

 それにしても嬉しかったのは、N先生が遠い異郷の地にありながら日本人として北方領土のことを真剣にとらえているということでした。忘れまじ祖国魂、忘れまじ日本人魂に大きな拍手を送ります。

  「ウィーンから メール届いて 驚いた 所変れば 見方も変る」

  「遅いねえ 戦後早くも 六十路越え 未だ解決 出来ぬ苛立ち」

  「離れても 彼はやっぱり 日本人 地図見て感じ メールで伝える」

  「鎖国人 多いわが町 町民に 目と耳開け 言えど応えず」

  

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shin-1さんの日記

○人間牧場のもう一つの魅力

 昨日の夕方から深夜にかけてのどしゃ降りが止んだ今日もそうですが、先日時ならぬ台風4号の襲来の明くる日もそうでした。海と空の色が普通の時と全然違うのです。まず今日の海は午後になると20キロ西の肱川の水潮が満ち潮に乗ってどんどん東に向かって勢力を伸ばす様子が人間牧場から手に取るように見えるのです。海が青と黄青の二つに色分けされ混ざることなく潮目を作ったままで移動するのです。塩分の濃度が醸すこの自然現象は大雨の後でないと見えないのです。あいにくカメラを持っていなかったのでその全貌は残念ながら紹介することはできませんが、必見に値する人間牧像から観察できるもう一つの魅力です。

 続いて7月6日にやって来た台風4号の去った明くる日、高知県春野町での研修会が中止になったため、人間牧場へ見回りに行って吹き返しの北西の強風が吹く中で、これまた面白い海と空の色を発見したのです。風は例え強風が吹いていてもその様子を写真に収めるのは中々難しいものです。雲の流れが速くても、風の吹き方が強くても、また風が木々を揺らす音がなっても、それらは止った状態や無音でしか写らないのです。それでも私はあえて台風一過の吹き返しの様子を写真に収めるべく挑戦してみました。残念ながらその結果は散々でした。唯一の写真が下の一枚です。

 これは人間牧場の開拓を始めた時無数にあった茅の株立ちなのですが、これ以外は全て鍬で抜根して焼却処分してしまいましたが、季節の演出のために残しておいたのです。冬は枯れ草風に、夏は茂る姿が涼しげに、そして秋はススキとして季節感を味あわせてくれるのです。この日は突風が茅の葉っぱをゆらしていました。周りの草を刈った後だけに余計茅の風に揺れる様が風の強さを感じさせてくれました。

 一方空に目をやると風邪の強さに翻弄されながら雲がちぎれて飛び交い、山にはその雲が集まって白い集団を形成するのです。時折雲がちぎれて青い夏空が顔を出すのも味のあるコントラストでした。

 港の船だまりには台風以来漁を休んでいる漁船がお行儀よく係留されていました。杉の梢を渡る風はピューピューと音を立てていました。一方沖合いは雲が低く立ちこめ空を映す鏡とでもいえるように鉛色の空が鉛色の海となって、水平線が二つあるようで海と空の区別がつかないほどになっていました。

 一番凄い光景はちぎれて流れる雲が海面に黒く写って海面を西から東へ走り去る様子でした。その雲が海面に写った様子を同行した孫の朋樹は「おじいちゃん海の中を黒い怪獣が走りよる」と表現してくれました。そう、まさに怪獣です。雨水で濁った黄青の海面ゆえに余計ドラマチックな雰囲気にさせてくれるのです。

 人間牧場の魅力は180度開ける瀬戸内海を一望できることですが、それにも増して私がコスモス(宇宙)牧場と名前を付けた裏付けがこの海と空の変化であることも付け加えなければなりません。

 海も空も夕日も島も、水平線も魅力なのですが、もう一つ闇夜に光る北極星や北斗七星、それに夏の天の川などまだ味わっていない魅力が沢山あって、思い出すだけでもワクワク・ドキドキするのです。私は人間牧場を持っていて幸せです。

  「水潮と 塩水お互い せめぎ合い 上げ潮乗って 次第に東」

  「海走る 黒い塊 怪獣と 孫が命名 その気で見れば」

  「茅揺する 風を写真に はいパチリ 俺の腕では これが限界」

  「いつまでも 見ていて飽きぬ 海と空 台風残す 土産楽しむ」

 

 

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shin-1さんの日記

○久々の広島

 梅雨明け間近を感じさせるここ2~3日の天気ながら、午後から雨という天気予報を信じて雨が降らなければ邪魔になりそうな雨傘を持って広島への講演に出かけました。長年使っている傘を先日訪ねた高知県馬路村の木下さんの車に忘れて帰り、「今時消耗品の傘ぐらいで」と木下さんに言われそうなので「送り返してください」とも言えず、「あんたも歳だ」と言う妻のことばを甘んじて受け、別の傘を用意してもらいました。雨傘に木になるカバンを提げた姿は山高帽子でも被るとまるでフーテンの寅さんのようですが、講演なのでそこまで砕けることもできず、私にすれば正装に近い背広にネクタイという出で立ちでの外出です。

 海の町に生まれ、海の学校を卒業し、海の町のまちづくりをしてきた私にとって海は安らぎのある場所で、特に港の風景を見ていると何処となく安らぐのです。朝の松山観光港は平日のため早旅のお客さんの数もまばらでしたが、広島へ向かう高速船、大分へ向かう大型フェリー、広島へ向かうのんびり小型フェリーなどが慌しく発着し、見ていると沖に浮かぶ島々とともにまさに絵になる光景なのです。

(7時・8時・9時と一時間おきに出発する広島行きの高速船、広島発は7時30分・8時30分・9時30分と分り易すく覚え易い時刻表です)
(大分へ向かう朝便ダイヤモンドフェリーの白い船体、黒い煙をはいてわが町の沖合いの瀬戸内海を走ります)
(久しぶりに瀬戸内海のクルージングを楽しもうと私は行きの便はこのフェリーを選びました。乗客の中には知人友人もいて話に花が咲きましたが、お陰で本を読んだりハガキを書いたりののんびり旅を片道だけでも楽しむことが出来ました。

 天気予報はよく当たるもので、音戸の瀬戸を通過する頃には早くも雨が降り始め、広島宇品港に着いた頃にはかなり激しい雨足になっていましたが、船着場からは先方さんの指示通りタクシーに乗りこみ、雨で混雑する広島の街中を運転手さんと雑談しながら会場入りしました。

 今日の研修会は広島県自治総合研修センターの主催事業で地域づくり支援研修と銘打っての研修会です。このセンターへは毎年お邪魔していますが、この研修会で知り合った方々との交流も生まれ中々味のあるプログラムなのです。私がノンストップで2時間話し、その後1時間20分余り質問形式で話すのですが、日ごろ話せにないようなことまで話してしまいました。でも午後の時間にもかかわらず3時間半の長丁場ながら寝る人もなく緊張感を持って対峙することが出来ました。

 


 ブログに載せるからと了解を得て研修会の最後のリラックスした雰囲気の写真を撮らせていただきました。25人の顔はそれぞれ輝いて見えました。

 帰りは高速船に乗って帰りましたが、船中や船を下りてからもどしゃ降りの雨に加え雷と稲光がすごく、お陰で船着場から駐車場まで、持参した傘も用をなさないほどの荒れようで、ズボンも靴下も水浸しとなってしまいました。せめて研修の成果を水に流さないようにだけはしたいものだと思いました。

 追伸

 広島県の職員である知人の荒谷さんがこの四月からセンターに赴任していて、久しぶりに懐かしくお話しました。今日の研修会は所長さん以下センターの職員さんも同席して熱心にお話を聞いていただきました。

  「傘持てど 用もなさない 程の雨 折角用意 したのに無念」

  「妻用意 別の傘持ち 出かけたが 無くした傘が 忘れられずに」

  「失敗を 聞きたい質疑 多くあり そこに隠れた ヒント幾つも」

  「熱帯びて 早口喋る 二時間に 聞き手応える 雨の研修」 
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shin-1さんの日記

○あなたは何語で夢を見ますか

 私たちは自分の思いを言葉や文字に表現して生きています。それ以外にも心と頭の相関関係で色々なことを考えたり思ったりするのですが、それらは全て日本語という言語で表現するのです。

 昨日他愛のない夢を見ました。私が見た夢の内容はかつてアメリカへ行った折、外国の友人となったアメリカ人との対話でした。ジョンという日系三世とともに青年の船に同乗したのはもう30年も前の出来事なのですが、以外や以外私もサンフランシスコの友人ジョンも、まるで若く当時のままの姿なのです。夢の中では私が日本語で喋ると彼もたどたどしい日本語で返してくれました。英語の話せない私が見た夢は勿論日本語なのですが、アメリカ人は何語で夢を見るのだろうかと、ふと思いました。

 実はこの夢には伏線があって、青年の船に乗船したアメリカ人やメキシコ人、それに私たち日本人が、アメリカへ向かって走る日本丸の船内で「あなたは何語で夢を見ますか」というシンポジウムを開いていたのです。これももう30数年前の出来事なので全てを覚えてはいませんが、議論は白熱し殆どの人が自国語で夢を見ると答えました。しかし渉外という語学サービスのために乗船した日本人の仲間の中には時々英語の夢を見るという人もいました。話はとんでもない方向に進んで、「じゃあジョン万次郎は何語で夢を見たのか」という話に花が咲きました。ジョン万次郎は土佐清水出身の漁師でした。漁に出て難破し南鳥島まで流され、アメリカの捕鯨船に助けられ船長の手厚い知遇によって晩年は明治政府の役人となった歴史上の人物です。ジョン万次郎のことを知っている人は「望郷の念にかられ日本語で夢を見た」という人もいれば、「アメリカの暮しが長かったので英語の夢を見た」という人もいました。また「日本語と英語を夢の中でも使い分けたに違いない」とも意見が出ました。本人に効いたことがないので定かではありませんが、全て正しいのではないかと思うのです。

 先日ある外出身のタレントが「私は日本に憧れ日本が大好きで、今も日本に住んでいる。日本の国籍も取得して一生涯日本に住みたいと思う。私は法律上は日本人になりきっているのですが、残念ながらいくら日本人になろうと努力しても、未だに夢は英語で見るのです。私は永久に真の日本人になれないかも知れない。」と少し寂しく語っていました。そんなものなのかなあと思いつつ、その外国人の話を興味深く聞かせてもらいました。何気ないことなのですが、夢の出所を聞いただけでも国を愛する気持ちに微妙な影を落としていることに気がつくのです。

 ふとわが町からオーストリア・ウイーンの日本人学校に、この春赴任していった中尾治司先生の事を思い出しました。先生は多分確実にウイーンで見る夢は日本語だろうなあと思いつつ、ひょっとしたら帰る頃にはドイツ語の夢を見れるまで進化するのではないかと思ったりしました。早速インターネットでこの議論もしてみたいと思っていますが、一緒に旅立った息子さんや娘さんはどのような夢を見るのか今から楽しみです。

  「俺はなあ 見る夢全て 日本語だ 字幕スーパー なくても分る」

  「三十年 前の出来事 夢に出る 夢の中では 俺は若者」

  「ジョン君に 会ってみたいな 今頃は 何処におわすか 便りも途絶え」

  「日本語は 六十二年も 使ってる だから当然 見る夢全て」



 

 

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shin-1さんの日記

○大学フィールドワークで西予市へ

(卯之町駅前の看板・愛媛県内で久万高原町に次ぐ広さの西予市の様子が一目で分る)
(卯之町駅の涼しげな風鈴)

 今治市、伊予市と訪問した大学のフィールドワークの授業も、今日は前期最後の訪問地である西予市へ行きました。学生は松山発8時の特急に乗って卯之町を目指しましたが、私は準備の都合もあるので車で一足早く西予市役所へ到着しました。梅雨の中休みとでもいうべき蒸し暑い天気でしたが、顔なじみの井上さんや三好さん、それに三田地さんや上口さん、松本さんが献身的な対応をしてくれて、学生も至れる尽くせりのいい研修をさせてもらいました。午前中の1時間余りの井上さんの説明は私には出来ない、かなり密度の濃い資料を用意してもらっていて、学生にはどう聞こえたか分りませんが、さすが気配りの井上さんです。質問や議論はどちらかというと周囲の小さな市町村を吸収したような合併をした街で、いずれ集中管理に移行するだろうという雰囲気が読み取れましたが、西予市はまだ合併した5つの町の地域個性を大事にした並列型のまちづくりが行われており、調査サンプルとしてはいい比較が出来そうです。

(学生の研修風景)
(説明をしていただいた井上さん・上口さん・三好さん)

 午後は古い町並みの残る中町に繰り出し、中町休憩所で昼食を食べました。その後古い開明学校で昔の授業を体験しました。先生役の女性が昔の机や椅子に座って掛け図を使って勉強するのです。その授業の実に上手いこと上手いこと、昔にタイムスリップしたようで驚きました。私は旧宇和町の開明学校やそれぞれの施設は何度もお邪魔しているのですが、学生と学習や調査という目的で訪れるのは初めてですからまた違った発見がありました。

(日本でい一番古いとされる開明学校)
(学生たちも昔の机と椅子に興味深々でした)
(開明学校の教壇立つ現代の女子先生)

 特に開明学校の入口にある民具館の充実ぶりは目を見張るものがありました。残念ながら限られた時間での駆け足見学だったので詳しく見ることは出来ませんでしたが、もう一度ゆっくり訪ねたいと思いました。

最後に訪れた先哲館には馴染みの松本作幸さんが勤めていて、ここも明治維新の時代を生きた人々などを中心にかなり詳しい展示があり興味をそそりました。学生にとっては中町の町並みや特別に入れてもらった商家など、日ごろ目にすることのない地方の文化に触れて感激の面持ちでした。

(二宮敬作がかくまったとされる高野長英の隠れ家)

 私の友人に岡崎さんという街歩きの専門家がいます。彼と時々街中を肩を並べて歩くのですが、彼の歩き方を見ていると実に楽しい歩き方をします。足元のマンホールの蓋を踏みつけて歩く私と違い、彼はマンホールの蓋にも興味を示し、持ってるカメラに収めたり薀蓄を語るのです。また屋根の瓦や窓の形など、街角ホームズという異名どおりちょっとした珍しいものをどんどん見つけるのです。学生も岡崎さんに似ていて、24人も学生がいると「先生これ面白い」と盛んに指を刺します。今日も醸造醤油屋の前で面白いものを見つけました。いらなくなったウンスケや醤油樽を使って稲を植えて道端の足元を飾っているのです。日本最初の女医であるシーボルトの娘「おイネ」さんにちなんでイネを植えたのだろうか?などと話はどんどん盛り上がり、ちょっとのスキに酒蔵に入って「面白いものを見つけた」興奮して話したりしていました。今回は谷口学芸員の案内で街歩きしましたが、いい学びとなりました。ちなみに谷口さんは新採研修で私の話を聞いたことがあるらしく、今回は逆にお話を聞かせてもらうことになりました。

  「梅雨晴れ間 そぞろ歩きの 街中で 足元目上 色々見つけ」

  「どの町へ 行っても顔の 効く俺に 学生不思議 どうしてですか」

  「七十が 二十になった 県内の 町を訪ねる 昔の顔で」

  「特急で 往復高い 研修に 学割利かす 知恵でチャッカリ」 


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shin-1さんの日記

○ニュージーランドからのお客様

 「ハローシンチャンゲンキデスカ」、流暢な日本語で握手を求めてきたのはニュージーランドに住むクレイグ・ロームさんです。一昨日の夕方役場の武田さんから電話がかかってきました。「クレイグが日本に来るようなのでお会いしませんか」というのです。私の町の海外派遣事業の目的地がニュージーランドとオーストラリアだった最初から、ツアーの引率をしてもらっていた中田広志さんの友人のクレイグに、現地案内と通訳をしてもらっているのです。特に私は11回目の団長として引率していた時以来の知り合いなので、懐かしさも一入なのです。

 夕方外出先から帰宅し着替えようとしていた矢先に武田さんに連れられたクレイグがわが家にやって来ました。聞くところによるとクレイグは日本中を旅しているそうで、昨夜大分から八幡浜にフェリーで渡りヒッチハイクで来たのだそうです。普通日本人だとヒッチハイクは金のない若者がやる旅の手段だと思われがちですが、彼はいたって平気でフェリーの中で知り合った運転手さんに乗せてきて来てもらったと、むしろ得意げにそのことを話すのです。玄関先で着替えもすまない私はとりあえずパジャマのズボンをはいただけで対応しましたが、昔と変わりない底抜けな明るさがとても印象的で、話はどんどん弾んでインターネットでメールをやり取りしようという話にまで発展したのです。

 今晩から二日間は武田さんのお家でご厄介になるそうですが、妻は日本酒とハウスみかんを手土産に持たせてひとまず帰って行きました。彼は私の人間牧場にも興味があるようだったのですが、残念ながら明くる日は一日中出かけることが決まっていて、武田さんにご案内するよう頼んでおきました。武田さんは息子さんも武田さん自身もクレイグの家に泊めてもらって個人的なお付き合いが深いだけに、わが町の窓口的存在のようです。

 彼から手渡されたパンフレットによると、彼はツアーコンダクターとでもいうべきオリジナルツアーの仕事をしています。日本語が話せるニュージーランド人として日本人には馴染みの人なのです。彼の企画するツアーはアットホームな雰囲気で、特にマウントクックツアーや世界一の花の町クライストチャーチ見学は私たちの旅の思い出でも忘れられないものとなっています。多分ニュージーランドの思い出は彼がいなかったらこれほどいいものにはならなかったと感謝するのです。

 彼は1954年生まれですから現在52歳のはずです。上の写真を見てください。どう見ても私より年上と思うのですがそれは私の欲目なのでしょうか。ちなみに私は彼より10歳も年上なのです。でも肉体の若さはさすがで安上がりな旅を心がけている私など問題にはならないほどの差なのです。彼に会う度に私の心の有りようを考え、より若くより強く、よりはつらつとしたいと意欲を沸かすのです。

 中田さんの紹介でニュージーランドで初めてクレイグに会ってからもう10数年が経ちました。その間彼は度々日本にやって来て風の如く去って行きましたが、何故か妙に気になる外国人なのです。

 私には私に影響を与えるような外国人の友人はそんなにいません。クレイグはそういう意味で私に影響を与える数少ない友人の一人です。今度会うときまでにもう少し進化していたいと今回も思いました。

 外国との交流が盛んになって外国人とで会う回数も増えてきましたが、日本人は残念ながら外国人に比べ心の開きようがまだ十分でないような気がします。彼のようにスコットランドに生まれ、ニュージーランドに永住の地を求めたフロンティア精神を思うと、島国日本の閉鎖性をしみじみ感じるのです。日本人が日本人としての誇りを捨てつつあることも気がかりです。今や日本人は日本を知らない日本人になりつつあることも事実です。もう少し日本を知ってる日本人になりたいものです。

  「クレイグに 久しく会って またショック 進化誓って 握手の別れ」

  「この町へ ヒッチハイクで 来たという 偉いもんだね 見習いたいね」

  「会う度に 地球がだんだん 狭くなる 彼とネットで 交流するか」

  「十年も 前の出来事 思えぬが マウントクックや クライストチャーチ」

 


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○夏風邪

 風邪は寒い冬にひいたり冬の病気かと思いきや、何と夏だってひくのです。この2~3日妻の体調が優れません。どうも夏風邪をひいたようで扁桃腺が腫れて物を飲み込むのもしんどいし体がだるいといいます。妻は近所の歯医者さんにパートで勤めており、その歯医者さんが居り屋と別棟の医院を新築しましたが、新築ゆえに冷暖房が完備され、特に夏の冷房がよく効いて寒いくらいだというのです。その体験は私にもあって木造の役場が近代的な鉄筋コンクリートに建て変わった時、冷房が入って、馴れない私は夏風邪をひいてしまったのです。冷房が身体に合わないと思っても集中管理の冷房なので自分だけのわがままをいうことも出来ず、ましてやまちづくりを担当して外の仕事で外出することが多いため、その温度差たるや20度もあって、夜寝れない不眠症にまでなったのです。そんな苦い経験を持っていましたから、教育長時代の2年間は教育長室という個室を与えられたので、余程のことがない限り教育長室北側の大きな窓を一日中いっぱい開けて外気とともに勤めたものでした。お陰で冷房病に悩まされることもなく役所生活を終わりました。

 現代はこのように人間が快適に過ごすために作り出した冷房という空間が思わぬ病気を誘発しているのです。現代は学校さえ大量の化石燃料を使った冷房が入って、子どもたちは生まれた時から冷房のご厄介になっていますが、暑いといっても四国、寒いといっても四国、夏の暑さや冬の寒さもしのげないというほどでもないのですから、もっと体本位や環境本位の事を考えて暮らした方がいいような気もするのですが、今やどの家庭にも冷房が普及して、古風にも冷房なしの暮らしをしているのはわが家くらいなものなのです。

 しかし気をつけなければならないのは、こうした冷房による体への影響は歳をとってから身体に現れるということです。特に女性は冷え性という婦人病を持っているだけに油断はできないのです。わが妻の夏風邪もその現われかも知れにと思うので、もうそろそろ仕事を辞めた方がいいと勧めるのですが、私の退職後の暮しの足しにと頑張っている次第です。

 食べるものとて事欠き栄養失調になった私たちが子どもの頃とは違い、随分物が豊かになりました。世の中が進むに連れて健康になるはずの現代なのに、今はかえって糖尿病などになるのも皮肉な話です。私たちが笑っていたアメリカの糖尿病も今は発展途上国から笑われる日本になっています。わたしたちはもうそろそろ「体本位」「環境本位」に考えをシフトし変えなければ、それこそ取り返しのつかないことになりそうです。親の糖尿病は子どもに遺伝するというショッキングな話や、携帯電話の電磁波が子宮や卵子に悪戯するといった話にも耳を傾けたいものです。

 妻の病気は気をつけろという黄色信号だと思えば、赤でなく青い信号に戻せるかも知れません。

  「風邪病 冬の病気と 思いきや 冷房効き過ぎ 何とも贅沢」

  「美味いもの 食い過ぎ病気 誘発す 貧乏暮らし 意外や元気」

  「俺の家 未だに冷房 せずにいる 遅れているか 進んでいるか」

  「冷房に 慣れた親から クレームが 冷房なしで 成績上がらぬ」


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