shin-1さんの日記

○いつの間にか背広とネクタイ

 35年間も地方公務員と名のつく仕事をしていると、いつの間にか背広とネクタイが手放せなくなっている自分に気がつきました。役場に入った頃は背広とネクタイの日々が窮屈で、特にワイシャツにネクタイの出で立ちははいかにも様にならない雰囲気でした。一生こんな格好が続くのかと思うとまるで梅雨空のようにうんざりして気が滅入ったものでした。

 ところがどうでしょう。一年二年と年月が経つにつれて背広とネクタイが何とか様になり、何処へ行くのにも正装に近い姿で行動をするようになっていたのです。そしてリタイアして早二年4ヶ月が経つというのに外へ出る時は必ず背広にネクタイを着用しないと何か可笑しい自分を発見するのです。最近はクールビズとかいう夏型の格好が流行って、集会に行くと偉い人がノーネクタイで私のような下っ端がネクタイを締めている珍現象さえ見られるのです。先日も生協の理事会に出席しましたが、理事長以下理事の方はみんなノーネクタイで、私一人がネクタイを着用していたものですから、理事長さんか気遣って「若松さんネクタイはしなくてもいいですよ」と言われ、時代に後れている自分を恥じました。でも何故か35年の積み重ねによる癖は直らず今日もネクタイを締めて集会に出かけよとしているのです。

 私のは背広もネクタイも好みがあって、どれもこれもを満遍なく着こなすことはありません。何点かをまるで親の敵のように着たり結んだりするものですから、くたびれたりくすんだりしていますが、やはり愛着のあるものは使うように心がけています。35年間で作ったり買ったりした背広とネクタイは私専用の洋服ダンスにクリーニングをして行儀よくつるされていますが、もう十年も袖を通していないものは捨てようと妻が衣替えの度に提案するのですが、勿体ない世代に生きてきた私にはそんな勇気もなく今年も洋服ダンスの隅でひっそりとしています。

 最近はカジュアルが普及し、役所でも毎週一回をカジュアルデーなどと銘打って普及を図っています。多分商店街や商工業者からの地域活性化への提案なのでしょうが、私は逆にカジュアルといえばさてどんな服装にしようかと、これまた悩むのです。私は自分の着るものは下着からワイシャツやカジュアルに至るまで全て無頓着で妻の言いなりです。言いなりといいながら「これは似合わない」とか文句をいって着ないものですから、選んで買ってきた妻はお店に行って変えてもらったり苦労も多いようです。妻曰く「あんたが気にするほど周りの人はあんたの事を気にしていません」と言うのです。納得納得です。

 私は企画調整室や地域振興果など企画部門が長かったのですが、普通の町の企画部門だと背広にネクタイが普通の服装なのに、現場第一主義を貫いたため夏も冬もジャージを着て現場へ行きました。あるイベントの時ある女性から「若松さんは何時も同じ服装だね」と、批判とも取れる意見をいただきました。妻にその事を話すと「それ見たことか」と、早速私をデパートへ連れて行き洋服のコーディネートをしてくれました。私はこんな面倒臭いことが苦手なので逃げ帰り、妻と人もめした苦い経験があります。

 病気入院手術を経てすっかりスリムになったため、私の背広は若い頃のも含めて合わないものは何一つなく全てOKです。「お洒落は自分だけでなく一緒に歩く私にとっても必要」といった妻の一言も耳にこびりついていますが、どうやら背広とネクタイ姿は死ぬ間際まで治らない私の病気かもしれません。

  「ネクタイを 締めて出かけた 会合に 締めぬ偉方 こちら恐縮」

  「ああ俺は 背広ネクタイ 姿から 脱皮も出来ぬ 変な病気か」

  「あれ程に 窮屈だった ネクタイが 今では様に なるから不思議」

  「カジュアルで 来いと便りに 書いてある さてさて俺は 何を着るのか」 

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shin-1さんの日記

○塞いでしまったわが家の池

 親父の自慢だった池の鯉が原因不明の死を遂げてから早1ヵ月近くが経ちました。わが子のように可愛がっていただけに、落胆も相当なものでついには残りの鯉も親しい人に譲り、これまた自慢の自動浄化施設も取り壊されて一緒に引き取ってもらいました。鯉のいない池は水を干してまるで親父の心そのままにポッカリと空いて空しい姿をさらけていました。親父の計画では近所の土木業者に頼んで埋め立ててもらう予定のようでしたが、土木業者が工事について打ち合わせに来たところ、池はこのまま埋めることが出来ず、一度池を壊して底を割らないといけないというので、急遽池の上に鉄筋でアングルを組みコンクリートを打設し貯水タンクのようにして浸かったらどうかという話になりました。私も大賛成で池として使わずとも倉庫として活用することも可能なので、話はとんとん拍子に進み、先週工事が行われました。私は出張が多く留守中の出来事なので関わることが出来ませんでしたが、一昨日マク板などが全て取り外され、綺麗なタンクがお目見えしました。

 

 高さは1メートル50センチ余りなので、中は中腰でないと入れないのですが、広さは畳4畳分くらいあって奥行きが広く倉庫にしてつかったらどうだろうかと考えています。親父はこの地下室を倉庫にすることは余り乗り気ではありません。倉庫が余りあるとかえって物が増え過ぎて片付かないし、かえって自分の仕事が増えるだけだというのです。確かに一利ある言い分ですが、田舎の家の中には田舎が故に持ち合わせなければならない品物がいっぱいあるのです。例えば正月のお餅を作るというだけで餅つき道具一式とか、味噌や梅干しを自家製で作ればその保存場所だってかなりのスペースを取られるのです。私はこの部屋を思い切って自家製食物倉庫にしてはどうかと提案しています。味噌や梅干し、梅酒などの貯蔵はかなりの長い時間を要しますので、温度の一定している地下室は最適だと思うのです。近々に温度を測りその使い具合を調べてみようと思っています。

 親父は数日前から台風が来る事を予想して入口の蓋を作り始めているようです。木製の枠を作り板を張り、その上にトタン板を張って作る算段のようですが、入口の終いが出来ていないので近所の左官産にお願いしてブロックを積んでもらったようです。上塗りをしてもらえば出来上がるのでしょうが、とりあえず今度の雨はしのげそうだと一人満足して作っているようです。

 90歳になり老いてもなおこんな算段を出来る親父は偉いと思います。私など口ばかしで親父のような企画力や行動力や決断力は真似の出来るものではありません。親父の年金の蓄えもこうして私たち後に続く家族のためにせっせと再投資が行われており、これも感謝をしなければなりません。何かと物入りながら年金生活では投資もままならないわが家ですが、親父の存在は目に見えない部分で家族貢献をしています。感謝・感謝です。

  「池の上 知らぬ間に ふさがれて 立派な地下室 完成間近」

  「九十の 歳を感じぬ 親父殿 今日もせっせと アリ這うように」

  「親雀 小雀住みか 修復し 孫の雀が 怪我せぬように」

  「昨日まで 鯉が泳ぎし 池辺り 今日は地下室 生まれ変わりて」

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shin-1さんの日記

○宮本常一生誕百年記念大会に出席して

 私たちの町の沖合いに浮かぶ周防大島は近いようで遠い町です。天気が良いときは手の届くような位置にあるのに、何故か縁遠いのです。胃尼まで県境であることや交通手段がなかったからかもしれませんが、周防大島に行くには松山市三津浜から柳井行きフェリーか岩国行き高速船に乗って途中下船しなければならないのです。私はこれまで5~6度周防大島を訪ねていますが、2度ほど講演に行ったのと視察に3~4度訪ねているようです。

 今日はこの周防大島町内4町が合併してできた人口2万人余りの周防大島で開かれる予定の宮本常一生誕百年記念大会に参加するため、この日のために知人友人が企画したツアーでの参加となりました。普通だとバスツアーなどが考えられますが、今回は旧中島町の方海上タクシーをチャーターし三津浜から旧中島町を経由して直接周防大島へ乗り込む算段が出来ました。

 伊予市の門田さんや岡崎さん、それに地域政策センターの松本さんと伊予市門田石油で合流して三津浜港でさらに豊田さんたち松山組と合流し8時30分に出発しました。

 見覚えのあるこの船は、無人島キャンプの折お世話になった船で、船長さんも顔を覚えていてくれて爽やかなごあいさつをしてくれました。旧中島町までの所要時間は30分余り、松山から乗船した勝田先生と教育談義に花が咲きあっという間に旧中島町に着き、中島のメンバーと合流して二神と津和地や怒和島の間を通って情島付近の水道を通りましたが、初夏の抜けるような海と空の色、釣り船や入道雲の白い色が眩しく太陽に輝いていました。柳井航路のフェリーが水道の急流を気持ちよさそうに走り、長閑な瀬戸内の海を私たちを乗せた船は波しぶきを上げて突っ走りました。

 10時に伊保田港に接岸し迎えに来ているホテルのバスに分譲して、陸奥記念館や島影織りなす海を横目で見ながら文化交流センターへ到着しました。私が以前にこの島に来た時はなかった文化交流センター(宮本常一記念館)や道の駅、星野哲郎記念館などが相次いでできており、まばらな人影ながら少しばかりの賑わいを取り戻しているように見えました。

 星野哲郎記念館はあいにく休館日とかで見学できませんでした。せっかく遠方より訪ねて、しかも宮本常一生誕100年記念大会に全国から集うというのに、このミスマッチはいただけないお役所仕事ではないかとブーイングが聞こえましたが、仕方なく一行は文化交流センター内にある宮本常一記念館を微細に見て回りました。

 宮本先生が深く関わっただけのことはあって実に見事な展示でした。海の町で海の資料を沢山保有するわが町には残念ながらこうした展示もなく長い間ゴキブリの巣に甘んじている事を、いささかなりとも関わった私としては多少の恥じらいをもって見学させてもらいました。

 上のような面白いパネルを見つけました。私たちが無人島キャンプで深く関わった由利島の歴史を示す展示です。私は懐かしく食い入るように見つめました。有人島が無人島になる栄枯盛衰の記録がしっかりと記録されていて、頭の下がる思いがしました。私たちが島に初めて渡ったころはこの面影が少しばかり残っていましたが、今年の夏埼玉県の北本の人たちと訪ねた時は風化が激しく人の住まなくなった島の末路を見ているようで、心が痛みました。

 昼食をとるため片添ヶ浜にあるサンシャインサザンセトというリゾートホテルへ出かけました。昼食ながらお粥が出てかなり満足のいく昼食です。私はお粥をお代わりまでしてしまいました。しかしこのホテルといい、砂浜といい、植栽された椰子の木といい、どこか日本的でないどこか外国を真似た違和感を覚えたのは私ひとりではないようです。ひと頃物まねといわれるエーゲ海や地中海、イタリアやハワイを模写した施設が相次いで誕生しましたが、今風はやはり日本らしさが求められているのかもしれません。しかし夏場はそこそこ人が来るのですが、冬の経営は大変だろうなあと他人事ながら同情したのです。

 食事が終わると再び全体会場へ逆戻りして式典と記念講演、それに一人芝居に参加しました。

 特別講演「宮本常一から学んだこと」は「旅する巨人」の著者で有名なノンフィクション作家佐野眞一さんの興味深い話を聞きました。この話は長くなるので次の機会に少し詳しく紹介します。

 また先日NHKの四国羅針盤という番組で紹介した坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」の鑑賞がありましたが、この芝居についても別の日に紹介してみたいと思います。

 沈む夕日が西瀬戸の空と海を染め分け、長く尾を引く航跡を照らしながら、台風が近づいているとは思えない穏やかな海を旧中島町経由で再び三津浜港に幾分早い午後7時ころ帰って来ました。三々五々県内各地へ散らばりましたが、宮本常一の誕生日に当たる8月1日は私にとっても忘れられない一日となりました。

  「生誕の その日を期して 宮本の 生まれし里を 訪ね歩いて」

  「セピア色 染まりし古い 写真見る わがふるさとの 昔重ねて」

  「由利島に 二十年行き 一枚も こんな写真を 残せずウウーン」

  「凡人の 凡行嘆く 凡果なく これから生きる すべは何ぞや」 


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shin-1さんの日記

○ついうとうと

 一日の3分の1である8時間は寝る時間だそうですが、普通の人だと結局人生の3分の1は寝ているという計算になります。私の場合は12時に床に就き4時に起きるという日課ですから毎日4時間の睡眠です。それは余りにも少ないという人もいるのですが、睡眠時間は人それぞれで個人差があるのですから一概には言えないようです。毎日まるで時計のリズムのようにそんな暮しをしているのですが、先日の夜はは何故か寝付かれず1時間おきに目が覚めて仕方がありませんでした。悩みやストレスや押し迫った用事がある訳でもないのに寝付かれないのはかなり苦痛で、親父が「寝れない」とこぼす度に「寝ないで死んだ人はいない」などと戯言をいってはぐらかせていましたが、いざ自分がその当事者になると寝れないということがどんなに辛いか分るような気がしました。私の一日の睡眠時間は4時間ですから寝つきも起きるのもまるで目覚まし時計のように正確です。しかし今朝思ったのは熟睡だから4時間で持つのであって、昨晩のような寝れない時の4時間を切った睡眠時間はかなり体に堪えるような感じを受けました。そんな折、ぐっすり熟睡している同床の妻の寝顔が多少腹立たしくなることだってあるのです。

 寝不足になると集中力が途切れたり長持ちしないようです。僅か1時間半の講演なのに、聞いていると20分もすれば眠くなって失礼ながらついうとうとするのです。メモを見ると書いたつもりの文字もまるで英語かミミズのような意味不明の文字が訳もなく書かれているのです。講師の先生には悪いと思いながら必死で自分の意識をたたき起こそうとするのですが、かみ殺したようにアクビをしながらまたうとうとします。結局は90分のうち20分くらいはまったく記憶がなく、聞いたつもりの話がつながらないため、いい講演だと人様が言っても相槌を打つ程度でお茶を濁してしまいました。

 よく議論が分かれるのですが、寝た方が悪いのか、寝るような話をした講師が悪いのかは人それぞれなので一概には言えません。でも人に話を聞くよりも人に話をする方がダントツではるかに多い私などは、どちらがどうであれ聞く人が起きていてもらわないと講演が成立しないのですから、聴衆にその攻めを負わすことは間違っても出来ないので、聴衆が眠ると自分の話が不味かったと直ぐにチャンネルを切り替えて楽しい話に逆戻りさせるよう会場の空気から聴衆の感じをよんで話を戻すのです。

 長年人様の前で話しているとそのような会場の空気のよみ方が自然に身につき、90分のシナリオが演出できるようになるのです。

 どんな立派な話も聴衆が寝たら元の木阿弥です。いい話が出来るのは参加者の聞く態度と、話す講師の卒琢にも似た阿吽の心が大切だと思うのです。

  「講演を ききつつついに ウトウトと ミミズ文字書き 記憶薄れて」

  「眠れない 羨ましいと 思いつつ その域達す 歳になったか」

  「もし俺が 講師だったら どうしよう 同じ境遇 他人事でなし」

  「お昼寝を しても給料下がらない 市役所職員 羨ましいね」

 

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shin-1さんの日記

○船で海に飛び出そう

 毎日海を見て育っているように見える双海の子どもたちも、実は意外と海の事を知らないし海に触れる機会が少ないのです。そんな子どもたちに郷学の一貫として毎年地元の漁船に乗せて海を体感する催しが今年も開かれました。子どもたちにとっては期待も大きいが、船酔いなどの不安もあってドキドキするような体験に違いありません。でも海はロマンのふるさとといわれるように何処かワクワクするのです。

 支所の前へ早朝7時30分に集合し人数の確認や注意事項を説舞した後、歩いて漁港まで行きました。

 

ここで救命胴着を着用し出発式をしました。私は委員長なので海の上なので事故が起こらないよう細心の注意を払うことや、何時も見ている青島に上陸し、青島から自分のふるさとを見ることの意味などについて簡単なあいさつをしました。あゆみ板を使って4隻の底引き網漁船に分乗し、さあいよいよ出航です。

 港の桟橋ではありませんが、漁港の岸壁から一人の素敵な女性が手を振って見送ってくれました。翠小学校の和田校長先生です。先生は今年の4月、鹿島校長先生に代わって赴任してこられましたが、実行委員ということもあっておもしろ教室のその都度に顔を出されていますが、今回は所用で残る事になり見送るだけでもと参加されました。

 この日は台風5号の接近で海のざわめきが心配されましたが、取り越し苦労のようで海は穏やかでした。でも霞がかかって遠望が利かず、港の赤い灯台の向こうに見える双海のシンボル本尊山も何処となくかすんで見えました。

 子どもたちも最初は元気で舳先によじ登ったり、まるでネズミのように船内をチョロチョロしていました。このツアーには保健士の大谷香代子さんも医療スタッフとして参加してくれました。旧姓井上香代子さん時代は無人島に行ったりフロンティア塾に参加したり、一緒に色々な活動に参加した懐かしい顔なので、「まるで無人島へ行った頃みたいじゃねえ」と思い出を話し合いました。

 針路を西に進んでいた漁船が約40分で漁場に到着し、いよいよ底引き網の操業開始です。危険なため船尾には立ち入れませんが、網入れや網上げは何時も緊張が走り、漁師さんの顔も真剣そのものです。今は魚群探知機やGPSなどの電子機器が普及して、この漁船も海底にある漁礁が映し出され、その側を縫うように網を引っ張るのです。

 風も無風になって船の速力も網を引っ張っているためノロノロで、波任せといったところでしょうか、案の定子どもたちは無口になって船酔いが始まったようです。船内のあちこちでグロッキーのためか、ゴロゴロ寝込んでしまいました。一人は船酔いがひどく吐いていたようです。

 1時間余りのえい航の後網上げが始まりました。子どもたちも興奮気味で先程の船酔いは何処へやら、魚がぴちぴち跳ねる姿に大きな歓声が上がりました。今日の漁場はカマス狙いだそうですが、その狙い通りカマスが沢山網にかかっていましたし鯛や小魚も沢山漁獲され大漁でした。私と同行した西岡さんが手伝いに加わり魚の選別作業をしました。トロ箱に魚の種類ごとにより分けましたが、太長な発泡スチロールのトロ箱に5個も獲れました。

 網を洗浄しながら青島へ向かいましたが、美しい弁天岬が見えてきました。私たちの町から見える弁天岬は地球が丸いせいか何時も途切れて島のように見えますが実際はくっついているのです。

 いよいよ目的地である青島の港に到着しました。この港へ上陸するのは何年ぶりだろうと思うほど長い間来ていません。島通いの連絡船が発着する桟橋に特別許可をもらって接岸係留し、子どもたちは島への第一歩を記しました。するとどうでしょう。何処からともなくたくさんの猫が現れ、子ども対の身の回りは騒然とし始めました。この島は食糧難な時代に芋や麦が栽培されていました。特にサツマイモは野ネズミの被害に手を焼いていました。この野ネズミを駆除するため猫が放たれましたが、野ネズミは駆除されたものの今度は猫が増え続け、今では人間の数より猫の数が多いほど繁殖したのです。

 スタッフが海鮮バーベキューの昼食準備をしている間、子どもたちは私の案内で島内探検に出かけました。普通は元小学校の校舎見学なのですが、この日は弁天岬までの細い畑の中の道を進みました。一列に並んでの進軍です。途中殉難の碑の前を通りました。海の上に浮かぶ孤島ゆえに悲しい海難事故の歴史が秘められた記念碑です。この記念碑はわが町の上灘青年団も建立に協力しており、海につながる運命共同体として価値ある歴史なので詳しく説明をしておきました。

 この日はあいにく霞んだ天気で地かたの双海町辺りは弁天岬から見えませんでしたので、34人の子どもたちは畑中の道に一列に並んで、一斉に双海町に向かって大きな声を張り上げました。人の声など絶対に聞こえるはずがない遠さですが、思いを伝えるためのパフォーマンスをさせてしまいました。

 島内探検から帰ってみると既に海鮮バーベキューが出来ており、先程漁獲したアジやカマスが炭火で程よく焼かれ、香りを漂わせていました。早速持ってきたご飯だけの弁当を広げにわか設えの木陰に陣取り昼食を楽しました。飛び切り新鮮なアジやカマスは飛び切り極上な味に子どもたちは何匹もお代わりをしていました。匂いに吊られた猫も沢山集まり、賑やかな昼食です。

 やがて満腹、思い思いに自由時間を過ごし、船着場の前で記念撮影をしました。

 さっきまでの船酔い姿が嘘のような張り切りようで青島の思い出を心に焼き付けました。やがて出航時間の2時となり地元の方の見送りを受けて島を後にしました。双海町上灘漁港までは約1時間弱の道程です。双海町が近くなるにつれて遠望が利き始め、牛の峰やシーサイド公園が綺麗に見えました。子どもたちは舳先で心地よい時間を過ごしながらふるさとの姿を沖合いから見学していました。


 港に着いて簡単な閉会式を行い、漁獲した魚をおすそ分けしてもらい、氷を入れて迎えにきた家族とそれぞれ帰って行きました。久しぶりに童心に返ったいいプログラムに参加して、意義ある一日を終えました。

  「沖を見る 今度は沖から ふるさとを 同じ目線で まったく違って」

  「いい町と しみじみ思う 海からの 眺め楽しみ 住める悦び」

  「人よりも 猫数多い 青島に 住む人絶えし 人家目に付く」

  「何年か ぶりに訪ねし 青島も 過疎と高齢 更に厳しく」 

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shin-1さんの日記

○忙しかった7月

 スケジュールに追われない自由な暮しに憧れて自由人になったはずの私ですが、何故かスケジュール表がいっぱい詰まって、気がついてみると現職の時以上に忙しくなってスケジュールの追われて暮らしています。これではいけないと思ってはいますが、「スケジュールが空いてない」などと電話やメールに嘘の反応をすることもできず、ついつい請われるままにスケジュールを入れて悲鳴を上げているのです。でも妻が言うように「声がかかる間が華」と考えて適当に対応しています。

 今月は台風で3ヶ所のスケジュールがキャンセルとなったものの、島根県、佐賀県、高知県、香川県、広島県、徳島県と6回も県外へ出ました。その都度深い人間関係のご縁をいただく訳ですから、ハガキやメールでのやり取りも大変なもので、忙しいスケジュールをより一層忙しくしていて、21年間続けている一日三枚のハガキももうそろそろ限界かなとも思いつつ、こだわり続けて実践しているのです。

 今月の忙しかった理由は三つあります。県外出張は往復の道中が長く宿泊を伴うのですが、島根を除けば全て日帰りの旅になりました。新幹線や高速道路は有り難い移動手段です。二つ目は愛大のフィールドワークの授業が二日間現地研修となったことです。今月は伊予市と西予市にお邪魔しました。伊予市は米湊さん、西予市は三好さんを窓口に旧友親友に随分ご迷惑をかけてしまいました。それでも学生たちにとっては大きな成果のある小旅行となりました。もう一つは県内での仕事が遠隔地が多く県境近くへの移動が多かったようです。私の車のメーターは悲鳴を上げるほど走りました。カーナビのご厄介になりながら文句もいわず走ってくれている訳ですから、少しご褒美にオイル交換でもしなければと思っています。不幸な事に追突されて愛車は無残な姿になってしまいました。この際タイヤも全て交換しリニュアールして再びの移動に備えたいと思っています。

 何はともあれ忙しかった7月も今日で終り明日からはいよいよ8月です。8月も山口県、高知県、東京都、和歌山県、広島県と5回も県外出張が予定されています。お盆月なので先祖の供養もしなければなりませんし、人間牧場も気になるところです。更に夏休みなので孫の来訪も頻繁になることでしょう。更に更に少年少女おもしろ教室のキャンプや夏祭りも加わり7月にも増して8月も忙しそうですが健康に留意して、暑い夏を乗り切りたいものです。

  「1ヵ月 くくりて動く スケジュール 何でこんなに 忙しいのか」

  「忙しい 思えば多忙 超多忙 忙中閑は 心のゆとりか」

  「考えも つかないほどに 走ってる 車のメーター 車が悲鳴」

  「ああ俺も こうして歳を とって行く 寿命の日々を 一つまた消し」

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shin-1さんの日記

○夏の学力向上トライアル

 小・中・高校では既に長い夏休みに入り、会社でも1週間くらいの夏休みが与えられているようですが、サンデー毎日の私などに夏休みと名の付くものはなく、暇が出来れば夏休みといった感じで、夏休みのあった昔が懐かしく思い出されます。大学に講義に行ってる関係上明後日から学生が2ヶ月の夏休みに入るので一応は私も講義が休講で夏休みなのです。こうして夏休みのある人がいると思えば、この夏休みを飛躍発展に使わなければならない人だって結構いるのです。

 受験が間近に迫っている中学や高校の受験生は夏休みなど上の空で補修などに頑張らなければならないのです。

 学年は2年生で受験はまだ先のことですが、そんな高校のサマーチャレンジに講師として招かれました。私の町からだと往復200キロを越すほど遠い鬼北町にある北宇和高校です。この学校へはこの時期相手こそ違え毎年行っており、一昨年8月4日・昨年8月1日、今年7月30日と日時こそ違え多分三年連続ではないかと思うのです。

 会場は冷房の効いた北辰館という講堂のようなこじんまりした会場でした。担当の三好先生が私を紹介して1時間の授業が始まりました。一昨日の小学生に話すのとはスピードが違い、まるで機関銃のような速さで話しました。多分普通だと1時間半の番組でしょうが早送りして1時間にしたようなものです。それでも高校生は随分乗って聞いてくれました。

 私の話の演題は「青春へのメッセージ」でした。高校生にはこんなタイトルでよく話をするのですが、私が高校生だった頃は長閑な時代でありそれでいて社会悪もそんなになく、殆どの人が大学や専門学校に行く現代のような時代ではありませんでしたから青春を謳歌して過ごしました。そんな時代でも夢だけは持っていました。「夢なき民は滅びる」という言葉の通り、特に若い人たちには将来の夢をきちんと持って欲しいと思うのです。若いときの夢は他愛のないもので、格好がいいとか楽をして儲けたいというな夢に一度は憧れるものです。でもその夢が実現できず失敗したり挫折してもその事に意味があるのだと思うのです。

 私も4人の子どもを育てました。今はそれぞれ別の道を歩んでいますが、次男は転職して5年間も看護学校へ行って看護士となりましたし、三男も転職して警察官となりました。夢に挫折し夢に再チャレンジすることも人生なのです。学業の成績や学歴が巾を利かせた時代は去って、むしろ挫折や失敗を経験した回り道の方がいい人生になることだってあるのです。

 私自身も病で漁師を断念し、そこから身を起こして今日まで生きてきました。多分夢を持っていたから頑張れたような気がします。ただし「夢はドリームではなくターゲットである」ということのために努力したから、ささやかながら夢をつかめることが出来ました。

 凪ぎようで身近い夏休みにもうひと踏ん張りして、夢を見つけてみては如何でしょう。今日も高校生から清新なパワーをいただきました。北宇和高校の2年生の皆さんありがとう。

  「若者に 接する度に 若くなる 俺の心は 衰え知らず」

  「歳だけが 若くて若いと 言えません 歳をとっても 若い人有り」

  「夢つかむ それ相応の 努力要る 後は天運 しっかり励め」

  「楽をして 金や幸せ 来るものか お天道様は しっかり見てる」

  

 

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shin-1さんの日記

○住吉祭り

 私たちが子どもの頃は、隣町であった上灘町や郡中町へ行くのには、舗装もしていない細い砂利道と国鉄しかなく、隣町は遠い遠い存在でした。車など殆どなかった戦後のことですから隣町へ行った記憶などそんなにないのです。それでも夏になると新造船が船降ろしと称する進水式を挙げた船は、香川の金毘羅さんや広島の宮島さんへお参りに行くものですからわが家の船や身内の満艦飾船に乗って、まるで修学旅行にでも出かけるような雰囲気でお参りに行ったものです。途中幾つかの島に立ち寄りながら島伝いに航海しながら目的地に着いた時の嬉しさは淡い少年の頃の夢として今でもはっきりと心の中に焼きついているのです。

 夏の29日は郡中の住吉祭りです。この時も陸路でなく漁師さんたちは漁船を仕立てて近所や親戚の人を乗せて海路のお参りに出かけました。漁船のエンジンもスローな時代でしたから目と鼻の先なのに1時間以上もかかったような感じがしました。西に夕日が傾いた頃、五色浜の松林の沖を通り郡中港の内港に係留して上陸、少しばかりの小遣い銭を握り締め、人でごった返す山門を通ってお参りしましたが、お参りなどそっちのけで屋台の店が並ぶ中に入り、お目当ての屋台の前で長い時間過ごしました。花火が上がりやがて10時頃になると再び船に乗って帰路に着くのですが、船の上では大人たちがこの日のために漁獲した鯛を料理して刺身を作り酒盛りをして楽しんでいました。
(中庭の蔵前で開かれたコンサート、いい雰囲気でした)
(真剣にコンサートに聞き入る孫朋樹)
(孫と松本さんのツーショット)

 今日は住吉さんの縁日です。まちづくり人で親友の門田さんに声を掛けてもらっていたので、宮内家町家コンサートに出かけました。私はコンサートを楽しもうと思っていたのですが、二日前からわが家に逗留している孫がどうしても一緒に行きたいというので、同行する事にしました。孫と車の中でだまってコンサートを聴くよう約束したのですが、4歳の孫には30分が限度で、やれオシッコだのお祭りが終わってしまうなどと耳打ちするものですから、他のお客さんに迷惑を掛けては失礼とそそくさ引き上げました。それにしてもあれほどの人通りなのに宮内家の中庭は喧騒を忘れさせる静寂で、黒竹林や土蔵、飛び石などほの暗い雰囲気は満点でクラリネットなどの五重奏に夏の暑さを忘れさせてしまうほどでした。それにしても文化への関心は意外と薄いと感じました。あれ程の人通りなのに会場に足を運ぶ人はまばらで、まあその分静に音楽が聞けたと思えば納得するのですが、伊予市のような大きな街でさえも文化に対する意識を上げて行くのは容易でないと、あらためて文化協会の会長を務める門田さんの苦労を思いました。会場にはえひめ地域政策研究センターの松本さんご夫妻やわが長男の姿、市長さん始め巡視団一行の姿も見えました。

(息子の出品した組み写真による人間牧場紹介)
(息子の展示写真を説明する本田さん)

 わが長男は建築士会伊予支部の皆さんと町家の一角を借りて展示会を開いていました。息子の出品作品は人間牧場で、孫と私のロケ風呂入浴シーンも恥ずかしながら組み写真で紹介され、心ある通行人が足を止め、「あっ、この人間牧場テレビで見た」などと話したり、「人間牧場の見学はどうすれば出来るのですか」と問い合わせている姿もちらほらでした。

 肩がすれ違うほどの混雑に身をゆだね孫の手を引いて街の中を歩きましたが、孫のお目当ては露天です。かき氷を買い求め、約束どおり自分のお目当ての店で300円のくじを抜きました。8等を引き当て、店の主人が「このグループの中から好きなものを選んでください」といわれ、孫は即座に拳銃と手錠のセットを選びました。やはりテレビの影響でしょうか。私は好ましい物ではないと思いつつ、孫の思いも大事にしたいと思い選びました。

 やがて空模様が怪しくなり、雷や稲光に加え雨が降り始めました。花火を打ち上げる矢先の出来事なので戸惑う人が小走りに立ち去っていました。私たちも急いで駐車場まで引き返し、上がる花火を家の谷間から見ながら家路につきました。



(車の中から孫と一緒に見た花火、綺麗でした)

 孫も喧騒の興奮、花火の興奮、稲光の興奮が重なりショックを受けたのかその夜は疲れているのに中々寝付けませんでした。それでも午前3時ころでしたか、夢心地でアンサンブルコンサートで聞いた童謡を歌いだしたのです。僅か30分のコンサートでしたが、孫の心の潜在能力に音楽は確実にインプットされていました。

  「突然に 夢で童謡 歌いだす 孫の寝顔に 頬ずりしてやり」

  「文化では 飯が食えぬと 思うのか 来て欲しい人 顔も見えぬわ」

  「孫私 恥ずかしながら 展示され 息子説明 どうすりゃいいの」

  「八等を 引き当て孫は ご満悦 屋台のおじさん ぶっきらぼうに」

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shin-1さんの日記

○クロマグロの完全養殖

 宇和島水産高校の先輩である玉井さんから昨日電話があり、「スケジュールが空いていれば近畿大学の公開講座が松山であるので聞きに来ないか」と誘いを受けました。この日はあいにく午前と午後と夜、ちょっとした集会や出会いがあるのでと?マークでお茶を濁していましたが、何となく気になるテーマなので思いきって他の用件を削って参加する事にしました。

 全日空ホテルの4階で開かれた講座は100人の定員でしたが満席で、講師である近畿大学水産研究所所長熊井さんの知名度か、あるいは近畿大学の関係者か、はたまた主催者の動員か分りませんが、満員御礼とは嬉しいことと自分自身もこの講座に参加してよかったと思いました。

 私はこの番組を見ていませんが、今日の講師の熊井さんはかつてNHKの人気番組であったプロジェクトXで紹介された名うての方なのです。誰も手掛けたことのない黒マグロのの完全養殖、つまり飼育母体魚から産卵受精させ、人工ふ化仔魚⇒人工稚魚⇒人工幼魚⇒人工親魚⇒再び受精卵となるサイクルを人間の手で、平成14年に世界で始めて成功させた方なのです。

 マグロといえば寿司のネタとして私たち日本人には何かと馴染みの深い魚です。その漁獲量は年々減り続け、資源枯渇を心配した国際会議によって漁獲量の制限が打ち出されるなどのニュースが最近、新聞紙上を賑わせているようです。

 熊井先生の話は学者らしく研究データーやマグロをめぐる国内外情勢をパワーポイントで説明していく、どちらかというと面白さに欠ける語り口ですが、さすが世界の頂点を極めただけのことはあると納得して聞き入りました。

 私もかつて宇和島水産高校漁業科に学び、実習船愛媛丸で珊瑚海までマグロを追った経験があるだけにとても興味のある話しでした。特にマグロが時速90キロで泳ぐという事実や、マグロが生まれてから死ぬまで泳ぎ続けるのは体温を一定に保つためという話しなど、今まで聴いたことのない話しが随所に出てきました。

 かつて数年前交流をしている奄美大島瀬戸内町へ講演に行った折、マグロの養殖場を見学する機会に恵まれ、感動した思い出があるだけに、スライドに出てくる奄美の海の思い出がつい昨日のことのように思い出されました。

 四国でも旧内海村や先日訪ねた大月町でクロマグロの養殖が始まっており、養殖もののマグロが店頭や寿司屋に並ぶのもそんなに遠くはないようです。

 人のやらない事をやることは勇気のいることだし、失敗といういくつものハードルを越えた話は、夕日を地域資源にまちづくりに取り組んだ私の話とどこかよく似た話でした。

 会場には10数人、知人友人の顔もちらほら、さすが前向きな人たちは日曜日でもこうして絶えず学ぶ心を忘れない動きをしていると、感心させられました。

  「クロマグロ 今では養殖 するという 何もそこまで いやいや価値が」

  「日曜と いうにあの人 顔を出し 学ぶ姿に 頭下がりて」

  「話し聞き マグロの寿司を 食べなくて 土用丑の日 ウナギ食うとは」

  「ああ俺も 南の海に マグロ追い 今は懐かし 少年の頃」

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shin-1さんの日記

○緑の少年団活動発表大会

 昨日は東温市で開かれた緑の少年団発表大会の記念講演に招かれ出かけました。会場へ着くまでの道中で追突事故に遭い少なからず心の動揺を隠せないままの会場入りとなりましたが、私の到着が予定より少し遅れたため担当の吉田さんは炎天下の駐車場で待っていてもらい恐縮しました。

 私の話はいつもながらのアドリブなのですが、演題は「緑と縁で心豊かに生きる」と付けさせていただいていたので、まあ大きな流れはそんな話に終始しました。私は子どもの頃緑と縁という文字がよく似ていることから、国語漢字の書き取りでは緑と縁をよく間違った苦い経験があります。同じ糸偏であることも間違った原因ですが、人間の暮しは緑と深い縁がある事をまず最初にお話しました。私の話は概ね次の5つぐらいだったように思います。

 ①人生と年輪

 高知県馬路村魚梁瀬千本山の魚梁瀬杉の森を見て感動したことや、人間牧場に置いてある樹齢150年生の魚梁瀬杉の切り株に刻まれた年輪を見る度に、人間の寿命のはかなさを感じます。一年365日がこの一つの年輪にしか過ぎないと思うと、年輪を刻むことの意味が分るのです。また先日訪ねた徳島県上勝町では木の葉っぱを売っていますが、自然が豊でないと葉っぱも売れないし、自然とともに共生することの意味を話しました。

 ②生命のパズル・環境のパズル

 私の先祖を二人四人と辿ってゆくと十代前には1024人の先祖がいます。つまり私というジグゾーパズルの絵を仕上げるのには1024個のピースが必要なのです。一個でもピースが欠けると自分の存在はありえないのです。

ですからかけがえのない命を大切にしなければなりません。自然環境もまた多くのピースが集まって一枚の絵を作ってるのです。人間は便利さや経済のために必要なピースを取り除いてきました。これからは取り除いたピースを元に戻す作業をしなければなりません。

 ③森は海の恋人

 宮城県唐桑の漁師さんたちが山に木を植える運動を始めました。海で育つ牡蠣は森から流れ出た栄養によって美味しい牡蠣になることが分ったからです。森と海は運命共同体なのです。私の町の人たちも山に木を植え、EM菌などで海を守る運動を一生懸命やっています。

 ④最近気になる限界集落

 高齢化率50パーセントを越えているところを限界集落といいます。簡易水道や集落道などのライフラインを自治組織だけで守ることが出来なくなっているばかりか、近年の台風によっておびただしい数の風倒木被害が放置されたままになって、二次災害が心配です。

 ⑤潜在能力と健在能力

 氷の実験だと浮いた部分と沈んだ部分の不文律は、氷が小さくても大きくても1対6、人間は1対6で生まれても知識を知恵にする努力さえすれば2対5や3対4、時には4対3にもなる、そのためには読んだら書く、聞いたら喋る、見たら実践することが大切です。

 ⑥常識と非常識

 世界地図の真ん中に日本のない世界地図があることを考えると人間の考えは自分の位置を変化させる事によって幾らでも考えが変るものです。自分では常識だと思っていることが案外非常識なことが多いようです。

 ⑦スロ-ライフとロハスを目指す人間牧場

 私の暮しはスローライフとロハスを目指しています。人間牧場はその場よとして作りました。今では多くの人が日本全国からやって来て楽しい活動を続けています。

 ⑧今私たちに出来る身近な実践とは

 私はマイ箸運動をやっています。また買い物袋を持って買い物に出かけます。またハガキを3枚毎日21年間書いたり、海岸の清掃を早朝5時から3時間毎朝12年間続けました。まるで尺取虫のような小さなことですが、続ける事によって人に感化します。

 おおよそ以上のような事を話しました。15項目も用意したのに夕日の話や花の話などには触れずじまいでした。参加者が小学生中心だったこともあって、噛み砕いて話したつもりでも少し難しかったかも知れません。ましてや40分授業に慣れている子どもたちに1時間は少々きつかったかもしれません。ステージの上への反応は上々のようで自己満足といわれるかも知れませんが一応役目を終わりました。

  「子ども語で 話してみたが 子どもには 難し過ぎて チンプンカンプン」

  「大人何故 簡単話 難しく するのと子ども 疑問符付けて」

  「森・林 見過ぎる故に 木が見えぬ 木だけ見てると 森林見えぬ」

  「追突の 事故の後遺と 茶を濁す 俺の実力 たかがしれてる」

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