shin-1さんの日記

○草取り

 人間が植えたものは人間の思い通りには育たないのに、人間が植えず勝手に生えた雑草は何でああも力強く育つのでしょう。草取りをしながらいつもそう思うのです。

①畑に育つ雑草

 畑は野菜や果木を植えて収穫します。特に野菜を植える前は地ごしらえをして雑草を全て取り除き綺麗にしてから植え付けます。夏野菜のナスやピーマン、トマトなどはある程度大きくなった苗を買ってきて植えるため、植えた時点で雑草に打ち勝つ条件を付けているため、ペナルティを背負った雑草は余程のことがない限り夏野菜には勝てないようになっているのです。ところが地を這うような性質のスイカやカボチャなどは知らない間に雑草が覆ってしまうのです。そのため敷き草と称して麦藁や稲藁を敷いて雑草の成長をさえるのですが、それでもなかなか最後まで雑草打ち勝つことは難しいようです。畑の雑草は果木の場合草刈機で刈り取りますが、野菜類には草刈機も使えず、自分の手で草引きをする以外ありません。わが家ではこれまで除草剤というものを使ったことがありませんでした。除草剤といえばベトナム戦争当時の奇形を産んだ枯葉剤を思い出し、残留の怖さが頭をよぎるのです。農家の方は安全だからと言いつつ多少の不安を抱えながら忙しさと作業が追いつかないため苦渋の選択として除草剤を使っているようです。そのことについては口うるさかった親父が今年の夏初めて除草剤を使いました。多分自分の作業が追いつかないと悟ったからかもしれません。先日私が親父に頼まれて草刈りをした畑に通じる道には早くも雑草の柔らかい新芽が顔を出し生い茂りつつあったのです。その新芽に除草剤を撒いたとのこと、この炎天下なので3日後見る見るうちにその効果が現れ、道の草は黄色く枯れ始めました。親父の選んだことだから無碍に反対することも出来ず、じんわり話をしました。今頃の序素材は残留性が少ないといわれていますが、人間牧場さえも除草剤をやらないのに、人間の住むわが家の近くで・・・・・・・です。

 ②庭に生える雑草

 わが家の敷地は660坪と広大です。その中の200坪くらいが本家、隠居、倉庫、煙会所、海舟館、夕観所などの立ち並ぶ居住空間です。その施設群の周りには中庭、前庭、路地庭などがあります。殆どは細かく砕いた砂利を敷いて舗装をしていません。庭には庭石や庭木がこれまた沢山植えられていて親父の自慢であると同時に、その手入れで親父の頭を悩ませるものばかりです。そして最も悩ませるのは広いが故に生える雑草なのです。90歳になった親父の力だけではどうしようもありません。私が忙しい合間を縫って草引きの手伝いをします。裏山が森林や畑になっているので雑草の種が沢山飛んでくるものと思われますが、これも自然の摂理と考えて日々引き抜いています。夏のこの頃は親父が命名したハタカリという引き抜きぬくい草が一面覆います。威力を発揮する道具は打ち鉤のような「つ」という字に一本の針金が曲がって先がとがっただけのシンプルなものです。これが意外と威力を発揮するのです。

 数日前、夏の庭木の手入れがやっと全て終り、草引きも一応峠を越しました。「この家はほっておいたら一年で雑草の密林になる」とは親父の弁、そんなこともありませんが少しずつ雑草の草引きの軸足が親父から私に移りつつある雲行きを肌で感じながらせっせと草引きをしている自分なのです。

 ③屋根に生える雑草

 わが家は日本家屋です。土壁に日本瓦が乗った夏は涼しく冬は暖かいいい雰囲気の家です。最近は耐震などと盛んに報道され肩身の狭い思いをしていますが、この屋根に抜けども抜けども草が生えるのです。「生き場所がここにもあった屋根の草」などと風流を考えるのもこれまたいいかもしれませんが、抜く方は梯子を掛け登らねばならないので大変です。よくもまあこんな所にと思うほど瓦のすき間に草が生えます。不思議な事にこれほどの夏の暑さでも平気で生きているのです。屋根を見上げ気がつけば、「明日は取ろう」と思いつつ、ついつい伸び伸びになっています。今日こそはとこのブログを書きながら思っています。

 結局私と親父の人生のかなりの時間はこれら雑草との闘いに明け暮れなければならないようです。まあ仕方がないか。マンションに住む人にはない自然の恵みをいただいている裏返しだと思ってあきらめます。

  「雑草は 植えずも元気 枯れもせず 病気もせずに あやかりたいね」

  「屋根にさえ 行き場所求め 生える草 ド根性俺に 見習え言いつ」

  「草引きに どれ程時間 かけたのか これから先も 俺が死ぬまで」

  「引いたのに また芽を出して こんにちは 踏んづけやるが 向こうは平気」

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shin-1さんの日記

○名刺の処分

 毎日毎日色々な人に会って名刺を交換するのが日課になっていた現職時代に比べ、その比ではないにしても名刺の交換は大切な交流儀礼の一つです。私の名刺をアウトとするなら人に出会った分だけ減って行くのですが、その分だけはいただいた名刺がインとなって手元に増えてゆくのです。もらった時は顔と名前と名刺が一致するのですが、日にちとともにその記憶も薄れてくると、名刺を捲って記憶を辿る余裕もなく机の隅や空の名刺箱に入れられうず高く積まれて埃を被るのです。名刺には取っておきたような名刺もあったり、思い出の名刺はいつか役に立つと思いつつ中々捨てきれないものなのです。

 書斎のリニュアールを思いつきました。パソコン用のプリンターを父の日に子どもたちからプレゼントしてもらったものの、その置き場所に困って未だに使わずにいるのですが、長男が「せっかくのプリンターなのにどうして使わないのか」とクレームがつきました。「今使っているプリンターのインクがまだ沢山残っているので勿体ないから」とお茶を濁しているのですが、そうそう長く今のプリンターを使うことも出来ず、まず書斎の音源を人間牧場に運びました。すっきりした人間牧場に広くて長い机を入れるつもりなのですが、書棚の都合で70センチ×160センチくらいしか余裕がないので、最初考えていた一枚板を入れる計画は断念し、その広さの机を購入する事にしました。長男が善は急げとばかりにカタログを持ってきて早速注文したようです。今日から東京へ行きますが、帰った頃には届くらしいので、昨日はそこら辺を片付けました。

 2年前段ボール箱に入った名刺を10箱も焼却処分しすっきりと第2の人生をスタートしたはずなのに、この2年間で沢山の名刺が溜っているのです。本当は日々の暮らしの中で必要や重要名刺と不必要名刺を分類していればいいのですが、今はセールスの名刺などの不必要名刺は殆どないので、全て必要や重要名刺なのです。それでも処分しないと置き場がないので名刺一枚一枚を見る余裕もなく、片っ端からゴミ袋に入れて未練のないようゴミとして処分してしまいました。いただいた方々にはブログでの処分報告とさせていただきます。残っているのは今年の4月からいただいた名刺ですが、それでも沢山の名刺が書棚の隅に残っているようです。

 2年前名刺とおさらばしたはずの私ですが、どうやら名刺とは縁が切れない世界にいるようなのです。今回の処分でなくした人のご縁はまた新しい人のご縁として生まれ変わるだろうと信じていますが、「どこかすっきり、どこか寂しい」というのが偽らざる心境でしょう。現在の私には後を振り返る余裕も勇気も少なくなりました。目下のところ過去や現在よりも未来を見据えてあること決意して日々を過ごしています。ゼロに戻る訓練をしていない自分ですが、名刺の処分で幾分かゼロに近づいたようにも思えます。

 そういいつつ今日も名詞を1箱カバンに入れて高知県と東京都へ出かけようとしている私なのです。

  「ゴミ袋 ひとつ二つに 名刺入れ 捨てる作業に どこか未練が」

  「この名刺 あの名刺にも 思い出が 手渡し日々を 懐かし思う」

  「ああこれで すっきりしたと 言い聞かせ 袋を提げて ゴミ出し歩く」

  「あの名刺 今頃何処へ 向かうやら スイカの皮と 一緒旅する」



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shin-1さんの日記

○あなたにとって今欲しいものは何ですか?

 「あなたにとって今欲しいものは何ですか」と尋ねられたら、あなたはどう答えるでしょう。歳をとって老い先短い人は長生きする寿命や若さが欲しいというでしょうし、お金に困っている人はお金というでしょう。毎日あくせく働く人は時間が欲しいと思うでしょうし、リストラされ失業した人にとっては仕事が欲しいと思うに違いありません。また競輪や競馬、それにパチンコなどの賭け事に熱中する人はツキが欲しいと思うのも当然なことなのです。しかしいくら頑張ってみたところで若くはならないし、時間も24時間と決められ、ツキだって誰にでもツキがくれば胴元は破産して立ち行かなくなってしまうのです。人間はこのように幾らお金を積んでもどうにもならないことを他力本願的に求めるものだとしみじみ思うのです。

 私の場合もそれ程切羽詰ってはいませんが、若さも欲しいしお金もそれなりに欲しく、人生も毎日が男時でありたいと願って生きています。少し物足りないことの不満くらいですし、そんなに神頼みしたり他力本願的な考えは余りありません。

 「そうだなあ。私にとって今欲しいのは強いてあげれば時間かな」と思ったりします。2年前にリタイアし自由人となってから少しの間は自由時間を満喫していましたが、今は訳も分らなく忙しくなって、時には現職時代より忙しいと思う時が多くなりました。自分で言うのも何ですが、これでも一日を充実した時間の使い方をしているはずなのに、色々な時間的制限が加わるのです。朝起きて寝るまでに毎日2本のブログを書くだけで2時間は必要ですし、毎日ハガキ3枚も約小1時間かかります。人間牧場や私設公民館煙会所の訪問希望は順番待ちといったところです。ハガキだって1日3枚の制約で書ききれず、はがきを貰った相手にすまないと思いつつ時間的余裕がなくそのままになって気がかりで仕方がありません。読みたい本もそんなに読む時間がなく・・・・・・・・なんて考えると、やはり自由な時間がもっともっと欲しいのです。 

 しかしふと考えることがあります。例えばハガキですが私の時間に合わせた考えだと3枚以上は出さない方針が正しいけれど、少年式に話しに行って沢山の子どもたちから同時にハガキをもらった時など、相手は同じような考えで私にハガキを出してくるのですから、順番など決めず片っ端から返事を書かなければならないのです。また数日前お年寄りから緑の少年団の講演を聞いて感動したとハガキをいただきました。そんな場合は相手の境遇を考え出来るだけ大きな文字で返事を書かなければなりません。

 私たち人間は自分本位、自分を判断基準にして他人に対応します。私も若い頃は考えもしなかったことですが、目や耳が衰えてくる年代になると、「手紙やパソコンの資料は出来るだけ太い大きな文字を書かないといけない」と思うようになりました。

 第三者に対して何かを行う場合、その相手の身になって考え行動することの大切さを、日々の暮しのクセとして身に付けていきたものです。車椅子に乗った人の身になって歩いてみれば、世の中はもっともっと弱者に優しいまちづくりが進むはずなのです。

  「欲しいもの あり過ぎ困る 欲深さ 時間くらいで 留め置きましょう」

  「思いやる 優しい心 持ったなら この世の中は もっと楽しく」

  「少しだけ 大きな文字で 返事書く 相手の歳を 頭に浮かべて」

  「わが人生 登りきらずに 下り坂 小さな峠 幾つ越えたか」

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shin-1さんの日記

○花火大会

 昨日はふたみの夏祭りでメイン会場となったふたみシーサイド公園は終日多くの人で賑わいました。役場で観光協会の事務局を20年間も担当して、これらのイベントを企画運営してきただけに思いも一入のものがありますが、自治体の合併という出来事でそれらのイベントも表面上は同じように見えるものの随分様変わりしているようです。

 昨日は長女の家族と長男夫婦がやって来て夕食を一緒にしました。長女の夫も大学が夏休みながら学会や研究が忙しく中々出会いませんが、昨夕は久しぶりにわが家にやって来て、家の庭先は7台も車が止まって、親父が「何事か?」と思うほどの車の数でした。田舎は庭先が広いためこんな時は大助かりなのですが、草引きなどの庭の手入れが大変で、この敷地を維持する苦労をそろそろ親父から私に引き継がなければならない時期に来ているようです。

 夕食の後家族そろって夕涼みがてら花火大会を見学に行きました。生まれて3ヶ月になった孫もまるでカンガルーの袋のような抱っこ袋に入れられて娘に抱っこされて外出です。お産の後の初めての夜の外出とあって大事小事の気を使かった出で立ちですが、既に夜のお眠りモードに入っていたため、スースーと眠っていました。

 会場ではカラオケ大会や歌謡ショーが賑やかに繰り広げられていましたが、随分様変わりしたもので最近ではカラオケ大会や歌謡ショーも下火のようで、出店回りや花火の席取りの方が忙しく、昔ほどの盛り上がりはないようにも見えました。

 孫は漫画の主人公の彦猿とかのお面を買ってもらってご満悦の様子で、テンションをあげていました。

(後方に座っている長男の嫁も今月中旬には出産予定です。花火の爆発音で出産が早まるのではないかと心配されましたが、取り越し苦労のようです。また抱っこされた孫も花火の音で驚きはしないか心配しましたが、何のそのあの大きな音にも動ずることなく眠り続けました)

 私たち家族は観客に混じって階段式護岸の一角に陣取り、午後8時40分の花火大会に備えました。やがて最初の一発が夜空に吸い込まれ大きな音がして花火大会の始まりです。この花火大会も地元有志や集落ごとの寄付によって運営されるため、長引く不況でその運営が年々厳しさを増しているようですが、今年もこうして多くの方々の努力によって花火が楽しめることは喜ばしい限りです。

(花火が海面に映って二倍の美しさが楽しめました)

(花火の写真は難しいものです。綺麗と思った瞬間シャッターを切るとこんなピンボケになってしまいます。まあ心に焼き付けただけでもいいとしましょう)


 約30分間の短い花火大会は今年も盛況の内に終わりました。港の灯台の向こうには遠く三津浜の花火大会の花火が夜空にくっきりと見えました。何千発も上がる都会の花火大会も華やかでいいのでしょうが、こんなローカルな花火大会も規模こそ小さいもののいいのではないかと思います。花火大会の観客数が幾分少なかった

のは、多分同時開催の都会の花火大会のせいかも知れません。でもその分ゆったりとした気分で花火を楽しめました。花火の途中では美しさの余りに思わず観衆が大きな拍手を送ったのは、田舎ならではの感謝の拍手だと思いました。

 今日から花火大会の非日常から日常に戻り暑い夏を過ごさなければなりませんが、花火からいただいた活力を生かして夏を元気に乗り切りたいものです。

  「花火見て 拍手が起こる 有り難さ 寄付した人に ささやか感謝」

  「予定日の 嫁のお腹は 大丈夫? 花火の音に 中からけつる」

  「大物だ 花火の音に グーグーと 寝息聞こえる 孫の寝姿」

  「活力を 貰ったような 花火音 明日から元気 誓い新たに」 


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shin-1さんの日記

○七夕飾りを造る

 双海町は今日恒例の夏祭りで、海をテーマに魚のつかみ取りやビーチサッカーが繰り広げられ大勢の人でごった返しています。本来は8月7日が七夕祭りですが、灘町地区では夏祭りに合わせて七夕飾りをするため我が家でも七夕飾りを造りました。結婚してこの方七夕飾りを造るのは妻の仕事と決め込んでいたため、七夕飾りがどうなっているのかさっぱり検討もつかぬまま、今日は妻から頼まれ孫と二人で七夕飾りに挑戦です。

 七夕飾りの笹竹は町内の公民館役員さんが朝早くから打ちそろい竹きりに行って全ての家に配布してくれるのです。問題は短冊や飾り物をどうやって調達しどうやって飾るかですが、まず馴染みの近所のお店屋さんに調達に出かけました。運良くご主人が在宅で昔のよしみでたくさんの飾りをタダでいただき、ホクホク顔で帰宅し、妻の用意した色紙などを切ったり張り合わせたり、文字を書いたりしながら2時間ほどで出来上がり、早速飾り付けです。本来ならシュロの葉っぱを割いて紐にするのですが近所にシュロがないため、タコ糸を使い笹に結び付けました。孫も見よう見まねで手伝ってくれ大助かりでした。

 これまでわが家の七夕飾りは2階のベランダにくくりつけていましたが、今日は孫の提案で玄関先へ飾る事にしました。丁度長男がやって来たところで孫と記念写真を撮りました。本当は写真に写すとブログを見ている人から「何だ、これでも七夕飾りか」と言われそうなので躊躇しましたが、思い切って載せました。

 ところが夕方の涼しい風が吹き始めると短冊が数個風に飛ばされて落ちたではありませんか。妻曰く「今年の七夕飾りはさすがお父さんと思ったのに、落ちるとはどういうこと」と叱責を買いました。無理もありません。前述のシュロの葉がなく、親父が工面してくれたナイロンのタコ糸で代用したから、結び目がゆるんで解け始めたのです。親父の忠告どおりなので文句も言えず、結局は別の紐で結び直して修理の羽目となりました。上手く行かないものです。

 更にもっと失敗は七夕飾りにはお供え物がつき物なのですが、それさえも忘れてしまいました。普通お供えはスイカやトウモロコシやナスなど夏野菜を七夕飾りの側に備えるのですが、まだ本物の七夕様にまでには間に合うので、今夜にでもお供えをしたいと思っています。

 七夕飾りなどの年中行事も時代の進展とともに次第にその姿を貸消そうとしています。私が覚えているだけでも、正月飾りや節分飾り、夏越し行事、お盆行事など数えればきりがないほどの年中行事が退化もしくは消滅の一途を辿っています。民俗学上からいうと寂しい気もしますが、仕方のないことかも知れません。伝え遺したい様々な日本文化をどうすればいいのでしょう。

  「七夕の 飾り短冊 書く文字に 孫の言葉が 殆ど並ぶ」

  「七夕の 飾り初めて 造ったが どうして良いやら 途方に暮れて」

  「玄関に 飾りし七夕 風に揺れ 平和な日々に 感謝しつつも」

  「お供えを 供え忘れて 笹飾り 願い事など 何処吹く風に」 



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shin-1さんの日記

○本当に届いた便り

 私は20年間も毎日ハガキを三枚書いています。「うそー」と言われそうですが本当なのです。お陰様で毎日朝晩ハガキを書くことが日課になっています。全国各地へ度に出ることが多い私ですが、その時はハガキに切手を貼って3枚×日数分枚数をカバンに忍ばせて出かけ、駅や飛行場ではこれまた20年間に渡って持ち歩いている木のカバンを移動机にしてハガキを書き投函するのです。何年もこんな作業をしているとよくしたもので郵便ポストのある場所が大体分るようになってきましたし、ホテルなどではまずい字で恥かしいのですが、フロントの方にお願いして出してもらったしています。

 私はハガキの効用を「小さな実践の積み重ね」の重要性について講演でよく話します。ですから今まで沢山の人が私の話を聞いたのでしょうが、何故かハガキをくれる人は少ないようです。それほど小さな実践は実を結ばないものなのです。私はめげることなく「1パーセント実践」を目安にしています。つまり100人に話してもそのうちの一人がハガキを書く勇気を持ったらそれこそ大したものだという気休めなのです。

 この事を面白おかしく話すものですから、時には時間がないため「私にハガキを書く勇気を実践してください。私には郵便番号と愛媛県・若松進一様で着ますから」というのです。ところがある集会で言った言葉を間に受けたまではよかったのですが、郵便番号を書かずに郵便物が迷って元の差出人に逆戻りしたそうなのです。私が幾ら有名人でもそれは無理だと思うのです。でも実は15年も前に本当にあった本当の話ですが、不思議や不思議、「愛媛県・若松進一」だけで郵便番号も書いていないのに、県外から手紙が届いたことがあるのです。多分その頃は四国郵政研修所の講師を務め度々郵便局員の前でお話をしていたので、中継局の担当の方が気がついて贈ってくれたのではないかと思うのですが、それにしても不思議な話で「お父さんあなたも有名になったものだねえ、愛媛県・若松進一で郵便物が届くのだから」と妻を驚かせたものでした。

 昨日届いた手紙はウチワに書かれた特別サイズのハガキです。埼玉県の方からですが、私の講演を埼玉県で聞いて「愛媛県・若松進一」だけで便りを出したそうです。ものの見事に跳ね返され戻ってきたそうですが、講演を一緒に聞いた龍前さんから住所を聞き出し戻った頼りも一緒に入れて今度は間違わずに私の元へ届きました。一度はあきらめかけていた便りに挑戦して届いた便りだけに何倍も嬉しくなりました。個人情報もあるのでしょうが、あえて実名を使い岡田和子さんの勇気ある行動に大きな拍手を送りたいと思うのです。

 私は早速ハガキをしたためました。ウチワで暑中見舞いですから私も負けじと、人間牧場に作ったロケ風呂、つまり五右衛門風呂を悠然と楽しむ次男と孫の写った写真をハガキにプリントして書きました。さて私のハガキは確実に郵便局員の手によって僅か50円の切手を貼っただけで埼玉県へ届くことでしょう。

 ハガキは「夢やロマンを運ぶ道具」だと思います。書かれた文字は私のようにたとえ下手糞でも、相手に届くと夢や創造が広がりろまんを感じるのです。私はこの20年間多くの方々から夢とロマンをいただきました。これからもそんな効果のあるささやかな実践を続けたいと思っています。

  「そりゃ無理だ 愛媛若松 書いただけ 元に戻って 再度挑戦」

  「俺も書く 暑中見舞いに 風呂ヌード 涼し過ぎたか 次男ブツブツ」

  「こないだも 宛名書かずに 投函し 郵便局から 電話ご注意」

  「雨の日も 風の日さえも 休みなく 20年間 続けしハガキ」

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shin-1さんの日記

○音の移動

 今日は朝から孫と人間牧場へ音の移動に出かけました。音といっても、娘が高校時代に使っていたミニコンポを就職を機に廃棄処分するというので、勿体ない思いから譲り受けて今日まで10年余り書斎で使っていましたが、父の日に子どもたちがエプソンのプリンターをプレゼントしてくれたため、その置き場がなくなり長男に相談したところ書斎を片付けて机を処分して広くて長い一枚板を使ってテーブルを作り、全てその上に乗せて機能性を出したらどうかと提案があり、思い切ってミニコンポを除ける事にしました。さてこのミニコンポを廃棄処分は勿体ないので、人間牧場へ移動する事にしました。10年も使っているとミニコンポの裏側やスピーカには掃除をしたつもりでも誇りがたまり、一度書斎の吐き出し窓から外に出して掃除をしましたが、軽四トラックの荷台に積むには一つ一つ分化して積んだ方が楽なのです。しかしこのミニコンポの配線を繋ぎ合わせてくれたのは当時高校生だった三男なので、私自身が配線する自信がなく、重くてもスピーカーと本体に分けて、配線をしっかり頭に入れて積み込みました。孫が手伝うと殊勝なことを言ってくれるのですが、かえって足手まといでテープ類等を運ぶのを手伝ってくれました。

 山道は昨日までの台風による雨でかなり濡れていましたが、お金をかけた4WDにチェンジして山道をゆっくり孫を乗せ登って行きました。

 久しぶりの人間牧場は台風被害はないものの吹き返しの風でススキの株がかなり風にもまれて見るからに無残な姿になっていました。

 全ての戸を開けると心地よい風が入って孫も私も生き返ったような清清しさです。ミニコンポを下し掃除機と箒と雑巾で丹念に掃除をし、5段もある太くて長い備え付けの本棚の何処に置くか品定めをしてから脚立を立て置くべき場所の本を取り除いてゆきました。採寸の結果スピーカーは上段にしか収まらず、またデッキとスピーカーを繋ぐコードが余り長くはないので結局最上段と2段目に置く事にしました。当てにならない孫はせっせと掃除機や雑巾で掃除をして自己満足しているようで、私一人での設置に汗が吹き出てきました。孫も備え付けの冷蔵庫からジュースを取り出し、お菓子を食べながら陽気に過ごしていました。

 やがて2時間の悪戦苦闘の末コードを差し込んでスイッチを入れるとラジオの声が聞こえ、テープに切り替えると取り出し忘れていた歌のテープが再生され、これまたいい音色の音が再現されたのです。しかし幾らいじってもCDの音は再生できず残念ながら断念しました。これ以上の技術は長男の息子にゆだねなければならないようです。

 音の世界はいいもので、10年間以上も書斎で聞いたミニコンポも新しい場所を得て満足な音に再生され再び第三寿命を生き延びることとなりました。これでCDの修理でも出来れば10年間は保障つきなのですが、直るかどうか・・・・・・。ラジオやテープの音によって殺風景な水平線の家は人の気配が感じられるようになりました。これで水平線の家への来訪者に流れるBGMをプレゼントできそうです。

 追伸

 このミニコンポは、ラジオ深夜便心の時代に二夜連続で出演した時のテープをNHKから送ってもらい、請われるままにダビングして全国に送って大活躍した思い出のものです。また仲間の熊谷市在住龍前宏さんから送られて来たテープを毎日ブログを書きながら聞いたし、ラジオ体操や早朝ニュース、もちろんラジオ深夜便心の時代を聞いた懐かしい思い出の逸品なのです。

  「東京の 秋葉原にて 買いし音 娘私と 次は牧場」

  「音のある 風景何故か 人気配 映像よりも かえってリアル」

  「孫の手も 少しは手伝い した気分 汗をかいたと ジュースねだりて」

  「まだ使う? 呆れた息子 引き止める それでも未練 ちゃんと音出た」

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shin-1さんの日記

○恐竜の卵

 「おじいちゃん、恐竜の卵はどうなった」と3日前、松山に住んでいる孫朋樹から電話がかかってきました。「まだ恐竜は生まれてないよ」と言うと、「卵がかえったら電話してね」で電話を切りました。数日前夏休みになったのでわが家に遊びに来ていた孫を連れてシーサイドへ行きました。シーサイド公園特産品センターのお土産売り場はそんなにお土産のアイテムはありませんが、それでも海沿いの町らしい土産物をそろえているため、孫がシーサイド公園へ行きたがる原因はどうやらこのお土産が目当てのようなのです。ここで初めて買った恐竜のおもちゃが孫の心に火をつけてしまい、私の財布をいいことにその後いろいろな恐竜の模型を買う羽目となってしまったのです。孫がわが家に置いて帰り来る度に遊ぶ恐竜のコレクションは相当なもので、一室のある場所を占有して大事に保管しているのです。

 数日前例によってシーサイド公園へ行きました。孫が目に付けたのは恐竜の卵というおもちゃでした。僅か500円のおもちゃですから即座に買うのは簡単なのですが、我慢する心を育てるため幾ら泣こうがわめこうがその場は決して買わない方針なので、孫もそのことは分かっていて、「今度来た時買おう」と私に約束をさせるのです。明くる日の朝になると私を否応なしにおもちゃ売り場に引っ張って行き、「約束だから」と買わせるしたたかな知恵が4歳なのにちゃんとついているのです。私と孫は恐竜の卵を575円で買い求めて帰りました。

(これが恐竜の卵です。実によく出来ていて本物の卵と同じように作られていました)

 4歳なので全ての文字を読むことができませんが、恐竜図鑑に熱中したお陰でひらがなは読めるため私と一緒に説明書を読んで早速実験する事にしました。「ふむふむ、何々・・・・・・・」などと読みながらこの卵を風呂場に持って行き、風呂場用のバケツの中に水を張って卵を入れました。卵には小さい穴が何ヶ所か開いていて、そこから水が浸入し卵の中に入れているものが海綿体のように水を吸って膨張し卵の殻を割って登場する仕組みになっているのです。説明書きには「24時間くらいで卵の殻が割れて孵化します」と書いているため、自宅に戻った孫からの冒頭の電話となったのです。


(風呂場でバケツの中に卵を沈め実験を開始する孫、不思議や不思議、夕暮れの光が窓から差し込み、卵がまるで神々しい光を放っているように見えるのです)

 24時間後説明書に書かれたとおり卵の厚い殻を破っておもちゃの恐竜の赤ちゃんの誕生です。孫に電話をすると早速たった一人で我が家に泊まりに来るというのです。余程恐竜の卵が気になったのでしょう。私は孫を幼稚園まで迎えに行き着替えを持ってやって来ました。わが家へ来るなり風呂場へ直行です。恐竜の赤ちゃんと対面しました。嬉しそうでした。

 昨夜は風呂に入って恐る恐る恐竜の赤ちゃんを触っていましたが、今朝は早速水から出してバスタオルに包み大事に大事に机の上に置いてタオルで拭いていました。



(朝起きるなりバスタオルに包んで大事小事にしている恐竜の赤ちゃんです)

 孫の夢が叶って誕生した恐竜の赤ちゃんは当分孫のささやかな夢物語として遊びの中に取り入れられることでしょう。孫万歳です。

  「夢叶い 生まれたばかりの 恐竜を 大事小事に タオル包んで」

  「大人から 見れば馬鹿げた おもちゃだが 孫にとっては 夏の夢です」

  「最近の おもちゃ凝ってる 仕掛けにて 孫も私も ワクワクドキリ」

  「お母さん 卵かえって 恐竜の 赤ちゃん生まれた 電話弾んで」


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shin-1さんの日記

○加害者と被害者

 先日所用で東温市に行く途中追突事故に会いました。追突事故など起こしたことも起こされたこともない私にとっては青天の霹靂でしたが、不幸にも私の車にぶつけた方は女性だったため気が動転したのか、かなり取り乱した様子でした。この事故から始まった加害者の心理は被害者になったような心境が見て取れました。車の修理にかかる費用や相手の病院代、警察の事故処理の行方など、寝ても起きても事故のことが気になって仕方がなかったに違いありません。事故を起こしたら当然と思われがちな事故に伴うこうした煩雑な経済を伴う事後処理と相対する人間模様は、思わず逃げ出したい気持ちになるのは当然かも知れません。

 事故が起こった28日は予定された仕事が入っていて、あいにく土曜日のことなので明くる日も含めて病院がお休みで、以来首のムチ打ちを心配しながら結果的には積んだスケジュールの合間を縫って、昨日の午後の診察となってしまいました。その間事故を起こした方は何度となく私の教えた携帯電話に見舞いの電話をかけていただくし、110番の事故処理をしてもらった警察官からも再三お電話をいただくなどこちらが恐縮するほどの対応でした。

 昨日出張のついでに飛び込みで伊予市の整形外科に飛び込み看てもらいました。レントゲン写真を4枚撮って診察を受けましたが、骨に異常はなく肩に少々の張りがあるものの大したことはないとのお話でした。受付で交通事故の診断と申告していたので、全額受信費用を支払い領収証をいただきました。私は帰宅後早速相手の方に電話して何事もなかったと話しましたが、相手の方は今後のこともあるのでと今朝わが家を訪れました。

 病院での診察結果をお話しその上事故処理をした検察官に電話を入れ、車も治って修理屋さんから納品され修理費用も全額支払われたことや、怪我もない旨をお話し、示談による円満解決というということで、出来るだけ軽い処分にしていただくようお話しました。本人は安堵したのか涙ぐんでわが家を後にしました。

 任意保険には行っていなかったことや、離婚して間がないことなど私的な話を聞かされていたので、長引かせては可哀想と思い、これにて一件落着にしました。

 私を含め現代は車なしでは生活できないほど車のお世話になって暮らしています。何気なく乗っている車も突如として凶器に早代わりすることだってあるし、事故の危険性は誰しも身近にあるのです。今回は加害者でなく被害者になってしまいましたが、私にとっても貴重な体験でしたし、事故の怖さや加害者が被害者になることを学ばせてもらういい機会となりました。警察官をしている息子から散々いわれている「事故のないように気をつけて」という言葉をしっかりと肝に銘じなければならないと心に誓いました。

 それにしても追突は加害者100パーセント負担とは驚きました。

  「加害者が 被害者になる 事故処理で お互い疲れ これで幕引き」

  「110番 初めてしたと あの女性 今も忘れぬ 事故の日のこと」

  「前よりも 綺麗になって 里帰り 事故の痕跡 車のみ知る」

  「事故などは 人のことかと 思いしや 俺が会うのか これはたまらん」

 

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shin-1さんの日記

○台風がやって来る

 大型台風4号が大きな爪痕を残して去った日本列島に再び台風がやって来ました。今回の台風5号は前回の台風に比べるとやや小型ながら,日本に近づくまでは台風の目がはっきり確認できる強力なものでした。その台風は宮崎県日向市に上陸した後、大分県竹田市付近を通過して山口県宇部市付近に再上陸した後山口県萩市から日本海に抜けました。日向市に上陸したのは夕方でしたから夜の12時間に日本列島を縦断した事になります。台風銀座といわれる九州や四国には、今年も既に2つの台風が上陸したり掠めたりと散々な状況で、死者やけが人、床下浸水・床上浸水、土砂崩れなど大きな爪跡を残しています。

 かつて何度か裏山が崩れ、大きな被害を受けたわが家でも台風が来る度に、一喜一憂しながら眠れない夜を過ごすのです。妻は台風が来るだろうとと予測すると懐中電灯や雨具などを用意し、雨戸などを確認して台風の襲来に備えます。四国山脈を背にして瀬戸内海に面しているため、風も雨も太平洋に向いている高知県などと比べるとものの比ではありませんが、それでも地すべり地帯のため雨の災害が心配なのです。

 私にとって忘れられない台風は今から4年前の、2003年7月3日にやって来た台風でした。大雨が降り裏山が崩れ、その片づけをしていてチェンソーで右足を負傷し入院を余儀なくされたのです。救急車に乗って県立中央病院へ搬送される時間の長かったこと、チェンソーの切り傷のため手術が長時間に及び苦痛に顔がゆがんだこと、10日間の入院を余儀なくされたもののそのベットで「今やれる青春」という一冊の本を書き上げたことなど今思い出してドキドキするような思い出なのです。その闘病記録は日記風に一冊の手づくりミニ本にまとめていますが、記憶とはあいまいなもので、その痛々しい記憶すら文字に書いて残さないと忘れてしまうのです。

 今は日記風ブログで日々の暮しや思いを克明に記録していますが、凡人の私にとって記憶と記録の難しさは想像以上に難しいものです。記憶は年齢とともに退化するし記録も日々の努力を怠るとバトンリレーができないのです。それでも少ずつ無理をしないつもりで無理をして書き綴っているのです。昨日のことがもう思い出せないことだっていっぱいあるし、5年も前の出来事となるとこれは完全にメモか記録がないと思い出せないのです。

 その事を考えると、二日前に訪ねた周防大島で見た民俗学者宮本常一の文章の量たるや驚嘆に値する相当なもので、とても真似の出来るものではありません。電子文字のなかった時代ですから原稿用紙やノートに鉛筆や万年筆でどれ程の文字を書いてきたことでしょう。宮本常一の研究で知られる佐野眞一さんがいうように、宮本常一は歩き過ぎたし書き過ぎて市を早める結果となりましたが、それでも宮本常一さんの残したメッセージは「かつてこの国土に生まれたもの、そして今この国土に生きるもの、そして今からこの国土に生きるもの」を結ぶ赤い糸に違いありません。

 台風の記憶と記録だけでも意味のあることだと思いつつ、今朝去りし台風の記憶は遠ざかる台風と同じように記憶の彼方へ去ろうとしているのです。

  「眠られぬ 夜を過ごして 去って行く 記憶と台風 何処かのまちへ」

  「記憶とは はかなきものよ 昨日さえ 思い出し得ぬ 老化の一途」

  「覚えてる 足の古傷 見る度に 台風被害 懐中電灯」

  「台風は 偉いもんだね 水不足 一気に解消 水瓶満タン」

 

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