shin-1さんの日記

○ルッチ大学人間牧場訪問

 「朝五時過ぎに貸切バスで滋賀県を出ました。それから走り通しで午後2時半にふたみシーサイド公園に着きました」というルッチ大学の一行が、昨日わが人間牧場にやって来ました。「ルッチ大学ってどこの大学?」って言われそうですが、滋賀県米原市と合併した旧山東町生涯学習講座のメンバーなのです。山東町といえばほたるの世界では知らない人のいないくらい有名な場所で、生息しているほたるが国の天然記念物に指定されている所なのです。遅まきながらわが双海町もほたるの保護活動を20年以上にわたって続けていますし、その成果は環境庁のふるさと生きものの里に選定されているのですが、山東町と比較するとフンドシ担ぎといったところでしょう。山東町が音頭を取る形で始まったほたる保護活動のネットワークに双海町も参加していますが、その持ち回り全国集会が双海町で行われたこともあって関係者と深い人間関係をつくっているのです。

 そんなご縁もあって私は山東町のルッチ大学に講師として招かれました。その話が面白かったのか、ルッチ大学の修学旅行の場所に選ばれ、1期制も2期生もわが町へ修学旅行にやって来ました。今回やって来たのは3期生の皆さんで、「瀬戸内にしずむ日本一美しい夕日を見よう」とやって来たのです。三期生ご一行を迎えるに当たって私はどういう場所へ案内したらいいかコースを考えましたが、連れて行きたい翠小学校はあいにく土曜日で休みなので、シーサイド公園の見学~人間牧場訪問~私設公民館煙会所・海の資料館海舟館~夕日見学というコースにしました。コースを回りながら双海町のまちづくりについて私がノウハウをガイドするという算段なのです。

 昨日は台風9号お余波ながら天候もまずまずで、残暑厳しく汗をかくような30度を越える真夏日でしたが皆さん元気で熱心に研修を終え、宿泊先である松山のホテルへ帰って行きました。

 今回の研修では、前2回と違って人間牧場をコースに組み入れました。25人乗りの中型バスで来るというので、果たして人間牧場までの狭い道をバスが通れるだろうか気を揉んでいました。これまで20人乗りのマイクロバスは乗り入れたことがあるのですが、バスの車種が分らぬまま私もバスに乗せてもらい案内しました。国道から左折して内子・双海線の県道を通り、途中から今は市道と呼ばれる山道を恐る恐るの運転です。でも運転手さんの確かな技術で何とか人間牧場入り口まで乗り入れることができてホッとしました。一行は農道を歩いて牧場へ来ましたが、暑い時期のことなので蚊に刺されたり急な坂道を歩かされたりしながらの視察は、決していい視察ではなかったのではないかと思われ、少しばかり反省しました。

 それでも皆さん一応に初秋の心地よい風が流れる人間牧場のロケーションや私の生き方に感心されている様子でした。

 この日わが家では娘と孫二人が久しぶりに訪ねて来ており、加えて娘の所用のため孫の面倒を見なければならず、あいにく小さなコブつきと相成ってしまいましたが、人なつっこい4歳の孫朋樹は臆することもなくすっかりルッチ大学の皆さんの輪の中に溶け込んでの同行となったのです。

 海の資料館海舟館や私設公民館煙会所の視察を終え午後5時半に再びシーサイド公園に帰ってじゃこ天をほおばりながらの夕日見学は、あいにく私の所用で同行できませんでしたが、さて心に残る夕日に出会えたかどうか心配しています。

 私は今期のルッチ大学にも講師として招かれており、11月には皆さんと米原市で再会する予定になっています。またの出会いを楽しみに・・・・・・。

  「どこの人?ルッチ大学 女学生? 聞いた人々 首をかしげる?」

  「交流の 糸を手繰れば ホタルかな 出会いは深く 修学旅行に」

  「中型の バスが乗り入れ 地元人 お目々パチクリ 驚き隠せず」

  「秋近し 瀬戸の島々 くっきりと 海に浮かんで 近江迎える」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○面接をして感じること

 この数日、とある就職試験の面接を依頼され出かけて行きました。これまではどちらかというと内部で隠密裏に学科試験と面接をするのが普通でしたが、試験結果の開示が求められたり、いい人材を取るためには、外なる目も加えた客観的な判断をした方がいいという事になったようです。さてその外なる目とは一体どういう目なのか、これも注意深いことなのですが、どういう訳か私に白羽の矢がたったのです。

 最近は履歴書の様式も随分変って家族構成など本人の資質と余り関係のない事については書かないようですし、逆に本人の自己アピールやこれまでのボランティア活動の様子が詳しく書かれているようです。履歴書は個人情報のエキスのようなものですから、試験をする側に事前に送ると漏洩になるのでその場で配布され、試験が終わるとその場で回収されるようになっています。僅か数分の寸暇を惜しんで経歴書に目を通し質問事項を考え質問するのですが、こちらの準備不足は否めず、ついつい書いていることに対して質問するようになるのです。

 受験者は番号順に呼ばれてドアをノックするところから始まり、私たち試験官の前で受験番号と名前を言ってから質問に答え、時間が来れば再びドアの向こうに消えて行くのですが、受験者の緊張は大変なもので、緊張している雰囲気が見るからに読み取れるほどの汗をかき、震えている人もいてこちらまで緊張してしまうのです。

 人間には自分の人生において何度かこうした修羅場をくぐらなければならないようになっていて、高校受験、大学受験、就職試験など様々な関門が待ち受けています。一発で合格する人もいれば何度挑戦してもその関門を越えれない人だっているのです。

 今回試験に立ち会ってみて感じることは、ペーパーテストという第一次試験の結果はさておき、人の前で自己主張をはっきりできる人が合格を勝ち得るようです。自己アピールは自分の欠点を知り尽くした上で長所をはっきりとした言葉で語らなければなりません。人数が多くなればなるほどオンリーワンを持った人は輝きます。ところがボランティア活動などしたこともないのにさも活動をしたように書いたり喋ったりすると、百戦錬磨の試験官に見破られ、辻褄が合わなくなって赤恥をかくのです。

 わが娘や息子たちも親の知らない世界でこうした関門をくぐって今を生きていると思うとついつい頼もしく見えたりするのですが、試験をする人の私見でその人の人生が変わるのですから、公平に、それでいてその人の良さを最大限に発揮できるようこちらとしても真剣に対応させてもらいました。

 やがて数日後、この受験者全員に合格通知と不合格通知というどちらかの運命の封書が届きます。夢が叶って来年の春を迎えるウキウキで迎える人、夢破れて再び重い心で次の機会を狙う人など人生模様は様々ですが、いい通知が来るように祈りたいものです。

 余談ですが、私のように転職をした人間からすれば多少回り道や寄り道をして社会勉強、人生勉強をして世の中の厳しさを知っている人の方がいい人生観を持っているような気がしました。

  「この俺が つける点数 この人の 人生決める しっかりせねば」

  「男より 女性のほうが しっかりと これも時代の 流れだろうか」

  「もし俺が 反対だったら 不合格 それほど今の 若者凄い」

  「回り道 して来たことは 無駄でなし ちゃんと見ている 試験する人」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○山村の夏の終りを探し行く

 「日本の田舎が危ない」と、しみじみそう思うようになってきました。現職の時代もそうですが、2年半前にリタイアしてからこれまで、日本全国の田舎を地域の活性化という名の元に請われるまま訪ね歩いていますが、限界集落がどんどん増えているのです。地域住民の味方であるはずの行政からも完全に見放され、合併時に結んだ合意事項も無視されて学校統廃合の動きがここに来て加速されつつあることも気がかりです。

 一昨日の夜、大洲市上須戒地区を訪ねました。えひめ地域政策研究センターへ出向していた大洲市役所河井さんの口利きで上須戒支所長の徳永さんを窓口に準備が進められ、今回の講演会となったのです。

 松山での会合を午後5時に終わり、松山の雑踏を抜け出して夕闇迫る海岸国道378号をひた走りに走り、肱川沿いを八多喜まで上って徳永さんの送ってくれた地図を頼りに山道へ入りました。この道は青年の頃友人たちと名峰金山出石寺に登り、帰りに歩いた道なのですが、もう40年も前のことなので思い出せないのです。それもそのはず、道は取り付け道路は高架橋となって肱川を渡り、時折一車線があるものの改良されてあっという間に8キロ程の道を走って6時過ぎに上須戒公民館に到着しました。会場では徳永さんに玄関まで出迎えていただきましたが、メールにて細やかな連絡が届いていて、とても初対面とは思えない出会いでした。

 私は少しの間一人でそこら周辺を散策しました。川に架かった橋を渡ると天満宮の立派な神社の森がありました。石垣といい常夜灯といい、本殿といい中々立派なもので静寂の中にも上須戒地区の懐の深さを垣間見る思いでした。



 往時の三分の一になったという地区の人口は600人余りだそうですが、会場となる公民館の二階には沢山の人が集まっていました。時間もきっかり始まり、集まりも申し分ないところに上須戒の底力があるのでしょうが、会場には顔見知りの方も何人かいて、驚いた事に私の出版した「昇る夕日でまちづくり」の本まで持参する熱愛ある人もいて、こちらも約2時間弱大いに熱弁をふるわせていただきました。

 徳永さんの講師紹介、館長さんの挨拶、質問、運営委員長さんのお礼の言葉など、どれをとっても洗練されて、会場の聴衆反応もビンビン跳ね返ってきました。加えて帰るなり開けたメールには講演の感想が既に届いている、まるで絵に書いたような集会でした。



(上田さんから貰った自作のウチワ)

 私の手元にその会場で会が始まる前上須戒自治会長上田さんからいただいた一本のウチワがあります。「心を豊かにすると人生が楽しくなります」と綺麗な墨字で自書され、風鈴とスイカの絵が添えられているのです。達人もいるものだと感心しながら隣に座った妻が、「お父さんこのウチワは大事にしないといけないね」と取り上げられ、天井のかも居辺りへ飾られてしまわれました。

 この地区も今のところ人口の増える妙案はありません。加えて来年は長年県内の子どもたちを受け入れてきた少年自然の家も閉鎖と聞きました。その跡地活用も気になるところです。沿道には9軒の農家がなし狩りを始めていることを告げる幟が何本も立っていましたし、年間4千人くらいがなし狩りを楽しむためにやって来るとも聞きました。夏の終りの物悲しさも少し感じつつ、御礼にいただいた立派な上須戒産のなしを助手席に座らせ、元来た道を帰りました。

 「田舎が危ない」、こんなメッセージを一体誰が受け止めてくれるのか、複雑な気持ちで明日も明後日も、私は田舎の応援団としてもう少し元気付けの旅を続けます。

  「残り火の 如きセミ声 耳にしつ 神社の森の 天を仰いで」

  「新しき 五健句碑建つ 天満宮 夫婦イチョウも 少し色づき」

(真新しい五健の句碑)

  「これあげる 差し出すウチワ 絵と文字が 見事に調和 達人出会う」

  「何故なのか 分らぬままに 人が去り 爺婆の ため息むなし」  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○無謀にもお坊さんにお話しをするとは

 ふとしたことがご縁で、県下のお寺さんへお話しに行く機会が随分増えてきました。妻は「お説教を専門にしているお寺さんへなど行って何を話すの?」と呆れた顔をするのです。私も最初はそう思い硬くご辞退していたのですが深いご縁をいただいている人から間接的に頼まれると断ることも出来ず、ついついノコノコと出かけて行くのです。ところが今日はお寺の檀家さんへの話ではなく、曹洞宗青年会の会員さんに話をする事になったのです。妻は相変わらず出かける前に「今日の講演は止めた方がいい」と忠告するのですが、予定をしている相手の事を考えるとおいそれと止める訳にはいかないのです。

 今回のテーマは「寺の活性化」、サブタイトルは~元気ある寺をめざして~でした。さて会場となる松山市道後の簡保の宿までの道すがら何を話そうか迷い迷い行きました。少し時間に余裕があったので会場入りして考えようと思ったのですが、私の担当のお坊さんが決められていて、離れずに温かい接待をしていただくものですから準備も出来ず、いきなりの話になってしまいました。「うーん参った」です。聞けば曹洞宗の開祖は道元禅師とか、更に本山はあの有名な永平寺ですから、どのお坊さんも皆利口そうで益々ビビッてしまいました。

 でも考えてみればお寺の活性化もまちの活性化も基本的には同じだと思い、気を取り直してお話をさせてもらいました。青年会の皆さんですから出来るだけテンポよく話す事を心がけお話をさせてもらいました。

 都会はどうか知りませんが、私たちの知っている田舎のお寺の周辺では、過疎と高齢化、それに少子化が急速に進み、限界集落といわれる地域が段々増えてきています。今までのように檀家の多い時代はもう望むべきもなく、檀家の減少=お寺の経済的経営難という厄介な問題が迫って、ただ漫然としていたら、お寺も立ちいかなくなる時代が来るのです。加えてお寺という空間が閉鎖性の強いものですから、葬式や法要といった仏事でもなければ人は寄りつかないのです。

 私の提案第一は 「死んでからの事も大事ですが生きる事を導いてくれるお寺であって欲しい」と思いました。人間には幸せになりたい、お金持ちになりたい、健康で長生きがしたい、成功したいという4つの願望を多かれ少なかれ持っているものです。その導きや迷いを取り除きいい方向に導いてくれるとしたらお寺は救いの仏になるはずです。昔のお寺は悩みを解決して生きる道しるべを示してくれました。今の社会は心の病が複合的に重なり一億総病人と言われるような時代で、悩みは全て病院へ持って行くのです。

 第二は「目に見えない部分を気付かせてくれるお寺であって欲しい」と思いました。人間にも社会にも目に見えない部分は多いのです。目に見えない偉大な力をサムシング・グレートとといいますが、ネガティブとポジティブな力が心のありようにどう影響するのか、自分と対話した経験のある修行の中で学んだ事を生かして教え導いてて欲しいのです。心の存在は私たち凡人には分らないことだらけだからです。

 第三は「お寺が地域の拠点になって欲しい」と思いました。昔は学校、お寺、神社の森は地域の拠点でした。学校は統廃合されて消え行く運命にあります。お寺を開くということは檀家人と外の人の交流を意味します。最近はお寺で講演会やコンサートをするお寺が増えてきました。本堂の広い空間は音響もよく、人も集まれる絶好の空間です。イベントや講演会を通じて開かれたお寺を目指して欲しいものです。

 第四は「人の集まる条件を整えて欲しい」と思いました。現代のまちづくりのキーワードは楽しい、新しい、美しいですが、この条件はお寺さんにも通じます。アジサイ寺、ボタン寺などは美しさの表現だし、訪れる度に進化しているようなお寺は新しいし、お寺での催しは楽しいものです。

 頭を丸めたお坊さんが居並ぶ異様な雰囲気の中であっという間に90分の話は終わってしまいました。質問で子どもを巻き込んだ何かが出来ないか質問がありました。公民館や子ども会、自治会などとネットワークを張り巡らせてリンクすれば、子どもたちに宗教心を植え付ける絶好の機会となるであろうと結び、ハーモニカを吹きました。

 私の主宰する人間牧場はひょっとしたらその見本をやっているのかも知れないとふと思いました。私の人間牧場は平成の駆け込み寺であり、修養の場だと思いました。

  「無信心 そんな男が 坊主前 何を話すか 聞きたいもんだ」

  「道元の 言葉引用 アメリカで 日本を紹介 懐かしい日々」

  「拝まれて 手を合わせたる その前に 凡人私 面映いこと」

  「禅問答 やってみたいな いつの日か それまで修行 積んでおきたい」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○この一週間腰の痛みに悩まされました

 若い若いと自分では思っているのに、気力と体力のバランスが崩れ、近頃どことなく身体のあちこちに不具合が生じて、「ああ私も歳だなあ」なんて感じるようになりました。それでも対人関係を大切にする仕事柄、そんな弱音を見せまいと突っ張って生きているものですからついつい疲労が蓄積し、今回の腰の痛みのように長く尾を引くことがあるのです。

 そもそもの発端は家の周りの草刈りから始まりました。母親の7回忌を間近に控えているため、少しでも家の周りを綺麗にしようと、殊勝な考えを持ったのが間違いの始まりでした。先月の26日に暑い最中に草刈りを決行しました。家の周りといってもわが家の敷地は660坪もあり、その周りたるや草刈りだけでも半日はかかる作業なのです。夏の疲れがピークに達した上への草刈り疲労が追い討ちをかけ、明くる朝起きると腰が動かなくなってしまったのです。今までのようなぎっくり腰とは少し様子が違うので気にもせず病院にも行かず、そのうち治るだろうと思っていましたが、一向に回復せず今日を迎えています。背中や腰を丸めた姿は惨めで、外へ出るのがついついおっくうになります。しかし予定表に書き込んだスケジュールはこのところ午前・午後・夜とダブルどころかトリプルでギッシリ詰まり、休むに休めない状態なのです。会議は立っての講演や長時間椅子に座っての姿勢を強要されるため、腰の具合は一向に回復せず益々悪くなるような感じで、このまま立てなくなるのではと思うほどでした。

 その姿を横目でいている妻は見かねて、一昨日馴染みの整体院に電話予約を取り強制的に送り込まれました。そして追い討ちをかけるように昨日も受診をさせられました。良くしたもので専門家の治療は涙が出るほど痛かったのですが2日間で少し快方に向かって動き出しているようでホッと一息ついています。やはり最後は妻の世話にならなければならないのかと、その心根に感謝しながらもう一回受診しようと心に決めているのですが、今日も明日もギッシリで、受診のゆとりがないようです。

 馴染みの理髪店には悪いのですが、妻から「散髪するよりは身体の手入れが先」だと昨日言われました。私の髪のように短く刈ると1ヶ月に一回床屋へ行かなければなりません。ましてや人前に出る商売?なので身だしなみも大事なので、「そろそろ散髪」と言ったところ、妻からそのような言葉が返ってきたのです。妻は私の体を気遣って身体にいい食べ物を用意してくれたり気を使ってくれるのですが、当の本人がこれではどうしようもないのです。

 身体が資本だし、健康なくしていい人生はありません。毎年2~3度腰が悪くなる度に、もう少し身体に注意すればよかったと反省するのですが、後悔先に立たずです。整体院の先生から教えていただいた腰痛体操も元気な日々にはすっかり忘れてやりません。いい教訓を得たのですから、今後は暮しの日課に腰痛体操を組み込みたいと思いました。

 この一週間は私にとってブラックウイークと呼ぶに相応しいほど辛いものでした。毎朝隠居へ行って90歳になる親父の腰にサロンパスを貼る日課も、私が息子にサロンパスを張ってもらう日が近いかも知れないと思うとゾッとします。どうやらこの一週間は身体を考える、健康を考えるヘルスウイークになったようです。

  「腰だけで 口は饒舌 絶好調 冗談言いつつ 整体受ける」

  「腰抜けと よく言う言葉 俺のこと 腰痛体操 腰が砕けて」

  「不具合を 生じた腰に コルセット 自由利かない 身体ジレンマ」

  「夏疲れ 今頃出るは 歳のせい 若さ保とう 身体づくりで」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○冷蔵庫を買い換えました

 わが家の冷蔵庫は4段タイプの立派なものでした。「ものでした」という表現は昨日でもう過去の事になってしまったからです。この冷蔵庫実は17年も前に購入したものです。ご主人様である私の貧乏性に付き合ってくれて、よくもまあ17年間も持ったものだと感心し感謝しています。この冷蔵庫を購入する頃のわが家は私たち夫婦と子ども4人の大家族でしたから、当時売り出されているものでは一番大き目の冷蔵庫を買いました。冷凍庫もチルドも備わっていましたから、妻は重宝がって使っていました。わが町は海の側なので魚をいただくことが多いため、冷凍保存することが多く、この冷蔵庫の冷凍庫だけでは保存しきれず、結局は大きな冷凍庫を別に買って、生活防衛をしているのです。

 数ヶ月前から妻の行動が気になりました。たまにデパートに行くと電気製品売り場に直行し、幅や高さや容量を調べながら、熱心に手帳にメモをしているのです。「何で」と聞いても「うんちょっと」と軽く流していましたが、今考えると冷蔵庫の寿命を想定して、時期候補を調べていたようです。主婦にとって冷蔵庫は今やなくてはならない必需品なのですから当然といえば当然でしょうが、今までの冷蔵庫程度の大きさを確保するためには20万円そこそこの出費が必要なことも妻の悩みの種だったようです。数日前そのことの相談を受けました。コツコツ集めた冷蔵庫のカタログを金額と容量、デザインと機能性などを比較しながら決めました。最近電気器具は相次ぐ大型店の出店により、価格破壊が起こっているようですが、少々高くても地元の業者さんで買おうと言うので、馴染みの電気屋さんにお願いする事にしたのです。

 昨日の夕方妻と私が帰るのを見計らって電気屋さんが大きな冷蔵庫をトラックに積んでやって来ました。今の家は家の間仕切りが細かく仕切られているため、時には窓から入れるそうですが、わが家も裏の庭からのお嫁入りです。私は腰の具合が悪く手伝うことが出来ないため、余り足手まといになってもいけないので書斎に入って設置完了の時をまっていました。妻は冷蔵庫の中身を入れ替え、古い冷蔵庫を家電リサイクル法によって処分しなければならないので、取って帰ってもらうべく忙しく振舞っていました。

 「お父さん、冷蔵庫が入ったよ」と呼びにきたので台所へ行ってみると、ステンレス基調の冷蔵庫が存在を誇示するようにデンと元の位置に座っていましたので、デジカメを取り出し嫌がる妻とともに記念写真を撮りました。



「お父さん、この冷蔵庫何年持つかねえ」とは妻の弁、早くもこの冷蔵庫の耐用年数を気遣う当りはさすが主婦歴33年のベテランです。電気屋さんの話によると家電製品の寿命は10年くらいだそうです。昔のように傷めば直して使う時代は終わっていて、傷めば直ぐに買い替えるのが常識だそうです。わが家の冷蔵庫は大事に使ったため17年間も持ちましたので、電気屋さんが「奥さん、こんなに長持ちさせると電気屋の商売が上がったりです」と呆れていたようでした。

 それでも、古い冷蔵庫が役目を終えてトラックに詰まれ無造作にロープをかけられて去って行く姿は、長年慣れ親しんだだけにさすがに寂しく感じました。

 二人だけの夕食が終り、片づけが終わると妻は散歩のついでに1キロほど離れた電気屋さんに支払いに出かけました。田舎ではどこの電気屋さんも経営が苦しいようで、現金払いに「助かります」といってティッシュペーパーを10個もくれたそうですが、17万円の臨時出費のために妻は相当勘弁をしてかき集めたようです。貰って帰った請求書と領収書を家計簿別冊のノートに張りながら、「この冷蔵庫何年持つかしらね」と、聞くでもない私にまるで独り言のような言葉を発していました。仮にこの冷蔵庫が電気屋さんの言うように10年持つと、私は72歳になります。わが人生を85歳までだとすると、後一回は買い換えなければなりません。人生の終りが忍び寄るような少しだけ寂しさを感じる冷蔵庫の嫁入りでした。

  「十七年 よくも持ったな 冷蔵庫 妻のやりくり 生まれ変わりて」

  「入れた場所 分らぬままに どこここを 開けては締める 新品嬉し」

  「次に買う 時には私 何歳か 今の年齢 十足しゃいいの」

  「この一年 コツコツ貯めた 主婦の知恵 臨時出費も ちゃんと対応」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○実行委員長を引き受けてしまいました

 2年半前にリタイアしてから、役職から出来るだけ身を引く事を腹に決めて対応してきたつもりなのに、何故かまた幾つかの肩書きが舞い込んできました。20年もまちづくりをしていると県内ではそれなりに顔も知られるようになって、何だかんだといいながら役割を引き受けざるを得ないように追い込まれてゆくようです。

 今日は来年度に愛媛県で開催が予定されている第26回地域づくり団体全国交流会愛媛県大会の実行委員会の設立総会並びに第1回の実行委員会が西予市中央公民館で開かれました。私はえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしているため、研究会議推薦の委員なのです。参加者は殆どが大会に分科会を予定している県内の地域づくり団体の代表者と関係市町村の担当者です。

 昇任された実行委員会規約に則って役員選出が行われ、推薦と満場一致という少々形式ばった方法で実行委員長に選ばれたのです。断る理由もないことからこれから1年余り、忙しい日々が続きそうですが、誠心誠意努力したいと決意を新たにしました。

 早速委員長就任の挨拶をした後、私が議長になって協議が行われました。事業計画案や収支予算案が承認され、第2回となる次回の運営方法を検討して短めながら会議を終了しました。

 普通この手の会議は県庁所在地の松山市で開催されるのですが、今回の大会は県が強力に推進しようとしている南予地域の活性化という隠し味もあるため、西予市での開催となりましたし、今後もできる限り南予での会議となりそうです。それにしても松山に近い場所に住んでいる私たちにとってはまだ西予市は近いのですが、今治市や瀬戸内島嶼部の人たちは3時間もかかって来たと、少し不満も聞こえるようです。まあ日ごろは南予の人はいつも松山へ行くのですから、おあいこだと思ってお付き合い願います。


 私はこの日も腰の調子が悪く、少し気がかりです。数日前から妻からレッドカードが出されて病院へ行くように言われているのですが、一向に病院へは足が向きません。

 今朝は妻の堪忍袋が切れて、いつも看て貰う整体に電話をされ、午後の会議に間に合うようセットされたので、9時半に整体院の門を叩きました。見立てによると背筋がかなり曲がっているよで、少し休養が必要なようです。

明日からかなり混んだスケジュールが週末まで続くようなので、今日は早めに仕事を終えて休むようにします。

  「また一つ 役が回って 役害だ 断る理由 何もないので」

  「無理せずに のんびりしたいと 思ったに 何時の間にやら 元の木阿弥」

  「若松が いいとお声を かけられて みんなが拍手 満場一致か」

  「このところ 腰の具合が 悪くなり 若いつもりが 腰を丸めて」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○予期せぬお客様

 昨日外出先から家に帰って玄関の戸を空けた瞬間、けたたましく電話が鳴り始めました。トイレにも行きたいしどうしようか悩む間もなくとりあえず電話の受話器を取りました。商工会からの電話です。聞けば私が7月に講演を頼まれた行った島根県雲南市から視察依頼とのこと、「何時ですか」と訪ねたら無謀にも間もなく到着するとのこと、一瞬顔が曇りました。「ひょっとして視察依頼を忘れていたのでは」と思ったからです。「とにかく商工会では何も分らないので相手の方の電話番号を聞いているのでそちらへ電話をして下さい」というのです。内心困りました。今夕は神社の集会があり、さらに間もなく旧友がわが家へ集会の打ち合わせに来る事になってるのです。それでも深いご縁をいただいているので電話をかけました。相手はもう伊予のインターチェンジを降りたとの事、仕方がないのでシーサイドについたら電話をくれるように言って、間もなく到着する予定の友人に少し遅らせてくれるよう頼んだり、神社の集会に少し遅れる旨の電話をかけました。運の悪い事に東京から2本の電話が相次いでかかり、八方塞の状態でした。

 間もなく相手がシーサイド公園に着いた胸の電話が入り、急いで単車を走らせました。奥出雲と書かれた大型バスでの来町です。もし私が留守だったらどうするんだったんだろうと思いながら、恋人岬辺りへ40人ほどの商工会女性部の方を案内しました。

 聞くところによると今日の目的地はしまなみ海道の途中にある西日光耕三寺とか、その後シーサイド公園で夕日を見学する日帰り強行軍で、雲南市に到着は午後11時過ぎというから驚きの行程です。いきなり何の前触れもなく来るあたりはやはりオバタリアンのやることで、その行動にはあっけにとられた次第です。


 聞けば一行は高速道路を走って来たのですがバスの中で激しい雨に会い、双海町の自慢の夕日は完全にあきらめていました。それがどうでしょう。シーサイドはそのにわか雨が沖合いを通ったため雨もポロポロで、自慢できる夕日ではなかったものの西の空も夕焼けに染まり何とか面目を保ちました。私の話もショートコメントながら研修に彩を添えました。一行はその後下灘駅を一目見て、地元のレストランで食事をして帰ってくれました。経済効果抜群のお客様だったようで、神様・雲南様といいたいところです。

 予期せぬお客様でしたが、島根県旧吉田村で開かれた7月3日の研修会で記念講演した私の話を覚えていてくれての来訪は嬉しい限りです。私の話の内容はさておき、とても楽しい話だったと口々にお世辞を言ってくれました。島根県といえば宍道湖に落ちる素敵な夕日の見える地域です。夕日に着目して夕日によるまちづくりを始めた頃は、幾度となくその夕日を見に行ったものです。あれから20年が経ち、今ではその夕日の本場からわざわざ双海町へ夕日を見に来てくれるようになったのですから偉いことです。これからもしっかりといい夕日の物語を作って、満足してもらえるよう頑張りたいものです。

  「もう着いた 電話の向こう したたかに 私を誘い 夕日の話」

  「七月に 会った顔々 ちらほらと 出雲の里の なまり懐かし」

  「行きがけに 大社参りを したお陰 孫無事生まれ 何はともあれ」

  「世も変り 夕日の県から 視察来る オンリーワンの 自慢の夕日」 

  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○小さな家

 今年の夏は私にとっても確かに暑く感じられる夏でした。夏が過ぎ九月の声を聞いても相変わらず日中は30度を越える真夏日です。今年の夏から気象庁は真夏日でも特に35度を越えた日を猛暑日と呼ぶようにしたのですが、その効果?とも受け取れるような暑さなのです。

 わが家の池の鯉が死んでから、池の鯉を処分し、池を馬立てる計画を変更してタンク形式の地下室を作りましたが、このところの暑さで池だった場所にコンクリートの広場が出来て、その照り返しの太陽に焼かれた熱風が、もろに親父の隠居家に流れ込んで、これまた親父にとっては初めて経験するような暑さだとぼやいて過ごしていましたが、これを何とか解消しようとその敷地に小さな涼み台風の東屋を作る事になりました。先週の休みの日にホームセンターへ親父をトラックに乗せて連れて行き、材料となる木材を買って帰りました。田舎のお店で買うと高い建材もホームセンターではかなり安く、親父がポケットマネーを出すのですが、思ったより結構安く、嬉しそうでした。

 私はあれから相変わらず日本全国飛び回っていましたが、昨日帰ってみるとちゃんと木組みが出来ていて、暇な時間を見て二人で建て前をしました。建て前といっても半日で仕上げる程の小さな家ですが、器用な親父にとってはかなりの労作で、親子がああでもないこうでもないと喧嘩をしながら今朝も朝早くから作業をしました。

 90歳の親父を屋根に登らせることは危険だからと、屋根の上の仕事は主に私が担当しましたが、私が電話をしている間に、スイスイと屋根の上に上がり、まるで息子の私がかすんで見えるほどでした。

 私の親父はとにかく器用です。私がこの三十年使っている自宅横の私設公民館煙会所も、海の資料館海舟館も全て親父の作品なのです。ある意味私が今日こうして大きな顔が出来るのも親父のお陰なのです。私がアイディアを出し親父が技術と金を出す、まあそんな二人三脚をこれまでずっとやって来ました。今回の東屋も二人の意見がうまく絡んでの仕事です。私はこの東屋をウッドデッキ風にしたいと思っています。親父にはまだ内緒だし、設計士の息子にもまだ話していません。でも私が新聞折込のチラシ裏に書いた略図を親父に見せているので、多分そうなるだろうと思っています。

 今日はこれから大事な会議が西予市の中央公民館であるので出かけて行きますが、帰った頃には親父の仕事も随分はかどっていることでしょう。

 ここまで書いて西予市へ11時30分にマイカーで出かけ、17時30分に家へ帰ってみると、まるでアリのような

90歳の親父の仕事でもちゃんと片付いて、完成間近なのにはいやはや驚きました。材料の不足も調達して凄いとしか言いようがありません。明日は近所の板金屋さんに屋根をトタンで葺いてもらうと張り切っていました。

 また一つわが家に親父の足跡が残ります。私も積極的に関わって、親父の爪の垢でも煎じて飲まないといけません。それにしても親父は何軒家を建てたら気が済むのでしょう。日曜大工といいながら玄人はだしの家が、わが家の周りには数え切れないほど建ちました。その一つ一つに親父の思い出が詰まっているようです。

  「また家を 建てると張り切る 親父見て 何時まで生きる 予定でしょうか」

  「俺などは 親父の種と 違うかも 不器用腕を さすりながらも」

  「危ないと 屋根に上った 俺に言う 三十年下 大丈夫だと」

  「小さくも 日曜大工で 家が建つ 夏が終わるに 涼み台とは」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○化けの皮

 62年間生きていると毎日色々な人に出会い色々な話を聞きます。大きい話や小さい話、儲けた話や損をした話、夢や失望、悪口や褒め言葉など、対立軸をゼロにして冷静に聞くと、まるで残った電池を調べるテスターのように左に振ったり右に振ったりしながら面白い人間模様を見せてくれるのです。人間は悲しいかな少しでも自分を相手によく見せたいと思うもので、絶えずどうしたら相手に好感を与えれるか考えるものです。さすがに私のような年齢になってリタイヤしたりすると守るものや捨てるものがなくなるので、そんな言動は影を潜めますが、高い公職を持っていればいるほど、お金を持っていればいるほど見栄や虚栄心が働いてしまうものなのです。特に何かの拍子で莫大な富を得たり、名声を得たりすると過去の貧乏や失敗を隠そうとする姿が目に付いて、可哀想と思うほどの言動をとるのです。

 最近大臣の辞任が相次いでいます。「末は社長か大臣か」といわれる大臣の椅子は政治家にとって目標の一つなのですが、地元では先生と呼ばれる政治家にとって信用が売りもののはずなのに、功を急ぐ余りにメッキで嘘やボロを隠してはみたものの、国民の代弁者のような顔をしたマスコミと野党の餌食になって哀れな末路を辿っているようです。

 最近多い有名人だけでなく国民の離婚の多さも元はといえば大臣と同じ見栄や虚栄心が産んだ悲劇かもしれませんが、離婚の場合は子どもという被害者がいるだけに話は深刻なのです。結婚は少しでもよく見せようとお互いが色々な策を講じます。しかし幾ら策を練ったところで暮らしてみると直ぐに「こんなはずではなかった」と気がつくものです。気がついても誤ったり修復作業をすればいいものを、「嘘つき、インチキ」とののしり合い、結局最後は裁判沙汰や手切れ金での解決を選ぶのです。芸能人は離婚も自分の人気取りの手法と考えている人も多く、新聞や雑誌やテレビは相変わらずの手合いのようです。

 昨日まで私は岩手県に行っていました。そこの公民館職員と東京の研修会で知り合ったことがきっかけで研修会に招かれましたが、その職員の動きを見ていると何かほのぼのとするような気持ちになりました。彼は地元の学校に用務員として採用されたそうです。仕事に情熱を傾けると同時に通信教育で見事大学を卒業したそうです。今はその努力が実って短労職から行政職に配置転換されましたが、今もその努力の姿勢は変らず、公民館主事として一生懸命汗と知恵を出して頑張っていました。私も漁師から転職して公民館主事になった経歴を持っているだけに、自分の人生とダブらせながら彼の仕事ぶりを見させてもらいましたが、実によく働き知恵と汗で地元の信用も厚いようでした。

 私は彼とまだ3回しか会っていませんが、彼こそメッキなどしていない本物の役所の職員だと思いました。彼の魅力は夢を持っていることです。そしてコトコツとひたむきに働くことです。ひたむきは「下向き」ともとられますが、夢は「上向き」、しかもその夢は自分の幸せより地域の発展や地域の人の幸せに焦点を合わせているのですから、私と同じ公務員=好夢員なのです。

 夏の終りに私はいい公民館主事に会いました。彼に会って私の心に新たな進化論が芽生え始めています。それはやはり本物と真心を手に入れるための日々の努力なのです。4度目に彼に会うときはもっともっと進化をしておかねばと決意を新たにしました。

  「化けの皮 剥がれ大臣 次々と 辞める姿は どこか哀れだ」

  「メッキなど せずも生きたい 堂々と 毎日コツコツ それしかないな」

  「頑張れよ 声をかけたい 人に会う 俺の昔を みているようで」

  「信用は 日々の努力の 積み重ね 卒業証書 役には立たぬ」

 

[ この記事をシェアする ]