shin-1さんの日記

○忘年会で移動落伍

 暮れも押し迫り、昨日は官公庁では仕事納めでどこも昨日で一年の幕引きが行われたようです。しかし民間の巷ではこれから三日間がかき入れとばかりに働く職場もあって悲喜こもごもといったところです。

 数日前えひめ地域政策研究センターの人たちと忘年会をしようと相談がまとまり、いろいろ策を練ったのですが、日程の折り合いがつかず、結局仕事納めの後でやろうということになりました。しかもこともあろうにその前座として移動落伍をしようと画策したのです。

 先日試験的に生協産の理事会の忘年会余興でやらせていただいていて、まあまあの感触は掴んでいるものの、今回は前回のように飲み会の途中でなく、素面で聞くというのです。県庁の方々も参加するそうで仕事が終わって県庁の人が急いで駆けつけ総勢20人が揃ったのは午後5時45分でした。大番頭松本さんの司会ではじまり、例によって出囃子に乗り裂き織の上っ張りを着いて、拍手に迎えられ登場しました。

(松本さんの軽妙な語りもすっかり板につきました。今では私の落伍の専属司会といったところです)
(出囃子に乗っていざ出番です)

 殆ど顔見知りとあって威勢のいい掛け声も飛んで雰囲気はまずまずです。この日の出し物は「ハーモニカが吹けた」「四つの願望」「外から見ないと中は見えない」の三本立てです。

(夕日亭大根心の落伍が始まりました)

 正直言って私はこの日のために勉強したり、筋道を立てて事前に考えて高座に上がる訳ではありませんから、まさに口から出任せです。一本10分としてこの日に与えられた私の持ち時間は30分です。また私の落伍は程ほどの笑いなので腹を抱えるようなものではないので、聞いた人は拍子抜けのような感じがしないでもないのですが、それでもそこそこに思わず「プッ」と噴出すような笑いも聞こえてまずまずの反応です。

(ハーモニカを吹く私)

 さて最初の出し物は「ハーモニカが吹けた」です。私は「夕焼けこやけ」や「赤トンボ」を吹きました。また先日秋田県横手市で吹いた「ああ上野駅」も披露しました。そして極めつけの「美人さん。男前さん」を竹で作った赤トンボ3匹を取り出し、継ぎ竹竿の上に留まらせたり、参加した県庁の平井さんを呼び出して指先に留まらせる芸当をやりました。平井さんのご協力もあってかなり盛り上がりました。

(平井さんの指先に留まった手づくりの赤トンボ)

 この日は、ちょくちょく私が顔を出すため、すっかりお馴染みとなっているえひめ地域政策研究センターの3人娘も参加していて出囃子などのお世話もしてくれました。女性がいると俄然張り切る私としては最高の機会となりました。

(センターの3人娘です)

  落伍が終り、2時間飲み放題の酒盛りが賑やかに始まりました。例によって酒を飲まない私はウーロン茶で酔ったような顔をして頑張りました。この落伍の仕掛け人である清水さんが親の容態が思わしくなく欠席していたことが残念でしたが、県庁の人もいて合併後のまちづくりなど、私の落語を肴にしながら話し込み、今年の最後を飾るに相応しい交流が持てました。

 思えば昨晩集まった人たちにとっては私という人間が身近な存在であるがゆえに、私の講演を聞く機会は殆どありません。こうしてショートコメントの落伍風まちづくり話しを聞いてもらうことは、まちづくりの意識を掘り起こす意味からはとても大切なことだと思うのです。

 来年はこのような落伍ライブをゲリラ戦法で草の根的にしっかりこなして行きたいと思っています。

  「出任せで 落伍を喋る お人よし 短い話 奥が深いね」

  「来年も 人の迷惑 省みず 落伍三昧 続けてみたい」

  「面白い いわれるような 落伍家に 修行を積んで 更に上達」

  「師匠なく 独学演じ 早三回 少し上向く 兆しの話芸」

 

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shin-1さんの日記

○しめ縄作り

 年寄りがいると縁起を担ぐことが多く、「そんなもの迷信だ」と割り切って生きてる私にとっては、日々の暮らしの中で何かと衝突することが多いのです。最近は妻までも親父と同じようなことを言うものですから、家で孤立気味になってすっかり面白くないのです。

 先日も妻と親父が年末の縁起について議論していました。「しめ飾りは大安の28日が良いし、餅つきは先勝の30日にしよう」と、世帯主の私をまるで無視するように相談しているのです。そして「しめ飾りは大安の28日にするように」とお達しがありました。私はこの日どうしても締め切りの原稿があって、夜は最後の忘年会が松山であるから」と渋ったのですが、「それなら朝早く起きてしたら」とまるで他人事みたいな素気ない返事が返って来ました。家庭の平穏を重んじる長男?としてはその意見も最もと、普通はブログを書いたりハガキを書いたりする早朝の時間を割いてしめ縄作をやりました。

 昨日の朝は比較的温かく、隠居の前に今年の夏親父と二人で造った東屋にゴザを敷いて、親父がそぐって(藁の袴を取ること)用意してくれた稲藁を使ってしめ縄作りをやりました。昭和二桁の古い私の年代でも、家でしめ縄作りが出来る人は少なくなったようで、誰に聞いてもホームセンターなどで買ったものを使っているようです。しかし私は子どもの頃から親父に教わってしめ縄の作り方を伝授されているため、自分で言うのも自慢に聞こえるようですが、まあまあ腕の良い方だと思っています。温かいといっても初冬の戸外は座って仕事をすると少し冷たく感じられましたが、親父は自分の部屋の石油ストーブをわざわざ持ってきて暖を取ってくれました。

 わが家では4種類のしめ縄を作ります。まず最初におたまじゃくしという少し小さめのしめ縄を11個作ります。これは水神様や車、自転車、神様、仏様、煙会所などに飾るものです。次に親父の家の玄関に飾る少し大きめのおたまじゃくしを作ります。そして本家の入口に飾るのは縄暖簾のようなしめ飾りです。竹に沿わせるよう作るのです。最後は神様に供える海老です。昔は餡子と称する藁簿手を入れていましたが、今は面倒臭いのでそれらしい太目の縄をなって仕上げます。


 これが出来上がったしめ縄ですが、今年は餅米用の柔らかくてねばく、長い藁が手に入ったため予想以上の出来栄えで、自分でもびっくりするほどでした。早朝とはいいながら来客が多く、愛知県から帰省した従兄弟が来たり、姉が来たりとひっきりなしにやって来て、その都度私のしめ縄を作る様子を見て一応に驚いて帰りました。

 お陰様で親父と妻の言う「大安吉日」の昨日、縁起物のしめ縄は無事出来上がりました。あとは31日の午前中に裏白やお供え物を用意してお飾りとして仕上げたいと思っています。

 昨日息子嫁の実家へお歳暮を届けに行きました。しめ縄の話しをすると、嫁のお母さんが「まあ若いのにしめ縄作りが出来るなんて」と驚かれました。「いやいやまだ63歳ですから若くはありませんよ」と照れ笑いをしてしまいました。「ところでお父さん、お父さんのその技は息子の一心君に伝授していますか」と言われてドキッとしました。息子の忙しさにかまけて、すべて私がやってきましたが、もうそろそろ息子への伝授もしなければなりません。私たちは子どもの頃から縄をなえます。ところが今の若者の暮しの中には縄をなうという必然性がないのです。必然性がなければ廃れていくのは当然で、子どもの頃からしめ縄作りを手伝わせてはいましたが、自分で仕切ることは出来ないのかも知れません。それでもこの一言で少し考えを変えようと思っています。31日のお飾り作りは是非帰省する予定の息子とやりたいものです。

  「一・五・三 藁を足しつつ なって行く しめ縄作り 今年も出来た」

  「そういえば 息子に伝え 出来ずいた 来年こそは 手取り足取り」

  「天才と? 見紛うほどに おだてられ 自慢たらたら 姉に説明」

  「売っている しめ縄大安 だけでなし それでも親父 大安選ぶ」

 

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shin-1さんの日記

○風評被害と風評効果

 私は役場に勤めた晩年は公務員でありながら第三セクターの経営を任され商売をしました。商売にとって数字は結果なので、随分そのことには頭を悩まし経営努力もしました。「100を目標にすると90で終わる。110を目標にすると100に到達できる」と自分自身の勝手な思い込みで経営哲学?をつくりその実践をした結果、世の第三セクターの殆どが苦戦を強いられる中で、創業以来13年間一回も赤字になることなく黒字を続けたり、出資者に5%の配当を続けているのです。

 私は経済学を勉強したわけでもないのに経営に携わりました。お天気に左右されやすい、しかも冬と夏の落差がひどいなど幾つ物弱点を持つ「道の駅」をどう経営するか、10年間は寝ても起きてもその事を考えていました。冬になると来客が少なくなる弱点をカバーするために他の地域では咲かないスイセンや菜の花を冬の花として取り上げ見事に冬の観光客を倍増しました。でもお天気に左右される悩みは多少改善されてはいるものの今も抜本的な解消にはなっていないのです。

 私は道の駅に来るお客を4つに分類していました。お客さん100人をパーセントで表すと、まずいい消費者は5.5パーセントです。この人たちは価値が分っていていつも買ってくれる固定客です。次に健康志向型消費者は16.5パーセントです。この人たちは学習旺盛で裏面の表示を見たり消費期限を気にしたりしながら価値が分れば買ってくれる人です。次に最も多いのが分裂型消費者52.5パーセントです。この人たちは見た目と安さがで商品を買います。後の残りはどうしようもない無意識消費者25.5パーセントです。この人たちはいくらチラシを撒こうと看板を立てようと無関心で、道の駅などには来ないのです。

 最初私はいい消費者と健康志向型消費者を相手に商売をしていました。確かに22パーセントの手ごたえはあるのですが、売り上げの数字が伸びないのです。そこで思い切って22パーセントプラス52,5パーセントの品揃えにして見ました。それ以来売り上げも来客数もいい消費者や県句指向型消費者が多少減ったものの、うなぎ上りとなったのです。しかし問題点も出て来ました。分裂型消費者は少しでも問題点が見つかると風評被害を撒き散らすのです。これは恐ろしい消費者行動で、一夜のうちに口コミで広がるのです。それは商品だけではありません。例えばトイレが汚かったりするともう大変です。新聞にまで投書して風評はまたたく間に広がって客足がピタッと遠のき、売り上げは大幅にダウンするのです。

 私はその実態を見ながら、この風評被害を撒き散らす分裂型消費者を風評被害から風評効果に転換できないか考え始めました。そのために人工砂浜の掃除を毎日毎朝3時間ボランティア活動として自らにノルマを課して頑張りました。また声賭け運動を行い誰彼となく道の駅で話しかけました。結果的には砂浜が美しい、夕日の美しい、じゃこ天が美味い、夕焼けソフトクリームが美味しいという風評が口伝えとなって、またたく間にシーサイド公園は県内観光地のスターダムにのし上がってきたのです。風評効果を作る物語は枚挙に暇のないほど作り、その結果が年間55万人の観光客となったのです。

 風評被害をばら撒く人は、やり方一つで風評効果をばら撒く人になるのだということを考え、「真心と本物」の感動商法をこれからも続けていけば、シーサイド公園は不滅なのですが・・・・・。

  「風評は 被害と効果 裏表 どちらに回すか 知恵でどうでも」

  「五十二の 分裂型を 引きこんで 見方にできりゃ 占めたものです」

  「結局は 人の良し悪し 決まるもの いい人いれば 経営上手く」

  「本物と 真心だけで 勝負する 感動商法 今も昔も」

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shin-1さんの日記

○やっと書き終えた年賀状

 毎年恒例のことながら、年の瀬も押し迫ると何かと慌しく、予定しているはずなのに年賀状を書く作業が遅れに遅れて、昨日やっと700枚ほどの年賀状を書き終えました。年賀状の裏書は印刷屋にお願いし、表の宛名書きはパソコンでプリントするのですから「書き終えた」という表現が当っているかどうかは分りません。むしろ「年賀状をプリントアウトし終えた」という方が正しいのかも知れません。それでもパソコンに入力しているこれまでの宛名を呼び出して整理し、新たな宛名を入力する作業はかなりの作業で、今年一年に貰った名刺を繰りながら、どうしても出さなければならない恩義をいただいている人を選んでは打ち込むのですが、途中で来客や電話があったりするものですから、途中で投げ出したりして中々前へ進まないのです。私のように広域的に歩く人間にとっては、たった一度の出会いの人が圧倒的に多いため、その名前と顔さえ一致しないのです。それでもブログと予定表を付け合せながら、訪ねた町や出会った人の顔を必死にめくりながら作業をするのです。

 今年妻が買ってくれた年賀状は700枚、3万5千円もの出費です。でも私のダイレクトメールだと思えば元手なしで仕事が出来る私にとっては大切な顧客サービスなのです。その700枚にどう治めるかも苦労なのですが、公的仕事についていない自由人の私ですから、不義理はご容赦とばかりに700枚に納めました。

 プリントアウトはエプソンのPM-A980という最新鋭のプリンターに変えているのでかなり速度が速くなりました。お陰様で今までのようなためし刷りや失敗もなく、700枚が全て印刷され、小脇に抱えて地元郵便局の窓口まで持って行き手渡し投函をしました。個人では多いほうなのか郵便局の女性職員も笑顔で受け取ってくれました。さてこの中に迷い子となって帰って来るものが何通あるのでしょう。昨年は5枚程度ありましたので、今年もその程度は覚悟しなければなりません。迷い子郵便の主な原因は住所を正しく書かなかったこちらにも責任があるのですが、年賀状の配達人がアルバイトという事情もあって、大まかな住所など探すこともなく「訪ね人不詳」のレッテルを貼られて帰って来るのです。

 さて今年の年賀状に何を書いたかは貰った人しか分らないので貰った人のお楽しみなのですが、私は毎年その年に起こった自分の10大ニュースを「青春の履歴書」として書いています。今年も色々なことがありましたが、どうにか無事に終わりそうです。

 わが家にとって今年は、二人の孫が誕生したことが何よりの朗報でした。世の中は少子化だと言われていますが、5月18日に長女夫婦に次男尚樹が、8月31日に長男夫婦に長男希心がそれぞれ生まれ、孫の数は一気に3倍にふくれ上がりました。それぞれ順調な成長を続けており、正月には長男夫婦も帰ってきて賑やかな正月になりそうです。しかし一方では昨日の義兄のガン手術や卒寿を迎えた親父の加齢など、叔父や叔母に当る親父の兄弟の加齢も気になっています。親父のすぐ下の叔父は少々認知症が認められ、老いの身を心配していますが、息子夫婦と同居してるため少しは安心しています。一方で命の誕生や成長を喜び、一方では加齢による衰退を気遣うという、いつまでたっても人間には喜びや不安が付きまとうものだと思います。

 他人事ではなく自分達夫婦にも老いはこっそり忍び寄っています。今を楽しみ、今の連続を充実して生きることが人生だと、胸を張って生きていますが、さて来年はどんな一年になるのでしょう。

  「年賀状 七百枚を 書き終えて ホッと一息 今年も色々」

  「来年は 早く書こうと 心決め やってはみるが 終われば同じ」

  「書くことが あるだけ良しと 思う年 来年こそと 進化を誓う」

  「一枚も 書き損じなく 偉いぞと プリンター褒め 自分も褒める」


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shin-1さんの日記

○IQ人間とEQ人間

 わたしたち人間を3つに分類するとしたらIQグループとEQグループ、その二つに属さない無Qグループに分けられるような気がします。IQとは知能指数の優れた人です。私たちの同級生の中にも、日頃そんなに勉強しないように見えるのに勉強のよく出来る人が何人かいました。昔は家々の裕福の度合いが勉強の出来る出来ないを左右する部分もあったので、今考えてみるとIQグループだと思っていた人の中には、私たちと同じ平凡人間もいたのですが、多少の羨望の眼差しもあって、幼心ではそう思っていました。IQグループの人たちは、義務教育の途中であっても愛光や新田、東雲といった私立中学へ進学し、既に違った道を歩んでいました。貧乏故に私たちが高校へ行くか行かないかを議論している頃に、彼らは既に高校の向こうにある大学進学を目指していたのですから、追いつくはずもない遅れに遅れた社会に私たちはいたのです。

 でも彼らが学力や学歴を目指し、ふるさとや仲間を捨てた時代に、私たちは気付かないうちにとんでもないほど豊かなEQを身につけてたのです。EQとは【ものごとにどれほどの豊かな感受性を持っているかを示す指数】、つまりIQが「頭の知能指数」なら、EQは「心の知能指数」とでもいうべきものでしょう。

 一昔前まではIQ人間が重宝される時代でした。ところが産業革命を経て情報化時代が到来し、記憶や計算などならコンピューターに任せれば間違わず仕事をしてくれるようになったのです。一方で最近になると商品開発や営業という部門でどれだけ面白く営業成績を上げることが出来るか、感性に訴える要素が重要になってきたのです。ましてやIQ人間は心の病に弱いという欠点を持っているから、企業は余計EQ人間を求めるのです。

 私はどちらかというとEQ人間のグループに属していると思います。何事にも興味を示し、悪い事をいいほうに考え、人生を楽しむ術を知っているのです。今まで嫌というほど様々な失敗もしたでしょうし、反対に打ちのめされそうにもなりました。でもまるでダルマのように起き上がって生きてきたのです。そして平凡な日々をささやかな努力の積み重ねによって大きな徳を得てきたのです。

 まだまだ努力の足りなさから勝者や成功者にはなっていませんが、それでもいい人生を生きてると思いつつ生きています。多分これから先も心の病にはかかることはないでしょう。

 最近第3の無Qグループの人の存在が気になって仕方がありません。IQでもないのにIQぶっている人に会います。またEQでもないのに富や財産をEQと勘違いして見せびらかす人にも会います。いずれもやがては化けの皮がはがれ、目の前から消えてゆくのですが、人生は知能指数や富・財産で決まるものではないのです。

 今夕、京都の木下さんという友人から電話がかかってきました。彼は毎月1回学校などの公共施設へ行ってトイレの掃除をするボランティアをやっています。その数は150回を超えたそうです。また彼は始業前に役場の公用車を毎日掃除をしています。凄いEQです。彼こそ本物のEQ人間だと思います。私も12年間毎日毎朝三時間シーサイド公園の掃除をしましたが、見習いたいものです。

  「IQの 人間でない 俺達は せめてEQ 努力次第で」

  「人間の 魅力はEQ 磨こうよ 人の出会いが 高めてくれる」

  「この話 妻に話すと IQって? 知らぬ人には 無Qですから」

  「学歴の ない俺IQ 並み以下だ それでもEQ 極上霜降り」

  

 


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shin-1さんの日記

○長~い一日

 何日か前、日頃は太陽のように明るく振舞う妻の顔がまるで曇ったようで浮かない日がありました。聞けば四人兄弟の長男で後を継いでいる妻の兄がどうもガンらしいというのです。10月頃から風邪気味で体調を崩していたようで、近所のお医者さんで診てもらったものの風邪らしく、その処置をしていたのですが、精密検査の結果喉にガンが見つかり、それも5段階の4まで進行しているので、即手術ということで四国がんセンターに入院して手術の日を待ちました。

 月曜日には兄弟で病院に行き、かかりつけのお医者さんの説明を本人も交えて聞いたようです。私も義理の兄弟なので行くべきだろうと思っていましたが、所用のため妻が兄と弟を伴って病院で先生の詳しい病状と手術予定、その後の日常生活などを細かく聞いて帰ったのです。昨晩今日の手術が9時から始まるという連絡を受け、八幡浜の兄や東京からこの日のために帰省した本人の息子、長浜の妹が一台の車に乗り合わせて朝6時半にわが家へ着きました。私の家で私の車に乗り替え、私達夫婦を含めた5人で四国ガンセンターへ向いました。早朝といいながら既に車は混んでいて、砥部の拾町交差点ではラッシュ気味でしたが、わが家を出て1時間余りで病院に到着しました。

 久しぶりに義兄に会いましたが、声は絞り出すようなかすれた声で、病気が病気だけに昨晩は眠れない夜を過ごしたのでしょうか、横になって寝ていました。やがて看護師さんがやって来て、「9時から手術室に入り手術のための麻酔を打ちます。手術はだいたい3時間くらいかかります。手術後はICUへ入って明日まで様子を見ます。その後経過がよければ一般病棟へ入ります。手術後麻酔から覚めれば面会できます。その際手術の結果を執刀の先生から家族の方に説明します」と丁寧な説明があり、兄は担架に乗せられ手術室へ消えて行きました。

 約3時間、手持ち無沙汰な時間を待合室で待つのも大変だからと、私は今朝急いでいて忘れてきた携帯電話を取りにわが家まで帰りました。帰るのであればと妻から頼まれたお使いをして、約3時間後病院へ帰って来ました。その間運転しながら今頃兄は手術室で難儀をしているだろうと思うと、心も頭を少し暗くなりました。

 病院に帰って家族待機室へ帰ってみると、まだ手術が終わっていないようで、それぞれイライラしながら待っていました。4階から7階まで上がり、外の見える部屋で待機しました。7階からは駐車場がよく見えます。荷物を持って病院の玄関に向う人、荷物を持って家族とともに車へ向う人様々です。しかしもう直ぐ来る正月のせいでしょうか、病院から出てゆく患者さんの方が多いようでした。束の間の正月をわが家で過ごすに違いないと思いながら、まるで人間模様を見ているようだと思いました。

3時になってもまだ兄の手術が終わったという知らせはなく、イライラが募り、看護師詰め所へ聞きに行っても「まだ終わりませんのでお待ち下さい」だけでした。3時間の予定が6時間ですからこれは大変だと思ってもどうにもなりません。

 そのうち看護師が「二宮さん。手術が終わりましたので4階のICU室までお越し下さい」と呼びに来ました。私たちはぞろぞろとエレベーターで4階まで降りて、ICU室に入りました。やがて主治医がやって来て、今取り出したばかりの患部切り取り部位をガーゼから取り出して、図を見せながら説明してくれました。妹は顔を伏せて見ませんでしたが、妻は気丈にも質問をしたりしながら熱心に聞いていました。祖母、母、私などの病気や手術にこれまで幾度となく立ち会ってきたしたたかさが彼女をここまでしっかりさせるのでしょうか。感心しました。やがて面会が許され手を消毒してICU室に入りました。兄は既に麻酔から覚め、目はつぶっているものの私たちの問いかけに首を振ってしっかりと答えてくれました。

 病室を出た私たちは医者の話、自分達で確かめた兄の顔などを総合して、手術は成功したと思い、長い待ち時間や手術後の緊張した時間にもかかわらず、少しわれに帰ったような心境でした。気がつけば私たちは昼飯も忘れていました。まるで兄と一緒に手術を受けるような心境だったのです。帰り際、妻が食事でもして帰ろうと言い出し、少し遠回りをして寿司屋に立ち寄りました。5人がそれぞれの話しをしながら腹を満たしました。

 馴染みの寿司屋の大将が、「若松さん、この間テレビに出とったの見たよ」t優しく声を掛けてくれました。「手術で病院は大変だっただろう」と、飛び切り美味い寿司をいただきました。

 それにしても今は時代が変わって、本人にガンを告知して手術をするようです。私の親父がガンになった時は、親父など病気が回復するまでガンなどとまったく知らされずにいましたし、7年前に亡くなった母も最期までガンと知らずに天国へ行きました。私はこの病院へは来たくないと誰もが思うのでしょうが、いずれそんな宿命をあるのかも知れません。その時の来ない事を願いながら長い一日は夜を迎えようとしています。

  「がん告知 された兄さん 手術する 予想を越えて 六時間とは」

  「七階の 窓から見える 人の群れ 来る人重く いぬ人軽く」

  「正月も ない職場にて 励む人 息子も同じ 職場に生きる」

  「腹減った 気がつきゃ昼は 飯食わず 寿司屋に寄って ほっと一息」 

 

 

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shin-1さんの日記

○ビデオテープがCDに

 私の書斎の書棚からいつの間にか本が消え、ビデオテープが消えました。本は人間牧場「水平線の家」のどでかい作り付けの書棚にインテリアとして移動し、来訪者の目と心を奪っていますが、さてビデオテープは何処へ行ったのか?と思って思い出してみると、ダンボール箱に入れられ煙会所の倉庫に眠っているのです。役場を退職する際に身の回りを片付けた折からですから2年9ヶ月も前のことなのですが、もう10年も前の出来事のような気がしています。それは私の人生がアナログからデジタルへ変化した証でもあるのです。

 妻が言うように、私は20年間のまちづくりとの出会いの中でテレビやラジオ、それに新聞や雑誌にこれでもかというほど取り上げられてきました。昨晩妻と話しをしていて、「もしも私が今日亡くなっても、通夜の晩に24時間連続で見ても見飽きないだけの物は残っている」と話したら、「縁起でもない話をしないで」と怒られましたが、そのくらいあるのです。一度ゆっくり暇を見て整理をしたいと退職時には思ったものの、その後の日々が余りにも忙し過ぎて、まだそんな余裕はないのです。

 最近私の書棚の一角に少しずつ領域を広げて存在感を誇示しようとしているのがデジタル部門です。ブログをプリントアウトして毎月一冊にまとめた綴りももう27冊になりましたし、CDやフロッピー、インク、印画紙、用紙、パソコン用品なども沢山増えて、今は整理がつかないほどになっています。これが私のデジタル進化なのだと、納得しながら眺めています。

 先日えひめ政策研究センターの清水研究員から3枚のDVDが送られてきました。2枚は11月にデビューした落伍家「夕日亭大根心」の出囃子です。DVDは2枚セットなっていて出囃子と入囃子です。私にはできない芸当で、DVDの表面には私が人間牧場水平線の家で落伍をやっている写真を焼き付けているのです。

 もう1枚はその折ビデオカメラで撮影したものをダビングしている音声付なのです。まだ人には見せていませんが、妻だけには見せました。3つのネタを約40分で喋っている当日の模様をノーカットで収録していますが、当の本人は恥かしくて全てを見ていないのです。清水さんにはこれまでも、昨年開いた「地域の自立を考えるシンポ」の際のプロモーションビデオも作ってもらっていて、これらをひっくるめると、若松進一ワールド?へ迷い込むような代物なのです。

 先日これら一連の清水さんの口添えに乗った商品?は来年への発展の糸口として、期待が膨らんでいます。もう一つ正月休みにやりたいことがあります。勿論ブログも一日三枚のハガキも辞めるわけには行かないのでそれらをこなしながらの作業になるのですが、ワープロ時代に一日365日一枚のハガキ文が印刷もされずにフロッピーに残っているのです。それを印画紙に印字して、原稿に仕上げたいと思っています。このまま死んだら心残りで天国にも地獄にも行けないので何としても仕上げておきたいのです。そして金が出来たらそれを一冊の本に仕上げたいものだと思っています。

 妻は「もうそろそろ本当の意味でのリタイアをして欲しいし自由人になって欲しい」と言うのですが、セミリタイア、セミ自由人としてもう少し遊び心で生きたいと思っています。

  「いつの間に 俺の書棚が デジタルに このまま行くと アナログ無くす」

  「来年の 種は蒔いたよ 色々な 芽と葉が出るかも 少し期待を」

  「あの人が 私と同じ 歳だとは そんなに見えるか 俺の姿は」

  「まだ死ねぬ やりたいことが あり過ぎて 今日もパソコン 前に座りて」  


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shin-1さんの日記

○二人だけでないクリスマス

 最近は日本もすっかり洋風になって、11月初めから昨日までの約2ヶ月間、特に12月は巷にクリスマス気分が溢れ、夜ともなるとイルミネーションで飾られた家々が目立つようになりました。私が深く関わって造ったふたみシーサイド公園にクリスマスのイルミネーションを飾った頃は、田舎の双海町ではまだそんな電飾が珍しく、あちこちから見学者が訪れ話題になったものでした。しかも「サンタが空からやって来る」というイベントは、パラグライダーに乗ったサンタクロースが空から降りてくるという奇抜なアイディアが受けて、今もかなりの集客を誇るイベントとしてすっかり定着しています。

 一昨日友人の玉ちゃんからメールでクリスマスカード届きました。日本語と英語が混じったメールでしたので、迷惑メールの一種ではないかと勘違いして、あわやゴミ箱へ行くところでした。玉ちゃんといえば東大卒業のお兄ちゃんで、私の友人の中では兼頭さん、えひめ地域政策研究センターの丹羽さんと三人が最も学歴の高い人で、言うこと、なすこと?全てにおいて凡人の私とは少し違っているようで、そこに魅力を感じて付き合っています。でも私も双海町に二つある東大ならぬ漁港の灯台?を二つ(豊田漁港・上灘漁港)も出たり入ったりしているのですから、ヒフティーヒフティーです。(笑)

 昨晩は妻の仕事が遅い日なので、午後7時半頃になって帰って来ました。そこへ次男から電話が入り、「夕飯でも一緒にどうか」と誘いを受けました。自動炊飯器のセットを忘れていたこともあって、早速誘いに乗り伊予市街で落ち合う約束をして出かけました。忘れていたのですが昨日はクリスマスだったのです。

 寿司が食べたいという相談になって安上がりな回転寿司へ出かけました。8時を回っていたのでお客の数はまばらで、回る寿司も殆どなく少しガッカリしましたが、それでも目当てのネタを注文し、満腹になるほど食べました。私は赤だしと8皿を平らげましたが、妻も次男もその程度で食事を終えました。「今日は僕がおごるから何でも食べて」といった割には安上がりで、次男はにこやかに支払いし闇の中へ消えて行きました。

 「さて小腹も太ったしどうする」と夫婦顔を見合わせましたが、「お父さん、たまには喫茶にでも寄らない」という妻の提案にしぶしぶ乗って、西洋料理の店へ立ち寄りました。ここはイタリア料理の美味しい店だそうで、妻は友人と何度か利用したことがあるそうですし、私も待ち合わせや座談のために2、3度立ち寄ったことがあるお洒落な店なのです。中は満員で若いカップルや夫婦がシックな雰囲気の中で、食事をしたり雑談をしていました。

 私がコーヒーを飲まないため、夫婦で喫茶店へ入ることは殆どなく、たまに行っても長男の嫁の実家が喫茶店を経営しているため、立ち寄る程度なのです。「お父さんと二人で喫茶店に来るなんて何初めてじゃあないの」と、日頃の不満ともこの日のお礼ともいえぬ言葉を聞きながら、クリスマスにこうして夫婦が過ごすことの意味をかみ締めていました。

 私達夫婦は大家族の中で暮らしてきましたし、まちづくりの世界も集団が普通で、夫婦だけでの行動は殆どありませんでした。故に余計クリスマスを二人で過ごすハプニング?が新鮮に思えたのかもしれません。妻は帰り際「お父さん、また来ようね」と、腕を組まれてしまいました。「ばか、恥かしいが」と組んだ腕を解き払い車に乗り込みました。私のような年代は手を組むことなど顔が赤くなるほど恥かしいのです。63年間生きてきて、結婚して38年間過ぎても、二人だけのささやかなクリスマスがなかったことを少し後悔しました。これまでは家庭においては子ども達中心、まちづくりという仕事においても人様中心でクリスマスを考えた尺度をもう少し見直したいものだとガラにもなく思ったりしました。

  「気がつけば 63年 生きてきて 二人で過ごす 初クリスマス」

  「来年も 元気で二人 クリスマス 心入れ替え 手などつないで」

  「夕食を おごってくれた 優しい子 妻が育てた 勲章やりたい」

  「クリスマス カード横文字 迷惑な メール間違え おっとゴミ箱」 

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shin-1さんの日記

○ごみ焼却

 わが家の畑の隅には生ゴミコンポストとごみ焼却のためのドラム缶が置いています。この二つのわが家ゴミプロジェクトに異変が起こったのはもう10年も前のことでした。「家庭でのゴミ焼却はダイオキシンの発生が強いので使わないように」という役場からの「おふれ」でした。そのため学校や事業者の簡易焼却場は封印され、多分今も学校などの公共施設に置かれたごみ焼却機はそのまま風雨にさらされダイオキシンを含んだまま放置され、美観を損ねているのです。私は教育長の時代に、このゴミ焼却施設がダイオキシンの元凶なのであれば取り除くべきだと予算を計上しましたが、財政難を理由に却下されました。ゴミの担当も「何故危険なのか」と聞いても「国や県が言うので」と、責任転嫁の有様でした。この家庭用ごみ焼却施設はごみ減量に大きな効果を上げたことも事実で、ゴミの量が増えたため財政上対応しきれず行政はゴミ袋の有料化に踏み切りました。ゴミは住民の自己責任と思えばこれもも納得できるし、いい施策だと一定の評価をするのですが、さて糧のごみ焼却という方法がどの程度の悪害をもたらすのかは未だに説明責任が果たせていないような気がして何か割り切れない気持ちです。

 わが家は山に面しているため、晩秋から冬になると周りの山々の落葉が風に乗って嫌というほど落ちてきます。風の強い時などは一日でゴミ袋に三つも落ち、親父の掃除も忙しいのです。それらはゴミ袋で出せば重量こそ軽いものの相当な量となるため、風のない日を選んでドラム缶焼却炉で自家処分しています。よく燃えるので、寒い冬の朝は体がポカポカと温まり、焚き火の良さを実感するのです。

 今朝は数日前からの雨で落ち葉が濡れていたので、紙ごみを少しだけ運んで火種にしました。お陰様で年末の大掃除で出た紙ごみはかなり処分が出来ました。年末までにはまだ2~3度くらい処分をしたいと思っていますが、ブログに書くとお叱りを受けそうですね。

 生ゴミコンポストもこれまで随分活躍しましたが、その役割も次第に影が薄くなっているようです。補助金をいただいてゴミの減量という目的で始めたものの、生ゴミの処分はボカシを使ったりそれなりの努力が必要ですが、行政もその後余り推進もしないし、出来た堆肥の活用場所が少ないため追々細りの感じがしています。

 わが家では環境がテーマと思って様々な努力をしてきました。風呂もずっと薪で沸かしていましたが、薪の手配や世話が子どもの成長と親の加齢で出来なくなり、3年前に止む無く灯油に切り替えました。薪で風呂を沸かしたエネルギー代の節約も、子ども達が薪を運んだ教育的効果も今は懐かしい思い出です。

  「落ち葉燃す 煙たなびく 風景も すっかり消えた 寂しき田舎」

  「学校の 焼却炉など どうなって いるのか一度 見に行きたいな」

  「ポストにて 出来た堆肥を ばら撒いて 野菜今年も まあまあの出来」

  「有料の 黄色い袋 二つ持ち ゴミ出しに向う 冬の坂道」 

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shin-1さんの日記

○水が勿体ない

 昨晩わが家ではちょっとした水論争がありました。というのも、こともあろうに私が忙しそうに振舞う妻の姿を見ていて、「何か手伝いをしないといけない」、なんて考えたのが甘く、浴槽を洗い風呂の栓をして灯油ボーイラーのスイッチを入れ、お湯を張り始めたのです。ここまでは完璧でした。ところが「夕食の準備が出来た」と書斎へ私を呼びに来た妻と二人で夕食を始めました。そこへ友人からの長電話です。折角温かい食べ物を用意してくれたのに興ざめといった感じでした。メモを取らされたりしたものですから余計時間がかかり、結局は食事を中断して30分もかかったのです。その間妻はさっさと箸を進めて、私の食べ物だけが残ってしまいました。

 ところがそれからが大変です。さっき蛇口をひねった湯殿のことなどすっかり忘れ、妻と私が気付いたときには時既に遅しで、お湯は溢れて満水状態です。妻には「馴れないことをするからよ」と言われるし、電話の相手に八つ当たりも出来ないので、少し険悪な雰囲気でした。

 金融広報委員会のアドバイザーを務めている私は、ことある度に知ったかぶりの「勿体ない」を連発し、やれ「水代が多い」だの、「衝動買いが多い」だのと、「箸の上げ下ろしまで(妻の弁)」口うるさくいわれているので、「あなたも同じじゃないの。それみたことか」と、「自分で蛇口をひねりながら忘れるなんて、あんたも歳ねえ」と言われたものですから、「人が親切でしているのに、これからはやらない」の一言でモヤモヤしながら口げんかを終わりました。

 それでも夫婦、一緒に見ていたテレビ番組に笑い転げ、そのうち口げんかの余韻も冷めて一緒に風呂に入りました。満水の浴槽は使っても使ってもお湯がある感じで、浴槽のお湯の中に○○の湯」とか書いた温泉の基を入れ、「お父さん、今日は温泉に入っているみたいだね」と、二人で温泉気分に浸ったのです。妻は「お酒を飲む訳でもなし、パチンコに行く訳でもなし、これくらいの贅沢はまあいいね」と、さっき感情的になった言葉を打ち消してとりなしました。

 一昨日の新聞には夏から冬にかけて少雨状態が続いて水瓶がピンチなのだそうです。水道関係者が我が家の事を知ったら多分教育的指導を受けるだろうと思いました。確かに私たちの身の回りではトイレを始め昔とは比べものにならないほど水を使っています。住民一人一人の節水意識がないと永久に水不足になるのです。「お金を払っているのだから」と開き直られると困るのです。

 わが家には数ヶ月前前まで池があって、池用に井戸を掘っています。その池も鯉が死んだため地下室にリニュアールされ、井戸の水は畑や庭の潅水専門になりました。井戸は水をくみ上げないと水みちが詰まって井戸の水が確保できなくなるため、親父は井戸水を盛んに使って野菜を作っています。夏から秋にかけての渇水でピンチだった里芋も、どうにか近所へおすそ分けが出来たのもこの井戸水と、毎日潅水をし続けた親父の懸命の努力でした。「水を制するものは国を制する」そうですが、水を持ってる西条と水が欲しい松山の水を巡る論争も一段と白熱化しています。田舎が故に水は昔からタダの風潮が強いのですが、合併によって水道代は格段に値上がりしました。ケチだけではなく、水を無駄なく有効に使う知恵をこれからも実践したいものです。

  「長電話 夕食ストップ お湯ジャージャー お陰で夫婦 お口で喧嘩」

  「満水の お風呂はまるで 温泉だ お湯は溢れど 色気溢れぬ」

  「気配りが 時には仇と なることも あるということ 肝に銘じて」

  「たかが水 されど水だと 請求書 見ながら思う ゼロの多さに」

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