○新聞に出ているよ
一昨日近所の歯科医院にパートで勤務する妻が、仕事から帰ってきて、「お父さん、患者さんが『あんたのご主人が新聞に出ている』と言われたよ」というのです。「何の新聞?」と問うと「読売新聞」でした。妻にしてみれば新聞やテレビに私が出てるという話はこれまで通常のことだったのですが、退職してそんな機会が少なくなった今日でも、新聞やテレビに再三再四出ることが不思議だと相変わらず首をひねっていました。先日は松山圏域をエリアとするCATVに砥部の楽学大学で講演した内容が殆どノーカットで1時間に渡って放送されたばかりで、知人友人から「テレビ見たよ」の話しを沢山聞いていたせいもあって、「またか」の心境だったのでしょう。
今回の記事は昨年11月7日、私の日程に合わないため、読売新聞松山支局の記者である山村さんは、わざわざ講義で出かけていた愛媛大学まで押しかけてきました。授業が終わる午後8時に待ち合わせをして寒い屋外のベンチで約1時間取材を受けていたのです。その後何の音沙汰もなく私もその記事のことは忘れていましたが、先月12月17日になって山村さんから、写真を撮るので人を2~3人集めて欲しいと再び電話がありました。私はこの日秋田県横手市へ出張する予定だからと断るも強引に迫られ、日程の都合を少し変更して役場の大谷さんに連絡、皆さんに集まってもらいました。今回のテーマが「夕日」がテーマなので、4時という約束で集まりましたが、残念ながらまだ陽も高く、どんな写真が出来るのか不安でした。
私の家は読売新聞をとっていませんので、その日の新聞を見ることは出来ませんでしたが、昨日今年になって初めて訪れた市役所総合支所で大谷さんが新聞のカラーコピーを渡してくれました。更に訪ねたえひめ地域政策研究センターの松本さんからも新聞紙面を見せてもらいました。私は昨日近所の読売新聞直販所へ立ち寄り当日の掲載新聞を譲り受けて帰りました。
1月7日(月曜日)の読売新聞紙面にデカデカと載っていましたが、面白い書き出しでした。
「こんな素晴らしい景色があったなんて」「夕暮れ演奏会 駅ホームで 潮風心地よく」「JR予讃線存続に奮闘 愛媛の若松さん」という三つもの見出しがしっくりと収まっていました。
あかね色の夕日が差し込む駅舎。その向こうに広がる海―。7、8年前、大阪の駅で見たポスターの風景が忘れられなかった。「こんなすてきな駅のある土地で働きたい」。調べてみると、愛媛県伊予市双海町のJR予讃線下灘駅とわかった。同県への赴任を希望し、松山で勤務が実現。駅舎を訪ね、この風景を守ろうと奮闘した一人の男性のことを知った。
合併前の旧双海町教育長の若松進一さん(63)である。昨年12月中旬、その若松さんら地元の人たちと駅舎に立った。真赤な太陽が溶けるように沈み、辺りの海一帯が黄金色染まっていく夕日を眺め、声をかけられた。「きれいでしょう」
若松さんは地元で生まれ育ち、夕日は見慣れたものだった。だが農漁村の取材をしていたテレビ局スタッフがその美しさに気づき、改めて眺めてみた。「こんな素晴らしい景色があったなんて」と思った。約20年前のことだった。
当時、内陸部にトンネルを掘った「短絡線」の新設計画が持ち上がり、下灘駅のある「海岸回り線」の廃止が危惧された。「こんな素晴らしい景色をPRすれば、町の活性化につながるはず」。若松さんは、地域住民に存続運動を仕掛け、夕日を生かした駅でのコンサートを提案した。
住民は「こんな何もない町でやっても・・・・・・」と消極的。若松さんは一軒一軒を訪ね歩き、寄付集めに回った。その姿を見た若者たちが「自分たちも夢に乗ろう」とついてきた。1986年6月、初めてのコンサートを開いた。
駅のホームを舞台に、夕日をバックにしたクラッシックの演奏が始まった。演奏が進むにつれ薄い桃色からオレンジ、赤へと変化する空の色。まるで「夕日のショー」を見ているようだと、集まった住民ら1000人から大きな拍手が起こった。(後略)
さすが新聞記者です。見てきたような記事を上手く書くものです。でも記事を読むと20年前の出来事なのに、つい昨日のような気持ちになって思い出すのですから不思議です。私の人生にとってこれほどの意味のある出来事はなかったなあと、しみじみ新聞を読んで思いました。
「新聞の 二十三面 記事を読む ありしあの頃 今も瞼に」
「そういえば 何もない町 夕日など 何処にでもある それを売るとは」
「止めとけと 誰もが言った コンサート 今に続いて いるから不思議」
「写真には 夕日差し込む 駅風景 若者交じり 私指差し」
shin-1さんの日記
○ブルーベリーを植える
「この苗は酸性を好むので酸性の土地に植えてください」とホームセンターの店先で店員さんに言われました。「酸性の土地ってどんな土地ですか」と聞き返すと、「言葉で説明するのは難しいですね」と追い討ち発言です。さて困りました。浅はかな私の知識ではそこから先へ進めないものですから、「酸性の土を好むこの木に合うような土はどれですか」と尋ねると、「ピートモスがいいです」と連れて行かれた場所は、鹿沼土や赤玉土などをうず高く積んでいる資材置き場でした。「少し高いのですがこの土なら最適です」と言われて買ったのが「ピートモス」というどちらかというと土でなくコケに近くて軽いフワフワ状のものを一袋買って帰りました。
昨年の春先メールサイトで私が「ブルーベリーを植えてみたい」と書いたら、多くの方々からご意見や資料が寄せられました。しかしその時は既に遅かったため断念していましたが、昨日たまたたま立ち寄ったホームセンターでブルーベリーの苗が売られているのを見て植える気になったのです。苗木としては小さいながら一本千円以上するかなり高いものなので、5本買い求めました。ついでに昨年植えたスモモの一本が夏の暑さにやられて枯れたため少し別の品種をと思い2本、そして昨年植え足りなかった梅を一本追加して、8本もの苗を買ったのです。
田舎のオープンカーこと軽四トラックで行っていたので、その足で夕やみ迫る山道を走って人間牧場へ向いました。そして毎年草ばかり刈って用をなさない水平線の家ウッドデッキ下の斜面に植えることを思い立ち、平鍬でそこら辺の草を削って除け、中耕して5本のブルーベリーが植わる程度の畑を確保したのです。ここなら半日陰でブルーベリーの植栽場所には申し分ないと思い、穴を5つ掘りました。そしてブルーベリーの苗木を穴の中に差込みまわりにピートモスを丁寧に入れて上へ土を被せました。本当は大きな植木鉢にピートモスで植え付けたかったのですが、夏の水遣りなどを考えると枯らしてしまう恐れがあるので、露地栽培にしたのです。植え終わると午後5時のミュージックサイレンが鳴って、夕日が西の端に傾きあと3本の苗木も植えなければならず、急いで作業を終わらせました。何はともあれ「植えない木は育たない」ので、とりあえずブルーベリーの収穫を夢見ることができてホッとしています。
家に帰ると、「今日は早く帰る」と言って家を出たものですから、帰宅が遅いため心配していた妻が夕食の準備をして待っていました。ブルーベリーを植栽したことを話すと妻は、「お父さんブルーベリーは実がなりだすと毎日収穫しなければ鳥に食べられてしまうのに、毎日行けない所に植えてどうするの」とシビアな反論が返ってきました。「うるさい」と発言を一蹴しましたが、よくよく考えると妻の言う通りなのです。近所に住む西岡さんがブルーベリーの観光園を開いていますが、収穫期になると大変だと話していたのを思い出しました。
まあこの5本が枯れず順調に育てばの話ですから、そんなに目くじら立てて夫婦喧嘩をすることもあるまいと、軽く受け流しましたが、私の計画ではブルーベリーは最終的に20本植える予定ですから、妻の意見も意見として尊重したいと思っています。
人間牧場は様々な果樹が実る事を考えていますが、自分の動けるこれからの年齢を考えると、この2~3年間で植栽は終わらせないと成果が見えないのです。でも私の後を引き継ぐ長男の事を思えば、そんなに焦ることもないので、気長に考えましょうか。
「酸性の 土地を好むと 言われても 何処が酸性? 賛成しかね」
「実のなるを 夢見て畑 苗木植え 妻に文句の 一つも言われ」
「何処となく 苗木売り場が 気にかかる 買うか買わぬか 試案しどころ」
「目にいいと 妻は今から 楽しんで なる頃いつか 分らぬものを」
shin-1さんの日記
○送られてくる「ちろりんだより」
私の古い友人に丹原町で有機農業を営む西川則孝さんがいます。いつ何処で知り合ったかは随分昔のことなので忘れましたが、多分まちづくりの研修会で丹原町の若者塾の指導で度々お邪魔していた頃だろうと思うのです。当時はどの町や村でも青年が活発に活動を展開していて、行けばごろ寝のような泊り込みで酒を飲みながら深夜まで夢を語ったものでした。その頃知り合った柿農家の佐伯武広さんからは毎年年末になると渋抜きの柿が送られてくるし、時々元気確認の電話が入る間柄です。
親分肌の佐伯武広さんは私の煙会所などに感化されたのか、家の横にホワイトハウスなる家を建て、広く交流を行っていましたが、最近ホワイトハウスへも行っていないのでどうなっているのだろうとふと思い出しました。
西川さんと私の縁は意外と深く、あるタウン情報に二人が紹介された時、「尊敬する人物は」の質問に「最近の若松進一さん」と書かれたのを記憶しています。以来私の事を漢字の「師匠」ではなく、「ししよう」と呼んでもらい、深い仲は一層深くなりました。そして彼も佐伯武広さんと同じように、いやむしろ順番から行くと佐伯武広さんは西川さんや私に感化されたのだと思いますが、西川さんは自宅の横にゲストハウス「縁会所」を建てているのです。家の横に「煙会所の分家であるゲストハウスを造りたい」という話が持ち上がった時、私は快く賛成し建前のその日は妻と二人で手伝いに出かけました。そして書家である私の叔父に頼んで桑の木の板に煙会所ならぬ「第二縁会所」と大書してもらい、看板を掲げてもらったのです。西川則孝さんの第二縁会所へももう随分行っていないような気がしています。蛇足ですが西川さんの第二縁会所を皮切りに私の煙会所で身も心も感化された人たちが全国に第三、第四とゲストハウスを造って、今ではその数18にも及んでいるのです。
西川さんは10年間で40回の開催を目指した私の主宰する「フロンティア塾」の塾生として年に4回、10年間も双海町へ熱心に通った男です。その都度自分で作ったスモモ酒とウクレレギターを持ち込んで賑やかに過ごしたことを懐かしく思うのです。
更に彼の出版した「晴れときどきちろりん」に序文を、私の「昇る夕日でまちづくり」に彼が特別寄稿文を寄せ、私の仲間のうちでもこれほどつかず離れず交友している人はないくらい、お互いが感化を受けて来ました。
数日前西川さんから「ちろりんだより」という、手書きの新聞が2枚送られてきました。初冬の号(148号)、新春の号(149号)と、送られてくるのは送料を勘弁してかいつも2枚送られてくるのが彼らしいのです。多分奥さんの文抄子さんが書くのだと思いますが、まるで学級新聞のような丁寧で綺麗な文字でびっしり書いています。社説のような巻頭の文章は西川さんの目から見た社会の動きがかなり鋭く書かれていて、参考になることが多いのです。149号のどの辺りから読んでいるのか忘れましたが、今ではすっかり陰を潜めているものの、二人の子どもの成長記録は読み応えがありました。
西川さんが入植した周桑郡丹原町、今は合併して西条市丹原町の来見という地名が「くるみ」と読め、NHKの人気番組だった「ちろりん村とくるみの木」にあやかってちろりん農園とつけたらしい話を、昔聞いたような気がしています。
彼は柿を主産物にしている佐伯武広さんとは違い儲からない農業をやっています。有機野菜を宅配する安心で安全な手間のかかる農業だからです。今でこそ産地偽装が問題になって食の安全性が問われていますが、彼はもう何十年も前からその事を実践している先駆者なのです。故に彼の生き方は変わり者と見なされましたが、彼はそんな批判も何処吹く風であっけらかんと生きています。そこが彼の魅力であり、私とどこか通じる部分なのです。「人間は何のために生きるのか」?、それを教えてくれたのは西川さんだったような気がします。
「小さくも 生き方貫く 人ありて 自分戒め しみじみ思う」
「今月も ちろりんだより 風便り 届いて読んで 納得しきり」
「添え書きに ししょうと四文字 走り書き 弟子よりもっと 上を目指さにゃ」
「顔思い 返信ハガキ したためる ちろりんだより 感想などを」
shin-1さんの日記
○頭を空っぽにする
「一年中使った頭を空っぽにしたい」。そんな気持ちで昨日は人間牧場へ出かけました。暖かい四国といいながら初春の冷え切った風が頬に当ると体がしゃんとして背筋が伸びるような感じがしました。水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスのカギを相次いで開け、窓を一杯開けて今年最初の新しい風を入れました。薪小屋から薪を取り出し、患っている腰を気遣い少し軽めの薪をキャリーに入れてストーブの前に運びました。急な坂道は年末年始の時化でそこら辺に積もっていた枯葉も何処かへ吹っ飛んで、まるで掃除をしたように綺麗くなっていました。 炊きつけにする杉葉を拾い集めストーブの焚き口を開けて入れ、ナタで子割をして積み上げ、チャッカマンで火をつけると、火の勢いが次第に増して、ストーブの耐火ガラスから真赤な炎が見えるようになりました。年末に吹き込んだ風で入った土間のゴミを長い柄箒で掃除し、ひとまずストーブの前に背もたれ椅子を置き、開けていた外窓を全て閉じ、棚から何冊かの読みたい本を取り出して背もたれの横に置きました。
昨日は何をしようというのでもなく、「頭を空っぽにするため」だけにやって来たので、背もたれを深く倒して体を沈めました。やがてストーブの温もりが部屋の空気を柔らかくし始め、体にほのかな温もりが伝わってきました。窓越しに見える空も海も穏やかで、冬とは思えぬ静けさです。遠くでは野鳥の鳴き声が聞こえ、どこかでみかん摘みをしている人の声やチエンソーの音も小耳に聞こえてきます。
さてこのくらいのことで人間の頭は空っぽになるのだろうかと自問するのですが、むしろこんな暇を作ると人間はろくでもない事を考えるものです。昨年も正月休みに同じような事を考えるため同じような事をしていました。その結果生まれたのが杉の木の切り株の上での落伍でした。友人の清水さんや松本さん、それに国土交通省の小野さんとの画策でそのアイディアは昨年思わぬ方向に発展したのです。 できっこないとは思いませんでしたが、昨年のこの段階では完全に夢でしかなかったのです。でも出来たのです。これが私のいう「進化論」だと気付きました。
今年も頭を空っぽにしようとしたお陰か、少しひらめいた夢を見ました。横に置いたメモにその夢を書いて見ました。まだ夢の段階ですが、少し整理をして取り組んでみようと思っています。頭を空っぽにしたお陰で夢の席が確保できたような気もしました。心に浮かんだ発想を「そんなの出来るわけがない」と否定して封印してしまうと、そこから先へは進めないものです。昨日人間牧場で背もたれにもたれれて考えた全ての空想が実現し大きな成果に結びつく訳でもないのですが、空想をすることだって実に楽しいと思いました。
毎年たった1年365日の1日だけの頭を空っぽにする行動が、夕日をテーマにまちづくりを生む結果となったり、昨年の夢が落伍にもなり「夕やけ徒然草」の出版となりました。夢は見るものです。
「何事も 夢から始まる つれづれと 頭空っぽ 席を譲りて」
「杉葉燃ゆ 次は小枝に 燃え移り 次第に火の手 大きくなりて」
「山里に 来る人ありて 煙突に 煙たなびく 何する人ぞ」
「無無無無無 無無無無無無無の 無無無無無 無無無無無無無 無無無無無無無」
shin-1さんの日記
○七草粥を食べる
「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ七草」と子どもの頃に母親から教わったそれぞれの七草が、どれがどれなのか分らぬまま歳を重ねてきましたが、昨日の夜妻が仕事の帰りに友人からいただいたという七草で七草粥を作ってくれました。土鍋にお湯を張ってといだ米を入れ、七草を入れるだけのシンプルなお粥ではつまらないと、そこにだし汁を加えたりして七草粥ならぬ七草雑炊を作ったのです。正月の喧騒もわが家から消え、二人だけの静かな七草行事でしたが、おせち料理に飽きた頃の雑炊だったためお代わりをするほど食が進み、満足でした。
仕上げはナズナ湯です。お湯を張った浴槽の中に洗ったナズナを入れて、妻と二人で入りました。季節外れの鏡餅のような?妻の肢体に、風流なナズナ湯はマッチしませんでしたが、それでもナズナを体に擦って無病息災を祈れる幸せをかみ締めました。
わが家には小さなサウナ風呂があります。設計の仕事をしている息子が、お得意様との打ち合わせの折、新品ながら処分に困っていたのを貰い受け、風呂場の前の廊下に置いているのです。昨年まで学生生活を送っていた次男が在宅中は度々使っていましたが、その次男も独立して松山でマンション住まいをするようになってからは殆ど使っていませんでした。久しぶりにサウナを使ってみようと思い、ヒーターをかけました。冬のことゆえ、また小さい故にお風呂屋さんのような高温サウナとはゆかず、かなり時間がかかりましたが、それでも中に入って10分もすると汗が噴出し効果抜群です。「入らないか」と誘った妻はテレビに夢中で、「後で後で」の連発のお陰で2回も入りました。冬のことゆえ汗をかくことが少なくなったこの頃なので、たっぷりかいた汗に気分爽快で、ナズナ湯と合わせた効果なのか、昨晩は二人ともぐっすりと寝ることが出来て、今朝は気分爽快です。温めたせいか腰の具合もすっかりよくなり、旧大西町の大河内結子さんから腰の具合を心配して送ってくれたメールにも、また岩手県一関の金森勝利さんはじめ多くのメル友へも素早く反応させてもらいました。
若いと思い、「若いですね」という声をかけられる度に「歳をとっても若松ですから」と、愛想を振りまき生きてきましたが、そろそろ気力と体力のギャップを気なして生きていかなければならない歳になりました。日頃は「元気」を自称して過ごしていますが、時折急激に蓄積疲労を感じる時があるのです。ましてや年末年始のパソコン不具合が重なりイライラが募ると、これまた大変な疲労感です。「もう若くはない」と妻に「自制のブレーキをかける」よう再三再四注意されながらつとめて若く振舞ってきました。今年は歳相応に妻のご注意通り心にブレーキをかけた暮らしをしてみようと思っています。
「セリがどれ ナズナがどれと いわれても 答えられずに 七草食べる」
「家庭用 サウナに入り 汗をかく 俺はセレブだ 少し爽快」
「若松も やがて老松 なりにけり せめて松喰い やられぬように」
「同浴の 妻の姿は 鏡餅 餅は餅でも 餅肌美人?」
shin-1さんの日記
shin-1さんの日記
○ハマチが獲れた
今朝起きると自治会の有線放送で「ハマチが獲れました。欲しい方はお分けしますので漁協市場へお越し下さい」と放送がありました。こんな放送があると魚好きなわが家では早速出かけて買い求めるのです。市価の半値とあって、こんな放送が流れると長い行列が出来るほど人が集まってきますが、時にはその数が少なく行っても買えなかったりするものですから、みんな急いで行きます。今朝は正月料理にヘキヘキしている時期でもあるので、人の数もまばらでした。 双海町上灘は昔からサワラ流し網が盛んで、秋から冬にかけてはサワラの他にハマチなども網にかかりますが、この時期は正月の売り場時期も終わって、だぶつき気味なのでこうして漁師さん自身による大安売りがたまにあるのです。
私は三本一組の袋を三つ買い求めました。友人に差し上げるためです。年末の沢山の方々からみかんや柿やキウイ、野菜などをいただいているので、魚好きの人を見込んで配るのです。私たちにとっては珍しくない魚でも、山間地域に住む人にとっては、新鮮なので喜んで食べてもらえるのです。本当はその役割も妻が請け負っているのですが、妻はあいにく仕事なので私が4軒に配りました。
さて残った2本はこれまた妻が仕事なので私が粗ごしらえをしました。妻のエプロンを借り受けて、外に設えた流し台で料理しました。出刃包丁を研ぎ、長くて広いまな板の上で手際よくさばいてゆきます。わが家は元漁師なので刺身包丁と出刃包丁は特別製の立派なものがありますし、寿司屋さんが使うような立派なイチョウの木のまな板も用意されています。しかし今日のハマチはそれ程大きくはないので年末に買った少し小ぶりの出刃包丁とまな板を使うことにしました。自分で言うのもおこがましいのですが、私は魚の捌き方は上手い方です。まず頭を落とし腹を開けて内臓を取り出し、エラも取り出して尻尾と共にゴミ袋に入れます。残ったものを水洗いして三枚に下すのです。魚は迅速が勝負です。今朝は時計を見ながらやったのですが、ハマチが少し小ぶりなこともあって僅か20分で作業を終えました。粗ごしらえした魚はパレットに入れてサランラップをかけ、冷蔵庫のチルドへ収納しました。
さて妻が腕を振るう今晩の料理を想像してみました。ハマチのアラは大根と一緒に炊いてブリ大根と行きましょうか。畑の大根も今年は不作で小ぶりながら今が旬とばかりに主張をしているようです。落伍家「夕日亭大根心」の芸名を持つ私としては、大根の美味しさをピーアールしたいものです。次の一品は何といっても刺身です。私も親父も刺身が好きなので、この分だと2日くらいは刺身を食べれるようです。幸いなことに、東京都奥多摩町を訪れた時立派なワサビをいただいていて、正月にも刺身に添えて食べましたが、まだ少し残っているはずなので大根のケンを添えて食べたいものです。さてもう一品、それは私の地方ではヒハラと呼ぶスナズリ部分です。大きければブリのトロとして刺身にするのですが、今回は小さいので粗塩を振って塩焼きにします。レモンをかけて焼きたての熱々食べると最高でしょう。 さてこれまではもっぱら妻におんぶに抱っこだった料理だったのですが、今年は料理にも挑戦しようかと、殊勝にも思っているこの頃です。
「朝早く ハマチ取れたと 有線で 早速買って 三枚おろし」
「あれこれと ハマチ使った 料理など 頭に浮かべ ブログ書きつつ」
「包丁を 研いでまな板 ハマチ乗せ 手際上手に どんどん捌く」
「田舎ゆえ こんなご馳走 ありつける 幸せ感じ 裾分け友に」
shin-1さんの日記
○帽子の行方
私は若い頃から帽子が大好きです。帽子といっても人様のように値段が高くてお洒落な帽子ではなく、普通のありきたりの帽子なのですが、プライベートで外出する時は殆ど帽子を被って出かけるのです。そのため家には10個も帽子があって、廊下の隅に設えた帽子掛けの帽子を見て、どれを被ろうかと迷うのですが、お気に入りの帽子は二つか三つで、それ以外は殆ど被らずほこりを被っているようです。 そんなこともあって、デパートなどに行くと帽子売り場についつい足が向いて、買うでもないのに手にとって見たりしています。最近は帽子も随分安くなって千円前後で買えるものまであるようですが、帽子もそんなに必要でないためここ2~3年は買ったことがないようです。
酒を飲む頃はついつい忘れて、朝になって気付いても時既に遅しで、どれ程の帽子をなくしたことか分りません。そのため妻は帽子を買うとそのひさしにマジックで名前を書いてくれるのです。格好悪いから止めろと言っても止めるどころかこれみよがしに大きく書かれるため、何となく帽子を脱ぐのがおっくうになるのです。
年末、妻と二人で買い物に出かけたついでのレストランで食事が終り、帰ってから帽子を忘れた事に気がつきました。一日中あちらこちらに立ち寄ったため、何処に置き忘れたのかさえ思い出せない有様で、立ち寄り先を順番に思い出しながら記憶を辿りやっとレストランに行き着きました。たかが安い帽子ですから、そのレストランへ取りに行くのもバツが悪いと思いつつ、支払いの時にいただいたレシートの電話番号に電話をかけてみたのです。電話口に出た女性は丁寧に対応して、帽子の裏に「若松」と名前を書いているのを確認し、「預かっているので都合の良い時に」と約束してくれました。明くる日松山に所用で行くついでに立ち寄りましたが、先日とはまったく身なりの変わった背広にネクタイの出で立ちに目を細めつつ店員さんに帽子を貰いました。もし帽子に名前が書かれていなかったらこうはすんなりゆかなかっただろうと、妻の配慮に感謝したのです。
帽子は様々な特典を持っています。人間を格好よく見せるのも帽子です。頭が薄くなったり白髪になったりしても隠して若く見せますし、夏の暑い日などは炎天の直射日光を遮るばかりでなく、日焼けを防止します。また冬などは帽子を被ると暖かく、2~3度は保温をしてくれるようです。
私は人間牧場ができて以来野外での農作業をする機会が多くなりました。帽子を被るとヘルメットほどではないにしてもちょっとした怪我から頭を守ってくれるのです。梅林で作業する時も、草刈りする時も小さなすり傷や引っかき傷の絶え間がないのですが、帽子のお陰で題字に至らなかったことは四六時中です。これからも愛用の防止を被ってダンディに、それでいてしっかりと防備防寒、日除けをしたいと思っています。
「名前書く 妻のお陰で 失くしたる 帽子見つかり 受け取りに行く」
「ひい・ふう・みい 数えてみれば 数々の 帽子廊下に ひっそり吊られ」
「公園で 拾った帽子 洗濯し 未だに使う したたか帽子」
「気に入った 帽子を被り 七三に 構えてみたが 余り変わらず」
shin-1さんの日記
○2008年版予定表手張
私の愛用している予定表手帳は、手帳というよりノートに近いかなり大きめなものを使っています。かつては日銀の貯蓄推進員(現在は金融広報アドバイザー)をしていることもあって貯蓄推進委委員会が発酵するものを20年余りにわたって使っていいましたが、財政難の折から廃刊となったため、数年前から愛媛県商工会連合会刊行しているものを商工会で分けてもらい使っているのです。 使えば愛着が湧いて、今ではこの予定表手帳がなければ私のスケジュールは分らないくらい、貴重なものになっているのです。今年は年末に何かと忙しく商工会へ貰いに行く間もなく年が暮れてしまいました。一昨日は官公庁の仕事始めなので商工会も開いていると思い、新年の挨拶もかねて貰いに行きました。商工会の女性職員は毎年いただくこともあって予定していたらしく手渡ししてくれました。 早速帰ってから真新しいい予定表に黒いボールペンで書き込みましたが、今年は9日までゆっくりと骨休めをしようと決め込んで、あるまちから成人式の講演依頼があったのですが、体調回復を最優先して丁重にお断りさせていただきました。今にして思えば年末年始のぎっくり腰に悩まされたことを思うと、よくぞお断りしていたと、予感的中の急病に一人ニンマリするのです。 私の今年の予定は10日からいよいよ始動です。10日には木下さんの紹介で高知県馬路村へ出かける予定ですが、それまでには腰の具合も良くなっているだろうと念じています。 私の予定表手帳には自由人らしく早くも県外から7月や8月の講演依頼が舞い込んでいて、今年も多忙な一年になりそうですが、これまでのように余り無理をせずゆっくりマイペースで仕事をしたいものです。 余談ですが、私の書斎の引き出しにはこの30年間の予定表が捨てられることもなく保管されています。その中には警察から証拠書類として差し押さえられ、一年後に返却された珍しいものも3冊含まれています。双海町が場外舟券問題で警察の家宅捜索を受け、町会議員の逮捕にまで発展した事件は、もう記憶の片隅に追いやられていますが、その折企画調整室でまちづくりを担当していて、家宅捜索の役場責任者だったし、その後も参考人として3日間警察の事情聴取を受けたのでした。手帳を見る度にいまわしい思い出が蘇えってくるのです。 この手帳は私の人生そのものです。昨年もその手帳に一冊加わりましたが、記憶を辿る時は必ずこの手帳を紐解くのです。今年の手帳にも余りよからぬ出来事が書き込まれないような一年であって欲しいと願っています。
退職した数年前から妻は、私の手帳に書いた予定表を書き写すようになりました。というのも、役所を辞めて自由人になったのを機に、私のスケジュール管理を幾分手助けするようになったのです。年中全国を飛び回っている私ですから、私がいなくても一応は電話対応できるようにと思っているのでしょうが、秘書になるのにはもう少し修行が必要かもしれませんね。年齢的にも上りきっていないのに下り坂ですから・・・・・。
「予定表 すでに八月 までも書く 今年も忙し 予感ありあり」
「引き出しに ぎっちり詰まる 予定表 わが人生を 語るが如く」
「三冊の 警察倉庫に 眠ってた 思えば色々 書き込んでます」
「今年こそ 暗い出来事 ないように パラパラめくる 新し手帳」
shin-1さんの日記
○静寂の夕食
今日の昼過ぎまで子供たちとその家族が年末年始を挟んでやって来て、かなり賑やかなわが家でしたが、まるで潮が引いたように帰って行って、今宵は久しぶりに妻と二人だけで静かな夕食を食べました。一昨日までは魚派、昨日からは肉派と分かれていたため、魚派の私にとっては有り難い年末年始の食卓でしたが、昨日からは肉料理でへきへきしていただけに、今晩は正月料理の残り物を、まるで厨房のまかない料理のような形で食べました。しかし毎日肉や魚を食べていたせいかシンプルで美味しく感じるのですから不思議なものです。
今晩の食卓は昼で帰る娘たち家族のために水炊きでした。夜はそのたんと出汁の出たスープで雑炊を作り食べましたがこれがまた絶品で、妻の作った手づくりの餃子と共に、今までにないご馳走でした。
妻も少々お疲れモードです。寝食を共にするということは布団の用意、掃除、食事の用意などなど、全て妻の背中に思い負担となるのですから大変なことだとしみじみ思いました。
二人で食事をしながら長男夫婦との同居のことが話題になりました。長男夫婦はいずれ我が家で同居する事を原に決めているようで、今年の正月休みには、二世代住宅としてどう何処を改造するか二人で話し合いました。長男の嫁もその気でいるらしくいよいよ時間の問題のようです。ただ同居となると妻の負担はそれ以上に大きく、手放しで喜べない部分もあるのです。祖母・母・父とこれまでも今も3人の老後を支えてきた妻に、これ以上の気苦労はさせたくないし、また長男の嫁にも気苦労はさせたくないのです。
孫を巻き込んでどうわが家の経営委譲するか、ここが思案のしどころです。幸い息子嫁も気立ての良い子で安心はしているのですが、毎日の暮しとなるとまt波風も立つものです。「親子はスープの冷めない距離」がいいと言われてきましたが、さてさて新たな出来事だけに、お互いが納得行く形で決着させたいものです。