shin-1さんの日記

○休日を孫と楽しむ

 昨日の夕方わが家へ泊まりにやって来た孫朋樹と昨晩約束した人間牧場へのピクニックを今朝から始めました。まず朝起きると身支度を整え、妻の作ってくれた握り飯弁当と飲み物を田舎のオープンカーに積んで、いざ出発です。ピクニックといっても真冬の寒空ですから、室内で遊ぶ事を考え、近くへ薪を拾いに行って薪ストーブに火を入れました。年末年始の北西の季節風の影響でしょうか、そこら辺を少し歩いただけで種火に使う杉葉は沢山集まり、小枝もあっという間にキャリー一杯になり、薪をくべると雑作もなく火は燃え盛り、その中へ銀紙で包んだサツマイモを2個放り込みました。

 先日遣り残した農作業が残っていたので、朋樹に火の番をさせてまず腐葉土作りの囲いの中へ大洲市田処の亀本さんが持ってきてくれた豚糞を5袋振り撒きました。亀本さんの話によると豚糞には発酵を促す働きがあるらしく、こうすることで落ち葉の発酵を早くするのだそうですが、是非手づくりの腐葉土で今年のサツマイモの苗をたてたいものです。

 続いてブルーベリーの苗木5本に竹の支柱を立てました。これも3日前の日没時間切れのためやり残した仕事なのです。幸いその後は雨だけで風邪が吹かなかったため傷みもなく、この分だと活着しそうです。

 一人になった朋樹は心細くなったのか水平線の家から大きな声で「焼き芋が焼けた」と呼ぶのです。ストーブのそばに帰ってみると、朋樹がいうように銀紙で包んだストーブに放り込んでおいたサツマイモは程よく焼けていました。軍手をして少し焦げた部分の皮をむいで二人でフーフーしながら食べました。私も朋樹も大満足です。

 やがて小腹も太って、今度は網にかかったキツツキを脚立を掛けて取り外す作業にかかりました。キツツキの爪は鋭くまるで漁師さんが立て網に掛ったイセエビを外すのと同じように丁寧に外して行きました。朋樹にとっては死んでいるとはいいながらキツツキを見るのは初めてとあって興味深々です。朋樹のピクニックの目的はこのことにあったようで、前もって妻から発泡スチロールの蓋つき魚箱を持参していて、私が投げ落としたキツツキを恐々箱の中に入れました。朋樹はこれをみんなに見せて驚かせるのだと張り切っていました。

 朋樹と二人で水平線の家の板間に掃除をしてワックスをかける作業をしました。邪魔をする朋樹のお陰で、刷毛で塗る作業は半分しか出来ませんでしたが、やがて昼の音楽サイレンが鳴り、二人で待ちに待った昼食です。梅干し入りおにぎりが6個弁当箱に入れられていましたが、朋樹は三つもペロリと平らげてしまいました。

 やがて2時過ぎになったので身支度を整えカギを掛けて人間牧場を後にしました。帰る途中私の妹が経営するくじらという店により、朋樹の作戦はまんまと図に当りみんなが驚く様子を見てしてやったりの心境で有頂天になっていました。


 家に帰ってからキツツキのお墓を作ろうと朋樹がダンボール紙片に「キツツキのおはか」と書いた物を持って、畑の隅に穴を掘り埋めて祈りを捧げました。朋樹にとってこの作業は初めての体験だったようです。

 その後漁協女性部の皆さんに差し上げるため家庭菜園の大根を朋樹と二人で30本引き抜いて一輪車に積み、外の水道で水洗いをしてシーサイド公園まで持って行きました。漁協女性部の皆さんは三連休の最後の日とあって、猫の手も借りたいような忙しさでしたが、みんな喜んでくれました。

 帰り際、何とか字が読めるようになった朋樹は「いちご園開演中」の看板を目ざとく見つけ、「いちご狩りに行こう」という話になりました。家を通り越して翠小学校近くまで行き、穏やかな日差しの中でいちご狩りを楽しみました。既に午後なのに何組ものお客さんがいちご狩りを楽しんでいましたが、朋樹も私も沢山食べてもう満足でした。孫と朋樹とおじいちゃん進一のデコボココンビはとても楽しい一日を過ごすことができました。孫朋樹に感謝です。夕方私のパソコン修理のためやって来たお父さんたちと楽しい夕食を終え、無事わが家へと帰って行きました。めでたしめでたしです。

  「笑う度 私の顔も 大笑い 孫はいいもの 私に元気」

  「焼き芋の 黒炭つけた 顔笑う ストーブの前 二人仲良く」

  「大丈夫 腹を心配 するほどに いちご頬張る 孫の食欲」

  「たまに来る 孫は私の 栄養剤 次はいつ来る 早くも予約」


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○犬小屋作り
 昨日は夕方妻が5歳になる孫朋樹を連れて帰りました。孫にとっても幼稚園が3連休、加えて娘と子ども尚樹が風邪気味なので二日間面倒を見ることになりました。正月以来そんなに日数も経っていないのにもう何日も会っていないような気がするのはおじいちゃんやおばあちゃんになりきっているせいでしょうか。
 孫はどうやら正月に大阪で買ってもらった電池仕掛けで動く犬を忘れて帰ったのが気になるようで、わが家へ来るなり「くろちゃんは何処」と探すのです。私が手渡すとまるで生き物のように「元気だった」と言葉を掛けて電動のスイッチを入れて動かしていました。
 「ねえおじいちゃん、この犬の犬小屋を作ろう」といきなり言うものですから、「じゃおばあちゃんに紙の箱とセロテープとガムテープ、それにカッターやハサミを貰っといで」と伝え、私は昨日から始まった大相撲のテレビ中継を見ていました。2場所連続出場停止処分を受けて休場していた朝青龍の相撲がどうしても見たかったのです。でも孫朋樹は犬小屋の方が気がかりで、盛んに私に犬小屋づくりに熱中するよう勧め、テレビと私の間に入り込もうとするのです。見かねた妻が「おじいちゃんは相撲が好きだから、相撲を見せてあげて」と注意し不機嫌ながら納得しつつ、自分でハサミを使って小道具を作っていました。昨日の横綱は休場の心配など何処吹く風で、琴承菊を豪快な上手投げで一蹴したし、横綱白鵬も負けじとばかり出島をこれまた豪快な上手投げで倒しました。胸のすくような二人の活躍に安心し、早速犬小屋作りです。


 妻が保管していた菓子箱をカッターで切り分け、屋根や柱を作り、その部品をガムテープで張り合わせて行くのです。孫はもっぱら犬が主人公のビデオテープに夢中になって、中々身が入りませんでしたが、約1時間の作業で何とか犬小屋が完成しました。孫はサンタクロースが入る煙突や、魔女の宅急便よろしく郵便受け箱を身振り手振りで要求し、それも小物として作り張り合わせて完成しました。「今日はこの犬小屋を布団の横に置いて一緒に寝る」と満足気味でした。小さな孫にとって生きものへの興味は尽きることがありません。本当は子犬の一匹も飼ってやりたいのでしょうがマンション住まいではどうにもなりません。孫もそのことが分かっていてチュワワ?という犬の模型がどうしても欲しいと頼み込んで買ってもらったようです。犬の模型はまるで本物そっくりでスイッチを入れると歩くし泣くことも出来るのです。孫はこの白い犬に「くろちゃん」と名前をつけています。真っ黒な目が印象的だったのでしょうか、早速習いたてのひらがなで犬の名前を書き表札まで貼り付けました。
 昨晩は私と一緒に風呂に入り、私と妻の間にまるで湯たんぽのように潜り込んで寝ました。孫の体温は温かく至福の一晩でした。私は孫と寝る時はせがまれるままに創作話しをよくしてやります。孫は拍手をしてくれるのですが、この日ばかりは犬小屋が気になるらしく、夢の世界でも犬と一緒に寝ているような穏やかな眠りでした。今は朝の6時です。居間の寝床から孫の声が聞こえてきました。朝寝坊な孫がもう犬と戯れています。余程嬉しかったのでしょう。
 最近の子どもは何かにつけお金で買い与えるおもちゃ類が多いようですが、紙箱やガムテープでもこんな遊び道具が出来るのです。夢を育くんでやることもおじいちゃんやおばあちゃんの務めかも知れませんね。いいプレゼントが出来たように思いました。
  犬小屋を 二人で作る 楽しいね 枕元置き 夢の世界へ」
  「不器用と 思う私に 凄いねと 感心するは 孫一人かも」
  「湯たんぽの ような孫抱き 眠る夜 潜る私と 飛び出る孫と」
  「不思議だね 孫なら飽きぬ いつまでも 子供の時は こうはいかぬに」

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shin-1さんの日記

○八幡浜市公民館大会
 昨日の雨とうって変わって今日は朝から穏やかな好天に恵まれました。昨日と今日の二日間、ふたみシーサイド公園では恒例の「初春水仙祭り」が予定され、大勢の人がやって来る予定でしたが、初日の昨日はあいにくの雨にたたられて、少しで足が鈍かったようです。昨日はわが家にも水仙祭りを見ようと、長男家族をはじめ何人かの人が立ち寄りました。私も愛大生の朝早い視察研修に付き合ったため、水仙祭りの会場で、花の会の人たちに混じって祭りの準備を多少なりとも手伝ってあげました。嬉しいことに、大谷さん、米井さんの事務局組みに加え、かつて地域振興課や社会教育課で仕事を共にした米湊さん、松本さん夫婦、閏木さんなども参加してくれていて、賑やかな幕開けでした。本当は今日も手伝いたかったのですが、私は今日は八幡浜市公民館大会に招かれていたので、二日目の会場を横目に見ながら海岸国道378号を西下し、瀬戸内海側から夜昼トンネルを越えて宇和海側に向いました。
 大会は午後1時30分からでしたが、何人かから電話が入っていて、大会が終わったら会いたいらしのです。でも夕方は所用が予定されていて大会が終われば帰らなければならず、事前に大洲と八幡浜に立ち寄って話しを終えました。その後義父母の墓参りを思い立ち大宝禅寺の裏山にある墓地に車のダッシュボードからいつも積んでいる線香を持ち出して一人登って行きました。私は墓地ながら八幡浜湾や諏訪崎、それに八幡浜の市街が一望できるここからの眺めが大好きで、冬とは言いながら小春日和のような好天の眺めは胸のすくような感じでした。丁度九州から1隻のフェリーが着岸する瞬間だったため絵になる光景でした。本当は正月に妻と二人で墓参りに来たかったのですが所用でそれも適わず、墓前で義父母にそのことを詫びながら、年末に国立がんセンターで喉頭がんの手術をした義兄の様子を報告し、一日も早い回復を祈りました。
 公民館大会は北浜にあるスポーツセンターで行われていました。今日は私の記念講演以外にプログラムは予定されていないのに300人もの関係者が参加して、会場は一杯の大盛況でした。会場には何人も知人友人がいて、顔や手で盛んに反応をしてくれました。
 私の話は前半はふるさと教育について、中盤は社会の変化について、後半は公民館とまちづくりについて話させてもらいました。1時間30分の話の組み立ては余り気にせず、楽しい話に終始しましたが、終わって会場から出ると何人もの人が握手を求めたり声をかけたり、私の自著本を読みたいのだがなどと相変わらずの賑やかさです。
 最近公民館に元気がない事を心配していましたが、八幡浜の公民館はかなり元気なようで安心しました。公民館は何といっても人ですし、組織です。会場一杯に張り巡らされていた展示のような個性あるオンリーワンのいい活動を期待したいものです。
 帰りはほのぼのとした気持ちで保内から長い長いごぜヶ峠を越えて瀬戸内海側に出て、かつて私が関わって命名した夕やけこやけラインの愛称で親しまれている国道378号を走りました。午後4時過ぎの海岸は、多少北よりの風が吹いていましたが、昨日の雨で空気が澄んでいるのか遠く国東半島や姫島など大分がくっきり見え、山口県や広島県、それに愛媛県の島々が一望でき、加えて夕景も雲を映していい雰囲気でした。
  「八幡浜 一望できる 墓地にて 線香手向け 兄無事祈る」
  「妻所用 妻の実家を 訪ねたり 兄妻聞きし 妻は何故来ぬ」
  「豊後路が くっきり見える 海沿いを 夕日バックに 家路急ぎぬ」
  「合併で 遠い大洲は 隣街 道路標識 見ては驚き」 
 
 
 

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shin-1さんの日記

○二人のなっちゃん
 私には二人の「なっちゃん」という女性の友人がいます。一人は30歳を過ぎた二人の子持ちの只今産休中の公務員、もう一人は大学卒業間際4回生の若い女性です。いずれも私と同じ双海町出身で、名前こそ同じ「なっちゃん」ですが、一方は「夏芽ちゃん」、もう一方は「奈津ちゃん」と漢字で書けば一目瞭然違いが分るのですが、普通の愛称は「なっちゃん」で通っています。いつもはそれぞれの道を歩んでいるため滅多に会うことはありませんが、ふとした機会に「元気だろうか」と思い出したりして、どこか気になる女性なのです。
 「夏芽ちゃん」は大学を卒業すると直ぐに双海町役場に就職してきました。私の娘と同じ年齢だし、私の生まれた集落で生まれているため、家族全ての顔を子どもの頃からよく知っていました。役場では福祉関係の仕事が長かったのですが、まちづくりなどに興味を持っていて、職場は違っても何かにつけて参加してくれるため色々な場面で出会ったものです。特に双海町が重要課題として取り組んでいた「人づくり」海外派遣事業では、第十一回目にニュージーランド・オーストラリア派遣生のメンバーとなりました。10回を終え11回目から国際交流を目指したこともあって、私はその団長として一緒に海外へ行ったのです。語学もそこそこ出来たなっちゃんは、ホームスティなどで語学もそこそこさえ出来ない私を随分サポートして随分助けてくれました。その後彼女は教育委員会学校教育課に移りましたが、偶然か私が教育長に就任し同じ職場で働く事になり、様々な場面で私の仕事を支えてくれました。結婚して二児のお母さんになりその後産休を続けて子育てに専念していますが、いつも気になる「なっちゃん」なのです。
 もう一人の「なっちゃん」は高知大学の学生です。彼女はイギリスに留学後高知大学に入学した変わった経歴の女性です。大学のインターンシップで奈半利町に半年間住み込み、まちづくりのサポータとして活躍をしていた頃にに知り合いました。彼女は奈半利町のまちづくりを目指すメンバーと随分親しくなり、まるでマスコットのように可愛がられました。今は米ケ岡という自然豊かな場所でお米を作ったりしながら、三昧な暮しをしています。
 三日前私が高知県馬路村へ出かけた折も、彼女の事が気になっていました。やはり合い通じるのでしょうか馬路村に着いた途端携帯が入りました。「やっと正月休みも帰郷しないで取り組んだ卒業論文が出来た。今度の連休に帰郷するので見て欲しい」というのです。昨日は彼女帰郷する日でした。愛媛大学の大学生の対応やスイセン祭りが終わって、バスと列車を乗り継いで帰った彼女を伊予市まで迎えに行ってわが家で話しこんだ後卒論を貰い、家まで送って行きました。彼女は大学院への進学も既に決まっていて、まちづくりに関わりながら今の暮しを続けるようです。
 どちらの「なっやん」も「気配りの出来る夏ちゃん」と「気丈に生きる奈津ちゃん」と性格や生き方、年齢こそ違え、「双海町産女性」と胸を張って人に紹介できる自慢の女性です。間もなく職場復帰をするであろう「夏ちゃん」は相次いだ二人の子どもの産休中に市町合併があって、戸惑うことが多かろうと推察しています。一方の「奈津ちゃん」は大学卒業という一つの区切りを終えて大学院という新たな人生にチャレンジするそうで、それなりの心の葛藤があるでしょう。いずれも様々な社会の荒波に翻弄されることでしょうが、いい人生のプロセスとして頑張って欲しいと願っています。
  「なっやんと 呼ばれる二人 それぞれに 強く生きてと 心で拍手」
  「卒論に 引用文献 自著本を 書かれてドキリ 弱ったものだ」
  「子育ても 学びも同じ 人生の 試練と思え その先楽し」
  「大学は どうして人の フンドシで 相撲とるのか そんな感じが」 

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shin-1さんの日記

○インクが早くなくなる
 プリンターを新しいのに変えて1ヶ月が経ちました。パソコンの情報をプリントアウトするには早くて美しくなりましたが、プリンターのインクが意外と早くなくなり、少し不安になっています。というのも家にいれば朝晩一本ずつブログを書き、そのブログを1ヶ月に一度プリントアウトしなければならないため、かなりのプリントアウト量でまたたく間にインクがなくなるのです。最近まで使っていたプリンターは黒とカラーの2種類に分けられたカートリッジになっていましたが、今回のプリンターはカートリッジといいながら一色一色別々のため、黒が普通の色より格段に多く使われて、減るのが早いのです。
 パソコン用具は娘婿のようにインターネットで申し込むことが出来ないため、月に一度余りのペースで上京する度に、その折新宿のヨドバシカメラで買い求めて帰ります。わが町にも伊予市にもパソコン用具に対応できる店がなく、地方の街である松山でも、価格的にかなり高く相当な出費を伴うため、自然と品揃えが豊富で金額の安い都会で買い求めてくるのです。 
 先月中旬上京した折、転ばぬ先の杖でインクを二箱買い求めて帰りました。6色入り一箱が5千円余りですから、二箱で有に1万円を越えてしまい、あらためてパソコンを使った仕事にも便利とはいいながらそれなりにお金がかかる事を実感しました。
 パソコンは職場で仕事の時しか使わない妻は、最近減り方が早い私の財布の残金を見てかなり警戒しているようですが、息子や娘婿のように職場でパソコンを使う仕事をしていない私にとって、パソコン関係に小遣いを使うのは、毎月一回通う散髪のようなもので仕方のないことかも知れません。ヨドバシカメラやエプソンのようなパソコン関連の情報産業企業が急成長する意味も、何となく分るような気がするのです。それでも私のようにソフトは息子や娘婿が対応してくれる人間がいる者はまだ救われます。
 私の友人の奥さんが先日私に、「最近主人が退職したのですが、パソコンにお金をよく使うので、これほどお金が要るの?と、夫と喧嘩になりました。まだ年金も先のことなのに、必要でもないし腹も太らないパソコンなど止めたらと言ってやったのです。夫は激怒して、情報は時代の流れだ、俺からパソコンを取ったら死ねというのと同じだと反論するのです。私は情報より生きることが先でしょうがと言い返しました。今は夫にすまなく思っていますけど」と吐露され、「若松さんどう思われますか」と意見を求められました。私も「名刺もタダではないのだから何処へでもばら撒く今までの癖を止めてもっと大事に使ったら」と、いわれた妻の意見を引き合いに出しながら、やんわり夫への理解を求めてあげたのです。
 「若松さんくらい働いてくれるのならパソコンと名刺は欠かすことのできない商売道具でしょうが、何もしない夫に本当にパソコンは必要なのでしょうか」と返され、私の働きをこの人はそのように見ているのかと、あらためて驚いた次第です。
 パソコンをやらない人にとって、パソコンの世界はなんとも理解し難い世界です。私自身パソコンをやらない時代は、「訳もなくパソコンに向って、あんな非人間的な機械の何処が面白いのだろうか?」と思ったものです。でもやり始めてみると奥が深く、私などのような情報化時代に乗り遅れたような人間でも、「もしパソコンが使えなかったら」と思うと、ゾッとするのです。
 インク代をケチることも出来ません。回線使用料も払わなければなりません。確かに物入りなのですが、友人が言うように私からパソコンを取り上げたら、「市ねというようなもの」ほど大袈裟なものではありませんが、仕事にはならないのです。
  「パソコンに お金を使う 愚か者 使わぬ人は もっと愚かだ」
  「小遣いが 直ぐになくなる 近頃は 無駄もしないに 何故になくなる」
  「取り替えた インクなくなり 予定表 東京下に インク買う書く」
  「友の妻 パソコンよりは 飯先と 言うが夫は 死ぬより先と」
 
 

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shin-1さんの日記

○道の駅の勉強
 前もってメールで約束していた双海町にご縁の深い大学生から昨日電話が入り、「道の駅の話しに行く予定の時間を、お約束の10時から8時に変更して欲しい」というのです。午後の会議の予定が積んでいたこともあって、願ってもない申し出と快諾しました。今朝7時50分にシ-サイド公園へ行くと既に学生たちは駐車場に着いていました。今日は朝から雨模様の天気なのでさて何処で話しをするべきか考えましたが、結局は加工場以外開いてないので加工場の隅をお借りしての話となりました。今日と明日の両日、シーサイド公園は水仙祭りで準備の人がひっきりなしに出入りする中、大学生4人に対し、雑音を気にしながら質問形式でお話をさせてもらいましたが、「愛媛大学教育学部の学生なのに何で道の駅の勉強に?」と不思議な気持ちになりつつ、約1時間の時を過ごしました。
 彼女たちの質問に答えながら、あらためて道の駅の存在を考えて見ました。道の駅には交流機能、情報機能、休憩機能という三つの機能がありますが、交流機能は随分進化して年間55万人もの人がこの道の駅に訪れるようになりました。観光客ゼロに近いようなスタートでしたから驚くほどの成果です。しかもこの道の駅は第三セクターで運営したいますが、過去13年間一度も赤字にならず五%の配当を続けているのですから、投資効果は目論見以上の善戦と言えるでしょう。でも近隣に真新しい道の駅や類似施設が随分出来て、客層が変わりかなり苦戦していることも事実のようです。運営に携わる人たちに聞くと「それは消費者のせい、社会のせいだ」と一種の諦めを持っているようですが、私の目から見ると、そこに関わる人の「想いの欠如」以外の何ものでもないのです。
 例えば年末年始に大風が吹いて、シーサイド公園の人工砂浜はたくさんの漂流ゴミの洗礼を受けました。12年間毎日掃除を欠かさなかった私の目から見るとその掃除の大変さは身に染みるほどよく分ります。しかし、突風が吹き荒れた後の3日間くらい砂浜の掃除はほったらかしになっていました。見かねた私は人知れず少しの掃除の真似事をして支援しましたが、「シーサイド公園の砂浜はいつ来ても綺麗に掃除が出来ている」という神話が崩れているのです。これはもうオンリーワンの箒ならぬ放棄なのです。
 また最近は第三セクターといえども指定管理者制度の導入で競争の原理と個性を持った運営原理が働かないと区別化や差別化が出来ないのに、職員の対応などはまだまだ未熟なままなのです。何年か前私の退職時に指定管理者制度が導入された折、ある企業からこの道の駅の運営の指定管理者制度に名乗りを上げたいので、私に責任者になって運営して欲しい」旨の依頼がありました。行きがかり上それはできないと丁重にお断りをしましたが、もし私がこの道の駅運営の企画書を作らせて貰うのであれば、13年の時の流れの中で変わった部分、変えなければならない部分をしっかりと点検改革しなければ、10年後は危ないと思うのです。これらは全て「想い」という人間が創り上げてゆく形のないものなのです。
 学生たちに失敗や反対の連続だった「想い」の過去を話しましたが、学生たちは目を白黒させながら熱心にメモを取っていました。加工場で働く漁協女性部の富岡さんが学生さんにコーヒーを、コーヒーの飲めない私に紅茶を振舞ってくれました。また学生さんには今人気の熱々ラブラブじゃこ天をプレゼントしてくれました。このおばちゃんから学ぶのは「本物と真心」なのです。縁もゆかりもない学生たちに心のこもったもてなしをする真心も、味を落さない本物追求の技も全て商品なのです。さらにここで働くおばちゃんたちはジャコ天一座を組んで特老などに慰問などに行ったり海の恵みに感謝して山に木を植える運動に取り組んだり、この地域循環こそが村おこしやまちづくりなのです。
 学生たちは感心し、次の目的地である内子の道の駅に向いました。学生たちは良く勉強しますねえ。感心しました。
  「近頃は 若者沢山 やって来て 地域づくりに 興味津々」
  「目に見えぬ それが一番 大事だと 伝えたかった 見て欲しかった」
  「道の駅 巡る社会は 変化する 変えてはならぬ ものも沢山」
  「縁もなし ゆかりもないに お茶を出す こんな温もり 金では買えぬ」

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shin-1さんの日記

○今年最初の講演会
 「今年はゆっくり充電」を決め込んで約10日間、成人式などへの講演依頼も断って、体調回復に努めるはずでした。しかし腰の具合が悪くなり、加えてパソコン不具合による神経回路が故障して、ダブルパンチに見舞われてしました。そんなことおもあって最近は悶々の日々でしたが、昨日は今年初めての講演会に招かれ、遠い高知県馬路村へ出かけて行きました。
 夕方6時からの集会だったので、木下課長山や馬路村温泉の支配人さんにお願いし、馬路温泉の湯に浸りしっかり磨きをかけるつもりで下。しかしラジオ向きのこの顔はいかんともし難く、化粧もせずに?スッピンで高座に上がる羽目となりました。
 木下課長さんを窓口にして話の進んだ「健康づくり講習会」と銘打ったこの会は、主催が馬路村老人クラブ連合会という、夜の会としてはこれまた奇妙な取り合わせとなりました。誰が作ったのか知りませんが、私の元へ事前に送られてきた手作りのパンフレットには「健康は笑いから」、「新春寄席第一弾」「落伍家夕日亭大根心師匠による『笑う門には健康きたる』」などと参加者を挑発するような文句が書かれていました。そして国土交通省の観光カリスマホームページから読み込んだ私の写真には、漫画チックに「実はこの顔でお酒が飲めません」と書いていました。
 会場に来られた方は老人クラブの人もいましたが、木下課長さんの声かけで集まった人も何人かいて、遠くは東京、近くは隣町安田町からも駆けつける中々賑やかな集まりとなりました。
 会場となった福祉センターには私の似顔絵まで作って張っていただく念の入れようでした。
 まだまだ落伍の出囃子や入囃子のタイミングがつかめず、何を話そうか思いながらアドリブで1時間半もの高座を、四方山話をしながらあっという間に終わってしまいました。
 その後は会場を移し高知県馬路村では御馴染みの交流会が近所の料理屋さんで賑やかに持たれました。いつもながら感心するのは村長さん、東谷組合長さん(組合長さんは前の晩の深酒が堪えてこの夜は講演会のみ)、診療所のお医者さんなどがこぞって参加しほのぼのとした交流会が行われるのです。料理も美味いし酒もどんどん進み、10時近くまで楽しいひと時を過ごしました。この日の交流会は日本総研の上席主任研究員であり、今回の達人指南塾の塾長である金子和夫さんや中小企業基盤整備機構の戸田直隆課長さんはじめ塾生の美女たちが参加したため、とてもいい交流会となりました。洗練された人たちと出会うと、こちらまで洗練されるようで、地域づくりに関する突っ込んだ話もさせてもらいました。
 町や村を変えるには、リーダーたる人の研修も必要ですが、このように洗練された人を呼び込み、一般の住民と交流させることも大切です。多分馬路村のユズをテーマにした成功事例がそんな部外の人を村に呼び寄せているのだと思いますが、知らず知らずのうちに住民のレベルがワンランクアップするのです。
 この日東京から来られた女性たちは、講演会で聞いた私の話しを餌にむしろ成功事例より失敗事例を聞かせて欲しいと迫りました。酒を飲んだ女性と酒を飲まない私では波長が合わないのは当然ですが、それで私としてはいい交流が出来て感謝しています。
 私はこの夜、木下課長さんの計らいで皆さんに買ってもらった「夕やけ徒然草」という自著本を、宿舎である馬路温泉の一室で12時近くまで読み返してみました。その日皆さんに話したアドリブな話しを反芻しながらいつしか夢心地になりました。
 気がつけば午前4時です。家にいれば起床の時間だし今日は午後の予定もあるので思い切って飛び起き、身支度を整え暗い夜道を車を走らせわが家へと急ぎました。安田川沿いの道で狸に3匹出会い、9時前わが家へ到着しました。安田町役場中山支所の竹内律さんがわざわざ老人クラブに持ってきた自然薯を大野忠康会長さんから貰い受け、妻は大喜びで迎えてくれました。
  「自然薯を 担いでわが家 ただいまと 目覚めの妻に あいさつ交わし」
  「東京の 女性の顔の 何処となく 品ある感じ ワクワクしつつ」
  「おばちゃんや おじちゃんたちと 酌み交わす 楽し会話に 夜更け忘れて」
  「四人いる 子ども自慢の 若い医者 村に元気を 与えているな」 
  
 
 

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shin-1さんの日記

○高知県馬路村の特別村民になりました
 高速道路が整備され、瀬戸内に面したわが町から日本海を見に行こうと思えば、高速道路や瀬戸大橋を使えば5時間ほどで行くようなスピード時代になっても、四国は一つといいながら室戸岬や足摺岬へのアクセスはまだまだで、昨日行った高知県馬路村へは南国まで高速道路を走っても4時間近くかかるのです。
 昨日は冬とは思えぬ長閑で穏やかな天気に誘われ、ゆっくり行こうと心に決めて、このところ殆ど走っていない国道33号線を走ることにしました。というのも久万の友人に会う約束をし、高知大学に所用があって立ち寄らなければならなくなったからです。最近の高知入りは遠回りのように思える伊予~川之江~南国という高速道路を使うため、33号線は殆ど使わなくなりました。それでも33号線沿線には砥部町、久万高原町、旧美川村、旧柳谷村、仁淀川町にそれぞれ馴染みの友人がいて、その人たちにも会いたい一心でこの道を走りたいからなのです。
 年度末を象徴するように、国道33号線のあちこちでは改修工事が行われていて、その都度ガードマンに行く手を止められましたが、交通量が少ないため高速道路のような危険性もなくスムースに走れ、はりまや橋まで2時間30分余りで走りました。
 室戸岬の道路看板が出た頃、勝手知ったる道とはいいながらカーナビに入力し、その指示に従って走りました。大山岬の道の駅で一服休憩し、陳列された商品を見せてもらいましたが、どこの道の駅も最近は余り元気が活気が感じられないような気がしました。近くの人の話によると最近はあちこちに販売所ができて競争が激しくなったからではないかと言っていました。道の駅は公設民営が多いのですが、民の知恵や行動が働かず官のぬるま湯運営が尾を引いていて、これでは活気がないのも本当だと思いました。
 安田町に入り海岸国道から大きく左折して安田川沿いに馬路村を目指しました。この道も都会の人に言わせれば「今時こんな道があるの?」と言われそうな細い道ですが、この道の向こうにある馬路村の魅力でしょうか、沢山の人が訪れるようです。
 この日も私の所にメールが入り、東京から数人の若い女性が達人指南塾の研修に馬路村へやって来ていました。そのメンバーとして参加する予定で私にメールを入れてくれた女性は、去年11月に開かれた観光カリスマ塾で人間牧場へやって来た中小企業基盤整備機構地域資源活用推進室の佐本さんでした。あいにく所用で欠席をしていたようで会うことが出来ませんでしたが、何と何と、達人指南塾の皆さんは木下課長の配慮で私の講演会に参加するというのです。
 予定の4時前に馬路村役場に到着し、上治村長さんと面談しました。昨年以来上治村長さんとは心を許してお話が出来る間柄になって、この日も何の予告もなしに訪ねたのに快く面談していただき嬉しい限りです。木下課長さんの計らいで私は馬路村の特別村民になりました。所定の用紙に記入し「特別住民票」の交付を受けました。特別村民になると村長室で村長さんと記念写真が撮れごっくん馬路村が飲めるのです。



 さて昨日から馬路村の特別村民になったのですから、これからは村民に恥じない行動をしなければなりません。と同時に馬路村応援団員として全国に私の口を使って情報発信しなければなりません。これまでにも随分馬路村のことは話してきたつもりですが、「私は高知県馬路村特別村民の若松と申します」という口上のくだりも考えておかなければなりません。このブログを書いている途中に馬路村魚梁瀬の湯浅建設の社長さんから携帯電話が入りました。昨晩は仕事の打ち合わせで会いたかったのに会えなかった旨の電話でした。嬉しいことです。こうして馬路村へ行く度に一人また一人と縁が深くなって、馬路村は私にとって四万十市西土佐村と同じように忘れられない土地となりました。
  「住民票 交付を受けて 村民に なった限りは 村のお役に」
  「村長と 村長室で 雑談を 縁もゆかりも ないのに嬉し」
  「合併を せずに頑張る 少な村 一人一人の 顔が生き生き」
  「絶滅の 危惧種のような 村だけど 何故か気になる 次も行きたい」

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○心に届いた言葉
 1月7日付けの読売新聞23面に私の記事が載っていました。その直ぐ下に「心に届いた言葉」として、山本有三の代表作「路傍の石」の一節が紹介されていました。そういえば私も若い頃、病気で漁師から役場へ転職する際、友人が贈ってくれたこの本の一節を何度も何度も読み返した経験があるのです。
 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」。
 「路傍の石」で山本有三は、鉄橋の枕木にぶら下がって汽車を止めてしまう騒動を起した主人公の吾一少年を、担任の次郎先生が諭した一節は、今でも私の心の中から離れないのです。
 私は25歳で転職した経験を持っています。漁師の長男に生まれ、漁師になるために宇和島水産高等学校を卒業し、予定通り漁師になりました。青年団に入り青年団長にもなり、NHK青年の主張の県代表にもなって順風なスタートが切れたと思っていた矢先、夜の遅い青年活動と朝の早い漁師の仕事は水と油のようで、病気になってしまいました。重労働は無理という医者の診断や役場への転職を熱心に誘ってくれた当時の町長さんの大恩もあって、教育長を最後に退職するまでの35年間、紆余曲折しながらも今日まで生きてこられたのは、やはりこの言葉の励ましだったように思うのです。
 私にも二度三度吾一少年のように枕木にぶら下がって列車を止めるような大きな出来事がありました。その一つは双海町の「町名変更問題」でした。町を二分し町長のリコールにまで発展したお家騒動の渦中にあって、役場を辞めることを真剣に考えたこともありました。また夕日をテーマにしたまちづくりも、過ぎてしまえば何のことはありませんが、課長以外まったく部下のいない日本一小さな「地域振興課」の課長として孤軍奮闘してシーサイド公園などを作り上げた行動は口ではいえぬ激しい抵抗にあったものです。
 でもその都度「たった一人しかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」と自分に言い聞かせ今日まで生きてきたように思うのです。
 私にとって今もこれからもこの言葉ははっきりと心の中に生きています。2年半前退職して自由人になってからも、人間牧場を作って楽しく生きているのも、こうして暇さえあればブログを毎日2本書き、ハガキを毎日3枚書きながら前向きに生きて行けるのもこの言葉の教えのような気がするのです。
  「小説の 一節俺に 悟らせる 路傍の石の 次郎先生」
  「鉄橋の 枕木ぶらり 列車止め 私も列車 止めて目玉を」
  「これからも 人間生まれし 甲斐求め 力の限り 生きてゆきたい」
  「新聞が あらため俺に 気付かせる 小さな記事の 大きな教え」

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