shin-1さんの日記

○健康診断

 「今日は忘れないように病院へ行くように」と妻に念を押されていたので久しぶりに県立中央病院へ出かけました。私は8年前に胆のう摘出手術をして以来欠かすことなく2ヶ月検診を受けていましたが、昨年の6月にどうしても日程の折り合いがつかず病院に行くことが出来ず、その後ぎっくり腰を患った程度で大した体の不具合もなく過ごしてきましたが、妻にとってはそのことが気になるらしく、自分でさっさと私の日程表の空きを見て病院の予約センターへ電話を入れ、予約をしてくれていたのです。

 半年ぶりの病院は午後2時からの検診予約だったので、大した混乱や待つこともなく、自動予約受付の機械で予約を済ませ座っていると、顔見知りの人が何人か通り、「あら若松さんではないですか。何処が悪いの」と会う人毎に聞かれるのです。「体はいいのですが顔が悪くて」なんて洒落をいいつつ、同じような返答をしてテレビの前で過ごしていると、「若松様」と「様」付けでクロークさんから名前を呼ばれたのは午後2時15分でした。「はい」と返事をして中待合で待っていると、中へ入るように勧められました。見ると私の担当医師の二宮先生ではない女医さんが座っていました。「二宮先生は救急対応で来れませんので私が変わって」とその女医さんは、患者の私がいるのにパソコンに向って話し始めました。

 「長い間来られていませんね。どうしてですか」。「はい仕事が忙しくてついつい」。「それは大変ですね。でも体は大事にしてください」とやんわりお灸を据えられ、「今度はいつ来られますか。今のところ空いているのは月29日ですので、後で説明致しますので注意書きをよく読んでお越し下さい。今日は血液検査をして帰ってください」でチョンです。「えっ、血圧も測らないのですか?」と問い直そうとしましたが、女医さんは私の予定をパソコン画面に打ち込み、それで終りでした。あっけに取られたものの、仕方がないので言われるまま血液検査の部屋に行き、採血を終えました。「会計で支払いをお願いします」でここも4~5分で終了、何のために病院へ来たのか分らぬまま病院を後にしました。

 それにしても病院とは不思議な所です。私の顔色も見ず体の調子も聞かず、血液のデーターだけで私の現状を判別するのですから偉いものです。勿論今度来るときにはそのデータが揃っていて、エコー検査や透視検査で総合的に判断するのでしょうが、少々納得のいかない一日でした。

 家へ帰るなり心配して待っていた妻は開口一番「病院の結果はどうだった」と聞くのです。病院では血液検査をしただけで何も診てくれなかった。今度2月29日の金曜日で予約を取ったから忘れないように」と、さも人ごとのような口調で話すと、妻は早速居間のカレンダーをめくって「進一健康診断の日」と大きく書き込んでくれました。今日は病院へ行く時、日程表を忘れて行きお医者さんの示した2月29日が空いているか気が気ではありませんでしたが、何とか空いていてホッとしました。

 病院へ行くと何か病気になったように気が滅入ります。それでも病院へ行かねば自分の体のことは殆ど分りません。早期発見、早期治療のために検査は欠かせないことなので、これからも何はさて置いてでも健康診断だけは受けようと思っていますが、しっかりと元気を確保してこれからの人生に備えたいと思いました。

  「顔色も 体も見ずに はいこれで えっ?と驚き シブシブ帰る」

  「どうだった? 聞かれはしたが 答えよう なくて分らん たったそれだけ」

  「パソコンに 向って話し する医者に 俺の体を もっと見てくれ」

  「二時予約 二時半終わる 三時半 家に帰りて 妻は驚き」

 







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shin-1さんの日記

○5本川の字になって寝る

 川の字は縦線3本で「川と読みますが、昨晩は泊まりにやってきた娘の家族と一つの部屋で川の字ならぬ「11111」の字になって寝ました。一番最初に寝るのは生後8ヶ月になる孫尚樹です。8時には風呂に入れて床につきスヤスヤと寝入っています。続いて私と一緒に風呂に入った5歳の孫朋樹が8時30分ころ床につきます。娘が来ない場合は私と床に入って私のお話を聞かせるのですが、昨日は娘がお母さん役で本を読み聞かせていましたが、昼間の疲れなのかアッという間に夢の世界です。

 その後娘と妻と私でみかんを食べながらテレビを視聴し、10時30分に孫を挟んで二人が眠ったようでした。その後私は書斎で締め切りが近づいている原稿を書いていましたが、12時になったのでそろそろ寝ようとパソコンのスイッチを切り、ストーブの火を落として居間に行きましたが、どういう訳か妻は私の布団を敷き忘れているようなのです。寝入っている妻に声をかけるものの、寒くて面倒くさかったのか、「お父さん今日はみんなで寝よう」と自分の横に来て寝るよう勧めるのです。仕方がないので一番隅の妻の横に潜り込みました。妻の体温で布団の中は暖かく、私の冷えた手と足が入ると妻はクルリ背を向けて孫の方を向いて寝てしまいました。やがてそのうち私も夢の世界に突入しましたが、娘は5歳の孫朋樹を12時にトイレへ連れて行き、途中尚樹にお乳をあてがう程度で大した混乱もなく朝を迎えました。私は朝4時の起床なのですがこの日は孫と一緒に寝るよう妻から言われ、5時頃まで布団の中にいました。生後8ヶ月の尚樹は既に目を覚ましていて、指を吸いながら一人遊んでいました。娘は尚樹のオムツを替えてまたスヤスヤなので、妻と私の間に孫を入れて遊んでやりました。孫は豆電球の光ながら笑顔で私と対話です。対話といってもまだ言葉は喋れませんが、それでも「アー」とか「ウー」とか何となく分るような言葉を発して私の顔を触ったりしながら30分くらい遊びました。娘がお乳を与える間に床から抜け出しましたが、まるで雑魚寝ながら、昨晩は楽しい一夜を過ごしたのです。

 そういえば子どもが小さい頃は5本川ならぬ6本川の字になって同じ部屋で毎日寝たものでした。夏になると子どもたちは部屋の中を寝たまま自由に動いて、子どもを捜すのに迷ってしまうようなことがしょっちゅうでした。冬になるとはみ出す子どもを布団の中に入れるのに一苦労もしました。また子どもにオネショを掛けられ風呂場まで走った経験も何度かありました。でも振り返れば貧しくて決して豊ではなかったけれどあの頃が一番幸せだったなあと思うのです。親父がいつも「子どもが小さい頃が家庭は一番幸せだ」と言っていた意味が分るような気がするのです。孫の乳臭い匂いも、オムツから出る匂いも全て懐かしさの象徴だと思いました。

 いつの間にか四人もいたわが子はそれぞれ大きくなって、古巣から旅立ってよきました。気がつけば親鳥二人に年老いた老い鳥が一人、肩を寄せ合うように古巣で生きています。たまに来る孫鳥たちもやがて大きくなってわが家と同じように巣立って行くのでしょうが、少し寂しく少し切ない家族の運命を感じました。

 ふと、娘婿が一緒に来ない日はこれから、孫が来る度にこんな寝方もおつなものだと妻に話しましたが、「私は眠れないので反対」とあっさり否決されてしまいました。そういえばオムツを取りに行ったりり布団を敷いたりと、週末に孫が来ることによる妻の仕事量増加は、目には見えないけれどおびただしいものがあるようです。

  「孫が来る 孫が帰るの 大騒ぎ 嬉し半分 寂し半分」

  「川の字に なった布団に 潜り込む 孫の匂いは どこか懐かし」

  「また一人 また一人去り 気がつけば わが家は古い 三人残る」

  「オシッコに 起す夜中の 大騒動 孫は寝ぼけて そこらウロチョロ」   

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shin-1さんの日記

○地域活性化講演会

 あらかじめ電話で聞いていた会場となる公民館の電話番号をカーナビに入力し、確実に行くことが出来ると確信したので、少し寄り道をして水軍城に立ち寄りました。何年か前妻と来た時はあいにく休館日だったため中を見ることが出来なかったのですが、この日もまた運悪く休館日で、運の悪さを雌時と嘆きました。夕闇迫る午後5時前のことゆえ人の気配は全くなく、一人で天守閣のある頂上までの急な坂道を登って行きました。

 入り口には村上水軍の旗印を示す絵文字が庭木で表現していました。

 そこここに村上水軍の旗印が色鮮やかに立ててられて、何処かから水軍の雄たけびが聞こえてきそうな雰囲気です。

 天守閣まではそんなに険しくもなく階段を上がる毎に周りの眺望が開けて絶景の地にありました。

 城山の頂上付近から横道が続き、お寺の裏にある村上一族のお墓へと通じていました。

 墓地は水軍の武将らしく格式の高い五輪の塔が幾つもあって、歴史の重さを感じました。



 金蓮寺は村上水軍ゆかりの寺で、山門の入口にはめずらし石仏の阿吽像が立っていました。

 目指す大浜公民館は目の前に向島にかかる大橋が見える絶好な場所にありました。公民館の施設は立派で、みかんの形をした丸いドームのような屋根が目印と伺っていたので、迷うことなく少し早めでしたが明るいうちに到着しました。館長の酒井先生と職員の楢原さんが優しいい笑顔で迎えてくれました。聞けば酒井さんも楢原さんのご主人も私と同級生だそうで、楢原さんのご主人は退職後釣りや畑仕事三昧の暮らしをしているそうで羨ましくも、同じ世代の話に花を咲かせました。

 この日は今年一番の冷え込みにもかかわらず和室には沢山の人が集まって、時間通りに集まって時間通りに始まった和気藹々の姿に、大浜地区の文化度の高さを感じました。2月3日の節分の日には伝統行事の神明際という伝統行事も予定されているそうで、この地域ならしっかり生きていけると確信がもてました。

 私の話は夜分のことでもあり、ましてや疲れた体を押して集まって来ているのですから、四方山話のような楽しいい話にしようと心がけて1時間30分程お話させてもらいました。この地域は70歳以上が33パーセントを占める限界集落に近い感じの地域ですから、これからの生き方は助け合いと自分を見失しなうことなく生きることが大切だと強調しました。

 いい集会に参加するとほのぼのとした気持ちになります。8時40分に終わり、楢原さんから「お茶でも」と誘いを受けましたが、「今日中に帰りたいので」とすまなく断り、元来た道と橋を渡って帰って来ました。夜道といいながらそれでも自宅に帰ったのは11時を過ぎていました。

  「水軍の つわものどもが 夢の跡 訪ねて騒ぐ 同じ海人」

  「同年の 人と話せば 何となく ホッとするやら 嬉しいやらで」

  「お土産に 八朔一箱 いただいて もと来た道を ほのぼの帰る」

  「いいですね 田舎の集まり 笑い声 ここにも贈る オンリーワンを」




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shin-1さんの日記

○久しぶりにしまなみ海道を渡る

 四国には贅沢に鳴門~明石ルート、坂出~岡山ルート、今治~尾道ルートと3本もの橋がかかっています。いずれもそれなりの期待を込めてかけられた20世紀の国家的大型プロジェクトでしたが、残念ながら橋の効果はブームで終り、経済発展までには波及していないようです。

 それでも私たち四国に住み、本州と行き来をする私のような人間にとって三つの橋はこの上ない便利さで、その目的や用途に合わせて使い分けています。例えば東京行きの深夜バスは鳴門~明石ルート、京阪神へは鉄道併用橋の坂出~岡山ルートを通って新幹線接続、中国地方へは歩道共用の今治~尾道ルートを使っていますが、自分が車を運転して圧倒的に多いのはやはり坂出~岡山ルートが多いようです。

 昨日は尾道市と合併した因島大浜公民館の招きだったので、しまなみ海道を通って講演会に出かけました。このルートを渡る度にいつも思うのですが、芸予諸島を縫うように走るこのルートの景観は素晴らしく、全国の仲間に見せてあげたいような気持ちになります。まず最初に渡るのは今治来島海峡大橋です。この橋は世界でも類を見ない三連吊橋でその優雅さはどの橋にもないような見事なものです。残念ながら自分で運転して車で走るとそうそうわき見運転も出来ないので景色を楽しむことは出来ませんが、それでも右や左や橋下を行き交う船等が長閑な瀬戸内の景観を醸しています。

(三連吊橋の来島海峡大橋)

(大島大橋)
(大三島大橋)
(愛媛県と広島県を結ぶ多々羅大橋)
(平山郁夫画伯書の多々羅大橋標柱があるサービスエリアからの遠望)

 しまなみ海道には合わせて10の橋がかかっています。大島大橋は宮窪と伯方、大三島大橋は伯方と大三島をそれぞれ結んで、上浦と瀬戸田にかかった多々羅大橋が愛媛県と広島県を結んでいます。トイレ休憩のため瀬戸田のサービスエリアへ立ち寄りました。ここも季節柄閑散としていて、駐車している車は3台ほどで、店の中に入ってみたものの、客は一人もいませんでした。何年か前の開通に沸いた頃、ここへ車を止めて婦人会のおばちゃんたちと多々羅大橋を歩いて渡った記憶が蘇えってきました。あの頃はみんな若かったし、この界隈も活気に満ち溢れていました。しかし通行料金の高さなどもあって、最近はめっきり人も減り、どうすれば沿線の活性化が図れるか会議を続けていますが妙案はないようです。

 カーラジオが北海道の旭川では氷点下30度を越え、今年一番の冷え込みだと報じていましたが、サービスエリアでも風があって底冷えがするので、早々に車へ戻り出発しました。車は瀬戸田と因島にかかる因島大橋を渡って、因島南のインターチェンジを下りました。夜の集会ながら不案内な土地柄もあって、早めに出発したため、全ての橋の全容を見ることが出来てラッキーでした。それにしてもしまなみ海道の橋は素晴らしいの一言です。

(因島大橋)

 橋を渡りながら橋沿いに暮す人たちのことを思い出しました。今治には河上、日浅、湯山さんなどフロンティアグループのメンバーである私の友人が沢山住んでいます。またわが息子も今治の警察署に勤務しています。吉海に住む矢野さんは合併して今治市役所に勤務、今年の3月で退職すると年賀葉書に書いていました。伯方の赤瀬さん、宮窪の村上さん、大三島の藤原さん、上浦の後藤さん、瀬戸田の金本さんなど、数えれば切りがないほどの人々に出会っています。それぞれ合併という訳の分らぬ時代の流れに翻弄されながらも必死で生きているようです。暇が出来たら島伝いに出会いの旅でもと思っていますが、いつになることやら・・・・。

  「橋渡る 度に顔々 思い出す 懐かしき日々 昨日のように」

  「便利だな 金は高いが 尾道へ 日帰り旅の 出来る幸せ」

  「寒さゆえ 島沿い故に 人もなく 手持ち無沙汰の 店員こっくり」

  「あの船は 何処へ行くのか 橋の下 白波けたて 西に東に」



 

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shin-1

○「何がないか」より「何があるか」が大切

 昨日ある新聞社の記者からメールが入り、昨年11月に講演に出かけた地域の活性化について意見を求められました。私が訪ねたその地域は歴史や自然それに地理的に、私たちの地域からすればはるかに条件がいいと思われるのですが、特に観光は右肩下がりでこのままだと将来への不安を隠しきれないというのです。「そこで無から有を生んできた若松さんお知恵を」というのですが、「私如きの知恵で地域が起きるのだったら既に起きています」と前置きし、お話をさせてもらいました。

 地域づくりでいつも問題になるのは発想の原点を「何がないか」から始めることです。九州や東北では新幹線の延伸工事が進んでいるようですが、新幹線のルートは政治家が深く絡んでいるとの噂は聞いているものの、誰が決めるのか私たち凡人には知るよしもありません。幸運にもルートになった地域は「新幹線が通ったら必ずいいことがあるに違いない」と思うのは当然のことかも知れません。ところが外れた地域は「新幹線が通らないのは国の責任だ」と他力本願を嘆くのです。これは「何がないか」を如実に物語る現象なのでしょうが、四国などは新幹線の「新」の字も望めない地域ですから、「新幹線がないから」なんて考えず、別の事を考えるのです。

 これは瀬戸内海に3本の橋がかかったころの話によく似ています。橋がかかれば島も四国も良くなるとみんな信じていました。しかし橋のブームは一年も持たず、橋がかかった効果など庶民の暮らしには殆ど影響が出ませんでした。橋のかかった島でさえ、フェリーの減便でかえって不便になったようです。更に追い討ちはストロー現象で過疎化の波は一層激しくなっているのです。

 地域づくりにとって地域資源を生かすことは当然のことなのですが、その地域に暮らしていると自分の地域にある「お宝」には中々気付かないものなのです。外からそのまちを訪れた時感じる香りや風さえもそれは当たり前になっているのです。私は全国を歩いていますが、その地域には風土と呼ぶに相応しいそこにしかないものが必ずあって、そのまちに足を踏み入れた瞬間、違った文化を感じとれることができるのです。でもそれをいくら私が言っても地域の人々の心の扉が開かなかったら、それは潜在能力であっても健在能力に変化しないのです。つい最近はワークショップなどの技法が取り入れられて「まち歩き」による「地域資源発掘」が行われていますが、まさに地域を見つめ、地域に何があるか考え、それをどう生かすか考えれば幾らでも生かす資源は見えてくるのです。ただそこで終わると振り子時計の原理で「ああでもない、こうでもない」の議論で終ります。次に進むには実践と物語づくり、そして情報発信というステップアップを遂げなくてはなりません。私はこれを地域づくりステップアップの7段階と称して、関わる人たちに自分達のレベルを確認させました。そうすれば次のステップへと進めるのです。

 地域づくりは人の流れによる経済を高めなければ何の役にもたちません。1回のイベントを開いて糞と小便とゴミだけが落ちたのでは駄目なのです。でも最初は糞と小便とゴミだけでも落さなければ次には進めないことも肝に銘じなければなりません。

 夕やけぴラットホームコンサートから始まった夕日によるまちづくりが、ソフトからハードを産んだ仕掛けや行動はまさにその典型で、観光客ゼロが55万人になり、経済効果をもたらした夕日によるまちづくりは、やれば出来ることを証明しています。

 私の町にには何もない。だから何でも出来る。そんな開き直りな行動が自称日本一夕日が美しいオンリーワンの町をつくったのです。地域づくりは人生と同じで、できるだけ思いどおりにならない方がいいものです。思いどおりに行かないからこそ他に方法はないかと知恵を巡らすのです。工夫や抑制や難儀の結果思わぬ好機に巡りあい、一気に開花した事例は山ほどあるのです。

  「何がない いつも言うけど 何がある ただそれだけで まちは起きます」

  「幸運は 不運の中で 生まれくる 不運の次は 必ず幸運」

  「世の中は 思い通りに ならぬもの 汗知恵出せば 道は開ける」

  「いつまでも 議論ばかりじゃ 進まない 振り子時計は 行ったり来たり」

  


 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○お飾りはやし

 日本の各地から新年を祝う行事の話題が消え、平静を取り戻してきましたが、わが家では1月15日、正月を締めくくる行事として「お飾りはやし」という行事をやりました。行事といっても仕事で外出している妻を除き、親父と二人だけでする簡単なもので、年末に私が作って家の神仏に供えてあった全ての正月飾りを集めて畑の隅で焼くのです。他地域ではどんど焼きなどと呼ばれているようです。漁村に育った私が子どもの頃は海岸の砂浜、しかも波打ち際にお飾りを持ち寄りその行事をしたものですが、焚き火禁止令?などもあって近頃はそんな風習も何処かへ消えてなくなってしまったようです。それでも90歳の親父のいる家庭では必ずこうした行事を長男がやらないといけない風習となって遺されています。

 神様棚に飾った海老型のお飾りだけは一年中飾っておくためその一つだけ残し、全てをうず高く積んで火をつけました。風もなく穏やかな天気だったため藁と裏白、それに竹ばかりなので火の回りが速く、あっという間に燃えてしまいました。親父は玄関に飾っていた青竹を割って鏡餅を挟み、火で焙っていました。この煙や火の粉を被り鏡餅を食べると無病息災になると信じている親父は程よく焼けた餅を私と分け合って食べました。これで親父も私も健康に暮らせると自分に言い聞かせながら食べました。

 残り火を見ながら親父から面白い話を聞きました。しめ飾りの縄綯いの時7本、5本、3本と奇数で綯いこみますが、数が多過ぎるので1本、5本、3本とするのは7・5・3のことで「しめ」と呼ぶのだそうです。7・5・3で綯ったしめ飾りは火の中で焼かれて燃え尽きてたとえ灰になっても縄のままで残るというのです。そういえば全てが燃えた燃え殻は縄のままでした。これを夫婦になぞらえ、「たとえ死んでも夫婦二人は一緒」だと教えてくれました。母が逝って既に8年が経過しましたが、親父の言葉には何処となく、先に逝った母への思慕があるようで少ししんみりした話になりました。それでも昔の人の有り難い言葉として長男に伝えたいと思っています。

 神棚に供えていたカブスや小みかん、干し柿などは「お下がり」と称して少しずつ分け合って食べます。鏡餅の大きい方は勿体ないと思い、既に5日前に鏡割りを済ませ他の餅とともに寒の水に漬けられ、朝な夕な焼き餅や雑煮、水炊きなどにして美味しく食べています。

 わが家の伝統行事は親父が長寿のため、親父の意見を尊重しかろうじて長男である私に受け継がれています。しかし聞くところによるとそんな一見煩わしい伝統行事は若い人には受け入れられ難く、他の家庭では次第に姿を消しているようです。わが家でさえも「昔はこんなことをしていた」と懐かしくなるような行事がいっぱいあるのですが、記録にさえも留めていないのです。こうした「田舎らしい民俗学の掘り起こし」をしようと、心に決めた2年半前の自分への約束も、まだまだ意思半ばで先へ進んでいません。僅かにこうしてブログに書くことや写真に残すことくらいしか今のところ余裕がないのが実情です。でも少し軸足をそうしたことに移して今年は書いてみようと思っています。

 今年の正月は長男夫婦家族が長逗留したお陰で、少しだけ長男へわが家のしきたりを伝授することができました。これからも少しずつ伝え遺してゆきたいものです。

  「年老いた 親父と二人 お飾りを はやして食べる 餅の固さよ」

  「しめ飾り 灰になっても 壊れずに 二本仲良く 夫婦かくあれ」

  「年寄りが いるから伝統 守られる 年寄りになり 何を遺せる」

  「長閑なり 田舎の朝の 畑にて お飾り火付け 煙まといて」 

 

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shin-1さんの日記

○話題について行けない

 昨日は生協の委員会が今治市の日本食研本社であり、生協本部から大川理事長さんの運転する車に乗せてもらって出かけました。高速道路からの眺めは冬とは思えない穏やかな日差しに恵まれ、遠くに望む石鎚の山並みも燧灘の海もどこか新春の晴れやかさを感じさせていました。

 高速道路を使うと1時間余りで日本食研に着きました。今や飛ぶ鳥を落す勢いといわれ、食文化の独創的な企業活動を展開している日本食研の大沢一彦さんは私と一緒に生協の理事に就任していますが、無位無官な私などとは月とスッポンで、一事が万事住む世界が違うのです。

 日本食研に行って一際目につくのはKO宮殿工場です。オーストリアの首都ウィーンに280年前に建設された現存するベルベデーレ宮殿を模して造った工場は、ただただ驚くばかりで、庭園も宮殿も、中の展示もその素晴らしさも、見た人に感動を与えるのです。会議が始まる前2時間をかけて会社の女性に案内してもらいましたが、2時間かけても駆け足の状態でした。

 感心覚めやらぬ中、まるで閣議でも開けるようなこれまた立派な貴賓室で大沢さんを座長に1時間ばかり会議を行い、議論を交わして終わりました。

 その後会場をレストランに移しえ夕食会が持たれました。食の会社に相応しい自慢の施設は社員レストランながら800食以上の調理可能な厨房施設や、専門シェフによるバラエティーに富むメニューはホテルのレストランにも負けない豪華さです。行き届いた清潔感やサービスはオーナーである大沢一彦さんの生き方そのもののを見る思いでした。

 出席した委員会のメンバーが松山大学学長の森本先生と愛媛法律事務所所長で弁護士の東先生だったりしたものですから、ハイクオリティなお話で、下座に暮す私などは話について行くのがやっとです。特にゴルフの話になると大沢さんの話は饒舌で、まったくゴルフをやらない私などは、ホールインやイーグルという単語くらいは分っていてもまったくチンプンカンプンなのです。大沢さんは50代後半からゴルフを始めたそうですが既に全国47都道府県のゴルフ場を回っていて、ゴルフ博物館を有するなど尋常でない生き方に一芸秀いづる物は百芸に通じる感を持ちました。

 それにしても、私は何て不器用な男なのでしょう。これまでゴルフなど、小さなミニゴルフ場に出かけ話のタネに友人の誘いで一回回っただけしか知らないのです。多分これからもゴルフをやらないでしょうから大沢さんとの話の中に入って行くことは出来ないものと思われます。まあこれも生き方が違う世界が違うと諦めれば、背伸びをして生きなくてすむだけでもオンリーワンが貫けるのです。人間全てを知ることはできませんから、「ゴルフを知らない若松」で、大沢さんからこれからもせいぜいゴルフの話しを聞きたいと思っています。

 昨日は少々お酒が出たため、帰りは生協の尾崎部長さん運転の車に乗り変わって帰りました。生協と私との窓口は尾崎部長さんが圧倒的に多いものの話す機会もそんなに多くなかったものですから、絶好の機会と思い四方山話をしながら本部まで帰りました。尾崎部長さんの人となりは日頃から感じていましたが、旧土居町の出身であったり農家の長男であったり、単身赴任であったり、孫が出来たことなどなどたくさんの話をしました。ゴルフの話に甲乙つけ難い話に少し救われるような気持ちでした。

  「こりゃ駄目だ ゴルフの話 チンプンカン それでも学ぶ ゴルフに学ぶ」

  「ゴルフとは  面白過ぎて 止められぬ それが欠点 だから止めれぬ」

  「これからも ゴルフしないが ステイタス 俺流生きる それでいいだろ」

  「世の中は 全てを知るは 出来ぬもの 人の教えを 聞けばすむこと」

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shin-1さんの日記

○病気になって見えてくるもの

 私は自称「ポジティブマン」なので、自分でいうのもおこがましいのですが、病気になったり失敗しても少々なことではへこたれない強い精神力を持っています。私を回りの人からは「何がそんなに楽しいの」とか「あなたのような生き方が羨ましい」と時々言われるのです。多分それは何度か患った病気によって学んだことも多分にあるような気がするのです。

 私はこれまでに3度大病を患いました。最初は24歳の時過労が元で意識不明になり本人は気がつかなかったのですが死線をさまよいました。当時は家業の後を継ぎ漁師をしながら青年団活動に夢中になっていました。夜更しと大酒のせいだったようですが、そのことがきっかけで漁師の道を断念し役場に転職しました。朝日新聞が「酒を飲み過ぎて公務員になった男」と私を書いた記事で紹介したのもうなずける話です。その時役場に勤める同級生が何気なく発した「お前は永久に私を越えれない」の言葉に発奮し日本一を目指して頑張ったのですからこれまた「ポジティブ」の何ものでもありません。この病気で様々な健康維持方法を学び以後は風邪一つ引かず、腹一つうずかず、35年の役場生活を終えることが出来ました。

 2回目の病気は55歳時の胆のうの摘出手術です。健康診断でひっかかり、エコーやCT検査で胆のうにポリープが見つかり摘出手術を受けました。医学の進歩は目覚しく、今は腹に4箇所穴を開け内視鏡で摘出手術するのです。手術はうまくいったのだそうですがそれから痩せ始め68キロあった体重は13キロ減の55キロまでになり、今もその体重のままです。でもこの手術以後あれほど飲んでいたお酒をきっぱり断って8年以上が経ちました。自分で自分を褒めてやりたいような心境で、今は酒なしの穏やかな暮しにギアチェンジしています。

 3回目の病気は怪我です。わが家の裏庭が台風の大雨で崩れ土砂災害に遭いました。その折裏山から倒れてきた倒木をチエンソーで切っていて運悪く向こうずねをチェンソーで切って20針も縫う大きな怪我となり20日ほど入院しました。車椅子や松葉杖などのお世話になりましたが、大事に至ったものの大事に至らず元通りの暮しが出来るようになりました。それ以来足腰の鍛錬をしていますが、ぎっくり腰程度で健康に暮らしています。

 誰でも健康が一番だと思い丈夫な体を持ちたいと願っています。でも人間は不思議なもので健康な時にはそれ程体の事をいとわないものです。ところが病気になると健康の有り難さがしみじみ分るのです。つまり「有り難さ」とは「難が有る」と漢字で書くように「難」に出会わないと分らないものなのです。私は3度の病気や怪我で様々な事を学び生き方そのものを変えて生きてきました。振り返れば病気にならなかったら見えてこないものが沢山あったようです。

 私は少々おっちょこちょいなのか4、5日前、車のドアーを閉める際、小指を挟んでしまいました。目が飛び出るほどの激痛が走り、指先は黒く変色しています。痛みも引いて今は普通に使っていますが、日常の暮しで小指の存在など何も気付かず、ましてや小指なんてただ添え物くらいんしか思っていませんでしたが、小指を怪我してみると、何と不便なことかがしみじみ分りました。小指だってちゃんと役割があるのです。

 風邪をひけば妻のいたわりに感謝し、小指を詰めれば小指の働きを思う、この失敗からの学びこそ大切な人間の生き方かも知れません。大袈裟な話ですが、直るような病気ならたまにはした方がいいのかも知れませんね。

  「自動車の ドアに挟んで 小指怪我 日頃分らぬ 役割見つけ」

  「もし病気 ならずば今も 酒を飲み 巷徘徊 体滅びて」

  「病気して 今の自分が あるのです たまには病気 してみるものよ」

  「風呂入り スネの古傷 さする度 よくぞ残った 両足立てる」

 

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shin-1さんの日記

○最近気になる飲み放題

 地域づくりの仕事に深く関わっていると飲み会はつきもので、楽しかったといっては飲み、失敗したといっては飲みで、酒のない地域づくりは考えられないような日々でした。したがって家に帰ってもその延長なのか晩酌をするのが日課となって、まあ早い話が酒のない生活は考えられないほど酒と深く付き合ってきたのです。その結果も多分にあるのでしょうが7年前に胆のうを患い、以後かたくなに酒を断ってきました。

 酒を断ったからといって酒の席へ出ない訳ではありません。付き合いの悪さは則地域づくりの破綻につながると信じて今も回数こそ減ったものの一次会、二次会へ誘われるままに出かけ、ウーロン茶で酔ったような顔をして付き合い交流を深めているのです。

 最近気になっているのですが、若い人たちがセットする飲み会の殆どは2時間飲み放題5千円というのが多く、とにかく2時間のうちに何が何で食って飲んでという、まるで暴飲暴食を推奨するような飲み会が多いのです。先日も食育の会議が持たれ、食育という極めて大切な議論をしたにも関わらず、その夜の懇親交流会はこともあろうに飲み放題の店で無頓着な飲み会をしたのです。その事に気がついた私は年配の故をもって指名された乾杯の音頭の時に、その事を指摘するような話をしましら、素面ゆえみんなの納得を得たようでしたが、アルコールで脳が麻痺した30分もすれば、「ビールお代わり。こっちは焼酎のお湯割り」などと手が上がり、結局は暴飲暴食となってしまいました。

 私たちの身の回りには、健康診断で病気が発見された人、糖尿病やうつ病などで体の不調を訴え通院する人、胃や大腸を手術した人などが沢山病院に通っています。推し量るに食生活が原因ではないかと思える節が沢山あるようです。例えば飲み放題のような店が幾つも出来て、安く飲ませてくれるのは有り難いのですが、暴飲暴食の何ものでもない飲み放題の店は、ある一定の年齢を過ぎると要注意だと思わなければなりません。また肉をはじめ天ぷらや中華料理風のどちらかといえば脂濃いものを食べる暮しが家庭にまで広がっています。幸い私は魚党なので油濃いものは余り食べませんが、肉の消費は昔と比べたら格段の量です。またスイーツと称する砂糖で味付けした甘いものも好んで食べられて、飲み会の席で最後に残るのは野菜だけというお粗末さです。

 最近はテレビのバラエティー番組にもその傾向が顕著で、ギャル曽根なんて女性が登場し大口で上手そうに寿司10舟を美味しそうにペロリと平らげたり、回転寿司を何個食べられるかとかいう料理や食事番組がやたらと多く、見ている私たちに暴飲暴食をよしとする風潮を創り上げているのです。

 外食をして家に帰ると妙に喉の乾きを覚えるのは、外食の濃い味のせいかも知れません。家では薄味がよいと思って実践しているのに、外食では塩分の取り過ぎ、カロリーの取り過ぎで、規則正しい食生活を乱してしまうのです。長生きした人の話だと「腹八分は医者要らず」だそうです。だとしたら「飲み放題は医者が要る」のかもしれないと、同じ会費で飲めない私は多少悔いは残りますが、ウーロン茶は2杯まで、食べ物は魚と野菜中心で程々と心に決めて参加しています。お陰様で飲み放題の店を出て「もう一軒付き合ってください」といわれても、付き合える余裕があるのです。

 毎日大量に出されるゴミの山を見て、これも消費拡大、日本の経済成長と思うか、日本人の美風欠如と思うかはその人次第ですが、間違った方向に生きつつあることは確かなようです。

  「飲み放題 暴飲暴食 推奨し これでは体 悪くなります」

  「ギャル曽根の 胃袋何で 出来てるの 今に地獄が 待っていますよ」

  「腹八分 何でも美味く 感じます 体いとえと 妻の手料理」

  「酒捨てて でも飲み会は 参加する さすが二次会 までに留める」 

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shin-1さんの日記

○パソコンの手術

 どうも私のパソコンの老朽化が進んでいるようです。というのも昨日の夕方娘婿がパソコンの修理にやって来て、色々いじっている最中に、耳慣れない異音を聞いて、「どうもこの音はパソコンの故障前兆のような音だ」とショッキングな話しをするのです。こんな音を勤務先の職場で何度か聞いたそうで、パソコンが2台故障したそうです。さて困りました。今でさえパソコンの不都合で悩んでいるのに、これ以上不都合が続くと、えらい出費になるからです。そろそろパソコン貯蓄でも始めねばと思うのですが、年金暮らしの私にそんな余裕はなく、妻の理解をやんわり引き出しておかなければなりません。

 パソコンが言う事を聞かなくなって2週間が過ぎました。娘婿や息子の懸命な治療によって何とか延命措置はしてもらっていましたが、画像の入力が出来なくなっていました。このパソコンの容量が少ないことも原因があるかも知れないと、パソコンの形式番号を知らせるようメールが入りました。今まで何年も使っているのにノートパソコンの画面右下に小さく書かれている「PCG-CRS52V/P」なんて文字など目に入りませんでした。早速メールで送ると、早速インターネットで部品を取り寄せ昨日の夜の手術と相成ったのです。

 娘婿は慣れた手つきでパソコン修理用の小さいドライバーなどを取り出し、パソコンのコンセントやコードを抜き去って裏面のカバーを外し、中からマイクロチップを取り出し、持ってきたマイクロチップと交換し始めたのです。その手際よさや向寒風景を見ていると、まるでテレビで見た人間の心臓手術のようでした。

 手術は10分余りで終わりましたが、その後30分余りにわたって、画面に出てくるデーターをいじくり回し、やっと元通り動くようになったのです。「治ったようですのでテストして見てください」といわれ、恐る恐るテストをしてみました。テストといっても私が使うのはメールのやり取りとブログの入力、それにデジカメ写真の入出力ぐらいなものですから、簡単な操作でテストは順調に進み終了しました。娘婿はもう一度確かめたいことがあるのでと、食事が終わった後もメンテナンスをして帰って行きました。

 何らなすすべもなくただ漠然と娘婿の作業を1時間にわたって見ながら、パソコンの奥の深さと、娘婿の英知にただただ感心と感謝をするばかりでした。これまで3年間娘婿と長男に事ある度にパソコンの不具合を見てもらい、その都度メールで指導を受けてきましたが、これからもパソコンのメンテナンスをお願いしなければならないと、浅学を恥じた一日でした。

 パソコンの調子が良くなると気分まで良くなって、デジカメに溜ったままの写真を早速入力し、その内の何枚かは圧縮してブログに取り込む編集作業を終えました。これでまた全国行脚の旅も上手く行くだろうと、デジカメのバッテリーを充電し万全を期しました。

 パソコンも所詮は機械です。人間の寿命と同じように何時かは壊れる宿命を背負っています。でも酷使することなくメンテナンスをすれば、車と同じように長く持つものです。これからも寿命の続く限り大切に使いたいと、パソコンに感謝の文字を張りました。

  「手術終え 元に戻りし パソコンに 感謝の文字を 書き込みました」

  「早速に デジカメ写真 入力し ブログ全開 孫の写真も」

  「そういえば 要らぬ情報 そのままだ 見直し整理 ゴミ箱移す」

  「パソコンが 治ってすっきり 気分まで 今日から元気 回復体操」

  「


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