shin-1さんの日記

○31文字の暮し

 朝起きて一本、夜寝る前に一本と、毎日パソコンに向かいブログを2本書くようになって二年半が過ぎました。その途中の急な思いつきで末尾に4首の笑売啖呵を添えていますが、これも何気なく書いているつもりでも駄作ながら一日8首ですから10日間で80首、100日で800首という膨大な数にのぼり、今更ながら何気ない日々の積み重ねの重みを感じるのです。

 「5・7・5・7・7」を足し算すると31文字になります。最初は俳句も考えたのですが、上の句と下の句をつなぎ合わせる妙が自分の性に合っていると思い始めました。しかしいくら文系だと自分で思っていても、能力のない自分には人に読ませたりなるほどとうならせるような才覚もなく、ただ作って自己満足で終わるようなものしか出来上がらないのです。

 先日私の友人で先輩の玉井さんから電話が入りました。彼は絵や書は書ける、詩は作れるそんな才能のない私にとっては何とも羨ましい限りの人なのですが、彼もまた色々な趣味の世界に身を置いています。私と彼の決定的な違いは自分を磨くためにそれなりの人に出会い、それなりのグループに所属して芸域を広めようと努力していることなのです。私の場合はつい最近始めた落伍だって自分流を貫き、人の真似をしたり師匠につかないため、相変わらず土に埋もれそうな雲行きなのです。

 でもこれが自分の生き方ですから、これもいいと思いつつ、相変わらず31文字の笑売啖呵を飽きもせず作り続けているのです。玉井さんは電話で、「このような自由な表現をする句会に入って楽しんでいる。先日もその例会で表彰された」というのです。そして「あなたもその人たちに接触してみないか」と進められました。

 私は二の句が継げず電話の話だったのでその場はお茶を濁しましたが、妻の話によると「これ以上活動領域を広げると、あなたは夢中になる性格だから考えた方がいい」というのです。確かに自分にはそんな能力もないしブログ記事の末尾に書いてささやかながら自分で楽しむくらいで丁度いいと思っています。

 しかし、こうした友人からの投げかけは不思議なくらい自分の生き方をあらためて見つめ直すきっかけになるのです。これまでだらだら作ってきたけど、「お前は笑売啖呵を何のために作っているのか」と、夕べから今朝にかけて疑問が生じ、自問自答し始めたのです。「笑売というが私の作品には本当に笑いという落ちがあるのだろうか」とも思いました。「うーん」と黙り込んでしまう有様です。作り始めた最初の思いはどこへやら、それでもいいと思えばいいのですが、さてどう進化するか、玉井さんから突きつけられた難解な難問にこれから少し悩んでみようと思っています。

 ブログのよさは書いたものを前に遡って読めるということです。バックナンバーから幾つか選んでブログの自分のページを開き、あらためて何本かを画面に出して、末尾の笑売啖呵を読み直して見ました。確かに「オッ」と思ったり「ハッ」とするようなものもありますが、「エッこんなの」と思うようなものもあって、汗顔しきりでした。友人のメールでは何本かの笑売啖呵に食いついて、批評まがいの返信をいただいている様子まで調べることができました。

 早いもので、間もなく後2日で1月も終りです。また一ヶ月のブログまとめプリントアウトの日を迎えます。今やすっかり生活の一部になったブログ三昧の生活ですが、一石を投じてくれた玉井さんに感謝をしつつ今日も相変わらず拙文と駄作を書いています。

  「何のため ただ何となく 暮す日々 それでもいいか それじゃ駄目だ」

  「笑売が 入らないのは 季語のない 俳句と一緒 駄作に過ぎず」

  「ウフフフフ 思わず笑う ネタありて 初めて秀作 目指すはこれだ」

  「妻太る 季節外れの 鏡餅 浴湯溢れて ちょっとオホホ」(自分では秀作)

 

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shin-1さんの日記

○いい指導者はいい後継者をつくれるか

 私たちのような、いささかなりとも地域づくりに携わる者にとって、次に続く人を育てることは大切なテーマです。しかし世の中はそんな思いとは裏腹に、中々次に続く人が上手く育たないというのが正直な気持ちです。私たちが青年時代には地元に残る青年も多くいて、青年団などの活動が活発でしたし、青年団長になりたいという意欲を持った青年がゴロゴロしていました。私は23歳の時に他の立候補した2人を相手に、選挙という方法で選ばれ双海町の青年団長になりました。私の人生において選挙というものに立候補したのは後にも先にもこれが最初で最後ですが、幸運にも当選したのです。したがって私は選挙当選100パーセントの、落選を経験したことのない幸運な男なのです。

 当時先輩から、「いい指導者はいい後継者をつくる」という話しを聞き、その話を鵜呑みにしながら自分に続く人を育てようとしたものです。確かに自分がそんな意識を持って後輩たちに接すれば、それなりの後継者は育つのですが、自分を越えたり自分と違った考えや行動をする人が意外と育たないことに気がついたのです。あの有名な山本五十六は「やってみせ、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」と言っていますが、これも一利あるものの、人によっては褒め過ぎると有頂天になって間違った方向へ進む者まで出るのです。

 私の親父は腕の良い漁師でした。「漁師の長男と竹の竿は使い物にならない」という言葉が口癖でした。漁師の長男に生まれたというだけで家督を継いだ人間はその居場所に安住し努力しない例えであり、竹の竿は船を操る時竿竹に空気が入っていて、木の竿のように直ぐに海中に差し込めない例えのように解釈しています。そんな例えどおり、「お前は漁師で名を成すことはできない」とばかりに、親父は私を一緒に船に乗った人より厳しく育てました。でも私には厳しいと思っていても他の人から見ればまだまだ甘いと評価されるのです。

 わが家の船に乗って修行した人で、腕の良い立派な漁師になっている人がいます。中学校を出ると舵子(弟子)としてわが家の船に乗り込みましたが、若くして父親をなくしたこの人を親父は徹底的にしごきました。県外出漁で僅か5トンの船に乗せ太平洋のはるか遠い三宅島まで一緒に連れて行き、ともに苦労もさせました。今は親父の妹が嫁ぎ親類縁者となりましたが、一目も二目も置く漁師になった彼が、「仕事は盗むもの」という親父の言葉そのままに、潮の流れや魚の習性を努力習得して立派な漁師になってているのです。

 青年団の先輩が言った「いい指導者はいい後継者をつくる」も、山本五十六の「やってみせ」も、漁師だった親父の「仕事は盗め」も全て後継者づくりに通じています。しかしそれも相手の人によりけりで、すべてが当てはまるものではありません。

 最近まちづくりの現場で私に対する質問の中で多いのは、「若松さん、あなたの後継者は育っていますか」とよく聞かれます。幅広い活動を展開する私の、何を称して後継者と呼ぶべきなのか戸惑いますが、少なくともまちづくりの世界においては、私の後に続く人は沢山います。役所にも、グループにも、地域にも私が育てたというよりは育った人がいますが、私の似たような人は幸せな事にいません。それは私と同じような人を育てても意味がないという私の持論そのままなのです。私と違った生き方をする人、私を越えようと頑張る人、そんな人の後押しをしたいと思うこの頃です。

  「去るか死ぬ さすれば人は 育つもの 早くそうする 心の準備」

  「俺にしか 出来ない事を 目指すよな そんな若者 育てやりたい」

  「その道を 極めなければ 憧れの 人にはなれぬ 後も続かぬ」

  「団長に 当選したこと 人生が ささやかながら 今の自分に」 

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shin-1さんの日記

○愛媛県青年研究大会

 私は26歳の時、青年団活動8年間の有終の美を飾るべく愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会長、合わせて愛媛県青年団体連絡協議会長などの要職を歴任しました。丁度自分の結婚と重なったため、寝る間を惜しんでの活動でしたが、今振り返ると有終の美を飾るに相応しい楽しい一年でした。その活動の中で国立大洲青年の家の誘致や全国青年大会選手団長として国立競技場で入場行進したことなど思い出に残ることはいっぱいありますが、青年研究大会もそれに匹敵する思い出です。

 私たちが青年団活動をしていた頃は青年の数もたくさんいて、「1万人の仲間づくり」などの目標を掲げて活動していました。当然年に一回の青年研究大会は松山市民会館の大ホールが一杯になるほど盛況でした。市民会館のステージに上がって開会の挨拶をした時の原稿は長い間手元に置いていましたが、役所を辞めた時ダンボール10個分の名刺とともに焼却処分しました。

 あれから40年の時が流れ、きしくも昨日、愛媛県青年研究大会の記念講演で壇上に上がったのです。昨日の参加者は資料に添付された名簿だと60人ほどでした。私たちが現役の頃の町の青年研究大会でもこれ以上の人数が集まっていましたから、えらい様変わりです。でも私流に考えれば数ではないと思うのです。

 昨日の私の講演題は「人生の宝物を見つけるために」でした。私は青年団活動で四つの宝物を見つけました。その一つは仲間です。青年時代から人間は一人では生きてゆけない事をしっかり学びました。また自分のレベルを上げればそれに見合った仲間が出来ることも分りました。三崎町の塩崎さんや長浜町の菊池さんなど、今でも切磋琢磨できる友人が沢山いるのです。確かに人は善悪の友によるとしみじみ思うのです。

 二つ目はふるさとです。青年を連れて東京へ行った時、他所の町を枕詞にしなければ自分の町を語れなかった悔しい経験はその後のまちづくりへと私をいざない、日本一と自認す夕日の町をつくり上げさせてくれたのです。人間牧場をつくり、今もふるさとへの恩返しを心がけれるのはやはり青年団活動のお陰なのです。

 三つ目は主張です。私は人の前に出ると思っていることが言えない上がり性な性格でした。恥をかきつつ青年活動で訓練し、第十四回NHK青年の主張の県代表になれたり、その後の活動で自分の主張が出来るようになったことは大きな宝でした。特に結婚披露宴の司会を537組もやった実績は主張の訓練だったのです。

 四つ目は感動する心です。感動は感動という作用によってのみ点火されます。ジーンと感動するような純真な心を育てるために、無人島に挑む少年のつどいなど、様々なボランティア活動にも参加して、感動する心に磨きをかけてきました。

 しかし、この四つの宝物は日ごろの努力で磨かないと光を失うという厄介なものですから、「今やれる青春」をテーマに、今も怠ることなく一生懸命磨き続けているのです。

(はるか彼方に聳える西日本最高峰の石鎚山、この山は私の憧れの山であり目標です)

 若者に向って話をしながら、窓の向こうに見える西日本最高峰の石鎚山の姿を思いました。丁度この日は前日までの厳しい寒さで石鎚山は真っ白に雪化粧し、幾重にも重なった山の向こうに一際輝いて見えました。青年時代は何の目標もなく好きか嫌いかで判断したその日が楽しければいいという生き方をしていたように思います。しかし思いもかけず青年学級の「青年の生活設計」で目標を持つことの大切さを学びました。人生の向こうに聳え立つ石鎚山を発見した瞬間でした。しかし石鎚という途方もなく高くて大きい山を目指すには、その前に立ちはだかる山や十下を越えなければいけないのです。それが結婚であったり、子育てであったり、またアメリカへ行きたいというささやかな夢となりました。私の終局の夢である石鎚山の頂上を極めるにはまだまだ遠い道のりですが、とりあえず気力と体力をしっかり整えて夢の実現に向って努力したいものだと思いながら話しを終わりました。

 クラーク博士の「青年よ大志を抱け」という言葉を思い出しながら・・・・・・。

  「楽しくて 今日も暮らせる 有り難さ 四つの道具 持てたお陰で」

  「青年団 今では死語に なりそうな いいつつ残る やはり伝統」

  「ビリビリと 電気のような 感動が 社交ダンスの 女性の手から」

  「憧れた はずの女性も 腹が出て 化粧で隠す 目尻の小じわ」  


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shin-1さんの日記

○いい湯だな

 昨日は急な思いつきで夕方4時から息子と二人で人間牧場へ出かけました。体力に勝る息子の力を借りて耕運機を下の畑まで降ろし、ペレット牛糞をすきこむ作業をするためです。畑もそろそろ春の農作業の準備なのです。亀本さんから貰った耕耘機も冬の寒さで長い間使わずに作業小屋にしまっていて、エンジンをかけるのが大変だろうと思いきや、調子が良く2~3回引っ張っただけで快調に始動しました。早速急な坂道を下まで降ろし、早速ペレットを畑に振り撒いて耕運機で中耕しました。この畑は今年も予定している子供たちのサツマイモ植えに使う大切な場所なので、しっかりと耕して管理しておかなければならないのです。

 まず息子が運んでくれた牛糞ペレットを畑に満遍なく撒き散らしました。ペレット状の牛糞は何の雑作もなく振り撒けました。

 振り撒いた後を耕運機で耕すのですが、畑の傾斜があるためこの作業は中々大変です。こんな作業はこの3~4年やっている馴れた作業なのであっという間に終り、息子の力を借りて再び上まで揚げて倉庫に収納し無事作業を終えましたが、ペレット実験プロジェクト事業のため私の作業風景は息子に頼んで写真に収めました。

 私が作業をしている間に息子は五右衛門風呂、通称ロケ風呂を沸かし始めました。穏やかといっても冬の寒さなので、風呂に入るには絶好のチャンスです。辺りを見渡すと夕日に照らされた湾岸の素晴らしい眺望が眼下に開け、沖に浮かぶ島々が冬としては珍しいほどくっきりと見えました。

(夕日に照らされた双海町の豊田漁港から松山道後平野に至る素晴らしい眺望が開けていました)

(私たちが20年間に渡って無人島キャンプをした由利島も沖合い遠くにくっきりと見えました(
(ここから一番近くに見える島は旧長浜町の青島です)

 風呂が沸いたようなので今年最初の入浴を楽しもうと、沸かした息子がまず入りました。入浴シーンを写真に撮ることも余りないので、外側から撮ってやりました。風呂のお湯がモザイク状になってほっとしましたが息子の入浴シーンも中々絵になる光景です。

 続いて私の番です。下簾板を沈めたっぷりの湯に体を沈め、短いながら農作業で疲れた体を癒しました。風呂の揚げ窓からは瀬戸内海の夕暮れがまるで絵のように見え、これぞ「ロケ風呂」と幸せをかみ締めました。息子がこんな風呂を作りたいと言った時には金のいることゆえ、「また建築士の独りよがり」と思ったものです。設計という仕事は目に見えない夢を絵にします。多分私には見えない心の目でこの姿を見ていたに違いありません。斜面を最大限に利用したロケ風呂は、出来上がってこうして入って今にして思えば、いいアイディアだったとしみじみ思うのです。

 息子の夢はこの風呂に続いて露天風呂を作ることだそうです。多分彼の夢の実現にはオーナーである私の懐を当てにしてのことでしょうが、最初は馬鹿げたこととその提案を鼻で笑っている私も、昨日風呂に入りながら息子の話しに、何となく相槌を打ち始めた自分に気付いています。

 人間何が幸せか?と尋ねられたら、「究極の幸せは人のために出来る幸せ」なんて、講演で格好いい事を御託並べていっている自分ですから、人間牧場に来た人が喜ぶ露天風呂も悪くはないと思うようになりました。さてその夢を実現するための軍資金をどう調達するか、またまた新たなプロジェクトの作戦が始まったようです。

  「山の家 息子沸かせし 風呂に入る 眼下広がる 島影望み」

  「いい湯だな 思わず鼻歌 歌いつつ 次なる夢は 露天風呂とは」

  「入浴の シーン写真を ブログ載せ まるで迷惑 メールのようだ」

  「作業終え 今年最初の 風呂に入る 金はないけど こんな贅沢」

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shin-1さんの日記

○香川県小豆島を訪ねる

 「小豆島子育てフォーラムinとのしょう」という研修かに招かれ、久しぶりに小豆島を訪ねました。サンポート高松の敷地内にある船着場から高速船に乗ること30分で島に到着します。小豆島といえば「岬と思えば島なり、島と思えば岬なり」と紹介された壺井栄の「二十四の瞳」で有名な島ですが、最近はそんな小説も時代とともに風化しつつあるようです。それでも二十四の瞳の映画村には年間かなりのオールドファンがやって来て、右肩下がりながら観光の目玉となっているようです。天下の名勝寒霞渓を中心にした観光や手延べそうめん・醤油・オリーブが島の主産業で、どこか地中海を思わせるような雰囲気の島なのです。

(小豆島国際ホテルのレストランから瀬戸内海を眺めましたが、遠くには瀬戸大橋が見えました)

 船で島に着くと土庄町の企画課長さんが港まで出迎えに来てくれていました。途中で町長さんを乗せ、昼食会場となっている小豆島国際ホテルへ向いました。この日は昨日までの寒さとはうって変わって絶好の天候に恵まれ、レストランへ差し込む昼の日差しは暑く感じられるほどでした。ホテルのレストランから窓越しに見える瀬戸内海の島々はとても長閑で、こんなゆったりした所で暮らせる人は幸せだとも思いました。レストランでは既にフォーラムのパネラーの皆さんがお集まりで、楽しいお話をしながら美味しい昼食をいただきました。

(ギネスに乗っている世界で一番細い海峡)

 食事が終わって会場となる中央公民館に町長さんとともに公用車で移動しましたが、ギネスブックに載っている世界一狭い海峡を見せてもらいました。役場の横には「巾の広い橋」と表現たら分るような立派な橋がかかっていて、町民の憩いの場所になっているようでした。興味をそそられたため公用車の窓から写真を撮らせていただきましたが、今度来る時は必ず見学したいものと、多少後ろ髪を惹かれる思いで会場へ行きました。

(フォーラムが始まる前の会場の様子)

 町長さんは県議会議員の経験が長く議長までされた方のようで、町長選では薄氷を踏む僅差で当選され、子育て支援や合併推進を公約に掲げているようで、今回のフォーラムもその一環として行われたようで、それなりの方々が集まっていました。

 私が地域活性化伝道師として、高松で開催された研修会に出席した際、私の話しを聞いた担当者が私へアプローチをかけ、講演が実現したのです。テーマは「子育てからまちづくり」というかなり難しいテーマだったので、全国の事例などを話そうと思ったのですが、参加者は一般町民が多く、そんな話をするとブーイングや居眠りされると大変と、家庭の変化やまちづくりのさわりをそれなりに話させてもらいました。

(小豆島を後にする)

 特急のアクセスが悪く、もし遅れると1時間も待たなければならないとあって、講演が終わると直ぐに課長さんが港へ送ってくれました。お陰様でサンポート高松周辺や玉藻公園を久しぶりに散策することが出来ました。


(高松城)

(玉藻公園)

 サンポート高松の中心は何といっても高松駅ですが、駅に降り立ち一際目を引くのは全日空ホテルの高層ビルです。白亜のビルは海と空の青に程よくマッチし、まるで別世界のようです。かつては宇高連絡船の発着港として四国の玄関口だった港周辺も、瀬戸大橋の開通などもあって少しずつ変化発展しているようです。

 帰りの特急いしづちは、これまで四国では見たことも乗ったこともないようなウッド調の列車でとても美しいもので松山までの2時間30分がとても快適でした。

(素敵なウッド調の特急いしづちの客車内部)

 小豆島には合併して出来た小豆島町という町があります。土庄町は合併しなかったため名前を奪われた格好でした。高知県に四万十市、四万十町、同じように島根県に隠岐島町というのがあるようですが、どこか錯覚したりするような名前が全国には随分多くなりました。特に小豆島町とは小豆島を代表するような地名だけに、合併しなかった土庄町の困惑も垣間見た気がしました。

 でも何度来ても小豆島は又来たいと思わせる不思議な魅力を持っています。今度必ずと心に誓いました。

  「二十四か 子どもの頃に 涙して 映画見たこと 思い出しつつ」

  「ギネス載る 海峡上に 橋がある 広さ別格 これもギネスか」

  「久しぶり 列車に乗って 高松へ うどん食いたし うどんも食えず」

  「小豆島 名付けた町は 別にある どこがどこだか 一向分らず」

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shin-1さんの日記

○いやあ、驚きました

(すっかり様変わりした高松駅前のサンポート高松)

 「若松さんではありあせんか」。小豆島へ向けて出港を待つ高松市のサンポート高松での出来事でした。いきなり50歳がらみの素敵な女性が話しかけてきたのです。「はいそうですが」と怪訝そうに対応する私に、「やっぱりそうでしたか。列車の中でそうではないかと思っていたので」と話しをつなぎ、矢継ぎ早な談話が始まりました。そしてその輪は女性のご主人と連れの外国人夫妻を巻き込んで賑やかな話に広がって、船が出港してから小豆島に到着するまで延々と続いたのです。

 八幡浜で私の講演を聞いたこと、夕日によるまちづくりやシーサイド公園を造って双海町を有名にしたこと、海岸の政争を0年余りに渡ってやったこと、植えてはいけないと渋るJRに対抗してポケットから菜の花の種を落として花を咲かせたことなどなど、驚く事に、まるで今話した話を録音テープで再生したように、その女性は私の講演内容を覚えているのです。「あっ、思い出した。私も何年か前、商工会青年部の講演会であなたの話を聞きました。あの時もその木になるカバンを持っていましたよねえ」とご主人も私の思い出の糸にたどり着いたようでした。

 ご主人は青年海外協力隊のメンバーとしてシリアで2年間過ごしたらしく、堪能な語学力で連れの外国人夫妻と、私の事を盛んに紹介しているようですが、残念ながら時々単語が分る程度で理解不能でした。女性は時折電子辞書を使いながら、話の中に輪って入り盛んに私と3人の橋渡しをしてくれました。

 聞けばこの外国人は既にリタイヤしてカナダに住みながら世界中を旅してボランティア活動をしているとのこと、外国人の奥さんは話をしている間も趣味の編み物の手を休めることなく編み続けていました。聞けばご主人の靴下も編んだそうで、その素晴らしい出来に目を見張りました。

 私は通訳してくれた女性と、同行していた外国人夫妻を引き合いに出しながら様々な話をしました。日本人と外国人の生き方の比較、団塊の世代といわれる日本人のリタイア後の生き方、ボランティアに対する考え方の違い、日本の文化に対する価値観のお粗末さなど、素晴らしい考えに圧倒されながら意見を交わしましたが、その殆どは私が日頃考えている私の考えそのものであり、深い共感を得たのです。

 私は4人に似顔絵の名刺をそれぞれ渡し、船着場で手を振ってお別れしました。何でも彼女たちは外国人の要望で、小豆島の高齢者施設を見学に行く途中のようでした。帰りの船が一緒になる事を期待したものの、私の帰りの船が一便早まり出会うことはありませんでしたが、旅先で出会った女性との出会いは私の昨日の旅をとても有意義なものにしてくれました。あいにく名刺を持ち合わせていなかった相手の女性は山本さんというとても品のある、それでいてしっかりとした考えを持っている女性でした。旅先で出会ったほんの一瞬の出来事でしたが、帰る船の中や、特急いしづちの流れては消える車窓の景色の中に彼女の顔がちらつきました。松山まで迎えに来てくれた妻にその女性の話しをしましたが、「やっぱりね」と、その女性の住んでいる所が八幡浜と説明しただけで、八幡浜出身の妻は自分とダブらせて話しをしてくれました。

 小さな町の名もなきに等しい私の話しをこうも鮮明に覚えていてくれる人は少ないと思いつつ、日々の暮しの中でこれからも話しに行くであろう講演を、ただ疎かにしてはいけないと深く肝に銘じたのです。揺り篭から墓場までといつも笑って話すように、幼児教育から高齢者まで、私に与えられるお座敷は年間百回を越えるほど沢山ありますが、私の話に共鳴したり、生きる勇気を与えてくれたと述懐してくれる度に、身の引き締まる思いがするのです。今日もこれから県立中央青年の家で愛媛県青年研究大会があり、講演を依頼されていますが、しっかりと話しをしたいと思っています。

  「若松さん? 船を待つ身の 旅先で 素敵な女性 いきなり声を」

  「肩書きが 巾を利かせる 日本人 リタイアしたら 何の役にも」

  「まだまだと 修行が足りぬ 自分恥じ 心新たに 挑戦はじめ」

  「残像が 消えては浮かぶ 汽車の窓 それ程強い インパクト受け」

  

 

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shin-1さんの日記

○赤トンボの小道具

 このところ落伍家「夕日亭大根心」という芸名で高座に上がって落語ならぬ落伍をやっていますが、よく使う小道具は竹で作ったトンボのおもちゃとハーモニカです。特に赤トンボは埼玉県熊谷市に住む龍前宏さんが送ってくれた向田邦子さんのテープを聞いてから思いついたお話です。向田邦子さんはよく外国へ旅行をしたそうです。発展途上国へ行くと子どもが観光地で物売りをしている姿をよく見かけるのだそうですが、子どもの生き生きとした姿に感動したそうです。私もかつて訪ねたメキシコでそんな光景を目の当たりにしたことを思い出しながら彼女の講演テープを聞いていました。

 ある国に行くと子供たちは到着した観光バスに群がって物売りをするのですが、その観光客が何処の国の人なのか言葉や顔つきで瞬時に見分ける事に驚いたと述懐していました。日本人だと思うと女性観光客には「美人さん」、男性観光客には「ヤンマー」と口々に叫びながら、日本人の心理を掴んで物を売る姿は実に逞しいものです。どうやら日本人女性は「美人」という言葉に弱いし、「美人」に憧れているというのです。

 この話を聞いてとっさに考え付いたのが、渥美清演じる「フーテンの寅さん」でした。寅さんは旅の行く先々で恋をして、啖呵をきりながら大道商売を続けるのですが、それもヒントにして赤トンボの何とも奇妙な動きを落伍に取り入れたのです。

 この赤トンボは私が教育長時代、教育委員会の職員の力を借りて大量生産し管内同和教育大会で参加者の度肝を抜いた経歴のある曰く因縁のある手作りおもちゃです。私は当時の窪田中学校長さんからご指導を受け少し手伝っただけでしたが、その時の赤トンボが5つほど手元にあったので、それを世に出したいとも考えているのです。まあそんなトンボですから落伍に使うのは知恵がいると思いながら、向田邦子―フーテンと寅さん―落伍家夕日亭大根心とつないで高座の友となりました。

 「さてお立会い、今日お集まりの皆さんの中で美人になりたいという女性は手を挙げてください。はいじゃあ今度は私は美人であると自認している女性は手を挙げてください。おっ、いましたね。自分で言っているほどは若くも美しくもないのに、美人だと自認している、あんたは凄く偉い人です。(笑い)さて、美人と自認するあなた、誠に恐れ入りますがちょっと前に出て来てください。実は今日私は美人測定トンボというのを4匹連れてまいりました。ここに取り出したる4匹の赤トンボは別名美人測定トンボというのです。一匹目は普通美人測定トンボ、二匹目は中美人測定トンボ、三匹目は上美人測定トンボ、四匹目は超美人測定トンボです。先日も藤原のりかという美人を相手にテストをしましたが、4匹とも留まり見事超美人の称号を獲得したのです。さてお立会い、まず左手の人差し指を出してください。おっ、普通美人測定トンボは見事留まりました。さて左手の小指の思い出を出してください。はーい、これも見事クリアーです。さてこれからが難しい、愛媛県ではまだ三匹目のトンボが留まった人はいませんが、うーん凄いですこれもクリアです。さて超美人測定トンボが留まればあなたは愛媛県一の超美人というお墨付きをいただいて、記者会見となるのです。わー凄い、そこのカメラを持ったお兄さん、世紀の一瞬です、明日の記者会見の証拠写真として記念に一枚撮ってあげてください。(大笑い)」

 まあこんな筋書きで話す予定なのですが、まだまだ未熟な小話で、会場を笑いの渦に巻き込むことはできません。いずれ真打にでも昇進する時期がくればもっと赤トンボの小道具は生き生きとすることでしょう。向田邦子さん、渥美清さん、ネタの提供有難うございました。

  「あら不思議 指先留まった 赤トンボ 美人願望 女性誰でも」

  「寅さんの 啖呵を学ぶ つれづれに 人の心理の 難しことか」

  「ちょっとした コツでほのぼの 大爆笑 笑いはいいね 元気の基だ」  

  「小道具を 使って話す 落伍家も 顔は悪いが 目だけは自慢」

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shin-1さんの日記

○ほどほどな出会い

 私には沢山の知人友人がいます。その中には一週間に二度も三度も出会うような人もいれば、半年ぶりというような人もいます。また年賀状を出してもあて先に届かず音信不通で帰って来る気になる人もいてまちまちですが、それらを含めて63年間の人生を生きて得た知人友人だけにこれからも大切にしたいと思っています。

 2~3日前、わが家に帰って玄関の戸を開けると、何やら白いビニール袋が置かれていました。おっつけ仕事から帰った妻に聞くと、「長浜の菊池邦求さんが自分で作ったお米なので食べてください」と、わざわざ持参してくれたそうです。菊池さんとはかつて公民館主事をしていた頃、県公民館連絡協議会の主事部会で役員をやり今も肝胆相照らす中なのですが、その後の職場がお互い違ったために多少遠のいてました。私も彼もリタイアして少し自由になったこともあって、最近は電話や先日のえひめ地域づくり研究会議年次フォーラムで再開し、見事音信が復活したのです。世の中には生き方が似ている人がいるといわれていますが、菊池さんも鏡に写せば私とよく似た人生なのです。

 青年団活動を経て社会教育の世界に入ったり、公民館主事集団「煙仲間」を組織したり、いい公民館活動をやったことなどは完璧に一致です。最も彼と似ているのは「NHK青年の主張」という今では神話になった主張大会の私が第十四回県代表、確か菊池さんは第十五回の県代表だと記憶しています。菊池さんはもの書きが得意で彼の論文は全国でも高い評価を得て、私に相当な刺激を与えてくれました。その後私の論文も海外派遣30周年記念論文が総務大臣賞を受賞したりしたのも、彼の影響と思っています。リタイア後の今は民生委員などをして社会活動をしていますが、菊池さんと出会うと何時間でも話したい心境になるのです。

 もう一人、何となく気になる人がいます。松山に住む玉井恭介さんです。玉井さんは海難事故で有名になったわが母校、愛媛県立宇和島水産高等学校の先輩です。早朝ミーティングでひょんなことから知り合い、広告会社に勤めていた頃私の自著本「昇る夕日でまちづくり」や21世紀えひめニューフロンティアグループの「今やれる青春」という本の出版を手伝ってもらいました。その後リタイアしたものの、砥部町の坪内家再生や高齢者福祉などで再三再四知り合い、先輩後輩ではない人間的なお付き合いを続けているのです。玉井さんは詩や絵が堪能で、司馬遼太郎に傾注していてよくその手の手紙が届きます。コーラスなどもやる、私流にいわせると風流な人なのです。「考える村村長」「今日閑人」などの肩書きを平気で使い分ける玉井さんから昨日、長い長い電話がかかってきました。彼が今夢中になっているのは放任園のミカンだそうで、私の友人の料理人真鍋さんに頼んでミカンドレッシングを作っているそうです。まあこんな具合で楽しくも何処か気になる変なオジサンなのです。

 今日は香川県小豆島へ講演に行くため朝4時前に起床し、パソコンに向いネットを開きメールの返信をし終えて、ブログを書き始めました。さて何を書こうかと思いながら手と頭がついつい二人の顔にたどり着いたのです。

ブログに人の名前を書くのは個人情報のこともあるので慎重にと思いつつ、平気で知人友人の名前を書いてしまう悪い癖は今も健在のようで困ったものです。知人友人の皆さんお許し下さい。

 さて私は今夜の帰りが遅くなるのでもう一本ブログを書こうと心に決めて朝早起きたので、この辺で菊池さん、玉井さんの話は続編ありということで終わります。

  「あの人は どうしているか 顔思う 俺のことなど 忘れていように」

  「米届き 炊きたてご飯 卵かけ 昔馳走の 思い出語る」

  「今日閑人 何とも素敵 ペンネーム 電話の向こう 楽しお話」

  「気になりつ ついつい疎遠 なりにけり 友を訪ねし 旅に出たいね」

 



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shin-1さんの日記

○メジロの啄ばみ

 裏庭にかなり大きなサザンカの木があります。剪定も親父がして大事に育てていますが、もうそろそろ山茶花の花も終りを告げて、赤い花びらを地面に落としています。このところの寒波襲来で周りに餌がなくなったせいもあるのでしょが、メジロが数羽山茶花の蜜を吸いにやって来て、小枝のすき間で戯れています。

 数日前にやって来た孫が私の書斎からこの様子を見て、「おじいちゃんあの鳥は何という鳥」と聞くのです。「目の周りが白いからメジロだ」というと、「このメジロに餌をやりたい」というのです。私は孫と一緒に台所へ行ってミカンを輪切りにして割り箸に突き刺し、孫と一緒に裏庭に出てシノブのからまった庭石に突き刺しました。警戒心の強い野鳥にとって人間は敵と思うのか、しばらく観察していたけれど一向に食べる気配はなく、孫は諦めて別の部屋に行ってしまいました。私も忙しさにかまけてすっかりその事を忘れていましたが、今朝書斎から見える庭石を見ると、いつの間にか孫と二人で突き刺していたミカンは無残なほどの食い散らかしようで、殆ど食べ尽くされているのです。

 その事に気付いた私は孫とやったと同じようにミカンを輪切りにして、再びメジロの餌場を作りました。今度は場所を少し移動して、書斎から丸見えの部分に置いたので少し時間がかかるかも知れませんが、やがて食べてくれることでしょう。

 孫の家では娘が毎日私のブログを読んでいるので、孫ににもこのことは今日のうちに伝わるかも知れないと思い、これから注意深くバードウォッチングを続けたいと思っています。そのため警戒心の強いメジロを意識して、書斎の吐き出し窓に白いカーテンを引いて、メジロに私の存在が見えないようにしてみました。

 虫が嫌い、鳥が嫌いだった5歳の孫も見違えるように成長し、今では親が心配するほど野性的な子どもに育ち、わが家へ来るとやれドングリを植えて芽を出させるだとか、虫を捕まえに行こうとか、盛んに私を誘うまでになりました。週末は孫の来訪を心待ちにする眉毛8時20分のおじいちゃんに変身している今日この頃です。

 最近はわが家に来ても外が寒いため、風邪を引かせては大変と部屋の中で遊ぶことが多くなりました。子どもは風の子と昔から言われているように子どもはやっぱり戸外で遊びたいようです。仕方がないので妻が取っておいた菓子箱などを利用して、ガムテープをふんだんに使い、様々な遊び道具を作っています。ダンボールアートとでも言うのでしょうか、先日はせがまれてロケットを2基製作しました。孫にとっておじいちゃんは何でも作ってくれる天才博士のような存在で、今度来る時はロボットを作る約束をして帰って行きました。

 お金で買えばなんでもすむ時代です。ましてやトイザラスなどのようなおもちゃ専門のお店もあって、子どもたちの目はそチラに向いてしまいがちですが、創作遊びを与えることも周りの大人の役割かも知れません。いい子、逞しい子に育って欲しいものです。

  「裏庭に 小鳥の餌にと ミカン置く 孫の優しさ 小鳥啄ばむ」

  「あの鳥は 何いう名か 孫が聞く お目々白くて メジロというの」

  「ロケットを 二つ作って 嬉しそう じいちゃん博士? そうだ博士だ」

  「ほら来たよ 口に手をあて 静々と メジロ指差す 爺と孫と」  

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shin-1さんの日記

○人を動かすには

 私はこれまで請われるまま様々な役職に赴いてきました。2年半前に合併による退職で殆ど全ての役職を退任して身軽になっていましたが、その後の継続した活動によっていつの間にか沢山の公職が復活し始めました。えひめ地域づくり研究会議の代表運営委員や21世紀えひめニューフロンティアグループ代表などに加え、来年度、つまり今年の11月14日と15日の二日間愛媛県で行われる予定の全国地域づくり団体交流大会の実行委員長も仰せつかって、事の重大さを認識しているこのごろです。

 「人を動かす」というおこがましい気持ちではなく、「人に動いてもらう」ためにはどうしたら良いか、これまでもこれからも考えなければならない私に課せられた大きなテーマなのですが、その基本は「人を動かすには耳を働かせ、人に好かれるには口を動かせ」という、昔の人の話しを信じて日々活動しています。

 「耳を働かせる」とは相手たる人に話しをさせ、その話しをしっかり聞くことです。人は多かれ少なかれ自分の意見を持っています。ところが普通の人はその場の雰囲気に飲み込まれて、自分の思っている事を中々口に出していえないものなのです。そんな折、相手の立場になってやんわり心の扉を開けてあげると、ポツポツながら話し始めるのです。コーディネーターとかファシリテーターなどという横文字の言葉が流行っているようですが、その本当の意味さえも分らない人からいきなり発言を求められた場合は、私だってドキドキする?のですから初心者は当然のことです。人間は不思議な事に「話せ」といったら話さないのに、「話すな」といったら話したがるものなのです。話したいけど話さなかった不完全燃焼は、会議が終わった後のプライベートな時になると、「私も言おうとしたのだがあの場の雰囲気では」と堰を切ったようにうっぷんを話すのです、そんな相手の心を推し量って発言させる妙技はやはりなれる訓練をする以外ないようです。

 私は根がおっちょこちょいだし、人のように周到な準備をするでもなく事を始めるアドリブ人間なので、その場の雰囲気を読み取って人の話しを聴くよう心がけていますが、やはり人を動かすには人の意見をしっかり聞くことこそ涵養なのです。

 人を動かすためにもう一つ大事なことは「人に好かれる」ことです。そのためには「口を動かす」ことも欠かせない大事なことです。人に会ったり電話をしたり、今の時代ですからメールのやり取りするのも人間関係を保つ上で大事なことなのです。私はデジタル万能な時代に生きていながら実はアナログ人間の典型で、未だに毎日三枚のハガキを書き綴り全国へ送り続けています。希少価値という点ではアナログなハガキは効果抜群で、ハガキのお陰で随分得をしています。見栄やおべんちゃらで人の気をそそり、好かれようとしてもそれは所詮メッキのようなもので、どこかで辻褄が合わなくなって、むしろ自分の価値を下げることが多いようです。結局「自分の値打ちは自分で決めるものではなく、人が決めるもの」である事をしっかり肝に銘じるべきだと思うのです。

 「人に好かれる」ためには「相手の立場に立って考える」ことも見逃してはなりません。これも口で言うのは簡単ですが、相手を知るためには様々な努力が必要でしょう。その一番の近道はパートナーから始めることです。私にも世間並みに妻がいます。私が世界中で一番良く知ってるのは妻のはずですが、いつも一緒だと悪い処ばかりが目に付いてしょっちゅう喧嘩もします。でもちょっとした思いやりを持って妻を見てみると、意外と他の女性にはないいいものが沢山見えてきます。私は妻との関係を実験台?にしながら、知人友人との関係を「人に好かれる」よう努力をしています。そんな相手をいたわる年齢になったせいもあるのでしょうが、お陰様「口を動かす」ことによっていい人間関係の中で日々の暮しをしています。幸せです。

  「耳二つ 口は一つか ないけれど 使い次第で 動いて好かれ」

  「話し聞く ただそれだけで 納得す そこから始まる 人の関係」

  「好かれたい 人を好いたら 直ぐ出来る こんな単純 計算どおり」

  「年金を 分けて離婚が 増えている 一足す一が 一引く一に」 

 

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