shin-1さんの日記

○今日は海を渡って海外旅行?

 私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議では年に1回修学旅行のような研修を行って、県外の方々と交流を深めています。そもそものきっかけは西瀬戸交流事業や豊予海峡交流事業などの助成事業があって、それに便乗すれば安上がりな交流が出来ると悪乗りしたのです。でも結果的にはこの事業を通して島根県、山口県、福岡県、大分県と領域を広げて深い交流になったのですから嬉しい限りです。

 豊予海峡圏地域づくり交流事業と銘打った今回の目的地は大分県臼杵・佐伯です。大分といえば由布院や黒川温泉が地域づくりの先進事例として注目を集め、大分県の南部に位置する臼杵や佐伯は高速道路の遅れからどちらかというと私たちの視界の外にありましたが、今回の研修を通じてむしろこれからは臼杵や佐伯が面白いと再認識しました。

(大時化の豊予海峡)
(大型豪華客船フェリー)

(船内のエントランスホールはまるでホテルのようです)

 今回の研修には年度末の早朝出発にもかかわらず12名が参加をしました。それぞれの地域から八幡浜に集結し、突風吹き荒れる豊予海峡をフェリーで渡りました。昨年渡った三崎~佐賀関ルートは強風高波のため欠航と聞き、強運を喜びましたが、大型フェリーといいながら豊予海峡は大荒れで外洋性の強い場所では少しの間揺れましたが、全員船酔いもなく無事臼杵の港に到着しました。丁度10日前に宮崎へ行く途中夜間ながら立ち寄った場所なので何処か馴れた感じがしました。

(一番最初に目についた図書館前の広場から見える臼杵城跡)

 午前中は臼杵市立図書館で開かれている第5回まちづくりセミナーに参加しました。臼杵には臼杵歴史景観を守る会、臼杵デザイン会議、臼杵伝統建築研究会、うすき竹宵、臼杵ツーリズム研究会、ふるさと風の映画学校実行委員会などが活動しており、佐賀大学準教授の三島先生の司会で議論が行われている最中でした。

(門構えの立派な市立図書館)

(全国建築士連合会まちづくりセミナー)
 その後ポルト蔵という蔵を利用したレストランで食事をとった後臼杵歴史景観を守る会斉藤会長さんたちの案内で講義を聞きながらまち歩きしました。何年か前に来た時とは随分違ったまちづくりの姿に感嘆しながら、関わって来られた人々の思いと苦労を垣間見ました。

(お昼ご飯に出されたポルト蔵の料理は郷土色豊でした)

 カメラ散歩をしてみました。

(最初に見学した古民家、庭の金木犀の古木や裏庭の石垣にに目を見張りました)
(コンクリートもこのように木で隠せば町並みや景観にマッチする工夫を凝らした一品です)
(高台の民家から見える臼杵の町並み)
(古民家を再生した事例見学、中二階に改造して素敵でした)
(私の理想とする書斎がありました。学校の先生らしく道具類に凝っていました。窓越しの風景も見事でした)
(熱っぽく語る斉藤さんの話に苦労を垣間見ました)
(蔵を利用した紙雛の展示、趣きがあります)

 臼杵の町は城下町だけあって商家も多く、奥行きの深い趣きを堪能させてもらいました。今度はゆっくり独り歩きをしたいものです。

  「そこここに 苦労の跡を 垣間見る 誰か動かば 町は残らず」

  「友人の 紹介あれば こそ見える そこここ訪ね 感嘆しきり」

  「今もなお 消え行く運命 引き戻し 必死に生きる 人たちありて」

  「蔵の中 先人たちが 生きてきた 暮しの重み 空気で感じ」

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shin-1さんの日記

○祝電

 結婚式の司会を537組もしてる私は、その都度結婚する人に送られてくる気の遠くなるような数の祝電を、偉い順により出して列席者の前で紹介したものです。ですから祝電と名の付くものはそんなに深い意味もなく感じていました。私自身が祝電や弔電を打ったのはもう何年も前の出来事で、いつ誰に打ったかさえも覚えていないのです。ところがこの1週間、私の元へ祝電が舞い込み始めました。最初は「これって間違いじゃないの?」と思ったほどです。というのも同じ町内にする人に私と同姓同名の人がいるのです。その人は私の従兄弟なのですが「若松新一」と書いて「わかまつしんかず」と呼ぶのです。知らない人は「若松進一」の間違いだと勝手に思い込んだり、「若松新一=若松進一」と思ったりで、特に年賀状や宅配便が誤配達されて困ったことが何度かありました。もっとも良く間違えられるのは若松新一さんの方で、しょっちゅうだそうです。

 私への祝電は今日までで8通となりました。県会議長さんや県会議員さん、生協の理事長さん、農協の組合長さん、個人など肩書きは様々ですが有難く拝受しました。本来なら御礼の電話をかけなければならないのでしょうが、少し落ち着いたらお礼のハガキでも書こうと思っている次第です。

 私に祝電をいただいたのは、前にもブログに書いた県政発足記念日の表彰なのです。県民でありながらそのことすら知らなかったのですから恥かしい話です。愛媛新聞に載った記事によると、愛媛県は1873年2月20日に太政官布告で発足、百年目の1973年に2月20日を県政記念日にしたそうです。表彰は教育文化、地方自治、生活環境、社会福祉、保健衛生、商工労働観光、農林水産、建設、伝統芸能の部門別に5人程度が選ばれていました。どういう訳か私は生活環境部門で、まちづくりやコミュニティだと表彰状に書いてありました。

 それにしても私の受賞をこんなにも祝福してくれる人がいるなんて、そのことの方が感激です。お祝いの電話やメールをあわせると数限りないほどで、今一度その重みを噛みしめました。

 祝電が届いて驚いたのは私だけではありません。在宅時に受け取った妻は「あなたにこんなに祝電をいただくなんて」と目をパチクリさせていました。

 メール万能な時代になって祝電が色あせた感じがしますが、それでも郵便局員さんが一つ一つ丁寧に家まで運んでくれる電報はまた違った味があります。良く昔の映画に出てくる「ハハキトクスグカエレ」などとカタカナで書いた電報を読むシーンは、やはり臨場感溢れるものなのです。

 私は愛媛県立宇和島水産高校の卒業生です。初代の実習船愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海をしましたが、正月を洋上で迎えるため、「遥か南十字星輝く洋上からハッピーニューイヤー」などと、格好をつけて無線局長さんにお願いしモールス信号で打電電報を打ったことが懐かしく思い出されました。受け取った友人や家族は一応に驚き、友人は大切な宝物として保管してくれていたのを、先日見せてもらいました。

 人の思いのこもった祝電はもう貰うことはないでしょう。ですから私の友人と同じようにいただいた祝電を大切に保管して宝物にしたいと思いました。

  「えっ俺に 何で祝電? くれるのか 最初驚き 今も驚き」

  「祝電は 人のものだと 思ってた いただく人の 顔が浮かんで」

  「新聞は 偉いもんだね そこここで 私の活字 拾い読みして」

  「もう二度と 表彰などは あるまいと 思ってただけに 驚きました」  

  


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shin-1さんの日記

○菜の花が咲きました

 昨日は人間牧場へ行った帰りに、余りの美しさに見とれて閏住の菜の花畑へ立ち寄りました。昨日あたりからまだ寒いものの少し外気温度が和らいで、春の兆しを感じるようになりました。そのせいでしょうか家族連れや夫婦連れ、友だち連れなどがひっきりなしに菜の花畑へやって来て花見を楽しんでいるようです。

 菜の花畑の近くに小さな「くじら」というお店があります。じつはこのお店は私の妹のお店なのです。「瞬きすると通り過ぎてしまう」と笑い話のネタにしてる小さな店は妹みゆきと妹の同級生の通称「チーちゃん」という中年の可愛い?女性二人で営業しています。開業してもう10年近くになるのですが、赤字で首が回らないこともなく、大儲けをするでもなく細々とやっています。


 私は人間牧場へ行く度このお店に立ち寄っては取り留めのない四方山話に花を咲かせるのです。時にはシーサイド公園で商売をした経験を話してやったりしますが、やはり兄弟姉妹はいいもので、私の話にメモを取ったりしながら熱心に話しを聞いてくれるのです。

 妹の話によると今年の冬はことの他寒く、水仙も菜の花も遅れ気味で、客の動きがいまいちだというのです。このお店のように、車の通行や花の咲き具合、それに土日の天候に左右される所は自分達の努力だけではいかんともし難たい幾つもの外部要件が有るようです。

 国の発表によると景気は史上最も長い好景気だといっていますが、地方の景気などはそれとはまったく正反対で、公共事業の減少がもろに響き、市町村合併が追い討ちをかけて地域を疲弊させているのです。私たちの町でも10社を上回っていた土木業者も合い次いで倒産し、下灘地区にあった4社は全て倒産の憂き目に合いましたし、農林漁業も先行きが見えてこず、原油の高騰でハウスみかんを断念する農家、漁船で出漁しても重油が高く引き合いにならない漁家など、水面下では様々な苦悩が漂っているのです。

 早いもので合併して間もなく3年が過ぎようとしています。少子化で学校の統合など地域社会が縮小傾向にある中で、高齢化を反映して高齢者施設だけは拡大の傾向にあります。何がどうなっているのか、何がどうなろうとしているのか、混沌とした時代の中で行政サービスは次第に遠のいていると実感しつつも、税金などは相変わらず高いと実感しています。

 それでも、私たちが始めた菜の花がもう20年近くもこうして地域の人の熱意で咲き続け、多くの人が訪れてくれ、いささかなりとも地域のイメージアップや経済の活性化に役立っているのですから素直に喜ぶべきでしょう。菜の花は他の花に比べどちらかというと手間のかからない花です。植える前の草刈りや野焼きは大変ですが、その後は雑草取りもなく約100日間咲き続けるのです。私も長い間花作りに関わってきましたが、これほど人をひきつける優秀な花は見たことも聞いたこともありません。ましてや早春の春待ち花として人々の心に温かい希望を与えてくれるのです。

 妹のお店はコバンザメ商法で菜の花に随分助けられています。この菜の花に感謝しながらせめて笑顔の花を沢山咲かせて共存共栄の道を進んで欲しいと願っています。

  「妹の お店の近く 咲く花は 菜の花ですよ いやコバンザメ」

  「東京じゃ 景気がいいと いうけれど 地方じゃ逆で 不景気風吹く」

  「菜の花に 負けないだけの 笑顔売れ 妹いつも 笑顔絶やさず」

  「チーちゃんの 笑顔看板 小さ店 寄る度元気 貰って帰る」 

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shin-1さんの日記

○心友・深友・信友・そして親友

 私には色々な友人がいますが、中でも今日の見出しに掲げたような心の友(心友)、深い絆の友(深友)、信じあえる友(信友)など、変換ミスではないかと思える程幾つかの表現をしても足りないほどの親友が、人間牧場へやってきました。

今日は天気も良く、夕方から所用で出かける以外はさした用事もないので、思い切って人間牧場へ農作業に出かけました。妻に弁当を頼んだのですがあいにく今日はお大師様のお接待日なので昼でないと赤飯が間に合わず、ご飯も玄米のため弁当には不向きとのことで、買い置きのパンを2個とお茶、それに果物を袋に詰めてもらい田舎のオープンカーに乗って9キロの道程を走りました。機能までの寒さや風も治まって、今日は絶好の日和で気温も久しぶりに10度近くまで上がったようで、日向はポカポカ陽気です。

 こんな日は決まって外出先へ電話が入るので、予定表と携帯電話は欠かすことが出来ないと思い持参したのは良かったのですが、次から次へと電話がかかりその都度草刈機を止めねばならず、作業にならないため、草刈り作業を諦めて梅畑の草削りをする事にしました。一番下の畑はそんなに広い場所ではないのですが、地堀鍬で草の根元を掘り起こしたり、苦汁菜の根株を沢山掘り起こし作業が随分はかどりました。

 昼になった頃隣町の旧友菊地さんから電話が入り「病院へ定期健診に行ったが早く終わったので人間牧場を訪ねたい」というのです。約束を下灘コミュニティセンターまえ13時20分と設定し、菊地さんを迎えるまでの間、寸暇を惜しんで周辺のカズラを剪定ばさみで着る作業をしました。

(ダンディな親友菊地邦求さん)

 やがて菊地さんは時間通りに現れ、私の車で下浜からの狭い道を登りました。そして人間牧場の施設を案内しながら色々な話に花が咲きました。菊地さんとは青年時代から深いご縁があって、青年団・公民館など様々な分野で若い頃から付き合ってきた間柄なのです。青年団長も、NHK青年の主張県代表も同じような道を辿り公民館では愛媛県公民館連絡協議会の主事部会の正副部会長としてしのぎを削りました。特に公民館主事時代は「煙仲間」という主事集団を発足させてお互い自分の生涯を公民館活動に捧げたいと、夢を語り合ったものです。その後お互いが職場異動して出会う機会は少なくなりましたが、いつしかつかず離れずお互いがお互いを心配しあう使い間柄になっていました。私は3年前、彼は一年前にリタイアし、再び出会いの場が広がって、今年に入るとシンポジウムなどで盛んに出会うようになって、旧交を温めているのです。私も菊地さんも中途採用で出世とは無縁の世界で生きてきたため、よく上司とひと悶着をやりました。それは仕事に命を掛けた人間のやむにやまれぬ行動だったと、今でもその当時の行動を誇りに思うのです。

 お互い夜を徹して酒を飲みながら夢を語ったものです。お互い当時を振り返ってもよく仕事をしたと思うほど理想に燃えて仕事をしました。またそれゆえに成果も上げたと自負しています。お陰で体調を崩し今では二人とも酒に縁のない暮しを余儀なくされていますが、もし酒でも飲めたらどんなにか武勇伝を語るのにと悔しい気もしますがまあ済んだこととして諦めなければなりません。

 これからの生き方について少し意見を戦わせました。昔のような対立した意見より同感同感と相槌を打つ話が多かったのですが、これからは自分が理想とした夢の実現に向けてお互いいい人生を送りたいものです。菊地さん叉出会いましょう。

  「あの頃は いいつつ話 花が咲く 過ぎてしまえば いいことばかり」

  「いつの間に 俺たち初老 仲間入り 白髪が目立つ 目線の頭」

  「お互いに 酒を飲めない 半端者 素面で話す まともな話」

  「親友を 漢字で書くと 変換の ミスだと言われ 駄洒落通じず」 

 

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shin-1さんの日記

○二人の青年

 昨日の夕方人間牧場に松下政経塾の塾生である青年二人がやって来ました。一人はもうご存知の希望の島フォーラムを企画した兼頭さんですが、もう一人は島根県横田出身の塔村俊介さんです。兼頭さんと出会ってからもう一年余りが過ぎましたが、彼に出会ってからやたらと松下政経塾が気になり始め、松下政経塾生や卒業生によく出会うようになりました。例えばよく出会う新居浜出身の衆議院議員小野晋也さんは松下政経塾の第1期生で、政治家としても頑張っていますがむしろ思想家として多くのことを学ばせてもらっています。先日上島町弓削島で開催した希望の島フォーラムで貰った松下政経塾のパンフレットに次のような紹介文が載っていました。

 人間を磨き志を磨く道場といわれる松下政経塾は、松下電器産業の創業者である塾主松下幸之助が、自らの経験と直感から、数十年前に、「日本は益々混迷の度を深めていく」と今日の日本の危機的状況を予見し、この難局を打開するためには「新しい国家経営を推進していく指導者の育成が何としても必要であると思い、私財70億を投じ、1979年財団法人松下政経塾を設立しています。

 塾生は全寮制で、寝食をともにしながら3年間研修を行なうものの常勤の講師はいなく、理想の国家経営はどうあるべきか各自仮説を立て現場の体験を積み重ねながら自得してゆく、「自習自得」「現地現場」「切磋琢磨」などを研修の基本方針としています。そして卒塾後は理想の実現に向け自らの道を切り開いて行こうとしています。

 自習自得、現地現場、切磋琢磨の他にも、徳知体三位一体や万差億別という研修方針があるようです。徳知体三位一体とは「時代を牽引する指導者にはパラダイムや哲学を構築できる感性、深い洞察力、歴史的かつ世界的視野が必要であり、同時に力強く健全な肉体も必要である。しかし全ての前提となるものは、真に人々の幸せを願い、行動できる人間性である。よって政経塾では徳育に重点を置き、知育、体育を三位一体で進めていく」といっています。

 また万差億別では「人間は一人ひとり違った顔を持ち、違った天分を持っている。いってみれば千差万別、さらには万差億別の存在だ。そしてその天分を生かし発展させることこそが、人間の幸福と成功につながるはずだ」と述べています。

 兼頭さんはコミュニティビジネスを目指し、塔村さんは政治を目指しているそうですが、いずれの若者も未来に向って希望の灯を掲げ研修していて、目の輝きは政経塾の目指す人間と志を磨く道場であることを実感しました。その二人が人間牧場にやって来たのですからこれ以上の場所はないと思いました。人は様々な場所で様々な志を磨くものです。人間牧場のウッドデッキに立って黄砂けむる海を眺めていると、私はまるで坂本龍馬になったような気持ちになるのです。政経塾を作った松下幸之助の思いも人間牧場を作った私もその根底に流れている思いは一緒だと思いました。私には残念ながら70億円の私財などあろうはずはなく月とスッポンほどの差がありますが、思いや志だけは負けないと思いました。

 始めて兼頭さんが人間牧場に訪ねてきてから早いもので早1年余りが過ぎました。その間兼頭さんには跡継ぎの息子も生まれ、彼ももうこの3月で卒塾です。知らない間に時代は流れているのです。

  「志 持った若者 二人して 牧場訪ね しばし談笑」

  「松下も 私も同じ心だが 札束もなし わが牧場は」

  「牧場の デッキに立ちて 海を見る 竜馬のような 心になりて」

  「この黄砂 はるばる海を 越えてきた 自然は偉大 人間愚か」



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shin-1さんの日記

○県政発足記念表彰に浴す

 数日前、県庁から一本の電話がかかってきました。何でも私を県政発足記念日に表彰するというのです。電話のことゆえ何で表彰を受けるのか詳しいことも分らず、受賞を承諾しました。一昨年金融広報の功労者として県知事表彰を受け、昨年は関奉仕財団から教育文化賞を受けており、相次ぐ表彰に戸惑いながらも、第一線は退いてはいるもののそろそろ二線から身を引く日が来たなと認識した次第です。それでも日ごろの忙しさにかまけて受賞の事などすっかり忘れていましたら、数日前から横田県議会議長さんや地元の泉県議さん、それに何かと目に掛けていただいている帽子県議さんからご丁重な祝電が舞い込み、また県庁の知事友人からお祝いのメールや電話が舞い込み、面映い感じがしていました。

(表彰の前のくつろいだ私、これらの写真は篠原係長が撮影してくれました)

 今年は妻も15年にわたって務めた民生児童委員を退任したため受賞し、ダブルでの受賞となりました。

 「お父さん、年齢的にもう最後の受賞だから背広のいいのを着て行きなさい」とクリーニングの出来た背広と息子が買ってくれた革靴を用意してくれました。「そんなことする必要はなく普段着でいい」といいながら、今日ばかりは妻の言いなりになろうと、ネクタイもワイシャツも妻の用意したものを全て着用し集合時間の10時に県民活動推進課へ出向きました。大森課長さんや担当の篠原係長さんが丁寧に対応していただきました。

(式辞を述べる加戸愛媛県知事)

 表彰は各分野5人くらいで40人余りが県庁3階正調の間に案内され、国歌斉唱の後加戸知事さんが式辞を述べ、各分野ごとに名前が呼ばれて前へ進み、分野の代表に表彰状が渡されました。私はまちづくりとコミュニティ部門での表彰で、そのことが詳しく表彰状に書き込まれていました。受賞者の中には私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた時、副会長をしていた藤井さんもいたり、また長男息子の勤める設計事務所の社長さんも建築関係で受賞者に名を連ねるなど、何人か知っている顔ぶれがいて声を掛け合いました。最後に祝電をいただいた横田県議会議長さんが祝辞を述べて式典は終了しました。

(代表が受賞を受ける席に並ぶ私)
(祝辞を述べる横田愛媛県議会議長さん)

 その後県庁本館前で記念写真の撮影がありました。顔見知りである松原写真館の大将が撮影するなど、和気藹々でした。妻が言うように年齢的にもう受賞など縁がないと思っていただけに、今回の受賞は素直に喜ぶべきかもしれませんが、受賞者を代表して謝辞を述べた井関さんの言葉を借りれば、「これを励みにこれからも県政の発展に尽くさなければならない」のだと、決意を新たにしなければならないのです。

(県庁本館前での記念写真撮影のスナップ)

 これまで、私がきっかけで貰った賞は双海町時代には大臣賞3回など多方面にわたっています。私自身も様々な栄誉に浴しましたが、観光カリスマ百選、地域活性化伝道師、地域産業おこしに燃える人などは、今もその冠のお陰で様々な分野での活動が尾を引いています。

 今日の受賞者の顔ぶれを見ると私はまだ若い方の部類でした。故にまだ残りの人生を人のために出来る幸せを追及して行きたいと決意を新たにしました。県庁を出る時、今までの寒さとは少し違った春の息吹を感じました。私ももう一度春のような気持ちになりたいものです。

  「えっ表彰 思いもかけぬ 受賞にて 戸惑いつつも 頭を垂れて」

  「表彰は 終りではなく 初めなり これを励みに 謝辞が聞こえる」

  「副賞は 砥部焼き白磁 壷ひとつ 割らさぬように そっと大事に」

  「ご馳走を 作って祝う 二人膳 心尽くしの 手料理並ぶ」

 


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shin-1さんの日記

○早起きの秘訣

 私はこの30年間殆ど毎日朝4時に起きる習慣が身についています。「えっ、そんなに朝早く起きて一体何をするの?」と言われそうですが、昔から「早起きは三文の得」といわれるように、朝型人間になると確かに三文どころか大きな得も徳も得ることが出来るのです。

 今の時代は夜型人間が多く夜は眠らないような社会です。たとえばコンビにですが、時折深夜や早朝に旅立つことがありますが、若者たちは深夜から早朝まで、パジャマ姿でウロウロと徘徊をしてコンビニなどでたむろしているのです。寒さの厳しい今頃はさすがにコンビニの外で話しこむ人は見当たりませんが、コンビには勿体ないと思うほど電気を煌々とつけて深夜族の来店を待っているのです。

 最近はスパーも12時まで営業している所が増えて、閉店間際の割引を当て込んだ主婦が大きな買い物袋に一杯詰め込んでスーパーから出てくる姿をよく見かけますが、「夜に買い物するなんて」とふと疑問を持つ私は賞味期限の切れた古い人間なのでしょうか。

 私はスーパーもコンビにも10時で閉店することを提唱したいと思う人間です。そんなルールを作ればみんな昼や夕方買い物に行くようになるし、第一CO2などと環境問題を論じるなら夜はすべて電気を消して眠るくらいの提案があってもいいのではないかと思うのです。

 早起きの秘訣、それは簡単なことで「早く寝る」ことです。普通は12時少し前床について寝るのですが、昨晩は香川県への長旅で疲れていて久しぶりに10時に寝ました。人間の体内時計のリズムはそうそう変わるものではなく、早く寝た分早く目が覚めて3時過ぎに起床してしまい、妻に「もっと寝なさい」と怒られてしまいました。このように早く寝ると早く起きれるのです。最近は子どもの寝不足が問題になっています。それは親の夜更し習慣が子どもの生活リズムを夜型にしてしまっているからなのです。夜型親は夜いつまでも起きているから、一足先に起きて子どもの朝食を作ってやるようなことが出来ず、朝飯抜きで眠気まなこをこすりながら学校へ行く子供が増えているのです。母親が子どもより先に起きて朝ご飯を作ってくれた私たちの子ども時代からは考えもつかないような暮しになっているようです。

 只今時計は4時24分を指しています。今朝は外では月明かりがあって、夜明けと見紛うほど明るく、港付近からは漁船が出漁しているのでしょうか、エンジンの音が一際高く聞こえています。ふと「ああ私も歳をとったか。朝早く目が覚めるなんて」と思っても見たりしますが、まあ「早起きは三文の得」をおれからも実践したいと思っています。

 しかし世の中には私と同じようなバイオリズムで生きている人がいて、朝4時から始まるラジオ深夜便「心の時代」を聞いている人が沢山いるのです。私も何年か前この番組に2夜連続2時間出演したことがあります。録音構成でしたが、懐かしくて今朝はその中の一本をカセットに入れて聞きながらこの文章を書いています。もう7~8年も前のテープですが、声の張りも抜群で、喋りは未熟なのですが自分の声ながら勢いを感じます。

 若い頃子どもたちを連れて無人島キャンプに挑みました。そのプログラムでは「太陽が出たら起きて、太陽が沈むと寝る」ということを実践しましたが、残念ながら今の子どもたちには受け入れられませんでした。でも電気のなかった遠い昔でもない私のばあちゃんの時代は自然とともに暮らしていたのです。今は自然どころか不自然な時代になりました。

  「朝早い いよいよ俺も 高齢者 三文得と 威張っているが」

  「眠らない 多分何処かで 昼寝する それが学校 問題ですね」

  「夜早く 寝れば朝起き 早くなる 遅いと遅い 理屈に合って」

  「皆寝てる 間に働く 人もいる エンジンの音 聞こえる港」 

 

 

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shin-1さんの日記

○香川県三木町を訪ねる

 香川県といえば高松と言われるくらい、私たちに馴染みの街は高松です。勿論それ以外にも四国遍路八十八ヵ所のお寺も、屋島も、また讃岐の金毘羅さんもお馴染みですが、愛媛の人にとって高松から向こうの街は以外の馴染みが薄いのです。逆に高松から向こうの街の人にとって愛媛は松山より西の地域は私たちと同じように馴染みの薄い地域なのですから、どっこいどっこいという所でしょうか。

 高松市の直ぐお隣に人口3万人足らずの三木町があります。平静の合併もせずに単独で残っている、愛媛県で言えば松前町と同じような平地の多い町なのです。今日はその三木町の商工会が主催したまちづくり講演会に招かれました。高速道路を走ると私の町から三時間余りで行けるのですが、せっかく香川に行くのだからと少し早めに出て、丸亀辺りは休憩のつもりで少し一般国道を走りました。愛媛の石鎚山のような険しい山を見ているせいでしょうか、香川県の山々はまるで富士山を髣髴するような女性型のそれは美しい山が多いのに驚きます。特に讃岐富士といわれる山は、まさに富士山に似た優雅な趣で私を迎えてくれました。

 本当は折角讃岐に来たのだからうどんを食べたいと思いましたが、のんびり走ったためそのうちそのうちと思っている間に時間がなくなり、昼飯抜きで到着してしまいました。今回の会場となったヴィラ讃岐はとても立派な施設で、遠目から見ても直ぐに分りカーナビで迷うことな

く会場入りしました。

 会場は殆ど満席で申し込みをした80人もの人が集まって盛況でした。演題は「まちの活性化で商工業の振興」、~住みたいまち・訪れたいまちづくりから~でしたし、講演時間はたっぷり2時間取っていただいていたので、思う存分話すことが出来ました。話とは不思議なもので30分でも1時間でも、2時間でもその場で組み立てて幾らでも話すことができるのです。これはやはり日頃の話芸の訓練の賜物だと思うのです。つまり話のネタが心の引き出しに一杯詰まっているからだと思うのです。これからも修行を積んでもっともっと楽しい話が出来るようにしたいものです。

 三木町商工会の集まった皆さんは聞き上手で会場の雰囲気が良かったものですから最高に盛り上がった話しとなりました。日本全国の商店街に活気がないと嘆き、シャッター通りが増えていますが、理想型の消費者5%や学習型の消費者15%だけを当てにして商売をすると地域の商売は上手く行かない事を巳を持って体験している私は精神分裂型消費者55パーセントをどう風評被害として敵に回すか、風評効果として味方に引き入れるかそれがいい商売の決め手とお話をさせてもらいました。

 私のやった道の駅の経営やまちづくりの手法は全て風評効果を生み出す仕掛けだったと、今改めて思うのです。まさにそれは知識でなく知恵だと思うのです。

 早速帰り際、女性部の人や傘下の団体の人が視察に来たいと申し出がありました。嬉しい反応です。またお目にかかれる事を楽しみにしています。

 帰りの高速道路で真赤に燃えた美しいい夕日を見ました。豊浜サービスエリアでしばし夕日に見とれ讃岐から伊予へ車を走らせました。


 「ほのぼのと 心温め 帰る道 真赤な夕日 向かって走る」

 「讃岐富士 いつも綺麗な 姿して われを迎える よっ日本一」 

 「高松を 越えて訪ねし 三木町で 思う存分 楽し話しを」

 「きっと行く 話しにつられ 約束を きっとおいでと 言いつつ別れ」

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shin-1さんの日記

○木登り

 近頃は私たちが子どもの頃と違って、子どもの遊びが随分変わってきました。巣篭り傾向というように部屋の中で一人でテレビゲームやマンガに熱中することが多いようです。たまに友だちと遊んでも同年代だけで異年齢と遊ぶ機会はかなり少ないようです。これは何も今時の子どもが悪いのではなく、子どもを安全という篭の鳥にしてしまう親や社会が悪いと思うのです。確かに子どもは目の届く部屋野中で遊ばせると安全です。怪我もしないし悪い事だってしないのですが、肉体的にも体力的にも発達著しい子どもにとってそれは決して好ましいことではなく、むしろ発達を阻害したり不平や不満を体内に閉じ込めてしまうのです。子どもには発達段階に応じた育て方があり、こどもも幾つかの反抗期というハードルを越えながら成長して行くのです。その反抗期を経ずに成長すると、大きくなってむしろそのエネルギーを抑圧することが出来ず大きな爆発となってしまうのです。子どもの頃いい子だった子どもが青年になって親まで殺す最近の事件はこの典型といえるでしょう。

 わが家にも外孫ながら5歳の孫がいます。娘の子どもといいながら、娘夫婦の子育て信念があり、私の思い通りに育てることは出来ませんが、せめてわが家に来た時くらいは自然の中で育ててやりたいと、人間牧場に連れ出して様々な経験をさせています。その効果があって虫が大嫌いで悲鳴を上げていた幼児期が全く嘘のように、団子虫やセミ、カマキリ、カエルを追いかけ、まるでペットのように遊びの道具となりました。嬉しい変化に目を細めながら、昨日は小鳥のえさ場を作りバードウォッチングに挑戦中です。

 昨日は人間牧場に孫を連れて行き、木登りをしました。私たちが子どもの頃、木登りは遊びのひとつで器用な子どもはまるでとび職や動物の猿のように大きな木のてっ辺まで登り、枝から枝に渡ってヤマモモなどの木の実を取って遊んでいました。孫にとっては初めての経験なので最初は怖いからいやだと渋っていましたが、そのうち私が登って見せ、低い木から順番に馴れさせながらやっていくと、ついつい面白くなって何度も挑戦し始めました。人間牧場には木登りに格好の柿木や杉の木、大きいのはヤマモモの木が沢山あって、木登りの訓練には最適なのです。

 

 どうですか。あれ程嫌がっていた孫がこんなまるでジャングルジムのような木にも登れるようになって、木の上から写真を撮るようにせがむのです。孫にとっては嬉しい経験だったに違いありません。勿論木登りの途中で枯れ木が折れて低い地面に落ちて擦り傷をしてしまいましたが、これは遊びの勲章でしょう。落ちても自己責任と思ったのでしょうか、「ぼくは落ちても泣かなかった」と強情なところを見せました。帰る頃にはまた木登りがしたいと車の中で盛んに自慢話を話し、親に出会うと「ぶく木登りが出来るようになった」とか、「木から落ちても泣かなかった」とか、体験を話していました。

 これからも安全な冒険をさせてやりたいものです。

  「木登りが 出来たと孫は 大威張り 当たり前だが 当たり前すら」

  「すり傷は 子どもの勲章 なめとけと 俺は古いな 傷テープ貼る」

  「さて次は どんな遊びを 教えるか 孫と一緒に お爺ウキウキ」

  「じいちゃんは 遊びの天才 思ってる 木登り上に 向って拍手」


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