shin-1さんの日記

○毎年桜が散ってから思うのですが、「もっと桜を見ておけば良かった」「せめてあの桜を写真に収めておきたかった」「もっと桜の咲く季節に桜前線とともに全国を旅したかった」と・・・・・・。こうした「~かった。~かった」と反省するばかりで、一向に進歩しない自分の行動を恥じながら、それでも今年は忙しい合間を縫い自分の町の桜を追ってみました。

 桜=道後や野福峠の桜などと県内に知れた桜の名所を思い浮かべ、人の行きそうな場所へ花見に行くものなのですが、桜ほど身近なあちらこちらの場所に人知れず咲く花はありません。道端に、あるいは学校の校庭にと、桜の国日本を象徴するようどこにでも桜は咲いているのです。通りすがりにふと「えっ、こんな所にこんな桜が咲いている」と、驚いて見上げたことは切りがないのです。そんな時に限ってカメラを持っていなかったり、次々と見える桜に目を奪われ忘れてしまうのです。そしていつしか「花の命は短くて・・・・」で雨と風に散らされてしまうのです。

 一昨日直ぐ目と鼻の先である上灘の海岸線を単車で走ってみました。花冷えのする、そして曇ったあいにくの天気でしたが、この日「4月9日」が双海町の今年の桜満開宣言日だと思いました。まず旧役場裏の本覚寺周辺へ行って見ました。桜は風景を入れる絵になるようで、お寺の山門の銅版緑青が桜の薄ピンク色に映えていい感じでした。

 駐車場広場からこの桜を反対向きにアングルを変えるとまた違った趣きです。最近は無造作にゴミストッカーが出来て風景が一変していますが、この桜は「商工会発足記念○○年植樹」と書いた石柱が建っている桜です。

 海岸に出て松山方面へ少し走ると海岸線に桜の固まりが沢山目に映りました。小網の桜です。小網は双海町でも唯一坂に居並ぶ漁村集落で桜が家並みや海によくマッチしています。

 青の同門を髣髴させる小網トンネル付近の桜も今が満開でした。残念かなここでも無造作に行政の建てた看板が桜の美しさを台無しにしているようです。桜の咲いた頃を思い浮かべて看板を立てるような環境配慮の役場職員が私を含めていなかったのですから、残念なるかなで、自責の念にかられました。

 桜の鑑賞をしていると、突然無粋な電話の着信音がズボンのポケットから鳴り始めました。仲間からです。会議の都合があるので急いで日程表を見て欲しいというのです。仕方がないかと思い、単車をUターンさせてました。それでも見飽きぬ桜をちょっとだけ撮りながら引き返したのです。

(小網入口の桜)
(城の下の桜)
(共栄網加工場屋上から見える予讃線沿線に咲く灘町5丁目の桜)

 残念なるかな僅か10分の桜散策となってしまいました。それでも少しだけ満足した気分になりました。本当はゆっくりと桜の木の下を歩き、上から下から眺めればまた違った趣きがあるのでしょうが、明日から二日間熊野古道への旅が始まるので今日が見納めになるかも知れないと、密かに天候の回復と、日程の空きを見ています。「午前中は来客、午後は人間牧場へ来客、夜は松山で集会か。あー」ため息が漏れそうです。

 でも今年の桜は確実に3日だけ短い時間ながら見ることが出来ました。

  「今年こそ 毎年思う 情けなさ 今年も既に 桜散り初め」 

  「花曇り 写真に写る 花々も どこか寂しい 露出足りなさ」

  「見るだけで ただ何となく 満ち足りた 気持ちにさせる 桜咲く春」

  「綺麗だね 会う人毎に 桜褒め 会話交わして そそくさ去りぬ」

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shin-1さんの日記

○懐かしい写真が届く

 2006年10月7日、島根県隠岐西ノ島で牧畑シンポジウムが開かれました。主催したのは守る会の角市正人さんたちで、私はそのシンポジウムの講演に招かれたのです。そのことはこの日のブログで詳しく書いているので省略しますが、隠岐といえば新婚旅行に出かけた思い出の土地なので、隠岐本島と西の島へこのシンポジウム以外で相次いで招かれた時、もう一度新婚旅行に行った隠岐の島へ行きたいという妻を同伴しました。仕事で行くのに不謹慎と言われるかも知れませんが、隠岐では斉藤博さん、西ノ島では角市正人さんの熱烈な歓迎を受けて、妻の記憶には隠岐、西ノ島の思い出とともに斉藤さん、角市さんは忘れられない人となったのです。特に西ノ島町の町議会議員をしている角市さんからは度々メールが入るし、時折自分で摘んだ岩海苔や海に潜って獲った貝類が送られてきて、何かにつけて思い出が蘇って夫婦の会話の中に度々出てくるのです。

 そんな角市さんから一昨日メールに沿えて写真が送られてきました。日々の忙しい暮しに忙殺されてもう忘れていた思い出の写真です。私に比べれば殆ど外に出ない妻にとって、西ノ島の思い出が鮮やかに蘇えるのは当然のことで、妻に見せると懐かしそうに見入っていました。そして言うのです。「まあ懐かしい。あの頃は私も若かったのね」?だそうです。僅か3年くらいしか経っていないのに「若かった」もないもんだと呆れましたが、女性にとっては若く見られたいと思う本心の言葉かも知れないと一人笑ってしまいました。

 私は見かけによらず昔人間で照れ屋ですから、妻といえども肩に手を回したり手を組んだりすることは殆どありません。ですから新婚旅行に行きながら二人で撮影した写真が一枚もないのです。でもこの写真はどういう訳か何の恥じらいもなく角市さんのカメラに向かってこんな格好をしているのです。あー恥かしいですね。

 このツーショットは朝早くレインボーという境港へ向う高速船に乗るため桟橋に着いた時のスナップですが、相変わらず木になるカバンを提げているようです。

 人にはそれぞれ思い出があり、それが写真に写っていると見る度に思い出が蘇ってくるものです。カメラが庶民の間にそれほど普及していなかった私たちの子ども時代は、思い出の写真など学校の記念写真くらいで、数えるくらいしか残っていません。それが簡易カメラが普及し、また最近ではデジカメが普及して、自宅で簡単にプリントできる便利な時代になりました。またそれらの写真はデジタルデーター化されて劣化することもなく保存されるようになりました。しかしその写真はいつでも取り出せる半面、自分の個人情報でしかなく、他人には見れないものとなり、家族でさえもその存在に気付くことは殆どないのです。私がこの3年で撮り続けている写真の枚数はそれこそ驚くべき枚数なのです。

 便利さは反面を裏返せば不便です。でも角市さんから思わぬ写真の送付をしてもらい、夫婦で旅した思い出を蘇えらせてくれたのは嬉しい限りです。

  「送られた メールに添付 思い出の 夫婦の写真 嬉し恥かし」

  「さりげなく 肩に手をやる 姿見て 昔はこんな ことせぬ自分」

  「思い出も 記憶の彼方 失せている 思い出したる あの日あの時」

  「若かった 冗談じゃあない まだ三年 今も変わらず 若いんですよ」



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shin-1さんの日記

○金融広報委員会の会長さんと夕食会

 酒を飲まなくなって9年目の春がやってきました。あれほど頻繁に酒の席に出ていた私ですがこの9年間、飲み会は確実に減り続け、飲み友達の中には音信不通になった人もいるのです。私の家は幸せなことか不幸なことか分りませんが、松山から25キロという好位置にあり、飲む人間にとっては楽しい歓楽街があるのです。そしてその地域には県庁など官公庁がやたらとあって、そこに勤める知人友人が沢山いて、私を飲み会に誘ってくれました。お陰様でいい人間関係を築くことができましたが、それだけが原因ではないにしても、万分の一は原因で胆のうを患い、今の自分があるのです。

 先日金融広報委員会事務局の山下女史から電話があって、「会長さんと夕食をしませんか」とお誘いを受けました。先日金融広報アドバイザーだった前田さんがご勇退される際の夕食会を、仕事の都合で欠席したため、会長さんが気を使われたのだろうと思うのですが、喜んで参加する事にしました。

 昨日は昼頃からあいにく雨が降り出しましたが、待ち合わせ時間の午後5時30分に日銀の前で出会いました。私は隣のえひめ地域政策研究センターでの話がついつい長くなり、少し遅れての到着となりました。山下女史と傘を並べて咲き始めた八重桜の下の三番町通りをゆっくりと話しながら歩き、大街道を通って小粋なお店へ到着しました。会長さんは別の会合に出席して直接来たらしく、既に到着して待っていてくれました。

 日頃の会議では主催者挨拶をする姿を参加者として遠目でしか顔姿を見ないお偉い人なのですが、どうしてどうして気さくな方で、外から来てたった一年ながら愛媛を知り尽くしているような話題の豊富さにすっかり聞き惚れてしまいました。少しお酒が入るとお互い饒舌になるのは世の常ですが、私もいつしかウーロン茶で酔ったような気分になり、失礼を省みず色々な事をお話させてもらいました。

 私のようなリタイアして何の役職も持たない人間なのに、私に会うため私が書いた「今やれる青春」という自著本を読み私を理解した上で出会う真摯な姿には深い感動を覚えました。聞けば休みの度に県下各地を私的に回り、ふたみシーサイド公園から見る夕日は何枚も写真に収めているらしく、私の欠点も見抜かれているような感じがしましたが、それもまたご愛嬌なのです。先日は坊ちゃん劇場で思いがけない出会いとなりました。

 最近始めた私の落伍や、木になるカバンに忍ばせて持ち合わせていた落伍高座本「夕日徒然草」まで買ってもらう羽目になろうとは思いもせず、加えて「赤トンボ先生」が作った竹トンボも買ってもらいました。今朝は赤トンボ先生こと窪田さんに、「日銀の支店長さんが赤トンボ購入第一号」と報告する予定です。

 久しぶりに料理に満腹、話に満腹で約3時間の夕食会は区切りをつけ、人間牧場での再会を約束し、おいとましましたが久しぶりにほのぼのとした気持ちで雨の夜道をわが家へ向いました。

 日本の景気は緩やかな成長を続けているそうですが、愛媛という地方ではそんな実感はありません。都市と地方の格差は益々広がるばかりのような気もします。でも会長さんの言われるとおり、愛媛には全国に誇るいいものがいっぱいあります。多分いいものの中に埋没して見えないのかも知れません。また思い切った改革が必要なことも、情報発信の仕方が不味いことも同調すべきご指摘でした。会長さんの憂慮は若い有能な人材が首都圏に奪われていて将来の愛媛が危ないといわれました。これも私と同じ意見でした。

 私が常々思い行動している「いいことは始める」「悪いことは止める」ただこれだけの価値判断でも、愛媛は少しずつ変わるはずです。急激な変革を望まず安心と安全の上に胡坐をかくような愛媛県民のひとりとして、昨晩の学びは大きな収穫でした。

  「偉い人 思える人が 謙虚にて しみじみ思う 俺も謙虚に」

  「異文化に 出会って俺の 感性は ワンランクだけ アップしました」

  「自著本を 買ってもらって 恐縮す 竹のトンボも 一緒に添えて」

  「退任を 決意望んだ 夕食会 逆に激励 またも困惑」

 

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shin-1さんの日記

○権兵衛が種まきゃ山鳩ほじくる

 今朝早く親父が私の書斎の戸を外から叩きました。普通の日は私が親父の隠居へ様子を見に伺うのですが、今朝は散歩の帰りに立ち寄ったらしく反対です。大きくて広い窓を開けて親父の言い分を聞きました。「明日はまた雨のようなので、ツルありインゲン豆の種をまきたいので手伝ってくれないか」というのです。「今日はそのうち出かける予定なのでこれから種をまこう」と、お互い朝食も食べていないのに準備に取り掛かりました。準備とっても昨日の夕方既に種をまく畝は出来ていて、そこへ種を置いてゆくだけなのです。加齢とともに耳が遠くなり、目も見えにくくなった親父にすれば種を二粒づつ穴に落としてゆく作業は面倒臭いと思ったのでしょう。

 几帳面な親父は例によって糸を引っ張り、真っ直ぐ植えれるよう工夫しているのですが、驚いた事に豆の間隔を測って植える定規まで用意しているのです。早速親父は定規で測りスコップで少し長めの穴を掘って行きます。そこへ私が袋から取り出したインゲンの種を落として行きました。親父は一袋の予定でしたが、せっかくだからと予備に用意していたもう一袋をまく畝を切り、同じような作業をしました。

(種をまき終わった一つ目の畝)
(種と種の間間隔はこうして自分で作った定規できちんと測って種をまくのです)
(もう一袋のた隣にもうひと畝作りました)

 種を落とした穴に土を被せてその作業は僅か30分ほどで終了しましたが、今度はその種を山鳩に食べられないよう網を張らなければなりません。私は所用で出かけなければならないため、私の作業らしい作業はここで中断し菜園から離れましたが、親父は一人で種をまいた畝に網を張っていました。

 この種は蔓があるため竹で豆蔓が登るよう垣を作らなければなりません。まだ当分先のことですが、垣用の竹を妹の嫁いでいる家の竹薮へいずれ切りに行かなければなりません。そんな作業のために田舎のオープンカーを購入しているので、今年は存分にいい竹枝を確保したいものだと思っています。去年使った垣用の竹も親父は大切にしまっていて、そのうち暇を見つけて垣を作ることでしょうが、これまた芸術品思われるような垣を作ります。

 今晩テレビを見ながらその話しを妻にしました。「私は親父が畑仕事をしなくなったら、あんな几帳面な野良仕事はとてもやれない」というと、「大丈夫よ、お父さんだって若い頃畑仕事は大嫌いで、殆どお母さんや私に任せていたもの。あなたなら出来る」と訳の分らぬ太鼓判を押されてしまいました。

 妻の不満は、親父の作業が余りにも几帳面過ぎて、草を生やさないことだけに集中し、作った野菜を大切に食べきることが出来ないようです。例えば大根ですが、何本か残すことができないのです。耕耘機をかけるのに邪魔だとさっさと抜き去ってしまうのです。キャベツも間もなくそういう運命にあるようで、その都度親父と妻の角質が始まるのです。野菜を使って料理する妻の意見など、昔から耳を貸さずわが道を行くタイプですから、いくら言っても言う事を聞くような親父ではありません。

 野菜は安心と安全が第一、そして主婦にとっては家計の足しになる大切な食べ物です。キャベツや大根だけでどれだけ料理のレパートリーが広がることか、そしてリタイアし年金に頼る収入では、野菜は大助かりなのです。加えて健康にいいものですからこれからも沢山作って行きたいものです。当分は妻と親父のせめぎ合いの間に入って右往左往する気の弱い長男なのです。

  「度の過ぎた 几帳面には 参ります インゲン蒔くのに 定規測って」

  「九十の 親父が使う 六十三 いつまで経っても 俺は子どもだ」

  「春が来て 今年も親父 元気です ひょっとしたなら 俺より長生き」

  「豆植える 親父の背中 少しだけ 小さくなったと 瞬間思う」

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shin-1さんの日記

○夕日のまちづくりの経験から

 「若松さん、あなたがこれまで取り組んで来られた夕日のまちづくりの経験を春の学集会で話してくれませんか」と、コープ住まいるの田中社長さんからお話がありました。集まる人は建材屋さんから工務店、設計士、設備会社、住器メーカー、インテリア、電気屋、サッシガラス屋まで、種々雑多な業態なので、まちづくりなど話しても果たしてどうなのだろうと、心に多少不安を抱えながらも会場となる交際ホテルへ出かけて行きました。昨日は車のカーナビ修理のため、車をドック入りさせているので代車での移動です。

 会場にはコープ住まいる協力会のメンバーが70人も集まって会議が行われていました。約20分ロビーで担当の伊藤さんとお茶を飲みながら雑談にふけり、いよいよ出番です。長年の経験とは不思議なもので、紹介されて演壇に立つと、これまでの不安などどこ吹く風、何のレジメの用意もしないのに、まるで早打ち鉄砲のように次々と話が進むのです。会場には司会者の井上さんを含め、生協の松本専務さんなどの顔なじみも顔を見せていました。

 今日の話は「一周遅れのトップランナー」の話と昨日ブログに書いた「365分の1から365分の365=1へ」の話をしました。

 世の中にはいち早く始めた会社もあれば、松山市のようにとてつもなく大きな地方都市もあります。そんな社会の中では自ずから序列のようなものが暗黙の中で決まっていて、最近始めた会社や観光などで売り出そうとする市町村は後発となって中々相手にされないのです。ましてや金のない、そして薄利が社会の常識となってきた現代では、下請け孫請けともなると赤字覚悟で上位のいう事をきかなければはじき出されてしまうのです。でも私の経験からいうとすき間はどこかに必ずあって、やる気になってやれば新しい個体が生まれるのです。私が若い頃「おはなはん」という人気朝ドラがありました。ご存知大洲が舞台です。大洲の人はそれが誇りで何処へ行っても「おあはなはんで有名な大洲から来ました」と自慢していました。その当時は隣の内子などまだ知名度は殆どありませんでした。ですから内子の人は「おはなはんで有名な大洲の隣の内子から来ました」と言っていました。ところが親友岡田さんの働きに負うところ大きい努力によって町並み保存は一躍有名になり、今では大江健三郎さんがノーベル文学賞をいただいた追い風もあり、今では三ツ星級の知名度になりました。今では大洲の人さえ「町並み保存で有名な内子の隣の大洲」と言わしめる逆転現象が起こっているのです。

 今の世の中は初物好きな日本人の心理がそうするのか、何でも早いものを求めたがります。鈍行列車よりは新幹線、新幹線よりは飛行機、普通より早生、早生よりは極早生、アナログよりはデジタル、田舎よりは都会、桜だって遅咲きより早咲きと、まるで遠近や季節を感じさせない時代です。しかしその結果、ニュータウンといわれた地域が高齢化に悩み、都会の人が田舎暮らしに憧れています。

 遅れていたはずの私たちの地域は今、スロ-ライフのトップランナーとなりつつあるのです。一周365日のトラックをみんな一生懸命走っています。人生も時代も永遠に続くのですから先行逃げ切りなんてゴールは何処にもないのです。早く走り始めた人たちはみんなそろそろ疲れ始めています。さあビッグチャンスです。元気を温存してきた私たちの出番です。あせらずいい足取りで抜き去りましょう。そのためには「何のために走るのか」という目的と物語をイメージしながら走ることです。

 私たちには不可能と思えたオバマさえクリントンを抜きされるのですから、コープ住まいるだって可能性は十分あると思うのです。

  「住まいるは スマイル似たり スマイルで 笑顔絶やさず オバマあやかれ」

  「何話す? 出かける度に 問い直す 妻の質問 今日も同じだ」

  「皆同じ 一年三百 六十五 トラック走る 無理せず走る」

  「懇親の 宴席断って 車屋へ カーナビ治る 愛車取り行く」  

 

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shin-1さんの日記

○365分の1か365分の365=1か

 私は長い間公私共にまちづくりの仕事に携わってきました。そしてある部分で成功し、ある部分で失敗してはしたたかにさりげなく生き延びてきました。潜在能力を持っていたことによって顕在化した一瞬のひらめきと行動が夕やけプラットホームコンサートという非日常、つまり一年に一回のイベントを生んだのです。その後も数年試行錯誤のイベントとして続けましたが、それは殆ど365分の1のままでした。ところが夕日を何かに出来ないか、特に経済に結びつけるためには物語づくりが必要であると痛感し、365分の2を生み、それが3、4と次第に数を増し、シーサイド公園などは非日常が日常化し365分の365になったのです。

 私たちはまちづくりを最初は一日から始めます。しかしその一日のままで10年続けるとどうなるでしょう。最初の目的は何処かへ忘れてしまって、ゴミと糞小便、それに疲れしか残らないことが多いのです。これをマンネリというのでしょうが、そのマンネリを越えるにはやはりそれ相当の覚悟と努力が必要なことは言うまでもありません。私たちは分母の365日は絶対変わらない不変なものとして受け止めなければなりません。しかし分子は最大365まで引き上げることが可能なのです。=1に限りなく近づければ持続可能なまちづくりとなりますが、中々出来にくいものなのです。

 私個人も365分の365=1を目指して日々精進しています。例えば私のブログです。書き始めてもう2年半になりましたが、最初は重荷になって中々進みませんでしたが、心に強い信念を持って続けるうちに日常化し、今は暮しの一部となって、旅に出て書けない日があると、何かモヤモヤして不完全燃焼に陥るのです。またハガキ一日三枚ももう22年目に入りました。これも日常化しようとした努力の賜物なのです。

 非日常で始めた人間牧場も次第に暮らしの一部になりつつあります。多分これは365分の365=1には絶対ならないと思いますが、それでも農業という手法を通して梅やサツマイモ、野菜などを作って暮らしに関わらせているお陰で随分満足と理解が得られもう少し、もう少しと思い行動すればそれで充分なのです。

 私の使命はまちづくりで洗脳された自分と同じように人々を洗脳させるまではいかなくても、感化させることです。自分の住んでいる町を愛し、住んでいるまちを少しでもいいまちにしたいという心と行動を育てなければならないのです。

 今まで自分のまちは寝たり食べたり、働いたりするだけの存在でしかなかった人たちに、面白さを味あわせて気付かせれば、私にとってもその人にとっても、また周りにとってもいいこと尽くめなのです。私は365分の365を幾つか持っています。それはささやかですが自分の生きがいでもあるのです

 主催者ばかりが難儀をする365分の1のイベントやシンポジウムはもう限界に来ています。時には感動の涙を流せるような共感・共鳴・共有の社会をまちづくりという手法で作って行きたいものです。

  「一年は 三百六十 五日だが 毎日少し するが最上」

  「一年は 分母変わらぬ ものなのに 分子が違う だからそれぞれ」

  「限りなく 一に近づく 努力して 日々の暮しを 楽しいものに」

  「年輪も 一年一つ 刻みゆく わが年齢も 一年一つ」 


 

 

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shin-1さんの日記

○今年最初の虫刺され

 先週の日曜日、九州でマラソン大会を開催中、何人かのランナーがミツバチに襲われたという記事が新聞に載りました。多分この記事を読んだ人は「大変だったなあ」とか、「お気の毒に」とか、「他岸の火事」くらいにしか思わなかったのではないでしょうか。私もその程度の感じしかありませんでした。新聞ではそこまで言及していませんでしたが、参加者全員に傷害保険をかけて望む大会なら、大会終了後「これは誰の責任か」と責任論が浮上するのは当然の成り行きでしょう。人間に事故を負わせた「蜂」が加害者で、「人間」が被害者というのは誰が考えても当たり前なのですが、じゃあ加害者の「蜂」に賠償責任能力があり、その損害保証を求められるかというと、相手は不特定多数の小動物で、加害動物の特定が出来ず、ましてやその責任能力もないことから、ランナーは「泣きっ面に蜂」なのです。

 しかし冷静に考えれば、色々なことが浮かんできます。まず主催者が設定したコース周辺にはミツバチから蜜を取って生計を立てる養蜂家が沢山いて、巣箱を無数に設置しているという事実です。主催者が事前の下見でこれらを見過ごしていたのは明らかに落ち度です。「てがわない蜂は刺さない」といわれるように、蜂は人間が大勢で巣箱の近くを次々と走るものですから、てっきり攻撃されると勘違いしたに違いありません。一人でなく30数人が被害に遭っているのはその証拠だと思うのです。

 問題は被害が出た後の対応です。何日もかけて準備をしたのでしょうから、被害者が30数人になってもそれ以外の人は刺されていないのですから、大会を続行したくなるのはこれも当然の成り行きです。しかし事は重大です。もし対応が遅れれば刺された人は死ぬかも知れないというこの事実をもっと重く受け止めて、中止すべきという意見も当然なのです。主催者はコースを変えて続行したそうでしが、幸い刺された人は軽症でホッとしていることでしょう。

 もう一つ問題があると思います。私も知りませんでしたが蜂を飼うのには許可が必要なのだそうです。テレビに映っていたあれ程の巣箱を設置して、無許可では済まされません。許可を取っている取ってないと事実が交錯しているようですが、これも責任の取り方としては重要なのです。

 同じ日に私は蜂ではありませんでしたが、人間牧場の草刈り最中、目の横を狙われ刺されてしまいました。男前の顔が台無しで、目尻が大きく腫れ上がりとても人様の前に顔向け出来ないような顔姿になったのです。刺された時、違和感を覚えて直ぐに虫刺されの薬をつけたのですが、これが目に毒とでもいうのでしょうか、目の中に入ってとんでもない激痛に悩まされました。私の場合加害者たる虫が特定できませんでした。多分ブトだと思うのですが、春まだ浅いから夏の虫などと鷹を食っていたのが悪かったのです。後遺症が残るほどの被害でなく、原状回復間近なのでとりあえず一安心です。

 人は誰でも事故や怪我に会うものです。その時の現状判断や対応は、常日頃の心の準備が必要で、これを危機管理能力というのかも知れません。一寸の虫にも五分の魂です、虫にだって生きる権利がることを無視しないよう考えたいものです。

  「アッ痛い 虫に刺されて 薬塗る 今度は薬 目に染み痛い」

  「この時期に? そんな考え 甘かった 地球温暖 虫も早生化」

  「人間の 走る姿を 勘違い 蜂にも生きる 権利があると」

  「人間は 人のことなど 考えず 自分中心 だから危ない」

 

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shin-1さんの日記

○今日は朝から雨

 天気予報はよく当るもので、昨日はあれ程いい天気で雨の心配など微塵もないと思っていたのに、今日は朝から雨です。少年少女おもしろ教室の打ち合わせが予定されていたので、少し早く雨の中を出かけました。というのも昨日から泊まりに来ている孫朋樹が、昨夕桜を見学に行った帰り、千人塚の池で何組かの家族連れが、鯉やアヒルに餌をやっていたのを目敏く見つけ、昨夜寝る前に「明日は起きたら僕も餌をやりに行く」と約束をさせられていたのです。妻にパンを一斤貰い、それを細かくちぎってナイロン袋に入れて、トラックで出発しました。その頃から雨足が急に強くなって、風を伴いまるで春の嵐のようでした。桜はまだ満開ではないのですが、それでも時折吹くやまぜ風が桜の枝を震わせ、桜の花びらが風に舞っていました。「おじいちゃん綺麗だね」というものの、せっかく咲いた花が散るのは、心が痛むものなのです。

(雨に濡れた満開間近な千人塚池周辺の桜)

 千人塚の池は雨のため人にも車にも会わず、傘を二本用意しましたが、風に吹き飛ばされては大変と、外に出る事を諦め、多少助手席に雨が振り込むものの、柵の近くまで車を寄せて窓ガラスをいっぱい広げて餌を投げる事にしました。最初にやって来たのはアヒルとカモです。似たような鳥ですがアヒルは飛ぶことが出来ずカモは飛べるのです。何年か前まではカモもアヒルも沢山いましたが、今日は雨のためか2匹だけしか姿が見えませんでした。今日は雨のため餌を貰う予定がなかったため、とても嬉しそうに水面に浮いたパンを啄ばんでいました。

(まるで夫婦と思わせる仲の良いアヒルとカモ)

 やがて選手交代です。水中には無数の鯉が集まってきて、餌をねだり始めました。多分パン一斤程度を鳥と魚が分け合って食べるのですから、食べれない魚も沢山いると思われるほど、先を争うように餌を奪い合いました。

今朝は雨水で池の水が濁って、残念ながら鯉の姿を綺麗に捉えることは出来ませんでした。今月末になると周辺の田んぼの田植えの準備が始まるため、池の水は今が満水状態で一番美しいのです。暖かい日には亀が何匹も首を突き出して表インに泳ぐ姿は、これまた子ども達の人気者なのです。動物に触れ合う機会の少なくなったこの頃ですが、田舎にはまだまだ沢山自然と触れ合う場が残っているようです。

(濁った水面近くを群れて泳ぐ鯉たち)

 餌をやるのにかなり雨が車の助手席に入るので、持っていた傘を窓に突き出して差しかけました。これで安心とばかりに孫は頭と顔を思い切り外に出し、餌を投げていました。その瞬間突風にあおられて傘が反対に向き、孫に被らせていた帽子が飛んでしまいました。あっという間の出来事にそれまではしゃいでいた孫の血の気が引いたようでした。多分空中高く飛んでいった帽子は池の中に落ちたのだろうと諦めていました。ところが不思議や不思議天高く舞ったはずの帽子が車の下まで吹き戻されてきたのです。私は孫が指差す帽子を取りに社外へ出ました。そして帽子を拾い急いで車の中へ戻りました。孫も嬉しくて思わず拍手です。一瞬の出来事でしたが、面白い思い出を孫と共有できました。「天に向ってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と常々いっていますが、雨だから体験したハプニングでした。

  「池の上 風に飛ばされ 諦めた 帽子再び 手元に戻り」

  「桜散る 春の嵐を 綺麗だと 孫は褒めるが 私気がかり」

  「降る雨に 体濡らして 餌をやる アヒルとカモも 体濡らして

  「雨ゆえに 人気感じぬ 池の側 桜吹雪が 顔に当りて」 

 

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shin-1さんの日記

○やっと桜が咲きました

 海沿いの町双海町は海水の温度の影響で霜が殆ど降りず、風は強いものの暖かい地域ですから、桜も早く咲くだろうと思って、桜前線の行方を毎年首を長くして待つのですが、伝え聞く松山地方気象台の桜開花情報より更に4日間ぐらい開花が遅れるようです。詳しいことは分りませんが、推し量るに冬の乾いた季節風が桜の蕾の表皮を硬くさせ、開花を遅めているのではないかと思われるのです。

 昨日の夕方、孫朋樹を単車に乗せて、近くの桜を見学に行きました。夕方五時を回っていたため、カメラアングルとしては光と影の濃淡が強過ぎて今一でしたが、穏やかな春の夕映えに写し出される桜はその色をより引き立たせ、趣のある桜を鑑賞することが出来ました。今朝は夜来の雨と風があって、せっかく満開近くなったのにと、桜の花をいとわなければなりません。それにしても春は一夜の風で桜が散る事を思うと、よくぞ昨日は桜を目とカメラに納めていたと、強運に胸を撫で下ろすのです。

 私たちはまず桜の名所潮風ふれあい公園へ出かけました。もう夕方だというのに弁当を広げて花見の酒盛りをしている知人もいて、輪に入って飲まないか誘われましたが、孫を連れての単車なのでおいとまをして桜を見ながら展望台まで登ってみました。中年の外人さん夫婦が登ってきました。「ハロー」というので、孫はてっきり英語を喋らなければならないと思い、「ABCDEFG・・・・・XYZ」と習いたてのアルファベットの歌を歌いました。すると外人の奥さんは「まあお上手、ベリーワンダフル」と頭を撫でてくれました。思わぬ国際交流です。

 展望台の桜はまだ八分咲きといった所でしたが、メジロが沢山いて桜の花を啄ばんでいました。堀内さんのアトリエあたりの遠景はもう桜の色で鮮やかに染まっていました。

 眼下には宮城道雄の「春の海」を髣髴するような穏やかな伊予灘が開け、沢山の島々が春霞に霞んでまるで一幅の絵を見ているような光景です。展望台からはシーサイド公園が一望できました。

 ふれあいの館の裏側に綺麗な桜が咲いていました。ここらの桜は公園整備の折私が植えた桜なので思い入れも一入です。

 その後とっておきの桜見学ポイントへ向いました。まだここも八分咲きでしたが、千人塚の池に映えてそれは見事な風景でした。私的には好きな場所でここはもう2~3日もするともっともっと美しくなるのです。

 山道を下りお寺の山門に出ました。山門には枝垂桜が咲いていて、吉野桜とはまた違った趣でした。

 県道双海~内子線を走ってみました。この沿線も私が若い頃訳も分らず植えまくって随分叱られた桜ですが、今では随分大きくなって、植えた者が勝ちって感じです。

 帰りに三島神社裏の桜を見ながらカメラに収めました。道後公園や武丈公園など桜の名所もいいですが人が多過ぎて、わたしはどちらかというと、ボンボリもつけずひっそりと人知れず咲き、見る人も殆どない人里離れた桜を鑑賞するのもこれまたおつな物なのです。




 春はあっという間に駆け抜けて行きます。出来ることならこの2~3日カメラを片手に町内の桜を写真に収めたいと思っていますが、日程が詰まっていて無理かも知れません。

  「春愛でる 心のゆとり 今もなく ただ忙しく 通り過ぎ行く」

  「この桜 俺しか愛でる 人もなく ひっそり咲いて ひっそり散るか」

  「うっとりと 眺めていたい 桜花 今が盛りと 言ってるようだ」

  「夕映えの 桜も結構 おつなもの 思わぬ色に 気付き見返える」

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shin-1さんの日記

○青年リーダー塾二日目

 今朝は予告していた通り、私は妻の作ってくれた握り飯と味噌汁を田舎のオープンカーに積んで、泊り込んでいる二人の青年の待つ人間牧場へ向いました。到着したのが7時40分でした。二人の青年は6時に目が覚めたらしく、身の回りの整理をして待っていてくれました。味噌汁をガスコンロにかけて温め早速朝食です。握り飯は一人4個、計12個を用意してくれましたが、「幾らなんでも朝からそんなに食べれるものか」と妻といい合いをしましたが、どうして若者たちはペロリ平らげ、味噌汁もお代わりしました。


 さて、今日は最後の講義です。「夕日徒然草」を肴にまず私が1時間余り講義し、質問事項を交えながらライブ形式で人生について話し合いました。人生は長いようで短いものであることや、今の前向きな20代の生き方が次の30代に必ず生きてくる事を、私の経験を交えながら話たのです。青年たちが感想で述べたように、今日も8時から12時までの時間があっという間に過ぎ去ってしまいました。私自身も今回のリーダー塾のように、まるでマンツーマンのような極めて少ない人数に、しかも長時間講義をするのは久しぶりなので、多少不安もありましたが、今期愛媛県青年団連合会の会長になる予定の三浦さんと、副会長になる予定の大家さんの二人に対し研修が出来たことはとても嬉しいことです。

 私は二人に今年の数値目標を指示しました。青年団が斜陽化する中での会長、副会長の要職に赴く訳ですから、決意を示せと、私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の記念誌販売を例にとりゲキを飛ばしたのです。青年団員を一人10人勧誘するという話になりました。役員が10人いれば県下に100人の青年団員が誕生するのです。私の経済理念やオンリーワンづくりに質問が集中したこともあって、成り行き上約束をしたようですが、彼ら二人の意思表示が来年の3月にどのような成果となって現れてくるか楽しみです。

 私は今回自分が執筆した3冊の本をテキストとして買ってもらいました。私の講義はノーギャラですから決して高いとは思わないのですが、彼ら二人はどう受け取ったか聞いてはいません。でも彼ら二人は私の指示通り極めて真面目に熟読し、それぞれのテキストから10の質問を用意して望んでくれました。この事前研修だけでもとても貴重な学習になったはずです。

 私は今回の会場となった人間牧場の水平線の家に先日無事松下政経塾を卆塾した兼頭一司さんと、今日12時間の研修を終えた三浦誉さん、大家正裕さん、それに私の話しをこれまで存分に聞いている松本宏さんと馬路村の木下彰二さんの名前をかまぼこ板に書いて塾生として掲げたいと思っています。本人が嫌だといったら別ですが、ここから彼らの人生を応援したいのです。

 かくして二人は掃除をして無事それぞれのふるさとへ帰って行きました。

 昨夜は風呂を沸かし二人にいい湯をプレゼントしてやりました。風呂の電気を消して暗い海や漁港、そして遠く松山道後平野の明かりを見ながら風呂に入り何を感じたことでしょう。昨晩は囲炉裏の蓋を開け、ストーブで種火を起こし囲炉裏に入れ、囲炉裏を囲んで風呂上りのビールを楽しみながら夜なべ談義をしました。私は夜遅く二人を残してわが家へ帰りましたが、二人で色々な事を話したに違いありません。二人とも役所に勤める公務員ですから、限界を感じつつ仕事をすることでしょうが、住民の幸せのために頑張って欲しいものです。


  「ただ二人 相手に合計 10時間 思いの丈を 喋りまくりて」

  「朝飯を ちゃんと用意の 妻がいる ただそれだけが 私の値打ち」

  「テキストに 送った本を 熟読し 付箋付けくる 頼もしきかな」

  「お互いが 真剣勝負の 二日間 小便する暇 惜しんで慌て」 

 

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