shin-1さんの日記

○電話の向こうで「覚えていますか?」

 「若松さん、覚えていますか?」と唐突に携帯電話がかかってきました。流調な関西弁の相手は徳島県の内藤さんからでした。聞けば7~8年前に知人の大阪に住む桜井啓子さんたちとわが町へ研修にやって来たのだそうです。「覚えていますか」と言われてもこの歳になっては思い出せないはずですが、そこは人の顔や名前を覚えるのが仕事ゆえ、かすかな記憶を頼りに思い出したのです。

 私の携帯電話は個人情報なんて糞くらえと思ってオープンにしているため沢山の方から電話が入ります。この日も役場から「徳島のある方から、若松さんにどうしてもアポを取りたいので電話番号を教えて欲しい」と電話がかかり、担当者はわざわざ私に「教えてもよいか」打診があったのです。

 「実は今度私は昔そちらへ研修に行ったグループの会長をすることになりました。是非夏ごろ人間牧場へ研修に行きたいと思っています。ついては事前に人間牧場を見学したいのですが、今日か明日か時間は取れないでしょうか」という話でした。昔なら徳島からこちらまで有に5時間はかかっていましたが、今だと2時間半で来れるからとお互いが逆算し、「私は今日なら空いている」と言ってしまいました。「ほんならこれから行きますわ」です。

 口約束をして電話を切ったのは12時前でした。内藤さんは高速道路をひた走り、3時前には「伊予インターを降りました」といい、そのうちわが家のチャイムが鳴ったのです。さすがナトウという雑貨のお店を徳島県北島町で手広く手掛けているだけあって、足腰の軽さはさすがと感心しました。一度会ったきりですが確かに見覚えのある顔でした。あれから7~8年も経っているのにお互いの顔もそれなりに変っているのにです。

若松進一ブログ

(徳島から「今すぐ」といって3時間後にやって来た内藤さん)
 早速わが家の海の資料館「海舟館」と私設公民館「煙会所」を見学して人間牧場へ向かいました。狭い山道にすっかり驚いた様子でしたが、人間牧場からの素晴らしい眺望に感心しながら、私が初めて内藤さんと出会った折、「人間牧場を作りたい」と夢を語っていたそうで、その夢を実現していることに感動しているようでした。

 私は自分の実現可能な夢を人に堂々と話すようにしてこれまで生きてきました。多分それは自分への挑戦でもあったのです。「夕日を日本一にしたい」とか「人間牧場を作りたい」とか、人様から見ればまるで夢のような夢を語る姿を見て、ある人は「若松の大ぼら吹き」と思ったに違いないのです。でも夕日も人間牧場もそれなりに成就すると、「若松は言うことも言うがやることもやる。さすがだ」と信頼はより以上に高まるのです。勿論言ったことを実行するにはそれ相当のな準備と覚悟、家族をはじめ多くの人の協力があってこそ成就するするものですが、私はことごとく言ったことを、有難いことに実行してきたのです。

 かくして内藤さんは私と、9月2日と3日の研修を人間牧場でやるよう組み立てて元来た高速道路を走り去って行きました。内藤さんが会長を務めるであろうチャレンジ会は僅か8人のこじんまりした会ですが、桜井さんや内藤さんのように凄い経営者の集まりです。そんな凄い経営者に私が何をすればいいのか戸惑うばかりです。でも役場の地域振興課長をしていた7~8年前と同じように、「人間の生き方の基本は一緒」と肩の荷をおろしてしっかりと対応したいと思いました。あれから7~8年、私もそれなりに進化しているので、自信を持って不足のない相手に立ち向かいたいと思っています。


  「若松さん 覚えていますか? いきなりに 電話の向こう 記憶辿りて」

  「そういえば カンピューターが 動き出す 俺の記憶も 未だ錆ずに」

  「経営者 やること早い 今すぐと 三時間後に 早くもわが家」

  「われ磨く 相手にとって 不足なし 進化の姿 見せたいものと」 

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shin-1さんの日記

○整形外科病院のロビー

 「脛が痛くて歩くことができないから病院へ連れて行ってくれ」と、昨日の朝親父がいうものですから、伊予市内の整形外科病院へ行きました。「昨晩は痛くて便所へ行くのもやっとで、眠れなかった」と、少し疲れた弱々しい声で話す親父は、病院の受付が8時30分からだというのに8時前には早々と準備をして、まるで子どものように「まだかまだか」とせがむのです。仕方がないので急いで食事を済ませ車に親父を乗せ8時に家を出ました。少し耳が遠くなったもののこの1年は風邪も引かず何とか元気に過ごしていただけに、足腰の衰えは少々気になりながらも20分ほどで病院に到着しました。

 受付10分前だというのに病院の玄関は既に開いていて、受付ロビーは人が入れないほどいっぱいなのです。人をかき分けるようにして受付一覧表に「若松進・初診・ひざ」と書き込み、親父を少し空いている椅子に座らせ、私は外で診察が始まるのを待ちました。聞けば昨日は病院の都合で午後休診だったとか、加えて昨日は金曜日で、土日休診のため毎週このように混雑するのだといわれ納得しました。

 病院の診察は9時きっかりに始まりましたが、親父の順番はこれほど早く来ても40番以降なので当分は診てもらえないと思い、患者さんが物療に入って少しロビーの椅子に空きができたので座って待ちました。意外と速く9時30分ころ診察室へ呼び込まれ院長さんの診察が始まりましたが、付き添いで診察室に入った私を見て院長さんは「若松さんお父さんは久しぶりですね」と声をかけられました。「とりあえずレントゲンを撮りましょう」とレントゲン室へ、ここでもレントゲン技師の女性から「若松さんお久しぶりです。相変わらず講演活動でお忙しいのでしょう」と愛想良い会話を交わし、レントゲン台の上で脛を中心に2枚撮影されました。

 「しばらくお待ちください」からが長く、レントゲン写真を見ながらの説明やひざ患部への注射や処置所見の説明を受けて診察が終わったのは10時ころでした。説明を受けながら薬とシップをもらい病院を出ましたが、病院のロビーは何をか語らんといった感じでした。

 病院のロビーは殆どがお年寄りでした。通院の長い人もいてみんな顔見知りの人らしく、つけているテレビの音など全く聞こえないほど大きな声で喋りまくっていました。病気の悩みから最近の時事ニュース、近所の人の悪口など、耳を澄ませばまさに人生の縮図のようです。時折通る市会議員選挙の候補者の話も、あの人は大丈夫、あの人は危ないなどと勝手気ままに批評し合っていました。その気になって聞けば結構楽しいものです。

 車に親父を乗せて帰りながら、久しぶりに色々な話をしました。行きと違って帰りは病院の先生の見立てが良かったためか、幾分晴れやかになって、重たかった口も饒舌になっていました。メル友である谷岡さんのメールにお母さんの話が書かれていて、「あなたは岡さんがいて幸せ」と書けば、「あなたはお父さんがいて幸せ」と返信されたばかりだったので、少し感傷的になって親父のこれからについて考えました。

 確かに谷岡さんが言うように、父親がいるだけ幸せなのかも知れません。しかも91歳の今日まで何とか自分のことだけでなく家のこともしっかりやってくれることは嬉しいことなのです。これからも親父を大事にしたいと改めて思いました。昨日の夕方隠居へ様子を見に行きましたが、少しは回復の兆しがあり、時ならぬ息子の優しさが嬉しかったようでした。


  「脛痛い 病院連れて 行けという 親父の姿 少し小さく」

  「病院は 爺婆の 養殖場? ボリュームいっぱい 大声話す」

  「久し振り 笑顔の院長 声をかけ 繁盛秘訣 人に優しく」

  「あの人は 落ちるか通る 評論を 案外当たって 落ちるかもなあ」 

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shin-1さんの日記

○わが家のツツジが咲き始めました

 わが家の庭と家庭菜園は約100メートルにわたって続いていて、その畦には白や紫のツツジが沢山植えられていて、このところの初夏のような暖かさに誘われて、早くも花が見ごろを迎えようとしています。元来つつじは五月といわれるように五月の花なのですが、やはり温暖化の影響でしょうか、四月も半ばだというのにもう四分咲きといった感じです。春の花は一年間待った割には意外と花持ちが悪く、チューリップなどはあっという間に花を散らしてしまいますし、今年は長持ちしたといわれる桜だってもう葉桜になってしまっているのです。

 私の家は少し高台にあるので、畑の畦に植えられたツツジはまるで花の帯のように連なって、道行く人の目を楽しませてくれるのです。昨日も近所の人と出会いましたが、「若松さん、あなたの家のツツジは私たちのために咲くようで、これからしばらくの間目を楽しませていただきます」と言ってくれました。確かに目線の向こうに見えるツツジの帯はまさに借景に値する風景のようです。

若松進一ブログ

 このツツジは元々私が役場でまちづくりを担当していた頃、エプロン会議が5万本のツツジの挿し木をしました。しかし残念なことにそのほとんどは枯れてしまいました。その折私も余った穂木を300本ばかり、勿体ないと自宅に持ち帰り挿し木をしました。世話の甲斐あって私の挿し木は殆ど全部ついたのです。

 大きくなったので畑に植えて育ててさらに大きく育て、自宅の横の家庭菜園の畦に植えました。家庭菜園の畦には当時杉の防風林があったのですが、それを一本一本ノコで切り焼却処分をしました。その後に植えたツツジはその後畑の養分を吸って大きくなり、親父の手によって選定や消毒、施肥料を繰り返し、今では立派な庭木として私たちの目を楽しませてくれているのです。

 挿し木をしてから早くも20年以上が経ちました。「播かない種は生えない。植えない木は育たない」といいますが、こうも立派に育つとは考えませんでした。


若松進一ブログ

 親父はこのところツツジを見に来るであろう親戚の人のことを考えてツツジの根元の草削りに余念がなく、動き働き過ぎたのでしょうか、昨日あたりから脛が痛くて歩くのがつらいといい始めました。今朝は私の書斎へやってきて、病院へ連れて行ってほしいとせがまれました。所用がありますが私の分は後回しにして、午前中は伊予市の病院へ連れて行ってやりたちと思っています。

 年老いた親父は町内に住む兄弟姉妹たちに花見に来るよう誘っています。今年も皆さんが来るのでしょうが、行動範囲の狭い親父にとっては、ツツジの花の咲くこの季節が一番いい季節であるはずなのに、脛が痛いのは何とも辛いことなので、早く直してやりたいと思っています。

若松進一ブログ (ツツジの咲く横の畑には甘夏柑が鈴成りです。甘夏柑の美味しい季節となりました)

  「丹精を 込めたツツジが 今年また 立派に咲いて 親父楽しみ」

  「足腰が 少し痛いと 言う親父 今日は病院 連れて行かねば」

  「花咲いた 見に来るように 伝えとけ 兄弟姉妹 加齢気がかり」

  「挿し木した ツツジ大きく なりにけり 二十数年 手塩にかけて」

 

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shin-1さんの日記

○若松進一ブログ集CD-Rが届く

昨日郵便ポストに嬉しい封書が届きました。送り主は大分県大分市佐賀関町に住む渡邊又計さんからです。渡邊さんとは、対岸の愛媛県伊方町三崎井野浦に住む塩崎満雄さんを通じて知り合い、他の友人に比べればそんなに数は会っていないものの、今では私にとってとても大切な心許しあえる友人なのです。大分の佐賀関といえば関アジ・関サバのブランドで全国に知られた所ですが、近年過疎化が進み何年か前にお隣の大分市と合併をしました。合併前の佐賀関町を知っている者にとっては、佐賀関でさえどこか右肩下がりの閉塞感が町の中に感じられて少し寂しくなっているようです。

 渡邊さんは昨年の4月、長年勤めた役場(合併して市役所に)を定年退職し、今は佐賀関町の社会福祉協議会に勤めていますが、写真を趣味とする歌の上手いダンディな男です。特に趣味の写真はアマチュアカメラマンといいながら玄人で、これまでにも度々写真コンクールで入賞しているほどの腕前です。

 渡邊さんが在職中、渡邊さんの口利きで大分市や佐賀関町へは何度も講演に出かけていますが、その度に立派な写真が封書やメールで送られてくるのです。ここだけの話ですがもし私が死んだら、渡邊さんが撮ってくれたピント深度が深い写真を遺影に使って欲しいと思うほどの出来栄えなのです

若松進一ブログ(渡邊又計さんから送られてきたCD-R)

 昨日送られてきたのは「若松進一ブログ集」と書かれたCD=Rなのです。「えっ何で」と封書を開けて中から出てきたCDを見て一瞬驚きましたが、渡邊さんが何年か前に「若松先輩、私はあなたのブログをほとんど毎日読んでいます。そしてそれらは私流に校正して保存していますので、ブログの記録が消えたらいつでも言ってください。再生してあげますから」と言っていたことを思い出しました。

 私のブログを読んでくれる人は多い日で千件を超えますが、私のブログを記録として残している人は私が知る限り、高知県馬路村の木下課長さんと佐賀関町の渡邊さんくらいしかいないのです。木下課長さんはつまみ食い型で私のブログの記事を読んで感じるところをプリントアウトして綴っているようです。渡邊さんは記録保存型で全ての記事の誤字・脱字・変換ミスを修正して保存するという念の入れようです。

 「沈みゆく 夕陽に待った 夢つなぎ 輝き説いて ふるさとめぐり 若松進一ブログ集」「N0.1 平成17年9月~平成21年3月分」「平成21年4月13日製作CD-R」とCDの表面にプリントされ、私の似顔絵名刺と恋人岬のモニュメントの写真がちりばめられていました。全体の色はオレンジ色で何ともほのぼのとしたイメージです。

 このCD-Rの製作にどれほどの手間暇をかけたのだろうと思うとき、気の遠くなるような時間と手間が脳裏に浮かんでくるのです。私のためにこれほど尽くしてくれた人はないだろうと、あらためて感激するのです。

 それにしてもパソコンの技術も凄いものです。これまで3年半かけて書いたブログの記事が、僅か一枚のCDに収められるなんてとても信じられないのです。私がこれまで書いたブログ記事は、プリントアウトして月毎一冊に表紙を付けて綴り、人間牧場のオープン書棚に置いていますが、ブログとしては他に例をみないほど毎日2本のの記事は長いもので、よくもまあの量が一枚に収まったと感心するのです。

 渡邊さんありがとう。この一枚は私の宝ものとして大切に保存しておきたいと思っています。あつかましいお願いながら今後もN0.2の製作をお願いしたいものです。

  「膨大な 私のブログ 一枚の CD-Rに 収めて届く」

  「世の中に 達人と呼ぶ 人ありて 真似のできない 自分諦め」

  「いい人を 友に持ったと 思いつつ いつも甘える 自分を恥じる」

  「情報化 ここまで進む 驚きて CD一枚 書棚に入れる」

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shin-1さんの日記

○摘み草料理

 私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、食べるものに事欠き自然の中にあるものを好んでというよりは、仕方なく食べていました。ギシギシはスイジンといって食べていたし、イタドリもイタンポといって塩を付けて沢山食べました。また野山には季節の食べ物(野イチゴ、アケビ、サルナシ、しいの実、ヤマモモ)などがいっぱいあって誰にも知られたくないそれらのありかを知っているだけで、何か宝物を持っているような気分になり、頭の中には暦の歳時記のようにそれらの収穫時期がインプットされていました。

 最近は不景気になったせいでしょうか、それとも田舎や健康食への回帰でしょうか、摘み草などという言葉が盛んに使われ、摘み草料理などは高級として持て囃されているようです。

 初春、山野に出て食用となる野草や山菜を採取することを摘み草といい、春の七草に代表される野草を摘んで食べる比較的シンプルな摘み草料理は昔から日本人の暮らしの中にあって今もひっそりと息づいています。セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ、スズナ・スズシロこれぞ七草などと、母から教えてもらった言葉を今もしっかり覚えていますが、これがホトケノザ、これがナズナと現物と名前が一致しないのは、返す返すも残念です。しかし春たけなわになったこのころになると、野山は山菜の宝庫で、摘み草のような洒落た雰囲気ではありませんが、タケノコやワラビ・ゼンマイが出回り、フキやウド、タラの芽などが日曜市の店先をわがもの顔で独占しているのです。

若松進一ブログ

 私はカゴを持って家の裏庭を歩いてみました。食べれる物と思われる草をあらん限りの知識で摘んでみました。ヨモギ、セリ、オオバコ、テイレギ、ノビル、三つ葉、柿の若芽、ギシギシ、イタドリ、フキ、ツワブキ、クレソンなど、あっという間に10種類もの食べれる草を見つけました。これらは正直言って道端に生えている草で、足で踏みつけたり草刈り機で刈られたりする運命の、いわゆる人に嫌われる雑草なのです。

 でもこれらの野草が、京都の料亭では一流の調理人によって様々に料理され、お金になる食べ物に生まれ変わるのですから勿体ない話です。直ぐにお金の話になってしまいますが、せめて田舎に生きているのですから、これら自然の植物を食べて暮らすのも悪くはないと思った次第です。

 今晩は早速これらのいくつかを料理してとりあえず春の摘み草料理を妻に頼み、試食してみたいものです。今年は人間牧場のおもしろ教室でも子どもたちに、野草を食べさせてみたいと密かに思っています。何年か前わが子どもにヨモギの天ぷらを食べさせたところ、「お父さんこれ草と違うん」とけなされた経験があるだけに、しっかりと説明できるように勉強しておきたいと思います。


  「家周り ぐるっとすれば 足元に 食べれる草が いっぱいあって」

  「今晩は ヨモギの天ぷら 食べようか そうだクローバー かき揚げにして」

  「苦味食べ 苦味ばしった いい男 なりたいものだ ヨモギを食べて」

  「ノビル掘り 水で洗って 味噌をつけ これはいけると 確信したり」

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shin-1さんの日記

○名医によってパソコンのガンが完治しました

 昨日の朝は憂鬱な幕開けでした。この2~3日パソコンの調子が悪かったのですが、何とかブログを書いて登録した途端、パソコンが固まったようにまったく動かなくなってしまったのです。頼まれた原稿のことも締め切りが近付いていて気になるし、途方に暮れたというのが偽らざる心境でした。半年前にもこんな状態になって、息子や娘婿を巻き込んで大騒動をした悪夢が頭をよぎりました。その時は娘婿の診立てで新しいパソコンに買い替えなければならないという故障寿命の決断が下されたのです。

 私のようなリタイアした人間にとって10万円以上の買い物は正直言って骨身に堪えます。そのことを妻に話すと、「仕方がないね。仕事にいるのだったら」と、体型と同じ「太っ腹」に感謝したものです。かくして娘婿に頼んでインターネットでパソコンを購入することになりました。私のような古い人間は、「パソコンは壊れないもの」「パソコンは高いもの」「パソコンは備品」という観念が強く、少し勇気がいりましたが、私の使いこなせる能力を見定めて13万円を妻の財布から出してもらい、東芝のノートパソコンDYNABOOKという、テレビでもよく宣伝している最新のパソコンを購入したのです。

 それまで使っていたのはWindowsXPでしたが、今度購入したのはWindowsVistaというソフト内蔵です。最初はソフトの変化に面食らっていましたが、使うほどに慣れ親しみ、今では何の違和感もなく使っているのです。私にとってパソコンは日々の暮らしにすっかり溶け込んでいて、昔のようなパソコンアレルギーも解消され、空気を吸う、食事をする、寝るといったことと同じように、起きれば書斎のパソコンに向かう、寝る前にはパソコンに向かうといった日常になっていました。したがってパソコンはスイッチを入れれば私の胃の向くままに動くものだと勘違いをしていました。

 パソコンが動かなくなると、まるで体の一部が壊れたような不安が体中を駆け巡りました。妻にその話をすると「えっ、また壊れたの?。息子か娘婿に診てもらったら」と、13万円出した半年前のことを思い出すように渋い顔をしました。私は妻に内緒の小遣い帳代わりに使っている貯金通帳の残高を見ながら、10万円余りの出費のことを考えていました。

 朝打ち合わせした午後1時半に娘婿が務めている大学の研究室を訪ねました。パソコンを丸ごと移動したのです。早速電源が入れられ診立てです。娘婿はパソコンをまるで魔術師のように動かし、動かなくなった原因がウイルスバスターであることを突き止めました。私のパソコンは娘婿がウイルスバスター処理をしているのですが、メールにくっついて別のウイルスバスターが侵入したらしく、その喧嘩が原因だというのです。色色いじくり0分ほどで元の状態に回復しました。私にとってはガン患者が名医によって治ったのと同じ感覚で、その手さばきをあっけにとられて見ていました。「これで大丈夫だと思いますが、また故障したらいつでも」と温かい言葉を貰って帰宅の途に着きました。

 ここだけの話ですが、貯金通帳を降ろさなくても済んだのでホッとしています。人間牧場へ釜戸小屋を作る計画のために必要な資金繰りが悪化すると懸念していただけにパソコンの復旧は私にとって大きなプラスとなりました。昨日帰ってからはパソコンを少し休ませようと、回線復旧の確認をしただけで電源を切って寝かせました。今朝はブログを書き始めると再起動の表示が出て、せっかく書き始めた文章が流れてしまいましたが、まあこのくらいは許せる範囲です。これからもこのパソコンを大切に使って行きたいと思っています。


  「動かない イライラ募る パソコンを いとも簡単 直すは名医」

  「ああ又か 通帳残を 見ながらも 出費覚悟す パソコン故障」

  「これからは 大事扱う 心決め その口の下 パソコン酷使」

  「今日だけは ゆっくり休め 電源を 切ってパソコン 机上置く」

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shin-1さんの日記

○断るつもりが断りきれずに

 昨日は久しぶりに町内の学校を訪問しました。4年前教育長を辞めた私ですからもう学校には縁もゆかりもないのですから、学校に行く必要はないにも関わらず「何故学校へ行くの?」とお思いでしょうが、実は昨晩双海町子どもおもしろ教室の実行委員会がありました。実行委員に名を連ねていることもあって小学校の校長先生も3人集まるため、それまでにどうしても片付けておきたいことがあったのです。

 私は昨年度まで上灘中学校と由並小学校、それに伊予市の学校評価委員をしていました。昨年はその評価が県の指定を受けていたためとにかく忙しく、これは私のスケジュールにとって限界と思い早めにお断りに出かけようと思ったのです。

 まず一番近い上灘中学校へ出かけました。上灘中学校はこの日の夕方修学旅行に出発するそうで、校長先生がいたため校長室に通され、しばらくの間お茶をいただきながら学校の話や人生観について話をしました。「教頭先生から電話のあった今年度の学校評議員就任の件ですが」と言いにくそうに切り出すと、校長先生は「そんなことを言わず今年も続いてお願いします」と、修学旅行の前に良い返事で旅立ちたい旨説得され、やばいと思いながら断る理由もなく引き受けることになりました。


 学校を出ようとすると学校の向こうから、市議会議員選挙の選挙カーが2台も立て続けに近づきてきたため、バッティングしてはならないと右折して翠小学校へ走らざるを得なくなりました。そうだ、久しぶりに翠小学校の和田校長先生にも会いに行こうと思い、学校訪問となりました。翠小学校では既にエコ改修工事が始まっていて、学校の校庭は鉄板の板で半分に仕切られ、まるで工事現場です。顔見知りの先生が変わられ、顔見知りの先生が来られていて、職員室で校長先生を中心に雑談にふけりました。和田校長先生に舞たうん100号と風おこしを一部ずつを、届いているだろうと思いつつ渡して、舞たうんに翠小学校をバックに写した私の写真を、無断で使ったことをお断りしました。この学校へ来るとついつい長逗留してしまう癖があり、昼のチャイムにせかされてお暇を終えました。

 午後からは所用があるので由並小学校まで急いで行こうと役場まで帰ると、珍しい人とたまたま顔を合わせました。松山の人ですが、聞けば私を訪ねようと思っていたそうで、由並小学校へ行くこともできず3人の方をわが家に案内することになったのです。

 昨日は午後6時におもしろ教室の実行委員会は始まりました。由並小学校の吉田校長先生から「若松さん、今年も引き続いてお願いします」といきなり切り出されてしまいました。やばいと思い、今日の上灘中学校での顛末を話し、結局はこれも断ることができず断念してしまいました。情けない話です。

 下灘小学校の辻井校長先生に青少年赤十字から送られてきた私の講演録のお礼を言いましたが、いやはや未だに今年もまた学校教育から足抜けができないようです。

 かくしておもしろ教室の実行委員会会長も留任と決まり、家に帰って妻に伝えると、「今年も忙しそうで大丈夫なの?」と心配されてしまいました。

  「断りの つもりがどういう 訳だろう 断りきれず またもズルズル」

  「久方に 学校訪問 校長と 談笑しつつ 少子驚く」

  「右曲がり 左曲がりと 右左往し 挙句の果ては 珍客招く」

  「舞たうん 風おこしという 二冊持ち 名刺代わりに 辞任伝える」 

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shin-1さんの日記

○パソコン故障に対する心情の吐露

 ずっと使っていたパソコンが壊れ、昨年東芝のDYNABOOKという新しいものに買い替えてからこれまで、何の問題もなく推移していた私のパソコンが、一昨日辺りから急に機嫌が悪くなってしまいました。思い当たる節はあるのです。東京の霞が関から膨大な資料がメールで送られてきて、それを開こうとチャレンジしましたが、そのことがパソコンにとっては重い荷物だったようで、機嫌を損ねてしまいました。いつもは格好よく知ったかぶりでパソコンに向かい、さも使いこなせているような錯覚になっていましたが、パソコンの機嫌が悪くなる度に、酷使し続けている自分を深く反省するのです。

 それでも何とか原状回復したいと、あらん限りの手当てを試みましたが、手当てをすればするほどパソコンは言うことをきかなくなり、こちらのイライラをあざ笑うようにどうしようもなく、ついに動かなくなってしまいました。

 こんな場合の解決方法は二つあります。ひとつは助け舟です。松山に住んでいる長男に電話連絡して、あれやこれやと電話口で現状を語り、分かる範囲で指示を受けて自分自身で現状回復を試みたり、最後は仕事帰りに立ち寄って修理してもらうのです。長男は建築設計関係の仕事をしていて、パソコンは毎日使っていますが、どちらかというと建築関係の専門ソフトを使って仕事をしているため、全てが分かるわけではなく、直らないこともあります。今回も一昨日仕事帰りにわが家へ立ち寄ってくれ修理にチャレンジして少しは回復、ブログ等に関しては復旧し何ら問題もなく書けるようになりましたが、メールの送受信は未だ止まったままなのです。

 もう一つの解決方法は長男の婿への助け舟です。娘夫婦の家族も松山に住んでいます。婿殿は大学に勤めていて、パソコンは私から見ると名医と思われるほど詳しいのです。これまでにもまるで名探偵コナンのように早業で問題を解決してくれました。しかしこの時期の大学は授業が始まったばかりで、婿殿は忙しく私のお遊びに関わる暇などないのです。それでも頼る所もなく途方に暮れて相談しました。今日の午後とりあえず時間を取ってくれることになっているので、パソコンをひっさげて出かけてみようと思っています。

 昨日私のそうした苦難に嬉しいFAXが届きました。婿殿からです。「メールが読みだせないということですが、インターネット・プラウザで下のアドレスにアクセスしてみてください。これであればメールソフトが動かなくてもメールが読みだせます」と書かれていました。私にとってはまるで暗号か呪文のような英語の文字が、幾つも羅列していました。

 慣れない手つきで書いているままの「暗号?」のような記号を入力すると、私のメールが出てきました。まあ凄いです。私はまるで戦争中に海軍が作戦を暗号で送信する自分だけの回路を見つけたような気持になりました。加えてこの二日間読まれなかった未読のメールが凄い量見つかりました。時間をかけながら一つ一つ未読メールを開いて読み、返信をしながらとりあえず昨晩までのものはお陰さまで処理することができました。

 名医のお陰で私には故障の際の迂回回線が一つ確保されたことになりました。これは強い味方のように思えるのですが、これはあくまで迂回回線なので、本線回路の復旧に全力を挙げねばなりません。今朝も朝が来るのが待ち遠しいくらいでした。

 パソコンに関しては無能とも思える私ですが、二人の息子という強い味方のお陰でここまで乗り切ってきました。これからもできるだけ疎んじられることのないように、また迷惑をかけることのないように努力して行きたいと思いながら眠れぬ夜を過ごし、朝を迎えました。


  「学校で 習わぬつけが ボチボチと ボロが出始め 心乱れる」

  「暗号の ような英語が ズラズラと 入力したら 迂回回線」

  「イライラを あざける如く 動かない メール受信も 返信さえも」

  「使い過ぎ 妻の一言 グサリくる 確かにそうだ 納得しつつ」

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shin-1さんの日記

○市議会議員選挙は激戦のようです

 「合併して早4年が経ったのか」と誰もが時の流れの速さを感じながら、合併して2度目の選挙戦が幕をあけました。市長選は対立候補がなく日曜日の告示日に早々と当選が決まり、市長さんの顔も見ぬままで、どこか拍子抜けした感じもあります。それでも市議会議員選挙は無投票かと思いきや立候補予定者がいて21人に対し22人が立候補し、にわかに少数激戦となりました。

 前日まで白い掲示板だった候補者ポスター掲示板には、22人の顔写真がずらりと並び、いずれも自分では最高の男前と言わんばかりにこちらを向いて何かを訴えているようです。写真と名前の横には、活力や元気などといった市政に対するメッセージが並んでいて、公約らしきものよりスローガンが目立っているようです。

若松進一ブログ(市議会議員立候補者の皆さん)
若松進一ブログ(早々と当選が決まった中村市長さん)

 選挙戦も2日目に入ったこの日は、選挙カーが目いっぱいボリュームを上げて市民に自分への投票を呼び掛けていました。

 伊予市では前回の選挙が合併前旧市町毎の小選挙区制だったため、今回から全市一区の選挙になりました。ゆえに中山や双海といった小さな町から立候補する人は慣れない選挙戦に少なからず翻弄されているようです。というのもこれまでは小選挙区だったため得票数が少なくてすみましたが、今度は千票近くを目指さないと当選が危ないのです。つまり自分の陣地を固めながら大票田といわれる旧伊予市へ食い込まないと当選はおぼつかないのです。

 伊予市が地盤の人も中山町が地盤の人も回数こそ少ないものの今回はあいさつ回りのような形で双海町へ街宣車を繰り出して、今まで以上に賑やかな選挙戦となっているのです。

 昨日は人間牧場で草刈りの仕事をしていましたが、人間牧場のすぐ近くまで街宣車は入っていました。その度に草刈り機を止めて候補者の名前を聞くのですが、「市議会議員に立候補した○○が立候補のご挨拶に参りました。○○です。清き一票をよろしくお願いします」とウグイス嬢の声が山々にこだまして、本物のウグイスも顔負けといったところでした。しかしあいさつに見えられても候補者自身の声は結局聞こえませんでした。

 昨日ある子どもがある親に言ったそうです。「○○という選挙に出る人はみんな男だのに何で女の人なの?嘘つきじゃん」と○○候補と名乗っているウグイス嬢が○○だと思っているような話でした。ドキリとしました。凄い洞察力です。立候補者はよくよく考え、当選したら言っていることを全て実行して、公約倒れにならぬよう頑張ってほしいと願っています。

 選挙に出る人の当選したいと思う深い悩みや血のにじむような努力を思うとき、そんな境遇に追い込まれない世界にいる自分を見てホッとするのです。


  「○○です ウグイス嬢が いうけれど あれはウソつき 鋭く指摘」

  「山いあの 道行く選挙の 声高く 本物ウグイス 少し戸惑い」

  「掲示板 みんないい顔 しています まるで俳優 顔より心」

  「今朝の雨 水入りのよう 顔濡らし それでも私 お願いいいたげ」


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○夕日の男だのに何故か朝日新聞

 私はこれまで仕事がら、テレビやラジオ、それに新聞、雑誌等、いわゆるマスコミに取り上げられてきました。特異な存在だった夕日をテーマにしたまちづくりはその最たるもので、現職を去って4年にもなるというのに、未だに私の元へは取材の要請が随分あるのです。電話で取材の要請がある度に、「すみませんが私はもう第一線を退いていますので、市役所の観光所管の人に聞いて下さい」と電話を回すのですが、「市役所に聞いたら分からないので若松さんに聞くよう紹介されました」と答えが帰って来る有様です。仕方がないので余程のことがない限り対応するのです。

 実は先週も朝日新聞大阪本社から取材の依頼がありました。夕日の似合う男だというのに何故か朝日新聞です。いつものことながら朝日新聞の取材は他の新聞や雑誌と違って時間的に長いこと、うるさいくらい何度も取材の内容の追加取材や確認があることなどなどの腹をくくり、天気も良いので取材場所はわが家の敷地内にある東屋を指定しました。自宅での待ち合わせ予定は午後2時でしたが、記者がやってきたのは10分前でした。カーナビのついたレンタカーにわが家の電話番号を入力して、一発でやってくるとはさすがです。

 記者はこれまでにも一度取材をしていただいた見覚えのある人で、私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本に付箋をいっぱいつけて、事前に私の情報をかなりインプットしていました。直感的に「この記者はできる人」と思いました。

 やがて2時間余りの取材が終わり、いきなり「人間牧場は遠いのでしょうか?」というのです。私が「15分程度」と話すと「是非見たい」といい、早速同行してシーサイドで待ち合わせしているカメラマンに少し待つよう手配をしました。私はこの日保内町川ノ石公民館で公園の予定が午後7時からあるので、片道1時間かかる場所なので、取材は最終6時までと念を押していました。夕日の取材にカメラマン同行で来たのに日没午後6時30分なのにと、多少不満顔でしたが、人間牧場の壮大なスケールの眺望を見て納得しつつも、午後6時10分まで取材を延長してほしいと懇願されました。

 待ち合わせ場所に帰ってカメラマンと面会しましたが、まあそれからが大変です、テレビでもないのにそのカメラマンは私をモデルに様々な角度から写真のリハーサルをするのです。それもこれも午後6時10分というタイムリミットのためと我慢しました。リハーサルの最中に近くを沢山の人が通りましたが、みんな不思議そうに通っていました。

若松進一ブログ(車の中からサーモンピンクに彩られた西の空を見ながら夕やけこやけラインを、西に向かって走りました)

 無事取材を終えて6時10分にシーサイド公園を出発しましたが、この日は特に夕日が美しく、隣りの大洲市長浜町まで夕日を右手横に見ながら走ることができ、自分がかかわって命名した「夕やけこやけライン」という愛称に納得しながら走ることができました。

 川ノ石公民館へは丁度19時、時間通りについてホッとしました。会場には岡村さんや安藤さん、白石さんなど顔見知りの方も私の話を聞きに見えられ汗顔でした。かくして長い長い一日は終りましたが、取材の度に「マスコミ登場はもうこれが最後」と思うのですが、視察依頼や夕日の取材はもう少しの間ホローしなければならないのかも知れません。


  「こりゃ不思議 夕日の似合う 人なのに 朝日新聞 取材来るとは」

  「夕日地図 そこに座れと 支持をされ まるでモデルの ように写真を」

  「長いぞと 腹をくくった 取材にて それでも最後 時計イライラ」

  「今日もまた 双海の夕日 落ちて行く 幸せ気分 浸りながらも」

 

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