shin-1さんの日記

○岡山県講演日帰りの旅

 「今日は一日岡山県へ出張します。帰りは夜です」とブログに書き込んで6時過ぎにわが家を出ました。急ぐこともないのに何故か今朝は携帯電話を充電器の上に差し込んだまま、持たずに家を出てしまいました。伊予市付近を走っていて気付いたのですが、「まあいいか」と諦めました。近頃は財布と携帯電話だけは忘れまいと思って確認をして出かける癖がついていたのですが、私もいよいよ認知症の前触れかも知れないと、ズボンのポケットの軽さが気になって仕方がありませんでした。

 松山駅前キスケ駐車場に車を止め、8時11分松山発の特急しおかぜに乗りました。2~3日前までは車で行く予定でしたが、岡山駅から徒歩で10分くらいのピュアリティまきびが会場なので、公共交通機関を使う方が楽だと急に思いついたのです。久しぶりに予讃線、瀬戸大橋線を走って岡山へ行きましたが、岡山駅に着いたのは10時55分でした。

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(瀬戸大橋の上から見下ろすフィッシャーマンズワーフもかつての賑わいはなく散閑としていました)

 今日は岡山県の農業士認定式が行われ20数人の方が選ばれて赤いリボンを付けて列席していました。認定式の後の研修会の講演を頼まれたのです。県の農林水産部長さんなどそうそうたる人が集まっていました。勿論農業士の人も100人を超えて集まっていました。

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(会場には農業士に新しく認定された人や農業士が多く集まっていました)

 今日の講演依頼は岡山県経営構造対策協議会の高田事務局長さんの推薦によるものです。高田さんは昨年8月20日テクノサポート岡山で講演して旧知の間柄になっていて、今日もわざわざ訪ねて来てくれました。

 高田さんは昨年の講演の内容をテープ起こしして「まちづくり 人づくり 拠点づくり」というタイトルで、ポケットサイズの私の講演集作ってくれたのです。この本は岡山県下各地へ配られたようで、私のもとへもかなりたくさん送っていただきました。

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(ポケットサイズで発行された私の講演集)

 先日ブログで紹介した日赤が作ってくれた千少年関係の本と合わせると2冊もタダで私の本が作られたのですから嬉しい限りです。

 今日は携帯電話を忘れたこと以外は男時です。列車の到着や出発が全て上手くいき、講演が終わって列車に乗りましたが5時半にはもう松山へ帰ることができたのです。お陰で列車の中ではキヨスクで買い求めた文庫本を一冊乱読することができ、ウトウトしながら長閑な旅を楽しみました。


 車窓に広がる瀬戸内の海も、遠方にかすむ石鎚の山並みも、また瀬戸大橋や番の州の工業地帯も初夏の穏やかな日差しに映えて、のんびり長閑に見えました。サンデー毎日の私には「今日はて何曜日だったかな?」と思い、木曜日であることすら忘れているのです。自由とはいいもんだと4年間続いた自由人人生を喜びました。

 忙しかったえひめ地域づくり研究会議の役員や自治会の会長などの役職も一通り手を引き、大学を除けば講演も自分のペースで選べるし、ひょっとしたら今が一番自由な人生かも知れないのです。これまでの4年間は自由人になったといいながら、現職時代以上に忙しく日々を過ごしていました。少しオーバーワーク気味と妻がブレーキをかけてくれるのですが、痛んだブレーキは効くどころかスピードを上げ過ぎていました。これからは少しスピードをゆるめて生きて行きたいと思っています。


  「窓越しに 流れて消える 風景を 見つつしんみり 四年総括」

  「岡山は 通過する街 はずなのに 今日は講演 街を歩いて」

  「後楽園 看板表示も 懐かしく 妻と来た日は 遠い昔に」

  「ステージに 人間牧場 主と書き 大きな垂れ幕 嬉し恥ずかし」

 

 

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○わが家の庭のツツジが満開です

 先日えひめ地域政策研究センターからイベントBOXという一冊の雑誌が送られてきました。毎年1回発行されている雑誌ですが、今回は「えひめ花街道」という特集を組み、県内の花に関する情報が満載でした。私も編集を担当した松本研究員さんから寄稿を頼まれ、「ふたみ花街道~まちを綺麗にすることから~」という原稿を送っていたため、イベントBOXが送られてくるのを楽しみにしていましたが、いい本ができたとわがことのように喜んでいます。

 私が双海町役場に勤めてまちづくりの一環として花に取り組んでからもう20数年が経ちました。最初は周りの人に「花を植えよう」といっても、「花より団子」を決め込んでなかなか動きませんでした。それがどうでしょう。今は県内でも指折りの花の町に変身しているのですから驚きです。特に早春の水仙、春の菜の花は有名で、海沿いの急峻な地形が故に大した広さではないものの、すっかり風物詩となって県内外に情報発信しています。

 振り返れば、「そこは植えてはならない」というJRに歯向かってポケットから種を落としたり、桜の苗木を勝手に植えたりと、様々な武勇伝が生まれたことをつい昨日のことのように思い出すのです。

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 私は何年か前、人づくり10年計画の一環として、世界一の花の町といわれるニュージーランドクライストチャーチを訪ねたことがあります。その町で沢山のことを学びましたが、私たちが花づくりといえば観光や金もうけのことを連想するのですが、この町では「花を暮らしの中で楽しむ」といったガーデニング思想が市民の間に浸透していました。しかしそのガーデニング思想も日本のように自宅の庭の門を閉ざすのではなく、外に向かってオープンにしていることでした。この考えは私に大きな影響を与えたように思います。

 以来自分自身も自宅で忙しい合間を縫って花づくりをするようになったり、花を愛でる心が育ったように思うのです。そこで今日は皆さんにとっておきの今が盛りと咲き誇る、わが家のツツジをご紹介しておきますので、暇な方、花を愛でる方ははどうぞわが家へお越しください。お茶を飲みながら花談義をしたいものです。ついでに私設公民館「煙会所」や海の資料館「海舟館」を覗いて見るのも一興です。

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 この花の帯は約100メートルの長さで、今は90歳を超えた親父が剪定や除草など一年かけて世話をしているのです。元々は私がトロ箱に挿し木をして育てたものを杉垣を切って植えたものです。20数年も経つとこんなに立派に育つのです。例年だと5月の連休辺りに咲くのですが、温暖化の影響でしょうか年々早くなって、今が見ごろとなっているのです。

 近所のおばさんたちが「大洲の冨士山に負けんくらい綺麗で、わざわざ花見に行かなくてもここで十分」と持ち上げて褒めるものですから、親父は悦に入って世話をするのです。最近は親類の人もこの時期になると花を愛でに集まってくるのです。植えた頃は彩りなんか気にせずに植えたため、配色は今一ですが、花に変わりはないので、必見のツツジを見にお越しください。

  「丹精を 込めて育てた ツツジ咲く 愛でる言葉を 信じて悦に」

  「今でしか 見れないツツジ 見納めと 毎年言って 今年も元気」

  「花守の お陰で花見 洒落込むが 下戸ゆえお茶と 団子楽しむ」

  「花づくり 花見る人は 別の人 褒めてもらうが 一番肥料」

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○いい情報を発信しなければいい情報は受信できない

 最近私が参加している年輪塾ネット上でホットな話題がミツバチと教育論です。教育論にせよミツバチにせよ、興味のある人は読んだり自分の考えや思いを書き込みますが、興味のない人にとってはくだらない議論と思うのでしょうか、反応もなくまるで無視しているような感じがしないでもないのです。

 一昨日ネットを管理している仲間から、年輪塾生たちの書き込みが少ない件に関していかがなものかと電話がかかってきました。私も気になっていたことなのであれやこれや話をしましたが、いつの時代も、どんな組織も幽霊会員はいるもので、年度当初で仕事が忙しいのかも知れないので、もう少し様子を見ようとお話ししました。そういいつつ年輪塾ネット上での自分の情報発信もそんなに出来ていなかったと少し反省しました。最近いつも思うのですが、いい情報に巡り合うにはまずいい情報を発信しなければなりません。情報とは一方通行ではなく相方向であることを肝に銘じなければならないのです。

 昨日山奥組の井上さんからミツバチについて年輪塾ネットに書き込みがあったので、今朝人間牧場へ行ってみました。一昨夜から低気圧と前線の影響で体地を揺るがすような南西の風が吹き荒れたため、人間牧場に設置しているミツバチの巣箱が風で吹き飛んでいないか心配だったのです。井上さんは私が忙しいことを百も承知で、わざわざ野村町から人間牧場へお輿入れしているミツバチの様子を、私が留守にもかかわらず見に来てくれたのです。そしてミツバチの巣箱を掃除し、分封が近づいているため他の2つの巣箱に蜜蝋を塗り直し、入口にはミツバチを誘うようにランの花をペットボトルし差し込み網をかぶせてくれていました。またもう一つ持参した箱をヤマモモの木の根元に設置して万全を期していました。これで人間牧場には4つも巣箱が誕生したことになるのですが、井上さんの言うようにミツバチは気まぐれな小動物だけに果たして上手くいくかどうか気がかりなのです。

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(ヤマモモに木の下に井上さんが設置したミツバチの第4の巣箱)

 4つの巣箱は井上さんの配慮でしっかりと固定されているため、大風の難を逃れてしっかりと座っていました。来月23日には子ども教室が人間牧場で開かれる予定で、その折ミツバチの話を子どもたちに話してほしいと、井上さんに頼んでいますが、ミツバチの定住を心から祈っています。

 井上さんのお陰でミツバチのネット情報、8チャンネルの存在も知りました。井上さんは8チャンネルを通じて知り合った人と情報交換しながらミツバチ飼育の腕をあげようと努力していると聞き、人知れず努力している姿に頭の下がる思いがしました。

 「そのうちミツバチでも飼おうか」などと完げている人も多いようですが、他のことと同じようにミツバチの世界も奥が深いようです。


  「大風が 大地揺るがす ほどに吹き 心配したが どうにかもって」

  「幽霊の ような人あり 音沙汰も ないと心配 わが子と同じ」

  「情報は 発信せずば 受信量 期待できない 肝に銘じて」

  「箱の中 どんな営み してるのか 見えない世界 詮索しつつ」


 

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○限界集落勉強会で平岡地区を訪ねる

 昨晩、「過疎と高齢化がすすむ集落を考える」通称「限界集落勉強会」が伊予市平岡地区で開かれ、メンバー10人とともに出かけました。限界集落という言葉が差別用語のようにも聞こえると、限界集落という言葉以外の呼び名を探していますがいまだ見つからずお茶を濁しています。

 私にとっては先日犬寄地区の高市さん宅や松浦さんのゴリラハウスで行われた吊るし雛まつりの折、訳も分からず赤海(あかさこ)から平岡を通って大平へ下りた経緯があるので、大体の土地勘は分かっていましたが、緑風館で待ち合わせ車2台に分乗して急峻なつづら折りの山坂を登りながら、限界集落になる理由などを考えていました。集落の中心と思しき平岡地区は標高300メートル近い場所にあって、眼下には離山越しに瀬戸内海が一望できる素晴らしい眺望が開けていました。

 16戸ながら集会所に集まっていただいた方は18人で、いずれも私たちの年齢を超えた人たちでしたが、聞けば全員車の免許を持っていて、今のところ暮らしの不便はないそうです。しかし2キロ余り遠くからパイプを引いて確保している飲料水の当番見回りや、佐礼谷の診療所へ通うこと、買い物に行くことなど、車に乗れなくなるであろう5年、10年先のことを考えれば不安が募ると心情を吐露する意見が相次ぎました。


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 「この地区が好き」「この地区に死ぬまで住みたい」というふるさとを愛する気持ちは他の限界集落と同じで、「何とかしなければこのままでは自然消滅をする」という焦る心もありました。私たちは限界集落勉強会といってこうして限界集落へ入り意見を聞いていますが、この日は少し方向を転換を試みてみました。

 限界集落に住む人たちの願いは「道さえ良くなれば」と、道の改修をいの一番に言うのですが、道が良くなれば限界集落が解消するという保証はどこにもないのです。平岡地区までは県道が通っています。財政的に厳しくなったと言いながら県道ゆえに草刈りなどの道路維持は県がしてくれていたようですし、一部狭い道があってもかなり広い道のようでした。起点となる大平から2キロ余りですからそんなに遠い距離でもないのです。要は「あきらめ」の気風が蔓延しているようにも思える気の持ちようが問題なのです。一歩前へ踏み出す勇気を持たねば、他力本願で集落を守ることは絶対できないのです。

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 ふと見上げた集会所の壁に面白い「ほんに平岡来てみんきんよ」という歌が張り紙的に貼られていました。

 1、朝日輝き城主山に 燃える百姓の心意気

   そよぐ山々蜜柑の香り ともにほほえむ顔と顔

 2、瀬戸の海風そよそよ吹いて そっと寄りそう木々の影

   今日は草刈り明日は摘果 ともに励まん夫婦愛

 3、今日もさえずる千人がくれ 木々の梢に百舌の声

   みかん畑は黄金に光り うたう歌声楽しげに

 4、うなるエンジンはさみの音も 休む間もない小春日に

   いとし若妻かわいい手甲 手甲がすりの紺におう

   (ほんに平岡来てみんきんよ)

 もう色あせて張り紙の存在すら忘れているこの張り紙は繁栄の往時をしのぶ十分な資料ですが、こんな気概が集落づくりには必要だと痛感しました。「是非また会いましょう」と口約束して充実した勉強会を終えました。夜の帳が下りた眼下には伊予市市街の明かりが印象的に見えました。


  「限界と いう集落をへ 行く度に 他力本願 どこか諦め」

  「壁貼りし 歌に往時の 姿あり 気概はこれだ 遅くはないと」

  「いいとこと 誰もが口々 言いつつも 人減り進む 寂し集落」

  「十年後 ここは果たして 残るのか 不安払拭 はじめの一歩」

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○早堀りのジャガイモは美味しい

 昨日はJA女性部から子縁の講演の手土産にと農協らしいジャガイモをお土産に貰いました。また宇和島遊子でジャガイモを栽培している本家本元の藤田光弘さんからも貰いました。家に帰るなり妻は、「まあ珍しいものをいただき嬉しい」と、主婦らしい喜びようで、「早速今晩はジャガイモを食べたい」と注文を付けました。しかし私が帰った夕方5時には既に夕食の献立は決まっていて、料理も終わっていたのです。それでも何としても食べたかったものですから、大きめのジャガイモを2個塩茹でにしてもらいました。

 茹でたばかりのジャガイモは、皮がプリンと剥けて湯気が出てほのかな香りを漂わせていました。真っ二つに割ってそこへバターをひとかけら落すともうたまらないほど美味しいのです。熱々のジャガイモを妻と二人で2個ぺろりと平らげました。お陰さまで昨日は食べ過ぎるほどの夕食でした。

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 宇和島の水ヶ浦は段々畑がご存じ自然景観として文化庁の登録を受けていますが、同じ愛媛県なのにもうジャガイモが採れるのです。察するに宇和海に面したこの地方は黒潮の恵とでもいうのでしょうか、無霜地帯で冬の気温が温かいのです。加えて段々畑には3つの太陽があるといわれています。お日さまの直接の光、段々畑の石垣の温もり、それに宇和海の反射光なのですが、やはりこれも自然の恵みというのでしょう。

 ジャガイモを植えている段々畑は猫の額ほどの細長い畑が続いています。昔は食糧増産のためにサツマイモが主流でしたが、今はジャガイモも主幹作物として植えられています。ジャガイモは連作に弱い作物だと言われています。石灰などをまいて中和させながら耕作をしても病気にかかる危険性があるのです。藤田さんから聞いた立ち話でもその辺の苦労話を聞きました。

 それでも段々畑の目玉として早堀のジャガイモはアピールに欠かせないものであり、ジャガイモの屑芋を使った男爵という焼酎も売り出されてみんな頑張っているようです。

 北海道から送られてくるジャガイモも美味しいし、南の宇和島から送られてくる早掘りのジャガイモも飛びきり美味しく、わが家のジャガイモは見劣りしますが、それでももう1ヶ月もすればわが家のジャガイモも玉ねぎとともに収穫を迎えます。今年はジャガイモも玉ねぎも今のところ順調に育っていますが、昨晩の飛びきり強い南西の風で少々傷んだようです。

 季節を食べ、旬なものを食べる、これは何よりのご馳走です。私のように肉をあまり食べない人間にとって菜園でできる野菜は飛びきりご馳走なのです。本当は料理もしたいのですが、男子厨房に入るべからずという時代を生きてきた私にとっては、中々手を出す勇気が湧かないのです。「お父さん、私が死んだらどうするの」と妻は二言目には私の厨房進出を促すのですが、さだまさしの「関白宣言」のように、私は妻より早く死ぬことはないと自信を持って生きているのです。

 今日は買い求めた新玉ねぎと早掘りジャガイモのコラボレーションで肉じゃがのようで夕食が楽しみです。


  「いただいた 早掘りジャガイモ 塩茹でし バター転がし うまいうまいと」

  「県内と いうのにこうも 違うとは 一足先に ジャガイモ掘って」

  「この芋は 三つの太陽 恵み受け 育った故に 味は抜群」

  「おすそ分け 二~三個づつを 小袋に 入れて近所に 貰いものだと」

 

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○いい一日でした

 昨日は宇和島南農協のJA女性部総会に招かれ、すっかり初夏の陽気の378号線、県道長浜~大洲線、56号線を往復しました。沿道には赤芽カシの新芽が色鮮やかに伸び、大洲富士山はまだ花が咲いていないものの、道端のツツジも陽気に誘われて満開の状態でした。少し早く家を出たので途中国立大洲青少年交流の家に立ち寄りました。先日人間牧場へ研修に来ていただいたお礼を兼ねての挨拶です。仕事が始まって間もなくだったため殆どの職員が事務所にお揃いでした。急な訪問にも関わらず所長室に通され、お茶をいただきながら所長さん、次長さんとお話ししましたが、交流の家はいつ訪問しても気持ちのいい送迎をしていただき恐縮です。雑談で佐藤さんと久保さんに赤トンボのプレゼントをしていないことに気が付きました。早速送らねばならないようです。

 宇和島に入る高光辺りでは高速道路の橋梁工事がかなり進んでいて、南予の発展への期待が膨らんでいるようですが、早く開通してほしいものです。宇和島道路のトンネルを2つ抜けたインターを下りて、宇和島市役所へ向かいました。えひめ地域政策研究センターに2年間出向していた谷本さんが商工観光課に復帰して20日余り経っているので、顔を見たいと思ったからです。谷本さんにはこの2年間宇和島を主会場に開かれた全国大会で随分お世話になりながら、心のお返しかしていないのです。エレベーターで7階に上がり商工観光課へ行くと小林さんと山田さんがデスクワークをしていました。手を休めて対応していただきましたが、谷本さんはあいにく会議中とのことでした。

 前日は宇和島の遊子水ヶ浦段々畑でジャガイモ祭りがあったようで、私も三浦の是沢さんにご案内を受けていましたが、宇和町での集会があって、覗くことができませんでした。昨日の朝偶然にも水ヶ浦でジャガイモを栽培している藤田光弘さんから電話があって、早堀りのジャガイモを収穫したから届けようかと嬉しい申し出がありました。「宇和島の南農協へ行くから」と伝え、近くで電話を入れて待ち合わせをしました。藤田さんは昔建の漁業後継者の会長をしていた頃からの知り合いで、藤田さんの娘さんは愛媛新聞の記者をしているなど、公私にわたって交流の深い方です。愛媛銀行の駐車場で段ボールに入ったジャガイモを受け取り立ち話をしました。藤田さんの話によると宇和島地方も第一次産業を中心に経済的にはかなり不況の風が強いようでした。

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(宇和島市の中心地旧ロータリー交差点)
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(宇和島城)

 講演会場は目と鼻の先にありました。昨年の11月に全国大会を開いた折、前社市のレセプションを開いた場所なので直ぐに見つけることができました。講演会場となった5階の窓越しに懐かしい丸の内のロータリー付近が見えました。今ではすっかり整備された南予で一番広いと思われる交差点に生まれ変わっていますが、私が水産高校に在籍中はロータリーがありました。窓越しに見える宇和島城も鬼ヶ城山をバックに威風堂々とそびえていました。

 約1時間余りの講演は和気あいあい、楽しい笑いの中で進みました。中には顔見知りの人もいて「女性が輝くときまちが輝く」という演題で話しましたが、婦人会や農協女性部といった団体も組織率が年々悪くなってどこも厳しいようでした。

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 前日宇和町へ行った折は忙しくて見れませんでしたが、この日双海町富貴の国道沿いの花壇を見せてもらいました。尾崎善幸さんが中心になって育てているフジの花が見ごろを迎えていました。あいにく尾崎さんには出会いませんでしたが、沖井さんが草刈り清掃をしていました。いつもながら皆さんのボランティア精神には頭が下がります。紫色の下がりフジ、白色の上りフジが見事でした。

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  「わが町の 花の名所は 数あれど 富貴のフジも 見事お見事」

  「花守は 人の知らない 苦労あり せめて愛でねば 申し訳ない」

  「この街に 三年間も 住んだとは 信じられない 昔懐かし」

  「赤トンボ お世話になった 人ゆえに 忘れちゃならぬ 肝に銘じて」

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○私の周りには「物」が満ち溢れています

 世の中不景気だというものの、私たちの暮らしは相変わらず豊かで、家庭内には様々な「物」が満ち溢れています。例えば筆記物ですが、鉛筆,ボールペン、マジックインク、マーカーなど机の上や居間、机の引出しなどに無数あるのです。その殆どは使われることもなく、やがてインクが固まって捨てられる運命にあるのです。昨日久しぶりに机の上のペン類を片づけました。特に多いのはボールペンで、何かの会議に貰ったものが20本以上もこの一年間殆ど使わずペン立てに入れられているのです。一本一本を取り出してメモ帳に走り書きして書けるかどうか確かめてみましたが、どれもまだ健在で、捨てるのは惜しい代物です。それでも勿体ないと思って置いておくと片付かないので、思い切って3本だけを置いて後は袋に入れて処分しました。

 私のように講演や会議、時にはコーディネーターなどをする場合に重宝するのが2色、3色のボールペンが一緒に内蔵されているボールペンです。これだと例えばコーディネートをしていても、人それぞれの話が色分けできて何かと便利なのです。ところがこの便利さゆえに色使いが偏って、よく使う黒色や赤色が早くなくなって、青色や紫色などが残ってしまうのです。インクの残量まで見て使う訳にもいかないので、先日などは壇上で書いていて突然赤いインクがなくなり書けなくなってドキリとしました。これらのボールペンはそれぞれの製造会社によって規格がバラバラのため、他のボールペンに代用が効かずもったいないと思いつつ一、色使えなくなると処分せざるを得ないのです。

 最近私たちの地域では葬式に列席した折、香典のお返しにいただくものが、お茶セットに変って祝儀・不祝儀袋と筆ペンかボールペンセットをよく頂きます。最初はこりゃあ便利だと思っていましたが、これもあり過ぎると困って、筆ペンなどは10本以上もストックされ、4~5年は買わなくても済むのです。

 私は字が下手と自認していますが、自著本を販売する際、どういう訳かサインを求められることがよくあるのです。最初はとても人様に見てもらうような字ではないとコンプレックスを感じて断っていましたが、今は自信はないもののごく素直な気持ちでサインに応じているのです。その場合は筆跡が難しい筆ペンではなく油性のマジックインキを使い、自分の名前を方所に、友人から頂いたてん刻彫りの落款を押印するのです。そうすると下手糞でもかなり重厚に見えるから不思議です。でも先日は夕日徒然草に50冊、サインをして送ってほしいとご依頼があり四苦八苦しながら書いて送りました。

 お気に入りだった万年筆もいつの間にか書棚の下の引出しにしまわれ、使われることもなく忘れ去られています。パソコンが私の武器になった4年前からは確実にペン類で書く機会は大幅に減りました。毎日書く3枚のはがきは0.5の少し太字なボールペンを敵のように使います。こうしてみるとあれほど頻繁に使っていたシャープペンシルはもうこれからも使うことはないだろうと思うのです。

 こうして私の文房具類、とりわけペン類は私の仕事とともに変化して、ボールペン主体の暮らしが今後も続くのではないかと思っています。


  「何本も あるのに使う もの二~三 後は使わず ペン立て飾る」

  「重宝は ボールペンのみ シャープなど 広報書いた 昔懐かし」

  「葬式の お返し今は 文房具 世の中変わった 不祝儀袋」

  「買わずとも 貰ったボール ペン多く そこらここらに やたらと置かれ」

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shin-1さんの日記

○「だんだんつながろう会」って面白い

 昨日、「だんだんつながろう会」という珍しい名前の団体に招かれ、西予市卯之町にある中町集会所へ行きました。中町といえば旧宇和町きっての古い町並で知られていますが、不思議なことにこれほど有名な町並なのに文化庁の重伝建、つまり重要伝統的建造物群に指定されていないのです。この指定には様々な制約があるため、それぞれの思惑が絡んでいるようですが、まるで時代をタイムスリップしたような素晴らしい白壁を含めた建物軒を連ねていて、私的には大好きな歴史的空間なのです。素人の私にはよく分かりませんが文化庁の重伝建指定を受けると、それなりの箔がついて観光的条件は整います。しかし様々な制約を受けるそうで、煩わしさや土暮らしの中へ足で踏み込まれるような不安もあります。どちらを選択するかはこれまた意見の分かれるところでしょうが、どちらにせよ先人の残した立派な文化ですので大切にしなければなりません。

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(綺麗だったコデマリの花)
 去年この旧宇和町を中心にして県下各地で全国町並みゼミが開かれました。私も参加しましたが、手づくりのゼミは参加した皆さんから高い評価を受けたと伺っています。そのゼミ開催をきっかけに町内の12団体がネットワークしようと作られてのがつながろう会で、昨年NHK朝のテレビドラマ「だんだん」という島根県松江地方の方言が有名になっていて、実は愛媛県でもだんだんという言葉は使われているため、この名称の冠になったのではないかと勝手に思いました。

 昨日は威風堂々とした約100キロのえひめ地域政策研究センター研究員の松本さんのお供のような形に、見まがうほどの雰囲気で同行してもらい、松本さんの案内宜しきを得て、松本さんの車に乗せてもらい11時にわが家を出ました。

 中町へ着いたのは12時半過ぎでした。まだ準備が出来ていないので言われるまま先哲館横の池田屋という古い酒蔵を利用した喫茶店へ入りました。ご主人も奥さんも顔見知りで外は6月頃の陽気だというのに中は少しひんやりして気持ちのいい空間でした。お茶を飲みながらご夫婦や来店して食事をしていた京都・尾道からのお客さんを交えて楽しいおしゃべりをしながら頼んだ抹茶をいただきました。

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 細い路地を入ると集会所があって、既に30人ほどの人が集まっていました。参加者の中には顔見知りも多くいて雑談会話が弾みましたが、つながろう会の藤本明美さんから3度も資料を添えたお便りやハガキ、FAXをいただいていたので直ぐに打ち解け少し遅めの食事会が始まりました。弁当も美味しかったのですが、豚汁やヨモギ草餅、デザートに出されたゼリーも絶品でした。外国人と見まがう通称キャサリンの書いた絵をあしらった下敷き紙にも、机の上に飾られたコデマリの白い花にも、人を迎える優しさが感じられて、酒も飲まないのにすっかり酔いしれてしまいました。

 食事が終っていよいよ私の話が始まりました。少し短めの話をというご依頼でしたが少し短めの話を少し長く40分ばかり話させてもらいました。参加者の中には私の話をもう5回も聞いたという人もいて、汗顔の至りでした。

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 質疑ではハーモニカのアンコールまであって下手糞なハーモニカも披露しました。僅か2時間ほどの時間はあっという間に過ぎ、皆さんの温かい拍手に送られて、予定があるので3時に会場を出て家路に着きました。いやあ楽しい会でした。主催をした藤本明美さんご夫妻は元学校の先生で、ご主人は教育事務所で社会教育をしていたこともあって知っていますが、さすがと思わせる気配りは並のレベルではないようで、見習いたいと思いました。

 車での行き帰り、松本さんと様々な地域づくり談義をしましたが、岡崎事務局長との関係で昨年一年町並ゼミを手伝いに来た松本さんは、につながろう会の皆さんとの出会いで大きく成長していました。地域づくり人の成長はいかに自分の自由時間を削って学ぶかにかかっています。その点松本さんの成長はまさに土日や夜といった自由時間を使っての修業の成果だと思うのです。これまで2年間で予想以上の成長を遂げている松本さんにはこれから一年、より高い自分自身へハードルを設定して、成長してほしいと願っています。

 「来年もまた来てね」という嬉しい言葉が今も耳に残っています。早速昨晩お礼のハガキを書きました。

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(手づくりのヨモギ草餅も最高でした)

  「座るなり 机の上の コデマリの 花に心が 洗われました」

  「中町を 初夏の休日 歩きつつ 光と影の 交錯感じ」

  「手作りの 紙の袋に 草餅を そっと忍ばせ 優しいただく」

  「爆笑の 渦を作りて 話したる 落伍話に われを忘れて」  

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○今日は市議会議員の選挙です

 この一週間、市会議員立候補者の街宣カーが町中を行き交い、何となく町が騒がしく感じられていました。その選挙運動も昨日のふり絞るような「最後のお願い」で幕を閉じましたが、立候補者は開票結果が分かる今夕遅くまで、どんな気持ちで過ごすのでしょう。今回の選挙には21人の定員に対し21人が立候補し、ひょっとしたら「無投票かも」と楽観視していた向きもあって、降ってわいた少数激戦によって、少々盛り上がりの欠ける選挙戦となりました。市長選が無投票だったことも追い打ちをかけているようです。

若松進一ブログ(22人の立候補者)

 今朝は親父の脛の具合を見に隠居へ行ったところ、病院の処置が良かったのか注射が効いたのか分かりませんが、歩く姿も元に戻って一安心といったところです。何せ歳をとっての足腰脛の病気は寝たきりになる危険をはらんでいるので、自分も余程うれしかったのでしょうか、昨日まで「選挙にはよう行かん」と言っていたのに、「選挙に行く」というのです。午前7時過ぎ親父を乗り降りが楽な軽四トラックに載せて投票所である町民会館へ連れて行きました。最近は事前投票が多いためか、昔のような込み具合は殆どなく、最も身近な市会議員選挙というのに投票所は散閑としていました。

 親父は91歳になりましたが、これまで選挙の投票は欠かしたことがないのです。若いころガンにかかって左目を失明しているため字を書くことができません。投票の度に代理記載をお願いしなければならないのが苦痛のようですが、それでも一市民としての権利と義務を果たしてくれ嬉しい限りです。今日も「あと4年後までは生きているかどうか分からんので、今日が最後になるかも知れん」と、老いの限界を悟ったような話を私にしました。「じいちゃん、まだまだ元気でおらにゃあいけん。次の選挙もわしが連れて行ってやるから」と励ました次第です。

 旧双海町では一人の現職議員が辞め、一人の新人が立候補したため、合計4人の立候補となりました。前回の小選挙区では少ない投票数で戦えましたが、今回から全市一区となって、田舎の議員は票の上積みと慣れない広域選挙に苦労しているようでした。行ったこともない場所へ選挙カーを走らせなければならない重圧は相当なもののようです。でもこうして合併後の選挙は進んで行くのでしょうが、できることなら善戦して地元の議員さんが全員当選してほしいと願っています。今回の選挙から定員が一人減ったため、今回は一人だけが落選の苦杯をなめなければなりません。その一人に選ばれたくはないと現職も新人もみんな必死で戦っているようでした。


  「昨日まで うるさいくらい 走ってた 街宣カーも 今日は見られず」

  「九十を 超えた父さえ 一票を 投じるのだから みんなやってよ」

  「落選の クジを引くのは 誰なのか 戦々恐々 夜も眠れず」

  「ごひいきの 人は果たして どうなのか 入れた一票 行方気になり」


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○美しいえひめの風土と県民のくらしをまもるために

 「新過疎法の制定実現を目指す愛媛県総決起大会」といういかにも行政といった感じの大会がひめぎんホールであり、日ごろご厚誼をいただいている愛媛県市町振興課の北村課長さんからのご依頼を受け、パネラーとして出席しました。会場には国会議員や県会議員、それに市町村長や市町村議員が集まる重厚な大会でした。

 来年3月で現行の「過疎地域自立促進特別措置法」が失効するのを受けて、法律の継続を国に働きかけるための決起であり、大会は二部に分かれていて、一部は大会決議のセレモニーでした。

若松進一ブログ(加戸愛媛県知事の開会あいさつ)
若松進一ブログ(会場の参加者は殆ど行政関係者と議員さんでした)

 私は旧双海町役場在職中に、過疎地域に指定されていたこともあり、この法律に基づいた過疎地域自立促進事業計画を、企画調整室で作成しましたが、残念ながらその計画に沿って行った様々な事業の効果もむなしく、人口減少の歯止めはかかりませんでした。でも自立促進の効果は絶大で、観光客ゼロに等しかったわが町は、年間五十五万人もの観光客が来るなどの成果を収めました。その時のテーマは「第一次産業の振興を軸とした定住と交流の町づくり」でした。

若松進一ブログ(パネラーの皆さん)

 愛媛県内では今、わがまち伊予市などで選挙戦真っただ中のため、関係者の数は少し少なかったものの、第二部のシンポジウムは明治大学農学部小田切教授の基調講演やパネルディスカッションが行われました。

 西予市山奥組の荻野さんと伊予市佐礼谷の松浦さん、西予市長の三好さん、それに私が現場からの報告をしましたが、総務省過疎対策室長の佐藤さんの話が少し長引き、議論がかみ合わないまま不完全燃焼で終わってしまいました。まあ大きな大会は壇上で議論をするため、参加者を巻き込んで話しをすることは至難なことなので、こんなものかと納得しています。

若松進一ブログ(コーディネーターの明治大学農学部小田切教授)

 時間がなかったので私の提案は議論されませんでしたが、私はコミュニティの概念を地域コミュニティとテーマコミュニティがあると話しました。過疎の話になると決まったように出てくるのは地域コミュニティの話です。でも地域コミュニティだけだと手つなぎの連帯に終わってしまいます。これからは地域コミュニティに手放しの連帯ともいえるテーマコミュニティを加え一人一人の自立と、集落の連帯を促進し、若者などの新しい血と風を入れなければ、地域は活性化しないのです。双海町のグリーンやブルーツーリズムも、また先日若者の中心になってきかう運営したオレンジデーもテーマコミュニティの成果であることを強調しておきました。既に私が人間牧場を中心にして始めている大学生を集落づくりに巻き込むことや子ども時代からふるさと教育はいずれ成果として報告できることでしょう。


  「顔見知り 胸に議員の バッチ付け 俺は議員だ 言わんばかりに」

  「壇上の 私に向かい 手を振って 頑張るように 支援してくれ」

  「進歩する はずのシンポが 進歩せず 議論結局 絡まず終わる」

  「過疎法は 作ったけれど 過疎止まず 道がよくなり かえって過疎に」

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