shin-1さんの日記

○ホンネ共和国での交流会

 かつて私は21世紀えひめニューフロンティアグループを率いてフロンティア塾を開いていました。10年間で40回という超ロングランの塾に大勢の心ある人たちが参加して、様々な学習をやりました。フロンティア塾生たちはそれぞれの地域へ帰って地域づくりの新しい活動を起こしキーマンとして活躍してくれました。その中に宇和町明間の佐藤正治さんがいました。彼は名水百選の観音水でアマゴの養殖に取り組んでいますが、ホンネ共和国を立ち上げその大統領として活躍しました。その馬力は私と同じく加齢とともに多少衰えましたが、その真摯な姿勢は今も変わらずなお矍鑠としているのです。

 ある雑誌に紹介された私の写真を見て、この春電話をかけてきました。「痩せたあなたの体が気になって」というのです。彼もその後病気を患い少し痩せたと風の噂に聞いていたので、「人事ではない、あなたはその後元気か」とお互いが大笑いをしました。5月の2日に久しぶりに仲間が集まるので是非という話だったので、人間牧場の清掃作業の後で参加することにしました。

 浜田さんと二人乗った私の車は、宇和町の街中を左折して野村方面へ10分ばかり走るとそこはもう野村ダムの上流です。水没記念碑の建つこの場所は何度か訪れた場所であり、佐藤さんはこの国道沿いに丸太小屋を建てています。佐藤さん宅に立ち寄り、橋を渡ってみんなで対岸の小さな公園へ出かけました。川沿いのため少し冷たい風が吹いて肌寒い感じがしましたが、シートを敷いたり机を出して交流会の準備をしました。火をおこしアユやアマゴ、それに焼鳥と中々豪華な取り合わせです。三々五々次第に参加者も多くなってる顔見知りの方々が集まってきました。赤トンボと私が命名した赤いつなぎの木村さん、土佐の和田さん、新聞社のIさん、ホンネ共和国の皆さん、それに大洲市柳沢の一二三会の皆さん、宇和島水産高校の先生ご夫妻、松盛さんなど、さらには途中から遊説中の某代議士候補も加わって賑やかでした。

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 かつてフロンティア塾に参加していた皆さんも何時の間にか歳をとりました。それでも私を含め彼ら一人一人にすそ野が広がり、大きな輪となって愛媛の地域づくりができていることを嬉しく思います。ここに来た人の中には今日行われる朝霧湖マラソンに出場するという話も聞きました。「そんなに酒を飲んで大丈夫か」と聞けば、「私のエネルギー源はアルコール」とおどけながら何度も盃をあげていました。

 ダム湖岸には何組かの人が弁当を広げて休日を楽しんでいました。「何処から来たの?」「松山市から」「そうですか、私は伊予市双海町です」「ああシーサイド公園のある夕日の綺麗な町でしょう」「そうです」「あそこはいつも遊びに行っています」「ありがとうございます」。こんな会話を交わしながら久しぶりにのんびりとさせてもらいました。少し早い3時にお暇し、内子経由で伊予市駅まで浜田さんを送り、明神山・牛の峰山・黒山・壷神山を海岸周り・山周りをぐるり回った一日でした。


  「久方に ホンネの里に 友集う 昔あの頃 花を咲かせて」

  「代議士に なりたい人も 加わって 政治論争 評論家のよう」

  「人は皆 どうして歳を とるのかな 面影消えて 初老といえり」

  「飲む人の 酔うほど見つつ われ素面 俺もあんなに 饒舌だった」

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○人間牧場での修行とミツバチの分封

 人間牧場も開設以来5年目を迎え、知名度が上がったのか沢山の人がやってくるようになりました。いつも気になるのは整理整頓と清潔がきちんと行われ、来た人に不快の念を与えないようになっているかどうかということです。私自身はそのことをわきまえて折にふれ掃除をしているのですが、忙しさと多くの人が思い思いに使うため、どうしても整理整頓がおろそかになっているのです。

 昨日は年輪塾塾生第一号として名を連ねている浜田さんの発案で、清掃作業と草刈りを行うことになりました。浜田さんが年輪塾ネットにそのことを書き込んだため思わぬ反響があって、皆さんに心配をかけてしまいました。最初は浜田さんと私で連休の一日のんびりと素地でもしながら話そうかと思って始めたのですが、大洲市田処の亀本塾生と高知県四万十市の和田塾生という思わぬ助っ人が現れ、実労のお陰で大いに仕事がはかどりました。

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(水平線の家の部屋掃除をする浜田さん)

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(草刈りをする高知県四万十市西土佐村の塾生和田さん)

 

 みんな遠隔地だのに早朝自宅を出発して、掃除の始まる8時前には人間牧場で作業がスタートできるような体制です。浜田さんは汽車で上灘駅に着きわが家へ7時ころにやって来ました。また和田さんんも西土佐を6時前には出発したのではないかと思われ、改めて感謝の気持ちでいっぱいでした。

 清掃作業発案者の浜田さんには土間の棚卸清掃を頼み、私と亀本さん、それに和田さんは牧場の草刈りに挑みました。それぞれがそれぞれの草刈り機で1時間半ばかり草を刈りました。仲間の中には「草刈り十字軍を結成して、草刈り奉仕をします」などと、酒を飲んだ時は威勢のいい話をしてくれますが、草刈り奉仕をしてくれた人はこの4年間で今回が初めてなのです。亀本さんも和田さんも草刈り機持参で急傾斜の草刈りを、手際よくやってくれすっきりしました。

 草刈りも一応目途がついたところで今度は水平線の家の板間のワックス塗りです。予め浜田さんが雑巾がけをして乾燥させた板間に端からワックスを塗って行くのです。ワックス塗りはこれまでわしが年2回行っていますが、お陰で綺麗な板間が保れているのです。ワックス塗りは中腰で行う少々きつい仕事なので最初は浜田さん、そして私、亀本さん、和田さんとバトンタッチしてワックスを塗り終わりました。休憩中に風が入りワックスが乾燥したところで空拭きをして作業を終わりましたが、まるでお寺の修業僧が本堂の床を磨くような修行の姿は微笑ましく、いい研修になった思いました。

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(板間を空拭きする亀本さん)

 休憩中に面白い光景を見つけました。ウッドデッキのすぐ傍に設置している馬路村からお嫁入りしているミツバチの巣箱に蜂が出入りしているのです。これが噂の分封かと嬉しくなって、みんなで遠巻きにして見学をしました。浜田さんは早速蜂飼いの師匠である山奥組の井上登さんに携帯電話で第一報です。私も会話しましたが、いやあ驚きました。周辺のみかん畑の白い花もそろそろ咲き始め、人間牧場界隈は甘い香りに包まれ、一年中で一番いい季節を迎えています。この2ヶ月気になって仕方がなかった分封が年輪塾の次なる発展につながるようないい予感を感じさせてくれました。

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(奥に見えるのが井上さんから頂いた巣箱、手前が馬路村からいただいた巣箱です)
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(ミツバチは小さいので写真には写し辛いです)

 作業は10時30分で終了です。というのもこの日は西予市宇和町明間のホンネ共和国の皆さんと久しぶりの交流会があり、亀本さんを除いてみんなで参加する予定なのです。焚火の日の始末をして道具類を片づけ、施錠を確認し山を降りました。これで次の人が心地よい気持ちで利用できるようです。次の予定は5月23日に子ども教室が行われる予定で、子どもたちの歓声が聞こえることでしょう。

  「塾生が 修行のつもり 自主的に 掃除に汗を 流し綺麗に」

  「ふと見れば 蜂が出入り 分封を 確認嬉し 早速電話」

  「朝早く 作業始める その裏に 暗き間に ここを目指して」

  「掃除する これも修行と 力込め 土間を磨くは まるで坊さん」

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 双海町にはふたみシーサイド公園とふたみ潮風ふれいあい公園、それにしもなだ運動公園3つの公園があります。いずれの公園も私が在職中に手がけた公園ですが、それぞれ特徴があってそれぞれの味を楽しむことができるのです。ダントツによく利用するのはシーサイド公園ですが、季節によっては潮風ふれあい公園にも時々足を運びます。ちょうどこのころの潮風ふれあい公園はつつじの季節で色とりどりのつつじが咲いて、青葉とともに楽しむことができるのです。潮風ふれあい公園は上灘駅のすぐ上の高台にあるため瀬戸内海の眺望が素晴らしく、眼下に県都松山や周防大島などが手に取るように見えるのです。

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 昨日は暖かい陽気に誘われて久しぶりに単車で潮風ふれあい公園に足を運びました。千人塚の池の周りにはアジサイの新緑がまぶしいほど茂り、見上げればその池をまたぐように10数匹の鯉のぼりが飾られ気持ち良さそうに五月の風を腹いっぱいに吸い込んで泳いでいました。

 この鯉のぼりは公園近くの本郷地区の皆さんが公園が出来て間もなく始めたもので、今年も5月5日の子どもの日を挟んで飾ってくれました。

 私たちが子どもの頃は戦後間もない貧乏な時代だったため鯉のぼりには縁がありませんでしたが、私の息子が生まれた時は、男の子が生まれると鯉のぼり、女の子が生まれるとお雛様を親類縁者が送る風習があって、沢山の鯉のぼりをいただきました。当時私の家は下灘の海沿いにあったため、砂浜近くに鯉のぼりを立てていました。海に映える鯉のぼりとしてカメラマンの被写体に何度もなった記憶がありますが、その鯉のぼりもここに何匹か寄付をしたことを記憶しています。最近はマンションやアパート住まいの住宅事情から鯉のぼりが内飾りになったため、鯉のぼりが集まらないという話を聞きました。

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 私の妻などは毎朝鯉のぼりを揚げ、毎夕鯉のぼりや実家から送られた別染め幟旗を降ろす作業に翻弄された懐かしい思い出を持っていて、長男の子どもが生まれた時も是非内飾りにするよう勧めていたようです。

 この鯉のぼりも同様でこの頃は初夏の天気、特に雨と風には気をもむようで、鯉のぼりのお腹に竹竿を入れる妙案を思い付いたお陰でワイヤーに絡まなくなったようでした。高台から見ると鯉のぼりの影が池の湖面に映り、池の中を泳ぐ本物の鯉もどことなく驚いた様子でした。池の土手では住みついているアイガモが羽根を休めてのんびりと日向ぼっこをしていました。

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  「公園の 池をまたぐや 鯉のぼり 本物鯉も 上を見上げて」

  「のんびりと アイガモ三~四 土手の上 日向ぼっこを 楽しみながら」  

  「人知れぬ 苦労があると 聞いていた 見えぬ部分で みんな役割」

  「海に映え 湖面に映えて 鯉のぼり 五月の風を いっぱい吸って」

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○ブログのカテゴリーは私の月報

 昨日は月末、会社であれば一ヵ月の売り上げ集計をして月報にまとめ、目標数値と実際の数値を比較して、業績が向上していれば満足し、低下していれば次の月への捲土重来を期すところでしょう。何年か前シーサイド公園で第三セクターの経営を任されたときは、10年近くいつもそんな月末を過ごしていたものですから、当時を懐かしく思うのです。その結果月毎の出入りはあっても、年間的には一度も赤字になることもなく過ごすことができました。

 第一線を退いた今はそんな数値的目標もなく、ただのんびりと胃の向くまま過ごしていて、ささやかな数値目標は、毎日朝夕ブログを2本書いていて、ブログの片隅に月毎のカテゴリーが記録されているのを静かに眺めながら、月の日数×2=月間数くらいを目安に到達度合いを見ているのです。

 昨日は久しびりに自分のバックヤードである書斎の掃除をしました。私の掃除は部屋にうず高く積まれた書類の山をより分けて捨てる分と残す分に仕分けし、畑の隅の簡易焼却場で焼却処分するのです。というのも紙ごみにすることのできない書類が多過ぎて、シュレッダーのない私は、シュレッダーの代わりに焼却処分しているのです。満足は行かなくても蜜柑のキャリーにして5杯分を運び出し、一通り片付けたところで親父が火を付けて焼却してくれました。また机の上も使わなくなったのに置いている古いパソコンを外して倉庫へ入れ、最後に掃除機と雑巾で綺麗に掃除をしましたが、広くなった机の上や広く感じる書斎を眺めながら、塵も積もれば山となるたとえを噛みしめ、これからはできるだけ整理整頓に心掛けたいと改めて思いました。

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 そうだブログの記事をプリントアウトしようと、夕食が終って思い出し1時間ほどをかけて30日分のブログを画面に呼び出しながら4月1日から順にプリントしました。4月1日(釣りの釣果がありました?・私の春休みの第一日は人間牧場の草刈り)、4月2日(人間牧場で夢の実現がしたい・異動の時期は人生いろいろです)、4月3日(どこで習ったのでしょうか孫の言葉・みかん類は美味しいねえ)、4月4日(今日から世界遺産を巡る旅・巻き寿司はおふくろの味の記憶)、4月5日(世界遺産を巡る旅から帰ってきました・広島から島根へ、そしてまた島根から広島、愛媛へ)とまあ僅か5日間だけでも様々な記録が書き込まれているのです。

 もしこれだけの日々の想いをこれから書けといったら多分書けないと、改めて記録の大切さを痛感しました。特に旅に出た時の思い出は日々の暮らしに忙殺されて、思い出すことは不可能に近いのです。幸いデジカメという優れ物の道具を使って撮った写真はこれまた記録の重要な役割を果たしてくれるのです。

 「記憶されるものだけが記録される」とはけだし名言だとしみじみ思い、プリントアウトした懐かしい日々の記事を読み返しながら、プリントアウトを完了した紙にパンチで穴を開け、百円ショップで買い求めたファイルに閉じ終わりました。今年も既に4冊目が出来上がり、今日は人間牧場の書棚持って行き長い眠りに就くのです。


  「パソコンの ブログの欄の カテゴリー よくも書いたり 月間集計」

  「先月も 日数× 二本書く ノルマ達成 凡事徹底」

  「穴をあけ 表紙をつけて 出来上がり 小さな俺の 自分史のよう」

  「誤字脱字 変換ミスに 気づきつつ プリント画面 編集直す」

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○職がなくって困っている人たち

 昨晩義理の叔父から「就職斡旋」依頼の電話がかかってきました。聞けば40代の親戚の息子さんが失職し仕事がないのを見かねての相談でした。「私は政治家でもないので、頼まれてもこればっかりは」と電話では話しましたが、2~3思い当たる所があるので電話で当たってみました。しかし残念なことに聞き合わせたお二人の方からは色よい返事はいただくことができませんでした。40といえば働き盛りです。家族もいるので日々の生活費もかさんで、このままだと借金生活を余儀なくされるのです。そういう人のためにハローワークがあるのですが、給料がよくって休暇があって、楽な仕事は、日本どころか世界全体が同時不況の世の中ではおいそれと見つかるはずもないのです。「どんな仕事でも働けたらいい」と口では言うのですが、せっかく口添えして職を確保してあげても長続きせず、結局は口をついた自分がみじめになるだけという話は、これまでにも数多くありました。


 一昔前まできつい・汚い・金にならないと3K産業の代名詞のように言われ嫌われていた農業や漁業といった第一次産業が、にわかに脚光を浴びてきました。都会で仕事が見つからないため、救いの手を人手不足の田舎に求め始めたのです。確かに田舎の農業は少子高齢化によって過疎化が進み、耕作放棄地などが急速に広がってきました。景気の良い時代には見向きもしなかったの何で今さらと、つき離したい心境だと農家の方はいいますが、それでも根は優しい農家はあの手この手で職を失った人を迎え入れているのです。

 一方で世間から見放され、一方で世間から注目されつつある農業は、食料自給率が40パーセントを割り込み、食の安全安心が取りざたされるこれからの時代は、やり方次第では第7次産業になる可能性を秘めていることは事実です。知恵のある人は既に耕作放棄地など農薬汚染されていない農地を耕して、成果を上げている人たちも何人かいるし、建設業不況の切り札として農業に転身して成功を収めている人もいるのです。

 しかし、農業は見た目ほど楽な仕事ではないことは、小さな農園をかじってみてつくづく思うのです。安心安全といいながら農薬に頼らない農業がいかに難しく手間の仕事であるか、また天候に左右されたり鳥獣の被害をもろに受けることも覚悟してかからなければならないのです。

 「人生の楽園」や「ダッシュ村」のような田舎回帰の番組を見れば、都会の喧騒やストレスから解放されなんびりと田舎で過ごしたいと思うのは当然のことなのです。いつも言うことですが、「遊びの農業は楽しいが、飯を食わなければならない農業は厳しい」というのが率直な意見です。

 若者から中年まで、「金になって休みがあって、楽な仕事」を探していますが、そんな仕事があったら私もしたいものだと思います。要は少々厳しい労働条件であっても、生きがいを持って働くような気概を持てば必ず道はいらけると思うのです。

  「職がない どこかいいとこ なかろうか 電話の度に 心が痛む」

  「楽をして 金が稼げる 職探す そんな所が あったら俺も」

  「農業が 駆け込み寺に なり得るか 気持ち次第で なるかも知れぬ」

  「散々と 農業悪く 言ったくせ 今頃救い 求める愚か」

 

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○体の曲がり角

 日本人の寿命はまるでうなぎ上りのように天井を目指して上がっています。織田信長の時代は良く映画やテレビに登場する決戦前の能の舞で、「人生50年~」と謡われているのが本当だとすると、かなり短命だったようです。日本人の平均寿命が80歳を超えた現代では、あちらこちらに100歳を超えた人がいて、しかもボケもせず矍鑠として生きているのです。医学の進歩や機械的な延命措置によって本人の知らないところで植物人間になって生死の境をさまよい、生死の選択についても議論が分かれたりしていますが、いずれにしても長く生きられる時代になったことは嬉しい限りです。しかし長生きをする時代だからこそその生き方が問われているのも事実で、できるだけ人様に迷惑をかけないような生き方をしなければならないのです。

 数日前妻が高校時代の同級生とお喋りの会を持ちました。伊方町に住むOさんと松山市に住むHさんと妻の3人は、戦後の貧しい時代を生きてきたためか質素倹約型で、この日も松山の共済施設の2千円の入浴付き昼食ランチを頼み、ご厚意でお喋りのお部屋まで貸していただいたそうです。妻にとっても久しぶりの懐かしい面会なので楽しみにして、日曜日の昼前に出かけて行きました。

 食の細くなった3人には2千円のランチはかなりボリュームもあって、食べきれないほどのご馳走だったそうですが、ひとしきり食べたり話したりした後入浴をするころになると、妻以外の二人は入浴を断ったそうです。聞けばOさんはコレステロールの数値と血圧が高く薬を飲んでいるとのことでした。またHさんは体に発疹ができてお風呂どころではなかったそうです。お二人のご主人も既に退職されて悠々自適の暮らしをして微笑ましくも羨ましいと思っていたのに、意外や意外健康に不安を抱えて暮らしているようです。


 妻は帰るなりその話をしながら、「そうだ私も健康には注意しなければ」と、何を思ったのか健康体操を始めました。テレビには毎日飽きもせず、「ダイエット」「美顔」などの宣伝が流れ、最近は夜の番組にまでサプリメントのコマーシャルが流れているのです。妻は昨晩風呂上りにテレビで観た貴花田体操と奈美悦子体操をしました。何のことはありません。貴花田体操とは大きく手を広げ足を広げた土俵入りの姿のままの静態と、奈美悦子体操は足を広げて洗濯ものをたたむ動作だけなのです。人が見ていないことをいいことに私にも一緒にやるよう勧められやりましたが、これもその気になってやればかなりきつい体操でした。

 私も妻ももう若くはありません。妻の友人がそうであるようにそろそろお肌の曲がり角はとっくに過ぎた体の曲がり角なのです。暴飲暴食をしたり夜更かしをしても平気だった昔と比べ、食べすぎたり寝れなかったりするとすぐに体にこたえるような年齢になったのです。「私もいい歳になった」と友人二人を見てしみじみと思ったそうです。


  「同級の 二人の異常 見るにつけ 私も歳と 納得しきり」

  「六十の 峠越えれば 下り坂 ブレーキかけねば 今に危ない」

  「体操を 一緒にせよと 言う妻は 変な格好 これで健康?」

  「妻は歳 かく言う私も 歳ですね 健康第一 とにもかくにも」

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○町内の学校を訪ねました

 今日午前中、銀行や郵便局に立ち寄りました。特に郵便局はお世話になった方に、畑から収穫したばかりの甘夏柑を段ボールに詰めて送る作業をしたため、郵便局長さんが「まあお入り下さい」と局長室へ案内して美味しいお茶を入れてくれました。局長さんもそろそろ定年が近いようで、定年後の生き方を模索しているらしく、自分のこと、家族のこと、地域のことなどについてアドバイスを求められました。私はリタイアしてこの4年間それなりに充実した生き方をしてきたと思っているし、これからもそう行きたいと思っているので、随分と色々なことについて30分もお話をしました。

 ついでに教育委員会の双海事務所に立ち寄りました。今年から双海事務所も公民館長が常勤専任になって、宮栄さんが館長席に座っていました。郵便局に勤めていた宮栄さんにとってデスクワークは10年ぶりと聞きました。「そりゃあ大変でしょう」と相槌を打ちながらお話をしましたが、机の上のパソコンはまだ使いこなすところまでは行っていないと嘆いていました。

 事務所で下灘中学校の二宮校長先生にばったり会いました。「しまった」と思いました。下灘中学校は今年で長い歴史に幕を閉じ上灘中学校と統合し新生双海中学が誕生するのです。閉校するにあたって記念事業が実行委員会で計画され、私にも原稿依頼と寄付依頼が来ていたのです。原稿締め切りも寄付締め切りもまだ先のことですが、原稿も寄付も早くてもいいのです。二宮校長先生は「まだ締め切りも来ていないので」と言われましたが、私は自宅に帰り昼食後早速30分余りをかけて千字余りの原稿を書きあげ、下灘中学校へ持っていこうと軽四トラックを走らせました。人間牧場へお客さんを案内する時横の道を通るくらいで下灘中学校へはこの一年余り立ち寄っていないため、どこか懐かしく、どこかセンチメンタルな気持ちで学校に入り、職員室へ行きましたが、あいにく校長先生は外出中で、顔見知りの武智先生と雑談をしながら、学校の封筒をいただき原稿を入れ、寄付金も少額ながら納めさせていただきました。これにて一件落着です。

 せっかく下灘へ来たのだからと下灘小学校へ行き元気を回復したイチョウの木に巡り合い、辻校長先生と面談して雑談をしました。特に昨年JRCの大会の講演集では随分お世話になっているので、お礼を言いました。下灘小学校には上がりかまちのような畳の部屋が出来ていて、今度はこの畳の上で落伍をやりたいと約束めいた話をして帰りました。

 帰り道陽気に誘われて由並小学校に立ち寄りました。二宮金次郎さんの銅像に深々と頭を下げました。この金次郎さんの読んでいる本の件では随分私の講演の中でお話しさせてもらっていることへの感謝の気持ちなのです。吉田校長先生とはこの学校の評価委員をしていたこともあって何かと話す機会も多く、教育もんだについても話しました。

 縁もゆかりもない私が学校を訪問することは、まるで不審者のようで心が痛みます。でも元教育委員会に勤めていたのだからまあいいかと、独りよがりしながら学校を訪問しているのです。田舎が故に穏やかな学校運営が行われているし、それぞれの学校の先生方がしっかりと学校運営に携わっているので、安心しています。これからもいい学校運営を頼みます。


  「突然に 学校訪問 不審者に 間違えられず 温か迎え」

  「原稿と 寄付を届けに 母校行く 今年一年 寂しい限り」

  「帰り道 小学校に 立ち寄りて 校長さんと お喋り弾む」

  「入学の 慌ただしさも 終わったか 学校静まり ホッと一息」

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○昭和は遠くなりにけり

 昨日は「昭和の日」でした。昔といっても昭和天皇が存命中の21年前までは天皇誕生日だったはずですが、その後みどりの日となり、3年前から現在の名前に改称されました。サンデー毎日の私にとってこの改称は議論の蚊帳の外にいたため「いつの間にか」という感じが強いのです。

 それにしてもいつの間にか「昭和」が「平成」に代わってからもう21年も経っているのです。つまり平成生まれの人が20歳を超えた訳ですから、昭和も随分遠くなりにけりです。昭和19年生まれの私にとって、60年余り続いた昭和という時代の中の前期19年は生まれてないので当然ながら戦争に明け暮れた悲しい時代は記憶にありません、生まれて間もなく終戦でした。日本の歴史の中でもそこから始まった戦後の復興と高度成長への20年という階段はまさに私の少年から青年に代わる大事な時期でした。その後平成までの20年は転職や公務員生活でこれまた楽しい時期でした。こうして昭和を総括しながら、大正生まれの親父がそうであったように、昭和生まれの私もまた平成という情報化社会に翻弄されながら老後を生きて行くのかと思うと、昭和の日は何か背中に重い荷物を背負っているような感じがするのです。

 居間の若者たちにとって昭和の日などという日はただ単なる祝日という感覚で、勿論私でさえブログに記事でも書いていなかったら、こうして昭和という時代を振り返ることもなかったのですから、いい加減なものです。でも町内を歩くと心ある家庭は軒先に国旗を掲げ国民の祝日をしっかりと祝っているのです。

 わが家でも私が若い頃は国旗を玄関先に揚げていました。いつのころかも定かでありませんが、多分私の忙しさにかまけてすっかり国旗のことを忘れてしまっていたのです。

 国旗で思い出すのはにっぽん丸という青年の船で太平洋を渡り、建国200年のアメリカとメキシコ、ハワイを巡った時の思い出です。私たちの船がメキシコのアカプルコに入港した際、熱烈な歓迎ぶりに船のデッキから手持ちの小さな国旗を団員が出迎えた人に投げました。悪気があってのことではなかったのですが、そのことが大きな議論となりました。国の象徴と言われる日の丸国旗に対する認識不足を痛感する出来事でした。


 帰国後私は国旗を買い求め、国民の祝日には必ず子どもたちと一緒に玄関先に国旗を掲揚していました。多分幼い息子たちもそのことは記憶に残っていると思うのですが、その後国旗掲揚をしなくなった私のいい加減さを今日改めて感じたのです。

 明日から5月です。憲法記念日、みどりの日、子どもの日と国民の祝日が目白押しで続きます。ゴールデンウィークなどと浮かれることなく、もう一度国民の祝日の意味を考え、何処へ収納したかさえも記憶にない国旗を探して明日から始まる来月は何としても国旗を玄関先に掲げたいと思った次第です。

 日の丸国旗に対しては戦争という惨事を経験した日本では賛否両論がありますが、一私人の私としては国旗や国家を大切にするという一心からこれからもそのような考えで臨みたいと思っています。


  「平成に なって生まれた 人多く 昭和生まれは 肩身が狭い」

  「昭和とは せめて祝日 その日には 国旗を立てて 記憶辿ろう」

  「戦争と 平和の落差 後世に 伝える義務を われら持たねば」

  「軟弱な われの心を 恥にけり 国旗掲揚 せずに祝日」

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○過去と未来のはざまに吹いた隙間風

 今日の午後、何げなくシーサイド公園へ行きました。シーサイド公園は開業して今年で15周年を迎えました。当時は様々な反対意見の渦巻く中で、夢中になってこの公園を孤軍奮闘造ったものです。開業後も反対した人たちを見返してやろうと、必死になって頑張りました。その結果お墓参り以外人の来ないと言われたこの町のシーサイド公園に年間50万人を越える人が来て、それなりに営業成績をあげてきました。6年前地域振興課長を最後にこの道から足を洗い請われるまま教育長に就任たものの、特別職とはいいながら役場職員として2年間陰ながら面倒を見てきたのです。4年前合併して自由人になってからも何となく気になり、気がつけばいつの間にかシーサイド公園へ足が向いていたことが何度もありました。シーサイド公園は気心知れた人たちが沢山いて、今日もえひめ地域政策研究センターに出向している松本さんが奥さんを連れてシーサイド公園にやってきていました。シーサイド公園では恋人岬で今年3組目の結婚式が行われていて、仕掛けた松本さんとしては私と同じようにやはり気になるようでした。

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(沢山の人が集まった恋人岬の人前結婚式)
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(恋人岬での結婚式)
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(二階のレストランも綺麗に変身していました)
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(相変わらず元気なじゃこ天売場のおばさんたち)

 松本さん夫婦も私も一ギャラリーとして結婚式を見守る群衆の中に入って、若いカップルに大きな拍手を送っていました。恋人岬を飾る紅白のフーセンが風になびき、糸の切れた風船が真っ青な空に吸い込まれていくように空高く飛んでゆきました。

 結婚式の司会をした戸田さんのナレーションを遠くで聞きながら、現職のころ537組もの結婚披露宴の司会をした思い出が懐かしく蘇り、「ああ、あんな時代もあったなあ」と感傷にふけりながらシーサイド公園の砂浜を一人歩きました。

 ふと我に返りじゃこ天のお店へ立ち寄っていました。おばさんたちも相変わらず元気です。昨年のこの頃人間牧場の畑でできたフキを収穫して持って行ったところ、大層喜こんだことをおばちゃんたちはしっかりと覚えていて、フキが欲しいとせがまれました。確かあの時はフキを松山の市場に持って行き1500円もの売り上げがあり、私は全額寄付したことを思い出しました。急いでわが家に帰り身支度をして人間牧場へ出かけてフキを採取しました。再び引き返してかなりの量をおばちゃんたちに手渡しましたが、変わらぬ笑顔で喜んでくれました。

 私にとっては何気ない出来事なのに、どこか懐かしく感じられるのは何故なのか、自分の心境の変化に気づきながらやがて終わろうとしている4月を振り返り、5月からの先行きを考えました。ふと気がつくと真赤な夕日が西の空に綺麗に沈んでゆくのが見えました。夕陽を見ていた人たちは「綺麗だ」と口々に話し合い、その声さえもどこかかっての記憶の一場面のようでした。

 家に帰り食事をしながら妻は、「お父さん今日はどうかしたの?」と私の心境の変化に気づいたのか聞きました。「別に」とサラリ流しましたが、自分でもまるで夢を見ているような感じがした奇妙な1日でした。


  「何故だろう 過去と未来の 狭間ゆえ 何か分からぬ 予感の風が」

  「シーサイド 公園辺り 歩きつつ 声なき声の 不思議な世界」

  「どうしたの 妻は私の 変化見て 声をかけるが 別にと返す」

  「SFの 世界のような 一日を 終えて机に 向かい記録す」 

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○定額給付金が届きました

 定額給付金の申請手続きが終わり、先日市役所から○○日に振り込む旨の通知書が届きました。わが家は長男夫婦と孫、私たち夫婦と次男、それに親父の計7人が受給対象なため給付金は他の家庭に比べ多いようです。親父と孫は2万円口で、長男夫婦と私たち夫婦、それに次男は1万2千円なのです。欲を言ったらきりがありませんが、私はもう半年早く生まれていたら2万円口だったと、妻にからかわれました。

 妻は振り込みの確認もしないまま貯金を降ろし、親父に2万円を渡しましたそうです。年金以外収入のない高齢者にとって、たとえ2万円であっても嬉しい贈り物なのです。親父は定学給付金のことなどすっかり忘れていたようで、私に「このお金はどこから出ているのか」と尋ねました。私は「これは国から国民みんなにいただくのだ」と説明してやると、「国も大変だな。わしみたいな者にも2万円出さなきゃあならんとは。有難いことだ」と感謝していました。今日は昭和の日という祭日なので妻は長男の家へ孫2万円+夫婦2万4千円を持って行ったようです。後は私たち夫婦と次男の分が3万6千円残っただけなのです。いずれ次男にも1万2千円渡せば全て渡したことになるのです。

 今朝妻が、聞いてきた友人の話をしました。その友人は定学給付金がらみの安いツアーで東京ディズニーランドへ旅行するのだそうです。妻の話を聞きながら本音は私も定額給付金でどこかへ連れて行ってほしいということなのかと察知はしましたが、今のところその計画は立っていないのです。

 家の周りの草が伸び始めてことが話題になって「そろそろ草刈りをしなければならないのに草刈り機が古くなった」とつい口に出したため、「お父さん、いっそのこと二人の給付金に少しお金を足して草刈り機を買ったら」と提案してくれました。「そうだ草刈り機を買おう」と内心思いましたが、友人夫婦が東京ディズニーランドへ行くのに私が貧乏たらしく草刈り機を買ったら一生言われそうなので、「草刈り機は別のお金で買って、定学給付金はもっと二人で考えよう」と、僅か2万4千円だのに勿体ぶった話をしました。

 日本国民を巻き込んでホットな論争をした定額給付金も、大都市を除けば何のこともなく給付されています。野党が言うようにもっと別の使い方があるはずかも知れません。でも一億二千万人の国民が等しくこうしてささやかな夢を語り合えた効果も少なからず意味があるのかも知れません。未だにマスコミは首長さんに「あなたは定額給付金を受け取りますか」なんて愚問を繰り返し、事務の都合で定額給付金の給付が遅れたことを記者会見で詫びてみたり、多少の混乱もあるようですが、まあ「こんな話もあった」と一年もすれば笑い話で方がつくことでしょう。

 それにしても国債まで発行して景気対策に躍起になっている政府の行動も気になるところです。国債発行を極力抑え借金財政から健全財政へと舵を切っていた数年前をもう忘れているのです。財政は長期的展望に立たなければ第二の夕張市になりかねません。日本の将来のためにも是非長期的展望にたった財政運営を望みたいと思います。


  「振り込んだ 給付金分け それぞれに 手渡ししつつ 説明してやる」

  「友人は ディズニーランド 行くという はてさてわが家 草刈り機かも」

  「俺にまで くれるお金に ありがとう 神棚供え 親父深々」

  「もう少し 生まれてくるの 遅かった たった半年 マイナス八千」 


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