shin-1さんの日記

○初夏の味ソラマメが届きました

 季節は春から初夏へと知らぬ間に移り、後20日もすれば衣替えの季節になりました。今朝親父を病院に連れて行くため出かけた伊予市の田んぼでは、青かった麦畑の色が早くも黄色へと一変しているのに驚かされました。初夏といえばエンドウやソラマメなど豆類の美味しい季節となりましたが、母が亡くなってからは種をまくこともなく、もっぱらいただきものでその味を楽しんでいるのです。

 一昨日伊予市に住む水口まり子さんから宅配便が届きました。送り主の名前を見て中身が分かるくらいまり子さんとは懇意にしていただいていて、恐縮ながら「今年ももうそろそろ」と淡い期待をしていただけに嬉しい荷物の到着でした。中を開けてみると濃い緑色の皮をかぶったソラマメが段ボールいっぱいに入っていました。早速取り出して妻と二人でまり子さんの話をしながら皮を剥き中から出てきた綺麗な色のソラマメをボールに入れて行くのです。中には殻を破る際勢いあまって鉄砲のような音がしたりポーンとはじいて部屋の中を飛んだりしましたが、半分はその夜の食卓に上り、美味しい旬の味をいただきましたが、半分はさっと湯がいて冷凍保存することにしました。

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 水口さんは伊予市で稲苗を中心にした育苗施設を大々的に経営していて、田植えの始まったこの時期は猫の手も借りたいような忙しい日々を送っているのでしょうが、その忙しい合間を縫って私にまで気配りをしていただき感謝しているところです。今日は伊予市の病院へ親父を連れて行ったついでに足を延ばしてまり子さん宅まで出かけて行きました。丹波の黒豆をいただいたタッパーを返しに伺ったのですが、まり子さんはあいにく畑に出ていてお会いすることができませんでした。すっかり顔見知りとなった若奥さんにお礼を言って帰り際、「入れ違いで豆を送りました」と言われました。帰ってみると豆が段ボールにいっぱい送られていました。

 妻が仕事に出かけているので昼休みを利用してテレビを見ながらソラマメの皮を剥きました。沢山あるので近所におすそ分けして後は冷凍保存の準備をしているようでした。昨年もそうしましたが、ソラマメは冷凍保存しても美味しく頂けます。昨年は大学生が10月にフィールドワークの授業でわが家を訪ねた際学生たちに食べさせ大層喜ばれました。

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 季節の旬の送り物が届くと何となく満ち足りた気分になります。最近は時ならぬ冬の時期にスイカを食べ、夏にハウスみかんが出回ったりして、いつが旬なのか全く季節感がないのです。また冷凍技術も進んで枝豆などは年中緑の枝豆が料理に出てくるのです。確かに食生活の上では豊かで便利にはなったけれど、四季を感じることが少なくなったような気がしています。今日もソラマメの殻を破ると中から何とも言えないソラマメの匂いがして、これぞ初夏の匂いと思ったものです。

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 豆を食べると頭が良くなると今は亡き母親から教わりました。理由は頭という漢字には豆編が付いているからだと説明され納得したものです。そういえば豊という字もどこか豆に由来しているのかもと思いながら、豆のついた感じを思い出しました。えっ、何で鼓も豆編なんだろうと、要らぬ詮索をしながら全ての殻を取り除きました。

  「宅配で 友より届く ソラマメの 殻を破りて 部屋の中飛ぶ」

  「ソラマメの ほのか香りに 母思う 懐かしきかな いずこにおわす」

  「豆食べて 頭良くなる 子に育て そんな言葉を 思い出しつつ」

  「ソラマメを 剥きつつ初夏の 季節知り 軒のツバメの 賑やかなりし」  

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○大学の今年の授業が始まりました

 昨日から愛媛大学法文学部総合政策学科の私の教室の授業が本格的に始まりました。今年度は前期が木曜日、後期が水曜日の2時限目で、10時30分から12時まで講義を行うのです。前期30時間、後期30時間ですから合計60時間に及ぶ4単位の講義を組み立てなければならず、ガイダンス用のシラバスを作りながらかなりハードな仕事だと改めて認識しました。役場に勤めていた現職のころ、顔見知りの助教授(今は准教授)に頼まれ、最初は軽いノリで引受けて始めたこの仕事も、早くいもので7年目を迎えているのです。

 学歴もなく人に教えるような能力もない私が、無謀とも思えるこの仕事に何故取り組んだのか、自分自身不思議に思うのですが、その根底にあった「進化したい」という思いだけは今もしっかりと根付いているようです。「夢と勇気をを持って一歩前へ」は実践家たる私の持論ですが、大学では様々な人に出会い、様々な学びによって知識や知恵を学んできました。もしあの時役場の上司が「止めとけ」と静止した言葉に、従順だったら今の自分はないと、改めて意思を通すことの意味を噛みしめるのです。

 私の大学で過ごしたこれまでの一時はまるで空想の世界のようでした。長らくまちづくりの仕事を現場第一主義で過ごしてきた実践家の私にとって、大学での学問は地域づくりを理想論から考えることのできる唯一の機会だったのです。理想と現実の間に落差が生じるのは何故なのか、その原因を突き止めながら自分がやろうとしてもできなかった様々なことを考えました。お陰様で随分その辺の疑問は解決しましたが、残念ながらそれを生かす現場はもう私の周りに少なく、今では評論家のそしりをぬぐえないのです。評論家とは自分でリスクを負うことなく人の評価をする人のことですが、それでも地域の活性化について今も理想を追い求め続けているのです。

 昨日の初講義は4月9日のガイダンスで、私の話を聞いて面白そうだからと19人の学生自らが選んでくれた学生が対象です。法文学部本館4階の404号室に集まった学生は男性9人女性10人です。相変わらず女性が多いのがつい最近の大学の特徴ですが、自己紹介を聞く限りでは今年も、しっかりしたいい学生が揃ったと内心喜んでいます。

 昨年の大学はまるで工事現場にいるような騒々しい雰囲気でした。学内キャンバスの至る所で耐震工事行われていましたが、工事用の足場や駐車場にわがもの顔に置かれた現場事務所もすべて撤去され、ケヤキ並木の緑が濃くなって学校らしい雰囲気が漂っていました。

 私には裏門ゲートから駐車場に入るためのパスワードカードが渡されていて、カードを利用すればいつでも自由に構内にフリーパスで入れるのですが、未舗装の駐車場がぬかるんだりする最悪の駐車場なので、洗車した時などは気が重くなるのです。

 私にとって今年の悩みは前期だけなので3回くらいですが、コープえひめの理事をしているため、毎月末に予定されている理事会と全く時間帯が重なっているということです。昨日も後ろ髪を引かれる思いで理事会担当の尾崎部長さんに欠席のFAXを気の重いまま送りました。尾崎部長さんから別件で電話が入り理事会の終わった席へ足を運びましたが、何ともバツの悪い気持ちでいっぱいでした。

 不惑なこの気持ちはまだ当分は続きそうです。

  「今年また 大学授業 始まりて 新たな人に 新た気持ちで」

  「今年こそ 理想の授業 する決意 早くも不惑 先が心配」

  「六年の 月日は俺に 何教え どんな進化を 遂げたのだろう」

  「とりあえず スタートだけは した安堵 学生たちの 若さいただく」

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shin-1さんの日記

○孫たちの成長

 私には4人の子どもがいます。女・男・男・男と自分の生活設計通りに子供を授かりましたが、長女と長男は結婚して家庭を持っているものの、次男と三男はまだ未婚で一人身です。長女は男だけ2人、長男は男1人だけ子どもを育てていますが、来週中には長男の嫁が出産予定で、私たちの夫婦の孫は3人から4人になる予定です。

 まるで相撲取りのように大きなお腹を突き出して歩く息子嫁を見るにつけ、人間とは何と不思議なものか、あのお腹の中に子どもがいるのかと、知る由もない自分の出生に思いを馳せるのです。私が生まれたのは昭和19年ですから戦時中です。母親は私を腹に抱えてどれほど苦労をしたことでしょう。それでも私は色々な疾病やけがを克服して今日まで元気に生きているのです。私の命の源は母親のお腹の中なのです。

 孫の成長を見たり写真を見るにつけ、あのいたいけない赤ん坊が年月を経るにつれて成長し、様々なことを学ぶのですが、特に幼児期の子どもにとって母親の存在は100パーセントに近い影響力を持っていると思うのです。お乳を飲ませながら話しかける姿を見ながら抱きかかえる教育の大切さをしみじみ思うのです。

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(孫希心もこんな大きなボールで遊べるようになりました)

 私のブログの準主人公だった孫朋樹も今年から小学校に入学し、毎日体には似つかないような大きなランドセルを背負って毎日元気に学校へ通っています。孫の自立の始まりと嬉しいのですが、学校に行くようになって急に成長したような気がしています。先日も妻が「手をつないで歩こう」といったら、「僕は小学校一年生だから手はつながん」とさっさと前を歩いたそうです。何かにつけて「僕は小学生」を口にする孫が少し自分たちから遠ざかったような感じがしました。

 一方お母さん一辺倒だった孫尚樹や孫希心は少しでも母親から離れようと巣立ちの心や行動がうかがえるのです。別々に住んでいるため最初は甘えることの殆どなかった私にも、家の玄関に入るともう「じーじ、じーじ」と片言で歩み寄り遊んでほしいとせがむのです。そういえば朋樹の時もこんな感じでした。私の相棒は朋樹から尚樹や希心へとうつる時期に来ているのかも知れません。私の役目は朋樹がそうであったように尚樹と希心の子育てを援助するサポーターかも知れません。今年からこの2人を人間牧場で思いきり鍛えてやりたいと思っていますが、はてさて朋樹で訓練した私の子育てならぬ孫育てが上手くいくかどうか楽しみです。

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(私の書斎にしょっ中ちょっかいを出しに来る孫希心)

 64歳になり加齢とともに体力と気力のバランスの崩れを感じるようになった私にとって、孫は気力と体力を維持したりアップするカンフル剤のようなものだと思っています。しかし大事なことは私に孫を合わせるのではなく、孫に私の気力と体力を合わせなければなりません。そのためにはやはり進化しなければならないのです。はて私の孫育て進化論とはどんなメニューを消化すればいいのでしょうか。孫朋樹の後追いのような私には首相厄介な仕事ですが、これもおじいちゃんの宿命なのですから、頑張りたいと思います。


  「孫育て 爺頑張る 生きがいに 元気はつらつ せねば嫌われ」

  「四人目の 孫の誕生 間近なり 楽しみ不安 交錯しつつ」

  「じーじーと お前は蝉か いうほどに なつく孫ども お目々細めて」

「孫進化 俺は退化の 道を行く 六十有余の 開きし難く」

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○燻製の実験

 「血は争えない」という言葉がありますが、長男息子を見ていると何だか同じような考えや行動が目について、少し怖いくらいです。私が人間牧場の構想を家族に話したとき、いの一番に賛成したのは長男だし、これまで人間牧場の設計から掃除に至るまで様々な形で参加協力をしてくれました。資金的に厳しい私と、発想重視の息子とでは考えのスタートが違うため、何かにつけて衝突しながら接地点を探しつつ日の目を見ましたが、今もある部分で満足し、ある部分で不満を言いながら次の夢に向かってお互いが協力しているのです。

 そんな息子が連休に帰ってきて、燻製の実験をしようと持ちかけました。私も燻製を人間牧場のメニューに是非加えたいと思っているので、やろうと手を上げました。息子は既に人間牧場で始まっている命のリレープロジェクトのミツバチを飼うことの発案者で、既に本を買ったりインターネットでミツバチについて資料を集めていますし、今回の燻製についても本や資料を取り寄せ、簡易なアウトドアーの燻製器をどこかからし入れているようでした。

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 天気が良いため庭に燻製器を持ち出しきれいに拭いてからソーセージの燻製に取り掛かりました。ソーセージは2種類用意していました。小さな燻製器なので一度に10本余りしか処理できないのですが、実験なので十分とばかりに金属製の皿に桜の木のチップを入れ、外のガスコンロ上に置いていぶし始めました。カタログ片手に時間を計ってやり始めると桜の木の煙がモクモクと出てきました。そのうちいいにおいが立ち込めました。時間を見計らって蓋を開けてみると煙にいぶされたウインナーソーセージが出来上がり、皿に盛りつけました。家族も初めての試みなので息子のやることに興味深々で、集まって覗きこんでいました。

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 熱いうちにと勧められ食べてみましたが、始め手にしては中々の出来上がりで、みんなに大好評でした。その反応に気を良くした息子は次にチーズの燻製を始めました。ところがチーズは熱に弱いため、最初に温度を上げ過ぎたため、まるで飴のように溶けて垂れ下がりものの見事に失敗してしまいました。ウインナーソーセージで株が上がっていただけに、息子は少し落胆したようでしたが、「失敗は成功の母」などといいながら燻製の実験は終わりました。

 その夜は娘婿の実家に帰省している娘を覗いて3人の息子が帰省していたため、焼き肉を中心にした食事に息子の作った燻製ソーセージが加わり、大いに盛り上がりました。少し時間がとれるようになったら、燻製器を作ろうと息子と相談がまとまっています。そのためには釜戸小屋を早く作らなければならないと、これも息子の設計に依存するだけにまた息子との確執が始まったようです。28歳も年の差がある息子ですから衝突は当然です。でも同じ考えや行動を親子で共有できることは嬉しいことなのです。


  「親と子が 同じ趣味持ち 楽しげに 妻も呆れて ニヤニヤ笑う」

  「燻製の ソーセージ食べ こりゃいける チーズは涙 半信半疑」

  「親子とは こうも似るかと 時々に 思うことあり 親子ですから」

  「次々と やる夢親子 語りあう 次は釜戸が 何時頃できる」

 

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○何気なく読む雑誌の中に自分を発見

 毎日のようにわが家の郵便受けに届く手紙や書類、ダイレクトメールなどを受け取る度に、私の知らない場所で私の名前と住所が書かれているのかと思うと、個人情報重視の時代に故に少々不安になったりします。しかし私のように名刺を配る人間として生きている者にとってはそれは宿命だと諦めていて、むしろ金銭関係のガードをしっかりしていれば、そんなにトラブルに巻き込まれることもないと割り切っているのです。

 昨日届いたメール便の雑誌を昼食を食べながら何気なくめくっていると、私の顔写真入りの記事があってびっくりしました。エヴァプレスという「街の香りをお届けする地域交流デザインマガジン」と書かれた無料配布の雑誌です。平井鳥取県知事や村井宮城県知事のリレー対談などの特集が組まれているため、その記事を読みながら地方の苦悩や元気を考えました。

 34ページに観光カリスマ100選という本の著書と著者が紹介されているコーナーが載っていました。著者は私もよく知っている前山梨県立大学教授市原実先生です。先生とは手紙をやり取りする間柄で昨年は愛媛県で開かれた地域づくり団体交流研修全国大会でわが町にもお越しいただきました。

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 観光カリスマの認定は小泉首相の時慶応義塾大学の島田晴雄教授を選考委員長に2002年12月にスタートして、その後全国から100人の人が選ばれました。おこがましくも私もその一人に選ばれていますが、その100人を取材紹介してこのほど出版されました。出版社からその本は送られてきましたし、仲間にもパンフレットなどを送って買い求めるよう市原先生の後方支援をさせていただきました。

 このページには3人の記事の写真が掲載されていましたが、岩手県奥州市綾野輝也さん、長崎建長崎市の林敏幸さんそれに私がしょうかいされているのです。虫眼鏡でないと確認できないほどですが、文章記事の末尾に「今回よりその中から勝手にご紹介させていただきといと思います」と注釈が載っていました。まあ私のこともインターネットで検索すると読むことも見ることもできないほどのかなりの数が載っているのですから、静観したいと思っています。

 昨晩遠くに住むある友人からパソコンにメールが入り、この雑誌を読んだと感想文が寄せられました。「私と同じような偶然見つけて嬉しくなった」と記されていました。私は早速返信をしましたが、こんなことで安否確認とはおかしな世の中になったものです。

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(写真の左から2枚目が初代のにっぽん丸で青年の船としてアメリカへ渡りました)


 息子が持ってきた商船三井客船にっぽん丸というパンフレットにも、めくると懐かしい写真が載っていました。あるぜんちな丸を改装して初代にっぽん丸となったその船で、私は青年の船班長として建国200年のアメリカへ行ったのです。もう30年以上も前の出来事ですが、当時の模様がありありと浮かんできました。

 雑誌や新聞、パンフレットを読みながら過ぎ越し人生の一コマにふれることができるのも、それだけ善き敬意見をしているからだと、改めて自分の64年間の人生を振り返った次第です。


  「えっ俺が 雑誌の記事に 虫眼鏡 観光記事載り わが目疑う」

  「そういえば 三十数年 前だった この船乗って アメリカ渡る」

  「思い出は 一瞬頭 蘇る だのに昨日は 思い出せない」

  「記憶する ことしか記録 されないと 記憶と記録 どっちだったか」

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○子どもの日は私たち夫婦の39回目の結婚記念日

 昨日は子どもの日で、各地で子どもにちなんだ様々な催しがあったようです。お隣の内子町五十崎では恒例の凧合戦が行われたようで、高速道路の割引効果と好天ということもあって5万人もの人が詰めかけたとテレビが報じていました。そのため伊予~内子間の高速道路が6キロ渋滞したそうです。

 昨日の子どもの日は私たち夫婦にとっても記念すべき日で、39回目の結婚記念日なのです。妻は旧姓二宮繁子といって南予八幡浜の出身です。生家は代々削り節屋をやっていて、近所の人の紹介で見合いをしました。役場に勤めてまだ日も浅かったのですが、当時私は愛媛県青年団連合会の会長として忙しい日々を過ごしていて、僅か5分程度の見合いで結婚を決意したのですからいい加減としか言いようがありません。結婚前のデイトも仕事と県連会長と国立大洲青年の家の誘致運動が重なって僅かに5~6回と極端に少なく、妻は相当不安だったと述懐してますが、当の私は平気で事を運びました。

 私たち夫婦は結婚する時、殆ど一方的に私が結婚式の日取りを決めました。いくら何でも子どもの日などという祝日に結婚式を挙げるのはどうかと親は乗り気ではありませんでしたが、むしろ私はこの日を吉日と思っていました。

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(今年39年目の結婚記念日を迎えました。これれから相合傘で・・・・)

 八幡浜と大洲の間の夜昼峠は難所でしたがトンネルがこの年に開通したため、花嫁衣装に身をまとったまま自宅からわが家まで延々3時間も車に揺られてお輿入れです。その当時はまだ海岸国道は未整備で曲りくねった道を下灘まで来る道中は極度の緊張感もあって生きた心地がしなかったようです。結婚式はわが家の座敷で指図人の仲人さんが執り行う古式豊かな三々九度の盃事でした。その後妻は田舎の古い風習である「歩き初め」というお披露目があって近所を練り歩いてあいさつ回りをしたようですが、私は県下各地からお祝いに駆けつけて来てくれた青年団の仲間と談笑していました。

 私たちの田舎は当時、結婚式の料理は大がかりな親族による手助けで全て手作りでした。250人分の食材はこれまたわが家が鯛網漁師をしていたため自前で、鯛づくしの料理が豪快にふるまわれ、新郎新婦の前にはこれでもかといわれるほど鯛の姿造りが並べられていたのを記憶しています。

下灘農協の2階の大ホールを借りた披露宴は延々6時間にも及び、いつ終わるとも思えぬ披露宴で酒を飲まされ、私も妻も夢心地の一日でした。

 あれから39年、生活設計通り4人の子宝にも恵まれ、家を新築したり子どもの自立など多少の波風はあっても貧乏ながら何とかここまでやってきました。その間の妻の苦労は私が地方公務員とは言いながらかなり破天荒な人生を歩んだため、家を守るために大変な苦労をかけたようです。夫婦喧嘩も多少はしましたが、別れることもなくまあ普通の家庭を築いてきました。

 いつもの年は結婚記念日など子どもの日ということもあって特別なことはしませんが、それでも私たち夫婦にとってはかけがえのない記念日なのです。昨日は長男夫婦に加え看護士の次男と警察官の三男も帰郷して賑やかな夕食会となり、記念日を祝うことができました。今のところ私も妻も健康で、妻は近所の歯科医院で働らき私もリタイアしたといいながら適当に働いて適当に人生を楽しく過ごしているのです。

 過去も今もそう不満はありませんし、二人の息子の結婚がまだなくらいで、これからもそんなに不安の材料は見当たりません。月並みなことかも知れませんが、健康に留意して二人仲良く、とりあえず11年後の金婚を目指して頑張りたいものだと二人で話をしました。

 私事で恐縮ですが、結婚記念日にはささやかながらプレゼントすることにしています。中身は内緒です。


  「夫婦とは いかなるものか 考える 知らぬ同士が 糸で結ばれ」

  「私たち 何もないから 加点派で 今日まで点数 加えに加え」

  「矢のごとく 三十九年が 過ぎました これから先も よろしく頼む」

  「とりあえず 金婚五十が 目標と ささやかながら 目標立てぬ」

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shin-1さんの日記

○四国青年スキルアップ系合宿に参加して

 昨日は2泊3日の日程で香川県高松市五色台にある県立少年自然センターで行われた四国青年スキルアップ系合宿に、頼まれて講演に行きました。午後6時30分からのスタートでしたが、少し早目に到着しました。五色台の歴史民俗資料館へは行ったことがありますが、この施設は初めてなのでカーナビが頼りでした。山の高い台にあるこの施設からは絶景の瀬戸内海の島々や夜景がきれいに見えました。駐車場から研修施設までは歩いて行かなければならないため、施設の全容を頭にに入れるのにかなり時間がかかりました。研修には四国中から90人もの若者が集まり熱気を感じました。

 私が講演する間車の中で待つ予定だった妻は、駐車場が遠いためにやむなく私の金魚のフンとして参加し、夕食までご馳走になってしまいました。

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 夕食後全体会でこの日の分科会に出演する3人の講師が簡単なレクチャーを行い、それぞれの分科会場に散って行きました。社会起業分野、経済分野、地域活性化分野と3つの中で、私は地域活性化分野です。天文観測館の一室は満席でした。私は6時半から8時までの90分、若者たちにメッセージを伝えるために少し早口で淀みなく話をさせてもらいましたが、意識的にかなり高い知識を持っているのか反応が早く、しかも理解度が高いとお見受けしました。

 若いころから自らも青年団活動を経験し、今も若者の地域づくりを支援していますが、日本の地域から若者が消えた感じがするのです。しかし私がこれからその力を地域に生かそうと思っている大学生たちの力は、新しい地域の担い手として十分役に立つと手ごたえを感じました。講演が終わって帰り支度をしようとするのですが、若者たちは公園の余韻を引きずって、盛んに近づき名刺交換や感想を述べて再会を誓うなど、いい雰囲気でした。後ろ髪を引かれる思いで五色台少年自然センターを後にして有料道路を経由し、坂出インターチェンジから高速道路に乗って夜の道を帰ってきました。


 私は青年時代、青年団活動に熱中し多くのことを学びました。概して①仲間ができた、②ふるさととともに生きることを学んだ、③主張ができるようになった、④感動する心が育ったのですが、これらのことは後の自分の人生において大いに役に立ちました。勤労青年であろうが学生であろうがこれらのことを若い時に学ぶことは大きな意味があると思うのです。田舎から若者の姿が消えた今、ふるさと再興の願いを彼らに託すにはまだまだ時間がかかるかも知れませんが、そのきっかけになったことは事実です。

 これからも折にふれこの若者たちと地域づくりを論じて行きたいし、支援して行きたいと思いました。いつの時代にも千年の瞳の輝きがその国の将来を決めるのです。学生にそんな夢を託すことを私たちは忘れていたのかも知れません。がんばれ若者たちよ。


  「久方に 若者たちと 交流す 明日が楽しみ 凄い迫力」

  「今やれる 青春強く アピールし 奮起促す 俺は熱血」

  「朝早く 夜が遅いと 心配し ついてきたのに 横でウトウト」

  「講演の 話すスピード 早送り それでもみんな さすがに若者」

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○高松市栗林公園を見学

 行く当てない旅ゆえ、道路標識を見ながら「あっ、栗林公園○○キロと書いてある」「お父さん久しぶりに栗林公園へ行ってみない」と妻が言うものですから、その通りにしました。栗林公園の駐車場はどこも満車で、誘導に従って少し離れた迎の場所の駐車場に駐車しました。この日は男時で、駐車場が満車のため無理かなあと思いきや一台出て行き無事駐車、信号が長い横断歩道も私たちがさしかかると青色にかわり、「今日はラッキー」と妻はご機嫌です。栗林公園の中は昼時でしたがかなりの人が入場して、曇り空で風もない長閑な初夏の一日を、皆さんのんびりと散策していました。

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(園内の広々とした風景)

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(新茶の即売をしていた愛媛の高校生と出会いました)
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(相合傘でどうぞと勧められ少し澄ましてはいポーズです)

 私たち夫婦は殆ど別々にこれまでにも何度かこの公園には足を運んでいるのですが、そのほとんどが団体旅行だったので、時間的な制約もあって公園の隅々まで散策したことは殆どなかったのです。昨日は急ぐ旅でもないので入場口で貰ったマップにそ沿ってほぼ一周するようにゆっくり歩きました。まず園内の建築物の中に入り、伝統工芸の方の漆塗りや焼物、一刀彫りなどの実演販売、それに盆栽などを見学しました。伝統工芸の技に感心しながら、少しお高い漆器の汁椀を買い求め外に出ました。園内は黒松を基調にしたそれは見事な庭園でした。しかも松の手入れも行き届き、無る場所によって趣が違うから驚きです。


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(この日はまるでおばさんのモデル撮影会のようで、嫌がる妻をカメラで追いました)
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(紅葉の新緑が目に鮮やかで綺麗でした。勿論モデルも?)

 園内にはカメラスポットのような場所があって、そこには沢山の人が詰めかけ、まるで順番待ちのような雰囲気でした。栗林公園の宣伝ポスターといえばここだと思う場所にやっと立ちました。少し高くなった場所から見ると太鼓橋が庭園の水面に映え、新緑も鮮やかな光景に思わず見とれてしまいました。「写真を撮りましょうか」と若い女性が優しい声をかけてくれました。「それじゃあお言葉に甘えて」と一枚撮っていただきました。ここだけの話ですが私はツーショットの写真が大の苦手で、新婚旅行に行った先々でも二人で撮った写真が一枚もないのです。声をかけてくれた女性は私たち夫婦を仲の良いカップルだと思ったのでしょう。はいその通りです。天下には岡山の後楽園、水戸の快楽園、金沢の兼六園、熊本の水前寺公園、大阪の大阪城公園など名だたる名園がありますが、栗林公園も負けず劣らず立派な日本庭園だと感心しました。

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(栗林公園第一のカメラスポット)

 ここでも若い女性に「写真を撮りましょうか」と勧められ、私のカメラを渡して採ってもらいました。

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(痩せた私に少々太り気味の似合いの熟年夫婦です)


 吹く風もさわやか、途中のゴザを敷いた茶店でトコロテンを注文しお茶を飲みながらのんびり過ごしました。いつの間にか栗林公園で2時間も過ごしてしまい、五色台へ行く時間が近づいていることを知り、思い出に残る栗林公園を後にしました。その後海岸近くの道を走って有料道路の入口からつづら折りの山道を登り、四国88か所の根生寺にお参りし、出産間近な息子嫁の安産をお祈りしました。昨日夕方から講演が予定されていた五色台青少年センターはレ根生寺のすぐ近くにありました。

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  「栗林に 何度来たかは 知らねども 規模の太さに 今更ながら」

  「伝統の 工芸の技 目の前で 実演見とれ 漆器手に入れ」

  「オシドリの ような姿に 見えるのか 撮りましょうかと 声をかけられ」

  「出産を 控えた嫁の 安産を 祈りお守り 巫女より授く」



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○朝5時に出て12時に帰る長~い旅

 「ゴールデンウィークは何処へ出かけますか?」何て会話が交わされる度に、「私は残念ながら仕事があって、野良の節句働きのようなものです」と、自分自身に納得させるように話してきました。「えっ、サンデー毎日と聞いていましたが、仕事をするのですか?」と言葉を返されれば、「はい、講演や集会などの藪用がありまして」・・・。

昨日はそんな会話を地で行く講演依頼があって、高松市まで自家用車で遠出をしました。せっかく巡った「どこまで行っても千円」という高速道路の祝日割引を生かさない手はないとばかりに、妻を誘い早朝に出かけました。せっかく行くのだったら、うどんも食べたいし、金毘羅さんも塩江温泉にも入りたいしと欲張った旅の行程を二人で組み立てながら、夜の講演に間に合うために朝5時の旅立ちとなりました。

 伊予インターチェンジから高速道路に乗りましたが、朝5時過ぎというのに高速道路はかなりの交通量で、時折トイレ休憩のために立ち寄ったパーキングエリアやサービスエリアは、まるで県外ナンバー車の見本市のようなもので、ほぼ全国の車を見ることができました。したがってどの休憩所もファーストフーズの店やレストラン、土産物売り場はかなり混雑していて、レジには長い列ができていました。

 そんな混雑の中でも、立ち寄った場所場所で知り人に出会い、「若松さんお元気ですか」と声をかけられるのです。妻と一緒なんてことは滅多にないことなので、妻も「お父さんは顔が広いのねえ」と改めて驚きながら、その度に「あの人誰?」「あの人は○○さんといって、○○という地域に住んでいる人で、昔お世話になった」などと記憶をたどりながら注釈をつけて妻に話してやるのです。

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(塩江温泉の奥まった所にあるさぬき温泉の玄関にて)

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(塩江温泉の前にかかった木製の橋をバックに)

 一番の驚きは金毘羅さんのお参りを済ませ、うどんでも食べながら塩江温泉へ行こうと一般国道を走り、名だたるうどん屋は長蛇の行列で食べることができず温泉入浴を終え、塩江温泉の道の駅に立ち寄った時でした。何気なく木橋を渡ろうとしていると橋の向こうから三谷コミュニティセンターの所長さんがこちらに向かって歩いて来るのです。「えっ、まさか」と目を疑いましたが、正真正銘の所長さんでした。所長さんとは最近二度も会っているだけに、お互いが橋の上でまるで相談したかのような偶然な出会いに感激してしまいました。お互い連れがいたためその場は別れましたが、自宅へ帰って二度びっくり、所長さんかうどんが届いていたのです。妻は「どうなっているの?」とびっくりしきりでしたが、私の方が数倍も驚いてしまいました。少し昼食時を逸していましたが、所長さんお勧めの橋のたもとのそば屋さんに立ち寄り、美味しいソバを堪能しました。

 朝5時に出て夜12時近くに帰った夫婦の長~い、ささやかなゴールデンウィークの旅は終わりましたが、講演を利用したといいながら久しぶりに楽しいものでした。金毘羅さん、塩江温泉、栗林公園、五色台、根生寺など短い時間ながら香川県の主だった観光地を足早に回り、うどんこそ食べれなかったものの美味しいソバを食べ、しかもガソリン代と高速道路割引という恩恵に預かり、妻も私ももう満足でした。帰るとすぐに風呂を沸かし、湯船にゆっくりとつかって疲れをいやし、床に就いた頃には12時を回っていました。ああ昨日は妻と二人でいい一日でした。


  「うそ?本当? 向こうに見える 所長さん お互い数奇 運命感ず」

  「朝早く 旅立ち夜は 遅くまで 日帰り旅行 割引お陰」

  「割引の 恩恵良くす 人たちで どこも満員 不景気知らず」

  「何処へ行く 聞かれる度に どこどこと 説明しつつ 旅程組立て」 

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○人それぞれの連休

 今年もゴールデンウィークの真っ最中となりました。私の町は農山漁村地帯ですから、サラリーマンのようにゴールデンウィークなどと称してまとめて休むこともできない人たちが沢山いて、あちらの山ではチェンソー、こちらの山では草刈り機などと甲高い機械の音が響いて、浮かれている人にまるで警鐘を鳴らしているような雰囲気なのです。中には年老いた親父やおふくろの手助けをしようと、帰郷した孝行息子の力を借りて農作業をしている人もいることでしょう。

 農家に比べ漁家は祭日は魚市場が休みのため、一日ずれはしますが漁師さんたちは長い休暇に入り、船は全て港に係留したままで、けたたましい漁船のエンジン音も消え、浜は久しぶりに静かな日々を迎えているのです。しかし最近は海のレジャーが盛んになって、港の隅にわがもの顔で係留しているレジャーボートは沖合いに出て釣りを楽しんだり、気の早い若者たちは海上スキーやジェットスキーなどを楽しみ、水しぶきをあげているのです。「まだ寒いだろう」と思いつつ、長閑な海の風景を見るのも年寄りの冷や水かも知れないのです。


 わが家も前日から松山に住む長男夫婦が帰ってきました。長男の嫁は10日後に出産を控えていて、今年のゴールデンウィークは出産準備期間のため何処へも行けず、わが家と松山の家を往復して過ごす程度で、妻はそのために長男家族のお世話という忙しさがついて回るのです。

 長男はこの連休中にかねて念願だった私のビデオテープをDVDに移し替える作業に取り掛かっていますが、残念ながらその数たるや膨大で、しかも長年使わずに倉庫にしまっているためカビが生えた状態のものも何本かあって、クリーニングに出さねば作業が進まないことが判明し、思わぬ出費に頭を抱えなければならないようです。何本か試しに入力作業を試みたようで、私の書斎の机の上は、先日片づけが終わったばかりなのに、ビデオデッキやコード類に占拠されて、朝晩行うブログ書きもままならない状態なのです。

 長男とともに帰っている孫希心は成長の跡が著しく、台所の柱に書き込んだ家族の背の高さの所にまた新しい記録が書き加えられました。年末からだと5センチも背が伸びて、私や長男を驚かせました。言葉も行動も日増しに成長して、この分だと10日後の出産後も何とか乗り切ってくれることでしょう。既に準備期間として保育所に通わせていて、そのことも孫の成長を手助けしているのかも知れません。

 この孫は果物が大好きでイチゴやトマト、それに少しすっぱい甘夏みかんを平気でペロリ一個を平らげてしまうのです。自分の小さな椅子を自分で台所に運んできて座り、「じーじ、じーじ」と皮を剥いて食べさせてほしいとせがむのです。泣いたり笑ったりと孫がいるだけでわが家は賑やかです。いつか近いうちに長男夫婦は同居をすると決めていているようですが、わが家に本当の春が来るのはもう少し先のようです。

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