shin-1さんの日記

○子どもおもしろ教室始まる

 今年も人間牧場で子ども教室が始まりました。昨年までの夢基金の助成を受けた事業と違い、実行委員会は組織するものの市の教育委員会が特設事業費を組んだ事業として子ども塾とおもしろ一日大作戦の二本立てとなり、芋植えや芋の収穫は他のプログラムとともに大作戦となりました。

 参加する子どもたちにも参加させる親にも多少の混乱があるのか、申し込みは今一の感じがありましたが、それでも14人の参加があって、ボランティアスタッフを含めると20人余りが今日のプログラムに参加しました。今日はPTAの作業や活動とダブってしまい、私自身も上灘保育園の参観日に午前中講演を依頼されていて、親類の法事とも重なりましたが、それでもその忙しさをすり抜けて、午後2時からの芋づる植えにはどうやら間に合いました。一足先午後1時にに人間牧場に到着した私はまず水平線の家の掃除や足湯をサービスするためロケーション風呂を沸かし、慌ただしい準備をしました。

 やがて午後2時になると子どもたちが元気に人間牧場へやってきました。これまでのように30人を超える人数だと、狭い芋畑はごった返して作業効率が悪いのですが、人数は少ないものの芋づる取り、畑の畝づくり、植え付け、支柱立て、網張りなどの作業は2時間ほどできちんと片付きました。去年まで3年の経験が生かされ順調そのものでした。

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(開会行事と担当の松原さんの作業説明)

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(雨不足で心配された芋づるも順調に取りました)

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(今年はマルチとわらかけという二つの栽培方法が実験されます)
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(左がわらかけ右がマルチです)
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8作業が終わってみんなで足湯を楽しみました)
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(足美人・足美男子の足・足・足・・・)
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(イノシシ除けの網を張り・農作業が終わった農場での記念撮影)

 今年のサツマイモの収穫は10月24日です。これから5か月間、風雨や日照という気象条件や雑草、イノシシなどの影響を心配しながらサツマイモは成長して行くことでしょう。今年のサツマイモは宮本常一のふるさと周防大島からはるばる種芋を運び2月に手作り腐葉土の苗床で育てた芋づるです。例年の大きい芋づるよりは見劣りしますが、何とか成長して沖合に浮かぶ周防大島と交流の輪が広がるよう願っています。

 7月には宮本常一の歩いた足跡を辿る高知県梼原へのウォーキングも予定されていて期待は高まっているのです。

  「沖合いに 浮かぶ島より 種芋を 取り寄せ植える こだわりの芋」

  「人数を 感じさせない はかどりで 今年も芋よ 元気に育て」

  「足湯して 天国みたいと 子どもいう 天国などを 経験もせず」

  「暑くなく 寒くもなくて 上天気 作業はかどり いよいよ始む」 

  

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○今朝の一押し写真

 昨晩は山口からの帰りは午後8時過ぎで比較的早かったのですが、ブログを書かずに出かけたため、夕食を終えてお産のために毎夕やってくる孫を寝かせてからブログを書きました。前夜息子が私のパソコンを浸かったため少し勝手が違うようになって面食らいましたが、どうにかノルマを達成して床につきました。

 今朝は前日までのデジカメの写真を整理していると、中から一昨日撮影したとっておきの一枚が出てきました。大学へ講義に行った帰りに県立中央病院にお産で入院中の嫁を見舞った折撮影したものでした。

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 この写真に写っているのがまだ名前のついていない4人目の孫なのです。面会に行くとカートのような台に乗せられて嫁が病室から連れて来て見せてくれました。こんな小さな命がやがて一人前のkどもになるのかと、他の3人の孫と比較しながら思いました。嫁の話だと産院は次の人の出産予定があるので4~5日で退院しなければならないそうで、今週末には目出度く退院となりそうです。それにしても孫とは可愛いものです。

 昨晩家へ帰ってみると息子は子どもの名前を考えているのか、私のパソコンの前に座ってあれやこれやと文字にしていたようでした。かつて39年前に私がやっていたと同じことをしながら、親としての自覚に目ざめるのでしょうが、一生使う名前だからしっかりと考えて付けてほしい願っています。


 嫁がお産のために入院してからわが家は急に騒がしくなってきました。息子は仕事の帰りに夕方子どもを保育園に迎えに行って連れて帰ってきます。妻にとっては息子と孫が暮らしに加わるのですからそれは大変な仕事の増量です。洗濯物も増え、食事の世話も増えました。風呂に入らせて眠らせることだけでも大変な忙しさです。間もなく同居をする予定の長男の家族は、同居すればこうした慌ただしい暮らしが毎日続くのですから、それはもう大変なことなのです。

 それでも息子も妻も嫁も納得しようと心の整理と準備をしているようです。頭の痛い話ですが前向きに考えるよう私が調整役を務めなければならないと思っています。早速息子と同居のための家の使い方や改修について少しだけ話し合いました。

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○今日のもう一枚の一押し写真

 愛媛松山三津浜港と山口柳井港はフェリーで2時間半もかかります。いくらのんびり旅がいいといっても、往復5時間の船旅は少し退屈気味なのです。和室のような部屋もあって今朝のように、早朝の便を利用する時はゴロリと横になって仮眠をするのですが、相部屋のためそんなに深く眠るわけにもいかず、調べ物をしたり本を読んだりして過ごすのです。慣れた航路のため最近は両岸の景色を眺めることも殆どなく、部屋で過ごすのですが、フェリー客室の壁に貼ってある海図を見ながら帰りの船で、沖合に浮かぶ島の名前が目に止まりました。その島の名前は「柱島」です。戦争に携わった人はよく知られたこの島の名前を覚えているでしょうが、私たち昭和以降に生まれた、いわば戦後生まれの方には「柱島」と聞いただけでは、何のことも思い出せないはずなのです。

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 この島の沖合2キロの海上で戦争末期の昭和18年6月8日12時10分に、戦艦陸奥が謎の爆発を起こして沈没したのです。その一部は対岸の周防大島伊保田に造られた陸奥戦争記念館や、最近呉にオープンした大和ミュージアムに展示されていますが、大部分は海底深く今なお眠っているのです。戦艦陸奥は長門型2番艦として建造されましたが、大和や武蔵ができるまでは、世界で一番大きな戦艦だったそうです。

 ご多分にもれず安芸灘に浮かぶこの島も現在は228人程度と過疎化が進んでいるようです。山口県岩国市に所属するといいながら、隣はもう愛媛県伊予灘で点在する島はどれが山口県でどれが愛媛県下判読できないほっです。特に狭い航路は水道とか呼ばれる海の難所で、昨日のような大潮の時期には海がまるで川のように流れ渦を巻いているのです。

 次の周の週末私は再びこの場所を通って対岸の岩国市へ講演に出かけるのです。目と鼻の先だというのに、今は松山三津浜~岩国間にかつて走っていた高速船も利用者が少なく廃止となってしまい、広島経由で行くか柳井経由で行くか迷うところですが、山口県ということもあってやはり柳井から入ろうと思っています。

 地図や海図を見ながら一つ一つの島に思いを寄せたりするのも旅のだいご味なのでしょうが、知っているつもりと決め込んで部屋の中で過ごすことの多かった最近の防予汽船の旅を改めて考えさされた一日でした。そうこうするうち右手には私たちが無人島キャンプで何度も訪ねた由利島が、また左手には親友豊田君の生まれ育った二神島が見えました。テレビでは大相撲が放映され、横綱白鵬が大関日馬富士を破り、横綱朝青龍が琴欧州を破った姿が映っていました。

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○今日の一押し写真

 今朝は早朝4時に起きて身支度を整え自家用車で三津浜港まで行き、5時25分発の防予汽船フェリーに乗船して柳井へ向かいました。その後山陽本線で柳井港から新山口まで各駅停車の電車に乗り、居合わせた乗客と世間話をしながらタクシーを乗り継いで、会場となる山口南総合センターに到着したのは10時過ぎでした。対岸の山口県といいながらかなり遠い一日がかりの旅でした。母親クラブ山口県大会の記念講演を頼まれていて、自宅~会場~自宅というトンボ帰りの遊び心も発揮できない日帰り旅でしたが、新山口駅新幹線口で、種田山頭火に出会いました。

 山頭火といえば放浪の俳人で、「分け入っても分け入っても青い空」に見られるような自由奔放なその作風で知られた人です。愛媛県松山市とも縁が深く俳句の盛んな松山には山頭火のファンが今なお数多くいるようです。

 実は私の家の玄関にも山頭火の「何を求める風の中行く」という句が墨字で書かれ掲げられています。旧双海町役場に在籍していた頃同級生の書家岩岡忠明さんが書いてくれたものです。私はこの句を基本理念に色々な地域づくりに取り組んできました。いわば私の理想像がこの言葉の中に込められているのです。

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 今日、足早に訪ねた山口市で山頭火の銅像に合いました。山頭火の自筆書を掘りこんでいるこの句は「まったく雲がない笠をぬぎ」というシンプルな句でした。笑売啖呵と称して毎日ブログの末尾に4首づつ作っている私としては、俳句や短歌は気になるところですが、やはり山頭火という特別な歴史に残る人の句は人の心をひきつける秀作で、おいそれ真似のできるようなものではないのです。私は笑売啖呵を古臭い人間らしく5・7・5・7・7に当てはめて作っていますが、山頭火のような自由な作風にも、そのうち挑戦してみたいものです。

 かつては小郡という名前の小さな駅でしたが、今では新山口という名前に改名して駅周辺の風景が一変しました。山口県では下関が最も知名度の知れた場所ですが、新幹線が開通してからは小郡の方がのぞみの止まる駅として有名になってきました。萩~津和野やSLやまぐち号など何かと観光的話題を振りまいているようです。


 私は、新山口から益田へ通じるこの路線は益田や日原へ行くため何度も列車には乗っていますが、まだSLやまぐち号は見ただけで乗ったことがありません。長閑な田園を走るSLにも一度は乗りたいものだと密かに思っているのです。

 「煙はき鉄の塊走りゆく」。うーん、やはり私が作ると駄昨なり、いい句はできませんでした。

 帰路の列車の中で時間がないので弁当を持たせていただいた弁当を広げて駅弁風に食べながら山陽本線の旅を楽しみました。

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○妻の料理は美味しゅうございます

 わが家の食事はどちらかというと日本食中心の献立です。ごはんにお味噌汁、魚や煮物、野菜が中心です。子どもが小さい頃は成長に必要な肉類が多かったのですが、10年前に私が胆のう摘出手術をしてから肉や天ぷらが余り食べられなくなったため、それに高齢な親父の口に合うものが自然と好まれるようになって、食事には必ず魚が一品はつくほど魚党になってしましたのです。それでも朝だけはリンゴとキャベツを組み合わせたリンキャベに黒酢と牛乳で済ませているし、昼も残りもののようなものを食べるので、まあ言ってみれば夕食が本格的な日本料理なのです。今日は大学の授業や松山工業高校の100周年記念事業の打ち合わせが長引いて夕方帰ると、妻が私のために色々な料理の真っ最中でした。


 新玉ねぎのスライスとほうれん草のおひたし、トマトスライス、カボチャの煮物、ハヤシライスのルー、それにしめサバの刺身なのです。どれも大好物なのですが、炊きたてのアツアツごはんにそれらをおかずにすれば、それはもうどんな高価な料理店の料理よりもおご馳走なのです。今晩は久しぶりにご飯のお代りをしてしまい、少し食べ過ぎた感じがするほど食べました。

 私の妻は若いころ私が役場で水産を担当していたことや、家が漁師の家だったこともあって、「おさかなママさん」という講習を受けて各地に指導に行くなど、魚食普及に取り組んでくれました。そのお陰で魚料理はかなり腕に自信があるのです。

 取り立てて高価な食材を使っているわけでもないのに、甘過ぎも辛過ぎもない丁度良い舌味は長年慣れ親しんだ味であり、何故か心がホッとするのです。体の栄養もさることながら料理の持つ独特の香りや心許して食べる食卓はやはり心の栄養とでも言うべき意味を持っているのでしょう。

 食事が終わって飲むお茶も美味しくてお代わりしました。最近は食後のコーヒーなどとコーヒーがもてはやされていますが、コーヒーの苦手な私は日本茶が大好物で、早くも香りのよい今年の一番茶が出回って心なごませてくれるのです。

 私たちが子どもの頃は「食事の遅い人間は出世しない」などと、ひたすら早く食べることを教わりましたが、今は食事を楽しむことを第一にするような豊かな時代となったのです。

 私は最近妻と二人の食事が多くなったために、リタイアしたこともあって食事はできるだけゆっくりとるよう心がけています。そうしないとお酒を飲まなくなったためあっという間に食事を終ってしまうのです。そして私のこころがけの大変変わった部分は、ニュージランドへ行ってホームステーをした折、ご主人が後片付けをしている姿を見てショックを受け、帰ってから自分の食べたものだけは流しへ持って行くことだけでもしようと心に誓って実行しているのです。今の若者からすれば、洗い物をするわけでもなくそんなこと自慢にならないと言われそうですが、厨房に入らない男子と言われる私にとってこれが精一杯の努力なので、妻も昔の私を知っているので、そのことは

大変有り難がっているのです。 まあ食事の後に「ああ美味しかった」と褒め言葉を言うこともすっかり馴れて、妻と私は良好な夫婦関係を保っているのです

  「美味かった たった一言 言うだけで 妻の腕前 随分上がる」

  「魚減り 肉が増えたと 白書いう 成人病の 多き納得」

  「食べたもの 片付けるしか 能のない 俺だが妻は 満足してる」

  「新茶入れ 夫婦四方山 話する 長閑わが家の 食後の会話」

 

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○孫出産・祝いのメッセージが届く

 「shin-1さんの日記」を愛読していただいている方々から、孫誕生の記事に対し温かいメッセージをいただきました。私たち夫婦にとって4番目となる孫ですが全て男の子です。孫の健やかな成長を心から願ってのメッセージに心打たれました。

 昨晩は上灘中学校の学校評議員会があって午後7時から出かけていました。午後9時に会議が終わって帰ってみると、息子が孫と二人でわが家に来ていました。普通は松山のマンションで親子3人で暮らしているのですが、前日からの母親の出産騒動で孫は何が何だか分からぬままに、母親の実家に前夜は一泊し、昨晩からは母親が退院するまでの間わが家に寝泊まりするのです。

 昨晩は妻が産院へ見舞いに出かけて9時過ぎに帰ったため、普通8時半に就寝するはずの孫は起きて私たちの帰りを待っていました。既にお風呂に入ってパジャマに着替えていましたが、眠い目をこすりながらお気に入りのアンパンマンのボールを持って眠ると離しませんでした。やがて私と妻の間に入って川の字になってスヤスヤと夢の世界です。孫の寝顔、孫の匂いはいいものです。

 昨晩は孫も一度も起きることなくぐっすりと眠ってくれましたが、妻は相変わらず布団の外に出よう出ようとする孫を何度となく布団の中に引っ張り込んでいました。私が日課の4時過ぎに起床してそっと抜け出し書斎で本を読んでいると、5時過ぎにはもう起きて私を探しに書斎へやって来ました。2歳未満とはいいながら13キロもある

ので抱き続けると腰を傷めそうなので、ほどほどにしなければならないのです。それでも岡さんを探しているようでした。2階に寝ている息子も前日前夜のお産に立ち会ったり仕事をしたり、相次ぐ親類のお見舞い、子どもの保育園へのお迎えなどとにかく心労が重なっていたようなので6時まで起こしませんでした。

 降って湧いた嫁のお産騒動はわが家にとってはまるで台風が来たような感じです。みんながそれぞれ甲斐甲斐しく働くのに、こんな場合の亭主たる私は何の役にも立たないのです。妻からは「あれをしてこれをして」といわれるのですが、やることなすこと後回りなことばかりで、昨日も風呂のお湯を出しっぱなしにして相撲に夢中になってしまい、「もっと緊張感を持ってください」と言われてしまいました。

 今朝は保育園に行く孫と仕事に行く息子が7時40分に出てホッと一息つきました。今日は私も愛媛大学法文学部の授業日で準備をしてそろそろ出かけなければなりません。また午後は松山工業高校の100周年記念事業の準備委員会が予定されて相変わらず忙しい一日になりそうですですが、帰りに病院の嫁と孫を見舞いたいと思っています。

 息子が昨晩生まれた子供の名前について色々と話をしていました。私の子どもは私の名前の一字「一」を取って一子、一心、一生、一公と名前を付けています。妻も家族も大反対だった名付けでしたが、息子もそれを見習ったのか自分の名前の一字「心」を取って長男には「希心」と付けました。最初は奇異な感じもしましたが、最近はなれて中々いい名前だと思っています。どうやら息子は第二子にも「心」をと考えているようです。親父の私が変わりものですからこうなるのだと、妻からは言われていますが、自分の子どもの名前は一生使うので慎重にと助言をしてやりました。

  「台風が まるで来たよな お産です 孫の一日 までも翻弄」

  「いい名前 つけろと助言 する私 真似はするなと 妻も助言す」

  「川の字に 孫を挟んで 眠る夜 久しぶりだと 心浮き浮き」

  「おめでとう 言われる度に ありがとう 孫の出産 私も嬉し」

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○四人目の孫誕生

 昨日は朝から長男の嫁が産気づいて慌ただし一日となりました。慌ただしいと言っても別に私が慌ただしいのではありませんが、入院出産や孫のことなどを考えると何となく落ち着きませんでした。朝息子から電話があって「出産予定日を過ぎているが、どうも陣痛のような感じがするので病院へ問い合わせところ入院するよう勧められたのでこれから病院へ行く」と連絡がありました。長男の長男である孫希心はこんな産前産後を想定して4月から嫁の実家の近くの保育園に入園させているため、昨日は保育園に通園させてから病院へ向かったようです。

 嫁の実家は喫茶店を経営していて、産前産後の面倒が見れないため、入院中は息子と孫希心はわが家へ疎開しわが家から仕事の行き帰りに孫希心を送迎する算段です。嫁は初産の時中々生まれなくて難儀をしたので今回も生まれるのは今日くらいだろうと息子は言っていました。それでも入院しているし孫のことも気になるので妻の仕事が終わってから病院に駆けつけその足で孫を連れて帰る予定で二人で出かけました。夕方5時ころに県立中央病院の周産期センター到着し見舞いましたが、明くる日になるかも知れないというし、その夜は保育園に行っている孫希心は嫁の母親が面倒を見るというので一旦引き揚げました。

 子どもを4人も生んだ妻の経験からすると2人目からは産道ができているのでおさんが一回目よりは早くなると思っていたようで、今夜あたり生まれるかも知れないと息子に告げていたのです。

 家に帰り食事を済ませて団欒していると息子から興奮した様子で「さっき子どもが生まれた。母子ともに健康、3150gの男の子だった」と電話がかかってきました。私たちは再び車で病院へ向かいました。私は分娩室へ入ったのは初めてでしたが、8時40分ごろに生まれたまだ1時間しか経っていない赤ちゃん、つまり私たち夫婦にとっては4番目の孫の誕生となりました。結果的には4人とも男の子ですが健康な赤ちゃんなので嬉しい限りです。

嫁は兄弟二人とも女姉妹で、お父さんの喜びも相当だと息子から聞かされました。息子はデジカメで生まれたばかりの孫と嫁、それに私たち夫婦を入れて記念写真を撮ってくれました。本当はデジカメを持参したかったのですが、息子や嫁に「こんな大変な時に」と叱られそうなので、忘れたふりをして持参しませんでした。息子の嫁に「よく頑張ったね。おめでとう」とねぎらいの言葉をかけて10時近くに病院を後にしました。

 病院は病気を治すところなので、ややもすると暗くなりがちですが産院だけは別で、人間誕生の産声が聞ける唯一の場所かも知れません。娘もこの病院で二人の赤ちゃんを産みました。また今は産休してますが助産師としてこの病院で働いています。少子かといいながら私たち夫婦にはこの7年間で4人の孫を授かりました。1+1=(4+2)+4=10、つまり私と妻の結婚は4人の子どもに加え長女の婿と長男の嫁に4人の孫が加算され合計10人に膨れ上がったのです。嬉しいネズミ算です。後二人の息子に嫁でも来れば嬉しいのですが今のところその気配は感じられず、妻の良いいつの悩みの種になっているようです。

 今回生まれた孫は5月19日が誕生日となりました。あわや娘の2番目子ども尚樹と誕生日が一緒になるのでは?と思われましたが、尚樹は5月18日と僅かなニアミスとなりました。5月生まれはこれから温かくというより暑い中で育てなければなりませんが正月ごろには7ヶ月の投げ座りといわれるように、座ることができるかも知れないと、伊予市民の一人となった孫の成長を楽しみにしています。


  「四人目の 孫の誕生 でかしたと 分娩室にて 親子褒めやり」

  「楽しみと 不安半分 だったけど 母子とも元気 聞いて安心」

  「今晩は 生まれるだろう 妻の感 ピタリと当たり さすがは四人」

  「少し前 腹にいたとは 思えない お乳チューチュー 誰が教えた」

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shin-1さんの日記

○自分の生き方を見つけることが第一

 限界集落だの田舎の嫁不足だの、はたまた少子化だのといって色々とその対策に頭を悩まされています。私も地域づくりの世界で生きてきたため、それらに対し妙案はないかよく聞かれたりします。行政が金を出せたり住民の方を向いていた時代なら私のような凡人でも解決策のひとつや二つは思いつくのですが、今の行政は金もなく職員も住民に向くような気配は一部を除いて感じられず、お手上げの状態です。

 先日島根県のある集落へ講演に招かれ出かけた折、何人もの人から力強い話を聞きました。その集落では「長男が糞をひらねばその家は潰れる」という言い伝えをしっかりと守って、長男を残す運動を長年にわたって実践してきたそうです。最初は長男に反対・反感・半黙され、自分も半信半疑だったそうですが、それでもその言い伝えを守り、圃場整備や新品種の導入など農業経営の足腰を強くして、飯の食える農業と集落コミュニティの維持に努めてきたのです。その結果は火を見るより明らかで、風前のともし火の限界集落をしり目に持続可能な集落を作っていました。そして今後も「その集落にいい子どもを残す」ために色々なことを考えて実践していて、もっとさらなる良き集落を作りたいが妙案はないかと、私の出番となったのです。

 私は人づくりの必要性と生活環境の近代化について話をしました。私たちの育った20世紀という時代は田舎がネオン輝く都会に憧れて生きてきました。田舎をさげすみながら生きるほど田舎の暮らしは都会から比べると遅れていたのです。便所も風呂も台所も、襖で仕切られたプライバシーの保てない部屋も、若者の私たちにはどうにもならなかったのです。ましてや隣に蔵が建つと腹が立つ陰湿な田舎のコミュニティも致命傷でした。また3K産業といわれる仕事も、外に出たことのない親たちはそれが当り前の暮らしだと我慢して暮らしていたのです。

 テレビの導入は田舎に都会の便利さや快適さをリアルに伝えました。その結果若者は都会を目指し、私たちの住んでいる田舎から人が減り、今のような田舎の姿になったのです。

 しかし最近になって都会のひずみやほころびが目立ち始め、田舎暮らしも捨てたものではないという考えが芽生え始めてきました。私は自分が幸せ者だと思うのは、水が美味く、食べ物が美味しく安心安全で、空気や原風景までも長閑で、心許せる仲間や近所の人間関係に満足して暮らせ、たまに都会へ遊びに行けるからです。特にインターネットの普及で情報化が進んでとてつもなく便利になり、都会に住むことの意味がなくなりつつあるのです。

 自分の生き方をしっかり持って生きている人はキラキラ輝いて見えます。多分私もキラキラほどの輝きはないにしても多少の輝きだけはあると自負して生きているのです。親が自信を持って生きると子どもは自信を持って生きてくれます。そんな親をたくさん作ることが地域づくりなのです。人にはそれぞれの思いや生き方があって当然で、その個性とも思える生き方を批判することはできません。親は子どもに背中を見せて生きることしかできない悲しい運命の持ち主かも知れません。

 私は幸せなことに4人の子宝に恵まれました。しかも4人とも私が理想とした県内の2時間圏内に職場を持って暮らしています。将来のことは分かりませんが、親が子、それに孫と出会おうと思えばいつでも行ったり来たりできるのも嬉しいことです。そしてリタイアした今は少しばかりの余力を出して地元の子どもたちにボランティア活動としてふるさと運動に取り組み、役立ち感も持てているのです。健康に留意し自分らしく生きることを今後も続けたいと思っています。


  「自分とは いかなるものか 自分さえ 分からず生きる この歳なりて」

  「ある村の 生き方理想 長男が 糞をひらねば 家は潰れる」

  「人生の 仕上げの歳に なりました いい生き方と 思えるように」

  「俺も歳 回顧の話 多くなり 未来語った 昔懐かし」

 

 

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shin-1さんの日記

○やがて車に乗れなくなったらどうしようか?

 昨日単車で郵便局へハガキを出しに行きました。途中隣のおじさんが町の中を歩いていました。「エッ、何処へ行きよるんじゃろう」と不思議に思い単車を止めて、「何処へ行きよるの」と話しかけると、「ちょっとそこまで買い物に」というのです。聞けばこのおじさんは82歳になったので危ないという家族の勧めもあって車に乗るのを今月から止めたそうです。車に乗るのを止めると病院や買い物は公共交通機関も列車以外この田舎にはないため、自分の足で歩かなければならないのです。

 おじさんの立ち話によると、先日も向こうの集落にある種物会社へ苗物を買いに行ったそうですが、あいにく水曜日で休みだったため、行って帰るのに半日もかかってしまったとこぼしていました。また「明日は松山の病院へ行かなければならないのに娘や息子は仕事で頼めず、記者で行かなければならず今から気が重い」と心情吐露です。若いころから車依存の暮らしに慣れていると、松山などはすぐそこの隣町という感じがしますが、車に乗れなくなると松山市は最早近くて遠い町になってしまうのです。

 このおじさんは信心深い人で某宗教に入信していて道場が高知にあるらしく年に何回かは信者さんを乗せてお参りに行っていました。家族はそのことも心配で、もし事故でもあると同乗者申し訳ないので「進ちゃん、あんたから親父に車に乗るのは止めるよう言ってくれないか」と、息子さんから相談を受けたことがあり、何気なくその話をおじさんに匂わせましたが、「安全運転に気を付けているから大丈夫だ」と首を横に振り続けていました。

 このおじさんには私がシーサイド公園の担当をしていた頃随分世話になりました。早朝の一日3時間の清掃をお願いしたのです。時給も安い汚れる作業を喜んで5年ばかりしてくれました。私は12年間シーサイド公園の清掃をやり3人の清掃作業員と関わりましたが、このおじさんを含めて3人とも生真面目な方ばかりで多くのことを学ばせてもらいました。

 今朝隣の辺りが急に賑やかなので外に出てみると3台も軽四トラックが止まっていました。顔見知りの水道工事屋さんが出入りして作業をしていました。聞けば風呂のボイラーを薪から灯油に変えるのだそうです。このおじさんはとにかくこまめで、これまで今時珍しい薪ボイラーで風呂を沸かしていたのです。


 人のことを言えたものではありません。わが家も5年前までは薪と灯油併用のボイラーで風呂を沸かしていたのですから・・・・。しかし今思うと隣のおじさんも含め私たちは何て環境に配慮した生き方をしていたのでしょう。子どもが成長するまでわが家では薪割りや風呂沸かしは子どもの仕事と位置づけ、存分に子どもの役割意識を身につけさせました。子どもが集まる度に薪割りの懐かしい話に花が咲くのです。

 隣のおじさんは車に乗らないだけで、まだ免許証の返納はしていないそうです。「返納したらもう運転免許証は取れないから、最後のあがきだ」と笑って話されましたが、元々免許証を持っていない自転車依存の親父と違う、どこか寂しい雰囲気が漂っていました。「これからはあんたの親父に見習って自転車の練習でもせにゃならん」というおじさんをしり目に、今朝も新車の電動自転車に乗ってさっそうと7キロ向こうの診療所へ向かう親父の元気な姿を見ました。親父91歳、隣のおじさん82歳、私64歳の初夏の朝でした。


  「間もなくに 車乗れない 日が来ると 隣おじさん 私に暗示」

  「車ない 暮らしなどなど 成り立たぬ 何時の間にやら 車に依存」

  「プリウスの 話題持ちきり 今頃は 普及言いつつ エコカー売れて」

  「自転車を こよなく愛す 親父さん 時代先取り 排ガス出さず」

 

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shin-1さんの日記

○風邪をひいてしまいました

 昨年の年末年始まで

 年に一回ぎっくり腰を患い整体に行く程度で

 風邪もひかず腹も疼かずとにかく元気だと思っていた私


 ところがひょんなことで昨年末に風邪を引き

 その風邪をこじらせて一週間、熱・タン・咳に悩まされ

 病の床に伏しました


 食べるもの飲むものも全て美味しくなく

 胆のう摘出手術で13キロ減った体は

 一週間で2キロも減って痩せ過ぎラインへ突入

 風邪という病名で始めて病院で一番嫌いな注射をされ

 その歳その顔で注射が嫌いなんてと看護婦さんに笑われ

 もうこの病院には二度と来ないといいました


 正月返上の病の床で妻の温かい看病を受け

 今まで・今・今からのことが去来し

 自分の過ぎ越し人生とこれからの人生をじっくりしみじみ考えました


 回復後体が資本と少し体力作りの真似ごとをして

 もう大丈夫と冬を乗り切った矢先の数日前

 再び風邪をひいてしまいました

 泊まりに来た孫が鼻水ぞろぞろだったので

 抱っこする度に嫌がる孫の鼻水をティシュで拭き取り

 顔を近づけたのが原因かも・・・・


 妻の差し込む体温計は38度を表示したものの37度とウソを言い

 大したことはないと弱々しく胸を張りました

 それでも三度三度の食事の後に嫌いな薬を飲まされました


 ひょっとして私も世間を騒がせている豚インフルエンザじゃなかろうか

 頭をよぎる不安をあおるように厚生労働大臣がテレビに出て

 冷静に行動するよう言うのです

 役所で今夜予定されているボランティアの集会も

 少し微熱があるからと担当者に欠席の電話をかけ

 お休みと相なりました


 人間は、いや私は弱いなあとしみじみ思いました

 たかが風邪ごときでこの始末です

 妻は「風邪は万病のもと」と疲労蓄積を言いました


 喉の痛みと微熱も少し治まり

 パジャマの上にヤッケを羽織り

 こうして心情吐露の文字を書いてます


  「風邪ひいて 妻の優しさ 身に染みる 食事薬と うるさいくらい」

  「微熱でも 体がだるく 減退し 何をする気も 起こらず伏せり」

  「孫の風邪 貰って嬉し こともなく 昨日二歳の 誕生迎え」

  「健康の 有難きこと いちいちと 思う三日を 過ぎると忘れ」 

 

 

 

 

 

 

 

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