shin-1さんの日記

○孫奏心君の初めてのお国入り

 昨日は伊予市商店街今年最初の土曜夜市や、双海町恒例のほたる祭りがあって、それぞれの会場に沢山の人が訪れたようです。例年だ双海町のほたる祭りは翠小学校をメイン会場に行われるのですが、今年はエコ改修で翠小学校の運動場が使えないため、グリーンツーリズムの中心となっているピザ釜広場が会場となりました。会場が狭かったり駐車場が確保しにくい事情を察知して、私は車で行くのを断念しました。

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(娘の家族と友人の家族)

 それでも娘の子どもの孫たちは昼過ぎから々マンションに住む家族と一緒にシーサイド公園へやって来て、ほたる祭りが開かれる夕方まで、雨の上がった砂浜で思う存分遊んだようです。 昨日のシーサイド公園は初夏を思わせるような陽気で、少し強目の西風が吹いていたため心地よく、孫朋樹は水しぶきとまでは行かなくても、ズボンを濡らしながら渚で一足早く夏を体感していました。携帯電話が入り孫のお守のために呼び出されてシーサイド公園に行きましたが、砂浜は子どもの歓声が賑やかでした。

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(孫尚樹君)

 2歳になったばかりの尚樹はまだ海には近づけないため、鯉の沢山泳ぐ池周辺で遊びながらソフトクリームやじゃこ天に舌鼓を打っていました。

 夕方家に帰ると、5月19日に生まれ奏心と名前が付けられた孫を連れて長男家族が来ていました。孫奏心にとっては、内孫としては初めてわが家へやって来たので、本人も含めてみんな戸惑うばかりでした。生まれて17日経ちましたが、母乳のため少し生まれた時より体重が落ちたようですが、まあ順調に育っているようで一安心しました。

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(初めてわが家に帰ってきた奏心君)

 17日前にお兄ちゃんとなった希心は、弟の誕生でお母さんの関心がそちらへ行くため、どこか割り切れない感じがしているようですが、お父さんと二人で夕食を済ませてからほたる祭りへ出かけたようです。二組の家族が集まると4人の小さな孫がまるで蜂の巣をつついたように賑やかで、みんなの食べるものを作る妻も買い出しに行ったりしながら、仕事から帰って慌ただしい一日を過ごしたようです。

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(長男の長男希心君)

  「孫が来て どこを向いても 孫孫で マゴマゴしてる 爺と婆」

  「四人目の 孫がわが家へ やって来た 私の姿 どんなに見えた?」

  「世の中は 何故にこうして 偏って 男ばかりが 生まれるのだろう」

  「泣く笑う こぼす転げる 絆創膏 孫が来ただけ わが家戦争」

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○時ならぬ叔母の家の消毒騒動

 ほんの目と鼻の先の近所に住む親父の妹が昨日突然やって来て親父に、「兄ちゃん、庭に植えている槇の木の様子が変なんのでちょっと見てほしい」というのです。丁度居合わせた私も一緒になって歩いて一分の叔母の家へ出かけてみました。見ると玄関先に植えた槇の木の新芽に虫が発生して、見るからに無残な姿をさらけ出しているのです。「環境を悪くするから消毒は嫌いだ」と日頃から言っている叔母なのですが、この槇の木だけには特別な思い入れがあるらしく、何のとしても守りたいので消毒をして病害虫を駆除してほしいと、私たち親子に頼むのです。

 この叔母は左官業をしている叔父の元へ嫁ぎました。叔父は町の消防団長も務め叙勲まで受けた立派な職人なのですが、数年前に仕事先で数年前脳卒中で倒れ、その後の入院生活で治りかけたように見えましたが、残念ながら回復することもなく、今は近くの特別養護老人ホームに入所してお世話になっているのです。叔母は近所のホームなので毎日見舞いに行くのが日課となっていますが、左官業を営む息子に家督を譲って隣に建てた隠居でつつましく暮らしているのです。

 問題の槇の木は本宅の玄関に植えられていますが、松の木だと剪定作業が大変だからと、家を新築した時夫婦で相談して庭師さんに頼んで少し張り込んで槇の木を3本植えていました。いわば家督を譲ったと言いながらこの槇の木は夫婦にとって思い入れのある木なのです。左官をしている息子は仕事に出てあいにく留守でしたが、槇の木の異常を偶然にも発見した息子嫁は姑の時ならぬ指摘を受けて戸惑い、仕事先へ電話をかけたようでしたが、相前後した私たち夫婦の応援を受けて、消毒薬のスミチオンも消毒道具も、そして歳老いた親父に代わって消毒をする私も全て外注し、害虫の駆除を行うことになったのです。

 最近は便利な消毒道具ができていて、消毒液を溶いたバケツに細いホースを差し込み、手でポンプ式の動議を押すと、消毒液が噴霧状になって出てくるのです。


 消毒は10分ほどで済みましたが、叔母の少し興奮したような状態も元に収まって、感謝されつつ親父と一緒にわが家へ帰って消毒道具を水洗いして作業を終えました。

 私はこの時まで、書斎で締め切りの近付いた原稿をパソコンに向かって書いていましたが、すっかり緊張の糸が切れて筆が進まなくなったため、思い切って家庭菜園に出て、親父と一緒に畑を耕してツルなしトウロク豆と、ツルなし金時豆の種をまきました。5月初旬に播いたトウロク豆も金時豆も既に2~3日前から収穫が始まり、食卓にのぼって旬の味覚を味わっていますが、こうしてずらし巻きすれば最初の豆類が終わってから収穫できるのです。

 今年は春先から初夏にかけて降水量が極端に少なく、松山市では既に断水や時間給水で騒がしくなり、夏の渇水期への備えをしているようですが、わが家では幸い庭に掘った井戸からの散水施設が整っていて、親父の世話で今のところ順調に野菜類が育っています。キウリもピーマンも収穫ができるようになって、朝晩家庭菜園に入るのが楽しみな季節を迎えているのです。

 時ならぬ叔母の家の消毒騒動に巻き込まれましたが、わが家の菜園は手塩にかけて育てているためまだ消毒はしていません。多分牛糞などによる地力があるためでしょうが、口に入る野菜類だけにできるだけ減農薬を実践したいと思っています。


  「消毒は 嫌いといつも 言っている 叔母は背に腹 変えて消毒」

  「玄関に 植えし槇の木 思い出が ある故病床 夫気遣う」

  「近所住む 故に何かと 巻き込まれ 親類よきも 悪しきもあって」

  「水不足 夏の予感が よぎるけど 節水程度か 出来ぬ人間」

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shin-1さんの日記

○早くも記事を88本書きました

 愛媛新聞社がシニア世代を対象に「自悠くらぶ」というサイトを立ち上げ、ゆとりを楽しむシニア世代の素晴らしき人生を応援しようと二年前に始めた企画に、最初から参画して請われるまま「感性を磨く」というコーナーに、「人間牧場だより」というエッセー風の記事を書き始めて足かけ三年になりました。50回とか100回とか、何を持って区切りと考えるかは分かりませんが、バックナンバーで調べ数えててみると今回の記事が88回目のようで、四国遍路流に考えれば一つの区切りとも思えるのです。

 「感性を磨く」というコーナーには私の推薦した清水さん、西川さん、真鍋さんなど個性的な生き方と考え方を持った執筆陣が、違った切り口で毎回楽しい話題を提供してくれていて、私の記事など赤面のそしりを免れないものと多少反省しつつ毎回記事を送っているのです。

 他の3人は一ヵ月に2本のペース、つまり2週間に1本の約束で書いていますが、私は折角だったらと毎週1本のペースで書いているため、他の人の倍の記事量なのです。

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(シニアサイト自悠クラブのトップページ)

 自悠くらぶの記事を書き締切日までに送る作業は、この2年近くの間すっかり私の暮らしに慣れ溶け込んで、今のところ何の苦労もなく、時折送ったはずの添付写真が届いていなかったりのハプニングはありますが、まあ何とか88回まで続けてこられました。記事を見ながら人間は一日、一週間、一ヵ月、一年という周期を繰り返して生きているものだと実感せざるを得ないのです。というのも無造作に書くと慣れというのでしょうか、去年書いたと同じようなテーマや筆タッチになってしまうのです。まあ人間ですからそれもある部分は仕方がないのでしょうが、読む人が前年のことをいくら忘れていると思っても、バックナンバーから検索すると、過去の記録が引き戻されるだけに、少し視点を変えなければと思うようになっているのです。お陰さまで記事の視点が少し広がったような気もするのです。

 私は毎回記事を送るのですが、受け手たる新聞社の担当者の顔はまったく見えず、「原稿が届いた」とか、「ここはどうでしょう」と問い合わせが来るのも全てメールのため声さえも聞こえない世界なのです。これこそがデジタル世界なのでしょうが、アナログな私はそのことがいつも不安で、少々戸惑いながら記事を送っているところです。

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(感・人間牧場だよりのコーナー)

 それでも「塵も積もれば山となる」の例え通り、アップされた記事をプリントアウトして綴っていますが、1冊目は分厚くなって2冊目になっているのです。最近は読み手たるシニア世代を意識して極力写真を載せるようにしていますが、デジカメで撮影した写真を取り込んで相手に送る手法も実は「自悠くらぶ」に写真を送るために息子に教えてもらってマスターしたのです。

 シニア世代が今どんな状況に置かれ、どんな情報を求めているのか、そのことを理解しなければ送り手と受け手のコミュニケーションは成立せず、「自悠くらぶ」の存在意義もないのです。そのためにはもっと聞きたい、欲しい情報を探がさなさなければなりません。シニア世代真っただ中の私故に考えることをもう少し書いてみようと、88回という区切りに考えてみました。

 私の「shin-1さんの日記」というブログを読んでいる皆さん、一度「自悠くらぶ」というサイトを開いてみてください。

  「八八を 一つ区切りと 考えた さてこれからは 何を書こうか」

  「塵積もる 同じようだと 綴り見て 八十八本 よくも書いたり」

  「当面は 百を目標 しようかと バックナンバー 数え逆算」

  「頼まれて 自悠くらぶの 記事を書く これを自由と いうのでしょうか」

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○再生は可能なのでしょうか

 私の書斎でこの2~3年間、まったく使われなくなったものにラジカセ用のテープとVTR用テープがあります。いずれもデジタル時代になるとアナログ的な性格が強いため廃棄される運命にあるのでしょうが、かつてはラジカセもVTRも全盛を築いた時代があったものだけに、どこかさびしい感じがするのです。

 先日息子がやってきて、私の机の上にデジタルな小道具を並べて回線で結び、何やら作業を始めていました。私の持っているVTRのテープをデジタル化しようと試み始めたのです。私の書斎や倉庫にはとてつもなほど多くのVTR用テープが眠っています。それらには双海町という合併前の町に関するテレビ放送がダビングされていて、私のボランティア活動に関するテレビ放送のダビング記録が残っているのです。

 これらを何とかデジタル化してCDに保存できないか相談したところ、やってみようということになったのです。今はそういうソフトや道具が開発されていて、一般人の息子でも手引書を読めばそれなりにできるのです。

 しかしやり始めて思わぬアクシデントに見舞われました。カセットになっているので汚れないだろうと思っていましたが、長年の保存でカセットの中はカビが生えているようで、画像がうまく取り込めないのです。何度か挑戦しましたが比較的新しいテープは可能なのに10年も前のものはクリーニングしても画像が乱れてしまうのです。息子は何度かチャレンジしていましたが何本かのテープは再生したものの、クリーニング専門の業者に出さないと不可能という結論に達しました。早速インターネットでそれらを行う会社を見つけましたが、洋服のクリーニング屋さんならいざ知らず、テープのクリーニング屋さんがあるとは知りませんでした。その会社ではテープのクリーニングだけでなくテープをデジタル化する作業も行っていますが、私のように量が多いと金額的に折り合わないので、とりあえずテープのクリーニングを試験的にしようという結論に達したのです。これも予算的な面もあるのでどうしても残したいテープだけをセレクトしてとりあえずクリーニングしようと思っていますが、はてさて書斎や倉庫から引っ張り出して選ぶにはかなり時間的余裕が必要なので、もう少し先に延びそうなのです。

 アメリカでは対応の遅れから一度延期した経緯がありますが、日本より早く今月でアナログ放送からデジタル放送に切り替わるらしく、まだその対応ができていない5パーセント余りの国民に対しオバマ大統領がデジタル化を促す声明を直接出しているようです。

 私の沢山のVTRテープの中でどうしてもデジタル化したいテープが数本あります。中でもNHKが全国放送してくれた人間マップ「夕日を売り出せ」です。またラジカセではこれもNHKがラジオ深夜便心の時代で2夜連続2時間にわたって放送したものです。今見ても、今聞いても、若いころの映像や声の語り口はスピード感抜群で、どうしても記録にとどめておきたいと思っているのです。しかしよくよく考えてみれば記録に残したところで、所詮それは若松進一というワールドだけに限定され、多分私の葬式にでも使って周りの家族が一時懐かしむだけではないのかと思うと、少しばかばかしい気もするのです。

 アナログとデジタルという激しい時代の流れに翻弄されながら生きてる、デジタル時代の古いタイプの私のような人間は、川島英吾が歌って大ヒットした歌の題名と同じく「時代遅れ」なのです。

 フーテンの寅さんの名セリフ、「それを言っちゃあお終いよ」ではありませんが、VTRテープやラジカセテープさえ古くなった時代の中で、私という古い人間はどう生きたらよいのでしょうか

  「過去記録 所詮私の ワールドと 冷めてしまえば 生きる価値なし」

  「Vテープ ラジカセテープも 古くなり ゴミに出す日が 間近に迫る」

  「俺もゴミ ならぬようにと 思うけど どこか古くて ため息出ちゃう」

  「親父見りゃ 俺はまだまだ 最先端 車乗れるし パソコンだって」 

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○世界文化遺産の姫路城を訪ねる(その②)

 屋根の鬼瓦や軒丸瓦には築城した城主の家紋や修理した城主の家紋、それには門の上の櫓には十字(クロス)の門瓦、扇勾配の石垣、それに油壁や塩櫓、百軒廊下、華灯窓などの建造物の話は、これだけの規模ですから枚挙にいとまがないほど物語が秘められていて、ガイドさんの説明にも力が入っていました。私もカメラを向けながら、石垣の中に姥が石という老婆が寄付したと伝えられている引き臼を見つけたり、はの門右側の礎石に灯篭の石台座を転用したものを発見したりしながら、楽しく場内を散策して歩きました。

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(天守閣への入口)

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 直径1メートルという天守閣の2本の心柱の太さにも度肝を抜かれました。天守閣は外観5層、内部は地上6階、地下1階ですが、どれほどの木材を使い、その調達をどんなに誰がしたのか、まるでミステリーのようです。

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 姫路城は播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに城を築き、その子貞範が正平元年に城を構えたことに始まります。その後小寺氏、黒田氏と続き、黒田官兵衛孝高の時羽柴秀吉が西国攻略の根拠地として入城し、翌年三層の天守閣を完成させました。その後羽柴秀長、木下家定、池田輝政、池田三代、本多忠政、松平氏、榊原氏、酒井氏と続いて明治維新を迎えたのです。

 大天守閣と3つの小天守閣、これらを結ぶ渡櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000㎡、内濠、中濠以内は特別史跡に指定されているのです。

 黒田孝高はご存じ「水五則」の作者といわれている人物だけに、興味をもって歴史年表を読みました。

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 天守閣には最上階に長壁神社が祀られていました。この天守の丘にあった地主神で、築城の際外に移されていましたが、神のたたりがあると元に戻されたそうです。宮本武蔵の妖怪退治の伝説も有名だそうです。

 天守閣からの眺望も素晴らしく、屋根の勾配の向こうにお城の全容や外濠が見え、晴れた日には瀬戸内海の島々も遠望できるそうです。
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  「今度来る 時は愛妻 連れて来て 色々知った かぶり説明」

  「納得の 世界遺産に 胸を張る 外人どうだ 日本凄い」

  「ワンダフル モアビウティフル 連発し 外人みんな 汗を拭きつつ」

  「ああ今日も いいもの見たと 感激し 振り返りつつ お城を後に」

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○世界文化遺産姫路城を訪ねる(その①)

 私にとって今年はラッキーな年になりました。というのも中国地方にある世界遺産に登録されている広島原爆ドーム、広島安芸の宮島、島根石見銀山に続いて4つ目の姫路城を見学できたからです。前3つは4月に21世紀えひめニューフロンティアグループの仲間とともに訪ねましたが、今回は偶然にも姫路市で講演が予定され、一便早い特急しおかぜに乗ったために予定もしてなかった姫路城見学が小走りながら実現したのです。

 私はこれまで何度か姫路を通り、また姫路を訪ねましたが、どういう訳かいつも時間的な制約で素通りして姫路城を見る機会を逸していました。姫路城といえば1993年に法隆寺地域の仏教建築物とともにユネスコの世界遺産委員会で、わが国では初めて世界文化遺産に登録され話題を集めたお城です。

 私も仕事がら全国のお城はこれまで沢山見てきましたが、江戸時代初期の荘厳な連立式の天守閣群をはじめとして数多くの建物が築城当時のままの美しい姿で今日まで残る唯一の城として、その普遍的価値が認められたものですが、姫路城が長い歴史の中で一度も戦や災害に遭うことなく奇跡的に生き残っていることは大きな驚きとしか言いようがないのです。

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 この日はあいにくの雨模様の天気の中傘を差しての見学となりましたが、橋を渡って城内に入る前から威風堂々とした天守閣や白漆喰と瓦、それに石垣が、幾重にも重なり、歩を進めるたびに構図が違って、デジカメはレンズを出したままで雨に濡らしてしまいました。

 この日は雨模様のせいか湿度が高く、私は午後に予定されている講演のためスーツ姿で木になるカバンを提げ傘をさしたままの一風変わった出で立ちだったため、外国人観光客から奇異に感じられたのか声をかけられる始末で、起伏に富んだ場内の石段を長々と歩いたため汗びっしょりとなってしまいました。

 偶然にも外国人客を案内していた観光ボランティアガイドの説明が遠く近くで聞こえたため、ラッキーな見学となったのです。

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(菱の門と呼ばれる場内で最も大きな門は立派でした)
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 見え隠れする天守閣を目当てにい・ろ・は・にと書かれた門をくぐって進むのですが、城郭の広さは予想以上で西の丸・二の丸・三の丸などを巡りながら、天守閣が目の前に近づいてからもまだ敵を欺くための守りでしょうか、入り組んだ迷路のような道が長々と続いていました。


  「戦災や 災害合わず この日まで よくぞ往時の 姿とどめて」

  「この城が 世界一だと 胸を張る ガイドの自慢 殿様気分」

  「表では 殿が造った 城なれど 多くの人が 裏で働く」

  「そこここに 可憐な五月 花咲きて 心なごませ 坂を上りぬ」

   

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shin-1さんの日記

○播磨地区漁協女性部連合会50周年記念講演に招かれて

 昨日は久しぶりの雨でした。家を出る時も車を降りた時も雨は降っていなかったので、車の中に雨傘を置いたまま岡山行きの特急しおかぜに乗り込みました。途中川之江辺りから雨がポロポロ降り出し、車窓を濡らし始めて傘を忘れたことに気づくのですからお粗末な話です。岡山で新幹線のぞみに乗り換え姫路に到着しましたが、そのころから本降りになって、駅前のコンビニで一本500円の傘を買い求めて傘のご厄介になりました。

 この日の朝はどういう訳か松山までの道路が空いていたのと、信号が殆ど青の男時だったため、松山駅へ早く着き過ぎ一便早い特急しおかぜに乗れたのです。「そうだ世界文化遺産姫路城を見学しよう」と急に思い立ったのです。その見学の様子は次号に譲るとして、昨日の姫路行きは播磨地区漁協女性部連合会発足50周年の記念講演に招かれたのです。そもそものきっかけは、漁協女性部の会長さんはじめ何人かが数年前に双海町へ視察研修に来られましたが、その折富岡さんに頼まれてその方たちに私が説明やお話をしたのです。その話が面白くてためになったからもう一度とオファーがかかったのです。

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(私のためにこのような立派な控室を用意していただきました)

 基より私は家が元漁家で私の母も下灘漁協婦人部の部長を6年間もやりました。私自身も宇和島水産高校を卒業後家業である漁業を7年間やり船に乗っていました。役場では3年間でしたが産業課で水産を担当し、また現在は愛媛海区漁業調整委員などをやっていて、漁業のことはかなり詳しと自負をしているし、ましてや漁業女性部の地域づくり活動は随分なじみが深いので引き受けることにしたのです。

 昨日の会場は姫路駅から歩いて20分足らずの所にありました。その会場はラヴィーナ姫路という結婚式や結婚披露宴専用の会場だったのです。私も全国の様々な場所に出向いて講演をしますが、漁協女性部の会議に結婚式専用の会場を使う粋な計らいは今まで見聞きしたことがなく、一瞬会場に入って戸惑いましたが、いやあ素晴らしいの一言でした。

 担当の立田さんとはメールや電話で何度も対応しましたが、JF兵庫信漁連の若い素敵な女性で、流調な大阪弁といよりは播磨弁にすっかり惚れ込んでしまいました。

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(和やかな講演前の会場の雰囲気)

 昨日の講演は2時からの予定でしたが、記念式典の時間が押していて、結局2時20分からのスタートとなりました。新幹線の復路の切符を手配済みで16時発のため3時35分までぎりぎり話しました。会場の雰囲気は最高で、楽しい笑いがあちことから聞こえて、演壇に跳ね返る反応の良さに一人酔い知れお話をさせてもらいました。

 今世の中は何処へ行っても不景気な話ばかりです。特に京阪神は思わぬ豚インフルエンザで観光も消費もいまいちだと出会う人は口々に不満を漏らしていました。こんな時代だからこそもっと笑って暮らさなければならないのです。

 帰り際追いかけてきたある女性が、「久し振りにいい話を聞いた。感動した。ありがとう」と言葉を投げかけてくれました。後ろ髪引かれる思いで会場を後にタクシーに乗り込み、姫路駅、岡山駅、瀬戸大橋、松山駅、自家用車と乗り継ぎ、予定通り9時前に自宅に着きました。玄関に入り「ただいま」といえば、中から妻が「お帰りなさい。早かったね。疲れたでしょう」とねぎらいの言葉をかけてくれました。幸せを感じた一瞬でした。


  「縁あって 姫路くんだり ノコノコと 俺にゃあ不似合い 結婚会場」

  「いい話 聞いたと追っかけ 声かけた おばちゃんおおきに 大阪弁で」

  「新郎の 控える部屋が 控室 新郎になった ような錯覚」

  「元気だね 浜のおばちゃん 着飾って お光物が どこか不似合い」

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○観光の新しい予感

 四国中央市から愛南町まで、東西に細長い愛媛県は東予、中予、南予とおおまか3つに分類されます。どちらかというと東予は工業地帯、中予は政治や商業地帯、南予は農山漁村地帯と言われていますが、県内の市町村が70から20に合併再編されたため県の出先機関も議論の末、西条、松山、宇和島に東予、中予、南予の地方局が決まり、これまであった今治と八幡浜は戦いに敗れた訳ではありませんが、出先機関として縮小存続することになりました。

 私たちのように県庁所在地に中予地方局がある場合はさして困りませんが、佐田岬半島の突端や内子町の人がわざわざ宇和島に出向かなければならないことや、上島町の人が西条に呼び出される不便も新たな不便となっているようです。

 地方局の再編に伴い、これまで本庁一辺倒だった裁量権が少しだけ地方局に与えられたそうですが、他県の地方局はかなり前から裁量権を武器に様々な取り組みが行われているだけに、今回の裁量権の付与に少なからず期待を持っていますが、はてさて本庁依存の体質から抜け出せるかどうか、少し心配、少し楽しみといったところです。


 一昨日東予地方局の課長さんが担当者と一緒にわが家を訪問されました。この課長さんとは若いころから21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーとして、無人島に挑む少年の集いや丸木船航海などの活動に参加してきました。また彼の結婚式では餅つきの儀式をやったり、公私にわたって仲の良い間柄なのです。

 この課長さんは度々わが家へも足を運んでいいるのですが、この4年間は少し遠ざかっていて、人間牧場へは初めてということでご案内しました。自宅での概略打ち合わせを終わり、3人で私の車に乗って出かけながら車内で色々な話をさせてもらいました。若かった彼も課長という責任ある地位に着いて、風格さえ感じさせるようになっていて逞しくも嬉しい限りです。この日の人間牧場は初夏の好天に恵まれ、霧霞で遠望こそできなかったものの、人間牧場見学には絶好の一日だったようで、人間牧場のスケールに少し驚き、私の人間牧場構想実践に少し納得されていました。

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 さて本題の仕事の話ですが、地方局が行う予定の観光の仕事のお手伝いだそうです。私は凡人ながら観光カリスマ100選に選ばれていて、その名前でアドバイザーとして協力してほしいというのです。私は東予地方のことはよく知っているつもりです。また知人友人も多く、観光資源としてはとても魅力の多い地域だけに、楽しみが増えたような気持になりました。東予地方局管内は、東は香川に隣接、南は高知に隣接、北は広島に隣接と、かなり広範囲な地域です。逆にいえばそれだけ観光の中心である交流の機会が多いものと感がれば何かできそうな予感がするのです。

 何はともあれまた新しいドラマが始まりそうな予感をお二人の話を聞きながら感じました。私自身もこの機会にしっかりとサポートして行きたいと決意を新たにして別れました。


  「責任を しっかり自覚 する人に なった仲間を お目々細めて」

  「観光は 光を観ると 書いている 玉を磨いて 輝くように」

  「県境は 逆から見れば 最前線 交流人口 増える期待が」

  「彼の目に 私やってる 牧場は どんな姿に 見えただろうか」 

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○私はエンドウ豆のご飯が大好きです

 一昨日私は人間牧場の草刈りをしました。一番草は既に刈り、二番草も年輪塾のメンバーが奉仕作業と称して刈ってくれたため、早い所は三番草の刈り込みかも知れませんが、水平線の家には人が度々訪れるので、綺麗にしておかないと見苦しい気持ちになるのです。人間牧場の整備が始まったとき妻が買ってくれた地下足袋と麦わら帽子の、まるでお百姓さんのようなで立ちで草刈りに挑むのですが、5年目の夏を迎えたこの日、大切に使ってきた麦藁帽子がついに藪けてしまいました。太陽の光から、あるいは木々の枝から私の頭や顔を守ってくれてきた熱戦の雄姿もついにお払い箱になりそうなのです。

 草刈りが一段落したところで、梅林に入り残った梅の収穫をしましたが、これが何と25キロくらいあって、思わず量に喜びつつも時間を使ってしまいました。「今日は早く帰るから」と妻に告げ弁当も持たずに出てきていたので、妻はかなり心配して携帯電話を入れたようでしたが、作業に夢中になっていた私はそのことにも気が付きませんでした。

 帰り際、砥部の親友稲葉さんに貸すことになった農地を見に立ち寄りましたが、先々週と先週の日曜日にしていた作業も随分はかどって、いよいよ植え付けが始まるようで、少しだけ安心をして帰ろうとすると、近所に住む梶野のおばさんに出会いました。「まあ若松の進ちゃん、お珍しい」と話が弾み、能作業していた手を休めながら話に花を咲かせました。そしてせっかくとりいれしようとしているエンドウ豆をツル毎いただくことになったのです。

 じつは私、エンドウ豆のグリンピースを入れて炊いたご飯が大好きなのです。私はカレーや炊き込みごはんなどのような混ぜ飯は嫌いなのに何故かエンドウ豆のご飯は大好きなのです。

 ツルにエンドウ豆をつけたまま軽四トラックの荷台に乗せて家まで持ち帰り、早速サヤをもぎ、仲野エンドウ豆を殻を破って取り出したのです。網ボ-ルに入れるとかなりな量でした。

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 仕事から帰った妻は、私の作業に満足しそのグリンピースを入れたご飯を夕食に炊いてくれました。いやあ実に美味でした。この分だと二回分あるのでもう一日遠藤ご飯が食べれそうなのです。

 私にとってエンドウ豆のご飯は亡き母の思い出であり、妻の味でもあるのです。毎年このころになると母はエンドウを自家菜園に作ってエンドウ豆ごはんを作ってくれました。また妻も私がエンドウ豆ご飯が好物であることを承知していて、エンドウ豆を買い求めて炊いてくれるのです。

 もうそろそろ今年の冬には遠藤の種をし入れて自家菜園に播いて栽培したいと思っていますが、毎年のことながら忙しくてなかなかそこまで手が回りませんでした。それにしてもいくら顔馴染だからと言ってエンドウ豆をツルのままいただくなんて、やはり田舎の人情とは嬉しいものです。私も自分の家で採れた甘夏蜜柑や、昨日は青い梅を漁協女性部の皆さんに少しですがおすそ分けさせてもらい喜んでいただきました。


  「まあお食べ いきなりエンドウ 豆くれる 農家おばちゃん 気前よくって」

  「好物の 豆入りご飯 食べながら 夫婦二人で 四方山話」

  「さや割ると 中から緑 飛び出して ダダっ子ように あちらこちらに」

  「さやは親 まるで子どもを 抱くように 見習いたいな 親子関係」 

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○兵庫県姫路市へ行ってきます。

 今日は早朝の旅立ちである団体の50周年記念事業に招かれ、姫路市へ行ってきます。日帰りですが帰宅は夜遅くになる予定です。

 このように書いて朝早く出かけ、夕方9時前に帰ってきました。特急しおかぜに乗り、岡山から新幹線のぞみに乗り継いで出かけましたが、しおかぜものぞみも平日とあって営業のサラリーマン風の人が停車駅毎に乗り込み、眠ったり一人本や資料をめくりながら物静かに過ごしていました。そんな人に交じって元気のよいおばちゃん風の集団が松山から乗り込みました。どうやら私と同じ姫路を目指す友達集団のようでした。聞く気もなかったのですが大声で話すので、まあ凄いです。行き先も集団の素状も筒抜けで、時にはひきつけでも起こしたのかと見まがうほどに大きな声で笑っていました。さらにはまだ朝が早いというのに弁当を広げ、朝食と称して食べ始めました。その食欲たるや相当なもので、「私ダイエットしているから」と前置きしつつ、「まあいいか、今日は特別な日だから」と言いながら一人2個程度のおにぎりをパクついていました。見るからにふくよかで、着飾ったお光物や洋服が○○に真珠」って感じがして、思わず噴き出してしまいました。

 その集団に私の顔を覚えている人がいて、ヒソヒソ話をするのです。「ねねあの人双海町の若松さんじゃあない。私あの人の話を生涯学習センターで聞いたけど面白かったわよ」なんて調子です。そして本を読んでいる私の所へその人はやってきて、「失礼ですが双海町の若松さんではありませんか」と尋ねられました。「どちらまで」「何をしに」「いつ帰るのですか」。聞きもしないのに「私たちは世界遺産を訪ねる旅に出ました」「今日は姫路城を見まして、それから・・・・」と、お菓子はいただくは、お茶はいただくはで、結局岡山についても新幹線まで、姫路に着いてからも姫路城までと、まるで金魚のフンのようについてくるのです。「私は旅行会社の添乗員でもないのになんでこうなるの」と思いましたが、やっと別れたのは昼過ぎでした。「お礼に昼食を」と誘われましたが、「急ぎますので」と断り雨の中を講演会場へ向かいました。お陰でこの日は昼食を食いぱくれてしまいました。


 その日の帰りの列車でまた別のおばちゃんたちに出会いました。岡山から特急しおかぜだと3時間弱かかりますが、その間行きのおばちゃん集団と同じようにしゃべくりまくっていました。このおばちゃんたちは岡山で駅弁を買って乗ったらしく、観音寺を過ぎたところから弁当を食べ始めました。私は注意深くこのおばちゃんたちの食べ具合を見ていました。どのおばちゃんも弁当を開けて蓋を取るとまず蓋についたご飯粒から食べ始めるのです。今の若い人はこんなことしないのです。このおばちゃんたちはご飯粒を粗末にしたら罰が当たる、目が不自由になると教え込まれて育った人たちなのです。弁当一つの食べ方を見ても時代が分かるのですから、私も相当な洞察力だと思うのです。

 それにしてもおばちゃんが3人集まると旅の恥はかき捨てです。金はある、暇もある、体力もあるこのおばちゃんたちは今度は何処へ行くのでしょうか。

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