shin-1さんの日記

○粗大ゴミにならないために

 わが家には失礼な言い方で表現は悪いのですが、91歳の親父と63歳の妻と64歳の私を含めた三人は粗大ごみになりつつあるようです。というのも昨日近所のおばさんたちがやって来て、「歳をとると何かにつけて居場所がなく私たち年寄りはまるで粗大ゴミみたい」と愚痴をこぼしているのを聞いたからです。あるおばさんは息子の家族と同居していますが、「台所が一緒で食べるものも同じもを食べていて、少し油濃いものが多いのでコレステロールールや血圧が気になる」とぼやいていました。またあるおばさんは「脛が悪くて病院へ行くにも交通が不便で、伊予市の整形へ行くのに一日がかりになってしまい、病院から帰ると病院へ行ったはずなのに半病人になったようで帰り、明くる日は頭がボーとして一日寝込む」などと、話は留まるところを知らない愚痴話なのです。その話を相槌を打ちながら聞いていて気がついたのですが、こうして縁側に腰掛けお話をしている人が殆ど近所のおばさん、つまり女性でおじさん、つまり男性の姿は殆ど皆無なのです。高齢で長生きは女性の特権でしょうが、それにしても歳をとると男性たちは一体どんな暮らしをしているのでしょう。


 91歳の親父を例にとると、まず朝早起きです。5時前には起きて身支度を整えて往復2キロの散歩を楽しみます。朝や夜は車がスピードを出すので危ないからと注意をするのですが一向に耳を貸さないのです。帰ってから鉄棒にすがったりラジオ体操をし、その後ゆっくりと食事を楽しみます。私が親父の隠居へ行く6時には食事の後片付けも終わって、私にサロンパスを背中に貼ってもらうことを待っているのです。その後ニュースを見て7時には家の横の畑に出て野良仕事を始めるのです。10時になったらお茶、11時半になったら昼食、軽めの午睡をして午後1時30分から4時まで趣味の日曜大工や庭木の手入れなどをしますが、その後は水戸黄門等の時代劇をテレビ視聴して過ごします。午後5時半に妻の作った夕食を食べながら過ごし、午後7時には風呂に入って早々と床に入るのです。まあこんな具合で太陽が昇ると起きて太陽が沈むと眠るといった、自然派生活をしているのです。加齢によって多少は衰えを口にするものの、電動自転車に乗って片道7キロを診療所まで往復する元気さです。一日10時間も寝ているのに、「寝れない」とぼやいているようです。


 今日は不燃物回収の日です。空き缶や空き瓶などを分別して収集場所へ持って行きましたが、その折立ち番に立っていた区長さんから粗大ゴミの話を聞きました。親父が長年愛用した自転車が代替え用を購入したため要らなくなったのです。親父に告げてその自転車をトラックに積み込み支所裏の集積場へ運びました。親父の名前の書いている愛用の自転車を粗大ごみに出す姿を見ながら、「わしも乗って行く」とトラックに乗り込み同行しましたが、「わしもこの自転車とと同じで粗大ゴミだな」と、ポツリ寂しい言葉を吐きました。心許せる息子だから言えた言葉かも知れませんが、その言葉には心なしか力がありませんでした。「そんなことはない。もっと長生きをしないと」と精一杯の激励の言葉をかけました。

 親父を自分たち夫婦が粗大ゴミと思わないことは、即私たち夫婦を息子たち夫婦が粗大ゴミと思わないという連鎖につながります。してあげることはしてもらいたいこと、思うことは思われること、まさに連鎖です。老いた人を大切にすることを家訓のように受け継ぐなら、私たちも大事にしてもらうかも知れません。親父を大事にしたいものです。


  「親しんだ 自転車粗大 ゴミになる 自分を重ね ポツリ一言」

  「人間は 不安不満の 多いもの いかに満足 しつつ生きるか」

  「幸せは 皆身にあると 人が言う 南ではなく 全て自分だ」

  「ここだけの 話といって 大声で 話すばあさん 呆れて口が」 

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shin-1さんの日記

○家を出る時必ず確認する持ち物

 家を出かけるとき必ず確認する持参品の順番が随分様変わりしてきました。今は何と言っても携帯電話です。自由人になって誰からも束縛されない生活が4年半も続いているのに、役場に勤めていたころの癖は直らず、携帯電話を持っていないと何かソワソワするのです。確かに昔と比べ携帯電話に依存する回数は徐々に増え、私のように余程のことがない限り携帯電話でメールを発信しなくても、また携帯についている様々な機能を使わなくても、「まさかの時」の連絡用として今や携帯電話は必需品ナンバーワンなのです。毎月一回携帯電話の利用料が銀行で自動引き落としされ、NTTから請求書・領収書として送られきますが、それを詳しく見るでもなくたとえ間違って請求されても、余程のことがない限りそのまま無視されやり過ごされてしまうのです。

 妻が管理する銀行口座の預金通帳を見ながら、まあ自動引き落とし金額の多いこと、電気代、電話代、水道代、税金、○○、××と無造作に銀行口座から引き落とされ、カードやインターネット購入などを使わずキャッシュで暮らしている私たちでも、暮らしにお金がいる時代だということをしみじみ思うのです。

 まあそれはさておいて、携帯電話は便利な道具であることは間違いありませんが、現代人は少し携帯依存し過ぎのようで、携帯を使い過ぎて腕が痛くなったりしびれたりする、携帯電話側腕症なる病名がお目見えしているようです。先日も携帯電話でメールををしながら踏切に侵入し特急しおかぜに跳ねられ大怪我をした高校生の事故が新聞に載っていました。

 携帯電話とともに必需品は運転免許証と名刺入れです。どんなに近くでも今は車で移動するので、免許証は必ず携行しなければなりません。私は余程のことがに限り小物を入れるセカンドバックは持ち歩きません。私的な外出以外はご存じ木になるカバンを提げていますが、運転免許証はいつも背広の内ポケットに名刺入れとともに入れて持ち歩きます。最近になってやっと名刺入れの役割が少し落ちてきましたが、それでも名刺入れも私にとっては重要な持ち物なのです。私の似顔絵入りの名刺は今も人気で年間千枚をこえますが、もうそろそろ名刺への依存を辞めたいような心境です。でも去年一年間にいただいた名刺は相当数にのぼり書棚の一角にうず高く積まれているのです。

 財布はハンケチ、腕時計と同じくらいの必要度です。コーヒーを飲まない私は喫茶店や外食店に入ることは殆どなく、買い物も殆どしないため財布は旅に出る時以外は必要頻度が低いのです。財布のチェックは妻がしてくれ、私の財布には講演などで遠方へ行く時を除けば三万円が常備金額です。この歳になると若い人たちとたまにお昼御飯を共にした時くらいはええ格好をしたいし、若い人たちもそれを期待しているようなので小盤振る舞い程度の気を付けるよう妻から言われているのです。

 まあこんな具合ですが、そうそう大事な持ちものを忘れていました。デジカメです。これは毎日ブログを書くことを日課にしている私には必需品で、その重要度は携帯電話をしのぐ勢いです。お陰さまでこの4年間、自分の暮らしを写真と文章で記録することができているのです。これからもデジカメは私の大切な友達なのです。

  「胸ズボン、あちらこちらを 触りつつ 持った持ったと 確認外へ」

  「携帯と デジカメそれに 免許証 財布二の次 時々忘れ」

  「持ち物を 忘れることより 大切な 記憶を忘れ これはいかんなー」 

  「携帯を 無造作入れた ポケットで バイブ振動 驚き我に」

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shin-1さんの日記

○私は調理人になれるか?

 「男子厨房に入らず」なん言葉の生きている古い時代に育った私は、時代遅れと自分で自任しつつもこれまで、殆どその言葉通りの人生を過ごしてきました。無人島へ子どもたちを連れて行った頃は、野外で子どもたちとご飯を炊くこともできたのに、家ではご飯を炊いたこともないのです。このままだと親父のように一人身(そんなことはないと思うが)になったとき、暮らしてゆけないと妻からも子どもたちからも言われていますが、当の本人はいたって平気な顔をしているのです。

 それでも海外派遣でニュージーランドを訪れホームスティをした際、ニュージーランドの男性が食事の後の片付けをしている姿を見て、肩づけだけでも(本当に片付けだけで自分の食べたお皿や茶碗を流し台まで運ぶだけで洗いものはしない)と思ってあれ以来実行していますが、それでも偉い進歩だと妻も子どもたちも心境の変化に驚いたり感心したりしています。

 私の町は漁師町なので、親類や友人から時々魚をいただきます。仕事に出ている妻の手助けを少しくらいはしようと、殊勝にも最近は魚の下ごしらえなど男の力が欲しい作業は時々ですが私がしているのです。

 今日は人間牧場へ山奥組の井上登さんがやってきて、養蜂箱の点検をしてもらうというので出かけました。行くとき金時豆が沢山出来たので叔母の家に届けました。叔母は大層喜んでくれて帰りに立ち寄るよう言われました。立ち寄ったところ南蛮漬けや手作りのじゃこ天などとともに、大きなチヌを2匹いただきました。

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 昼休みを終えて勤めに出かける妻を見送り私は早速出刃包丁を取り出し、屋外調理場で調理人まがいの三枚におろす作業に取り組みました。流し台のシンク内で丁寧に鱗を取り、頭を落として内臓とエラを取り出しました。魚の鮮度は内臓とエラから進むので、これで一応OKです。後は三枚におろして行きます。自分で言うのもおこがましいのですが手慣れた手つきは玄人はだしで、よくテレビで魚を処理できなくて泣きべそをかいている有名人女性よりはよっぽど包丁さばきはよいのです。

 これまで自分の料理する姿を写真に収めたことがないので、証拠写真になるようカメラに小さな三脚を立てて自動シャッターにしてパチリ一枚写真を撮りました。カメラを意識した自作自演の目と顔は真剣そのもので、いい一枚となりました。

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 20分ほどで料理は終わりました。頭は半分に割り、骨もアラ煮用に小切りし、身の部分は腹を切り落とし刺身用にしました。素早くタッパーに入れてラップをかけ冷蔵庫へ入れました。流し台やまな板を水洗いし、汚物を処理し、使った包丁を砥石で研ぎ新聞紙にくるんで収納し、一連の作業を終わりました。

 「やればできるじゃん」、妻の言葉が返ってきそうです。私は元々魚の料理は上手い方なのですが、自分で上手いというと、褒め殺しにあって次々と仕事が舞い込んできそうなので、自慢はこの程度にとどめておきますが、調理師免許でも取りたいようなそんな気持ちなのです。

 さて今晩はチヌの刺身とアラ煮、それにチヌのカマ焼きくらいが食卓に並ぶことでしょうが、今日は少し軽めの農作業を人間牧場でしたので、もうひと踏ん張り家庭菜園で農作業をやって、たっぷり汗をかいて食事を美味しくいただきたいものです。

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  「デジカメを 持ち出し料理 する姿 自作自演に 緊張しきり」

  「今晩の 食卓メニュー 思いつつ 魚の姿 次第進んで」

  「チヌの眼が 恨めしそうに 俺見てる ごめんなさいと 言いつ包丁」

  「お父さん 料理してくれ ありがとう 一番嬉し 言葉返って」

  「

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shin-1さんの日記

○お喋りは難しい

 私は若いころには人様の前でお話しするのが苦手で、人様の前に出てかしこまると顔が赤くなったり心臓がドキドキし、心に思っていることの半分も話しすることができないあがり症でした。頭痛のタネとなっていたこのことを解消しようと思えば思うほど上手くゆかず、「俺は駄目なんだ」と諦めかけていたのです。そんな折双海町青年団長の選挙があり、私も他の二人とともに推されて立候補の演説をすることになったのです。私は原稿用紙3枚にに自分の考えを書き、うんこ部屋で一生懸命中暗記しました。そして臨んだ演説会で上がってしまい、物の見事に覚えていた原稿を忘れて大恥をかいたのです。でも私の応援弁士が良かったため私は80パーセントの得票を得て当選し憧れの青年団長になりました。以後私の頭を悩ませたのは会合の度にしなければならない挨拶でした。先輩の青年団長に挨拶が上手くなるコツを相談したところ、「原稿を書いて覚えたら忘れてはいけないことが先に立って上達しない。今日はこれを話しようと項目だけを3つ~5つ考えて、後はアドリブで話したら上手くなる」とアドバイスを受けたのです。結果は予想以上の効果を生み、下手糞ながら次第に上達の階段を上り始めました。そしてNHK青年の主張の県代表になるという幸運にも恵まれて、お話しすることが苦痛でなくなり、見事にコンプレックスを克服出来たのです。

 今思えば古き良き懐かしい思い出ですが、そのことが今の自分を支え講演などで日本全国を旅しているのですから人生は面白いものです。

 話をすることが苦手な人にとって、人様の前に出てお話をすることぐらい苦痛なものはありません。だって人さまはそのことでその人の値打ちを決めるのですから、これは大変なプレッシャーなのです。そんな人もかつての私と同じように、「どうしたら話が上手くなれるか」考えていて、時々私にそのことの伝授を聞きたがりますが、要は私がこれまで経験してきたことを何回となく繰り返す、つまり場数を踏んで練習すること以外妙薬はないと説明しています。

 私たちが人様に対して話す場合の要素は大きく分けて3つです。①自分の立場は何か、②誰を相手に話すのか、③どんな場面かです。

 まず一番大切なのは自分の立場をわきまえ自覚しなければなりません。自分は主催者なのか来賓なのか、司会者なのか、助言者なのかなどなど、自分の認識を誤るととんでもない話になってしまうのです。続いて話す相手は誰かを考えて話します。地元のお年寄りに学者のような話をしても馬の耳に念仏、馬耳東風、さっぱり意思が伝わりません。また相手が子どの時は特に注意が必要で、こちらは理解してるつもりで話しても言っている言葉が理解できないのです。

 さて肝心なのは場面です。例えば祝辞と弔辞というのがあります。祝辞は縮辞、弔辞は長辞といわれるように、祝辞は短いほど好まれます。場所によっては短か過ぎるのも足元を見られますが、沢山の来賓がいる場合などはかえって短い人に好感が寄せられるものです。弔辞はそういう訳にはいきません。むしろ少し長めに方が共感を呼び起こさせるのです。私も何度か祝辞と弔辞をやりましたが、そういう視点に立って話したお陰で少しだけお株が上がりました。

 今ではこの3つを会得したお陰で、人様の前に上がっても上がらなくなりました。嘘だと思うならやってみてください。

  

  「人様の 前に上がって 上がらない 人という字を 書いて飲めとは」

  「失敗を 繰り返すこと 以外なし 私も失敗 山ほどやった」

  「今度こそ 今度こその 根性が 上手い近道 思ってやった」

  「この歳に なっても未だ 上手くない 奥儀極める まだまだ先だ」

 

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shin-1さんの日記

○くちなしの白い花

 今朝庭に出ると、どこからともなく甘い香りが漂ってきました。辺りを見渡すといつの間にか、庭の隅にくちなしの白い花がいっぱい咲いているのです。「ああくちなしの花が今年も咲いたな」と思いつつ、傍に寄って花に鼻を塚づけて見ました。最近はこの匂いに良く似た芳香剤が売られていて、トイレなどの消臭剤に使われているため勘違いしそうですが、紛れもなくくちなしの白い花の香りでした。

 花芽が次々と出ているため剪定ばさみを取り出し、一輪二輪まだ蕾の枝を切って一輪刺しに差し台所に飾りました。こうすれば明日の朝には香りを楽しむことができるのです。季節の移ろいの中で植物は自分の存在を知らせるように咲くのですが、愚かな私は忙しさにかまけて花を愛でることも殆どなく時は過ぎて行くのです。

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(庭の隅でひっそりと咲くくちなしの花)
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花は普通五弁が多いのですが、くちなしの花は六弁であることも今朝初めて見つけ知りました。

 「くちなしの花」という歌が大ヒットしたのは昭和48年です。作詞水木かおる、作曲遠藤実のコンビで作られたこの曲は渡哲也が歌っています。歌手でもない歌手が歌った歌はどこかぎこちないもののとても新鮮で、当時教育委員会に勤めていましたが、会合の後の呑み会にはカラオケでよくこの歌を歌いました。しかし作詞家はくちなしの白い花を見てこのような素晴らしい歌詞を作り、その歌詞に曲を付けるのですから凄いとかいいようがありません。私などはくちなしの白い花を見てトイレの芳香剤を思い出すのですから、いい加減も甚だしいのです。

 ギターとハーモニカを取り出し、そっと弾きながら吹きながら一人口ずさみ感傷にふけりました。

 

    くちなしの花

(歌詞掲載不可のため割愛)

  「くちなしの 花を見ていて 懐かしき あの頃思い 口ずさみつつ」

  「くちなしの 花を見ながら 歌詞にする 俺は凡人 トイレの香り」

  「梅雨晴れ間 六弁白き クチナシの 花にミツバチ 戯れて遊ぶや」

  「窓開け くちなし香り 取りこんで ただぼんやりと ハーモニカ吹く」

    

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shin-1さんの日記

○騒々しくて煩わしくも楽しい一日

 妻と私、それに親父の3人で比較的静かな暮らしを毎日していると、このところ土曜日になると決まったようにやって来る孫たちが、どことなく騒々しくて煩わしいのです。寝ても起きてもご飯を食べても遊んでも、鳴き声と笑い声に満ち溢れ、すっかり忘れかけていたわが家の子供4人時代が懐かしく思い出されるのです。

 小学校1年生になった孫朋樹は悪ガキ真っ最中で、家に来るなり虫籠と網を持って家庭菜園付近に出かけます。昨日はカエル、モンシロチョウ、バッタなどを捕まえ得意げにみんな自慢しています。虫が好きなくせに虫に触れませんでしたが、最近はカエルも平気で手で触れるようになって成長の跡がうかがえます。しかし少し社会性ができたのか汚い言葉を使うようになりました。「うざい」とか「チョーラッキー」とか、また下品な下ネタまで使って、その都度注意をしますが一向に直す気配はないのです。一番困るのは2歳になる弟尚樹の持っているものを平気で取り上げたりして弱いいじめをするのです。これも私が中に入って仲裁しますが、訳の分からない尚樹は大泣きして私に助けを求めるのです。自分の子どもも成長の過程でそんなレールを走ってきたのでしょうが、すっかり忘れて、今では孫とおじいちゃんの関係で二人の行動を見ているのです。

 2歳になった孫尚樹は成長著しく、来る度に言葉を覚えて脱皮の後が見えて楽しいです。単語の数も増え、単語と単語が少しだけ言葉としてつながるようになってきました。尚樹のもっぱらの得意は誕生日に買ってやったアンパンマンのサッカーボールでボールけりをすることです。室内のどこででも蹴るので、部屋の中に置いている様々な小道具に当たって無残にも落下しているのです。昨日は写真立てに立ててテレビの上に置いていた家族の写真に見事命中し、全て落下してしまいました。その度に頭をちょこんと下げて習い覚えた「ごめんなさい」をやるのですが、その後また直ぐに同じような過ちを繰り返しています。

 昨日は日曜日ということもあって天気も良いので、私と妻と二人で孫二人を連れ出してシーサイド公園へピクニックに出かけました。朝食を終えて8時に着いたのですが、朝早いため来客も少なく砂浜でボールを蹴ったり遊具で遊んだりと、楽しいひと時でした。

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(遊具で楽しく遊びました)
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(お気に入りの滑り台で遊ぶ尚樹)
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(前歯の抜けたひょうきんな一年生の朋樹)
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(庭石の上に登って得意げな孫二人、こんな仲のいい時もあります)
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(恋人の聖地記念モニュメントにはまだ背伸びしても~)
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(私の肩車に乗って恋人岬のモニュメントで顔をのぞかせ記念写真です)
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(次郎岬の突端まで散歩しました)
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(木陰のベンチでソフトクリームを食べました)

 昨日の夕方24時間の長い逗留を終えて娘の家族は帰って行きました。妻「来週もおいで」、孫朋樹「うんまた来る」、私「来週は忙しいから来るな」、孫朋樹「おじいちゃんが寂しいきん来週もまた来る」、私「・・・・・・・・」、てな調子です。昨日は下灘の親戚から魚をいただきました。大きな鯛とカナガシラやトラハゼなどを私も下ごしらえを手伝い、午後8時ころ遅い夕食となりました。さっきまでの騒々しさが嘘のように、静かな夕食となりました。妻は少し疲れ気味、私も多疲れでした。それでも来週やって来る孫たちとの再会が楽しみです。


  「疲れたが 二人で食べる 夕食は 何処か寂しく 少し不味くて」

  「こんなにも 近くゆっくり できる場所 孫は首輪を 外したように」

  「来週も またこんなにも 騒々し 思うだけでも うんざりしそう」

  「孫はいい 眼尻下げつつ 金魚糞 ついて行くのが やっとの私」

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shin-1さんの日記

○「絆」という素晴らしい本が贈られてきました

 今年の2月22日、真冬の北海道美幌町へ講演で出かけました。大荒れの天気で交通機関がマヒし、一日東京に足止めされての北海道入りでしたが、網走の海岸で生まれて始めて流氷を見て感激した記憶は、今も鮮明に心に残っていますし、その写真を一日三枚のハガキにプリントして全国の仲間に出したりもしました。

 あれから3ヶ月余りがあっという間に過ぎ去りました。こちら四国では連日30度近くの夏日が続き、水不足が心配されているというのに、美幌町では10度近くの低温が続き農作物への被害が心配だそうで、改めて狭いながら東西に長い日本を垣間見るのです。

 そんな美幌町から「絆」という本が送られてきました。美幌に行ったとき知り合った美幌町マナビてぃセンターの松本雄慈さんから一号の「絆」をいただき、北海道から帰る飛行機の中で読みながらすっかりうなずいていましたが、今回届いた「絆」は第二号なのです。

 骨太の筆文字で書かれた表紙の「絆」という字を見ながら、絆とは糸と半と書いて何故絆と呼ぶのだろうと思いつつ、表紙をめくり編集員会委員長早田眞二さんのプロローグを読みました。


 高校の卒業式、教室に戻ってきた生徒たちの机の上には、「絆」の作品集がそっと置かれていた。先生の粋なはからい。清とは目を丸くしたり、はにかんだり、照れたり、心のこもった温かな贈り物。人生において絆の大切さや絆の弱さ、絆の強さを忘れないで欲しい。

 一年前「絆」の作品集を発行させていただきました。小さな一歩ではありましたが、多くのお褒めの言葉や反響をいただき感謝しております。ありがとうございます。

 二回目も投稿していただけるかと心配していましたが、予想をはるかに超える四百人以上の皆さまから応募があり、全て掲載させていただきました。多くの皆様が、絆に深い関心があることに嬉しく思い、そして感動しています。この「絆」~三行の詩~が、多くの方の心に響き、繋がり、また新たな絆が芽生えて下さらんことを願っています。それぞれ、大切な人々のことを考えながら「心温かな絆」の心を分けてくださった皆様に感謝申し上げ、発刊にあたってのご挨拶とさせていただきます。


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 文集はめくると、妻へ夫へ、母へ父へ、きょうだいへ、ありがとう、友へ、想い、家族、子へ、きずな、作品応募者名簿の順に続く、170ページもの分厚い大作でした。しかも六・七歳から九十六歳まで、焦点が絞りにくい反面逆に面白さや人生の機微が随所に見られ、素人ゆえの普段着の感性に心をグサリとえぐられるような深い感動を覚えました。

 第一号をいただいたとき松本さんに、「これからはタダで配るのはよくないね。ワンコインだったらみんな協力してくれるし、それを資金にしていいものを出したら次に続くと思うよ」と愚言を呈したことを思い出しました。私の意見でそうなったとは思いませんが、今回の第二号には「定価500円」と書かれていて、とても嬉しく思いました。

 平居エミ子さんの題字も西野奈美さんのカットも、心なごませるものでした。

 もう10数年も前に福井県丸岡町の友人大廻さんから「日本一短い愛の手紙」という本をいただいたことを思い出しました。ご存じ「おせん泣かすな馬肥やせ」という徳川家康の家臣本多重次が戦場から妻に宛てた手紙にヒントを得た、手紙コンテストの秀作を本にしたものでしたが、このことがきっかけで丸岡町は全国にその名を知らしめ、手紙やはがきコンテストというブームを起こしたのです。ふとそのことをもい出しながら短文に秘められた人それぞれの絆の大切さを思い知らされました。

 願わくば高望みの無理をせず、これからも長続きさせてほしいと願っています。松本雄慈さんいい贈り物をありがとうございました。


  「読むほどに 心動かす ことばかり 自分に重ね うなずきながら」

  「そういえば 十年も前 友人に 貰いし本の 姿に似てて」

  「何故絆 糸に半書く 広辞苑 引いて納得 つなぎとめるか

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shin-1さんの日記

○ほたるを見に行きました

 わが町のほたる祭りが終わって丁度一週間になります。水不足の騒動も先日のお湿りで少し治まり、田植えも一段落といったところで、あちらこちらの田んぼには綺麗に水が張られ、西空の茜色が少しほんのり残る田んぼの原風景は、どこかからハーモニカの音色でも聞こえてきそうな雰囲気です。

 昨日週末なので娘の家族が、看護師をしている二男とともにやって来て賑やかな夕餉の膳を囲みました。食事が終って腹減らしにと上灘中学校まで散歩に出かけました。小学校一年生と二歳になったばかりの孫は盛んに走って、私たち夫婦はついて行くのがやっとで、車の交通量の少ない上灘川沿いの道を遊びながら散歩しました。娘の家族は一週間前にほたる祭りに来ていて、綺麗なほたるを見ているものの、沢山の参加者でごった返していてじっくりほたるを見ていなかったというので、急いで家へ引き返し、車で翠小学校近くまでほたるを見に行くことにしました。私自身も今年は忙しくてほたる祭りに出かけていないし、今日雑誌を読んでいたらほたるの記事が出ていて、今晩あたり見に行こうかと思っていた矢先だったので、嬉しい誘いでした。

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(私のカメラではほたるを写すことができませんが、この写真は何年か前保存会から頂いた写真です)

 孫たちにとって光を発しながら飛び交うほたるは不思議な世界で、特に小学校一年生になった孫朋樹は、ほたるが飛ぶ姿は見ても、どんな姿をしているのか、暗闇なので見たことがなく、触ったこともないのです。たまたまヨシの葉に止まっている目の前にほたるを見つけました。そっと手ですくい、そっと孫の手の平に乗せてやりました。最初は怖がっていましたが慣れてくると、その不思議さに感激しながら疎っと空中に放してやると、川沿いの方へ飛んで行きました。二歳の孫は私の背中におんぶして、片言の日本語で「いっぱい」「すごい」を連発して騒いでいました。気がつくとあちらこちらに車が止まりほたるを見る人がいっぱいいました。家族連れや恋人どうし、中には行きずりの人もいて、唐子橋付近は暗闇で人数は数えられませんでしたが、結構の人だかりでした。


 自宅に帰ってからも孫たちの興奮は収まらず、ほたるの話で持ちきりでした。「ほたるはどうして光の?」「ほたるはどんな形をしているの?」と相変わらずの質問攻めです。私はほたるの載った本を書斎の書棚から出してきて見せながら話してやりました。イラストを見せて説明してやりました。そして本物のほたるを写した写真を見せましたが、ひょうきんな孫は「ゴキブリみたい」てな調子で笑いを誘いました。

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 ほたるを説明するのに妻の知識では中々喋れず、「ほたるのことはお父さん」と振られて、得意げになってほたるのあれこれを話してやりました。そして孫たちと一緒に布団に入り、ほたるの話やほたるの歌を歌いながら夢の世界へ誘ってやりました。


  「ほたる見て どうして光る? 教えてと 孫にせがまれ 妻はタジタジ」

  「ほたる飛ぶ こんな身近に 見えるとは 孫を背負って 光見つめる」

  「片言の 日本語話す 孫を背に いっぱいすごい 同じ言葉で」

  「ほたる来い 歌を歌いつ 孫ともに 布団の中で 夢の世界へ」

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○ブルーベリーが熟し始めました

 リタイアしてから4年があっという間に過ぎました。その間それまでやりたくても忙しくてできなかったことを少しずつ始めていますが、まだ意思半ばといったところです。やりたかったことの一つにブルーベリーの栽培がありました。しかし残念かなその栽培方法も分からずさてどうすると思案していましたが、元役場に勤めていた友人がブルーベリー園を開園したのを見聞きし、頼んで鉢植えで栽培する指導を受けました。指導といっても友人に苗も鉢植えもやってもらい、わが家へ持ってきてもらっただけのことなのです。それでも春先から施肥や水やりなど友人の言うがままにやったお陰で、芽吹き、花を咲かせ、実がなりました。そして季節の巡りの中でその実が熟し始めたのです。

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 わが家に嫁いできた時のブルーベリーの木はこんな殺風景なものでした。ところが春の芽吹きの早いブルーべりー緑の葉っぱをいっぱい茂らせ、まるでドウダンツツジのような可憐な釣鐘状の花をいっぱい咲かせました。

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 ブルーベリーにはハイブッシュ系、ラビットアイ系、ローブッシュ系があるそうですが、どれがどれだか素人の私には知る由もないのです。

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 花は散り実を付けましたが、鈴なりの木もあればまばらな木もあってオンリーワンを貫いているようです。ブルーベリーは極端な酸性土壌と水はけが良くなければ育たないため、二日に一回の水やりは、忙しさとズボラな私には大変ですが、それでも水不足な今年も庭の井戸のお陰で枯らすこともなく順調に成長してきました。

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 近頃そのブルーベリーが色づき始めました。これを目ざとく見つけたのは私だけではありません。野鳥たちも一斉に注目するようになったので鳥除けにテグスを張ったりして大慌てしました。「鳥目」を直すための行動だと思うのですが、アントシアニンやポリフェノール、それにビタミンA、ビタミンEを含んでいるので、10粒ほど食べた私でも、目がよく見えるようになった錯覚にとらわれるのですから不思議です。

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 熟したブルーべりーの実は丁寧に手で摘み取り水洗いをしてタッパーに入れて冷蔵庫で追熟させ、週末にやってくる孫たちに食べさせたりしています。

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 人間牧場の露地に植えたブルーベリーは実をつけているものの草に埋もれてまだ収穫はゼロです。当分は自宅の庭のブルーベリーに水やりと収穫を繰り返して楽しみながら暮らしたいと思っています。


  「念願の ブルーべりー 食べ頃に アントシアニン 本当にあるの?」

  「三粒四つ 食べた途端に 目が見える そんな錯覚 テレビ影響」

  「目が薄く なると薬に 頼る人 サプリメントは 本当に効くの?」

  「水不足 井戸のお陰で ブルーベリー 枯れることなく たわわ実をつけ」

  

 

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○子供をどう育てたらよいのやら

 最近子育てに悩みを持ったお母さんが増えているという話をよく聞きますが、一番の原因は私たち親が子どもたちに「明日の親になるための教育」をせず、上手に育てなかったことだと思っています。私の母親や祖母といった昔の親と、私たちのような今の親、それに今やこれから親になろうとする親は、貧しさや豊かさという点では時代背景が根本的に違っているので一概には言えませんが、何時の時代も人間が人間として生きてゆく基本は不易であり、その不易を変えてきた結果だと思うのです。

 私たちが目指した子育ての方向は全てではありませんが概して、「楽をして飯が食える」でした。その当時は貧しさから解放され腹いっぱいご飯が食べれることが幸せの価値判断だったのです。そして勉強をして学校へ行き「学歴」があれば、それなりの地位について一生楽ができると信じ込んだのです。日本中の親はそう信じ込み、経済の発展という上昇気流に乗って勉強第一の道をまっしぐらに突き進みました。人間の本当の価値である「心の優しい子」など何の役にも立たないと思っていました。

 みんながみんな、ナンバーワンやベストワンを目指し競争して都会を目指しました。社会も親も落ちこぼれた子どもは諦めて置いて行くといった感じです。そんな子どもたちは親や社会に背を向けつつも、存在感を誇示しようとあらん限りのあがきを見せましたが、それも踏みつぶされるように無視され、何かあれば少し振り向く程度で流されてきたのです。「子どもはいずれ親になるということも知らずに・・・・。

 その子どもたちがいま親になったりなろうとしてしています。親に反感反目した親は今悩みながらも子育てし、やがて大きくなると反感反目されて方向を見失しなおうとしているのです。

 それでもつい最近の若い親を見ていると、子育てを目いっぱい楽しんでいるような姿もあちこちで見られます。子どもを育てる同じ世代が知り合って交流したり、子育てに必要な衣類やおもちゃを交換したりしながら、教育ならぬ共育している姿には頼もしさすら感じるのです。

 今朝島根県のあるお母さんから嬉しいメールが届きました。8年間で4人の子どもを産み育てているというのです。自慢ではありませんが私も7年間で4人の子どもを産み育て(産み育てたのは妻ですが)ました。子どもが自立した今にして思えば、4人は決して多くはないのです。少なく産んで大きく育てるといった英才教育よりも、子どもは家族という集団の中で育てることが一番のような気がするのです。

 優秀な子どもに英才教育をして都会に送り込み、今では年老いた親が田舎でひっそりと寂しく暮らす人たちを沢山見てきましたが、何が幸せなのかは人それぞれなのです。

 私は自分の子どもたちをできれば県内に住まわせ、できれば長男夫婦と同居したいという夢を持ち、そのように育ててきました。結果は4人の子どもがみんな県内に住み、間もなく長男家族が同居する計画です。これは私の生き方なので、人のことをとやかく言うつもりはありませんが、私と妻が結婚して4人の子どもが産まれ、その子どもが二人結婚して4人の孫が生まれました。つまり1+1=4+2=4+?=わが家族と次第に増えて行く私の家族と、孫育てを共有しながら楽しく生きて行きたいと思っています。

  「子育てに 悩む人あり 時々に 相談応え 優しさ一番」

  「ベストワン ナンバーワンは窮屈だ オンリーワンなら 誰でもなれる」

  「落ち穂でも 必ず芽を出す 水と土 太陽あれば 大きく育つ」

  「悩むより 相談する人 探すこと そうすりゃ悩み 直ぐに解決」 

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