shin-1さんの日記

○届いた500枚のはがき

 正月までまだ2カ月もあるというのに、早くもお正月商戦がスタートしています。デパートはおせち料理やお歳暮の販売促進に熱を上げ、政権交替で政府の要らぬ人事介入によって、その行方が混とんとしている民営化した郵政会社は、これまた早くも年賀状を発売し始め、どうも日本中が速さを競って世の中のあくせくに拍車をかけているような気がしてならないのです。一方ではスローライフなんて言いながらも「そんなに急いで何処へ行く」と言いたくなるような昨今なのです。

 そんな中私の元へ年賀状ならぬ普通のはがきが500枚も届きました。「何で?」とお思いでしょうが、実を言うと私はもう20年を超えて一日に3枚のはがきを書いていますが、役所を辞めてからもその凡事は止めることなく続いているのです。今は殆ど失敗はしませんが、草創期には書き損じたり、またパソコンで写真などを入れる慣れなかった頃はプリントアウトを逆さまにしたりして、ハガキを随分無駄にしてきました。加えて年賀状も毎年何枚か各時期を逸したものも会ったのです。それらを書棚の一角に無造作に積み上げてしまっていたのです。


若松進一ブログ

 時々わが家へやって来る娘は、時間があれば私の書斎に入りパソコンを使ってインターネットを楽しんでいますが、たまたまそのはがきが目にとまったようです。また名刺入れのナイロン製の名刺箱に、返信用として同封してきたものの使わなかった切手類が二箱も集められていたのも見つけ、「勿体ないから郵便局で変えて来てあげる」と提案され持ち帰っていたようです。

 娘は切手を風呂のお湯につけて封筒台紙からはがし、新聞の上で水分を取って乾燥し、書き損じはがきとともに松山中央郵便局へ持っていったようです。何とその数ははがきだけでも500枚にもなったのです。一枚のはがきに5円程度の手数料が差し引かれるそうなので、実際の枚数はもっと多かったに違いないのです。またはがした切手はまだ全てではないので、そのうちよく使う50円の切手に変わって手元に戻って来るのでしょうが、50円切手80円切手も沢山帰ってきました。

 今回手に入れたはがきはインクジェット式、つまりパソコン対応ができる官製はがきで、普通のはがきに比べれば紙面が白くてきめ細かくプリンターのインクの乗りが格段にいいようで、同じ金額ですから大助かりなのです。

毎日はがきを書くため私には必需品になっているこれらのはがきは多分これから半年くらいは使える量なので、何か得したような、まるで年賀状の当たりくじに当たったようなささやかな嬉しさでした。これも娘のお陰と感謝しています。娘も私に似て字はへたくそながらはがきを書いています。特に懸賞応募には再々チャレンジして、子ども用三輪車も無償でゲットしたようで、そのしたたかさはやはり親譲りなのでしょうか。

 「年賀状の注文をお願いします」と、早くも年賀状でさえノルマ達成のための分捕り合戦が巷では行われています。比較的枚数の多い私は毎年ターゲットにされて頼み込まれますが、売る方も買う方も大変です。「ああまた年賀状を出す時期がやってきた」、忙しい日々を過ごしながら少し憂鬱な気持ちになりました。


  「五百枚 何にするの?と 妻が言う はがきの束見 札束ならばと」

  「ありがとう 娘の機転 捨てられる 運命はがき 再び命」

  「さあ書くぞ 腕をまくりて プリントし 二十枚もの はがき出したる」

  「郵政省 俺を表彰 するべきだ 毎日三枚 二十五年も」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○庭先に小さい秋を見つけました

 わが家の庭にも遅い秋が訪れ、窓越しに見える風景は私の心を癒してくれます。海に面した双海の秋は何といってもそこここに自生しているツワブキの黄色いかれんな花です。じっと見ていると目の覚めるような黄色で、抜けるような秋の空や夕日に映えると少し物悲しく見えるのもこの季節ゆえの風情でしょう。野の花ゆえに派手さはありませんが、行く秋を惜しむように人知れずひっそりと咲くツワブキの花は、水仙とともに清楚で大好きな花の一つなのです。

若松進一ブログ

 庭の後ろは斜面になっていますが、春先から秋口まで何度か草刈り機で刈り払っているにもかかわらず、生き延びたように野菊やヨメナが綺麗な花を咲かせています。野菊もまだ清楚な花で、時々摘んで一輪ざしに挿して楽しんでいます。野菊は香りが強くたった一輪ほどでも部屋中かぐわしい香りを漂わせてくれます。野の花は野で見るから美しいと言われているので、余り摘みませんが、それでも野の花は小さな一輪ざしによく合うので食卓や机の上、時には来客をもてなす煙会所の茶花としても重宝して使っています。

若松進一ブログ

 小さい秋といえばわが書斎の掃き出し窓の向こうに大きな石つきシノブがこのところの朝夕の冷え込みで少しずつ紅葉し始めました。もう40年も前に下灘黒山から一握りほど採集して帰ったものがどんどん増えて株分けし、その一部を親父が庭石に網で縛りつけておいたものですが、今ではしっかりと岩にへばりついて季節を感じさせてくれているのです。シノブにはトキワシノブという年中青いものもありますが、わが家のシノブは落葉シノブなのです。春にゼンマイのような葉っぱを出したシノブはやがてシダと同じ葉っぱを広げ目の覚めるような緑に変わります。そして夏中茂り、秋には見事に紅葉して葉っぱを落とすのです。深山幽谷を連想するようなわが家の庭の石つきシノブは、これから次第に紅葉して私の芽を楽しませてくれることでしょう。

若松進一ブログ
(色づき始めた庭の石つきシノブ)

 早いもので10月もあと二日で終わりです。今年もあと2カ月で正月です。急ぎ早に深まる秋をもう少し楽しもうと思っていますが、やがて迎える11月は県外への旅が何度も予定されていて、秋を愛でる暇もないほどですが、65歳の秋は一度きりだと心に決めて楽しもうと思っています。

 そういえば、私が借景として楽しんでいる目の前の本尊山の山々の松の木が紅葉と目を疑うほど枯れています。多分この山の松はもう全滅するのではないかと思うほどです。せっかくいい山だと次男し楽しんでいたのに少々残念でなりません。

  「松などが 枯れたところで 気にもせず 人は行く秋 楽しみもせず」

  「庭先に 小さい秋を 見つけたり 六十五歳の 秋が過ぎゆく」

  「野の花は 清楚がゆえに 美しい タダひっそりと 誰見るでなく」

  「一握り 山採りシノブ 四十年 こんなに増えて 今年も紅葉」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○行く人あり来る人あり

 日本をかすめた台風20号は時速100キロという信じられない早さで足早にはるか北の海へ去って行き、変わって秋の高気圧が張り出してきました。昨日から爽やかな秋晴れです。しかし日本列島は狭いと言いながら東西南北に細長く、友人と旅をしている島根県雲南市の松島さんから昨日電話が入り、北海道は凄い荒れようだったようで、楽しみにしていたアイヌの祭りも中止になったようでした。松島さんは釧路湿原を見に行ったある場所で、私の名前の入ったポスターを偶然にも見つけたようで、懐かしさのあまりに電話してくれたのです。

 そうなんです。私は今週末10月30日釧路青年会議所が主催するくしろ夕日プロジェクト2009「くしろ夕日シンポジウム」の基調講演に招かれていて、明日空路松山~羽田~釧路へ旅立つのです。これまでにも夕日と言えば四国えひめの若松に聞けと言わんばかりに、島根県松江市などへお邪魔していますが、今回もお言葉に甘えて忙しいスケジュールを調整して僅か一泊二日の北海道への旅と相成ったのです。

 そんなこんなで相変わらず日本列島講演一人旅を木になるカバンを持って楽しんでいますが、このように私が行く旅もあれば、人が私やわが町を訪ねて来る旅もあるのですから世の中は面白いものです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

若松進一ブログ

 昨日はえひめ地域政策研究センターの松本さんの依頼で、研修を受け入れました。松本さんは今年度地域活性化センターの主催する地域づくり塾に参加していますが、その現地研修を受け入れたのです。一行は全て自治体職員で、内子や保内を訪ね帰りに双海を訪ねるスケジュールのようでした。午前中大学の授業があったので、終了後急いでシーサイド公園まで引き返し、昼食会食をしながら私の話を聞いてもらいました。また公園内を歩きながら話したり、イベントホールで少し議論をして束の間の研修を終え飛行場へと向かわれました。


 私もこの手の研修には若いころから参加して腕と頭を磨いてきました。残念ながら凡人ゆえ腕も頭も素材が悪いだけに未だ光ってはいませんが、それでも行く先々で出会った人に教えを請い、物まねから始めてそれがいいアイディアを生んでゆくきっかけになったのです。いわば潜在能力を高めれたと思っています。潜在能力はそのままだと知っているだけで何の役にも立たない知識ですが、知識を知恵に置換する能力さえ身につければ、それこそオンリーワンとなって大きな成果を生んで行くのです。

 ゆえに鉄は熱いうちに打たねばなりません。若い人たちはもっともつと旅をして武者修行をして、いつか役に立つ日を迎えて欲しいと思いました。

 「何を求める 風の中ゆく」 山頭火


  「行く人も 来る人もあり それぞれに 何かを求め 風の中ゆく」

  「向かい風 追い風変える 時が来る 同じ風中 風見鳥なる」

  「行政に 身を置く甘え 気がついて タダの学びを 深く戒め」

  「飯食った お土産買った 潤った 地域活性 視察効果だ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○秋の夜長を語り合う

 請われるまま講演や会議などが予定されている日程の空いた曜日や時間に、人との出会いを入れて行くものですから、私の予定表は現職時代以上に日程が詰まって、毎日忙しく振舞っています。まあこれも元気だから出来るのだろうと諦めていますが、今では自分の自由時間が取れず多少オーバーワーク気味なので、調整したいと思っています。

 昨日はメルパルクでの講演が終わってからその足で、来月7日に予定されている年輪塾公開セミナーの打ち合わせと称して市駅の裏にある「ふじ」という米湊大番頭行きつけの居酒屋へ7人ばかりで集まりました。いつものことながら打ち合わせは口実で、実際は酒を飲みながら積もる話をしたいだけなのです。米湊大番頭に店の場所をあらかじめ聞いていたので迷うことなく一発で居酒屋を発見し、有料駐車場へ車を止めて店の暖簾をくぐりました。私が一番乗りです。初めての店なので女将さんや店員さんと雑談をしていると間もなく一人二人と集まり予定された7人すべてが集まり、乾杯をして酒盛りが始まりました。私は昼ご飯を食いっぱくれていたため、出されて料理を食べながら、酒の飲めない憂さを晴らしました。

 気心の知れた仲間との歓談は楽しく、飲みながら自分の持ち場の説明や議論を繰り返し、7日の大まかな進め方が見えてきました。事務局を務める松本小番頭の微細な計画は非の打ちどころがなく、安心して任せていますが、他の人はむしろ型破りな発想にしようと目論んでいるので、議論百出でした。

 秋の夜長も深けて9時近くなったので、新宮から来た大西さんも、勿論明くる日大学の授業がある私もそろそろお暇と相成りましたが、大番頭たちは更なる詰めが必要とばかり、松山の闇夜に消えて行きました。

 最近は毎日毎晩のように忙しい小番頭も体格体力的には心配もないのですが、家庭のこともあって、出来る限り私が乗せて帰るよう心がけているのです。昨晩も私の車に乗って積もる話をしながら伊予市の彼の自宅前まで送り届けました。

 小番頭もセンターに出向して3年目の秋を迎え、いよいよ残任期間が半年となりました。この2年半縁あって私が代表を務めていた団体の事務局を担当していましたが、今はその任を解かれて別の仕事に意欲を燃やしているのです。人材として順調に育ってきているので、温かくも時には厳しく見守ってやりたいと思っています。

若松進一ブログ

 酒を飲んでいた昔なら「もう一軒」と梯子をし、その挙句は10円タクシーと呼ばれた妻の迎えに甘んじていましたが、今はそれもなく自分で帰るために、家に帰ると必ず「早かったのね」と妻のねぎらいの言葉が返って来るのです。家に着いたのは10時近くですからそんなに早い帰宅とは思えませんが、その言葉を聞くたびにホッとするのです。

 素面故、その日の出来事を逐一妻に話して聞かせてやります。他愛のないことも話しますので、私の友人のことは大体理解しているようです。これから自分の仲間の数も加齢とともにどんどん減って行くことでしょうが、私以上に私の友人のことを思いやってくれる妻に感謝せねばなりません。

 昨日の秋の夜長はまた、次につながる楽しい思い出ができたようです。


  「秋夜長 人が恋しい 季節です 飲むほど酔うほど 話大きく」

  「酒飲まず お茶で付き合う 夜長かな こちら素面で あちら呑み助」

  「もう一度 呑み助なって 皆のように 憂さを晴らして みたいもんだな」

  「打ち合わせ ほんの少しで 茶を濁す 飲み会なんて そんなものです」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○高松矯正管区管内篤志面接委員研究協議会に招かれて

 聞いただけでは覚えられない、しかも文字を読んだだけではどんな団体の研修会なのか、自分にも分りづらい研修会に講演で招かれ道後のホテルメルパルクへ出かけて行きました。はてさてどんな話をしようかと少し不安な気持ちで会場へ入るなり、「進一君元気」と声をかけられました。既に白髪となった初老と思しきその人は私のいとこなのです。「えっ、何であなたがここにいるの?」と一瞬思いましたが、そういえばこのいとこは刑務所の刑務官として長年勤め、刑務所の所長を最後に退職し、郷里松山に帰って東温市に住み、家裁の調停員などをしているときいていましたが、まさかこんな所で会おうとは意外でした。

 私も詳しいことは分りませんが、7月の半ばころ松山学園つまり少年院の所長さんが篤志面接委員の会長さんと一緒にわが家へ講演依頼に見えられ、少しだけ聞いた話によると、篤志面接委員とは「受刑者、少年院在院者に対する篤志面接活動を充実発展させることにより、これらに人の改善更生と円滑な社会復帰を図り、もって再犯の防止を通じて社会福祉に貢献する」ことを目的の団体のようなのです。つまり罪を犯した人の更生や社会復帰の指導助言をする人たちの集まりだと理解しました。

 四国管内の篤志面接委員と施設関係者が100名近く集まる集会に「あなたが何で?」と妻も言いましたが、「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」などと日ごろから戯言を言っているのですが、昨日はホントに刑務所関係に招かれてしまったのです。

若松進一ブログ
(こんな立派なステージでお話しさせてもらいました)
若松進一ブログ
若松進一ブログ

(参加した篤志面接委員は立派な方ばかりでした)

 「地域社会における人づくり」という演題をいただき、1時間ばかりお話をさせてもらいましたが、お堅い集会にもかかわらず笑いも聞こえる楽しいお話をして何とか終わりましたが、妻が言うように私のようなズッコケた人間には少々格調が高い集会だったようで、少しだけ反省をしています。しかし参加した人からの演壇への反応はすこぶる良く、大きな拍手をいただいて会場を後にしました。

 最近は広島の少年院での看守による事件などもあって、その存在が明らかになっていますが、いつの世にも犯罪は絶え間なく起こり、その度に周りの人が深い悲しみを持つのです。そしてその罪を犯した人を立ち直らせて社会に復帰させ、二度と罪を犯させないよう陰ながら努力する人たちがいることを、私たちはもっと知って感謝すべきだと思いました。昨日は心洗われるいい一日となり、講演には招かれたけどこちらが勉強になり感謝しています。


  「受刑者の 更生力 貸す人に 出会い心を 洗われました」

  「最近は 少年犯罪 多くなり 深い悲しみ 社会を覆う」

  「妻が言う 何であなたが? そんな会 話す自分も 妻と同じで」

  「呼ばれたら 刑務所以外 何処へでも 戯言笑い 本当なりて」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○人を遺すは上とする

 10月半ばになるとプロ野球のように一年間のリーグ戦が終わり、戦績が悪かったり思わしくなかったチームは、早々と来年に向けて監督やコーチを一新したり、選手の獲得に動くなど何かと慌ただしく動いているようです。成績が良いのに首を切られることが決まった野村監督はボヤキの名手で、試合後のボヤキは一冊の本にまとめられるほど面白く、楽天の人気の秘密も少なからずボヤキ効果も手伝っているようです。

 東北仙台に本拠地を移してから4年、最下位から楽天を2位に押し上げた野村監督の管理野球はこれからも長く語り継がれていくことでしょうが、心から野球の好きな野村さんは監督業への思いを捨て切れず、早くも就職活動ともとれるレクチャーを新聞やテレビで吹聴しているようですが、年齢で野球をするわけでもない監督という仕事ならまだまだやれるはずで、野村さんのような個性派のひとがいるから野球は面白いので、これからも頑張ってほしいと願っています。

 さてその野村監督が中国のことわざを引用して面白い話をしていました。「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上とする」ということわざです。この言葉は色々な人が色々な場所で引用しているので、ことさら目新しい言葉ではありませんが、特に経営に携わる人にとっては意味ある言葉だと思うのです。

 我欲の強い人間にとって地位や名誉それに財は誰もが求めるものです。そのため人を蹴落としたり時には画策もしたりして手に入れようとするのです。しかし人間の値打は自分で決めるものでもなく人が決めるものですから、自分がいくら偉いと思っても地位や名誉はついてこないのです。しかし財だけは才覚があれば一億円でも二億円でも稼げるのです。私たちが知らないだけで世の中には財をなした人が沢山います。世の中に奉仕したりお返しいたりするでなく、財の蓄積にのみ執着して一生を終える人の何と多いことでしょう。

 しかしその財も歳を取ってやがて死んで行く時、全てをあの世に持ち込むことはできず、あの世への旅立ちは6文銭もあれば十分と定められているのです。残した財を親族が裁判までして骨肉の争いをする姿がよくドラマで紹介されていますが、何と悲しい人生なのかと同情するのです。

 その点人を遺すとは、自分の意思を汲んでくれるような心を持った人を育てることですから、自分の子どもも含めてしっかりと遺し伝えなければならないのです。

 人は自分の考えを押し付けようとしても反感反目されることも多く、人に自分の考えを理解してもらうことは容易なことではありません。人と人とを結ぶ信頼がなければなりませんが、退団する監督のために涙した選手が多くいたという自身が語らない野村監督の裏話は、野村監督が目指した管理野球を通して培ったヒューマンな生き方が深く深く心としているように思え、「人を遺すは上とする」という言葉の重みを感じるのです。

 さて私は人を遺すは上とする」ことをしているであろうか。?の疑問符です。


  「下よりも せめて中上 目指そうと するが凡人 財しか見えず」

  「結局は 人が決め手と 誰も言う だけど一番 人が難し」

  「もうそこに 終焉見える この歳に なっても未だ 心ふらふら」

  「昔人は 何でこんなに 明快な 言葉残して いるのだろうか?」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○キウイフルーツ泥棒

 キウイフルーツという果物を初めて見たり食べたりしたのは、そんなに古いことではありません。確かニュージーランドが原産地とかいって、地元の農家が興味本位で作ったものを物珍しく食べさせてもらいました。半分に切ってスプーンで食べる所作は、30年前総理府は県青年の船でアメリカやメキシコへ行った時、青年の船の船内でグレープフルーツを半分に切りグラニュー糖をかけて食べた時とよく似ているなあと思いました。キウイフルーツは外は褐色の髭で覆われ、「これ食べられるの?」と疑ったほどでした。ところが半分に切ってみると中身はトロピカルな緑色で、緑色の果肉など見たこともないだけにこれまたびっくりしましたが、完熟した果肉はとろけるような甘みのある美味しさだったと記憶しているのです。

 間もなく町内の農家のあちらこちらで栽培が始まり、瞬く間に広がっていったのです。当時は国鉄から払い下げてもらった古い枕木を支柱に立てて棚を作りブドウ栽培のようでした。消毒もせず手間も暇もそんなにかけることなく沢山の実をつけ、しかもそこそこの値段で販売されることも魅力となって、夢の果実のように思われました。樹勢は強くツルは瞬く間に天を覆い春に咲いた花から授粉用の花粉を採集してミョウバンと混ぜ合わせ、雌しべに授粉すれば鈴なりのごとく果実をつけるのです。

 最近はこれまでのヘイワードという品種に代わってゴールドという果肉が黄色い糖度の高い品種に変わりつつあるようですが、園芸組合が品質管理に乗り出したため、小ぶりりの物や害虫に汚染されたものは廃棄処分されるなど、中々厳しい庭先選別や千カ条選別の壁があるようです。それでも豊作貧乏や不作貧乏にあえぐ農家にとってみれば安値に悩む柑橘栽培の副収入として農家の懐を補っているのですから有り難いことなのです。

 キウイフルーツは木から取って直ぐに食べれる訳ではありません。木から取った直ぐはまるで石のようにかたいのです。その果実を貯蔵庫で寝かせて追熟させるのですが、バナナと同じように追熟にはかなりの時間がかかるのです。早く食べようと思えばナイロン袋に入れてリンゴを2~3個入れておくと追熟が早まるようです。わが家でも何度か試してみましたが、その通り美味しいキウイを味わうことができました。

 そのキウイフルーツに最近ちょっとした騒動が持ち上がっています。夜な夜な畑にキウイ泥棒が出没するのです。普通畑は夜など人の気配がないことをいいことにやりたい放題、キウイフルーツを一個や二個ではなく100キロ単位でごっそり持ち去るのですからのうかにとっても大変な事態です。春になると東北のサクランボ農家に泥棒が入る話題はよく聞きますが、直ぐに食べれないキウイまで泥棒に入られるとは前代未聞な話のようです。

 農家が文字通り汗水たらして生産したものを泥棒する心理は泥棒にしか分りませんが、度重なる泥棒に警察も重い腰を上げて捜査に乗り出したようですが、農家にとってはいつ来るかわからないだけに打つ手がないようで、さしあたり有刺鉄線でも張ろうかと思案しているようです。

 農家は今時ならぬイノシシの被害に遭って悪先駆と追うしている最中です。イノシシなら有害鳥獣として僚友会が鉄砲で処分することもできますが、まさか相手が人間ですから僚友会も手が出せず、ましてや泥棒はイノシシよりはるかに知恵が働くので、まあお手上げ、グリコの看板といったところです。

 キウイフルーツの泥棒で思い出したのですが、かつてシイタケがホダ木ごと盗まれる騒ぎがありました。業を煮やした農家は、「このシイタケは栽培しているので取らないでください」と看板を立てました。ところがその看板は、「ここにシイタケがあります」と言っているようなもので、かえってシイタケを取られるようになったのです。

 知人でもあった農家の方から相談を受けた私は、「毒キノコに注意」と「マムシに注意」という2枚の看板を作ってあげました。その結果シイイタケ泥棒は完全に姿を消したのです。「あんたは知恵者だ」と褒めてくれ、それ以来春と秋のシイタケの時期になると、沢山のシイタケをいただくのです。

 菜の花のつぼみが盗難に遭ったことまあり、その時は私が作った「消毒中につき食用は危険」と看板を作って立てましたが、シイタケと同じく取られなくなりました。はてさて「キウイ泥棒を撃退する妙案は?」と尋ねられてもいないので、アイディアは出せませんが、世の中不景気ないなると何をするか分からない世の中になって困ったものです。

  「新手口 世に盗人の 種尽きず キウイフルーツ 被害に遭って」

  「イノシシは 鉄砲撃退 出来るけど 人間様には これも使えず」

  「妙案は ないかともしも 聞かれたら 私だったら ○○するぞ」

  「今頃は 喰えないキウイ 前に置き 泥棒思案 売るに売れない」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○だんだんつながろう会の楽しい研修会

 昨日は人間牧場へ往復2回出かけました。午前中は家族と、午後は西予市からだんだんつながろう会というグループが視察研修にやってきたからです。近いといっても自宅から片道10キロですから町内を40キロも走った計算になるのです。

 約一ケ月前、代表を務める藤本明美さんから以下のような楽しい一枚の案内状が手紙を添えて届きました。案内状の中に書いているように今年の4月19日(日)、宇和町中町集会所であった研修会にお話を頼まれ出かけていて、その時書いてもらった私の似顔絵入り、しかも落伍風景まで入れた力作の案内状だったので、少し力お入れた研修会となりました。

若松進一ブログ

 この日の研修会は食事つきというお話をうかがっていたので、地元のお寿司屋さんに一人2千円の折詰弁当を注文しました。12時30分に受け取る約束でしたので、10分前に行き弁当を軽4トラックの助手席に乗せさあ出発です。 

 ほぼ予定通り13時に下灘コミュニティーセンターで待ち合わせ、私の田舎のオープンカーが先導しながら山道を走り、人間牧場到着です。宇和町のような広い土地を有する盆地でもない、直ぐ海に落ちそうな急峻な山道に多分驚ろいているだろうと、後ろを気にしつつのゆっくり登坂です。4台の車は普通車と軽4なので牧場まで乗り入れ可能なのですが、安全第一を考え例によって広い市道に駐車して歩いてもらうことにしました。時折雨のぱらつくあいにくの天気でしたが、濡れるほど大ぶりすることもなく到着、私は皆さんのために早速ボイラーのスイッチを入れ、足湯を楽しんでいただくため風呂にお湯を張りました。これで一気に緊張がほぐれ和気あいあいとなりました。10人を超えているため一度に足湯を楽しむことができず、2回に分けての足湯となりました。


若松進一ブログ

若松進一ブログ

 

 3時ころからお弁当を開けお酒のない食事交流会となりました。お酒を飲まなくなった私にとっては何ともないのですが、はてさてお酒が欲しい人がいたかも知れないと後で後悔した次第です。本降りが近い雲行きでしたが、見下ろす海も穏やかで気心の知れた人ばかりなので私も久しぶりにのんびりさせてもらいました。やがて気がつけば4時過ぎとなり、急いで身支度や片づけを行い夕暮れの元来た別れを惜しみながら道を帰って行きました。

 見送りしてから牧場へ引き返し、風呂の暖簾を入れ、風呂を洗ってお湯を抜き、水平線の家とトイレを軽く掃除して戸締りし、家に帰ったころ雨は激しく降り始めました。前日の人間牧場での芋掘りや芋端会議といい、昨日のだんだんつながろう会といい、天気に味方してもらった週末でした。


若松進一ブログ

  「小噺を 聞いてみんなで 腹抱え 笑い転げて 今日も楽しく」

  「お料理と 話がご馳走 ダブルです 今日の連続 明日も願う」

  「その昔 心の時代 聞きました 唐突言われ ラジオを思う」

  「夢叶い 人間牧場 出来上がり 夢のすそ分け 昨日も今日も」

 




体も気分もポカポカしたところで私の話を聞いてもらいました。前回お話をしているので今回は落伍の小噺を中心に話しましたが、みんな腹を抱えて笑ってくれました。この日は松前町の橋本さんも飛び入り参加して松茸を焼いたり歌まで披露して脇役を努めてくれました。

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○人間牧場へ家族を誘う

 「お父さん、このところ毎日のように人間牧場へお客様が来るようだけど、私はこの2年ほど人間牧場へ行ったことがないよね」と昨日の朝、食事をしながら妻が唐突に私に言うのです。そう言えば人間牧場は、①これからの自分の人生の仕上げのために造った、②家族と向かい合って生きて行くために造った、③これまでお世話になった人や地域に恩返しをするために造ったなどと、人前では綺麗事を並べて説明しているのに、②については設計監理を担当した息子とだけは濃密な親子関係を保っているものの、妻も子どもたちも殆ど疎遠であることに気がついたのです。たまたま昨日は前日から娘と孫が週末を利用して泊りに来ていたので、「そうだな、それじゃあこれから人間牧場へ行ってみるか」という話しがまとまりました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 2歳の孫尚樹にはチャイルドシートが必要なこともあって、娘のトヨタビッツを私が運転し、妻と娘それに朋樹と尚樹の4人を乗せ自宅から約10キロ離れた人間牧場を目指しました。山道沿いは少し秋めいてハゼの木が少し色づき、山柿も黄色く熟れ初めていました。またススキの穂もすっかり開き自生のツワブキの花が今を盛りと咲いているのです。

 牧場へ着くなり孫たち二人はまるで解き放たれた犬のように、持参した虫籠と網を持ってそこら辺を飛び跳ねバッタやコオロギを捕まえては歓声をあげていました。妻と娘を完成した姿をまだ見ていないかまど小屋に案内しました。私と息子のやり取りを日ごろ見ていたり、投資金額を知っている妻は、まるで会計検査院の検査のようにあちらこちらを見て回り、特に人間牧場には似て似つかぬ小屋のお洒落な入口や朱色も鮮やかなかまど本体に満足したようで、「さすが」と私より設計した息子のデザイン力に感心しきりでした。

 孫たちは時々連れてきているのですが、妻と娘は2年ぶりですからあちらこちらが珍しく、その後変わった場所を見ながら1時間ばかり過ごしました。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 「今度は他の家族も誘ってかまどで炊いたご飯を食べながらゆっくり団欒しよう」という話しになりました。娘の旦那も大学に勤めていて忙しく、看護師をしている次男は病院勤務で忙しく、また三男は警察官のためこれまた忙しく、加えて私もかなり忙しい身なので、設計の仕事をしている長男家族を加えるとみんなが揃う日など年に一度くらいしかないのですが、やはり家族と向かい合って生きることを考え、親父が元気なうちに家族そろって人間牧場での休日を楽しみたいと思うのです。

 昨日までの土日の二日間、私のいとこたちは山口県へ旅行に出かけました。本家の長男である私にもいの一番さそいがありましたが、あいにく半年前から予定が積んでいて私たち夫婦は参加することが叶いませんでした。ビールの差し入れをしてお茶を濁しましたが、旅先で私たちの話が話題になったものと思われます。まあ加齢とともに徐々に高度を下げて家族や親類との付き合いをしたいと思っています。


  「気がつけば 人は来るけど 家族など ほったらかしで 牧場繁栄」

  「いいわねえ かまど小屋みて 納得す 妻の一言 何より安堵」

  「穏やかな 秋の半日 牧場で 楽しく過ごす 幸せ気分」

  「このかまど 今度はご飯 炊き食べよ 注文つけて 牧場後にす」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○観光立国教育セミナー

 これまでの学校教育で観光についての授業など聞いたことも見たこともない私に、先日観光立国教育セミナーで講話をして欲しいというお誘いがあり、昨日その集会に出かけて行きました。観光カリスマという称号をいただいている人たちの末席を汚すものとして、観光振興や普及はその仕事の領域なのですが、はてさてどんな話をすればいいのか戸惑いました。観光の話は領域も広くて深く専門的な話をすれば切りがないのです、でも学校の先生たちに観光についての基礎教育を論じるよりも、小さな双海町という町が夕日をテーマにして観光に取り組んだ20年を話した方がいいと思い、思いつくままに50分間お話をさせてもらいました。

若松進一ブログ
(TOSSの主催によるセミナーのチラシ)

 私の講和に先立って、先生たちが各自治体のテキストを活用した模擬授業を短くコンパクトにおさめて模擬授業されました。いやあ驚きです。電子黒板というのも初めて見ましたが、中々面白い授業でした。また最先端の技術を駆使した観光立国授業は、グーグルアースを使って目の覚めるような取り組みを目の当たりにしました。

 平成の大合併によって70市町村が20市町になりました。これまでの観光に対する取り組みは、松山や大洲、それに内子のように観光資源の多い街で先進的に行われてきましたが、それ以外の市町では未だ観光に対する取り組みさえやっていないに等しい地域もありバラバラなので、行政のトップに聞かせてあげたいような話でした。

 日本が観光に目覚めたのは小泉首相が観光立国を提唱してからでした。日本人が観光で外国へ行くことは当り前の時代になってきました。しかし京都や東京などの観光地を除けば地方都市へ外国から外国人が観光にやって来ることは少ないのです。そのアンバランスを調整してもっと日本のよさを外国人にも知ってもらい、経済的に潤おうと考えたのが観光立国構想の狙いなのです。

若松進一ブログ

 観光について子どもたちに教えることは、取りも直さず自分の住んでいるところのよさを見つけ、自分のふるさとに誇りを持たせることです。これまでの教育は向都離村の養育が主流でした。親も自分の町を「つまらない町だから勉強して都会へ出て働いて出世せよ」と卑下し、叱咤激励してきたのです。結果的に働く場所も限られていたこともあって、みんなが都会を目指した揚句過疎になって、学校が廃校になり、限界集落が沢山できて暗い影を落としているのです。

 私の町もそんな運命をたどっていますが、少しだけ違うのは少しだけ観光に取り組んだ結果、夕日のメッカと言われるシーサイド公園だけでも年間55万人ものの観光客がやってきているのです。観光はまちづくりです。自分たちの町の地域資源を見つけ、それをテーマに物語を作って輝かせる営みなのです。海岸jを清掃することも、国道沿いに美しい四季の花を咲かせることも、ある意味観光地づくりだと思うのです。

 そのことに気づき、団体から個人へ、見せる観光から体験する観光へと変化しつつある観光の動向をよく見極め、観光を経済に結び付けて活性化するような町づくりをして欲しいものです。そしてそのことも併せて子どもたちに教えて欲しいと願っています。


  「観光を 学校授業で 教えると 聞いて嬉しく 講話出かける」

  「凄いなあ 電子黒板 グーグルと パソコン駆使し 進化の授業」

  「観光は 取りも直さず まちづくり わが住む町に 誇りを持って」

  「私でも 出来たのだから 観光地 その気になれば 誰でもできる」


 追伸

 TOSS愛媛の事務局をしているS先生から今日メールで昨日の写真が送られてきました。TOSS愛媛は休日を利用して観光立国教育に関する自主的勉強会を行っているグループです。昨日いただいた沢山の資料も非常に参考になるものが多くありました。あなたも一度覗いてみてはいかがでしょう。ちなみに私の親友であるえひめ地域政策研究センターの松本研究員も当日参加していて驚きました。

若松進一ブログ
(S先生から送られてきた講話する私の画像です)

  


  

[ この記事をシェアする ]