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○50年生のクヌギを薪にするための大作業

 今年の冬は薪を確保するため友人の井上さんにお願いしてクヌギの木を切らしてもらい、最低限の薪を確保しましたが、井上さんと同じく公民館長の宮栄さんにも頼んでいたため、公民館の赤石さん、それに宮栄さんの近所に住む宮田さんにも協力を得て、大きなクヌギの木を切りに、宮栄さんの山へ出かけました。

 宮栄さん宅の直ぐ裏山に宮栄さんの墓地があって、その切り立った断崖の上のクヌギの木を切ろうという作戦なのですが、その場所が梯子も届かない5メートルもある断崖、足場が悪くて作業が危険、下手をすると切り倒した木がお墓を直撃するなどなど、幾つもの不安材料が重なってかなりハードな作業になることを自覚しました。

 梯子で上がることを断念し、迂回して杉林を通って目的地へ登りましたが、林の中には無数にイノシシのヌタ場があって、昨晩もイノシシが出没したような痕跡が見えました。農作業が得意な宮田さんにチェンソーでの伐採を一任し、私たちは宮栄さんの縛ったロープにぶら下がって、お墓の方向へ木が倒れないよう必死に力を入れました。何せ50年生の大きなクヌギの木ですから一筋縄では行かず、縄が切れたりチェンソーが喰い込んで動かなくなるなどハプニングもありましたが、何とか思った方向に音をた立て落下しホッとしました。

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 作業が一段落したところで宮栄さんの奥さんが甘酒や豚汁を作って持ってきてくれたりして、まるでアウトドアー 気分にしたりながら楽しく四方山話をしました。

 やがて作業を開始しました。50年生の生木は重いので、持って行った私特製の定規に合わせてチェンソーで小切りしてトラックに積み込むのですが、一個でも20キロもあるような重さで、私と宮田さんがチェンソーで切り、赤石さんと宮栄さんが車に積み込んでくれました。

 途中私のチェンソーが石を切って切れなくなり、宮田さんの孤軍奮闘となりましたが、切った木は結局軽四トラック2台分にもなりました。宮栄さんのトラックも助っ人してもらうことになり、途中の稲田農機でチェンソーの刃を新品に替えてもらい(4,800円)、人間牧場まで向かいました。宮田さんも同行して下ろし作業を手伝ってもらったころには、昼のサイレンがなり、午前8時から4時間もかかってしまいました。

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 宮栄さんと宮田さんが帰った後、私は長めのままで運んだ木の定規を当てて小切りし、割り木を作り始めました。生のクヌギは面白いように割れました。乾燥すると割るのに一苦労するので、主に節々の割りにくい木を選んで積極的に割りました。豚汁や甘酒をいただいていたこともあって、昼食はせず午後4時過ぎまで割りましたが、また妻から心配の電話がかかるといけいないので急いで片づけ急いで山を下りました。

 割れた薪が足に飛んできて少し足元が痛いようですが、とりあえずこの日の作業は安全で、大きな収穫を得て終えることができました。これでたぶん2~3年は薪に不自由しない人間牧場の暮しが楽しめそうです。薪づくりは本来冬を迎える準備なのでしょうが、クヌギが紅葉の葉を落とした今しか作業が行なえず、冬に冬の準備となってしまいました。

 今日は来客や所用で忙しい一日ですが、合間を縫って出来るでけ早く薪割りをしなければ、来週から始まる本格的な講演活動などで家を留守にすることが多いので、生木が乾いてしまうのです。

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  「山仕事 足元少し おぼつかず 気力でカバー 体力限界」

  「五十年 生きてた命 いただいて 薪に加工し 命をつなぐ」

  「チェンソー エンジン音が 山谷に こだまし冬の 寒さ震わす」

  「豚汁の 差し入れ腹に 染みわたる 何より馳走 フーフー言いつつ」

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○冬にしかできない春への準備

 イソップ物語だったかどうか定かではありませんが、「アリとキリギリス」という話しがあります。秋の季節に冬の蓄えを忘れたキリギリスが、しっかりと冬の蓄えをしたアリに助けてもらった話は、子どもの頃からよく聞かされたものでした。逆に冬の間にやることをしっかりやっておかねばならないことだってあるのです。今年の冬はその点例年にない寒さで事を興すには最悪な条件ですが、それでも意を決し暇を見つけて冬しかできない春への準備を行っています。

 新年早々の苦土石灰を撒いた土の耕しや腐葉土づくり、ブルーベリの根元への油粕施肥、薪割りも一応一段落した昨日は、92歳の親父を連れて、近所に住む妹の竹林に竹を切りに出かけました。春から夏にかけて家庭菜園で使う垣根用の竹を確保するためなのです。

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(92歳とは思えぬ親父の働きで夏用の竹をゲットしました)

 昨日は2~3日前からの北西の季節風も幾分の収まり、作業にはさほど寒さを感じない一日でした。毎朝の会話で竹は今が切り時と親父が言うものですから、それじゃあ午前中の一時間余り竹を切りに行こうという相談がまとまったのです。紐や鋸、鎌などのいわゆる七つ道具を積んで出発しました。竹林までは山道を約四キロばかり走らなければなりません。毎年通う竹林なので勝手は知れていて、道の広い所に車を止め、私がドハをよじ登って竹林に入り、親父は私の切った竹を枝を切り払うのです。軽微なこうした作業は昔取った杵柄とでもいうのでしょうか、私よりはるかに年老いた親父の方が腕が上で、一も簡単に処理をしてくれました。

 作業中顔見知りの知人が上から車で下りてきました。道で作業をして邪魔をしていたので断りを入れてその辺を急いで整理すると、その人の車の荷台には何と人間ほどもあるイノシシが横たわっていました。聞けばイノシシ用の罠を仕掛けていて、その罠にかかったのだそうです。最近はイノシシの被害が多く、鉄砲を持たない農家はこうして罠を仕掛けて有害鳥獣の駆除をしているようです。

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(イノシシの鼻息は消えましたが捕まえたお百姓さんは鼻息が荒いようでした)

 竹伐りは20本ほどですから往復の時間を入れても約1時間で終わりました。この竹が夏野菜の栽培のための垣となって、キウリやトマト、ツルインゲン豆などを作る大切な役割を担うのです。竹も木も切り時というのがあって、切り時が悪いと竹や木に虫が入って直ぐに使えなくなるのです。必要な時に急場ごしらえで切った竹は一年しか持ちませんが、こうして寒の時期に切ると3年から5年は持つのだそうです。

 今日は公民館長さんのクヌギ山へ薪にするクヌギの木を伐採に行く手筈になっていて、公民館主事さんも私的に手伝ってくれる確約を取り付けていますの、間もなく作業着に気がえ、朝食を食べて出かける予定です。


  「竹を切り 春夏作業の 準備する 少し早いと? 首をかしげて」

  「トラックの 荷台堂々 イノシシが 罠で捕ったと 自慢鼻息」

  「キリギリス ならぬようにと アリ教え 地で行くように 寒さ堪えて」

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○送られてきた情報誌プラクティス(実行という意味)

 (財)北海道市町村振興協会から「プラクティス」というA4版の情報誌が送られてきました。この情報誌の編集を請け負っている北海道住宅新聞社の栗原さんがはるばる取材に見えられたのは11月5日でした。取材の依頼が舞い込んだのは、10月30日に釧路で夕日シンポジウムがあって北海道へ出張する直前だったので、電話がかかった時はてっきりその取材かも知れないと、勘違いをしたものでした。

 プラクティスという情報誌の名前の意味が、「実行」であることを栗原さんから聞いて、自治体職員に最も欠けていることだと納得しながら、午後の半日を私が手掛けたシーサイド公園や人間牧場へ案内しました。しかし2ヶ月も前のことなので正直その取材さえもすっかり忘れていたのです。


 昨日北海道佐呂間町の社会教育課長さんからメールが届きました。「情報誌のプラクティスを読んだらあなたのことが出ていたので懐かしくなってメールを書きました」というものでした。期せずしてメールを見たとほぼ同じ時間に、宅配便でその雑誌が届いたので驚きました。

 雑誌は「地域資源とニューツーリズム」という特集が組まれていて、北海道を中心に全国16市町の取材記事が掲載されていました。伊予市双海町の夕日を地域資源にした記事は66ページ立てのほぼ中ほど34ページから見開き4ページを割いて紹介されていました。「沈む夕日を立ち止まらせる?」「夕日で55万人を集客」という大見出しに加え、「公民館取材のNHKディレクターが・・・」「『夕日』がゲストのコンサート」「250人の町民が18時間夢を語る」「人と拠点を育てる」「とにかく目立つアイデアを」「反対とも闘う姿勢」「日本一を作る」などの小見出しが9枚のカラー写真とともい紙面を印象的に飾っていました。

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(プラクティスの表紙)
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(34ページ)
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(35ページ)
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(36ページ)
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(37ページ)

 北の国北海道から届いた情報誌プラクティスを読みながら、過ぎ越し役場職員時代を思い起こしました。この情報誌を読んでいる人たちもかつての私と同じ市町村職員です。金がない、上司の理解がない、住民が反対するなどとやらない理由を並べ立ててやらない職員の何と多いことでしょう。プラクティスという言葉の意味は実行ですから、この情報誌を読んで実行へとシフトして欲しいと願っています。佐呂間町の社会教育課長さんのように・・・・。


  「二つ海 越えた国から 送られた 雑誌見ながら 実行願う」

  「さすが記者 半日だけで エキス書く プロはやっぱり どこか違うな」

  「プラクティス 実行訳し 納得す 一番欠けて いるのはそれだ」

  「プロセスも 結果も大事 公務員 やる気があれば 岩をも砕く」 

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○二つの農作業

 つい最近、手仕事と機械仕事という二つの農作業をしました。まずひとつは人間牧場の段々畑の一枚を耕しました。耕すといっても猫の額ほどの小さな畑なのですが、雑草に覆われて見苦しくなっていたため、落ち葉を拾って腐葉土づくりの作業が一段落したので健康のために体を動かそうと一人黙々と3時間ばかり挑戦したのです。鍬を使った作業は殊の外難儀な作業で、背中や腕や腰にどっかり負担がかかるのです。私のような歳になるとその時は何ともない作業でも2~3日すると疲れが出てくるので注意しなければなりません。

 真冬の北西の季節風がもろに吹きつける畑なので、二枚も履いた靴下のしたから冷え冷えとした外気が伝わってきますが、体はポカポカと暖かくなってきました。土を掘り起こすと地下茎は偉いもので、もう春の準備でしょうか白い根がかなり伸びて雑草ならではの逞しさに感心しながら丁寧に草を抜き取りましたが、雑草が多いためにあっという間に集めた草が山のようになりました。この畑は私が子どもの頃白谷さんという石工さんにお願いして開墾してもらった畑なのです。そこへ母がみかんを植えていましたが今は跡形もなく枯れています。山林を開墾した場所なので掘るほどに小石がゴロゴロ出て来て、それを一ヶ所に集めたりしました。冬の季節風に晒しておくと掘り返した土は作付に適した用土になるのです。今年はここへも作付を考えています。

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(耕した段々畑の一枚の畑)

 4時過ぎに作業を終えて帰ろうとすると妻から携帯電話が入ってきました。「こんなに寒いのに帰らないので心配している」と気遣いの電話です。そういえば今日は町内で若い男性が正月から行方不明だそうで、消防団も出動する大掛かりな捜索が行われていて、県警のヘリコプターが海岸線を低空飛行して捜索しているのが人間牧場の眼下に見えました。この若い男性は水道屋さんに勤務していて、わが人間牧場の水道工事にも屋根葺工事にも来てもらった人だけに、この寒空に早く見つかって欲しいと祈りました。

 下の畑では寒風をついて伊予かんの収穫作業が行われていて、顔見知りの人たちがお喋りをしながらみかんを摘む様子が風に乗って耳に届いていました。

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(低空飛行で捜索する県警のヘリコプター)

 家庭菜園も冬の季節を迎え、大根などの根菜類やキャベツ、白菜、ブロッコリーなどの葉物類も食べごろを迎えています。ゆえに毎日自家菜園の野菜が食卓に上り、妻も料理を楽しんでいるようです。

 冬の間に土を掘り起こし寒風に晒すと病害虫に強い土になるそうなので、夏以来何も植えていない畑に耕耘機を持ち出して耕しました。昨年まではこの仕事も親父がこなしていましたが、92歳を迎える高齢なので、新しい耕耘機を購入したのを機会に、危険なためその使い方を教えず私が運転するようにしているのです。やがて椿さんが終わるとこの畑に春植えのジャガイモを作付しなければなりません。親父はそのことが気がかりなようなので、まだまだ元気で長生きしそうな雲行きで、人安心しているところです。

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(耕耘機を使って中耕する私ー自動シャッターで撮りましたー中々のものです)


  「野良仕事 いつか私の 身について 細々ながら 年中行事」

  「教えろと 言うが教えぬ 使い方 親父に変わり やっと天下を」

  「気が遠く なるほどせっせ 土を掘る 春の根吹き 雑草偉い」

  「今年こそ しかと百姓 決意する 気力体力 揃わぬままに」 

 

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○腐葉土づくりのための落ち葉拾い

 「今年の冬は寒いねえ」と、会う人ごとに言葉を交わすように、今年の冬は個までの暖冬騒ぎを打ち消すような寒さで、ここ南国四国でも山に冠雪が見られたり、高速道路が一時通行止めになったりタイヤチェーン規制があったり、何かと騒がしいようです。昨日は小寒、しかも7日なので七草でした。これから寒さは大寒に向かってますます寒くなることでしょう。

 寒いといっても南国四国は日中になると8度くらいまで温度が上がるのですが、東北や日本海側は寒さが厳しく、重いドカ雪が一日に1メートル近くも降って、除雪に悲鳴を上げているというニュースを聞くと、南国に住む幸せを思うのです。

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(道の横に溜まった落ち葉)

 昨日は腐葉土づくりのための落ち葉拾いにに軽四トラックで出かけました。人間牧場ができてから毎年行っている私の恒例行事です。わが町は海沿いなので周防灘から伊予灘を通って吹き込んでくる北西の季節風が、まともに吹きつけることから体感温度はかなり低く感じられます。そのため戸外へ出る時は防寒が必要なため、妻が用意した厚めの防寒作業着を着て、頭には先日買ってもらった作業用毛糸の帽子に、娘が高校生の時に愛用していたマフラーを首に巻き、靴下は2枚重ね履きと凄い出で立ちでした。

 この時期は山の落葉樹もすっかり葉を落とし、道端の風の吹きだまりには人間が集めたのではないかと見まがうほどに、沢山の落ち葉が集まっていました。人間牧場に通じる道は細い農道のような道なので通る車もまばらで、道の真ん中に車を止めて作業しても3時間で2台しか出会わず、その度に車を待避所へ異動しての作業でした。

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(トラックの荷台に積んだ落ち葉)

 トラックの荷台の両側に家から運んだコンパネベニヤを立て、そこへテミで落ち葉をかき集めて乗せて行くのです。このころの落ち葉はまだ落ちて間がないため濡れていないため、吹けば飛ぶような軽さで、荷台は踏みつけながら乗せるのですがあっという間に山のようになりました。この日は例年通りトラックに2回積む予定なので、とりあえず1回目を人間牧場の苗床まで運びました。4WDなので畑の中へもいとも簡単にスリップすることもなく入って行けるのです。

 苗床の表面に置いた昨年の土をスコップで外へ出し、そこへバックで乗り付けたトラックの荷台から落ち葉を落として行くのです。毎年のことですが集めた落ち葉のフワフワベットの上に寝転び、誰はばかることなく寒いながら束の間の至福を味わいました。冬の風に乗って雲が飛ぶように走っていました。我に帰り急いで落ち葉をコンパネで仕切られた苗床踏み込んで行くのです。落ち葉は面白いように沈んで行きました。

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(表土を取った苗床)
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(トラックから苗床へ落ち葉を入れる作業)
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(2回の作業で苗床は山のようになりました)

 再び元の道まで引き返し同じような作業を2度繰り返してほぼ予定通りの作業を終えました。踏み固めた落ち葉の上に牛糞ペレットを4袋ばら撒き、その上に大洲の亀本さんから3年前にいただいていた本物の牛糞3袋を撒き鍬で均し、その上に水をかけてビニールをかけました。近々米ぬかと油粕を振りかければ発酵が始まるものと思われます。

 こうしておけば3月中旬にサツマイモの種イモを伏せる準備が出来上がり、芋から伸びたツルでサツマイモの命のリレープロジェクトがスタートするのです。来年度のプログラムはまだ決めていませんが、人間牧場としても子ども塾として位置づけて続けて行きたいと思っています。


  「何するの? 通りすがりの 車止め 不思議な顔して 通り過ぎ行く」

  「農業は 土を作るの 基本だと 言いつつ今の 農業省略」

  「落ち葉から 自然循環 考える 環境エコは 身近にありて」

  「さあこれで 準備万端 整った 今年も美味い 芋が出来るぞ

 追伸 表土を掘り返していると中から4匹のカブトムシの幼虫が出てきました。カブトムシ保育専用のバケツに  

     移しました。大切の育てたいと思っています。 


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○間もなく53年の歴史に幕

 昨日は二宮金次郎探検隊の調査のついでに、私の母校である下灘中学校を訪問しました。この学校はあとヶ月余りで53年の長い歴史の幕を閉じる予定です。私たちが中学生だった頃は300人もいた生徒が10分の1の32名に落ち込み、学校の授業や部活に影響が出ていて、将来的にも生徒数の増加が見込めないことが原因のようですが、学校が消える寂しさは卒業生のみならず地域にとっても大きな問題で、ただでさえ冷え切った世相にの中で、暗い影を落としているようです。

 私たちが学んだ学校の姿はその後の新築によって跡形もなく、僅かに残る思い出はすり鉢の底のような運動場から見える原風景しかありませんが、45年も前にこの学校へ通った思い出ながら、今もありありとその記憶が蘇って来るのです。

 私たちの育った時代は子どもの数が多い時代でしたから、こんな田舎でも1学年2学級もあり、学校は活気に満ち溢れていました。体育館などなくスポーツは全て屋外、便所もポテンと音がする溜置きでしたし、学校の裏には畑があって、汲み取りした人糞を平気で撒いていた長閑な時代でした。

 それでも淡い初恋を感じる青春時代の幕開けを感じる果敢な年齢でしたから、一番思い出の多い学校かも知れません。ここで学んだ3年間ですっかり逞しくなって、私は宇和島水産高校へ遊学するためふるさとを後にしたのですが、この学校が私の人生の礎になったことは間違いないのです。

 居合わせた二宮校長先生と、この学校の卒業生の中嶋教頭生成を交えて職員室でストーブにあたりながら雑談をさせてもらいました。校長先生の話しによるとこの学校の卒業生は3489人だそうです。私も3489分の1なのですが、閉校後当分は新しい体育館も運動場も地元の人に開放されて使われる方針が決まっているそうですが、校舎は耐震のこともあって閉鎖され、やがて消えゆく運命をたどることでしょう。63回目の卒業式や、閉校式はもう間近に迫り、1年生・2年生は新しくなる現上灘中学校に出来る双海中学校へ引き継がれるようです。

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 歴史の歯車は否応なしに回りむしろ逆転さえします。下灘中学校は後戻りできない逆転の歯車かも知れません。日本全国を巡っている私が全国各地で目にした廃校地域のその後を思うと、この地域も決して右肩が上がりになるとは思いませんが、何か妙案はないものかと4階建ての校舎を見て思いました。

 歴史は全てではありませんが人が作るものです。仕方がないと社会や時代、それに人のせいにしてしまうと宿命になります。でも同じ命がついた言葉でも運命があります。運命は考えや行動で変えられるのです。変哲もないこんな町が、夕日の町として少しだけ輝いた時期がありましたが、あれは宿命と思って諦めず運命の扉を開けたからではなかったかと述懐するのです。ギブアップは一でも出来ます。ノーギブアップの精神で頑張って欲しい、そんなエールを学校に送り下灘中学校を後にしました。


  「わが母校 廃校間もない 聞く度に 在りし日偲び あれやこれやと」

  「久方に 母校訪ねて 見渡たせば 空山全て 変わらぬ姿」

  「ああここも 時代の歯車 逆転す 廃校なれば 有が無になる」

  「人生は あの日ここから 始まった 記憶たどりつ 校庭歩く」 

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○二枚の懐かしい写真に出会いました

 年末年始の慌ただしい日々も一段落したので、昨日は久しぶりに尻に火がついた形で色々な仕事を片づけました。年輪塾のチーフプロデューサーである清水塾頭が年末から年始にかけ、腕まくりして今年のテーマである二宮尊徳に傾注している姿を見て、塾長も動かねばと止むに止まれぬ行動です。清水さんから「塾長の年頭のあいさつをメールで」との督促もあり、急いで書き上げました。また今月で廃刊となる予定の「自悠くらぶ」の連載エッセー記事を書いてメール送信したり、はたまた動き出した今年の仕事の段取りメールもしたりと、パソコンもフル稼働しているようです。

 昨日は二宮金次郎銅像探検隊などと戯言のような名前をつけ、一人で町内の小学校3校を訪問し、居合わせた校長先生たちとその来歴や二宮金次郎について意見を戦わせました。双海町の由並小学校と翠小学校には二宮金次郎の立派な銅像があることは知っていたのですが、私の母校である下灘小学校には私の記憶の彼方には二宮金次郎の思い出があるものの、銅像が二宮金次郎から野口英世に変わっていて、そのルーツも興味があったので、ぶらり立ち寄ってみました。

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(由並小学校の二宮金次郎)
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(翠小学校の二宮金次郎)

 辻井校長先生とは一昨年、青少年赤十字大会の記念講演を頼まれたりして面識があるので、気ままに案内された校長室でお茶をいただきながらお話ししたところ、学校の史料室からアルバムを探して持ってきてくれました。早速お目当ての写真を探していると、何と私たちの卒業記念写真が出てきました。私が下灘小学校を卒業したのは、昭和31年ですから双海町という町が合併誕生した明くる年なのです。

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(私が写っている昭和31年度卒業記念写真)

 古い木造校舎をバックにして、先生全員とともにお行儀よく写真に収まっている自分の顔写真を見て、歴史の重みをしみじみと感じました。お目当ての二宮金次郎の銅像の写真もほどなく見つかりました。

 記憶をたどれば、「二宮金次郎が何の本を読んでいるのだろう」とこの銅像の台座によじ登ったのは確か小学校2年生の時でした。運悪く通りかかった黒田丈衛校長先生に見つかり、校長室で天罰として1時間正座をさせられました。校長先生は私に、「お前はなんであんな危な所へ上がったのか」ととがめました。「何の本を読んでいるか調べたかった」、「バカたれ、あの本にはいろはにほへとしか書いていない」と戯言のお叱り言葉を返されました」。私はその後も二宮金次郎の読んでいる本は「いろはにほへと」とばかり信じていたのです。

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(見つかった幻の下灘小学校の二宮金次郎写真)


 早速卒業記念写真と二宮金次郎の銅像写真を、西尾先生にお願いしてスキャンしてCDに入れていただきました。自分の卒業写真もさることながら、下灘小学校の思い出の二宮金次郎に出会えるなんて、思いもしなかっただけに大きな大きな発見でした。

 ちなみにその後この金次郎は受難したエピソードがあるので付け加えておきます。下灘小学校は運動場が狭く、子どもたちや地元の人がソフトボールをするのには窮屈で、少し大きなフライを打つと講堂の屋根やシンボルのイチョウの木によく当たりました。その都度勝手に決めたルールのエンタイトル2ベースなどが適用されるのですが、このボールが二宮金次郎の手に当たり、ポッキリ折れてしまったのです。ゆえにかなり長い間この二宮金次郎は身体障害を余儀なくされたのです。こうした学校の裏話はもう私のような古い人間とともに記憶から消えて行くのでしょうが、願わくば金次郎の銅像の思い出は長く伝えて欲しいものだと思いました。


  「偶然に 見つけた二枚の 写真見て 感慨深く 少し涙が」

  「この台座 上がり校長に 見つけられ お仕置きされた 昔懐かし」

  「バカたれが いろはにほへとと 書いている 嘘を教えた 校長悔し」

  「この写真 やっと陽の目を 見ましたね 皆に言っても それがどしたん?」 

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○みかんがおいしい季節です

 わが家は私が子どもの頃は漁家でありながら細々と農業を営んでいました。農道などなかったため畑で作った作物は全て背中に背負って細い道を行き来したのです。当時は農家も車舟と称するもので畑で作ったみかんを力づくで下ろしていましたが、急な下り坂をすらし棒一本であやつる名人芸とでもいうべき姿を感心しながら見たものでした。

 その当時はプラスチックのキャリーコンテナなどなかったので、箱は全て木製でした。木箱に入れられたみかんは当時貴重品で、自宅で食べるのハネモノと称する傷や腐りのあるものばかりでしたが、それでも冬になるとコタツに入って手が黄色くなるほどみかんを沢山食べたものでした。

 母親が亡くなりみかんを作らなくなってもう10数年が経ちました。みかん畑だった土地は一時耕作放棄地となって一時荒れていましたが、人間牧場を造るために再び開墾され、もう一ヶ所のみかん畑も耕作放棄地を友人の稲葉さんがせっせと耕して遊んでいますが、みかんを作っていないことを知っている糠の友人からは毎年食べきれないほどのみかんをいただくのですが、食べきれなくて結局は腐らしてしまうのです。

 わが家の敷地内にある家庭菜園の隅には、甘夏蜜柑を中心にした果樹園があり、その隅に4~5本温州みかんが植えられています。母が存命中に植えたものですが、今年は興津早生という品種に沢山の実がなりました。先日親父と二人で収穫したのですがキャリーに3つも収穫しました。そのひとつは叔父方へ、そのひとつは姉方へおすそ分けしましたが、もうひとつは自家用に置いています。正月休みも終わったのでそのみかんを篭に入れコタツの上に置きました。食べてみるとこれが飛び切り美味しいのです。無農薬なので見栄えはしませんが甘みといいコクといい申し分のないのです。(先日友人の玉井さんから送っていただいた無農薬のみかんと同じ器量)


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 最近は果物の糖分が太る原因などと、まるで悪者のように言われていますが、私の友人たちがやっている朝フル、つまり朝の空腹のときにフルーツを食べるといくら食べても太らないそうで、友人たちはそのルールにしたがって朝フルして、ダイエットに成功した人たちなので実証済みなのです。彼らが言うのには食後の果物なんて食べ方は自殺行為だそうで、私も彼らの助言を得て極力朝フルしていますが、別に太ることはないのです。

 日本一のみかん産地こそ和歌山に生産量では追い越されていますが、愛媛に住む人は愛媛はやはりみかん王国だと誰もが思っています。だのにみかんの食べ方ひとつさえも日本全国に向かって発信できていないのです。私たちが子どもの頃のようにみかんをもっと食べる方法を考え実践すればいいのに、何故か高く売ることばかりを考えて、みかんの消費を増やす方法は置き去りのような気がするのです。

 私はこの冬、みかんを沢山食べれば風邪を引かないというジンクスでも作ってやろうかと、毎日10個程度のみかんを食べることを目標に頑張っています。

 愛媛のみかんは今が旬で美味しいですよ。勿論旬のみかんを食べている私も旬な人なのです。(自画自賛)


  「篭みかん コタツに入り 一つ剥ぎ 二つ目剥いで 口にほおばる」

  「見栄えなど どうでもいいや 自家みかん 安心安全 ゆえに美味しく」

  「一級品 県外送り わが家では 二級三級 紺屋の袴」

  「太陽の 恵みのような 果汁持つ みかんはやはり 愛媛の自慢」

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○ほたる保存会長の河野喜由さんが亡くなりました

 私の友人である河野喜由さんが亡くなりました。68歳の少し早い人生を区切った旅立ちに衝撃を受けています。河野さんが亡くなったという第一報は、年輪塾大番頭の米湊さんから出張先の八幡浜へ携帯電話でした。わが耳を疑うようなニュースに驚きましたが、「詳しいことは後ほど」という米湊さんの電話を受けながら、私の従兄の夫である豊岡強さんも亡くなっていて、通夜も葬儀も同じ時間だと困惑を隠せませんでした。こんな場合は身内の葬儀が優先するので、夕方身内の通夜に列席しました。最近は通夜も冠婚葬祭センターですることが多く、月心会館港南で通夜を済ませて、帰りに河野さん宅へ向かいました。この夜は河野さんの死を悼むように河野さん宅へ着いたころには雨がポツリポツリと、まるで涙雨のように降ってきました。

 河野さん宅には既に身内や友人が沢山詰め掛けていて通夜の真っ最中でしたが、一通りのあいさつを済ませ遺体と対面をさせてもらいました。奥さんの照子さんも時折涙で顔を濡らしながら気丈にも笑いながら思い出話をしてくれました。

 河野さんと私の出会いはかなり昔で、実家の跡を継ぐために就職先の愛知県から奥さんとともに実家にUターンした時からです。その頃私は町の中央公民館主事をしていて、河野さんの住んでいる三島自治公民館は夫婦学級などの学習活動が盛んで、私も月に一度程度その場にお邪魔していましたが、河野さんも奥さんもどこかと階の匂いのする異文化を持っていて、何かと気が合い何かと話し込んだものでした。河野さんは帰郷後生命保険会社へ就職し、詳しいことは分らないものの会社の所長などを経て定年退職後は奥さんと農業をやりながらのんびりと充実した暮らしをしていました。

 請われて地元のほたる保存会の会長に就任してから急速に私との縁が深くなり、何かにつけてまちづくりについて大いに語り合ったものでした。河野さんは一昨年双海町も分科会場として参加した地域づくり団体交流全国大会の分科会実行委員長として事務局を担当した米湊さんとともに、実行委員会にも欠かさず参加をしていただきました。私が全国の実行委員長をしていたこともあって、まるで親衛隊のように付かず離れず名サポーターぶりを発揮してくれたのです。


 穏やかながらしっかりとした理念や理論を述べる、翠小学校を中心としたグリーンツーリズムの中心人物的存在として、これからもリーダーシップを期待していましたが残念でなりません。

 河野さんとはこの2年間、伊予商業協同組合理事長徳本さんとともに、私がお世話している限界集落の勉強会

にも殆ど欠かすことなく参加して、楽しいおしゃべりをしていました。

 最近は健康診断で引っかかって入院するなど体調の変化もあったようですが、年末に風邪を引き少し体調を崩されたことが引き金で、あっという間の天国へ召されてしまいました。年末に丸山町長さんの葬儀で出会ったのが最後となってしまいました。

 退職後も都会暮らしのダンディーさは変わらず、田舎暮らしの私などは酔わせるような河野さんのカラオケの歌声に、何度感心したことでしょう。偶然にも聖浄苑で豊岡さんと同じ時間の待ち時間だったため、葬儀には出席できませんでしたが、奥さんの照子さんやご遺族ともあいさつを交わすことができました。

 年末年始は葬儀が多くこの二日間は通夜や葬儀のまるで梯子のような忙しいくも悲しい二日間でした。河野さんと豊岡さんのご冥福を心からお祈りします。


  「枕辺で そんなに急いで 何処へ行く 心で語り 涙流しぬ」

  「Uターン したころ彼の ダンディーな 姿見ながら 憧れました」

  「通夜葬儀 まるで梯子の 忙しさ 悲しみながら 二日過ごしぬ」

  「惜しまれる 人は早いと 俺に言う じゃあ俺要らぬ 人なのかしら?」

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shin-1さんの日記

○お墓でカメラを壊す大失態

 「お父さん、お墓にまでカメラを持って行くのは止めて」と、妻に笑いながら忠告されたものの持参した罰が当ってしまいました。妻の実家のお墓を掃除して、古いシキビを墓地内にある焼却場まで運ぼうとして背をかがめた瞬間、ポケットに入れていたデジカメが地上のコンクリートに落下しました。慌てて手を助ましたが、その手までコンクリートに激突してしまい、人差し指の根元から少し血がにじむほどこすりました。手は自然治癒力で治るのですが、カメラはバッテリーとチップを入れる片隅が少し変形して開かなくなってしまいました。妻の忠告を聞くべきだったと悔やみましたが全て後の祭りでした。

 カメラは落とした衝撃で写らなくなりなっていましたが、少しいじくっていると回復したものの、扉は開かないままなのです。自宅に帰ってマイナスドライバーの小さなのを取り出し何とか蓋を開けましたが、窮屈でいよいよこのカメラも請われたかも知れないのです。

 妻は笑いながら「お父さん、年末に自分の貯金箱を郵便局へ持って行って開封したデジカメ貯金があるでしょう。それで買い変えたら」と、早くもバリアーを張ってきました。確かに郵便ポスト型の貯金箱を開封して貯めたお金がかなりあるので資金面では心配しないのですが、自らの不注意でせっかく息子が買ってくれたカメラを壊したことが悔しいのです。今朝はそのことが気になって朝早く目が覚めました。外は昨日の好天とは打って変わって冬特有の突風がもがり笛のように音を立てて吹く大荒れの天気のようです。

 早速親父が仕事場にしている倉庫に行ってペンチを取り出して書斎へ持ち込み、カメラの曲がった部分を修正してみました。多少へこみはできましたが、何とか修復することができました。当分は使えそうなので、その間に機種を選んで購入しようと思っていますが、今回も息子に相談して買おうと思っています。


 ブログを毎日飽きもせず書いている私にとって、今やデジカメは、日々の暮らしになくてはならない大事な持ち物となりました。持ち歩き過ぎて時々カメラを忘れる小知った芋繰り返して人様に迷惑をかけてきましたが、カメラが記憶した写真の数々はブログもさることながら、私の最近の生き方を記録する上で貴重な存在となっているのです。道端の草花を見ても一枚、孫の成長も一枚、人間牧場の様子も一枚と、枚数を重ねてきました。初心者ゆえ上手くゆかなかったパソコンへの取り込みや活用も、失敗を繰り返すことによって何とか下手ながら上手く使いこなしています。

 写真に撮るという行為は私の心の目を開かせることにもなりました。今まで気づかなかった出来事や季節の移ろいをファインダーを通して感じ取り、それらの写真に文字文章を加えることで私の平凡な暮らしも、少しは生き生きと輝いているのです。


 人は覚えるために忘れる動物かも知れません。日々の暮らしの中で覚えている何気ないことも、明日になったら「はて?」と思い出せないくらい忘れてしまいます。このことはしっかり覚えておこうと自分に言い聞かせても全てを覚えていることは不可能なのです。記録をしておくことで記憶をよみがえらせることができるのですが、記録なしで記憶することが不可能な年齢になると、まさに記録は記憶です。これからも記録による記憶をしっかりと行いたいと、壊れかけたカメラに感謝しました。

 

  「妻注意 聞かずに罰が 当たったか カメラ壊れて ペンチで修理」

  「デジカメは 今や私の 宝もの 肌身離さず お守りのよう」

  「お墓など 写真撮る人 いないわよ 妻に諭され それでもパチリ」

  「記録する ゆえに記憶と して残る もう歳だから それしか記憶」

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