shin-1さんの日記

○三重県御浜町を訪ねる(その①)

 年末、降って湧いたような話がメールで持ち込まれました。国の出先機関である愛媛農林統計事務所に勤務していた松前町出身のTさんは現在環境省に移動していますが、偶然にも私が統計事務所の方々にお話しいたことや、私の夕日によるまちづくりのことをおぼえていて、三重県御浜町で開かれるエコツーリズムの講演会に来て欲しいというのです。

 Tさんの話を聞けば御浜町は三重県でも和歌山県新宮に近い場所にあって農業はミカン、太平洋を漁場とした漁業もあるという比較的双海町と煮ている環境にあるということでお声がかかったのです。

 Tさんは年末の帰省を利用してわが家を訪ねられ綿密な打ち合わせをして帰られましたが、東京のメッツというコンサルタント会社が絡んで以後様々なやり取りをメールで行いました。


 予定日は1月13日ということでしたが、この日の天気予報がかなり大荒れで、九州鹿児島や長崎でも雪が積もるなど遠出には難儀な天気なので、前日の夜から出かけるか当日の朝にするか随分悩んだ末、結局は飛行機のチケットの予約もあって朝6時半に家を出ることにしました。

 松山から飛んだ飛行機は伊丹空港に予定通り降り立ちましたが空港にはTさんと女性職員の2名が、環境省らしいエコカープリウスで出迎えてくれました。コースは白浜周りを択ばず、また大台ケ原という山道は雪が想定されるため選ばず、結局は伊勢方面から高速道をひた走り、御浜町を目指しました。

  すこし朝の早い旅立ちだったので、早めに着くものと思いきや紀伊半島の三重県側はまだ高速道路が未開通で、丁度よい時間に御浜町に到着しました。

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 私のように年中旅をしている者ですら、紀州や紀伊といえば新宮までの和歌山県の呼び名だと思っていた、紀伊が三重県側にも及んでいることや、三重県熊野市が熊野古道の一部であることも多分四国に住む人たちはしらないのではないかと思うほど看板が目につきました。それでも日本全国に冠たる知名度を持つ伊勢神宮や二見ヶ浦、イセエビ、真珠、などなど三重県は全国に知られた県なのです。

 そして、大型フェリーが荷崩れを起こして座礁した場所が、今回訪ねた御浜町なのです。高知県黒潮町大方の浜を髣髴するような御浜七里の美しい浜は圧巻でしたが、その原風景をさえぎるように突如として見れるフェリーの座礁現場は、当日が穏やかな海であったため、環境に及ぼす影響など考えつかないように静かに横たわっていましたが、日本海福井三国海岸に流れ着いた油事故を思い出し、少しショックを受けました。

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 海岸から少し入った所に立派な御浜町の役場庁舎はありました。役場に入った私たちは控室に案内され名刺交換や雑談などをして、午後6時開会までの時間をゆっくりと過ごしました。窓からは気違反との山並みの彼方に沈みゆく夕日こそ時折小雪の舞う雲に覆われて残念ながら見えませんでしたが、美しい夕景色を存分に楽しみました。

 メッツ研究所のSさんは香川県出身なが、私の親友であるら鹿児島県奄美大島瀬戸内町の重村さんを知っていて驚きました。 重村さんは若いころ相撲の全国大会で優勝した立派な方で、私がかつて寅さんがらみで瀬戸内町へ講演に招かれたり、瀬戸内町の若者が大勢でわが家へ研修にやってきたりしていましたが、先日年賀状にそのことが懐かしく書かれていました。

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  「横たわる 大型フェリーの 姿見て 三国海岸 頭をよぎる」

  「太平洋 隣の街は アメリカだ そんな大ホラ 吹きたい景観」

  「黒潮の  恵みを受けて 育つ果樹 どこか似ている 言葉までもが」

  「朝えひめ 夕方三重に いる私 遠いといっても 便利世の中」

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○事始めの卓話講演会

 意識的に理由をつけて、今年は年末年始をできるだゆっくり過ごそうと決意をして望みました。結果的に人に左右されはしませんでしたが、かえって自分のやりたかったことに夢中になり過ぎ、また身内の不幸も重なりあれやこれやと忙しい日々を過ごしました。松の内も鏡開きも終わって一段落ついた1月12日、わたしが学識理事をしているこーぷえひめの幹部会に招かれ、新春卓話をすることになりました。年末年始約2週間も講演から離れていると、その間を取り戻すのに一苦労しました。

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 普通卓話は30分程度なのですが、最初尾崎部長さんから依頼があった時はすこし長めの45分になり、りじちょうさんや専務さんとのすり合わせの結果、1時間をいただいたのです。参加者は地域理事の女性陣を含めた常勤職員さんで、はてさて何を話そうか思いつつ登壇しましたが、終ってみるとあっという間に時間が過ぎてしまいました。

 本当は講演後も残ってグループ討議にも加わりたかったのですが、明くる日三重県で環境省の仕事が入っていて、天候の都合では前夜に出発しなければならないかも知れないと思っていたので、失礼をさせてもらいました。今日出張先の三重から帰りパソコンを開けてみると、尾崎部長さんから皆さんの意見や理事長さんの話しなどの様子がメール発信されていました。


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  コープえひめの学識理事に就任してから3年半余りが経ちましたが、コープの皆さん方は安心とか安全とか特に食品のことについては相当の知識を持って論じているようですが、人生いかに生きるかといったライフワークやライフスタイルについては、余り論じられていないと思いそのことを少しだけ強調させてもらいました。また支所長さんはじめ第一線で働く人たちは、行政やノルマを重んじる余りに、昨年と比較することが基準になって新しい発想が湧きにくくなっているような感じがして、「新しい発想」についても話をさせてもらいました。

 現在学識理事は私を含めて3人いますが、他の二人はエコノミストであり、事業家でもあるので、経済や経営などの話は私など遠く及ばないため、私の存在感はその辺にあるのかなあと思いつつ、私にしかできないオンリーワンを、残された任期のこれからも一生懸命努めたいと思っています。

 私はコープえひめの理事に選ばれてとてもラッキーでした。自分にないもを持っている人との巡り合いは、自分の人生の幅や奥行きを存分にくすぐってくれているのです。まさしく「人は人によりて人となる」の言葉通りなのです。

 大川理事長さんや松本専務さんのひたむきな学習態度にも頭が下がるし、若い常勤理事さんたちも謙虚で個性派ぞろいで将来が楽しみです。

 さあ今年も忙しい日々が始まりました。今年も今まで通りではなく少しだけ今まで以上になるよう夢と希望を持って生きて行く予定です。ご指導をよろしくお願いいたします。

 (私が講演する間、大川理事長さん自らが私のデジカメで写真を撮っていただきました。恐縮でした)


  「手始めに コープえひめで 事始め 二週ブランク 勘が戻らず」

  「この冬は 日本列島 冷蔵庫 口元寒さ こわごわ開く」

  「人は皆 他人によりて 人となる ゆえに大事と 人を思わん」

  「さあやるぞ 腕をまくりて  事始め 木になるカバン 今日も提げ行く」


 

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○便利なな街に住んでます

 「今日はとても寒い朝です。これから松山空港へ向かいます。目的地は傷み空港を経由して三重県御浜町です。」とメッセージをブログに書いて出かけました。

 私の町から空の玄関口松山空港へ向かうのには幾つかのルートがありますが、私は主に双海町上灘~伊予市海岸通り~松前町海岸通りを通って飛行場へ向かいます。何年か前までは飛行場周辺の道の混雑がひどくて時間が読めませんでしたが、滑走路に沿って飛行場へ向かう道が整備されて、私の町からでも早朝だと30分もあれば飛行場へ行けるのです。私のように年中県外へ出ている者にとってはとても助かるのです。

 例えば東京だと飛行機に乗っている時間はたかだか1時間20分程度なので、3時間もあれば東京都内であれば会議に間に合うという算段ができるのですからこの上ない便利な場所に住んでいると思うのです。

 今は便利さの基準は距離ではなく交通アクセス条件と時間、それに情報手段ではないかと思うのです。今も何人かの人を知っていますが、交通手段と情報手段さえ整った場所なら、田舎に住んで都会と同じ仕事ができるような便利な時代になってきたのです。

 それは逆の場合も言えます。最近私が自費で開設している人間牧場へ来る人がやたらと増えてきました。東京や大阪、などの遠隔地から日帰りでどんどんやって来るのです。さすがに北海道から日帰りというのはありませんが、日本列島も狭くなったなあと感じることがあるのです。

 そこへゆくと先日訪ねた三重県御浜町は直線距離こそ短いものの、私の町からはとてつもなく遠い町でした。

松山から大阪伊丹空港までは飛んでる時間はたかだか40分です。迎えに来てもらった車で高速道路をひた走り、大阪~京都~三重へ入り、伊丹出発が9時30分でしたが、現地に着いたのは16時を超える時間となりました。よくぞ一便早く出発したと安堵の胸を撫で下ろしました。帰りは公共交通機関でしたが、早朝5時18分に宿泊先の紀伊長島を出発するという、何とも長い旅路となりました。

 私も65歳となり、この交通手段と情報手段を存分に生かした生き方をするほどの力はなくなりましたが、私たちの続く人たちはこの便利さをしっかりと生かしてまちづくりをして欲しいと願っています。

 県庁所在地まで40分程度というのも魅力の一つです。私は多分その好条件を最も生かした人間です。アンチ松山、アンチ中央といいながら、東京などには叶わないものの、さすがに文化・政治・経済の中心地だけあって、魅力ある人、魅力ある情報、魅力あることがいっぱいあります。その恩恵を今も受けて暮らしていますが、それらの魅力に出会う機会は残念ながら自らが心を開き行動しないと出会わないものです。これからも車に乗れるという手段を生かしていい人といいこと、いい情報に出会える活動をしたいものです。


  「いいとこに 住んでるけれど 動かねば 人に出会わず 情報知らず」

  「居ながらに して情報が 入りくる 便利だけれど 使わぬ人も」

  「牧場が だんだん都会に 近くなる チャンス到来 何かできそう」

  「飛行場 県庁近い 地の利得て これまで生きれ 幸せでした」

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○三重県への旅~年中みかんのみのるまち~

 「今朝から環境省の仕事で三重県へ出張します。帰りは明日の夕方です」とメッセージを書き残しわが家を旅立ちました。「お父さん、寒いから下ズボンも履いて、コートも着て」と、私のことを色々心配して旅の準備をしてくれるのですが、当の本人の私は、この寒さなので日帰り程度の最少限度のものを木になるカバンに詰め込み、一つのカバンだけという身軽さで出かけました。

 三重県へは市町村振興協会関係の杉谷さんという友人がいたこともあって市町村や商工観光関係の仕事でで何度かお邪魔していますが、和歌山から新宮へは行ったことがあっても伊勢神宮以南へ三重県側からは行ったことのない地域なのです。

 

 主催者から送られてきたパンフレットの中に、目的地である三重県御浜町のパンフレットが入っていました。そのパンフレットによると、世界遺産・熊野古道のあるまち、特に「年中みかんのとれるまち」というキャッチフレーズが目にとまりました。

 中を開けてみると、伊予かん、ぼんかん、早生温州、グリーンハウスミカン、八朔、早香、高糖系みかん、極早生温州、デコポン、三宝柑、甘夏、カラ、ハウスミカン、セミノール、春光柑、サマーフレッシュなどの収穫期が暦上に書かれていました。

 私が住んでいる愛媛県も、生産量こそ和歌山県に日本一の座を奪われましたが、柑橘栽培にぽいては日本一と自負していて、これ以外にも清見タンゴール、せとか、はるみ、ネーブル、レモンなどなど、御浜町に負けないくらいの柑橘が年中栽培され味わうことができるのです。

 昨年も、夕日の美しさでは日本一と自認している私に、世界三大夕日という名のもとに北海道釧路からオファーがかかったりして驚きましたが、今回もそれに似たような挑戦状ではないかと思ったりしました。まあ何でもそうですが、殆どがオンリーワンの世界なのでこれもまたよしと一人苦笑しました。

 みかんが作れば売れた時代は終わりました。国民が昔のようにみかんを食べなくなってしまったのです。生産者はジュースに加工したりあの手この手の策で消費拡大を狙っていますが、一向に消費が高まらないのです。

愛媛県に合併して上島町となった岩城島という島があります。ここは長年「青いレモンの島」というキャッチフレーズで島おこしをしていますが、これこそ新しい発想の柑橘を売る見本なのです。

 私は整備した道の駅シーサイド公園で、みかんの重さを軽くするため、オレンジジュースを使った「夕やけソフトクリーム」を開発し、年間二千万円売り上げる商品を開発しました。これは夕日と地元の産品をコラボレーションした新しい商品開発です。このように物語、情報やイメージ戦略でものを売る時代になっているのです。

 さて御浜町へ乗り込むのががぜん楽しくなってきました。


  もうみかん 昔のように 食べません みかんを売るより イメージ売ろう」

  「グリーンなのに 何で青いん? 色盲なのか 信号同じ どおってことない」 

  「発想を 変えればみかん 面白い 何か出来そう いい予感(伊予柑)が」 

  「東京も 名古屋も近い 地の利あり やり方次第で 日本で一番」 

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○真新しい貯金箱を買いました

 昨年暮れに貯金箱を壊して一年間貯めたお金を回収し、冬のボーナスとして活用した後そのままになっていた、新しい貯金箱を、昨日の休日松山へ孫を連れて行ったついでに、百円ショップのダイソーに立ち寄り買い求めました。今年の貯金箱は昨年のものより少し大きめの缶詰タイプで、表面に「目指せ!30万円、缶BANK]と黒い文字が書かれています。この缶に500円玉が一杯だと約30万円/100円玉だと約8万円だそうで、目標としては申し分ないのですが、さてこの中へ入れるお金の余裕があるかどうかが問題なのです。

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 役所を退職し、毎月決められた給料が入らなくなって5年近くが経ちました。その間基礎年金のみで年金が満額出ない時期もあって、家計のやりくりに追われた妻は大変だっただろうと思うのですが、どうにかその難義も乗り切り今日を迎えていますが、夏と冬のボーナスが出る時期になると、ボーナスが出た昔を懐かしんでいるのです。でも懐かしんでばかりでは鼻血も出ないので、何とか工夫をと妻と相談して始めたのがこの貯金箱貯金なのです。最初は嫌がって乗り気でなかった妻も今では年末23日の開封日が待ち遠しいようで、やってよかったとしみじみ話しています。


 昨年末開封した金額は私と妻の二人だけの秘密なので公表することはできませんが、私たち夫婦にとってはまるでサンタクロースがやってきたような喜びでした。今年の年末にも金額の大小はあれ、同じような楽しみが待っているのです。

  これとは別に私の貯金箱も、そして孫たち4人の貯金箱を既にスタートしています。ことしもいい貯金ができますように祈っています。


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○電子レンジで作った温野菜に舌鼓

 わが家の電子レンジは20年以上も使っている古いものでした。電子レンジが出回り始めたころは「夢の調理機」として持て囃されてかなり高かったようですが、今は一般家庭に普及して料理を楽しむ人にとっては欠かせない道具になっているようです。その電子レンジが年末に故障してしまい、正月帰省していた長男の力を借りて思い切って買い換えました。金額的にも臨時出費と意識するほど高くはなかったようです。

 私にとって電子レンジはものを温める程度にしか使えませんが、妻はこの際とばかりに使い方のカタログを読んでいました。そして昨日は自家菜園から採れた新鮮な野菜を使って温野菜づくりに挑戦し、その成果品が昨晩の食卓に並んだのです。サツマイモ、秋ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、ブロッコリー、キャベツなどなど、まるでレシピの中から飛び出してきたような色とりどりの温野菜に、思わず目を見張りました。ご馳走づくめだった年末年始も終わり普通の食生活に戻りましたが、わが家では夫婦そろってお餅が好きなため、朝は殆ど毎日雑煮を食べています。そんな所へ温野菜の出現とあって久しぶりに野菜本来の旨味をたっぷり味わうことができました。

 私はどちらかというと草食です。草食といっても今流行りの草食人間ではなく、肉を余り食べない野菜の好きな草食なのです、ゆえに三度三度の食事は野菜中心です。その好みは10年前胆のう摘出手術をしてからひどくなり、今は肉など殆ど食べないのです。その嗜好の変化は65歳を迎えた高齢者にはむしろ好ましいことかも知れないのです。

 わが家の菜園には昨日も数えてみましたが、大根、カブ、チンゲンサイ、ブロッコリー、カリフラワー、ネギ、白菜、キャベツ、ホウレン草などに加え、サツマイモやジャガイモ、タマネギも沢山倉庫に囲っていて、妻の手料理で毎日の食卓はバラエティに富んでいるのです。

 昨日前日から泊っていた孫を連れて娘の家へ行ったついでに、空と森という温浴施設へ妻と二人で行きました。久しぶりに温泉やサウナで汗を流しリフレッシュしました。その折立ち寄ったレストランでトマトのサラダを食べました。トマトを一個輪切りにしたものに酸味のあるドレッシングをかけていましたが、風呂上がりだったためとても美味しく食べました。

 年末に伊予市の水口さんから2箱もトマトの立派なものをいただいていたので、早速温泉で食べたトマトサラダをノンオイルのドレッシング仕立てで妻が調理して食べましたが、これがまたとても美味しく、食材は料理の仕方でどのようにでもなると実感したのです。

 私は残念ながら料理などはせず、むしろ評論家として「美味い」「まずい」などと口上を垂れるだけなのですが、できれば時々妻にも美味しい料理を食べさせて、美味しい料理を一品増やして欲しいと思いました。


  「結婚し 何より満足 妻料理 顔はほどほど これでいいのだ」

  「菜園の 野菜料理で 変化する 美味しい故に 少し食べ過ぎ」

  「レストラン 行かずも料理 美味いから 外食減って 一石二鳥」

  「今晩は 何が食卓 登るかな? 今日から出張 少しお預け」   

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○嘆かわしや荒れる成人式

 「私は成人式にもう20回以上出席しています」と言ったら、「えっ」と首をかしげる人が多いに違いありません。若いころは教育委員会に勤めていて成人式を担当し13回も出席しました。加えて主に田舎の町の成人式の、今は殆ど見かけなくなった記念講演に招かれて、新成人の前でお話を10回以上しています。さらに23歳の時NHK青年の主張の県代表に選ばれ、地元の新成人たちの前でもはん発表をしたのと、自らの成人式に出席したのを合わせると20回以上になるのです。

 私たちが若いころの話をすると、「ああ歳だ」と思われそうですが、当時の青年たちは純情そのものでした。私の町では昭和40年代から和服禁止の洋服成人式が長く続きました。何十万円もする和服は成人の旅立ちには馴染まないと、人を思いやる心を育てるために始めた成人式の簡素化運動でしたが、新成人も多少不満はあってもみんな明るく参加してくれていました。

 成人の日は1月15日で国民の祝日と決まっていました。ゆえに日本国中が国旗を立てて成人の日を祝ったものです。今は祝日が変わって、「えっ、成人の日は何時だったかしら?」と首をかしげる年もしばしばなのです。私は双海町の成人式のけなげな姿を随分マスコミに宣伝し、時には双海町民会館で南海放送の「新成人を囲んで」という特別番組まで招聘したり、新成人のために婦人会が中心になって朝早くからオードブルを作ってもらい、立食パーティまで企画実施して、それは和気あいあいの成人式でした。

 当然新成人たちもそれに応えて、「新成人の主張」などに応募し未来の夢を大いに語ってくれたものです。合併後30年以上経っても合併事情があって、下灘・上灘を交互に会場を変えたことも今は過ぎ去りし懐かしい思い出なのです。

 私は高校を出ると直ぐに、ガンで倒れた親父に代わって家の跡を継いで漁師になっていましたので、成人式用の背広は、地元の梶野洋服店の大将に作ってもらいました。これが私が背広を着た最初なのです。しかし背広と革靴、ワイシャツはこうして母親が用意してくれましたがネクタイを買うのを忘れて、近所にする松山のお店に勤めている同級生に頼んで好みなど全く無視して買い求めて貰いました。

 しかし成人式当日時間ぎりぎりになってもネクタイを結ぶことができず、結局は親父が私のネクタイを、まるで草鞋を作るように足の親指に引っ掛け、結んで首に入れてくれました。それでもあの晴れがましい成人式の思い出は、あれから45年経った今もはっきりと覚えているのです。

 当日は成人式が終わると列車に乗って皆で松山まで映画を見に行ったり、その夜は青年団員だったため、青年団主催の祝賀会に招かれ、随分お酒を飲まされメロメロうつろな一日でした。


 昨日テレビを見ていたら、全国各地の成人式が再び荒れている様子が映し出されて、呆れてものが言えなかったり、腹立たしい思いをしました。成人式の起こりは戦後間もない1946年ごろ、埼玉県蕨の青年団が新成人のために成人式を始めたのが始まりとされていますが、その崇高な精神を無視して、まるでバカ殿様のような紋付袴で成人式に参加して、酒は飲むは、私語はするは馬鹿騒ぎはするは、挙句の果てに壇上へ上がってあいさつをしている主催者まで小突くというあらん限りの悪ふざけをするのです。

 暴れる新成人の顔は人権的にモザイクや霞をかけていましたが、人の人権を無視するような人間の人権まで守らなければならないのか?とマスコミ対応へも個人的疑問を感じたりしました。どこかの街では新成人を祝おうと子どもたちが合唱団を組んで応援にかけてけていましたが、その前で堂々と暴れて生き恥をかく姿は言語同断で言葉もありません。まさにこの若者たちを育てたり、知らずにやり過ごす「親の顔が見てみたい」心境です。


 このままだと「成人式を止める」自治体も出てきそうです。いつの時代も物事を対処法で処理するから、主催する教育委員会は重い荷物を待たされ、形式的には運営に若者の参加を促す方法を取って、見て見ぬふりをするのでしょうが、普天間基地問題も大事、子ども手当も大事ですが、この若者たちに日本の未来を譲らねばならないのですから、成人式の荒れ方はそれ以上に大きな社会問題だと思うのです。

 成人式に名を借りた政治家の顔を売る政治活動の場となっていた、葉の浮くようなあいさつづくめの過去の成人式も振り返りながら、一人では何もできないくせに集団になると暴徒化する、まさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」という今の若者の心を、どうこちらに向けさせるか、悪ふざけをする新成人は少数だけにいよいよ正念場といったところです。

  「バカ殿の ような格好の 新成人 テレビ番組 見ているようだ」

  「普天間も 大事なことと 思いつつ 荒れる成人 ほって置くのか」

  「この国は どこか可笑しい 思いません? 私は思う 何とかせねば」

  「わが息子 だったら頭 ぶん殴る そんな気持ちの 悲し一日」

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shin-1さんの日記

○人間牧場次の目標

 「お父さん、次は何にするの」と、人間牧場を作る時「私を撒き込まないで」と言ってた妻が、どう心境が変化したのか言うのです。かまど小屋が完成し思わぬ出費で懐が空になったという私に、「お父さん、もうすることはないよね」と言ってた妻とは偉い違いです。今では知人友人に「いいかまどができたのよ」と自慢している姿を見ると、どうやら妻を完全に巻き込んでいて、私の作戦は成功しているようです。

 さて、水平線の家・ロケーション風呂・農場・ツリーハウス・赤トンボの家・かまど小屋と続いた人間牧場の5年整備計画は目標通り一通り終息を見ました。これらの活用プログラムも既に始まっていて、いい雰囲気でスタートが切れました。

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 妻が言うように「次は何」と仲間から尋ねられますが、ほんの小さなツリーハウスと炭焼き窯を作りたいと思っています。ツリーハウスも炭焼き窯も投資金額は各1万円程度、つまり限りなくゼロに近いもので、手造りです。ある意味人間牧場の調度品程度、ベニヤ板一枚程度の広さを想定しています。

 ツリーハウスは人間牧場の枝分かれした杉の木を使いたいと思っています。まあ木の上に犬小屋が乗っているようなイメージです。炭焼き窯は苗床の直ぐ横の畑の斜面を掘って半地下にしたいと思っています。まあ畑の隅に小さなゴミ焼却場を作るようなイメージです。耐火レンガなどを使うと高くつくので、ホームセンターで安いコンクリートブロックを買ってきて周囲を囲い天井は鉄板を使いその上に土を被せるという構造です。私は絵心がないので上手く頭に浮かんだことを絵にすることはできませんが、絵にするとより具体的に夢が膨らむので、いつものことながら今朝絵に描いてみました。笑わないでください。

 この計画は今年の目標である人間力向上のための10の力のうち「⑨企画力」です。願わくばこの二つのささやかなプロジェクトは今年いっぱいを目途にしたいと思っています。さて上手くいくかどうか、まあ何でもそうですが、こうして夢を頭の中に描いている間が楽しいのです。私の発想は全てこのような手法でやって来ました。夕日も、シーサイド公園も、人間牧場も色々と夢の絵を描き自分の部屋の壁や天井にに貼りつけイメージトレーニングするのです。そうすればいつか夢は叶うのです。

 妻が「父さんはやることなすこと少年のままだね」と笑いながら言いますが、「お父さん、次は何をするの」の「何」が少しずつ見えてきたようです。


  「次は何? 突然妻が 聞いてくる しめしめ俺の 作戦当たる」

  「下手糞な 絵でも自分の 夢描く 実現するなら これもまたよし」

  「絵も描けぬ 歌も歌えぬ 俺だけど 夢は沢山 あり過ぎ困る」

  「これからは 金をかけずに 自らが 鋸と金づち 使って作る」

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○薪割り終わる

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(薪割りを始める前のクヌギの木)

 軽四トラックに2台も人間牧場に運び込んだクヌギの木の山を見て、はてさてどうしたものか思案しました。生木な間に処理をしなければ割りにくいことも長年の経験から分っているものの、一人で割るのには少々多過ぎるのです。でも今年の目標達成のために掲げた「人間力向上のための10の力」の中に、「②行動力」というのがあるので、まずそれを人に頼らずやってみようと決意して、前日の午後から昨日にかけて始めました。

 年末年始に温存していた体力を生かして、最初の一日は面白いように仕事がはかどりました。しかし作業が進むにつれて、マサカリを振り上げる力が衰え始め、特にクヌギの根元である大きな木や、小さい木、それに節くれだった部分は何度マサカリを入れても跳ね返され、難儀が続きました。

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(勢いよく燃える枯れ木)

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(今回の薪割りに使った大きなマサカリ)

 こんな倍は気分転換とばかりに、夏の間畑の隅に集めていた杉の枯れ木を集めてたき火をしました。昨日は風もなく穏やかだったので枯れ木は勢いよく燃えるのですが、この枯れ木は畑の一番下にあるため急な坂道を持って上がるのは大変で、火が燃え終わるのを見計らって10回ぐらい運び燃やしました。お陰で春から夏にかけて草を刈る時邪魔にならないで済むように片づきました。

 昼ごろ私が農地を貸している稲葉さんがトラックで様子を見にやって来ました。稲葉さんは途中わが家へ立ち寄って、私が薪割り作業をしている旨を妻から聞いたのだそうです。妹の経営するくじらというお店で買ったたこ焼きを2パック持参していて、休憩がてら二人で食べました。妹からの差し入れ稲荷寿司も届いて、これで昼休みを返上して作業を続行できると内心喜びました。

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(稲葉さんと四国犬の「からし」)
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(樹齢50年生のクヌギの一番大きな根元)

 稲葉さんは畑仕事の友にするため、つい最近軽四トラックと四国犬の犬を手に入れたそうで、車の中から元気な子犬が出てきました。猟犬とかで名前を聞いて思わず吹きだしてしまいました。稲葉さんの畑では昨年唐辛子が大豊作で、病害虫や鳥獣被害に遭うことなく収穫したようで、私にもおすそ分けを何回かいただきました。その名前にちなんで「からし」と命名したそうです。猟犬なのでいずれ気性が激しくなれば「唐辛子」と「唐」を冠につけるかも知れない笑っていました。

 黙々とただひたすら薪割りを続けた結果、手が少ししびれてきました。また割り木が勢いよく飛んで来て足にも当たり、思わず顔をしかめるほどの痛さにも出会いました。さらに軍手をした手の平に豆のような異変が起こりつつある傷みも自覚し始めましたが、スピードを緩めながら、何とか午後4時過ぎに、薪割りの土台に使った大きな切り株を割って、ついに全てを割り終わりました。

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(割り終わったクヌギの木)
 自分の目の前にうず高く積まれた割り木の山を見て、凄い仕事量をこなした満足感に浸りながら、周辺を片づけました。この年齢にしてこの仕事量です。昨日一日の「②行動力」で、右肩下がりのように思っていた体力も少し自信のようなものが復活したような気がして、どこか清々し感じがして嬉しくなりました。

 薪にした割り木はこのまま天日で乾燥して、今月中に前回と同じように軒先に綺麗に積み上げたいと思っています。軒先に薪を積んだ風景がこれまた人間牧場の田舎らしさを演出すると、今から楽しみにしていますが、薪積みは前回同様人介戦術なので浜田さんに協力いただきたいと思っています。

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(今回の薪割りの記念写真です)

  「長靴が 足を守って くれました 怪我なく終わり ホッと一息」

  「体力が 右肩下がり 思ってた 仕事なし終え 少し自信が」

  「この薪で ストーブ・かまど 風呂・たき火 燃料確保 昔に戻り」

  「昨晩は 疲れていたか 床につき 妻の存在 気づかず眠る」

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○孫と夕日を楽しむ

 「おじいちゃん、シーサイド公園へ夕日を見に行こう」と、前日から泊りに来ていた孫たちに誘われて、山仕事から帰った野良着そのままで夕方出かけて行きました。昨日まで吹き荒れた季節風も止み、穏やかな夕暮れでした。短かった陽足も正月が過ぎてから少しずつ長くなって、今はもう5時半くらいまで西の空が明るいのです。

 昨日の夕日夕焼けは今年に入って一番ではないかと思うくらい綺麗でした。冬至から北寄りに変わって行く日没の場所ももう長浜より少し海に出た場所に沈むようになりました。風もなく少し肌寒い感じはしましたが若いカップルや家族連れが何組も思い思いの場所で夕日を楽しんでいました。

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 「おじいちゃん小腹が空いたね」と、小さい孫らしからぬ言葉にドキリとしながら、ラブじゃこ天を買いに走りましたが、残念ながらもう売切れだそうでがっかりです。特産品センターに入ってトラの格好をしたほかほかの肉まんを二つ買い求め、ベンチに座って沈みゆく夕日を見ながら孫たちは肉まんをフーフーいいながら美味しそうに口にほおばっていました。

 同級生の娘さんが子どもを連れて散歩していて、孫たちは砂浜に下りて一緒に貝殻を探したりして遊んでいました。顔見知りのじゃこ天のおばさんたちが出来たてのドーナツをプレゼントしてくれましたが、肉まんを食べた後の祭りでした。

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 やがてクリスマスから恋人岬を照らしているLEDのカクテル光線が岬の鼻のモニュメントを照らすようになってきました。モニュメントが刻々と微妙な色調に変化して行くのです。「何故、どうして」と孫たちは色の変化に気づきながら私に質問しましたが、LEDなどといっても分らず、余り詳しい説明もできませんでした。

 でも身近な場所にある夕日鑑賞のスポットで自然現象とは言いながら沈みゆく夕日を観れる機会を得ることは、孫たちの成長にとってとても意義あることだと思いました。これからも折に触れ見せてやりたちと思っています。


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  「シーサイド 孫に誘われ 夕日見る これぞ爺が 育てた逸品」

  「夕日より 肉まん欲しい 幼子の 顔を夕日が 真っ赤に染めて」

  「何故赤い 孫の質問 鋭くて 詳し説明 しても分らず」

  「ゆっくりと 渚を散歩 砂浜に ついた足跡 波が打ち消す」

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