shin-1さんの日記

○これはいかん。最近歩くことが少なくなりました

 毎日忙しく過し、その忙しさを出来るだけ時間的に縮めようと車に乗って要件を済ませてしまったり、椅子や畳に座ってテレビ、パソコンに向かって座って過し、私はいつの間にか歩く足を持っていながら、歩くことを忘れてしまっているのです。私たちの歩く目安は健康を維持するためを思えば一日一万歩だそうですが、一万歩などは余程努力しないと時には千歩や二千歩で終わる事だってしばしばあるのです。

 私の携帯電話は俗に言う高齢者向きの機能の少ないものですが、私にとってはこの少ない機能でも使いこなせず持て余し気味です。その機能の中に何故か万歩計機能があって、それが毎日記録されるようになっているのです。これも私の大まかな目安なのですが、その万歩計機能を一週間くらいにごとにチェックし、少ない週は少し暇があると歩いて歩数を補正するようにしているのです。


 昨日もそのことが気になって万歩計を確認すると、雨の日が続いたり原稿書きで部屋に閉じこもっていたりしたため、歩数不足が目立ちました。そこで夕食前に裏山の山道を歩くことにしました。昨日までの雨で山道はしっとりしていました。また昨日は強風波浪注意報が発令されて、この時期には珍しい北東の冷たい風が吹き、その風が顔や手足の温度を奪い、かなり冷たく感じました。それでも急峻な山道を少し急ぎ足で歩くと、体がポカポカして、10分も歩くと少し汗ばむほど温かくなってきました。それでも万歩計は伸びないので少し遠いと思うところまで足を伸ばしました。お陰さまで万歩計は1万3千歩を記録することが出来大満足でした。

 家に帰ると仕事から帰った妻が食事の用意を終えていました。昨晩は鳥取赤崎の友人である中井さんからいただいた手作りトマトケチャップを利用したスパゲッティや、北海道から送られてきたキタアカリという黄色いジャガイモの塩茹でなどに加え、焼き魚やブロッコリーなどが食卓に並び、さしたご馳走ではないものの私にとっては大いに満足の行く食事でした。

 散歩がてらのウォーキングで汗をかいた後の食事は空腹ゆえに美味しく感じました。最近は出来るだけ「間食はしない」「夕食門限は9時まで」を守っているため食欲も旺盛で、それでいて体重も維持しているのです。酒タバコもも飲まず、ましてや肉や甘いものも食べない私にとって感触と食事門限は、十分過ぎるほどの健康管理なのです。これにウォーキングが加われば鬼に金棒かも知れません。

 昨夕の少し多目のウォーキングが功を奏したのか、昨晩は熟睡することが出来ました。健康維持は入力と出力のバランスです。飲食を入力すればそれに見合った運動による出力をしなければ体に蓄積することは当然のことです。これからもそのバランスに気をつけて、あること言う人間の基本をもう一度かみ締めて暮らしたいと思っています。


  「携帯の 万歩計見る こりゃいかん 歩く歩数の 記録びっくり」

  「一歩前 一歩余分に もう一歩 万歩計見て さらに一歩と」

  「そういえば 椅子と車が 多過ぎる 基本は歩く 肝に銘じて」

  「歩いた日 腹空き食事 美味しくて 熟睡目覚め すっきり元気」  

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shin-1さんの日記

○座敷にかき餅を干しました

 昨年の秋、友人の西岡栄一さんから「もち米を作ったから食べて下さい」と、何と30キロ2袋、つまり一俵ものもち米をいただきました。そのもち米を2回に分けて精米し、正月と人間牧場にかまど小屋ができたことを記念して開いたかまど開きのイベントに使わせてもらいました。後の残りを正月餅の切れた頃に一回使って餅をつき、そして旧正月に昔懐かしいか気持ちを作りました。ついた、作ったといっても別に私たち夫婦が手を汚した訳ではなく、生活改善運動に取り組んでいる妻の友人が2回とも「ついで」といって加工してくれたのです。

 お陰様で正月からこれまで、朝食はパンを食べずお餅を2個ずつオーブンで焼いて食べているのです。餅は腹持ちがよいのか妻は少し餅太りのような気がしています。

 私たちが子どもの頃には旧正月ともなると、一族が本家であるわが家に集まり、朝から晩まで餅をついていました。旧正月頃の寒の水に餅をつけると長持ちするという言い伝えを守っての作業だったようですが、餅と一緒にかき餅も沢山作りました。おやつとて余りなかった時代ですからこのかき餅はとびっきり上等なおやつで、砂糖の入ったかき餅をばあちゃんがもったいぶって、火鉢の上で箸で引き伸ばすと倍くらいな大きさになり、何枚も焼いてもらって食べたことを覚えているのです。

 その後食油が普及してこのかき餅は油で揚げるとまた格別な味に変身しました。油で揚げるのは母の仕事で祖母は死ぬ間際まで練炭火鉢で焼いて姑と嫁の時代感覚の違いを見せ付けていました。


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(座敷に干したかき餅)
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 妻も私と同じように古い時代の人間ですから、「今年は西岡さんから貰ったもち米でかき餅を作ろう」と相談がまとまり、妻の友達がその夢を叶えてくれました。

 一昨日まるでトランプのように小切にしたかき餅がモロブタに入れられて帰ってきました。一日だけ蒸して落ち着かせ、粗風に当てると割れるので、座敷を掃除して新聞紙を敷き、工夫して一枚一愛丁寧に重ね並べました。予想以上に多いかき餅に一人で悪戦苦闘しましたが何とか干すことができました。

 子どもの頃は親の目を盗んで半乾きのかき餅を火鉢で焼いて食べたことを思い出しましたが、半乾きのかき餅は中に空気が入ってまるで枕のように膨れるのがこれまたたまらない至福でした。


  「かき餅を 座敷に並べ 干しながら 幼な思い出 頭に浮かぶ」

  「かき餅を 火鉢で焼いて くれた祖母 いつの間にやら その歳になる」

  「かき餅が 乾けば仏壇 供えよう 俺もこうして 元気でいると」

  「かき餅は 貧乏ゆえの 宝物 伝えたいけど 伝えられない」

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shin-1さんの日記

○旧正月に年賀状が届きました

 昨日と一昨日、相次いで2枚の年賀状が届きました。一枚は観光カリスマ百選の一人である、山梨県清里の船木上次さんから、もう一枚は年輪塾々頭の清水和繁さんからでした。日本全国が訳の分からぬバレンタインデーなどで馬鹿騒ぎしているこの時期に、季節はずれの年賀状を受け取れば、誰だって「あれっ、何で今頃?」と首をかしげるのでしょうが、古い時代の人間の私にとっては、また年輪塾ネットで清水塾頭のメールを読んでいる私としては、一休さんではありませんが頭に「ピーン」ときたのです。

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 清水さんの言うように新暦で暮らしている現代人にとっては、随分慣れたとは言うものの、冬が始まったばかりなのに新春という言葉が使われたりして、何処か違和感のようなものを感じていました。日本人は今流の言葉で言うとファジー(あいまいと訳すべきか)型人類で、キリスト教でもないのに教会で結婚式を挙げたりしても別に気にもならない人種なのです。

 テレビが普及して、立春だの秋分だの冬至だのと旧暦の24節気を行事を交えて紹介していますが、新暦で育った世代が主流を占めるようになった現代では、旧暦を語る人も少なくなって肩身の狭い思いをしています。


 私たちが子どものころは戦後間もないこともあって、何故か新正月と旧正月が2回あって、わが家が漁家だったため、正月が2回あることを不思議に思っていました。また前年にお葬式を出した家では新正月をせず旧正月をしていたような記憶もあるのです。

 潮の満ち引きが漁の良し悪しを決める漁家にとって旧暦は、今も暮らしにしっかりと息づいていて、親から子どもに遺し伝える言い伝えやことわざもまだまだ沢山残っています。概して島や半島それに漁家などがかなり遅くまで旧暦の正月を祝う風習が残っていたようです。今頃は新正月でさえ門松やしめ縄飾りをしなくなった日本人が主流を占めるようになったのですから、旧正月の思い出など昔話になっているようです。


 今年の旧正月元旦は2月14日でした。親父が家庭菜園の主導権を持つわが家では、この頃になると農作業の春の準備が始まります。ジャガイモの作付けはこのところの暖冬陽気に誘われて既に終わりましたが、伊予路に春を呼ぶ椿さんは今週末の20日から始まるようなので、いよいよ土起こしがスタートとするのです。

 「梅は咲いたか」、「はい咲きました」。「桜はまだかいな」「はい、桜の花はまだのようです」。季節とともに暮らし、季節を楽しむのであれば今一度旧暦を見直して見る価値はありそうです。清水和繁さんあんたは偉い。


  「時ならぬ バレンタインデーに 年賀状 届いてハッと われに返りぬ」

  「そういえば 日本の暮らし 狂ってる 旧暦見れば 一目瞭然」

  「暦など 何処吹く風の 日本人 暑さ寒さも 知らぬようでは」

  「季節愛で 季節おののき 生きたいと 旧暦学ぶ この歳なって」


 

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shin-1さんの日記

○専門学校山本学園の来年度入学学生への講演会に招かれて

 昨日は松山市にある山本学園という専門学校の入学説明会があって、その記念講演をして欲しいと頼まれ出かけて行きました。地元愛媛大学へ教えに行っているものの専門学校は門外なのでどんな学校なのか興味もあって、講演依頼に添付している学校のホームページにアクセスして一通り目を通させてもらいました。山本学園といえば私の町出身の村井先生がいらっしゃる所なのでよく知っていますが、63年の歴史を持つこの学校も少子化の洗礼を受けつつあるようす。いい学生を集めるためのさまざまな仕掛けをしているようで、「新しい」とか、「生まれ変わる」とかいう言葉が見え隠れして、学園内部の改革や変革を感じました。

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(午前中)

 学校は松山市のど真ん中にあってとても便利です。近くの駐車場に車を止め、同行した妻と別れて学校へは30分前に到着しました。受付入り口は学生たちで多少混雑していましたが、元県教育長の高橋先生が学園長を務めているらしく、受付で笑顔の握手をさせてもらいました。

 この日私の役目は開会行事が30分間あった後に、午前と午後それぞれ50分筒2回講演するのです。午前中は中予の学生、午後は東予・南予の来年度入学する予定の学生にお話をするのです。この日の私が決めた演題は「新しい発想で生きる」、~学生たちへのメッセージ~でした。

 講演時間としては少し短めなので何を話そうか迷いながら、終始つとめて楽しい話をしました。学生の後ろや横には保護者や先生たちも多数いましたが、あくまでも学生たちを基本に考えてたつもりですが、先生たちは午前と午後の二度も同じ話を聞かせてはならないと、多少変化をつけてお話しました。

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(午後の講演会)

 それにしても昼食をはさんで2時間余り置いた午前と午後の一日2回の講演は少々疲れました。そもそも私に講演の依頼をいただいたのは副校長の小池先生でした。先生は裁判所の調停委員もされていて、昨年12月に行われた調停協会での私の講演を聴かれてのご指名だったようです。

 小池先生とともにお世話いただいた進路指導室長さんとも親しくお話をさせてもらいましたが、2回目の講演が終わったとき学生の代表から花束までいただいて見送られました。汗顔のいたりでした。

 ところで午前中挨拶に立った高橋学園長さんが面白い話をされました。若と苦という漢字についてです。若は草冠に右と書きます。一方苦は草冠に古と書くのですが、高橋先生の言うように確かにこの二つの漢字は似ているのです。右が何故若いのかは右総代などと呼んで順番が一番前なので若いのかも知れません。また古は古いから若くなく、苦しいのかも知れないと勝手に解釈したりしましたが、いいお話を伺いました。


  「学生と 保護者に向かい 話しする みんな熱心 眠ることなく」

  「花束を 頂き会場 後にする 汗顔しきり 嬉し恥ずかし」

  「バレンタイン そうか今日は 義理チョコか 何個かもらい 悪い気もせず」

  「そういえば 何処か似ている 若と苦は 私若松 いい方解釈」 


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○楽しい表情の大栄集落の案山子たち

 伊予市双海町から隣の町へ抜けるのには、国道378号を大洲市長浜へ向かう方法と伊予市中心部ヘ向かう方法、それに下灘から内子と大洲市柳沢、上灘から中山へ抜ける方法があります。交通量が圧倒的に多いのはやはり国道378号で、佐田岬半島の付け根である八幡浜市保内のごぜ峠の長い長いトンネルが出来てからは一気に交通量が増して、車の途切れることがないほどです。

一昨日の夜私は、旧広田村へ行くため自宅から翠小学校の前を通って中山へ抜ける道を選んで走りました。夕暮れ間近な大栄集落を走っていると、道沿いに何やら怪しげな人影が沢山見えました。車のウインドウ越しなのでよく分かりませんでしたがさらに走って急カーブに差し掛かるとその数は数え切れないほどでした。

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 家を出るのが孫の守で遅くなり、先を急ぐため時間は取れないものの気になって、車を止めて見るとどうやら案山子のようでした。「ああこれが噂の大栄の案山子か」と思いながら、大きなカーブの路側帯に車を止め、デジカメを取り出して写真を撮ろうと思いました。丁度犬を連れ散歩している顔見知りのおじさんに出くわしました。「おや、誰かと思えば若松さんじゃあないですか。お珍しい」と立ち話が始まりました。田舎のおじさんやおばさんは話す速度もゆったりとしていて、このままだと時間に遅れそうなので、「すみません。先を急いでいるものですから写真だけ撮らせて下さい」と言葉をさえぎり、何枚か写真に収めました。

 案山子は大小さまざまですが殆どが等身大のためリアルな表現でした。案山子は結婚式の若いカップルもあったり、バイキンマンやアンパンマンなど子どもに人気のキャラクターなども勢ぞろいしていて見てるだけで思わず「フッ」と噴出したり、中には誰かに表情が似ているものもありました。

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 この大栄集落も何年か前の古い資料なのですが、確か人口が90人余り、個数は34戸で高齢化率は50パーセントに迫る準限界集落なのです。つまり10年後には確実に限界集落になる運命をたどっているのです。そかしそうした暗い社会を払拭するため、案山子で町おこしをしている地域を見学に行って、案山子で町おこしをしようと有志が思い立ったようです。

 もし私だったらこの案山子村をどう料理するか妙案を考えました。この案山子それぞれに俳句か川柳を募集して小さな看板を立ててはいかがでしょう。例えば結婚式を表現した案山子であれば、今の世の中を痛烈に風刺して未知行く人の目と足を奪うのです。私流の笑売啖呵ならさしずめ、「持参金 ならぬ持参田 如何です? 地味婚なれど 俺ら幸せ」と書けば足を止めて読んでくれ、「なるほどなあ」と思ってくれるのです。


 私は田舎に住んでいます。確かに人の数も少ない地域なのですが、それでも裏を返せば水は美味し、空気も美味い、ましてや海の幸山の幸にも恵まれ、また人情もこの上なく温かいのです。今は金額こそ少ないものの年金もそれなりにいただくし、そしてたまに松山や東京などの都会にだって行けるのですから、これ以上の幸せはないのです。殆どの人が田舎はつまらないと嘆いて暮らしていますが、いくら嘆いても人は誰も助けてくれないのですから、日々の暮らしをこのようにもっと楽しめばいいと思うのです。

 高杉晋作が「おもしろき こともなきよを おもしろく すみなすものは こころなりけり」という辞世の句を残しています。まさにこの句のとおりで心がけ次第で楽しく生きれるのです。願わくばこれからも健康でみんなと楽しく、そして地域社会になにがしかのお返しをしながら生きて行きたいと思っています。


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  「もし案山子 住民登録 したならば この地は一変 過疎は解消」

  「川柳か 笑売啖呵 募集して 看板立てば 話題沸騰」

  「面白き こともないけど やり方で 田舎暮らしは 一変します」

  「田舎住み 贅沢三昧 暮らしてる 欲や不満は 捨ててください」 

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shin-1さんの日記

○会費千円で呑みに来ませんか

 「会費千円で呑みに来ませんか」というお誘いが友人の玉井さんからありました。「私はこの週末孫尚樹のお守りを頼まれていて行けない」と断りましたが、飲み会の目的が広田村あかりの宿の運営を3年間請け負った赤松さんという女性を囲む会だというので、娘に少し早く来てもらって行くことにしました。赤松さんは数日前玉井さんが伴ってわが家の煙会所へ来て、「大人の学校を作りたい」という夢を聞いていたのでそのことが気になってもいたのです。まあ早い話が玉井さんの顔を立てなければならないだけの話なのですが、わが家から山道を通って約1時間ですからかなり遠い道のりなので、妻は危ないからよした方がいいと言いました。

 合併前は同じ伊予郡だったこともあり、また役所に勤めていたこともあって頻繁に出かけていた見慣れた山道もすっかりご無沙汰で、うっかり忘れるほどでした。

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 行きは中山~内子小田~広田も道を、帰りは少しだけ砥部寄りの広田~中山~双海の道を選んで往復しました。あかりの宿は広田の道の駅仙の里の直ぐ上にありました。一度行ったきりなので多少不安でしたが記憶をたどり少し遅れの6時20分ころに到着しました。既に宴たけなわで20ほどのにわかしつらえの椅子は満席でした。玉井さんが私の席を作ってくれ、短めの自己紹介をして宴会に加わりました。会費千円ですからそんなにご馳走はなく無造作に鍋に箸を入れひとまず腹ごしらえをしたところで、討論会のようなものが顔見知りの木村さんと赤松さんの対談のような形で始まりました。

 私はほんの少し顔を出したらあくる日が早いので引き上げようと思っていたものの、議論は熱を帯び結局延々3時間も、いつの間にかホワイトボードに記号のような汚い文字まで書いて討論の輪の中にいる自分を発見し、ハッとわれに返りりましたが後の祭りでした。

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 彼女はこのあかりの宿を砥部町から指定管理者制度に応募して受託して3年間経営したそうです。それほど知名度名ある施設でもないので運営は悪戦苦闘だったと推察しますが、委託期間が終わり再応募したものの選に漏れ去ることになったそうですが、彼女の頭には次の起業構想が芽生えていて、ある意もその説明会のような雰囲気でした。彼女とは玉井さんが事務局を勤める宇和島出身者で作るがいな会で初めて出会っただけですが、南予出身者らしく熱いものを持っていて、昨日の夜もその想いを沢山聞きました。

 しかし彼女の夢は参加した人たちが危惧するように、まだまだ起業するに値する構想には程遠く少し危ない面もあるようです。でもそれを押して一歩踏み出すのが若者の特権なのかも知れません。今後波風や山谷もあるでしょうが、何とか夢をかなえさせてあげたいような気持ちで夜道を帰ってきました。

 「会費千円で呑みに来ませんか」という甘い言葉の誘惑に負けたばっかりに・・・・・。


  「一時間 かけて山道 走り行く 呑み会じゃなく 千円議論」

  「夢語る 危ないけれど その夢に 乗りたい気分 いつの間にやら」

  「夜の道 右か左か 迷い道 カーナビさえも 行く手示さず」

  「えっ内子 えっ砥部ここは 何処だっけ 合併ゆえに 頭混乱」

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shin-1さんの日記

○人間牧場水平線の家の大掃除

 このところ冬というより春先のようなしとしと雨が頻繁に降り、人間牧場へ行く機会を逸していましたが、塾生浜田さんの誘いもあって昨日は前日からわが家へ泊まりに来ている孫を誘い、朝から田舎のオープンカーで人間牧場へ行きました。例によって浜田さんは予讃線海岸周りの松山発気動車で下灘駅へ10時前に到着しました。昨日は親父も久しぶりの上天気に誘われて、下灘の診療所へ自転車で診察に出かけたようで、途中閏住菜の花畑の近くにある妹の店「くじら」でばったり出会いました。親父は自分では余り食べないのですがいつもこの店で、たこ焼きや大判焼きを買って帰ってみんなに配ってくれるのです。昨日も例によって大判焼きを買い求め、人間牧場へ行く私に熱々の大判焼きを5個もくれました。今年92歳になろうとしているのにこうして元気に自転車で、我が家から7キロも離れている診療所へ診察に行くのですから驚きです。「危ないから止めた方がいい」と注意をしますが一向に聞く気配もないので、意の向くままにしているのです。

 矢野上さん宅で推薦の花代を支払ったり、三井さんのお墓参りをする浜田さんを、矢野上敬子さんと雑談しながら待ち人間牧場へ到着しました。昨日の人間牧場は風もなく、牧場梅林の梅の花も満開を迎えていました。期待しているミツバチは残念ながら飛び交う姿を見ることは出来ませんでしたが、メジロが沢山鳴きながら梅林を遊び場にして飛び交っていました。

 孫尚樹には少しの注意を言い聞かせて早速作業に取り掛かりました。この日の作業は水平線の家の掃除と床板にワックスを塗る作業です。浜田さんとはコンビを組みもう何度もこの作業をしているので、勝手知ったる作業と言わんばかりの手筈で、全ての道具類をウッドデッキに出してワックスを塗り始めました。孫尚樹がチョロチョロ足手まといなことをするのでしかったりなだめたりの作業です。

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 作業中今治市宮窪の村上利雄さんが同行二人とともに何のアポもなくやって来ました。村上さんとは社会教育時代からの親友ですが、今年の年賀状に「近々人間牧場を訪ねたい」旨のメモがあったので記憶はしていましたが、さすが行動派の人間だけはあります。村上さんも私と相前後して役所を定年退職したようで、その後はふるさとで地域づくりをやっているようです。

 ワックス掛けの作業を浜田さんに任せ、ロケ風呂やツリーハウスを案内しましたが、雄大な海の見える眺望や施設に痛く感激されたようで、再開を約束して帰って行きました。その間ワックス掛け作業は終わっていて、少しの間ワックスが乾くまで風を入れ、荷物を元に戻して昼が過ぎたので国道沿いのラーメン屋で昼食をとりました。孫尚樹のリクエストなので大喜びでした。

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(本村の菜の花畑にて)
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(閏住の菜の花畑にて)

 帰りにラーメン屋近くの本村菜の花畑と、くじら近くの閏住菜の花畑で写真を撮りました。春はまだ浅いというのにどちらの菜の花畑も既に黄色い絨毯を敷き詰めたような彩で、目と心を奪われました。元はといえば私がエプロン会議の人たちと始めた花いっぱい運動なので、今では地元の人たちが受け継いで熱心に世話をしてくれている姿には頭が下がる思いです。来月にはJRと地元が共催で菜の花ウォークや菜の花祭りが行われ大勢の人がやって来ることでしょう。

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  「海沿いに 一足早い 春が来て 何処か浮き浮き カメラに収む」

  「おじいちゃん この花きれい 何の花 これが菜の花 一休みたい」

  「冬名残り 掃除機使い 掃除する いよいよシーズン 来週友が」

  「幸せを 感じる黄色 愛でながら 昔騒動 思い出しつつ」


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shin-1さんの日記

○孫はまるで湯たんぽです。

 昨晩は久しぶりに泊まりにやって来た孫尚樹を抱えて二人で同じ布団に寝ました。「寝るのは男同士」などと威張って床に就きましたが、松山からわが家までずっと車の中で寝ていたためか、あるいは一人で小さな旅に出たための興奮か、布団に入っても中々寝付かれないようで、結局は9時半に布団に入ったものの1時間も眠ることが出来ず、仕事が残っている私は妻にバトンタッチをしました。祖母と母は違うものの同じようなもので安心したのか、すぐに深い眠りに入ったようです。

 私も仕事を終え孫の布団に入って妻と三人川の字になって寝ました。これが年齢の差とでもいうのでしょうか。妻や私は寒いこの時期なので時間が経てば経つほど布団の下を目指して潜り込むのに、孫は上へ上へと上がって行くのです。私はその都度孫を布団の中へ引きずり込み、風を引かないように気をつけるのですが、やはり体が燃えるのか、気がつけば手足も体も布団を跳ね除けて冷たくなるような雰囲気でした。

 お陰で昨晩私は浅い眠りに終始して、今朝も毎日と同じように朝4時に起床したものの、少し寝不足模様のようです。でも孫はまるで湯たんぽのようでとても温かく眠ることが出来ました。

 今日は妻が仕事なので一日中私が孫の子守をします。塾生の浜田さんが人間牧場へボランティア活動にやって来るので、孫を連れて掃除に行こうと思っていますが、寝る前そのことを孫に告げると、「男の約束」などと覚えたての日本語で喋ってくれました。

 2歳の孫は来年度から娘が復職するため幼稚園に通う予定です。オムツも取れ、言葉も随分はっきりしてきたので安心して集団生活に送り出せそうです。入園するまでの2月・3月は間もなく暖かくなるでしょうから、暇を見つけて連れ出し、人間牧場の自然に触れさせてやりたいと思っています。

  「孫上へ 俺らロートル 下下へ 布団はみ出す 孫と添い寝す」

  「湯たんぽを 抱いているよう 孫と寝る これが幸せ 言うのでしょうか」

  「ヤッターマン なった気取りの 孫相手 俺は怪獣 負けたふりする」

  「今日だけは 怪我させないで 妻が言う 分かった分かった 同調言葉」 

 

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shin-1さんの日記

○雪化粧の翠小学校の写真

 早いもので2月も中旬になりました。友人の市役所支所に勤める大森さんからいただいたカレンダーの、2月のとっておきの写真は雪景色の翠小学校です。翠小学校は「現役木造校舎では愛媛県下で最も古い学校」などと形容され、すっかり有名になっていますが、この写真を撮ってから後に環境省指定のエコ改修が始まって、学校本館の外観こそ余り変わらないものの、周りの風景は一変しており、特に雪化粧した風景はもう二度と撮れない貴重な写真となりました。

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 写真はこのように僅か4~5年前でも、貴重な一枚になることだってあるのです。郷土史を作るとき、その中心メンバーになった元役場職員の中嶋さんは常々このことを私たちに教えてくれました。確かに中嶋さんが言うように「今を記録する」ことは当たり前のことゆえ誰もが忘れています。その当たり前な今を記録しておかないから、歴史には空白が生じるのです。

 例えばわが家でも、平凡ゆえに今を記録することなどしないのです。それでも祖父母や母などの写真や生き様はこの現代にありながら殆ど残っていないのです。多分今生きている親父の生き様も当たり前ゆえ記録に残すことはないでしょう。親父は田舎の元猟師で何の変哲も意味もないのでしょうが、戦争体験や漁業体験などはもう語る人が殆どいないだけに、とても貴重な生き証人なのです。でも平凡ゆえに話すことも話を聞くことも、ましてやそれを記録することも、私はしていないのです。僅かに家庭菜園で働く親父などを記録しているものの、気がつけば記憶をよみがえらせて語ることさえ出来ない年齢になっているのです。


 今は情報化社会となって、古い写真や記録を劣化しないように自分で簡単にデジタル化出来る夢のような時代になりました。私のデジカメやプリンターに内臓されたスキャナーを使えば、下手糞ながら記録として残すことだって出来るのです。退職してから5年近くがあっという間に過ぎました。私が何気なく撮った写真やデジタル処理したデーターは半端な数ではないのです。しかしこれらの写真もこのままほおっておくとまさにゴミと化すでしょう。何年か前、私の友人の青木さんが亡くなりました。彼はまだデジカメなど貴重な時代だったため、一眼レフのカメラで膨大な写真を残してあの世に旅立ちました。残念ながらそれらの貴重な写真は暇の少ない周りの人たちには重過ぎて、結局生かし方も見つからないままダンボールの中で眠っているようです。

 私もやはりこのままだと青木さんの二の舞になりそうです。出来ることならその余生をデーター化して残すことを考えなければ、ゴミとなってしまうのです。青木さんの貴重な資料に比べれば私の写真など取るに足らないものでしょうが、民俗学者宮本常一さんの写真だって時を経たからこそ貴重なのです。

 「今」は一瞬にして過去となります。「今が過去になる前に」しっかりと記録して記憶に残しておかなければなりません。やらねばならないことがいっぱいあって、うかうか毎日を過ごすことは出来ないと、今朝もブログを書きながら思いました。


  「懐かしや たった数年 前なのに 友撮る写真 セピア色見え」

  「俺にしか 出来ないことは 何だろう 記録すること それをデジタル」

  「大分の 友人私を 記録する 上前はねる 友人おりて」

  「時流れ わが人生の アルバムも 何処へ行ったか 押入れ隅に」

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shin-1さんの日記

○二ヶ月に一回の健康診断

 今日は2ヶ月に1回の健康診断の日です。朝食を抜き朝7時半に家を出ました。このところの雨模様の日々が続いたためか、心なし道路の交通量が少なく感じられらる朝でした。8時10分に県立中央病院に到着し、機械受付を済ませて血液検査場へ向かいました。私の受付番号が44番でしたから、既に43人の人が長い列を作っていました。私は注射が大の苦手なため、出来ることなら注射針は刺さないほうがいいのですが、検査の正確さを期すためにはどうしても血液検査が必要なので毎回血液検査に応じているのです。

 今日の血液採取をしてくれた看護師さんは若い女性だったため、余り痛く感じませんでしたが、注射針を抜いてガーゼをテープで貼り付けたのを10分ばかりして剥がすと、少し多め血液が漏れていて、注射の技術が新米だったことを印象付けました。

 やがて10診という看板の前のロビーのソファーに腰掛けて順番を待っていたら、受診する患者さんの中には顔見知りや双海町出身の人もいて、「何処が悪いの」とか「珍しい人にあった」などと声をかけてきて、その都度まるで言い訳のように「実は2ヶ月に一回の健康診断で、胆のうを取ってからもう十年近くになります」説明をしなければならないのです。持参した本を読みながら順番を待っていると、「若松進一様、中待ちへお入り下さい」と呼び込まれました。そのうち診察室へ案内され、お医者さんとやり取りを交わしました。

 「血液検査の結果は良好です」「次回は半年に一度のエコー検査をしますので、10時に朝食を食べずに来てください」「最近変わったことはありませんか」「血圧は正常です」と、いつもどおりの会話をして僅か5分の診察で終わりました。

 受付で清算手続きを済ませ、銀行出張の会計で2680円を支払い病院を出ましたが、病院の診察もスムーズで、検査のため注射針で採血すること以外は苦にすることもなく、診察の結果に満足して病院の駐車場を出ました。

 午後1時から松山工業高校の100周年記念事業期成会の最後の会合しゅっせきを予定しているため、少し時間がるのですっかりご無沙汰しているえひめ地域政策研究センターへ足を運びました。松本さんや所長さんとお茶を飲みながらお話をしました。センターも長年住み慣れたこのビルから愛媛県商工会連合会のビルに移るそうで、道後から駅前そして現在の場所へと移ったセンターですが、私にとってはある意味の居場所だっただけにひとつの時代の流れを感じさせました。

 100周年事業の顧問をしていて、これまで8回ばかり会合に出席し、15に上る記念事業を無事終え、約5百万円の黒字決算で今日の最終会合はシャンシャン手拍子で終わることが出来てホッとしました。息子三人が松山工業高校へ在籍したため、PTA会長を6年間の長きに渡って務め、その後もまさご会の会長や学校評議員など20年近くも学校と関わりましたが、ここでもひとつの時代を無事終えそうなのです。

 親友浜田さんと高島屋の地下でソフトクリームを食べながら雑談し、明日は孫朋樹の参観日のため、孫尚樹を今晩から預からなければならないので娘のマンションへ向かいました。途中伊予市の谷岡さんのお店へご機嫌伺いに立ち寄り、バレンタインデーのチョコレートまでいただきました。義理チョコだと御所人の前で笑って手渡されましたが、義理チョコにせよ嬉しいプレゼントににんまりして家路を急ぎました。

 今晩は孫と一緒に遊び、孫と一緒に風呂にいり、孫と一緒に寝ます。孫はいいものです。


  「何処悪い? 病院ロビー 聞く人に 聞かれる度に 同じ説明」

  「またひとつ 時代の変化 感じつつ 荷物を卸す 旅のつれづれ」

  「義理チョコを 主人の前で 手渡され 少し恥ずかし 初な?私は」

  「孫相手 爺ちゃんぶりを 発揮する 寝顔にそっと 顔を近づけ」 

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