shin-1さんの日記

○ミツバチの巣箱の中は

 昨日は採蜜を終えて一段落したところで、井上師匠とミツバチ談義に花を咲かせながら、他の巣箱を見て回りました。種蜂を入れて2年前に人間牧場へ興し入れしてきた、一番元祖の巣箱は井上師匠から借り受けている古い巣箱です。今年は自然分蜂して入居しましたが、残念なことに余り元気がないのです。今年も越冬して種蜂保存くらいにしか思っていませんでしたが、掃除のためひっくり返してみると、黄色い巣がかなり成長しているように見えましたが、予断を許さないようです。

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(1号巣箱の点検をしてくれている井上師匠)

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(1号箱の様子)

 今年8合の採蜜をした2号箱は、その後群れに逃げられましたが、私が柿の木に群がった群れを米袋に入れて無理やり連れ戻したものです。何とか居座って元気に活動しているようです。7月30日に細密してからまだ1ヶ月しか経っていないので、これから秋の働きに期待したいと思っています。

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(2号箱の様子)

 さて重箱だった3号巣箱も、馬路村式巣箱に変えて7月30日に、逃げたミツバチの群れをヤマモモの木の上に登って巣箱に引き戻したものですが、どうにか収まっているようです。このすばこもこれから成長するだろうと思われるので1号、2号箱とともに越冬して種蜂となり、来年に備えて欲しいと願っています。

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(3号箱の様子)

 いずれにしても昨年と違って、人間牧場の4つの巣箱は全て種蜂がいるので、来年は大いに期待が持てそうです。はてさて家の裏の巣箱も決断の時を迎えています。このところの暑さのせいなのか、はたまた巣箱の中が窮屈になったのか、巣箱の前に大量のミツバチが羽根を休めてたむろしているのです。4月30日に設置し間もなく入居したものなので、採蜜も考えたいと密かに策を練っている今日この頃です。

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(5号巣箱の今朝の様子、ミツバチが沢山入り口でたむろしていました)

  「少しずつ 少しずつだが 進化して ミツバチ狂い 当分続く」

  「ミツバチの 世界は未だ 知らぬこと 多過ぎ学び ついて行けない」

  「明日の朝 採れた蜂蜜 パンに塗り 試食洒落込む 喉が鳴るわい」

  「後一つ 巣箱採蜜 する予定 秘策練りつつ 刺されぬように」

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○順調だった採蜜作業

 このところ終わりに近づいた夏の総決算を急いでいます。採蜜作業もその一つで、5個設置しているミツバチの巣箱も順調に入居していますが、4号巣箱と名前をつけているツリーハウス近くの巣箱の様子が、随分良くなったようなので、ミツバチ飼育の師匠である西予市野村町の井上登さんの協力を得て、昨日決行しました。

 井上さんは採蜜作業の七つ道具を軽四トラックに積んで9時にはもう人間牧場へ到着していました。私は前夜広島県福山市からの帰りが遅く、加えて早朝に鱧の下ごしらえを妻から頼まれて手間取ったため多少遅れ、それでも待ち合わせ時間の9時には人間牧場へ行ったものの、師匠に先を越されてしまいました。

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(巣箱を二つ引っ付けて斜めにした採蜜作業風景)

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(巣箱の中に進入していたスズメバチの雌)

 採蜜作業には色々な方法がありますが、井上師匠と私が選んだ方法は、巣箱を横に並べて三つ葉位置を追い込む方法です。昨年はござの袋に追い込む方法でやりましたが、蜂蜜は取れたもののものの見事に失敗をしてに、蜂の群れを逃がしてしまいました。

 井上師匠の指導の下、巣箱を作業のしやすいウッドデッキまで運び、別の巣箱を連結して斜めにしてミツバチを暗い方へ追い込む作戦です。巣箱の天板の釘を抜いて外しました。そしてミツバチの巣をテグスで天板から切り取り巣箱を叩くと、ミツバチは驚いてブンブンと移動し始めました。適期とばかりに巣を巣箱から取り出してプラスチック容器に取り出しました。巣は予想通りかなり蜜が溜まっていて、2升くらいは採れるのではないかと、笑顔で話しました。

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(天板を外すと中からたっぷりの蜜が出てきました)

 結局この日の作業では、天板を外して採蜜をしたためミツバチの本隊は移動せず箱の側面に群れて、天板を再び釘で止め元の場所に戻した結果本体を逃がすこともなく作業を終えました。思わぬ作業の順調さに多少驚きながらも10時30分には全ての作業を終え井上師匠は帰って行きました。

 私も収穫した巣を入れたポリ容器を積んで山を降りました。さあそれから急いで流下式採蜜道具を倉庫から取り出して手入れをして際蜜です。夏の暑い日差しが照りつける家の庭で汗をかきながらポリ容器の蜂蜜をたっぷり含んだ巣を移し替えました。ミツバチが何匹か犠牲になりましたが、私も薄い手袋をしていたものの、人差し指と小指の2箇所も不用意にも刺されてしまいました。今朝は刺された左手が赤く腫れ上がり、少し熱があるようですが幸いなことに左手だったために、パソコン操作や食事には支障がなく不幸中の幸いだったようです。

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(威力を発揮する手づくりの流下式採蜜器)

 流下式採蜜器は順調に作動し、今朝の時点で一升瓶に2本、つまり2升も蜂蜜を採取することができました。多分今日の午前中に残りが落ちる予定なのでまあ先日の八合と合わせると3升となるようで、昨年よりも1升少ないのですが、家の裏に設置したのを採蜜すると軽く目標どおりの成果を得られるようでホッとしています。

 それにしてもよくミツバチに刺されます。今年も2回やられました。免疫が落ちることを心配していますが、自戒は刺されないようにしようと心に誓いました。

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(ミツバチに刺され赤く腫れ上がった左手の人差し指と小指)

  「採蜜は 全て順調 思いきや 蜂に刺されて 後味悪く」

  「今回も 二升蜂蜜 取れました 今朝は取れたて 食パン塗って」

  「少しずつ 上達してる 養蜂も 奥が深くて 難問次々」

  「お師匠が いるからできる ひ弱さに 納得しつつ 採蜜学ぶ」


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○トコロ天の試作

 今年の夏の収穫は天草を手に入れたことです。先日黒磯海岸を歩くイベントに参加した時、海岸に打ち上がっている天草らしき白い海草を見つけたのがきっかけです。早速別の日に背負子を持ってたった一人で出かけました。黒磯海岸までは干潮の時でないと歩けないため、大潮を選んで出かけました。その日も暑い一日でしたが、綺麗な淡草だけを拾い集めて家に持ち帰りました。そして発泡スチロールに水をため、他の海草やゴミを選り出して純粋な天草だけにする作業を何度か繰り返しました。今の時期は直射日光が強いため、朝水を一杯含んだ天草も夕方になるとカラカラに乾き、まるで白髪のようになるのです。

 朝晩暇を見つけてその作業を繰り返した結果、天草は晒されてさらに白くなり、二日前もう潮時とばかりによく乾燥させた天草を大きなナイロンの袋に入れて保存できる状態にしました。

 妻に頼んで一昨日の夜、この天草を使ってトコロ天の試作をやりました。まず天草の分量を測り、おお大きな鍋の中に天草の分量に見合った水と天草を入れ、ガスコンロに火をつけました。間もなく沸騰しましたが、煮こぼれないように火を弱くして10分間かき混ぜながら煮ました。そして食酢を適量鍋の中に入れると、天草からゼリー状のエキスが出てくるのです。そこで火を止め、裏ごし用も木綿のふくろを用意して、平タッパーの中で絞るのですが、これがまた熱いため最後のエキスまでは絞れませんでした。

 木綿の袋には搾りかすが残りますが、それを捨てて木綿袋を洗います。平タッパーに入れたエキスはそのまま固まるまでその場で自然に冷やします。やがて余熱が取れたら切り分けて冷蔵庫で冷やすのです。さあこれでところ天の出来上がりです。

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 冷蔵庫で冷やされたトコロ天はトコロ天つき器という木の箱に入るように切って箱の中に入れ、お椀の上に押し出すのです。その上にだし汁かポン酢をかけ、生姜かからしを添えて食べますが、夏の定番風物ともいえるトコロ天は癖になるほど美味しいのです。

 子どもの頃にはこんなものの何処が美味しいのだろうと思っていましたが、この歳になると懐かしさもあって、何よりのご馳走なのです。試作のとおころ天を食べてみましたが、実に美味しく天草採り作戦は大成功に終わりました。手間隙はかかりますが来年はどっさりとって、人間牧場の色々なプログラムに応用したいと思っています。次回の試作品はトkロ天に砂糖やオレンジジュース、それにフルーツの缶詰などを加えてカラフルなスィーツを作る計画です。トコロ天が予想以上に上手くいったので十中八九上手くいくと妻も太鼓判を押してくれました。


 天草はアルカリ性食品で、カロリーも殆どないことからダイエットにぴったりだそうです。私はむしろ痩せ過ぎで別にダイエットは必要ないのですが、階層はお腹の掃除屋さんともいわれています。これからは健康維持のために極力トコロ天を作って食べたいと思っています。

 時期が過ぎましたが今年はもう一回、黒磯海岸へ行って天草の収集をしたいと密かに思っていますが、果てさてどうなることか・・・・・。


  「この夏は 手間隙かけて 天草を 白く晒して 備蓄に励む」

  「ダイエット サプリメントに 頼らずも 手間隙かけりゃ 自然に痩せる」

  「暑かった 今年の夏も もう終わり いつの間にやら 虫の鳴き声」

  「美味いねえ 昨日も今日も トコロ天 腸内掃除 しっかり出来た」 


  

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○広島福山青年会議所の講演会に参加

 本州と四国には瀬戸大橋、明石海峡大橋・大鳴門橋、しまなみ街道という3本の橋が架かっています。大阪や東京を目指す高速バスは明石海峡大橋・大鳴門橋、鉄道利用は瀬戸大橋、中国地方へ車で行く時はしまなみ街道と、目的に合わせて使い分けますが、愛媛県にある一番近いしまなみ街道でも、私たちの町からは高速道路を利用しないとかなり遠い位置にあるため、時には松山観光港から高速船やフェリーを使って広島宇品や山口柳井へと渡るのです。広島も山口も沖合いに見える対岸の県なのに、橋は東京や大阪に便利なように架かっているため、やはり遠い印象を受けるほどアクセスが悪いのです。

 それでも船を利用しないと渡れなかったり、夜になると船がストップするため変えれなかった一昔前のようなことはなく、いつでも車で行き来が出来るのですから、やはり便利な世の中になったものと感心感謝しているのです。

 昨日は広島県福山青年会議所の招きでしまなみ海道を渡りました。ギノー味噌の田中社長さんにお願いしていたバラの花のドレッシングを午前中に受け取る約束をしていたため、久しぶりにこの橋を渡るので夜の会合ながら少し早めに出かけ、沿線のあちらこちらを散策しながらのドライブをしました。昨日は衝きも変わり9月だというの真夏を思わせるうだる残暑で、瀬戸内海も鏡のように凪いでいました。

 中国路は国道2号線を走り、福山駅前の会場となるニューキャッスルホテルに到着したのは午後4時前でした。駐車場に車を止めて駅舎内を通り福山城公園辺りを散策しましたが、たっぷり汗をかいてしまいました。

 着替えを持っていたので車の冷房をつけて着替え、約束の時間より少し早い5時40分に開場入りしました。開場ではリハーサル最中で、講演の出の部分に出くわしたため私もリハーサルに参加しました。

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(うずみを紹介するパンフレット)

 青年会議所の講演会は何度参加しても出の演出が凝っていて、私のプロモーションビデオが既に出来上がっていて、恥ずかしく穴があったら入りたいような心境になりました。スタッフの方々はこの日のために2度も双海町を訪れ、自慢の夕日や町の様子を映像にして3分間の物語風ビデオを作成しているのです。

 夕食をいただき未来創造室長の長鋪さんとお茶を飲みながら色々な話をさせてもらいました。直前の会議が5分延びたため、「5分延長して下さい」と9時3分まで時間をいただいていましたが、5分前、2分前、1分前の画用紙出しは元のままだったため、結局は頼まれていた郷土料理うずみの話をすることができず多少戸惑い、「夢はドリームでなくターゲットである」という演題の講演は終わりました。


 会終了後近くの居酒屋で懇親会があり、1時間ほどの短い時間でしたがうずみという郷土料理を2種類もいただきました。うずみという郷土料理は倹約政治の副産物として生まれたもので、福山青年会議所が福山の名物にしようとプロジェクトを立ち上げ取り組んでいて、既に市内40の飲食店がうずみをメニューに取り入れているようです。既にイベントでのパフォーマンスやパンフレットも出来上がり、着実にその成果は上がりつつあるようです。マツタケや鶏肉、エビ、鯛などをご飯の下にうずめてたべるため、多少インパクト不足で地味な料理ですが、味はさっぱりして中々のもののようです。

 私はこの日、ギノー味噌が造ったバラの花の飲む酢と今ブームの食べるラー油を持参して、バラの街福山を売り込む作戦を話しましたが、単年度勝負の青年会議所のメンバーの心の窓は残念ながら開きませんでした。商品開発や地産地消などは青年会議所にとってまだまだ未知の分野のようでした。

 居酒屋を11時頃に出てしまなみ街道を走り、自宅へ帰ったのは2時前でした。ホテルを用意していただいたのに、どうしても今日の仕事の段取りがつかず。キャンセルして帰ったことを少々悔やみましたが、今回もまたいい人たちとのご縁が出来ました。


  「うずみいう 茶漬けのような 料理喰う 鯛やまつたけ 驚くばかり」

  「しまなみを 巡る海道 行き帰る 初秋の海は 穏やか凪て」

  「バラの酢と 食べるラー油を 見せながら 嗜好の変化 話すも通じず」

  「驚いた 私主役の プロモーション 穴があったら 入りたいよう」 

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○92歳の誕生日

 私の親父は大正7年9月1日生まれで、今日目出度くも92歳の誕生日を迎えました。親父が生まれた頃の日本は乳幼児の死亡率が高く、元気に育つことが確認されてから戸籍を入れる子どももいたようです。親父もその一人で、祖母や本人が言うのには2歳くらいになって籍を入れたというのですから、もしこれが本当ならば実年齢は94歳かも知れないのです。まあそんな過去の詮索よりも、92歳までどうにか元気で生きれたことを喜びたいと思っています。

 親父は12人兄弟の長男として生まれました。家が貧乏だったため幼少の頃から辛酸をなめて育ちました。祖父が早くに病没したため兄弟姉妹の分家や結婚などは全て親父夫婦の肩に大きくのしかかり、これまた大変な苦労をしたようです。親父は2度も戦争に出征し傷痍軍人となり、抑留生活を経て九死に一生を得て帰国しました。親父は進取の気性に富み、僅か5トンの漁船で太平洋に挑み、伊豆半島まで県外出漁しました。私が高校を卒業する頃ガンに侵されこれまた生死の境を迷いましたがその後病状回復し、70歳までおふくろと二人で漁船に乗り組んで漁業を続けました。その母も10年前に先立ちましたが、その後隠居でひっそりと行き続けているのです。

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(家の裏の水源で朝の見回りをする親父)

 親父はその後白内障や最近では鼠径ヘルニアの手術を受けましたが、まあ何とか元気でボケもせず、今でも7キロ先の下灘診療所へ自転車で通院するなど、私より元気だと思えるような高齢者で、日々を過ぎしています。親父の日課は朝4時に目を覚まし、夜は7時に寝るという太陽と共に暮らしていますが、家庭菜園は勿論のこと家の敷地内の草取りや片付けなど、目に見えない部分の役割を果たして、毎日忙しく振舞う私たち夫婦の名サポーター役をしてくれているのです。

 親父は手先が器用で、毎日趣味の日曜大工や骨董品の手入れに余念がありませんが、家の横に海舟館という海の資料館を造り、色々なものを展示しています。その主流は瀬戸内海で活躍した和船の模型で、これはもう玄人はだしで、見学に訪れた人誰もが驚嘆の声を上げるほど精巧に造られていて、親父の説明を加えると漁業の歴史が分かるほどなのです。

 息子でありながら親の血を受け継がないような私ゆえ、技術的に親を超えることは出来ませんが、これから先はこれらの資料をしっかりと守って校正に受け継いでゆきたいと思っています。


 私が出版した自著本「夕やけ徒然草・地の書」の中で、「第19話 親父の言葉」の中で、次の言葉を書いています。

 1、草鞋を履け・草鞋を脱げ。

 2、酒は大いに飲め・ただし酒に飲まれるな。

 3、金は入るを知りて使うを考えよ。

 4、人生は一生懸命やっていれば必ずいいことがあるものだ。

 5、学校へ行かずも勉強は何処ででもできる。

 6、人生は運・根・鈍だ。

 7、お前にしか出来ないことをやれ。

 8、今を知りて遠い向うを見ると間違いはない。

 9、体をいとえ・人生迷ったら元に戻れ。

 10、一生にひとつぐらいは世の中のためになることをやれ。

 小学校しか出ていない無知文盲な親父ながら、こんな戒めを今でも私に折に触れて語ってくれています。92歳の誕生日を迎えるに当たり、これからも元気で過ごして欲しいと祈る朝でした。


  「わが親父 92歳の 誕生日 これから先も 元気で過ごせ」

  「本当は 二歳も上と 言う親父 昔は二年も 無戸籍ままで」

  「石灰を 畑に撒くと 言う親父 朝起き見れば 既に終了」

  「時々は 言い争いも するものの 親子関係 すこぶる良好」

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○夕焼け村で夕日の話をしました

 昨日は8月最後、夏休み最後の日でした。暑さも峠を越えたかに見えましたが、全国各地で猛暑日となったようで、今年の気象新記録が沢山生まれたスーパーをつけた暑い暑い夏でした。それでも熱中症にもならず、多少あせもに悩まされた程度でこの夏を過ごすことができたことは、何よりも幸いです。

 昨夕は3日前に始まった通学合宿「夕焼け村」で、夕日の話をして欲しいとの要請があって、宿泊先である潮風ふれあいの館へ出かけました。到着すると子どもたちは夕食準備に追われていました。私も誘われてその輪の中に加わり食事をいただきましたが、メニューはハヤシライスと野菜サラダでした。

 この日は更生保護女性部の3人のおばちゃんが食事づくりのボランティアとして汗を流してくれたようで、毎年のことながら感謝せずにはいられません。子どもたちが食材の買い物をし、子どもたちが食事を作る手はずなのですが、烏合の衆を指導しないと出来ないため、こうして毎日ボランティアの指導を受けているのです。

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 私が2005年に作った夕日の時刻表によりますと、昨日8月31日の日没は午後6時36分でした。食事の終わった子どもたちは全員前庭に出てコンクリート電柱で造ったベンチに一列に座って、夕日の沈むのを待ちました。昨日は100パーセントの夕日ではありませんでしたが、それでも晩夏初秋の綺麗な夕焼けが見れました。また昨日は一年に数回しか見えない大分県国東半島や姫島がくっきりと見えたり、殆どの島影がまるで墨絵のように印象的に見えました。

 そんなこともあって夕日の話の最初はまず姫島の黒曜石と、わが双海町東峰遺跡の3万年前の石器が同じ石であることからロマンの物語を話してやりました。古代人はどのようにして黒曜石を東峰まで運んだのか、まさにミステリーの世界なのです。子どもたちは蚊に足元を悩まされながらも約40分熱心に耳を傾けてくれました。

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 最後は私の下手糞なハーモニカに合わせて「夕焼けこやけ」の歌を大合唱して終わりました。この20年間夕日に魅せられ夕日を売り出すためにありとあらゆる場所で雄飛の話をしてきました。その結果双海町の夕日は自称日本一と思えるほど町民の自慢になりました。しかし人の記憶など直ぐに消えてゆくものです。ほおっておくといつしか記憶から消えてしまうのです。

 子どもたちにとって昨日夕日も見ながら聞いた夕日の話は、心に残ったに違いありません。これからの長い人生で何処かの町やどこかの国の夕日を見た時、この夜の夕日を思い出してくれるかも知れないのです。子どもたちの記憶の中に潜在能力として残す作業こそがふるさと教育なのだと思いながら、これからも折に触れて夕日の話をしたいと思っています。

 さあ今日から二学期がスタートします。子どもたちは夕焼け村からそれぞれの学校へ通って始業式を迎え、また夕方この潮風ふれあいの館へ帰って来ます。楽しい思い出を一杯作ってくれることを願っています。


  「子どもらに 夕日の話 熱っぽく 今年も話す 大きな声で」

  「一年に 何度か見えぬ 姫島が 見えてラッキー 古代を語る」

  「子どもらの 心に残る 思い出に 夕日夕焼け 天も見方す」

  「この夕日 二度とは見えぬ オンリーワン 心焼付け 心の糧に」

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○石鎚登山④

 苦しかったけれど子どもたちの頑張りで全員が登りきったため、下山は楽勝と思っていました。のぼりは1班から5班としましたが、帰りは5班を先頭にして1班をしんがりにしました。ところが私に続く5班はしっかりと着いてくるものの、600mの西条との合流地点で足を痛めた子どもがいて、大幅に遅れ始めました。このまま足を痛めた子どものペースで歩くと元気な子まで体力を消耗するので、私の判断でその子を最後尾にして体力のあるリーダーをつかせました。もしも歩けなくなったらおんぶして下山するしか方法がないのです。そのうち頭が痛い子や戻してしまった子、トイレがしたい子などが出てかなり心配しましたが、園子たちを後ろに回して、本隊は予定通りのペースで減算したのです。ゆっくりペースを守った4、5人も20分ほど遅れて無事下山することが出来て、土小屋の建物の前で最後の子どもを迎えた時は思わずホッとしました。

 一番しんがりで体調不良の子どもたちを励ましてゴールしてくれた松本さんご夫妻に感謝します。一番前を歩いて引っ張りながらゴールするのも、一番最後尾で後押ししてゴールするのも同じような心配があります。でも最後尾で頑張る子供やリーダーの存在はとても勇気付けられました。この話は今晩の「夕焼け村の」夕日の話

で紹介したいと思っています。

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(やっと辿り着いた土小屋)

 土小屋付近は相変わらず霧雨が降っていましたが、早くも秋の訪れを告げるようにアキアカネトンボが群れを作って飛んでいました。下界より早い秋の訪れを感じさせてくれるように、秋の七草であるススキの穂も出始め、葛の花や萩の花も満開のようでした。

 しかし登山道の道端に目を向けると、様々な高山植物の花が咲き乱れ、目を楽しませてくれました。途中で植物観察をしている高知大学理学部の学生さんたちに出会いましたが、その気になって見れば20や30種類は見つけられるほどの多さです。植物に関心がある人にはたまらない魅力なのでしょうが、登山というきつい目的のために、足元の美しい光景など見えなかったのが残念でした。

 又歩いていると、樹間に見事な遠望が開けることがあります。昨日は西条付近の市街や瀬戸内海まで眺望が開け、みんな疲れを忘れて「綺麗」と感嘆の声を上げていました。

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 登山道を歩いているとよく人に出会います。親子連れ、夫婦連れ、仲間連れなどなどですが、時には一人で歩いている人に出会います。熊除けの鈴をつけたりしている人にも出会いました。お互い声をかけ、「ご苦労様」とか『頑張って」などと励ましの言葉も貰います。縁もゆかりもない人たちなのにです。

 昨日の下り道で珍しい顔見知りの夫婦に出会いました。役場に勤めていた時、県からの出向で建設課に来られていた西条の菅野さんです。もう10年近く出会っていなかったのですが、お互い汗をかきながらの出会いに思わず嬉しくなりました。在職中に菅野さん宅へ出かけ西条祭りを見学したり自宅ですっかりおご馳走になったことがあるのです。奥さんも「いつも新聞やテレビでご活躍のご様子は」と気軽に声を掛けていただきました。

 山は思わぬ出来事や思わぬ人に出会います。これもまた山歩きの楽しみでしょうか。

 何はともあれ全員元気で下山し、待機していた奥島観光のバスに乗り、美川道の駅、砥部焼き観光センターでトイレ休憩をして6時過ぎ夕闇迫る双海潮風ふれあいセンターに帰ってきました。

  「登るより 降りるは楽と 思ったが 故障者二三 少々遅れ」

  「道端に 高山植物 咲き誇る 歩くの必死 見る余裕無し」

  「あれが海 あれがススキと 説明を するも耳など 貸さず黙々」

  「登山道 懐かし人に めぐり合う 別れた道を 次第に離れ」

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○西日本最高峰石鎚山登山③

 私はこれまで石鎚山に5回くらいしか登っていません。しかももうかなり前のことなので、当時の記憶は断片的でしかないのです。やはり記録しないことは記憶されないのでしょうか。そういう意味では今回の登山は短いコメントながら記録する絶好の機会なのです。

 前日の夜のミーティングで石鎚登山について色々と打ち合わせをしました。天候判断、健康判断など状況を判断する幾つかのポイントを話し合いましたが、夏山シーズンも終わりに近づいたこの時期の天候は変わりやすく、私たちのような海沿いに暮らす人間には、気象情報が進んだ現代とはいえ計り知れないものがあるのです。

自然の家を出るときは曇り空でした。石鎚スカイラインに入るとバスの前が見えないほどの霧雨でした。不安が過ぎりましたが、「山のことは山の人に聞け」といわれるように、まず自然の家の職員さんに天気具合を聞き、また登山最前線である土小屋に勤める人の話も聞いた結果、登山を注視するほどではないという最終判断から、ら、登山を決行することにしました。

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(一列になって登山道を進む一行)
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(途中休憩場所で休憩する一行)

 今回の登山では比較的登山経験の多い私が先導役を努め、子どもたちを挟んだ最後尾は事務局の赤石さんがついて対応処理することになりました。私は子どもたちの体力のことを考えて、片道4.6キロをいかに疲れず安全に歩けるように心を配りました。65歳の私の体力が小学生程度であることも功を奏したようです。

 途中見晴らしの良い場所に設置している休憩所のような場所3ヶ所で給水休憩を取りましたが、ぬかるんだ登山道は石段や丸太を組んだ場所が沢山あって、雨に濡れて滑りやすく子どもの中には足を滑らせて転ぶものもいたようです。西条側の登山道と合流する4キロ付近までは、尾根を歩くコースなのでそれほどきつくはないのですが、後の600mは難所中の難所で1~3の鎖の道が続くのです。しかし天候のこともあって私たち一行は迂回路を選びましたが、綺麗に整備された迂回路でさえもきつく、山頂についたころには2時間半の登山で疲労も極限だったようです。でも全員列を乱すこともなく山頂に登ることができました。

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(最後の難関一の鎖付近の迂回道を進む一行)
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(実が得た頂上付近に夏空が広がりました)
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(ほんの一瞬天狗岳が見えました)
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(頂上付近で昼食を取る子どもたち)

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(頂上に設置してある方位板)
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(頂上の看板には1982mと石鎚山の高さが刻まれていました)

 ラッキーなことに山頂に到着すると一気に天気が回復して吹き上げる冷たい風に体を冷やしながら下界のす場らしい眺望を味わうことが出来ました。山頂では30分間昼食の時間を取り、思い思いの場所で自然の家で作ってもらったベントに舌鼓を打ちました。そのうち山の天気は一変し雨が降り出しました。トイレを済ませ持っていた合羽を着て下山を開始しました。


  「降水の 確立聞いて 戸惑うが どうにか全員 石鎚登る」

  「先達に なった気分で 前歩く 後気にして 4,6キロ」

  「山がある だから登ると 言うとおり 理屈は要らぬ とにかく登る」

  「近いじゃん 4,6キロ 聞いた子が こんなに遠い 思わなんだと」

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○心に残った山里初秋晩夏のの風景スケッチ②

 前日の夜のミーティングで気になっていた雨の心配をしながら目覚めの朝を迎えました。私はそっと布団を抜け出して外に出て、急な坂道を一人で歩いて下り、アーチ橋を渡って川沿いの道を散歩しました。我が家では夏の日照りでとっくに枯れた金時豆やインゲン豆が畑でスクスク青々と育っていて羨ましいと感心したものです。

 アーチ橋はとてもお洒落で、橋の下を流れる面河川の清流がいかにも長閑に流れていました。早朝ながら早くも畑仕事をしていたおじいさんとお話をさせてもらいました。このおじさんもご多聞に漏れず耳が遠いようで、多少チンプンカンのようでしたが、面白い話を聞くことが出来ました。

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(面河少年自然の家絡みえる山里の端のある風景は絵になる風景でした)

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(橋の上から見える晩夏の面河渓谷)

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(端のある風景も下に下りると違った趣でした)

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(ど根性白百合とでも命名したくなるような石垣にしがみついて咲く由利の花)

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(間もなく稔りの季節を迎える栗の実)

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(長い廊下)

 晩夏を迎えた山里にはもう初秋を感じさせるような爽やかで心地よい風が吹いていましたが、様々な場所で考えさせられるような光景に出会いました。ひっそりと山里に暮らす独居のおばあちゃんがマイピアに乗ってゴミを出す姿、薪で沸かす風呂の煙、黙々と畑を耕すおじいちゃんなどは過去にタイムスリップしたような印象さえ受けました。印象的だったのは元学校だった面河少年自然の家の長い廊下で、過疎化と高齢化、少子化、限界集落、学校廃校など、様々な問題を抱えて苦悩する中山間地を象徴しているように思いました。

 この地域も平成の大合併で久万高原町となりましたが、不便さはこれからも解消されず、むしろ行政サービスは遠のかざるを得ない厳しい現実が待ち受けているのです。


 かくいう私も、海沿いとはいいながら過疎や高齢化、少子化、限界集落など同じような問題を抱えて苦悩する地域に住んでいて、これからも同じような宿命を背負って生きてゆかなければならないのです。しかし幾ら現実を嘆いて目をそらせても問題は解決しないのです。宿命だと思っていることを運命と思って努力すれば多少なりとも暮らしは向上し、いい人生が送れるのですから頑張らなければなりません。最近「頑張る」という言葉が否定されるような世の中になってきました。世の中には頑張ってもできないことや、頑張っても出来ない人もいることは事実です。でも身の丈サイズの頑張りをすれば多少なりとも生きる勇気は湧いてくると、個人的には思っています。人や社会がどうであれ、私はこれからも自分サイズの頑張りを続けたいと思っています。


  「朝起きて 周辺散歩 清々し 山里長閑 時計止まりぬ」

  「朝早く もう畑出て 鍬振るう 山のおじさん 働き者だ」

  「一本の 橋も絵になる 風景を カメラに収め 深呼吸する」

  「夏終わる 目にはさやかに 見えねども 栗の実少し 色づき始め」

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○ふたみ夕焼け村始まる①

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(支所ロビーホールでの開会式)
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(見送りに集まった家族)

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(指導するスタッフの皆さん)

 例年のことながら「ふたみ夕焼け村」という小学生の合宿が始まりました。私もそのスタッフに一員として参加することになりました。夏休みも終わりに近づいた昨日から始まった夕焼け村最初のプログラムは、面河少年自然の家に前泊して明くる日、西日本最高峰といわれている1982mの石鎚山に登山するのです。

 そのため昨日は午後1時に双海町をバスで出発し、国道33号線を通って面河にある少年自然の家に着きました。ここは元小学校の建物を使っています。急な石段を登ると、運動場の横に長くて高い石垣があり、その上に長屋のような建物がありました。職員さんの勧化に入所の挨拶をいただいて中に入りましたが、雑巾がけで磨き込まれた82メートルもある長い廊下は何とも落ち着く風情で、早速子どもたちは決められて宿泊等の2段ベッドに入って楽しそうにはしゃいでいました。

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(現地入りした子どもたち)
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(面河少年自然の家)
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(飯ごう炊飯)

 午後4時からは近くの炊飯場へ出かけ、各班に別れて勘合でご飯を炊いたりカレーを作ったりしました。時折小雨がぱらつくあいにくの天気でしたが、ジャガイモやニンジンの皮を剥いたり、タマネギの皮を剥いて細かく切って、それぞれ下手糞な火起こしをして煮炊きをしました。

 子どもたちは日常生活で火を焚くことなどまったくないため、火を炊くことが余り上手にできず、特に飯ごうでご飯を炊く水加減と水加減や火加減にかなり疎く、家や学校で習っていないことが一目瞭然でした。また野菜を切るのも傍で見ているとイライラするほど下手糞でしたが、それでもみんなの努力の甲斐あって、美味しいご飯と美味しいカレーが出来上がりました。私たちは手伝った畔に潜り込んでご相伴に預かりましたが、チキンカレー味は中々のもので、5つの畔全てが完食でした。

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楽しいレクリェーション)
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(キャンドルサービス)


 予定されていて楽しみにしていたキャンプファイヤーも雨のために中止となり、キャンプファイヤーに替わって食堂を片付けてキャンドルサービスをすることになりました。この日はボランティアで参加したまつやま東雲大学の学生や愛媛大学の学生、それに中学生ボランティアの協力もあっていつになく盛り上がり、楽しい合宿となりました。子どもたちが寝静まった10時からはリーダー会議が行われ20人ほどのスタッフが色々と語り合いました。酒もなく夜食のカップラーメンを食べる程度のサービスでしたが、いいミーティングとなりました。

 少年自然の家の壁には至る所に思い出の感想文が張り出されていました。見覚えのある先生や子どもたちのコメントもあって、この自然の家で研修した思い出を読むだけでも楽しいものです。私たちも11時には床に着き、軽いいびきに悩めされながらもいつしか夢の中へ旅立っていました。夜中に屋根の上を何かの動物が走る音が聞こえたり、遠くを流れる仁淀川水系面河川の瀬音も過ぎてしまえばいい思い出となりました。


  「海沿いの うだる暑さを 後にして 天然クーラー 二日を過ごす」

  「包丁や 火さえ使えぬ 現代子 それでもカレー 上手に作る」

  「久しぶり 飯ごう炊飯 懐かしい 思い出しつつ 子どもと一緒」

  「キャンドルの 前で寸劇 披露する 意外と受けて ホッと安心」 

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