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○別府温泉地獄めぐり③

 別府温泉の地獄めぐりは小学校の修学旅行以来の、実に50年ぶりの訪問となりました。小学校6年生と言えば年齢的には11歳そこそこですから、大人の記憶に比べれば曖昧なものなのでしょうが、自分のふるさとを離れることなど殆どなかった時代のことゆえ、地獄の姿は鮮明に記憶に残っているのです。総額500円以下の決められた小遣い銭をポケットに忍ばせ、地獄めぐりをする若松進一少年の姿を思い出しながらの旅でした。

 最初に行った間欠泉の竜巻地獄は、周期的に約20メートルも105度の熱湯を噴き上げたり、摂氏98度もあるのに涼しげなコバルトブルーの海地獄や、真っ赤なお湯が煮えたぎる地の池地獄など、珍しいものばかりで、行ったこともないあの世の地獄を、この目で確かめました。

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(竜巻地獄)

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(血の池地獄)

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(白池地獄)

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(かまど地獄)
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(坊主地獄)

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(鬼山地獄)

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(海地獄)

 地獄めぐりをした後、レンタカーの運転手さんのご好意で背後にある十文字山に登りました。この山からは別府湾や別府温泉街が一望でき、はるか彼方に佐田岬半島や伊方の原子力発電所が見えました。また国東半島や高崎山も手に取るように見えました。この日は背後の山中で殺人事件があったため、報道のヘリコプターが低くホバーフライトを繰り返していました。

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 背後の鶴見岳付近を流れる雲は台風9号の接近でかなり早く、海も豊後水道から入ってきた風が吹き、下界の猛暑を忘れさせてくれるような清々しさでした。十文字山にはNHKなどのテレビ等が立ち並び、直ぐ下には誘致した大学の見事なキャンバスや、高速道路別府サービスエリアが手にとるように見えました。

 最近では奥座敷といわれる湯布院温泉や黒川温泉にすっかり任期をさらわれたように見えていましたが、年間1100万人を数える観光客や留学生4000人が暮らす12万人の人口を抱える別府は、やはり日本屈指の温泉地であることは間違いのない事実でした。


  「久方に 別府温泉 底力 感じながらも そこここ歩く」

  「湯煙が 風にたなびく 遠望を 裏に聳える 十文字から」

  「地獄とは こんなものかと 話しつつ 天国行きの 切符求める」

  「写真見て 地獄の名前 思い出す 余りの多さに こんがらがって」 

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○大分県別府温泉地獄めぐり②

 大分県別府といえば、日本一の湧出量を誇る一台温泉地です。市内至る所から温泉の立ち上る湯気が見え風景は、別府を訪ねる度に旅情をかき立ててくれるのです。私が別府を意識したのは小学校6年生の時の修学旅行でした。一泊二日の旅行など殆どしなかった時代ですから、関西汽船で高浜から別府へ関西汽船に乗って九州へ渡ることはまるで外国へでも行くような興奮でした。

 楽天地や高崎山、バス旅行など、50年も前の出来事ですが、私の心には強い印象として残っているのです。

 別府といえば油屋熊八といわれるように、愛媛県宇和島出身の人が中心になって一大観光地に育て上げた話は余りにも有名です。別府観光の父といわれている油屋熊八は亀の井旅館を創業、亀の井バスを設立して日本初の女性ガイドによる定期観光バスの運行を行いました。「山は富士、海は瀬戸内湯は別府」というキャッチフレーズを考案したり、温泉マークを別府温泉のシンボルマークに愛用したりするなど、様々なアイディアで別府の活性化に大きな足跡を残しました。

 渡邊さんの計らいで海沿いの花菱ホテルを手配してもらい、ホテルの車で佐賀関まで送迎してもらう幸運にも恵まれました。ホテルでの昼食をしたあと、塩崎さんの計らいで三崎出身の方の運転するレンタカーで念願の地獄めぐりに出発しました。修学旅行以来何度か別府へは来ているのですが、殊更な地獄めぐりなどしていなかったので、私のたっての希望を汲んで8つの地獄巡りツアーに出かけました。竜巻地獄から始まり、地の池地獄、白池地獄、鬼山地獄、かまど地獄、山地獄、鬼山地獄、海地獄と巡りましたが、50年前と地獄の様子も随分変わっていましたが、心に残る地獄めぐりを堪能させてもらいました。


 うだるような猛暑残暑の中で汗だくの地獄めぐりでしたが、小グループの小回りの効くツアーなので、足湯を楽しんだり、温泉卵を食べたりして束の間の休日を楽しみました。最後に行った海地獄は、中池に睡蓮の花が見事に咲いて、まるで地獄ならぬ天国を連想してしまいました。

 帰ったその火の内に渡邊さんからメールに添付して沢山お写真データーを送ってもらいましたが、写真を趣味としている渡邊さんの写真はやっぱり目の付け所やアングルが違うので、花の写真などを使わせてもらいましたが、此花の写真を見る限り、地獄と天国は大変な違いのようです(笑い)。

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  「八箇所の 地獄を巡り そこここで 半世紀前 思い出しつつ」

  「願わくば 地獄に行かず 天国へ 行ってみたいが 叶わぬ夢か」

  「そこここに 生きてる地球 体感し 地獄めぐりに汗を流して」

  「お土産は 何処も同じと 冷やかして ちゃっかり味見 買い物せずに」

 

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○海峡好夢員会に参加①

 「海峡好夢員会」などという、当て字ともいえる名前をつけた交流会が今週の日曜日と月曜日の2日間、温泉地大分県別府市で開かれました。大分県佐賀関と愛媛県佐田岬は豊後水道を挟んだ隣町です。旧佐賀関町は大分市と、三崎町は伊方町とそれぞれ平成の大合併で合併したため、寮長の自治体は地図上から消えましたが、関アジ、関さばというブランドを持つ佐賀関も、佐田岬半島の突端に位置する三崎もそれらの知名度によってかろうじて昔の名前で残っていますが、やがては変化する運命にあるのかも知れません。

 合併前の佐賀関町と三崎町はそれぞれの持つ特異性を認めつつ海峡交流会なるものを長年にわたって交流していましたが、合併によってその交流の歴史にも幕を綴じたようです。しかしその中心人物となって交流していた佐賀関の渡邊さんと三崎の塩崎さんとは、今も深い縁で結ばれていて、私たち友人・知人もそのおこぼれをいただいて、未だに行ったり来たりしながら交誼しているのです。

 前回愛媛で開いた交流会で「次は別府でやろう」と話がまとまり、渡邊さんが音頭を取ってくれて「海峡好夢員会」は開かれました。土曜日に夕焼けプラットホームコンサートが開催された私のわがままを聞き入れてもらい、当初土日で計画していたのを日月に変更してもらい、参加者にすっかり迷惑をかけてしまいました。

 愛媛から参加する7名は午前9時に三崎のフェリー乗り場に集合しました。少し早めに家を出た私は夕やけこやけライン~鼛声トンネル~メロディーラインを通って三崎入りしましたが、早朝だったため1時間20分で到着しました。勿論私が一番乗りです。三崎のフェリー乗り場は今年の春から新しく出来た桟橋に乗り場が移っていました。時間がるので車を駐車場に止めてそこら辺を散歩することにしました。岬を訪れる度に立ち寄るのは国の天然記念物になっているあこう樹です。フェリー乗り場の直ぐ近くに葉を茂らせている三崎のあこう樹はわが国では北限にある熱帯樹です。奄美や沖縄へ行けば何処にでもあるのですが、愛媛県でこれほどの大木はないのです。あこう樹の下の石柱には大正13年三崎村、説明版には遠い南の島から黒潮に乗って種が運ばれたであろうロマンが書かれていました。

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(国道を覆いつくすように葉を茂らせている国の天然記念物あこう樹の大木)

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(石柱には三崎村や大正13年などのと刻まれていました)
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(根回り7メートル以上のあこう樹)

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(大分に向かって伸びる日本一細長い23里の佐田岬半島)

 ほどなく仲間も集まりました。仲間といっても愛媛県松野町の芝さんご夫妻、高知県四万十市の和田さんご夫妻、それに三崎の塩崎さんご夫妻と私の7人なのです。私だけ妻の仕事の都合で単身での参加となりました。

 フェリーは定刻9時30分に三崎の岸壁を離れました。右手の佐田岬半島の頂上付近には風力発電の大きな風車がかなり沢山並んでエネルギーの町伊方を誇示しているように見えました。やがて「喜びも悲しみも幾歳月」という映画の舞台にもなった白い佐田岬灯台が見え、愛媛が次第に遠ざかり、替わって右手の高島や佐賀関の東洋一といわれたとてつもなく高いお化け煙突が私たち一行を迎えてくれました。

 桟橋には合流する佐賀関の渡邊さんご夫妻が、ホテルの車とともに出迎えてくれました。渡邊さんは何かにつけて細やかな気配りのできる人で、私たちのために資料まで用意してくれた念の入れようで、その資料たるや12ページにも及ぶ凄い資料なのです。バスの中では再会を懐かしむ話に花が咲き、渡邊さんのマイクガイドで別府一泊二日の旅はスタートしました。

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(渡邊さんの作ってくれた立派な資料には感心しました)



  「海峡の 豊後水道 ひとまたぎ 七十分の 短か船旅」

  「港には 懐かし人が 出迎えて お国なまりの 話も弾む」

  「海峡を トンネル橋で 繋ごうと 夢を語った 夢のまた夢」

  「マイク手に 資料説明 熱こもる 別府目指して バスはのんびり」  

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○夕日は今が旬です

 先日夕焼けプラットホームコンサートに遠路はるばる香川県からやって来た親友の溝渕雅子さんから、お土産をいただきました。エコバッグいっぱいに詰め込んだ香川県特産のしょうゆ豆など、大好きな食べ物に混じって四国電力の機関紙であるライト&ライフが入っていました。取り出すと表紙には、シーサイド公園恋人岬の夕日がオレンジ色に輝いて紹介されているのです。表紙裏に「今月の表紙」、「夕日に染まる『ふたみシーサイド公園』(伊予市)、撮影/大本幸和(愛媛県)と書かれていました。残暑が連日ことのほか厳しいので、秋は双海の夕日が旬であることをすっかり忘れていました。

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 色々な人から、「若松さん、双海の夕日を見に行きたいのですが、いつが一番綺麗ですか?」とよく尋ねられます。その都度私は、「あなたが夕日を見に来る時が一番綺麗」などと笑わせるのですが、冬の達磨の夕日も、春の黄砂煙る真っ赤な夕日も、はたまた夏の焼き尽くすような夕日も、人それぞれ趣があるのですが、本当は空気の澄んだ秋の頃が夕日に関しては綺麗に見えるのです。

 今回表紙に紹介されている恋人岬の夕日は、私が役場在職中に思いを込めこだわって造った新スポットなのです。春分の日や秋分の日になると、恋人岬の突端に設置されているモニュメントの穴の中にスッポリ夕日が入る仕掛けになっているのです。

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 上の写真は、夕日夕焼けフォトコンテストで最優秀賞に輝いた作品ですが、在職中はこの写真をあしらった名刺を一ヶ月に600枚も全国に配り続けてきたのです。退職して私の名刺は山口県のわたなべえつこさんが書いてくれた似顔絵の名刺になりましたが、これからが旬の秋の夕日は必見の価値があるのです。

 「しずむ夕日が立ちどまるまち」双海町という自治体は合併して地図上から消えましたが、美しい双海の夕日は永久に不滅なのです。これからも双海の夕日と共に生きてゆきたいと思っています。


  「暑いため 今が旬だと 気もつかず 夕日に思い かけるの忘れ」

  「一年中 日本全国 旅するが 双海の夕日 やはり一番」

  「あと十日 すれば岬の モニュメント 夕日スッポリ 入るの見える」

  「もう少し 若けりゃ俺も 岬にて 恋を語るが 時既遅し」


 

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○第2回の鱧まつり

 昨日の愛媛新聞の朝刊は、夕焼けコンサートが5面社会面に、鱧まつりが9面地方面の一番目立つところに載せられて、久しぶりに双海町の記事で埋まりました。

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 鱧祭りは昨年から始まった食のイベントですが、昨年は予想以上の反響と来客で商品が不足してブーイングをいただきましたが、今年は鱧を1トン以上、4千食を用意した結果、うだるような暑さにもかかわらず満足のいく成果を収めて無事終えることが出来たようです。浜まつりの実行委員長である若松利光組合長は私の従兄弟なので、その行方を陰ながら心配していましたが、どうにか面目を保ったようです。陰で支えてくれた伊予市文化協会長の門田さんや、大番頭米湊さん、小番頭松本さんの顔や鼻の上を真っ赤に日焼けした姿を、夕焼けコンサートの開場で見ましたが、苦労のあとが偲ばれました。

 私はこの日、鱧まつりや夕焼けコンサートに来た人が人間牧場へ次々とやって来るものですから、都合4回も人間牧場を往復して、夕焼けコンサートの頃には少しくたびれていました。それでも年に一回の夕焼けコンサート、しかも私が始めたコンサートなので、目立たないようにしながらも、しっかりと見届けたいと、今年は25回という記念すべき節目のイベントなので出かけて行きました。

 鱧まつりは、大町会館の人を案内しながら横目で見る程度となってしまいました。私は今年の夏も親類の漁師さんから鱧を何度も貰い、その都度鱧をさばいて骨切りを嫌というほどやりました。お陰様で骨切りの腕前も上達してきました。


 いっそのこと、鱧以外の肴の調理も磨きをかけて、お魚おじさんとしてお魚の普及運動に取り組んでみたいと思っています。猟師さんが獲る魚も結局は消費者の魚離れで魚の値段が一向に上向かないのです。かつて私の妻がお魚ママさん講習会を受けたと同じように、お魚おじさんを育成して、魚の普及活動に取り組んだらいいのにとふと思いました。妻にこのことを話すと大賛成だといいました。ただしその前提としてわが家の料理を少し分担して欲しいと釘を刺されてしまいました。虻蜂取らずになりそうなので、このことは密かに行動したいと思っています。


  「お魚を 食べさす工夫 しなければ いつになっても 魚は売れぬ」

  「なるほどな 魚に豊か 鱧という 骨切りすれば 美味しくなりて」

  「鱧まつり 行きたいけれど 行けなんだ 人間牧場 上がり下りして」

  「四面と 五面を飾る 双海記事 久しぶりだな 痛快ですね」

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○25回目の夕焼けコンサート

 「えっもうそんなになるの?」と、誰もが言うほど25年は過ぎてしまえばまさに「あっ」というほど短いものです。でも私にとっては夕日によるまちづくりの出発となっただけに、それなりの抵抗や失敗もあって、結構ドラマチックなものでした。

 今から25年前、私は40歳でした。保存している私の卓上カレンダー1986年版の6月30日(何故か月曜日、多分NHKの取材で期日指定があったからこの日にしたような記憶があるのです)の欄に「下灘駅プラットホーム野外コンサート(18:00~)」とメモしているのですが、何よりも嬉しいことは私の後を引き継いだ若い人たちが、しっかりと続けてくれていることなのです。そして余り知られていませんが陰の功労者であって、第2回目から今回まで深くかかわってくれた音楽プロデューサー小林真三さんの巧みな司会も心に染みました。

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(演奏の合間に司会の段取りをする小林真三さん)

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(その模様は昨日の愛媛新聞5面社会面に印象的に紹介されていました。)

 私も誘われるままに仲間と一緒に夕日や歌を大いに楽しみました。その模様を写真に撮りましたので紹介しておきます。

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(毎年やって来る木村さんたちは、酔いどれコンサートでとばかりにお酒を飲みながら音楽を楽しんでいました)
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(高松市三谷から溝渕雅子さんがお孫さんを連れ、お土産を持ってて今年も参加してくれました)
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(夕日が落ちる頃、仲間が私のカメラで写真を撮ってくれました)
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(残暑厳しい中でコンサートを楽しむ人たち)
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(メインゲストSING-Oさんの歌声は心に染み込みました)

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(フィナーレは双海恋歌、運営委員全員がステージに上がり、勿論私も壇上に上げられ大きな声で歌いました

  「いつ見ても 下灘駅から 見る夕日 心に染みる 思わずジーンと」

  「あのころの 俺は反骨 若かった 反対されて 余計闘志が」

  「光陰は 矢のよう過ぎて 早俺も 高齢者という レッテル張られ」

  「恋歌を 歌う隣で 泣きじゃくる 女性につられ 私もうるる」 

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○イノシシの被害甚大

 昨日山奥組の井上さんがロケ風呂の見学をしていて、風呂下の畑の異常に気がついてくれきました。「若松さん、芋掘りしたのですか?」、見れば子どもたちの実習畑のサツマイモが無残にも荒らされているのです。井上さんたち一行が帰ってから私は一人で芋畑へ入り、被害の状況を調べてみました。松山方面の2畝は全滅の状態で、芋づるが無残な姿をさらけ出していました。

 進入場所はどうやら入り口で、誰が開けたのかは定かでありませんが、囲い網の継ぎ手を利用した入り口がイノシシが通るほど開いていました。3年前にもこれと同じような被害に遭ったことがあります。当時の教育委員会の職員さんが草引きにやって来て、作業終了後うっかり入り口の網を閉め忘れて被害に遭ったのです。

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 先日私が周りの草刈をした時には、周りを見回って網の状態を確認していたので、まさかイノシシが入り口の戸を開けたとは考えられないのです。そうかといって防犯カメラを設置している訳でもないので、警察でもないのでこれ以上の詮索は出来ず、まあ今回もイノシシの悪知恵のせいだと、イノシシを犯人にしたいと思うのです。それにしてもいのししは鼻や口、それに手足で、鍬を持たずによくもまあこれほどまでに芋を掘るのが上手いのか、ただただ感心するばかりでした。

 今回も被害届を出すことが出来ず、ゆえに操作もなく結局は泣き寝入りで一件落着となりそうです。早速現場から教育委員会の赤石さんに被害の状況を伝えましたが、収穫を楽しみにしている子どもたちの落胆が目に見えるようです。

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 帰り道すがら人間牧場の近所に住む西嶋さんに出会いました。西嶋さん宅はもう当の昔にサツマイモはイノシシの被害に遭って全滅したそうです。西嶋さんはもうこの4~5年は植えても植えてもイノシシに取られるので、来年から作付けをやめるのだそうです。落胆を隠せず山を下りましたが、人間牧場の入り口付近の道沿いには西嶋さんの仕掛けたイノシシの捕獲箱が見えました。利口になったイノシシはあざ笑うように、捕獲箱の直ぐ近くの斜面を無数に掘り返していました。

 こんなこともあろうかと家の横の畑にサツマイモを植えていて、収穫祭でサツマイモが足らなければ、わが家のサツマイモを回す予定です。今年も私たち人間は残念ながらイノシシの知恵に負ける結果となりました。


  「情けなや 今年も猪に 芋食われ 被害届も 出せないショック」

  「つるだけを 残して食べる 手の内は まさに名人 よっ、イノシシ」

  「楽しみに している子ども 裏切った 心沈んで 囲いを補修」

  「あいつらも 生きんがために 日々必死 理解はするが やはり憎いな」 

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○3人の美女と1人の付き添い野獣

 「今下灘鱧祭りに来ています。同行の女性3人が人間牧場を見たいというので、勝手に出かけていいですか」と、野村町山奥組の井上登さんから2時過ぎに携帯電話が入りました。他ならぬミツバチの師匠の申し出に、何

としても都合をつけなければならないと思い、「あと15分後に人間牧場で逢いましょう」と返答し、身支度を整えて単車を走らせました。昨日の2時過ぎはうだるような暑さの中でしたが、海岸国道を単車で突っ走ると心地よい風が体にまとわりついてとても清々しく走りました。

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 井上さんは、松本小番頭が年輪塾ネットで配信した鱧まつりへのお誘いメールを見て、はるばる山道を3人の昔の美女を連れて賑やかしに来てくれたのです。私は井上さんの「昔の美女を3人連れて行くから」という誘いにスケベ心が頭を持ち上げ、淡い期待を持って出かけました。

 私は近道、井上さんは遠道を通ったため私のほうが5分ばかり早く着きました。早速水平線の家の窓を開けたり、ロケ風呂の鍵を開け戸を押し上げたりしました。昨日は人間牧場へ3組目の来客で、その度に自宅と人間牧場の往復でした。

 やがて井上さんは3人の女性を連れてやって来ました。想像していた通りの聞きしに勝る昔の美女でした。井上さんの同級生2人に井上さんの奥さんを加えた戦中派の女性だけに、初めての出会いとは思えない馴れ馴れしさ、話は大いに盛り上がり、海のない野村町ゆえ沖合いにかすむ島影を水平線の彼方に見ながら1時間ほど過ごし、再会を約束して帰って行きました。いつもは農作業着でやって来る井上さんと、農作業着で出会う私ですが、この日は井上さんも私も少しおめかしをしていても、やはり野獣の領域を超えれませんでした。聞けばこの女性たちもミツバチを飼っているそうで、次の出会うのがすっかり楽しみになって、いい予感が漂い始めました。


  「三人の 昔の美女を 連れ回す ミツバチ師匠 今日はおめかし」

  「同じ頃 産まれた人は 打ち解けて 話大いに 盛り上がりました」

  「いつの世も 男は女 求めてる 歳はとっても ワクワクしつつ」

  「海はいい ないものねだり その言葉 聞いて納得 確かに俺も」 

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○人間牧場へ大町会館の皆さんが研修に来ました

 西条市大町会館の越智館長さんから、人間牧場の視察に来たいと何ヶ月も前に連絡が入っていました。越智館長さんは几帳面な方で、その後何度か電話をいただいていたので、今日の日を楽しみにしていました。大町会館へは講演にも出かけて講演もしていて、何人かの人の顔は思い出すのですが、毎日のように知らない人に会っている私ゆえ全ての人の顔を覚えることは出来ないのです。

 何日か前、大町会館の関係者から、「人間牧場へ行きたいのだけれど、足が不自由なので長い歩きは出来ません。どのくらい歩くのですか?」と電話がかかってきました。わたしは「ほんの五分程度なのでお越しください」と軽はずみにも答えてしまいました。

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 その人たちを乗せた西条市役所のマクロバスが待ち合わせ場所のシーサイド公園へ到着したのは、待ち合わせ時間より早い9時20分でした。私は9時20分にシーサイド公園に行っていたので、携帯電話で居場所を確認して早速私もマイクロバスに乗り込み、人間牧場へ向けて出発しました。

 山道を縫うように走ったマイクロバスを人間牧場への進入路で降りて歩いてもらいましたが、今日は35度を越すような猛暑野中を下り道は何とか下りました。やがて壊れるまま車座に座ってもらい、1時間ほど落伍ライブをやりました。来られた人たちはどの方も熱心に耳を傾け、何人かにはご意見もいただきました。外は暑くても人間牧場・水平線の家は少し秋を感じるような心地よい風が吹き込んで、いい研修会となりました。

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 しかし研修を終えて風呂を見学し、車まで歩いて登る頃には、猛暑日に近いのではないかと思うほど温度が上がり、みんな汗が一気に噴出し、特に歩くのが不自由な人に迷惑をかけてしまいました。でも上の道で車を回転して待っていてくれた運転手さんのお陰で、冷房の効いた涼しい車内に入り、一気に汗が引くのを覚えました。

 今日はしもなだ運動公園では鱧まつり、下灘駅では夕焼けプラットホームコンサートと二つの大きなイベントがジョイント開催されていて、しもなだ運動公園の広場は車が沢山駐車していました。私はシーサイド公園でマイクロバスを降りて皆さんとお別れしましたが、妻の大好物である星加のゆべしをお土産にいただきました。

 連日人間牧場に研修にやって来る人たちのテーマは様々です。私もそのテーマに合わせてできる限り適切なアドバイスをするよう心がけていますが、ゆりかごから墓場までの言葉の通り、子どもから大人まで、又職種も性別も雑多で、時には悩み事の解決を求めてやって来る人生相談まがいの人もいるのです。まあこれからも多くの人と対話しながら生きて行こうと思っています。


  「どのくらい 歩くのですか? 電話聞く ほんの五分と 思わず答え」

  「歩くのが 不自由な人 汗をかき 必死に歩く 弱者の目線」

  「猛暑日と 見まがうほどの 暑き中 山道歩く 汗が噴出す」

  「聞きますが 元気源 何ですか? 歯の浮くように 家族と答え」


 


 

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○第50回愛媛県老人クラブ記念大会

 かつてえひめ地域政策研究センターの所長をしていた青野さんは、退職後老人クラブ連合会の事務局長に就任されています。その青野さんから昔のよしみで講演依頼の声がかかり、第50回愛媛県老人クラブ記念大会の記念講演を頼まれ、昨日会場となっている県民文化会館へ出かけて行きました。

 私も県内外へ講演に行き、これまでにも県民文化会館のステージに立ったことはありますが、メインホールの大舞台での記念講演は初めてなので、1000人余りの参加者に多少緊張した面持ちになるであろうと思っていましたが、以外に落ち着いて話すことが出来ました。

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(講師はこんな立派な県民文化会館の応接室で、分相応でないお茶をいただくのです)

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(メインホールの会場を埋めた参加者の皆さん)

 長い人生の機微を生きてきた百戦錬磨の人たちを前に、講演時間は僅か1時間余りなので、はてさて何を話そうか迷っているうちに司会者から講師紹介され、「心豊かに生きる」という演題で講演は始まりました。いきなりレクリエーションをやりました。「皆さん、私が『しんちゃん』何々しましょうという枕詞をつけた時だけ動作をしてください。分かりましたね」と前置きで納得させる話をして始めたのに、「では皆さん手を上げてください」と言えば殆どの人が手を上げてしまいました。「しんちゃんがついていないのに何故手を上げるのですか。じゃあしんちゃんその手を下ろしてください」と、まあ言葉巧みに誘って大爆笑で大いに盛り上がりました。「皆さん、この遊びは小学生でも出来るのですが、皆さんは小学生以下です。だから交通事故や振り込め詐欺に遭うのです。思い込みでなく人の話は最後までちゃんと聞いて行動しましょう。」でスタートしました。いやあわれながら実に愉快な講演会でした。

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(ステージにはおこがましくも私の演題が吊り下げられていました)

 今高齢者を取り巻く社会は、指折り数えただけでも10指に余る大変大きな問題を抱えています。①交通死亡事故や運転免許証の返納、②振り込め詐欺や住宅床下工事の水増し請求、③熱中症による死亡事件、④百歳以上の安否確認不明、⑤痴呆症の発症、⑥高齢者福祉施設のあり方、⑦後期高齢者年金問題や介護保険、⑧地震や津波の時の安否確認、⑨葬祭センターの出現と死に方や死の尊厳、⑩家族の人間関係などなど、長寿大国日本を象徴するような大きな問題なのです。

 かくいう私も昨年65歳の誕生日を迎えて高齢者となり、また自宅に92歳になったわが親父がいて他人事とは思えないのです。

 講演はあっという間に終わりましたが、情報化時代を反映しているのでしょうか、昨晩参加した高齢者から3件の感想メールがインターネットで寄せられました。いずれも「楽しい講演会でした」とか、「老いを迎えて色々と考えさせられました」に加え、「近々あんな面白い話を地元でして欲しい」という講演依頼まで含まれ驚きました。私にとっても記念すべき思い出に残る大会となりました。


  「千人の 人を相手に 話する メインホールの 壇上立ちて」

  「思いつき いきなりレクで 大爆笑 心を掴み あっという間に」

  「いつの世も 悩みが多い 高齢者 弱者がゆえに 大切したい」

  「よくもまあ こんな大きな 舞台立つ ビビルことなく 役目を果たす」


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