shin-1さんの日記

○共栄網の加工場が完成

 我が家は生まれた時漁家でした。夏から秋にかけてはイワシ巾着網でカタクチイワシを協同で獲り、各家々に分配して煮干を作っていました。その頃は子どもとて貴重な労働力で、親父やおふくろと一緒になって一生懸命働きました。私が大きくなるのと相前後して下灘の巾着網は廃れわが家も鯛網や底引き網に転換して行ったのですが、当時の長閑な漁村の暮らしを思うとついつい懐かしさが込み上げてくるのです。

 下灘の巾着網が廃れた後、上灘小網の「共栄網」という巾着網は船引き網に漁法は変わりましたが、今もカタクチイワシで煮干を作り、チリメン弱を加工して生計を立てています。小網が今日まで残ったのは坂の集落ゆえにいわしを運ぶ重労働から開放されたいという願いが集結し、共同加工場を建設したからでした。以来加工場は多くの成果を上げて漁民の暮らしを向上させましたが、施設の近年老朽化が目立つようになり、色々な知恵を絞って再建に取り組み、このほどやっと新しい加工場が完成しました。

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 何日か前の愛媛新聞にその全容が紹介されました。外観はオレンジ色で統一され、外から見るととてもイワシの加工施設には見えないモダンな建物です。知らない人は国道沿いにお目見えしたこの施設のことを、今流行の「特老ですか?」と聞く有様です。

 私も中を覗いたことはありませんが、近代的で衛生的な加工場は煮干のシーズンを迎えて活気に満ちているようです。
 双海町は農業と漁業以外これといった産業のない町です。その農業もみかんの不振、漁業も魚の不漁と、この30年いいことは余りなかったような気がします。ゆえに農業も漁業も将来が危ぶまれていますが、この加工場がもっともっと発展して欲しいと願うのです。


 私は高校を卒業後漁業に7年間従事しました。病魔に襲われ漁業を断念、止む無く転職して別の道を歩んできましたが、今でも漁業のことが気がかりで、時々当時の仲間たちと漁業について話をしますが、明日の漁業を語り合った仲間たちからは残念ながら希望に満ちた話は殆ど聞こえず、諦めにも似た話しかしないのです。

 漁業を病気とは言いながら途中で見切りをつけた私ですから、大きな声では言えませんが、やる気にさえなればいくらでも方法はあるのです。私のこの歳になりながらも万分の一の恩返しをしたいと考えていて、イメージ的には固まりつつあり、近いうちに綿新漁業に対する夢を聞いて欲しいと思っています。私は現在愛媛海区漁業調整委員でもあるのですから・・・・・・。


  「おらが町 漁業発展 して欲しい あれやこれやと 夢を描きつ」

  「未利用の 資源ゴロゴロ 転がって 誰も気付かず 浜辺で朽ちる」

  「海草の 産地表示を 読んでみる ヒジキワカメも 韓国・中国」

  「急がねば いや落ちつけと 独り言 海はこれから ホスピタリーに」

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○人はどの程度覚えているのか

 二日前の10月6日、年金受給者協会八幡浜支部の招きで八幡浜市民会館に行きました。私の記憶が正しければこの会合には過去2回招かれていて、一昨年も行っているのです。いくら何でも近過ぎると思いお断りをしたのですが、40周年ということもあって懇願されてしまいました。

 私が参加者の顔をいちいち覚えることは無理ですが、3回も行くと役員の中には馴染みの顔も出来て、「若松さんの久しぶりですがお元気でしたか」と声を掛けてくれる人もいるのです。はてさて私の話を毎年参加する人たちはどんな気持ちで聞き、どれ程覚えているのだろうと気になりながらお話をしました。役員さんが言うように、「今朝食べたものを忘れるくらいの年齢の人たちばかりですから大丈夫」と言って大笑いをしましたが、余り同じような話も出来まいと少し趣を変えて話しました。

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 講演は大盛況で、私のまねにお話した年金機構の方のお話が多少間延びをしたこともあって、窮屈な時間帯ではありましたが、皆さん熱心に話を聞いてくれました。講演終了後玄関先の駐車場へ向かっていると、3人ばかり女性が私を追いかけて来ました。「あなたの話はいつ聞いても楽しくてためになる」、「先日松山の県民文化会館で老人クラブ連合会50周年の時に聞いた話とは中身が全然違って凄いですね」、「2年前よりバージョンアップしていましたね」などと、私が喜ぶような褒め殺しの言葉を連発してくれました。3人は私の名刺をせがみ、その中の一人は持っていた八幡浜特産のじゃこ天(15枚)を「食べて下さい」と、縁もゆかりもないのに差し出すのです。名刺を差し上げた、そしてじゃこ天をいただいた方から早速昨日素敵なハガキが届き、嬉しさ百倍です。そのハガキの中に、私が講演で話した「ニコニコ・ピンピン・コロリンシャン」と、「氷の実験」の話が記憶されて書かれていました。

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 一昨日の昨日ですから覚えていても不思議ではありません。しかしそのハガキの中に、今回は話さなかった「菊の実験」の話や、「世界地図の真ん中に日本がない世界地図」の話が記されているのには驚きました。ハガキをくれたこの女性は完全に3年前の講演内容を記憶していたのです。

 私は思わず顔が熱くなるのを覚えました。確かに年金を貰う年齢の方々は私と同じように、「今朝何を食べたか」「去年どんなことがあったか」などをいちいち覚えているものではありません。でも一度聞いたことは潜在能力として記憶の片隅に残っているのです。人様の前で何気なくその場の雰囲気で話すアドリブな私ですが、これからは少し勉強して、新しいジャンルも開発せねばなるまいと、自分自身に進化のノルマを課しました。

 もうそろそろセミリタイアから、本物のリタイアに移行しなければならない年齢になってきました。オファーの数もそんなに多くはないだろうと思いますが、それでも既に来年のオファーが何件か舞い込んでり、これからもしっかりと学ばなければならないと思いました。


  「じゃこ天を 『お食べなさい』と いただいて 恐縮しつつ 会場後に」

  「三年も 前の話を 覚えてる うかうか出来ぬ 進化をせねば」

  「今朝メール 三年前の ブログ読み 間違い指摘 直ぐに訂正」

  「集まりし 人は年金 いただいて まるで国家の 公務員みたい」


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○家庭菜園でのサツマイモ掘り

 今日は秋晴れで天気も良いので、身の回りの仕事も一段落したことから、午後になって家庭菜園のサツマイモ掘りをしました。わが家の菜園は昔田んぼだったこともあってサツマイモの栽培には適していないので普通は植えないのですが、人間牧場の芋つるが余ったので、捨てるのも勿体ないと思い3列ほど植えたのです。

 ところが人間牧場のサツマイモが約半分猪の被害に遭って、収穫祭が出来るかどうか危ぶまれているため、わが家の菜園に植えたサツマイモで支援しようということになりました。しかしわが菜園は人間牧場より一ヶ月も遅れて植えつけたため、サツマイモが収穫できるかどうか心配していました。

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(芋つるを刈り取る私)

 今日は急な思いつきで、担当の赤石公民館主事さんに連絡したところ、収穫を手伝う旨の連絡が取れやって来ました。サツマイモのつるを切り、マルチの黒いビニールシートを剥いで掘り始めましたが、心配していた通りサツマイモは小さいものばかりで、大不作だったのです。直ぐ横に植えていたわが家のサツマイモは一ヶ月以上も前に植えたものなのですが、掘ってみるとかなり大きな芋がついていて、一畝なのにキャリーに二杯も収穫できたのですから、天候のせいでもなくやはり植える時機を逸したのが原因としか思えないのです。

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(刈り取った芋つるとマルチを片付ける親父と私)
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(サツマイモを掘る私)

 それでも赤石さんはキャリーに一つの小さい芋を持ち帰りました。少しは役に立つのかも知れません。それにしても非農家である赤石さんは、サツマイモを掘るのは初めてとあって、鍬で掘るのに悪戦苦闘していました。そこへ行くと自慢ではありませんが(多少自慢しています)、鎌で芋つるを刈りても、鍬でサツマイモを掘ってもまだまだ若い赤石さんには負けず、少し自信が湧いてきたようです。

 わが家の収穫したサツマイモは早速料理をして秋の味覚を楽しみたいものです。


  「つるだけで 土中の芋は からっきし 役にも立たず 誰かに似てる」

  「来週に 迫ったけれど また一つ 悩みの種が 浮かんで消える」

  「百姓に ならず良かった 体たらく こんなことでは 飯も喰えぬわ」

  「失敗で 学ぶことあり また一つ 来年こそは ちゃんとやろと」 



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○海沿いに見える風景

 私の住んでいる双海町から大洲市長浜町、八幡浜市保内町にかけては、海に向かって180度の視界が開けるとても見晴らしの良い所です。私は殆ど毎日海を見て過ごしていますが、それでも時には驚くようなものに出会うことがあります。昨日のことです。講演を頼まれ八幡浜へ向かって夕やけこやけラインの愛称で親しまれている、海岸国道378号線を西に向かって走っていると、目指す方向に何やらでっかいクレーンが見えました。走るほどだんだん近くになりましたが、所在は長浜町晴海の埋立地海岸でした。私の町から見てでっかかったそのクレーンは、直ぐ近くから見ると空を見上げるような大きさです。クレーンは船に取り付けられ、道のない海を自由に航行して目的地で作業をするのですが、海に沈める大きなコンクリートのケーソンを吊り上げたり、時には沈船を引き上げたりもするのです。

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 やがて長浜の町に入ると、市役所支所庁舎前のパン屋さんの玄関先にお地蔵さんを見つけました。ここまことやパンのご主人は昔からよく存じ上げている次家誠さんですが、近年大病を患い半身不随のようで、せっかくだからと店の中を覗いてみました。偶然にも車椅子でディサービスに出かける前の誠さんに出会い、立ち話ながら色々なお話をしました。誠さんはご存知念ずれば花開くで有名な坂村真民さん信奉者で、お店には坂村さんの額が至る所に飾られているのです。

 先を急いでいたので早々にお暇しましたが、顔見知りの息子さんから沢山の菓子パンをいただき恐縮してしまいました。

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 沖浦を過ぎると左手遠方に白い大きな建物が見えてきます。これが四国電力の伊方原子力発電所なのです。遠方なので全容は見えませんが、何度か傍まで行って見学したことがありますが、今はブルサーマル発電をしているようです。

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 やがて最初のトンネルを抜けると夢永海岸近くになります。近年夢永海岸近くに住む人から、素晴らしい海岸なので是非一度とお誘いを受けていたのですが、最近は忙しくて思うに任せず疎遠になっていたので、少し時間があるようなのでちょっと覗いて見ることにしました。秋晴れの空を映した海の色は何処までも澄んで、泳ぎたくなるような美しさでした。自慢するだけのことはあると思い夢永海岸を後にしました。

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 三つ目のトンネルは佐田岬半島を横断する最も長いゴゼトンネルです。このトンネルが開通するまでは、ゴゼ峠の曲がりくねった細い道を走りソーメン流しで有名な平家谷に向かって下りていましたが、今はこのトンネルのお陰で、八幡浜や佐田岬半島、九州までもが一片に近くなり、私たちの町の交通量が多くなったのです。

 何気なく走る夕やけこやけラインもこうして少し気をつけて走ると面白く見飽きないのです。

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  「見慣れてる 風景さえも 目を変えりゃ 結構楽し あちらこちらに」

  「ありゃ何だ 見上げるような クレーン船 何するため ここに来たのか」

  「ゴゼ峠 今はトンネル 佐田岬 あっという間に 友のいる町」

  「足元を 見れば見るほど いいとこに 住んでいるなと わが意を得たり」 


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○花篭のプレゼントに大感激

 昨日外出先から帰って自宅の玄関の戸を開けると、目の前の板間に何やら花篭のようなものが置いてありました。「はて、何だろう?」と思いつつ、直感的に「もしや」と、この10年間毎年私の誕生日に届く花束ではと思いました。それにしても誕生日は過ぎたのに何故と不思議に思いました。

 花篭にそっと差し込まれたメッセージを開くと、「若松様、三日遅れのお誕生日おめでとうございます」と書かれていました。文章には「わが家では一週間ほど前から家族中で風をうつし合っていて、今日は長男の番です。私もやっと解放されてこれから秋を満喫しようと張り切っています。今日は久しぶりに双海に来ることができ、心も身体もリフレッシュできそうです。若松さんのエネルギーが満ちているようで双海が大好きなのです。これからもそのエネルギーでたくさんの人に感動を与えて下さいますように、お元気で頑張って下さい」と素敵な言葉が添えられていました。

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(贈られた誕生祝の花篭)

 花篭の贈り主は松山南吉田に住む西岡真由美さんと伊方町瀬戸塩成に住む緒形二三子さんです。縁もゆかりもないお二人に花束をいただくようになったのは今から10年も前の2001年10月3日と記憶しています。その日私はいつものように朝5時に起きて、海岸の掃除をしていました。海岸だけならまだしも水槽の掃除をしてドロドロになっていました。自宅に帰ろうとするとお二人の女性が現れ、いきなり私に花束をプレゼントしてくれるのです。私も藪から棒の出来事で驚きましたが、特産品センターの職員やじゃこ天の叔母ちゃんたちも驚き、みんなで大きな拍手をしてくれました。「若松さん、男冥利に尽きるね。水知らずの人でも、あなたの毎日ひたむきな掃除をする姿を見てるのよ。私も感激しました」と、漁協女性部の富岡部長さんが褒めてくれ、その夜は仕事が終わってからシーサイド公園夕浜舘で盛大な誕生パーティーをしていただきました。

 私はその年の5月23日に県立中央病院へ5日間入院し、胆のう摘出手術をしていて、その後の回復が思うにまかせず、半年で15キロも体重が減った時期でした。


 その時以来、二人の女性は毎年欠かすこともなく私の誕生日に大きな花束を届けてくれ続けているのです。その都度「来年は遠慮します」と丁重にお断りをしましたが、相変わらず今年も花束ならぬ花篭が届けられ、大感激でした。しかも誕生日が終わって三日後というのもまた心憎い気配りで、余計感激しました。

 人情紙風船とかいわれる、説がらい世の中なのに、奇特な人がいるものだとしみじみ感心しながら、昨夜お二人にお礼のハガキをしたためました。そして外が明るくなり浅野チャイム放送が鳴る午前6時に戸外に出、歩いて郵便局のポストへ散歩がてらハガキを出しに行きました。今朝はこの秋一番の冷え込みで、真っ青な秋空に白い雲が浮かんで気持ちよく歩きました。

 66歳のこの歳になっても、私の誕生日を覚えてくれていて、花篭までくれる人がいるのですから、こんな嬉しいことはありません。さあ、お二人のメッセージのようにこれからも、感動のセールスマンとして元気に頑張り、二人のご恩に報いたいと思っています。


  「今年また 玄関先に 花篭が 嬉し恥ずかし この歳なりて」

  「十年も 続く花束 感激で 胸がいっぱい ウルウルします」

  「花束が 私の心 ネジを巻く もうひとふん張り やるとしようか」

  「お父さん あんた幸せ 妻が言う 自分自身も 納得しつつ」

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○孫の秋祭り

 先日娘から、「10月5日午前中の、お父さんの日程表を見て」と妻に電話が入ったようです。妻は私の木になるカバンに入れている大判の2010Writing Calendarを取り出し、「午前中は空いている」と連絡したそうです。その夜娘から私に電話が入りました。「10月5日は孫尚樹が通う愛媛幼稚園の主腰を担ぐ日なの。私は仕事を休めないので、写真を撮りに行って欲しい」と懇願されました。長男智樹の時は運動会や学芸会など子とある度に両親が休んで出席していたのに、次男となるとこうも変わるのかと思いつつ、孫可愛さに安受け合いしてしまいました。11時からというので少し早めの10時30分に到着し、近くの有料駐車場に車を止めて、2番町の繁華街の中にある幼稚園内に入りました。先生たちも孫朋樹を頻繁に迎えに行った経験があるので、私の顔を覚えてくれていて、不審者と間違われませんでした。

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 先生の話によると神輿は歩行者天国の大街道へ繰り出すのですが、孫尚樹の「ことり組」は最年少組なので園外には出ず、園内でみこしを担ぐのだそうです。少しがっかりしましたが、ことり組の部屋の外に行くと、園児たちは一斉に私の方を見てくれました。窓越しに孫の姿を発見し手を振ると、嬉しくも恥ずかしそうに笑顔で手を振ってくれました。

 やがて11時になり、子どもたちが元気に外へ出てきました。勿論孫尚樹も一番乗りで私の所へ走ってやってきて私とハイタッチしました。いつの間にか両親やおじいちゃんやおばあちゃんが孫の姿を一目見ようとカメラ片手に沢山集まって、一辺で賑やかになりました。

 目の中に入れても痛くないような神輿に園児たちがまるでアリのように群がり、先生の笛の音に合わせて「ワッショイ、ワッショイ」と担いでそこら辺を一周しました。

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 園内には昔懐かしい「神輿音頭」の音楽が流され、子どもたちも豆絞りの鉢巻をしてもらい、秋祭りの何であるかも分からぬまま、僅か10分ほどのイベントは終わりました。孫は私の所へ駆け寄り最後のハイタッチを力強く2回して、先生とともに部屋の中へ消えて行きました。

 他の園児たちは親やおじいちゃん、おばあちゃんを引きつれ、大街道へ繰り出して行きましたが、私は駐車場まで戻り岐路に着きました。

 仕事から帰った娘に電話して、孫尚樹の神輿担ぎの様子を報告してやりました。孫は疲れたのか遅いお昼寝の最中とかで、兄の孫朋樹が電話に出て、近々連休に遊びに来る予定や秋の虫などについて話をしました。


  「鉢巻を 締めて祭りの 神輿担く 孫の姿を 写真に撮りて」

  「親仕事 爺が代役 園に行く 私見つけて ハイタッチする」

  「長男の 時はときめく 親たちも 次男二の次 こうも変わるか」

  「注連縄が 張られ幟も 風に揺れ 松山祭りの 街中歩く」


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○懐かしい顔々がやって来ました

 コープえひめの学識理事になって4年が経ちました。最初は一期くらいなら何とかと思い、安請け合いで引き受けたものの、生協運動の奥の深さに何度か立ち止まりましたが、それでも無事二期目を終え、三期目の初年を迎えています。この四年間の任期の中で今まで出合ったこともないような人たちに出会い、また任期で退任した人と別れました。でも濃密に毎月一回は化ならず出会った人たちの顔を忘れるはずもなく、いまだに何度か手紙やメールが届いて交流を深めているのです。

 昨日そんな仲間ともいえる人たちが更なる仲間を連れて人間牧場へやって来ました。退任後僅か3ヶ月しか離れていませんが嬉しい出会いに思わず顔がほころびました。

 一行とふたみシーサイド公園で待ち合わせをして、車4台を連ね人間牧場へ向かいました。少々ガスが入っていて自慢の遠望は利かなかったものの、前日の雨もすっかり晴れて、遅まきながら顔を出したススキが秋風に揺れる絶好の日和でした。例によって私のおしゃべりを聞いてもらったり、ロケーション風呂にお湯を張り、2班に分かれて足湯を楽しんでもらうことが出来ました。引率の平井さんは折角ためてもらったお湯が勿体ないと、女性ホルモンで味付けしたお湯にざぶんと入り、ひとり「いい湯だな~」を楽しんでいました。

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 まあそれにしても見事な脚線美です。プライバシー保護のため誰の足だと分からないようにパチリ証拠写真を撮りましたが、顔より足が素敵な奥様たちでした。(失礼しました)

 ロケーション風呂から見える港の様子や遠望に満足した一行を、わが家へも案内しました。海の資料館海舟館や私設公民館煙会所へも案内し、12時30分にわが家でお別れしました。コープえひめの理事をしなかったら出会わなかったであろう人たちのことを思うと、人の出会いは不思議ささえ覚えます。彼女たちには随分と勉強をさせてもらいました。これからも彼女たちのことを忘れ内容にしようと思いました。

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 それにしても他所の女性はどうしてこんなに美しいのでしょう。お化粧が上手いのか、着る服のセンスがいいのか、他所の女性と比較するとわが家の妻は多少劣るような気がするのです。多分妻も毎日見ている他所の男性はどうしてこう足が長くて顔もイケメンなのか、思っているに違いないのです。でも私の妻は総合点で採点すると何処の女性にも負けないと、多少ゴマすりの甘い点をつけるのです。私が見ている妻はみなさんのように余所行きではなく、普段着なのですから。

 おっと、とんだ方向に話が行ってしまいました。危ない、危ないです。


  「久方に 懐かしい顔 集まりで ワイワイガヤガヤ おしゃべり楽し」

  「大根の ようなお身足 勢ぞろい 足湯で体 ポカポカなりて」

  「妻よりも みんな可愛い 人ばかり 総合点では 妻が一番」

  「私には 安心するのか 女性たち 心許して 今日も沢山」

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○今年の採蜜終息宣言

 今年は春から秋にかけて、他愛のないことながら、自然を相手にする社会に関わりつつあることもあって、気象的にハラハラ・ドキドキの半年を過ごしました。その中心は何といっても野菜とミツバチです。野菜は蒔いた種の殆どを山バトに食べられたり、晩夏の異常高温と降雨不足で冬野菜の作付けが大幅に遅れたり、気象条件ではないにしてもイノシシに人間牧場芋畑のサツマイモが被害にあったり、眉をしかめるような日々でした。これも自然がくれた不自然として受け入れ、来年こそは天変地変のない一年であって欲しいと祈るのです。


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 さて昨日は、ミツバチ養蜂の師匠である野村町山奥組の井上さんが、わが家の裏に今年初めて設置したミツバチの巣箱確認に来てくれました。養蜂などと言えるほどではありませんが、それでも今年は人間牧場に4個、家の裏に2個巣箱を設置して5個の巣箱に入居したのですから入居率8割は大した実績です。7月30日にはその中の3つの巣箱で採蜜作業を行い、既に3升あまりの成果を挙げているのです。私的には裏山に設置している巣箱の巣がかなり成長しているようなので、この巣から1升採蜜できれば、昨年の実績である4升を抜くかも知れない淡い期待を抱いていたのです。

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 昨日は午前中人間牧場へお客さんが来ることもあって、午後2時に自宅へ来ていただくようメールで打ち合わせをしていましたが、聞けば井上さんはわが家へ来るのは初めてだそうで、カーナビを頼りにやって来ました。山里で取れた栗の実とモチムギ、それに山間米を手土産にいただきましたが、いつものことながら恐縮してしまいました。

 井上さんは早速家の裏山に上がり、設置している巣箱の重石を取って持ち上げて重さを確認していました。巣箱の下まで蜂の巣は成長しているものの、思ったほど重さが確認されず、下板を抜いて掃除をした段階で、来年までお預けという結論に達しました。仮にこの巣箱から巣を外して採蜜すると、蜂たちは行き場を失い来年の種蜂になることが出来ない確率が高いのです。この巣が巣虫にやられたり群れが逃げたりというリスクはあるものの、より安全な方法は見守る方法以外ないようです。

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 この決断によって今年の採蜜実績は昨年を下回る3升3合と確定しました。異常気象や私の養蜂技術の程度から見れば上出来な結果なので、井上さんに迷惑をかけたり、蜂に何度か刺されたりしましたが、分からないことも学習してそれなりに技術も向上した年でした。

 井上さんは私のためにキンリョウヘンという日本ランを一鉢プレゼントしてくれました。養蜂にとって蜂を呼び寄せる道具のような貴重なものなので、大切に育てて行きたいと思っています。ミツバチの師匠と仰ぐ井上さん、今年もご指導や物心両面のご支援ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。


  「師匠来る 巣箱持ち上げ 来年に 楽しみ取って おこう結論」

  「鉢は八 三升三合 散々(さんさん)と 語呂を合わせて 刺し傷思う」

  「蜂飼いて 二年の月日 流れたり 自然見つめる 機会になりて」

  「蜂たちが 集め集めた 蜂蜜を 私横取り 勝手なものよ」

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○第二縁開所訪問

 家の横に私設公民館「煙会所」を設置したのは、私がアメリカから帰国した昭和51年直後でしたから、もうかれこれ34年も前のことです。以来この「煙会所」は時には遠来のお客さんを迎えるゲストハウスとして、またある時は青年たちのたまり場として、多くの夢と希望を育んできました。そしてこの「煙会所」で身も心も熱くした人たちが自分のふるさとに帰り、一念発起して「煙会所」のようなたまり場が欲しと行動を起こしたのです。

 たまり場が完成する度に私の所に、「造りたい」「造る」「造った」と連絡が届き、その都度名前をつけるので本家「煙会所」の分家としての看板が欲しいという依頼を受けて、看板を送り届けてきました。北は青森県三戸郡倉石村の「八心堂」や南は奄美大島瀬戸内町の「第17縁開所」など、今では全国17地域に分家しているのですから驚きです。

 私にとって忘れられないのが「第二縁開所」です。鳥取大学農学部を出て奥さんと入植した丹原町来見で有機農業を営む西川さんとのご縁が始まり、家の横にゲストハウスを建てるという話を聞き、私たち夫婦は書家である叔父に書いてもらった看板を持参して建前に行きました。その後ゲストハウスは完成し、私も一~二度訪ねたことがありますが、最近は行く機会に恵まれず、むしろ西川さんが私の主宰するフロンティア塾に参加したり、人間牧場へ泊まりに来たりしたものの、第二縁開所の思い出さえも薄れていたようです。

 三日前近くの中川公民館へ講演に出かけたついでに、西川さん宅を訪ねました。運よく奥さんが在宅中で第二縁開所へ案内してもらいました。

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 こじんまりとした部屋は研修生たちが泊まれるように木製の二段ベッドが置いてあり、隅には西川さんらしいドラム管利用の囲炉裏が設えていて、彼自慢のギターやウクレレなどの楽器も置かれていました。第二縁開所を造ってから10数年が経ちました。その間西川さんご夫妻にも私にも、それぞれの時間が過ぎた訳ですが、この施設の果たしてきた役割は大きかっただろうと推察をするのです。

 今朝人の気配のない「煙会所」へ入りましたが、この「煙会所」の囲炉裏を囲んだ過ぎし日々や、多くの人の顔が浮かんできました。今はすっかり人間牧場にその場を奪われ、来客用の応接間として活用していますが、再び賑わいを取り戻したいとも思っています。

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(今朝の私設公民館「煙会所」)

  「分家した 施設訪問 懐かしき 看板目にし 在りし日偲ぶ」

  「縁開く 縁が深まり それぞれの 人の心に 温かさ増し」

  「さあ今日も どんな顔々 集まるか 日々が楽しみ 煙会所秋」

  「看板も 風雨晒され 読みにくく 同じ日々過ぎ 俺も色あせ」

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○風の吹く駅で

 机の上の掃除をしていると、1ヶ月前の9月4日に25周年を終えた夕焼けプラットホームコンサートのパンフレットが出てきました。オレンジ色の紙は4つ折になって、文字さえ判読できないようになっていました。当日の抽選券を兼ねたパンフレットは、コンサートが終ると胸のポケットに終われ忘れ、そのまま洗濯機にかけられたのです。妻は洗濯物をたたむ時そのパンフレットを見つけ、そのまま脱衣場の窓辺に置いて自然乾燥したのでしょうが、数日前掃除をしていてそのパンフレットを見つけ、大事なものだと思って私の所浅井の机の上に置いて暮れていたのです。

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(洗濯され文字が判読しづらくなったパンフレット)

広げるのも困難でインクの文字は滲んで判読さえ難しくなっていましたが、どうにか開けると、プログラムと抽選券と書かれた表面の裏面に、当日運営に携わった人たちが歌った「風の吹く駅で」という高橋研さん作詞作曲の歌詞がありました。当日は皆さんの歌声に合わせて口ずさんだ程度でしたので、もうメロディーは忘れましたが、市役所の松本さんにお願いして、この歌のメロディーを手に入れたいと思うようになりました。

「風の吹く駅で」     作詞作曲 高橋研

(歌詞掲載不可のため割愛)

 かつて夕焼けプラットホームに起承転結と4回も登場し、私の願いを聞いて「双海恋歌」を作詞作曲してくれた下田逸郎さんのことを思い出しました。オリジナルなあの歌も今に歌い続けられていますが、この歌も素晴らしく、是非口ずさむ程度に覚えたいと思っていますが、音楽が苦手な私ながらハーモニカで吹けるようにしたいと思っています。

 

  「ポケットに たたんで終い 忘れてた パンフ広げて 文字を拾いぬ」

  「この歌の 文字をなぞりて 在りし日の 人を思いつ 歌口ずさむ」

  「この歌を 教えてもらい 歌いたい 叶うことなら ハーモニカ吹く」

  「風の吹く 駅で私も ハーモニカ 吹いて競演 風に吹かれて」

 

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