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○人権教育講演会

 いつも声を掛けてくれる八幡浜市保内町宮内公民館の金谷さんから、「人権教育」の講演依頼がありました。私は「人権教育」に余り詳しくないのでためらいの返事をしましたが、百戦錬磨の金谷さんは「詳しくなくってもそれをこなすのが若松さんのいいところ」と、褒められたようなくすぐりの言葉に心を動かされ、ついつい引き受けてしまいました。金谷さんは果樹農協に勤めていたころからの知り合いで、退職後公民館に勤め始めてからも何かにつけて気心を許す間柄なのです。

  昨日の会場となった公民館の2階大ホールは、予定されていた100席は満員で、参加者の中には顔見知りの方も多く、少し気遅れがしました。というのも金谷さんが作ったであろう講演会の案内状には、「~若松進ちゃん人権教育を大いに語る~」などと吹聴した怪文書(笑い)が町内に配られていたのです。

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 私が付けたこの日の演題は、「幸せな人生を共に生きる」でしたので、まあそこそこ90分くらいの時間だったらと軽く思って講演を始めました。私はいつも肝に銘じているのは、「どんな立派な話でも、実践できないような話はご法度」「評論化的話は極力しない」「参加者が眠るのは講師の責任」です。この日は私たちの身の回りの社会の変化について、気になることを10項目ばかり取り上げて前段話しました。

 ①地域のコミュニティの崩壊と少子化(地域での支え合いが出来にくくなった)

 ②高齢者福祉施設の充実と親子の人間関係(家族とは・親子とは一体何か)

 ③食生活と健康問題(額に汗して働く勤労・第一次産業の疲弊)

 ④進む情報化の波(近い情報<遠い情報)

 ⑤流通革命と価値観の変化(重厚長大<軽薄短小・ガソリン料金<お茶や水)

 ⑥市町村合併と広域社会(行政サービス<住民負担・ふるさと意識の低下)

 ⑦危険な時代と自己責任(頻発する犯罪・自然災害)

 ⑧環境の変化(自然環境・社会環境・教育環境の悪化)

 ⑨高学歴社会(知恵人<知識人)

 ⑩貧富の格差増大(人間や人権<金や物)

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 こんな日常の暮らしの気がかりなことや矛盾を紐解きながら、3つのリンゴ、氷山の一角という話をしました。人間は自分の目に見えない潜在能力で物事を判断する悪い癖があるのです。その癖を学習という手法によって知識を知恵に変え顕在化することが大切なのです。差別心は恥ずかしながら私の心の基底にもあります。それを取り除くには子どもたちが学校で習うように、繰り返し学習して得たことを習慣化実践によって、顕在化させるのです。

 信じ難いことですが現代は、①自分が信じられない、②人が信じられない、③社会が信じられない、④未来が信じられない世の中です。自分を信じ、人を信じ、社会を信じ、未来を信じ、幸せな人生を共に生きて行きましょう。

 分かりやすい話を分かりやすく話したかどうか疑問ですが、少しでもお役に立てたら幸せです。


  「不得意と 逃げる間は 差別する 心どこかに 置いたままなり」

  「顔見知り ちらほら会釈 してくれる 嬉し恥ずかし こんな話で」

  「芋持ちて 隣町から 夫婦連れ 嬉し出会いに 思わず感謝」

  「ああ今日も いい日でしたと 感謝する 今日は帰らぬ 昨日になりぬ」   

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○「こやけ」の綺麗な夕方でした

 「♭夕焼けこやけの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か~」「♯夕やけこやけで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手々繋いで皆帰ろ カラスと一緒に帰りましょう~」はご存知「赤とんぼ」と「夕焼けこやけ」の歌詞ですが、最近は葛原しげるの「♭ぎんぎんぎらぎら  夕日がしずむ  ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ 真っ赤っかっか空の雲 みんなのお顔も真っ赤っか ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ~」を加えた三曲を、いつまで経っても下手糞ながら自慢のハーモニカで、臆目もなく人様の前で吹いているのです。私のハーモニカを聴いた皆さんは、ハーモニカの上手さはさて置き、懐かしいハーモニカの音色に郷愁を覚え、最後はお追従の拍手を送ってくれるのです。私はそれをアンコールと勘違いして別の曲を披露するというあつかましくも迷惑な行動をとっているのです。しかし中には懐かしさの余りに思わず口ずさんだりして、益々悦に入るのです。

 ところで、「赤とんぼ」や「夕焼けこやけ」に歌われている、「夕焼け」と「こやけ」とはどういう状況をいうのかご存知でしょうか。夕日博士を自認する私の長年の研究によると(エヘン)、「夕焼け」とは太陽全体が沈んでしまう、つまり太陽の上弦が地上から消えてしまうまでの様です。つまり太陽が西に傾き始めて日没30分前くらいになると、それまで肉眼では見えにくかった太陽が輝きを失い肉眼で見えるようになるのを夕日や夕焼けというのです。それは地球上にはチリやゴミが無数に飛び散っていますが、それが太陽の談反射を遮り、光を通しやすい赤い光だけが残るから赤く見えるのです。

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 では、「こやけとは」一体どういう状況をいうのでしょう。まるでご当地検定のような質問ですが、種を明かすと、「こやけ」とは太陽の上弦が地球上から姿を消した一瞬から「こやけ」といい、にしのそらに明るさが残る状態を「こやけ」というのです。この時期は「秋のつるべ落としの夕日」といわれるように日の入り後の「こやけ」状態は短く、逆に夏の「こやけ」状態は長く続いているようです。

 一昨日はは大分県豊後大野市へ大分県公民館研究大会の行き戻り、昨日は八幡浜市保内町宮内公民館の人権研修会への行き戻り、同じ夕やけこやけラインを連続して二日間通りました。昨日は夜7時からの会合だったため、右手の伊予灘の海と空を染め分けた「こやけ」を見ながらのドライブでした。夕日は既に落ちていたものの「こやけ」の美しさに見とれながら走りました。日ごろは見えることの少ない山口県祝島付近や大分県国東半島・姫島あたりまで、「こやけ」が見事なシルエットを見せてくれました。残念ながら先を急いでいたので、上の一枚の写真しか獲ることは出来ませんでしたが、見事な「こやけ」に心表れる思いがし、車が来ないことを確認して走る車の中から夕闇迫る「夕やけこやけライン」を一枚撮りました。

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  「夕やけも いいがこやけも 味がある 海の向うに 思いを馳せて」

  「反射板 まるで電気を 点けたよう ヘッドライトに 照らされた道」

  「山口や 大分辺り シルエット 見えて明日の 天気占う」

  「同じ道 行きつ戻りつ この二日 講演先に 思い巡らす」 

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○豊後大野市講演日帰りの旅②

 迎えの臼杵タクシーに乗り込み、運転手さんと他愛のない四方山話をしながら見慣れた光景の山道を1時間ばかり走りました。国道10号線を越えて豊後大野市の中心地旧三重町へ入りました。最初大分県公民館連合会からメールで講演依頼の打診があった時、「えっ、豊後大野ってどの辺だったっけ」と戸惑いました。それもそのはず平成の大合併で三重町、清川村、緒方町、大野町、千歳村、犬飼町、朝地町の5町2村が合併して出来た人工4万人の街なのです。この九町村名を聞いて思い出すのは何といっても清川村です。清川村には17年も前に一度行ったことがあり、そのご縁で今は市内緒方公民館長になっている渡邊久洋さんとは、その後音信こそ途絶えていましたが、思い出に残る出会いをしているのです。渡邊さんご夫妻も一度わが家に見えられ、煙会所で懇談をしているのです。

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(会場となったエイトピアおおの)

 今回の講演が決まったある日、渡邊さんから一通のお便りをいただきました。~前略~「清川公民館時代にご講演をお願いしましたし、そのご縁で双美町を訪れ、若松さん宅の囲炉裏を囲み、お話を伺ったことを懐かしく思い出します。あれから17年ほど時間が経ちました」。~中略~「県公連事務局から記念講演に『若松進一さんをお願いした』と聞いて、大変懐かしく、そして再会を楽しみにしているところです」~後略~という内容でした。

 第61回大分県公民館研究大会の会場はエイトピアおおのというモダンで立派な公民館でした。県公連会長である中野臼杵市長さんは社会教育を、会場市の橋本市長さんは青年団をそれぞれ経験されていて、講師控え室での面談は賑やかでした。石井県教育庁社会教育課長さんとご一緒に渡邊久洋さんと懐かしい握手を交わしました。勿論私もこの17年間の間に人が変わったほど進化していますが、渡邊さんもすっかり立派になられて頼もしく思いました。あの時お腹を大きくしていた奥さんのこと、3人の子どものことなど、願わくば泊まって語り明かしたいほどでした。

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(素晴らしい文化ホール、エイトピアおおのでの公民館研究大会)


 大会には350人ほどが大分県から集まっていました。昔馴染みの好で渡邊さんから私の紹介をしていただき講演が始まりました。私の話は90分でしたが、話したいことがいっぱいありながら、あっという間に時間が過ぎてしまいました。まあ何とかそ責めを終えたようです。

 講師控え室に来年1月30日に講演が決まっている大分市西部公民館の工藤社旗教育主事さんが見えられ、「夕やけ小やけもまちづくり」について簡単な打ち合わせをするなど、早くも気の早い話となりました。またお茶を出してくれた女性が高知大学出身ということもあって、出会いの不思議や広がりを大いに感じました。

 木枯らし1号と思しき大風は幾分収まりましたが、前日まで半袖姿が目立った外の風景は一転、冬支度に身を縮めながら寒そうに歩いていました。

 運よく帰りは17時30分の船便に乗れました。オレンジフェリーのオレンジ四国に乗りましたが、これまで乗ったどのフェリーよりも豪華で、まるで動くホテルのような雰囲気でした。

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  「お互いに 時は流れて 十七年 握手した手に 力がこもる」

  「いい話 でしたとメール 水知らぬ  人から届き 嬉しくなりて」

  「市長さん 青年団で 磨いたと 嬉しい話 してくれました」

  「帰り船 動くホテルと 見まがうよう 次も乗りたい 気持ちになりて」 

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○豊後大野市へ日帰り講演小旅行①

 昨日は木枯らし1号と思えるような強い北西の風が吹き荒れる中を、大分県公民館連合会主催の第61回公民館大会の記念公園に招かれ、双海町~(自家用車)~八幡浜~(フェリー)~臼杵~(タクシー)~豊後大野市と、日帰りとしてはかなりきつい道中旅をしました。

 札幌では初雪が降っているというニュースを聞いて朝7時過ぎに家を出る頃は、まだそれほど北西の風は強くなかったのですが、長浜を過ぎると海は白馬が走るが如く大波が立ち、海沿いを走る夕やけこやけラインのあちこちでは潮水の洗礼を受け、ウォッシャー液を出しながらワイパーで洗わね、ば前が見えない時が何度もありました。少し早めに八幡浜に到着したので、港の近くにある妻の実家へご機嫌伺いに立ち寄り、建設有の魚市場に変わって仮移転している魚市場を見学しました。

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 フェリー乗り場で宇和島運輸カウンターで切符を買い求め待合室で待っていると、中年がらみのおばさん3人組の一人に声を掛けられました。その声の掛け方が、「よくテレビに出ている双海町の夕日の仕掛け人」でした。名前は知られていませんが、「双海町・夕日・仕掛け人」という固有名詞を並べられれば会話は十分で、「まあお食べなさい」と差し出すみかんやお菓子を断わりながら、待合会話となりました。聞けば大洲の方らしく、「昔女学校に通っていた頃予讃線海岸周りの列車の窓から真っ赤で大きな夕日を見て綺麗だった」とか、「双海のシーサイド公園は賑わっている」とか、断片的な話をしました。今日から二日間3人で別府温泉へ遊びに行くのだとクーポン券を見せてくれました。私の乗るのは臼杵航路、3人が乗るのは別府航路で、船も行き先も出発時間も違うため、私は3人と別れて9時40分発のフェリーに乗り込みました。

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 昨日までは穏やかだったと船員さんが言う宇和海の海はかなり荒れていました。窓越しに八幡浜向灘の耕して天に至ると形容されているみかん畑や、日本一細長い半島と形容される佐田岬半島を見ながら、北西の風波を横波として受けるるためかなり大きくローリングする船内で読書に耽りました。元船乗りの私にはこの程度の揺れは子守唄で、2時間20分の船旅は難びりゆっくりでしたが、隣の升席にいた若い女性は気分が悪いとトイレへ駆け込んだり、小さい子どもが大きな桶で泣き叫び、まあこれも船旅の風景だと感じつつ豊後水道を渡りました。船は少し早く臼杵湾に入りました。臼杵の街はその周辺にある町や村への中継点として、何度か訪ねているため、別に戸惑いもなくタラップを降りました。本来ならここから先は公共交通を使うのですが不便という理由で、今回に限り大分県公民間連合会が手配してくれ待っていたタクシーに乗り込みました。運転手は渡邊さんでした。佐賀関も渡邊さん、これから行く豊後大野で待っていてくれる人も渡邊さんと、不思議なご縁を感じながら目的地へ向かいました。


  「名前など 言ってもらえず ほら夕日 声をかけられ 嬉しくなりて」

  「段畑の みかん薄っすら 紅化粧 窓越し見える あれが向灘」

  「木枯らしが 機嫌悪くし 右左 船を揺らして 水道進む」

  「佐賀関 今日は煙突 裏を見る 仲間今頃 どうしているか」

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○雨の中での支柱立て作業

 昨日の雨を存分に吸った家庭菜園の冬野菜たちは、息を吹き返したように瑞々しく、葉物野菜は首をうなだれるような格好になっていました。家庭菜園の見回りも日課の一つですが、ふと見ると発破が重くなったブロッコリーが殆ど倒れていることに気がつきました。本来は植えて一ヵ月後に倒伏を防ぐために竹の支柱を立てるのですが、竹を切って用意をしていたものの、忙しさの余りにすっかり忘れてしまっていたのです。午後出かける昼までに少し時間があったので、小雨に濡れながら支柱を倉庫から取り出し倒伏したブロッコリーを起こしながら支柱を立てて行きました。水を吸った畑の畝に竹の支柱を金槌で打ち込んでいると、見かねた親父が手伝いに出てきてくれました。

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 少しぬかるんだ中を長靴を汚しながら、40本もの竹杭を打ち込む作業をしたお陰で、少し雨に濡れましたが、何とか元通りに起こすことが出来ました。親父は倉庫から細い縄を持ち出し、両横に木の杭を打って風対策も一緒にしました。これで豆の後で吹くであろう東よりの風にも倒れなくなったようで一安心です。

 毎年のことながらブロッコリーやキャベツ、それに白菜の苗は知人友人である水口マリ子さんから育苗センターで育てた立派な苗が届きます。冬の日当たりが悪いわが家の家庭菜園では一足早く植えて丁度よい生育となるのです。ブロッコリーもキャベツも、そして白菜も近所のおばさんがびっくりするほど順調に育っていて、青虫の被害も手で一つ一つ取ったため、軽目の一回の消毒でどうにか乗り切りました。

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 人間に野菜を例えることは出来ませんが、苗の出来と植える時期は野菜作りにとって大切なことだとしみじみ思います。人間の教育も苗の時期である幼児期と同じだし、その時期にしか教えられない基本や基礎をしっかりと教えてやらねばと、ふと孫たちの顔々を思い浮かべました。そして支柱の存在も大切だと思ったのです。支柱を立てなかったらブロッコリーは倒伏したままになり、頭でっかちなため自分で起き上がることは到底不可能なのです。自立のために支柱で補助をすることもある意味人間の世界に似ているのです。早くもブロッコリーは花芽のような食べる部分が見えてきました。このまま順調に成長すると、去年と同じように丸々と太ったブロッコリーが収穫できる予定です。一緒に植えたはずのカリフラワーとブロッコリーさえ見分けがつかない幼稚な野菜作りですが、これからもせいぜい慈しんで育てたいと思っています。


  「雨の中 倒れた野菜 修復す 竹の支柱で 何とか元に」

  「雨の次 風が吹くから しっかりと 親父うるさく 縄で縛りぬ」

  「苗大事 植えるも大事 さら大事 支柱で固定 雨風勝てと」

  「ふと見れば 新芽隙間に 花芽見ゆ 間もなく美味い 野菜食べれる」



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○いきなり伊豆大島から懐かしいお客様

 昨日は朝から一日中雨でした。早朝から書き始めた「舞たうん」という雑誌の、エッセイ原稿が一本書き上がったので、少し余裕が出て読書に耽っていると、親父から「灯油を買ってきてくれ」と頼まれました。風呂用の灯油はこれまで地元のガソリンスタンドに電話をすれば入れてもらえたのですが、9月からそのスタンドが廃業し、上灘地区にはガソリンスタンドが一軒もなくなってしまったのです。仕方なくポリ容器を積んで10キロも離れた伊予農協まで、軽四トラックで買いに行きました。親父のポリ容器を三缶、わが家のポリ容器を三缶積んでシートを被せ出かけました。ガソリンスタンドはセルフサービスになっていて、カードと現金を入れれば簡単に給油できるのです。屋根がついているため雨に濡れることなく給油を終えました。灯油の値段は18リットル1260円、親父から預かった1万円でお釣りとレシートを、私は五千円でお釣りとレシートを別々に精算しました。

 今朝は郵便局から地元の友人に分けてもらった極早生みかんを10箱、全国の仲間に向けて送るため、送り状を持って郵便局の裏口へ行きました。先日も極早生みかん10箱栗5箱を送っており、郵便局員さんもUパックの実績が上がるとあってホクホク顔でした。その作業途中ズボンのポケットの携帯電話が鳴り、「伊豆大島の高橋千香です。今シーサイド公園にいます。出来ればお会いしたい」と言うのです。私のカンピューターが働き始めました。高橋千香さんといえば公明党の町会議員さん、確か2006年1月19日に建設して間もない人間牧羊へ案内、三宅島での講演や東京都町村議会議員研修会に同行などの記憶が蘇りました。早速車を走らせ、シーサイド公園の屋外テントの中で雨をしのぎながら、五年ぶりの懐かしい出会いとなりました。

 聞けば子どもさんが松山市にある県民文化会館で開催された音楽の全国大会に出場し、その応援に駆けつけたのだそうです。昨日は移動日で飛行機の出発時間まで少し暇があるので、取るものもとりあえず予讃線海岸周りの列車に乗って、記憶を頼りに上灘駅に到着したそうです。まだ開いていない特産品センターの事務員さんに私の携帯電話番号を教えてもらい連絡が取れたのです。

 帰りの列車は10時33分、僅か20分程度の短い時間でしたが、5年前女性3人の議員で双海町を訪ねた懐かしい思い出や、その後の議員活動、まちづくりの話をさせてもらいました。高橋さんは現在4期目の議員活動をしていますが、かなり活発に活動していて、その様子はインターネットで時々見ているし、高橋さんも私のブログを読んでくれているようで、楽しいおしゃべりを終えて、上灘駅まで送る頃には二人とも完全に5年前の記憶を共有していました。

 嬉しい出会いと別れでしたが、早速私は極早生みかんを伊豆大島の高橋さんに向けて送り、午前中の慌しさを少し雨に濡れながら終えました。それにしてもよくぞ私を思い出し、よくぞ予讃線海岸周りの列車に乗って上灘駅へ降りたものです。そして寄寓にも私と連絡がとれ、何の前触れもアポもなく私が都合よく空いていたものだと感心しました。出会いとはこういうものだと納得しながら、自分のパソコンで2006・1・19のブログを呼び出せば、その穂の様子がリアルに描かれていました。まさに記録したものしか記憶されず思い出すことは出来にくかったと、毎日コツコツ書いているブログの効用に感謝するのです。多分昨日の出来事もこうして記録することによって小さな記憶として残ることでしょう。いつかまたお会いして、昨日のハプニングを語り合いたいものです。


  「『若松さん 双海にいるの 会いたい』と 懐かし人から 連絡ありて」

  「五年前 女三人 やって来た 牧場案内 蘇らせて」

  「この議員 猪突猛進 やりますね 会いたい一心 成就し帰る」

  「パソコンで あの日のブログ 呼び出しつ 記録と記憶 ダブらせながら」 


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○家の周囲に小さな秋を見つけました

 今年の秋は猛暑に明け暮れた夏顔を引いているのか連日気温が温かく、過ごしやすい毎日が続いています。それでも家の周りを見渡すと、秋の深まりを知らせるようにそこここに秋の野草が咲き始め、別に用事もないのについつい家の周りを散歩したくなるのです。昨日からの雨に続いて今朝も小雨がパラついてしっとりとしています。それでもカメラ片手に庭先の小雨に濡れた野の花を写真に収めました。

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 書斎の庭には私が一番大好きな岩にしがみつくように生えているノキシノブが、少し色づき始めてきました。これから秋が深まるにつれて紅葉し、ミニチュアながら深山幽谷の景色を見事に演出してくれるのです。大きなコケ玉に仕上げていたノキシノブは妹が玄関先に飾るからとプレゼントしたので、来年の春は少し切り取って作り直さなければならなくなりました。

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 岩の隅から恥ずかしそうに顔を出して咲いているのはヨメナの花のようです。菊に似た紫色の花はまるで一輪挿しに差した花のようでとても清楚です。

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 野菊もそろそろ満開を迎えます。毎年今年こそは野菊の花を摘み取り陰干しして安眠枕を作りたいと思いつつ延び延びになっていることを思い出しました。少しゆとりが出来たらぜひとも作りたいと思っています。

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 ツワブキの花も今年は例年になく開花が遅れているようです。大きな通夜のある葉っぱの間から、どんぐりのような蕾をつけて顔を出しています。あと一週間もすれば黄色い菊の花に似た可憐な花が当たり一面に咲くことでしょう。ツワブキは野菊とともに温暖な海沿いに群生して咲きます。早春に咲く水仙と共に双海を代表する野生の花ですが、ツワブキが咲くと段々畑のみかんが色づき、秋は次第に深まって行くのです。


  「野の花は 季節を知って 咲き誇る 見る人なくも ただひっそりと」

  「もうそんな 時期が来たかと 思いつつ 野辺の花々 座りて眺め」

  「ツワブキの 花咲き思う 逝きし母 背中いっぱい みかん背負いて」

  「牧場の 風呂場入り口 植えし花 今年も可憐 咲いて和みぬ」



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○日曜日の一日はデパートで

 人間牧場の道具類やパソコンのインク類など以外は、自分が着る物も食べるものも殆ど妻任せの私ですから、何かを買うためにお店に入ることは殆どない私です。ましてや道の駅の経営に携わっていた現職時代のような市場調査もないので、道の駅や直売所などでも財布からお金が出ることは殆どないのです。最近は孫たちにせがまれてドライブスルーでマックのハンバーガーハッピーセットをたまに買いますが、それも400円程度の出費なのです。

 最近は知らない間に買い物事情も随分変わって、娘や息子などはインターネットで買い物したり、カードで決済をしているようですが、私は金融広報アドバイザーをしている身なのに、カードを使って買い物をしたりカードでお金を引き出したり巣タコとは一度もない現金決済主義な、時代遅れとでも烙印を押されるような人間なのです。

 それでもたまに妻に連れられて買い物につき合わされます。一緒に買い物に行けば、「そんなもの止めとけ」とかいちいち口うるさいので、買い物は荷物持ちくらいな感じです。昨日は妻が習っているお花の先生の華道の展示会が高島屋であって、マンションへ送る孫を伴って出かけました。さすが三越と共に県内第一のデパートとあって、店内は洗練された展示内容で、松前町にオープンしているエミフルのような品揃えとは違った高級感が漂い、客層の顔々もどこか違って見えました。

 7階のお花の展示会場付近に玩具売り場があって、孫たちは知っているのか目敏くその場所を見つけ、約束どおり「買い物は1つ」を守るべく品定めをし始めました。私は展示会場へ入りましたが、お鼻の展示会場には沢山の女性がさりげなく着飾ってお花を見学していました。お目当ての花を見つけて見ていると、「若松さんですか」と先生の先生に声を掛けられました。他にも会釈や声を掛けてくれる顔見知りの方が何人もいて、普段着に毛が生えた程度の身なりで出かけたことを多少悔やみました。

 やがて買い物を終えた孫たちが妻に連れられてやって来ました。一緒に見学した後食堂街で昼食し、デパ地下の食料品売り場で、妻は次男に頼まれた食料品を買いました。私は孫と一緒にくるくる回る駄菓子の中から好きなお菓子を選んで重さで買えるコーナーで品定めをしました。まるで夢のようなお菓子の中から何個か取り出し籠に入れて、妻から貰った小遣いで買い物を済ませました。

 立体駐車場を出る頃には、いつの間にか外は雨脚が強くなって、カーラジオをから流れるCDの歌を孫と一緒に口ずさみながらマンションへ孫たちを送り、チャイルドシートを娘の車に戻し帰宅の途につきました。

 毎日のように人混みの中へ行く私ですが、デパートのような人混みや都会の人混みは疲れます。それだけ私が歳をとったというこ証拠でしょうが、時間が止まったような田舎の日々の暮らしとのギャップはかなり大きいようで、それはそれとして小さなカルチャーショックなので、これからも折に触れて意識的に出かけようと思いました。自宅の居間に座り、夫婦ともども「フーッ」と安らぎの声を出しました。「わが家が一番」です。


  「久々に デパート訪ね キョロキョロと 買うでもなしの 半日過ごす」

  「何となく 金持ちみたい 人の顔 孫はさっさと じいちゃん早く」

  「ため息を ふっと一息 居間でつく やはり落ち着く わが家一番」

  「食料を ついでと言って 届けたる 妻の気配り 次男喜ぶ」 



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○蕎麦の花が満開

 我が家のすぐ下の畑に今年も白い蕎麦の花が咲いて満開を迎えています。8月の下旬稲刈りをした後を中興してバラ蒔きをしたいわゆる二毛作です。最近は田圃さえ荒れる時代なのに、米の後に蕎麦を蒔くなんて余程働き者なお百姓さんだと感心して見ていますが、この方は私と同い年で、かなり広い畑のこの蕎麦を手刈りし自前で脱穀するのですから並大抵の人ではないので、付近の人は多少変わり者のような目で見ているようです。それでも同年代に生きて来た人ゆえ、また田圃を効果的に使う勤勉さは私たちも見習うべきだと思うのです。

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(今年も真っ白い花を咲かせた家の直ぐ下の蕎麦畑)

 私が3冊目を出版した自著本「夕やけ徒然草・水の書」にも蕎麦の花の話は第38話、「うどんの花が見てみたい」で紹介していますが、田圃一面に広がる蕎麦の真っ白い花は実に見事な原風景を演出してくれているのです。農林省のお役人が蕎麦の花を見て感激し、「今度はうどんの花が見てみたい」という話は、今も私の話芸話で笑い度はかなり高い話となっているのです。私にとって家の近くに咲く蕎麦の花は、今年は格別な意味を持っているのです。それは今年の春先、わが家の裏山にミツバチの巣箱を設置しているからです。

 新しく設置したミツバチの巣箱にミツバチが分蜂したのは6月下旬でした。蜂蜜は採れなかったものの、今もミツバチは来年の種蜂として働き続けているのですが、この時期になると蜜源となる花が少なくなるのです。ミツバチたちに聞いた訳でもありませんが、巣箱の近くにこれ程の蜜減があることは願ってもない話で、飛び交うミツバチたちはそばの花からも蜜を運んでいるに違いないのです。蕎麦の花の蜜が土おおな物かも分からぬまま想像していますが、冬篭りの餌にでもなればと密かに思っているのです。


 私が裏山でミツバチを飼っていることを知っている人は妻以外知りません。もし蕎麦畑のおじさんが「うちの鯖畑の花の蜜を勝手に盗むとは何事か!」と叱られたら私はどう答えるでしょう。頓智の効く私ですから即座に「俺のミツバチが受粉して蕎麦の実を実らせているんだ。蕎麦を幾らか寄こせ」と反論するかも知れません。百戦錬磨なおじさんは、「そばの実のどこにお前さん所のミツバチが受粉したと書いている」と反論するに違いないのです。はてさて知恵者のあなたはこの問いに堂答えるでしょうか?。


  「ああ綺麗 今年も咲いた 蕎麦の花 見るだけタダと 存分味わう」

  「蕎麦の花 お陰ミツバチ 活発に 冬餌あさり せっせと運ぶ」

  「蕎麦問答 これも話の ネタになる 蕎麦タネネタに 話し作ろう」

  「花を見て 新蕎麦思う 喉が鳴る つるり喉越し 早く食べたい」



 

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○年に一度の秋祭り

 昨日は年に一度の秋祭りで、神社や町の辻々に祭り幟がはためいて、遠くで獅子舞のリズミカルな太鼓の音が聞こえる、穏やかで温かい一日でした。私が子どもの頃や若い頃は漁家だったわが家では、鯛の活け造りなどの皿鉢料理が幾つも作られて座敷に並べられ、親類縁者が沢山集まって一日中夜遅くまで酒盛りをしたものでした。神社には露店が並び、神輿や獅子舞、村相撲などもあって、子どもは子どもなり、大人は大人なりに楽しい思いをしたものです。

 しかし、車の普及とほぼ同じくして広域交流が日常化したり、おご馳走が日常化したため、取り立てて出会う意味もおご馳走もなくなり、今ではごく身近な子や孫がやって来て楽しむ程度の秋祭りになっているようです。


 わが家へも今年の秋祭りは土曜日と都合よく重なったため、長女家族、長男家族、次男がやって来ました。孫たちの泣き笑いが一日中聞こえ、妻は料理を作ったり孫たちへの対応に大わらわでしたが、私はぎっくり腰だったこともあって、何をするでもない一日中ゴロゴロといった秋祭りの一日でした。

 祭りに欠かせないものに神輿があります。一昨年までは地元の自治会長をしていたため、宮総代も兼ねていたこともあって、神輿の運行に深く関わり、子ども神輿について歩いたりして忙しく振舞っていましたが、いまはそれもなく、時折やって来る子ども神輿がやってくる度にお祝儀を渡して家族が玄関に集まり、孫たちと一緒に手を合わせて祈りました。

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(小網の子ども神輿)
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(玄関先に据えられた子ども神輿)
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(玄関先で神輿にお祈りをする家族たち)

 結婚してからこの方、約40年が経過しましたが、秋祭りが来るとわが家では毎年決まったように、コタツを用意していましたが、今年は夏のスーパー猛暑を引きずっているのか温かく、みこしを担ぐ子どもたちも法被の下は半袖のTシャツの子もいるほどでした。

 前日の夕方漁師をしている叔父の家から電話があって、大きな柳鯛を頂に行きました。早速出刃包丁の大きいのを取り出して私が料理しました。退職して5年余りになりますが、これまで厨房に立つことのなかった私は、少々懺悔の意味もあったり、務めている妻の多少なりの手助けもあって、魚の下ごしらえは殆ど私が担当しているのです。昨日は柳鯛のアラ煮と飛び切り美味しい刺身が食卓に並びました。3歳になった孫尚樹と孫希心はお刺身が大好きで、1歳の孫奏心は煮魚が大好物とあって、秋祭りらしい澤地料理に舌鼓を打ちました。

 秋祭りが終わると秋も深まり、いよいよ冬がやって来ます。そういえば後2月余りでお正月です。月日は駆け足で過ぎて行くようで、ちょっぴりせつなさも感じる今日この頃です。


  「秋祭り 神輿も孫も やって来る 酒こそ飲まぬ 賑やか一日」

  「温かい 今日の温度は 二十三 過ごし易いが 少し気になる」

  「お祭りも 時代と共に 変わり行く ワクワクせずに 一日終わる」

  「歳とった ような会話を 息子する 昔良かった 今じゃ口癖」

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